貝鍋の歌
中谷宇吉郎
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北海に愚魚あり
その名をほっけという
肉は白きこと雪片を欺き
味はうすきこと太虚に似たり
一片の三石の昆布
一滴のうすくちの醤油
真白なる豆腐に
わずかなる緑を加う
くつくつと貝鍋は煮え
夜は更けて味いよいよ新たなり
まだ子供たちが幼かった頃、うまくだまして、早く寝つかせた夜は、奥の六畳の長火鉢で、よく貝鍋をつついた。
住みついてみると、北海道の冬は、夏よりもずっと風情がある。風がなくて雪の降る夜は、深閑として、物音もない。外は、どこもみな水鳥のうぶ毛のような新雪に、おおいつくされている。比重でいえば、百分の一くらい、空気ばかりといってもいいくらいの軽い雪である。どんな物音も、こういう雪のしとねに一度ふれると、すっぽりと吸われてしまう。耳をすませば、わずかに聞こえるものは、大空にさらさらとふれ合う雪の音くらいである。
こんな夜は、長火鉢に貝鍋をかけ、銅壺に酒をあたためて、静かで長い夕食をとる。貝鍋の魚には、いろいろためしてみたが、けっきょく一番安くて、一番味のない、ほっけに落ちついた。
これは磯魚であって、鱈の子供が、親にはぐれて、陋巷にすみついたような魚である。北海道の日本海沿岸では、どこでも、いくらでもとれる愚魚である。太平洋岸でもとれるのかもしれないが、それはどうでもよい。
近海で多量にとれる魚であるから、少し気をつけていると、水から揚がったばかりのようなあたらしいのが、市場の魚屋などにもよく出ているらしい。細君は、みつかり次第買ってくるようであった。どんな愚魚でも、あたらしい魚はうまい。貝鍋に昆布を一枚しき、このほっけの切身と豆腐を入れ、せりか三つ葉の青味を少し加えて、湯でくつくつと煮る。味つけは、うすくちの醤油を数滴たらすだけ。
初めのうちは、淡泊というよりも、味もそっけもないといってもいいくらいの味である。この味のない肴をはさみながら、ゆっくりと酒をのむ。汁はまもなく煮つまってくる。銅壺の湯をたびたびさし、ときどき醤油をたらし込みながら、煮ていると、次第に味が出てくる。
その頃になると、酒も適当にまわり、その味がよくわかるようになる。それはまことに不思議にも微妙な味で、相当味が濃くなってきても、少しもしつこくはならない。二時間くらいも食べつづけていて、いつまでも味の新鮮さを失わない鍋ものは、他にちょっと思い当らない。酔い心地も、まず申し分がない。
毎度のことで、われながら少し気もひけるが、細君に筆と紙の用意をさせ、貝鍋を中心に、雑然たる食卓の風景を、墨絵に描く。そして口から出まかせの賛をする。初めにあげた、詩とも、だじゃれともつかぬ妙な文句は、こういうときに書きそえた賛の一例である。
家族が東京へ移ってからは、北海道の貝鍋とは、縁が切れた形である。東京でも、まれには、貝鍋をするが、どうも中身が上等すぎるうらみがある。しかしそれでも、貝鍋にはやはり特殊の風味があって、私は好きである。
同じような鍋ものを、アルミの鍋でやったのでは、ぜんぜん問題にならない。土鍋はアルミからみたら、ずっとよいが、それでも貝鍋には、はるかに及ばないような気がする。心理的なものかもしれないが、ひょっとしたら、貝鍋から、何かその組成の成分がとけ出て、あの特殊な味をそえるのかもしれない。
貝殻の主成分は、もちろん炭酸カルシウムであって、加里や燐酸塩も、少しはいっているが、それはごく微量である。ナトリウムも少量あるが、これは加える食塩の方が、ずっと多いから、問題にする必要はない。一番考えられるのは、カルシウムであるが、これは煮ているうちに、汁の中にとけ出る可能性は、じゅうぶん考えられる。人間の舌は、あんがい敏感であって、化学分析でもわからないていどの微量の成分を、感じとるものである。
この貝鍋カルシウム論を、芸大の物理の教授をしているO博士にしたことがある。最近その博士に会ったら、あの実験はやってみましたという。結果は肯定的で、蛤の貝殻を、水で一時間くらい煮ると、簡単なテストでわかるていどに、カルシウムがとけ出るそうである。帆立の貝鍋は手に入らぬので、まだやっていないが、充分出るでしょうといっていた。
少し暇になったら、本式に貝鍋料理の物理的および化学的の研究をしてみたいと思っている。
底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集3」朝日新聞社
1966(昭和41)年
初出:「文藝春秋」
1961(昭和36)年4月1日
※表題は底本では、「貝鍋の歌」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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