硝子を破る者
中谷宇吉郎



 汽車はあいかわらず満員である。

 吹雪で遅れ遅れするので、駅には前からの乗客がたまって益々混雑をひどくするらしい。

 やっと窓際の席がとれて、珍しいことと喜んだのもつか、硝子が破れているので、雪をまじえた零下十度の風が遠慮なく吹き込んで来る。とてもたまったものではない。前にすわっている五十余りのやみ商人らしい男が、風呂敷ふろしきを窓にあてがっているが、どうもうまくとまらない。

 何度もやって見てとうとうあきらめたらしく、外套がいとうえりを立て襟巻をぐるぐる首に巻いて、身体からだを丸くして縮まり込んでしまった。風呂敷がばたばたと風にあおられて、五月蠅うるさいばかりでなく、余計に寒いような気がする。

 私の方も同様にちぢこまっている。ふと眼が会ったら、その男が半分は一人言ひとりごとのように、半分は私に話しかけるような調子で「戦争にけりゃあこんなもんだ。仕方がないや」とつぶやいた。私はちょっと可笑おかしくなって「だって君、これは何もアメリカの兵隊が割ったんじゃないんだよ。硝子を割ったのは皆日本人なんだろう」と言うと、その男も「そう言えばそうだね」と苦笑した。

 日本人が汽車の窓硝子を破るようになったのは、窮乏のために平常心を失ったからであり、窮乏は敗戦に原因する。そういう意味では、戦争に敗けたから雪の吹き込む汽車で寒い思いをしなければならないと言うのは本当である。しかし「戦争に敗けたんだから」という言葉を、今日のように皆が無考えに使っていると、とんでもない錯覚に陥るおそれがある。もう既に陥ってしまっている連中も沢山あるらしい。

 終戦直後、技術院があっさり解散してしまったので、私たちのニセコ山頂の観測所は、親なしになってしまった。施設は適当に処分するようにとの通報を受けたが、そう簡単に解体してしまうわけにも行かない。私たちにしてみれば、過去五カ年にわたって、随分苦しい目にも会って、やっと築き上げたものである。

 取る物もとりあえず、樺太からふとからの引揚民の中にまじって、地獄絵のような場面を見続けながら、三日がかりで東京へ出た。そして十日ばかりかかって、雪中飛行の研究所を農業物理の研究所として更生させるというちょっと聞くと妙な話をとりきめて、安心して帰って来た。雪中飛行と農業物理というと、まるで縁がないようであるが、もともと雪中飛行の研究と言っても、科学的には雪の本質の研究であって、寒地農業の物理的研究に雪の本質の研究が役に立たぬはずはないのである。その点自然を直接対象とする科学の研究はありがたいものである。ところが、この上京の留守中に大変なことが起ってしまった。それは山頂の観測所がすっかり泥棒に荒されてしまったのである。

 孤立した山頂の天辺てっぺんにある観測所で、人家からは、どの道を採っても二近くはある。そういう隔絶した地点にある建物のこととて、泥棒にはいる気になれば、極めて容易である。終戦と同時に、入口の戸は五寸釘ごすんくぎ打付うちつけ、窓も全部板を当てて釘付けにして来たのであるが、二階の明り取りの硝子をこわして、中からあけたので、簡単に破られてしまった。

 研究室の中は、目も当てられない始末であった。持ち運びの出来る器械類を盗んで行くのは仕方ないとして、全く不必要に窓硝子を大半壊している。大型の器械は、中の真空管だの測器だのという部分品だけをって行ったようである。一番不可解なことは、それだけ持って行けばよさそうなものを、盗った後の器械を床にぶちつけて、滅茶めちゃ苦茶に壊してあることである。

 この山は北海道でも有名な吹雪の難所である。山頂の天地晦瞑かいめい雪嵐ゆきあらしの中で二冬をすごし、やっと研究装置を完成した助教授のI君は、手塩にかけた器械の無惨な姿を見て、ぼろぼろと涙をこぼしたそうである。

 この無意味な破壊という不可解な心理が、戦争中にもしばしば現れて、米英の将兵をひどく恐れさせ、また刺戟しげきしたのであった。シンガポールでも、マニラでも、そういうことが始終あったらしい。何かの意味で戦争に必要なこと、少くも間接にでも策戦に関係があることなら意味は分るが、全く不必要に文化施設だの博物館の標本だのを破壊する心理は、私たちにも分らない。英米軍の人たちには、この「底知れぬ野蛮性」は恐怖のなぞであったにちがいない。

 東京で総司令部の報道関係の一将校に会った時に、この点について質問されて、大いに困ったことがある。マニラの暴状を見て来たばかりのその将校は、余りにもひどい無意味なる破壊の姿によほど心を痛められたようであった。私は返答に困って、下手な弁解をした。制空権を完全に奪われ、補給の路も救援の望みも全く失われた場合に、将兵が絶望の極、その種の精神的異常状態に陥ることもあり得ようというのである。話しながらまずい答弁をしたものだと内心思っていたら、はたして「バタアンにおけるマックァーサー軍は、全く救援の望みはなかったが、ああいう目的のない破壊はしなかった」と言われて、その通りだと苦笑せざるを得なかった。

 ニセコの山頂でこのやくっていたのとほとんど同じ頃、苫小牧とまこまいの飛行場でも、悲しむべき事件が起っていた。戦争中私たちは冬のニセコ山頂の研究と並行に、夏は海霧の研究に没頭していたのである。夏の数カ月毎日のように、千島ちしま及び東部北海道を襲う魔の海霧を、何とかして克服しようというのが目的であった。大規模なことはとても望めないが、せめて飛行場の滑走路の上だけでも、あの霧をはらそうというのである。

 同じ目的の研究は、今度の戦争途中に英国でも始められた。英国のこの研究は立派に実用化されて、独逸ドイツのルントシュテット攻勢をい止めるのに、大いに役立ったのである。英国側では、もしこの霧をはらす研究に成功しなかったら、独逸は今二年生きのびたであろうと言っているくらいである。英国の新聞は、この霧の人工消散に関する記事を、伯林ベルリン陥落後二カ月、即ち昨年の夏の初めに発表した。原理は石油を完全燃焼させて、その熱気を送り出して霧粒を蒸発させるのである。

 私たちの方法も偶然それと原理は一致したので、トラックの上に重油の完全燃焼装置をとりつけ、それから出る熱気に大量の空気を混ぜて送風器で送り出すものである。知人をたよって鉄工所に頼み込み、やっと装置は出来たが、エンジンから送風器へのベルトがどうしても手に入らない。官庁と統制会社と軍との間を馳け廻って、何度も書類を出して結局間に合わなかった。とうとう低温科学研究所の低温装置用のベルトをはずしてもらって、一月ひとつきという約束で借りることにした。実地試験中は、研究の方はしばらく休んでもらうより仕方がない。英国の霧消散実験では、チャーチルが燃料しょうにメッセージを発し、主な実験には、夜中でも大臣が立会った。日本の総理大臣から命令される戦時研究では、ベルト五本手に入れるにもこの騒ぎであった。

 苫小牧飛行場で、この「消霧車」の試験がほぼ完了して、一同ホッとした時に終戦になった。消霧車は普通では貨車輸送の出来ない厖大ぼうだいなもので、そのまま飛行場に残して来た。ベルトは心配なので、とりはずして装置の中に入れて、外から開けられないように、針金でしっかり縛りつけておいた。

 一月ばかりたって、どうにか輸送がきくようになったので、特殊扱いで、やっと送ってもらった。着いたところを見ると、すっかり壊されている。測器類も細々こまごました附属品も全部盗まれ、ベルトは影も形もない。あわてて、人を苫小牧に派遣して調べてもらったが、終戦時のあの騒ぎでは調べようにも手掛りがないという心細い話である。これが沖縄でのことなら話も分るが、同じ敗けたと言っても、進駐軍が来るまでにはまだ二カ月もある頃の話である。

 ベルトがなくては、低温研究所の機能がとまってしまう。小樽札幌とあらゆる手を廻して品物を手に入れようとしたが、駄目である。正規の手続きも勿論採ったが、現物が配給になるのは何時いつのことか分らない。結局配給店の某氏の特別の厚意で、一時ある方面の品を融通してもらって、やっと片が附いたが、それまでに行くには、散々骨を折って四カ月近くもかかってしまった。再建日本の重要な任務の一半は、科学者に負わされているそうである。そしてその任務というのが、盗まれたベルトの代品を探すことであるというのは、如何にも悲しい現実である。

 この頃会う人ごとに、よくニセコの研究はもう出来なくなったのでしょう、惜しいことですねと同情される。「何分電気のコードから、蒲団ふとんの皮まで盗られたので、どうにもなりません。畳は表のござだけ切り取って行きましたよ」と言うと、皆が怪訝けげんな顔をする。先方では、あの研究は航空気象に関係があるので、航空に関する研究の中止命令にひっかかっていると思っているらしい。しかし米国側からは、研究の激励の言葉は再三受けたが、禁止的の言葉は一度も聞いたことがない。

 終戦以来、あの研究所の施設は取り壊した方がいいだろうという勧告を、日本の人たちからしばしば受けた。しかし飛行機の研究さえしなければ低温の世界の気象学的研究を禁止されるはずはないと思って、そのままにしておいた。そして実際にその通りであった。日本の国に飛行機がなくなった今日、誰も酔狂に飛行機の研究などするわけもなく、それくらいのことは、アメリカ側にも分っているはずである。ニセコの研究の出来なくなった理由は、泥棒にはいられたからである。「硝子を割った者」は日本人なのである。


 戦争が済んで莫大な消耗がもうなくなったのだから、半年もしたら、庶民の生活も今少し楽になるだろうとの希望的観測が、終戦後間もない頃、一般に期待されていた。しかし今日になって見ると、その希望的観測は美事に裏切られている。敗戦の痛手というものは、そう簡単に糊塗ことおおせるものではないらしい。

 社会科学を勉強した人たちの意見によると、敗戦の重圧が本当に表面に現れて来るのは、戦後一年とか二年とか相当の時日がってからのことだそうである。前大戦後の独逸の状況が一番明らかな例であって、その他にも沢山同様な例があるらしい。一旦いったん法則として見出された以上、それは無慈悲なほど強力な動かし得ないものである。従ってそういう意味では、我が国のこれから先一年とか二年とかの期間は、前途極めて暗澹あんたんたるものがあることを覚悟しておく必要がある。

 ただに、一つこういう考え方もあるように私には思われる。

 社会科学の法則は、なるほどその通りであろう。自然科学の法則で、すべての物体は慣性をもっていて、一旦動き出したものは、それを止めるに力がることが立証されている。それと同じようなことが社会問題にもあると言えば、それは十分理解し得ることである。

 敗戦の痛手が、戦後相当の期間を経て効いて来るということは、私もその通りであろうと思う。しかしその影響が効いて来ることと、それが現れて来ることとは、必ずしも全部が一致しなくてもよいのではないかという気がする。敗戦国では輸送の混乱が起こるのは避くべからざることであろう。従って汽車が混むのは当然である。しかしそのことと、窓硝子を割ることとは、必ずしも一致するとは限らない。影響が効いて来るのは、一つの法則であって、これは動かし得ないものとしても、それが現れて来るまでの過程の中には、制御可能な要素が沢山はいっているのではないかと思われる。

 それに類似の現象は、農業と天候との間の関係にも見られる。農業を支配する最大の要素は天候であって、品種とか肥料とかいうものも勿論大切であるが、天候の影響の方が圧倒的に重要な役割を占めている。ところが従来の農業では、その一番大切な要素である天候に対しては、無条件に屈伏していた傾きがある。

 天候は勿論人間の力では左右し得ないものである。しかしそれが農業に及ぼす影響を分析してみると、その中には制御可能な地上条件を通じて影響している要素がかなりあるように思われる。例えば春さき雪がなかなか融けないために作付さくづけが遅れるとか、寒国地方で水田の水温が低いために冷害の厄をこうむるとかいうような問題は、もちろん天候に起因しているのであるが、機巧きこうを見れば、それはる程度まで科学の力で制御し得る要素を通じて作用しているのである。従ってそういう意味では、科学の力によって或る程度まで天候を克服し得ると言っても差支えないであろう。

 それと全く同じようなことが、今度の場合にもありそうである。もっともこういう類推は、厳密に言えば譬喩ひゆであって、何も傍証的ぼうしょうてきな意味があるわけではない。しかし今日われわれが「戦争に敗けたんだから仕方がないや」と言っている事件の中に、本当に仕方がないものがはたしてどれだけあるか、それは甚だ疑問である。

 今一番恐しいものは、インフレーションと食糧問題とである。この両者は結局は同じもので、生産低下の問題に帰する。生産の低下というのは、要するに能率の減退である。この頃電話をかけるごとに、私はつくづく日本国中がこの調子であっては、生産の低下するのももっともだと感ずる。受話器をとってから、交換手が出るまでに、ひどい時には五分もかかる。やっと出て来たので番号を告げると、言下に「話中」と断られる。同じようなことを二、三回繰り返して、ようやくのことに通ずる。相手は官庁などのことが多いので、向うの交換から当の相手までの間にまた「御話中」がある。それが運よく通ずると、農政課のところに農産課が出て来る。それで切ってもらうと、全部切れてしまう。改めてやり直しである。局がまたなかなか出て来ない。漸く出て来ると、今度はまた「御話中」である。

 交換が間違えるのは、非常に繁忙だからやむをえないのだと一般には考えられている。しかしこの場合、繁忙だから間違えるというほかに、間違えるから余計に繁忙になるということも、一応考えてみる必要がある。電話をむやみとかけるのは、結局用が足らないからである。番号を間違えれば、改めて掛け直すから、それだけ忙しくなる。もっともそのために通話回数が増えることぐらいは、多寡たかが知れているが、それよりも恐しいことは、人心をいらだたすことである。その点は番号の間違いばかりが問題ではなく、受話器を取ってから、三分も五分も待たされれば、大抵の人はいらだって来る。人心がいらだって来れば、手紙や葉書で済む用事にまで長距離電話をかけるような風潮になる。一度で済む電話を二度かけるのも、その症状の一つの現れである。そのために「お話中」が増え、それがまた人心をいらだたせ、益々電話を繁忙にする。こうなってはまさに病的の現象である。

 電報も同じことである。文字が滅茶苦茶に間違っていて、どうしても意味が分らない。そのために問合せの電報を打って返事をとるので、一度で済むことが三倍の手間を要することになる。間違っていなくても、ひどく遅延したために、もう用件が間に合わなくて、断りの電報を打つ。それに対してまた電報が来る。これでは電信係の人もたまらないことであろうが、われわれも非常に迷惑する。そして益々電報事務を繁雑にするのである。

 話の勢いで、通信関係だけに苦情を言った形になったが、これは何も通信関係だけの話ではなく、現在の日本のすべての方面に見られる現象である。七千八百万の同胞が力を合せて、互いに能率を低下すべく、へとへとになって努力しているような形である。これでは物の不足は当然であり、インフレーションの根本解決策も立たないわけである。

 入学試験の際に、一つ難問にぶつかって、時間がどんどん経って行く場合、あわてたらおしまいである。そういう場合には、まず深呼吸でもして、ぐっと気持を落付けさすに限る。

 そういうつもりで、自分の場合にっいて、終戦後六カ月間の仕事をふり返ってみると、殆んど九割までの努力はマイナスゼロにする努力であったように思われる。そしてそのマイナスの全部が、少くも直接には日本人の手によったものである。そういう意味で、われわれが今日直面している危機は、戦争に敗けたから起ったというよりも、自分自身に敗けたためであるという方が適切であろう。

 もしこういう見方が、現在の国情の一側面を幾分でもあらわしているものであったならば、危機突破策の一要素は極めてあきらかである。それは国民が今日において平常心を失わないことである。物質と物質との戦いの最中さいちゅうに精神論を強調し、今最も精神を必要とするときに、精神を忘れているのではなかろうか。いたる処で「硝子を割る者」が皆日本人であることを思えば、われわれが今日直面している多くの困難は、その大半がわれわれ自身でもたらしたものである。「戦争に敗けたのだから」という言葉はなるべく使わない方がよいであろう。

(昭和二十一年八月一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店

   1988(昭和63)年916日第1刷発行

   2011(平成23)年16日第26刷発行

底本の親本:「春艸雑記」生活社

   1947(昭和22)年

初出:「朝日評論」

   1946(昭和21)年81

※表題は底本では、「硝子ガラスを破る者」となっています。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2013年14日作成

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