『西遊記』の夢
中谷宇吉郎
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子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。
もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。
子供たちは、大人の読み古した講談本などを、親に叱られながら、こっそり読んでいた。その頃盛に出ていた小波氏の「世界お伽噺」のようなものも滅多に手に入らなかった。
あの一冊十銭かの本は、たしか全部で百冊あったはずである。もう何回となく読みかえしたそのうちの一冊の末尾には、百冊の題目がずらりと並んでいた。その題目の一つ一つが少年の心には、あらゆる空想の種であった。これらの百冊の題目は、見開き二頁にぎっしり詰っていた。その二頁に、私たちは、いつまでもあかず見入っていた。気に入ったお馴染の題目のいくつかは、その紙面からずっと浮き出して見えた。そしてその活字の蔭に、古い城だの、碧い湖だのの姿が揺曳していた。
そういう頃に、私は帝国文庫の『西遊記』を見つけた。私は町の小学校へはいるために、小学一年の時から町へあずけられていた。その家は旧士族の旧い家柄の家であった。そこには帝国文庫だの、それに類した本が十冊近くもあって、それがあこがれの的であった。
背中に金の文字がはいっているあの厚い本は、中が小さい字で一杯に埋っていて、あれならばいくら読んでもおしまいにはならないように見えた。それに立派な絵も沢山はいっていた。
漸く振仮名を頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、劈頭から、南贍部洲とか、傲来国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう画の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化と神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。
面白さは無類であった。学校から帰ると、鞄を放り出して、古雑誌だの反故だののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、夕闇がすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん窓際に移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の孟宗籔の緑が鮮かにうつった。
仏教の寓意譚であるという『西遊記』が、これほど魅魔的に感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の加賀の旧い家には、まだ一向一揆時代の仏教の匂いが幾分残っていた。
一番奥の六畳間が、仏壇の間になっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、燈明の灯がゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。
その家の老母は、仏壇の前にきちんと坐って、朝晩お経をあげていた。そして月に二、三回もお坊さんが来て、長いお経をあげた。小学生の私もその間は必ず老母の横にきちんと坐ってお経をきいていた。そういうことも日課のうちの一つとして、家の中の人も私もちっとも変ったこととは考えていなかった。
足の痛いのを我慢しながら、じっとお経をきいていると、だんだん睡くなって来る。時々燈明がぼうっと明るくなると、仏壇の中の仏像だの、色々な金色の仏様の掛軸だのが、浮いて見えた。そして孫悟空のいた時代がそう遠い昔とは感ぜられなかった。
太宗皇帝の水陸大会に、玄奘法師の錦襴の袈裟が燦然と輝き、菩薩が雲に乗って天に昇ると、その雲がいつの間にか觔斗雲にかわって、いつか自分は水色の綿蒲団の下に蒸されるような息苦しさを感じた。そういう時には、金色の燭台の一点が燈明に鋭く輝いて、その光点から金色の箭が八方にさしているのを、唯一のすがりどころとじっとみつめていた。
家の中には科学はおろか、およそ近代風の物の考え方というものは少しもなかった。本当のことを信ずるという現代の人たちには、本当でないから信ずるということまでは理解出来るであろう。しかし本当とか嘘とかいうことと信ずることとが完全に乖離した考え方はちょっとむつかしい。私が小学校時代を過した家には、あらゆる意味で、現代風な物の考え方というものは全然なかった。そういう所では孫悟空は、自由にその金箍棒をふるうことが出来たのである。
小学校では、変った先生がいて、理科の時間にカント─ラプラスの星雲説などを教えてくれた。今でいえば科学普及という類いであろうが、その先生の話をきいていると、何だか宇宙開闢以前の夢の方が余計に聯想されやすかった。何もない虚空に目に見えない力の渦巻だけがあって、その渦の捲き方がだんだん速くなる。するとその力が凝って物質が徐々に生れて来るような幻想が、いつの間にか頭の中に出来てしまった。それで折角のカント─ラプラスもまた孫悟空の味方になってしまったのである。
今から考えてみれば、随分無茶な話であるが、それでも無事に中学へはいり、高等学校へ行ってピアノなどいうものの実物を見るようになっては、さすがに『西遊記』の世界からは次第に離れて行った。そしてその反動かどうかは分らないが、物理学などを専攻することになってしまった。
その後は、当然のことながら、長い間『西遊記』とは縁のない生活をしていた。ところが二年ほど前に思わぬところで、ひょっくり本物の八戒に出会ったのにはちょっと驚いた。それは正しく本物の八戒と言ってよいものなのである。
紀元二千六百年記念に出版された『西域画聚成』を見ているうちのことであった。燉煌出土の降魔図の中に八戒がいたのである。中央の岩上に結跏趺坐した釈尊の周囲に、怪奇な魔衆が群り集っている、空想の限りをっくした絵である。その中に魔衆の一人として、長い嘴を突き出した八戒が、熊手をふりあげて、強くないくせに威張った顔をして立っていた。八戒のくせに裾長の着物を着て、金の冠かなんかをかぶって、不器用に熊手を振りかぶっている。子供の頃から頭の中にある、悪いことばかりしていて、その割に悪めない八戒の姿そのままがひょっくり出て来たので、大変なつかしかった。
この絵は宋初のものとされているので、本当の玄奘三蔵法師が、唐の太宗の貞観三年に長安の都を辞して、遥々印度への旅についた頃から見ると、三百年くらいも後に描かれたことになる。しかし『西遊記』の書かれたと推定されている宋末元初の頃から見ると、ずっと旧いものである。古来白骨人の収むる無しとうたわれた青海のほとりには、その頃丁度八戒などもいたのであろう。審美書院の自慢の木版摺の色でみると、千年の間土に埋れていて、今また陽光を浴びた八戒は、鮮かな朱と黄色との着物を着て、一、二年前に描かれたような色彩のまま保存されていたのである。
八戒の出現と前後して、スタインの『中央アジヤ踏査記』を読むに到って、私の『西遊記』の夢は益々本物になって来た。スタインの専門的な探険報告や燉煌絵画のような浩瀚なものには手が出ないが、この『踏査記』のような手軽なものに、彼の全仕事が纏められているのは、大変有難かった。それに風間氏の重厚な訳もよかった。
スタインは一九〇〇年から一九一六年にわたって、前後三回支那西域タクラマカンの荒野に発掘の旅をつづけた。それは古代のいわゆる絹路を確かめ、また玄奘法師やマルコ・ポーロの通った道を、現在の地図の上に辿るのが主な目的であった。
支那の奥地、今重慶政権が、ソ聯との連絡に懸命の努力をつくしている西北ルートの土地は、カラコラムの氷河の氷がとけて流れ出る僅かの流域をのぞいては、殆んど死の世界である。玉門関を越えて、太平洋の水域の勢力の限界を一歩出ると、その西は遥かに世界の屋根葱嶺に至るまでのいわゆる支那トルキスタンの地方は、全くの荒蕪の砂漠と、乾燥し切った岩山との境である。其処はもはや生物の世界ではなく、暗黒な砂漠の嵐が狂い、大塩湖の干上った塩床が、探険者の足を頑強に拒んでいる土地である。そして僅かばかりの人間が、砂漠の砂に埋れた廃墟の古代都市のほとりに、僅かにヒマラヤの雪のとけ出た流れを汲んで、辛うじて生命を保っているところである。
千三百年の昔に三蔵法師は、こういう土地を、本当はやはり孫悟空も八戒もつれずに、一人で歩いて行ったのであろう。「葱嶺を逾ゆるに毒風肌を切り、飛砂路を塞ぐ、渓間の懸絶するに逢へば、縄を以て梁となし、空に梯して進む」と当時の本にも残っているそうであるが、そういう旅であった。
スタインの仕事は、この同じ恐ろしい土地で、三蔵法師の歩いた道を推定しながら、砂漠の中に埋れ去った廃墟を発掘して、遺跡と遺品とを探しに行くことにあった。探険家などというと、豪放大胆な人が多いように一般には思われているが、スタインは全くそれと反対の性質の人のようであった。スタインの探険の成功の大半は、彼の学問に負っているようである。掘り出される紙片とか木簡とかに残されている文字が、スタインにはおぼろげながら、大体読めた。欧洲人にとっては恐るべき文字であるはずの古代の漢文、サンスクリット、古代印度のブラフミー文字など、そういうものまで、どうにか大体の意味が解せられた。そしてその文字によって、発掘個所の意味を推定しては、次の発掘にとりかかっているのである。
ニヤの古址では、沢山の木簡が採集された。それは印度古代のカロシチー文字であった。そしてその書体から、それはスキタイ王朝即ち第一乃至第三世紀のものであることを知った。三蔵法師よりも四、五百年も前に使われていた木簡である、千七百年の歳月を閲しても、乾き切った砂の中に埋れていた木簡は、特に二枚重ったまま発掘されたものなどは、内面の文字の墨色が昨日のもののように鮮かであったそうである。
この木簡を発掘した夜、スタインは早速天幕に退いて、人夫たちを先にねかし、自分は一人で、その解読にとりかかった。その夜の寒気は特に厳しくて、最低零下四十一度まで下ったということである。その天幕の一隅で、スタインはこのカロシチー文字を読み解いて、冒頭の一行が「国王殿下命令書」であることを知った。それは官命を伝える一種の公文書であった。古代印度語がこの世紀に少くも行政用としては遥々この中央アジアの僻地まで侵入していたのである。翌日スタインは次の収穫を期して、廃墟の南側の数房の発掘にとりかかった。そしてその部屋の当時の使用目的を推定して、最後の住人が残したまま、積み重ねられていた多数の木簡を発見したのである。玄奘がこの附近を通った頃は、この土地は、当時既に乾燥状態に入っていた砂漠の中に埋れていた。あらゆる生命を圧し潰す砂の力に追われて、最後の住人がこの土地を棄ててから、数百年の歳月が既にすぎていた。玄奘も印度からの帰途にこの道をとって、流砂に埋れた廃墟の姿を見たのである。
気候の長期変化ということは、気象学の方では大きい問題である。もっとも文化地理学の方ではもっと大きい問題かもしれない。ハンチントンは『気候と文明』で、太古の気候の変遷を論じている中で、アメリカの気候と西部アジアの気候との比較をしている。そしてその両者が第三世紀に到って不一致を来している理由の一つとして、「支那トルキスタンにおける多くの遺跡の放棄に余が著しく感銘したがために生じたのであるかもしれない」と告白している。
第三世紀というのは、即ちスタインがニヤの古址で発掘したカロシチー木簡の最後の使用者が、流砂に追われてその住居を棄てた時である。ハンチントンがもし『西遊記』の愛読者であったならば、もっと感銘しすぎたかもしれない。
『西遊記』と限らず、この種のいわゆる支那の奇書くらい放恣な幻想がその翼をかって、奔放に虚空を翔けまわっているものも少いであろう。そしてその幻想が『ギリシャ神話』とか『アラビヤ夜話』とかいうものと、何処かかなり深いところで、その情趣を異にしている所以は、その幻想が支那大陸の妖しいまでに広大な自然と融合しているからであろう。
スタインの本を読んでいると、到るところで『西遊記』の情景を見ることが出来る。八百里の間ことごとく火焔につつまれ、それを越えようとすれば黒鉄の身体でもとけてしまうという火焔山では、孫悟空は羅刹女の芭蕉扇にあおられてひどい目にあった。その火焔山は昔孫悟空が天宮を鬧がした時、老君の丹炉を踏倒し、それが地に降って出来たものである。それはなかなか活火山などという生易しいものではないらしい。
安西から北山山脈をこえて、トルファン盆地へ出ると、そこは北に積雪のボグド・ウラ、南はクルック・タグの侵蝕丘陵地帯に挟まれた流出口のない低地である。クルック・タグの山麓には、海面下千呎の深地がある。かつての鹹湖は今は大部分涸渇して、塩床の峻しい砂礫地である。この完全に人間の世界から隔絶された不毛の荒野を行くうちに、旅人は気圧計の針がだんだん昇って行って、遂に自分が、海面下千呎のところにいることを知るであろう。「北側の山麓は広漠たる乾燥した砂礫の斜面で、その縁にそって、極度に不毛の丘陵が崛起」している。その砂岩と礫岩とより成る赤裸の山肌は、無人の境にあって「見るからに毒々しく真赤に照り映えている。」そしてそれは昔から土地の支那人の間に「火の山」と呼ばれていたのである。それこそは活火山などよりも、もっと本当な火の山なのであろう。
玄奘法師は、その十七年の長い旅の首途において既に、この北の沙漠に路を失い水に渇え、命からがら哈密のオアシスに辿り着いたのだそうである。
「毒風肌を切る」葱嶺をこえるに当って、玄奘は「竜王の潜む大竜池」のほとりを通っている。それは、紺碧の「無限の深淵」なのである。スタインによれば、今のグレートパミール河の水源地ヴィクトリア湖がそれであるという。スタインが其処を訪れた時は、標高一万四千呎の湖面を氷のような寒風が吹いていた。そして一片の雲もない青空は黒く澄み上り、その中に白く輝いた太陽が寂としてかかっていた。人類創成の昔から今まで、人間の力というものが全く加わっていないこの秘境で、スタインはあらゆる時の距りを忘れて、身近かに玄奘やマルコ・ポーロのいぶきを感じた。
無限の深淵の底は遠く四大洲の外につづき、東勝神洲の水底深くにも達している。その東海の底、竜王のすむ水晶宮へも、孫悟空は閉水の法を使って自由に潜り入ることが出来た。またタクラマカンの死の荒野の東、ロプ海床を越え、乾上った海底に残る竜宮城の廃墟のまぼろしを眼のあたりに見ながら、玄奘は印度からの帰途を急いだことであろう。
この道を辿るべく、三十頭の駱駝にあらゆる探険用具と大氷袋とをつみ、すっかり準備をととのえたスタインの一行は、厳冬を目ざして、ミラーンの古市を出発した。そして楼蘭を中心とする一帯の発掘に惨憺たる辛苦をなめた上に、更に楼蘭を起点とする古代支那路線をたずね、「塩の結晶の耀く無涯の曠野」ロプ海床に足を踏み入れたのである。
古代ロプ鹹湖の涸底は、峻しい粘土の丘がもつれるように起伏し、一面に塩が化石のように硬く凍りついていた。そしてやがて「最後の檉柳の残骸が塩野原に横わるのを後にすると、最早死の世界ではない。全然生を知らぬ世界」となって来た。
この「生を知らぬ世界」の中に、スタインは意外な古代路線の目印を見付けたのである。それは古代支那銅貨や珠子などの発見である。
或るところでは、塩晶の輝く沙漠の中に、約三十ヤードにわたって二百個余りの漢代の貨幣が、東北に向って一線をなして散乱していたそうである。その昔玉門関を出て楼蘭に向った駱駝の一つが、道々落して行った品が、二千年の後に拾い出されるようなこともあったのである。
この土地に特有な沈堆性の丘陵が甚だしい侵蝕作用のために、一見塔か寺院のような異形の姿をして立っている。それは支那の古書にある「太古の竜城の廃墟」の記事と一致するということである。
更に進むと、一面に塩に蔽われた侵蝕高原地帯に入る。それも支那書では「白竜堆」という名で残っているものだそうである。こういう土地に育った孫悟空が、度々竜城を訪れたことも無理のないことであろう。
今日の私たちは、皆地質学の初歩の知識をもっている。そして山から魚の化石の出ることをそう不思議とは思わない。しかし海底が隆起して山の頂きになることは恐ろしいことである。関東の大震災で地表が僅か四寸ばかり動くと、東京の街から三百年の江戸文化の名残りが完全にぬぐい去られ、明治の文化すら大半を失ってしまった。
日本は天災の多い国というが、まだまだ私たちの祖国の土は温順なのであって、アジアの大陸の奥地では、土地はもっと狂暴であって、自然はもっと苛烈な面をいつも見せているのである。地震なども、この西域の地では、関東大震災などとは桁ちがいの強烈なものが有史以来しばしば襲っている。そして現代でも世界の屋根パミールでは、全山塊が崩壊をつづけているような所もあるのである。
一九一一年二月の地震で、パミールの中部バルダン渓谷は、一夜にしてその面貌を改めてしまった。崩れ落ちる岩屑が、忽ちにして渓谷を埋め、かつてはキルギスの絶好の牧場であったところを、美しい山湖に変えてしまったのである。それは三年後には長径十七哩の湖になったのであるが、四年目にスタインが訪れた時にも、崩壊した岩屑の大堰堤は、まだ新湖の水面上なお千二百呎をあましていた。そして山塊の崩壊はなおつづいていて、その山頂は山崩れのための土煙りで雲の如くに蔽われていたそうである。眠っている地球が一度目を覚ますと、僅かにその毛一筋の動きでも、それは人間のあらゆる空想を一度にはじきとばしてしまうであろう。
そういう風に考えると、地球物理学者や地質学者が、アルプスの山の成因を議論したり、太平洋が月のとび出した痕であるかないかを論じているのを孫悟空がきいたならば、われわれが『西遊記』に驚くように、きっと驚くであろう。そういえば、現代の子供たちが、独逸からの放送をきいても、星雲の話をしても、誰も余り驚かないのは、科学普及の功績であるか、罪過であるか急にはきめられない問題である。
この頃はうちの子供たちも本に夢中になって、御飯によばれても来なかったり、夕闇の窓際で電燈をつけずに読み入っていたりして、よく母親に叱られている。時々その本を覗いてみると、今昔の感にたえないくらい子供向きの良い本が沢山出ているようである。しかしああいう良い本ばかりでは少し可哀そうな気がしないでもない。
少しひねくれたような言い方になるかもしれないが、子供にもよく分って面白くて為になるような本ばかり読んで育ったならば、本当の意味で自然に驚嘆する鋭い喜びを知らなくなる虞れがなくもない。
国民学校五年生の上の子供が、この頃『西遊記』に凝り出したのを見て、何だか恐ろしいような気がしている。というのは、折角買ってもらった少国民向きの上品な『西遊記』にはざっと眼を通しただけで、夢中になっているのは、大人向きの旧い『西遊記』である。
「そんなむつかしい本が分るかい」ときいても「分るさ、面白いよ」と言いながら、頬を真赤に上気させ、ふり向きもしないで読んでいる。
その横顔をみながら、私は静かに少年の日の旧い煤けた家の姿を心に描いてみた。すると仏壇の間のほのかな燈明のゆらぎが眼のあたり蘇って来た。
「その玄奘三蔵というお坊さんは本当にいた人なんだよ。その坊さんの書いた本もお父さまは持ってるよ。印度へお経をとりに行った途中のことが、書いてあるんだが、見せてやろうか」と言うと勿論大変なさわぎである。三人の子供が折りかさなって、国訳『大唐西域記』を覗き込んで、「三蔵法師玄奘奉詔訳」という字に眼を光らせて、息をのんでいる。
ふと山本晋道師の『天竺紀行』についていた阿育石柱刻文の拓本のことを思い出して、臘伐尼林のところを説明しながら二行だけ読んでやる。「四天王の太子を捧げし窣堵波の側に遠からず、大なる石柱ありて、上には馬の像を作れり。無憂王の建つるところなり。後に悪竜が霹靂せしがためにその柱は中より折れて地に仆れたり」
「その石の柱はね、三蔵法師はこの本に書いてあるようにたしかに見たんだが、その後すっかりジャングルの中に埋れてしまって、何処にあるのか分らなくなってしまったんだ。それから千年もの間ずっと分らなかったんだが、それがこの頃になってやっと見付かったんだよ」
と言って、その拓本を開いて見せた。「これはね、その石の柱に紙をおっつけて、墨のついた綿で叩いて作ったんだ。だから字の刻ってあるところだけ白く残ってるだろう。此処にあるこの白い細い筋が面白いんだよ。この白い筋がね、悪竜の雷が落ちた時に折れた痕なんだよ。三蔵法師もこの割れ目を見たんだね」
子供たちは固唾を呑んだまま、眼を円くして覗き込んでいる。そのうちに末の子が息を吸いこんで「それじゃあやっぱり本当なんだね」と感にたえたという風にいう。
さすがに上の子は「本当じゃないんだけど、お父ちゃま、そんなもの誰に貰ったの」と妙なことをきく。講談本の盗み読みが出来ない現代の子供たちも、この拓本には驚いたらしかった。
地球の内部が火の球であると言うと、それを問題にするのは、少数の科学者だけである。おそらく殆んどすべての子供たちは、そんなことは分り切ってるさと答えるであろう。その答えは二重の意味で考えてみる必要がある。第一は、分り切ってると思い込んでいる点であり、第二は、もっと大切なことであるが、それにあまり驚かないことである。
分り切ってると思う方は、科学普及書の改善によってあるいは是正出来るかもしれない。しかしそれに本当に驚くような心を育てるには、それだけではむつかしいであろう。ひょっとすると『西遊記』教育のようなものが、案外有効なのかもしれないが、ちょっと危険な方法なので、誰にでもすすめるというわけには行かない。しかし麦は一度踏まねば発育が悪いということは、一応知っておいてよいことである。
底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「樹氷の世界」甲鳥書林
1943(昭和18)年
初出:「文藝春秋」
1943(昭和18)年1月1日
※表題は底本では、「『西遊記』の夢」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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