おにぎりの味
中谷宇吉郎
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お握りには、いろいろな思い出がある。
北陸の片田舎で育った私たちは、中学へ行くまで、洋服を着た小学生というものは、誰も見たことがなかった。紺絣の筒っぽに、ちびた下駄。雨の降る日は、藺草でつくったみのぼうしをかぶって、学校へ通う。外套やレインコートはもちろんのこと、傘をもつことすら、小学生には非常な贅沢と考えられていた。
そういう土地であるから、お握りは、日常生活に、かなり直結したものであった。遠足や運動会の時はもちろんのこと、お弁当にも、ときどきお握りをもたされた。梅干のはいった大きいお握りで、とろろ昆布でくるむか、紫蘇の粉をふりかけるかしてあった。浅草海苔をまくというような贅沢なことは、滅多にしなかった。
しかしそういうお握りの思い出は、あまり残っていない。それよりも、今でも鮮かに印象に残っているのは、ご飯を焚いた時のおこげのお握りである。
十数人の大家族だったので、女中が朝暗いうちから起きて、煤けたかまどに大きい釜をかけて、粗朶を焚きつける。薄暗い土間に、青味をおびた煙が立ちこめ、かまどの口から、赤い焔が蛇の舌のように、ちらちらと出る。
私と弟とは、時々早く起きて、このかまどの部屋へ行くことがあった。おこげのお握りがもらえるからである。ご飯がたき上がると、女中が釜をもち上げ、板敷の広い台所へもってくる。釜の外側には、煤が一面についているので、それに点いた火が、細長い光の点線になって、チカチカと光る。まだ覚め切らぬねぼけまなこの目には、それが夢のつづきのように見えた。
やがてその火も消え、女中が蓋をとると、真白い湯気がもうもうと立ち上がる。たき立てのご飯の匂いが、ほのぼのとおなかの底まで浸み込むような気がした。女中は大きいしゃもじで山盛りにご飯をすくい上げて、おひつに移す。最後のおこげのところだけは、上手に釜底にくっついたまま残されている。その薄狐色のおこげの皮に、塩をばらっとふって、しゃもじでぐいとこそげると、いかにもおいしそうな、おこげがとれてくる。女中は、それを無雑作にちょっと握って、小さいお握りにして、「さあ」といって渡してくれた。
香ばしいおこげに、よく効いた塩味。このあついお握りを吹きながら食べると、たき立てのご飯の匂いが、むせるように鼻をつく。これが今でも頭の片隅に残っている、五十年前のお握りの思い出である。
その後大人になって、いろいろおいしいものも食べてみたが、幼い頃のこのおこげのお握りのような、温かく健やかな味のものには、二度と出会ったことがないような気がする。
都会で育ったうちの子供たちは、恐らくこういう味を知らずに過ごしてきたにちがいない。一ぺん教えてやりたいような気もするが、それはほとんど不可能に近いことであろう。おこげのお握りの味は、学校通いに雨傘をもつというような贅沢を、一度おぼえた子供には、リアライズされない種類の味と思われるからである。
底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集3」朝日新聞社
1966(昭和41)年
初出:「暮しの手帖」
1956(昭和31)年9月5日
※初出時の表題は「五十年前」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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