日本のこころ
中谷宇吉郎
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もう二十年くらいも昔の話であるが、大学を出てすぐの頃、私は理化学研究所(現在の科学研究所)へはいった。そして寺田先生の助手として、三年間先生の実験室で働いた。
その頃の理化学研究所、というよりも理研といった方が通りがよいのであるが、その理研には、大学を出たての若い仲間がたくさんいた。同期の藤岡(由夫)君や、一年あとの菊池(正士)君、それに相対性理論でアインシュタインに大いに盾をついた土井(不曇)さんなど、元気のよい連中が十人近くも集って、毎週木曜日の晩に雑誌会をやって、皆が大いに気焔をあげていたものである。
丁度現在の量子物理学が生まれつつあった時代で、電子の波動性というとんでもないことを提唱したドゥ・ブロイの最初の論文を、たしか芝(亀吉)さんだったかが初めて読んだのも、この雑誌会であった。さすがに錚々たる御連中も、この論文にはいささか度胆を抜かれたようであった。何が何だか分らなくて、まるで夢のようなことをいってるということにして、片づけてしまった。
しかし引きつづいて、独逸でボルンやシュレーディンガーの論文が出て、波動方程式という名前も皆が知るようになった。英国では、ディラックの論文がいくつも引きつづいて、王立学会記事に出た。これはたしか藤岡君が主になって紹介したような気がする。どの論文もよく分らなかったが、何となく物理学の新しい黎明が近づきつつあるという気がして、皆が夢中になって、夜おそくまで討議をしたものであった。電子に波動性があるというまるで夢のような話が、その後二十年ばかりの間に、原子爆弾にまで発展したのである。正に今昔の感にたえないものがある。
この時代は、日本の国力が、正に最盛期に達しようとしていた時代であった。学問の方も、急速に世界の水準に迫りつつあった。そして欧羅巴からも、若い研究者がぼつぼつ理研へやって来ていた。そのうちでオランダから来たディーケ博士が、私たちの仲間にはいって、木曜日の晩の雑誌会にも顔を出すようになった。
ディーケは分光学専攻なので、高嶺研究室で仕事をしていた。それで同じ研究室の藤岡君とは、特に親しくしていた。理研生活は二年くらいであったかと思うが、一旦オランダへ帰り、間もなくアメリカへ渡った。そして現在はジョンス・ホプキンス大学で、物理の主任教授かその次ぎかの位置にいる。
ディーケは非常に日本が好きであった。来るとすぐ日本語の勉強を始め、私たちの雑誌会に出ても、もちろん日本語でやっていたわけであるが、とにかく熱心に聞いていた。もっとも理論物理学の話は、数式がたくさんはいるので、日本語が分らなくても、大体のところはつかめる。それにしても、来朝早々こんな会のメムバーになって、夜おそくまで皆が勝手な気焔をあげる仲間になっていたのであるから、かなり変っている。
半年くらいのうちに、日常の用事は、だいたい日本語で片づくようになった。初めから日本人の普通の家庭に、いわゆる素人下宿をしていた。神楽坂の近所であったが、いい親切な家があって、ディーケは大いに満足して、純日本風の生活を初めからしていたようであった。
喋るばかりでなく、日本字の読み書きも習いはじめて、一年くらいしたら、手紙が書けるようになった。平仮名の手紙で、ほんの少しばかり漢字の混っているものであるが、とにかく日本文の手紙が書けるのだから、たいしたものである。表書きは全部漢字で書くのが得意で、金釘流の大小いろいろまじった字であるが、とにかく配達にはことかかないような漢字を書いていた。これはアメリカへ渡ってからも、ずっとつづいていて、かなりの間よく表書は漢字で書いて来た。
日本の着物が気に入って、大島の揃いの着物と羽織とを作って時々着ていた。特に浴衣が好きで、夏になると、よく浴衣がけで素足に下駄をひっかけて、神楽坂の夜店を素見していたものである。後になって、オランダで述懐していたことであるが、夏の夜の浴衣がけの散歩くらい、日本の良さを示すものはないといっていた。
或る夕方、例によって、浴衣がけで神楽坂をぶらぶら散歩していたら、後から汚い仕事着の労働者がやって来た。そして「もしもし、西洋の旦那」といって、ディーケに呼びかけたことがあったそうである。これがディーケには、よほど気に入ったものとみえて、よくこの話をした。「日本という国はいい国だ。街の一番下層の労働者が、外国人を見た時、もしもし西洋の旦那とよぶような国は、世界中何処にもない」というのである。
これは正にそのとおりで、第一「西洋の旦那」というような巧い言葉は、外国語にはない。少くも英語や独逸語にはないように思われる、特に独逸などにはないようである。伯林での経験であるが、落葉の美しいツォーの公園を散歩していた時、五、六歳くらいの子供を連れた男に行きあったことがある。ちゃんとした服装をした紳士であったが、私の方を指さして、子供に「あれは日本人だ。支那人とはちがう」と説明していた。こういう教育のできる国民と「もしもし、西洋の旦那」と呼びかける国民とが、もし喧嘩をしたら、勝敗の数は自ら明らかである。しかし私はそんなにまでして強くなるのは考えものだと思っている。私は独逸をあまり好きになれなかったが、その理由の一つは、こういうところにある。
「もしもし、西洋の旦那」と呼んでも、何も得るところはない。せいぜいディーケのような変り者を喜ばすくらいのことである。それよりも、ちょっとした機会でもすぐとらえて、ヤパーナーとヒニーゼとの区別について、実物教育をする方が、大いに教育効果を上げるにはちがいない。第一次大戦後の独逸の急速な復興は、こういう独逸精神に負うところが多いのであろうと、自分では思っている。
敗戦後、外地におけるかつての軍人たちの非行をあばき立てて、日本人の劣等性をいい気持そうに振れ廻っていた人たちが、終戦後はかなりあったようである。しかし日本人も、決してそういう悪い点だけをもっている人種ではない。唯この二、三十年来、日本人は付け焼刃の西洋文明を、自分らの特質と思いちがえていたようである。我が国の科学は、もう世界の水準に達したとか、潜水艦は世界第一だとか威張っていたのもその一つのあらわれであろう。そういう西洋の物質文明をすぐ真似得たことを、民族の優秀性を示すものと思いこんでいた。しかしそういうことは、子供が父親の煙草を失敬して、得意そうにふかしているのと、あまりちがわないことである。ということが、この頃になって、やっと分って来た。
こういうことを書くと、たかが街の労働者の一言を種にして、ずいぶん大袈裟なことをいうと思われるかもしれない。それで今一つ似たような例を挙げておこう。それは現在ハーバート大学で、極東美術の主任教授をしている、エリセーフ氏の話である。
エリセーフ氏は、生まれはロシア人であるが、若い時に日本へ来て、主な教育は東京で受けた人である。それも東大の文学部に入り、国文学を専攻、卒業論文には「芭蕉の研究」というのを書いたのだから、少し念が入っている。漱石の御弟子の一人であって、とくに小宮(豊隆)さんや、森田(たま)さんなどと、親しくしていたそうである。私も二十年前に、巴里でエリセーフ氏に大分厄介になったことがある。二、三回目に会った時に、友人の数学者の岡潔君を紹介したら、「オカさんは、コウですか、キュウですか」ときかれて、大いに面喰ったことをおぼえている。
昨年の夏、ボストンで、二十年ぶりに、このエリセーフ氏に会った。二晩ばかり、おそくまでいろいろ話をきいて、非常に愉快だったが、そのうちでも、特に面白い話があった。それはエリセーフ氏が、東大の学生時代に、北海道へ旅行した時の話である。
夏休みに、一人でぶらりと北海道へ遊びに行ったのだそうである。紺絣の筒っぽに下駄をひっかけての一人旅で、汽車はもちろん三等であった。丁度漱石先生の『三四郎』が出たばかりの時だったので、その新しい『三四郎』を一冊懐に入れて出かけて行った。
北海道の景色は広々としているといっても、シベリアを知っているエリセーフ氏には、そう珍しいことでもなかったであろう。それよりも『三四郎』の方が、面白かった。ごとごととのろい北海道の三等車の中で、紺絣のエリセーフ君は、夢中になって、『三四郎』に読みふけっていた。すると、さっきから隣に腰をかけていた中年の男が、しきりにその本をのぞき込んでいる。そのうちに、「もしもし」とエリセーフ君に話しかけた。
見ると、盲縞に角帯をしめた男で、田舎廻りの米の買出人という恰好の男である。当時の日本の中流階級の下というところの代表者であろう。その男が『三四郎』をのぞき込みながらきいた最初の言葉が、「この頃はお国でもそういう字が流行りますか」というのであったそうである。
エリセーフ氏には、この言葉がよほど気に入ったものとみえて、三十年後の今日、この話をするエリセーフ氏の語調の中には、当時の日本をしのび、自分の青春をなつかしむ情が、脈々として流れていた。そして「日本はいい国でした」と、独り言のようにつけ加えていた。
「お国でもそういう字が流行りますか」というのは、如何にも面白い言葉である。こういう質問に腹を立てる人は恐らくないであろう。馬鹿げているようで、しかし何か温かいものが、その底に感ぜられるからである。しかしその意味は、考えてみると、かえって分らなくなる。エリセーフ氏が外国人であることは、一眼に分ることである。現代の日本人ならば、「あなたは日本字が読めるのですか」ときくだろう。しかしそれは愚問であって、さっきから外の景色にも、車内の様子にも、まるで無頓着で、夢中になって読み耽っているのだから、日本字の読めることは、きくまでもないことである。それかといって、「日本字が読めるのは感心ですね」というのも、気の利かない話である。
前の「西洋の旦那」にしても、今度の言葉にしても、近代風に解釈すれば、その味がすっかり抜けてしまう。少し意地悪い人に遭ったら、「西洋の旦那」という言葉の蔭には、封建性が骨まで染み込んだ一種の卑屈さがあるといわれるであろう。「お国にもそういう字が流行りますか」というのは、無智の代表といっても差支えないかもしれない。しかしこういう言葉の裏に流れている心の温かみは、いわゆる現代風のものの考え方では、その解釈が非常に困難になるような種類の感情である。「蛸壺やはかなき夢を夏の月」の句を英訳することが、ほとんど不可能であるのと同じくらいに、困難な仕事である。
建国以来二千年、日本の国は、世界からすっかり隔絶されていた。もっとも中国や韓国とは、いろいろな交渉があったが、それはいわば身内の中での交渉である。広い地球の上では、いろいろな変化があり、興亡も栄枯も非常に目まぐるしかった。特に近世のいわゆる植民地獲得時代では、世界中がその荒浪の影響を受けた。その時代における徳川三百年の鎖国は、世界の中で、一つの特異な文化をこの国に作り上げた。
この特異な文化は、甚だしい封建性、我の自覚の徹底的な欠陥など、いろいろ未開民族に特有な属性をもっていた。しかしそれと同時に、近代文明の持ち得ない一つの人間性を育て上げた点も、見逃してはならない。「もしもし、西洋の旦那」が持っているユーモアと俳味とが、即ちそれなのである。巧いいい方はできないが、日本のこころがこういう言葉の中に、その片鱗を見せているような気がする。
現代の物質文明、というよりもこの物質文明を作り上げた西洋の意識が、まだ十分に輸入されなかった時代、即ち明治の初期をふり返ってみる。その時代にはあらゆる欠陥を持ちながらも、その蔭に一種の美しさをたたえた感情が、日本国民の中に、広く浸みわたっていた。モースは『日本その日その日』の中で、この時代の日本人の美点を美事に描き出している。
この本には、西南戦争頃の日本の姿が生き生きと描き出されている。交通整理などというものは、まだその概念もなかった頃の東京である。その東京の街路の雑沓、「大吉」だの、両替だの、薬玉だのの看板が、軒ごとに並んでいた下町の姿は、単に懐古的な意味でなつかしいというだけではない。三井の絹店の店頭では、女たちが反物をひろげ、店員は「極度ののろさと真面目さと鄭重さ」とで、それに接している。
こういう町の姿、人の物腰の中に、モースは、一種の美しさを認め、人間としての温かい感情を汲みとったようである。そして日本の国と国民とに深い愛情を抱いたのである。
敗戦後の日本人の大多数、少くも現代教育を受け、都市生活の片鱗を味わったことのある日本人の大多数は、アメリカの生活を理想の生活と思い込んでいる。アメリカ人の能率と勤労精神との所産であるアメリカの生産は、物質文明の点で、有史以来の繁栄を齎している。精神界においても、清教徒とクェーカーとの生んだアメリカの精神的骨格には、まことに驚嘆すべきものがある。
しかし世の中では、如何なる場合にも、万全ということは望まれない。アメリカの心ある人々の中には、この繁栄の下に、圧し潰されつつある人間性のために、憂慮の心を抱いている人もかなりあるようである。
現在の日本人が一番学ぶべきことは、アメリカの能率である。そしてあの能率は、主としてアメリカの物質文明の所産であるところの、交通及び通信施設の完備から来ているものである。しかしそれよりも、もっと重視すべきものは、アメリカ人の勤労精神である。八時間労働といっても、拘束九時間、実働八時間、午前と午後に十分ずつの休憩があるだけで、正味七時間四十分の労働時間中は、一分も休みなく働いている。流れ作業に従事している筋肉労働者の勤労ぶりは、組織の中にはめ込められているので、これはむしろ当然のこと、あるいは働かざるを得ないようになっていると見ることもできる。それよりも感心なのは、デスクの仕事をしているホワイト・カラーの人たちの仕事ぶりである。
こういう事務をとっている人たちは、次ぎから次ぎと書類が来るといっても、ベルトにものが載って流れて来るのとはちがう。ちょっと息を抜くことは、もちろん可能である。しかし執務時間中は、ほとんど煙草も喫まず、お茶など決してのまない。アメリカの夏は非常に暑いので、のどがひどく乾く。それで廊下には到るところに、冷やした水道水が出るようになっている。仕事中に時々ちょっと廊下へ出て、この水をのむことが黙許されている程度の働きぶりである。日本の官庁などでは、客がのべつ幕なしにあり、給仕がまたのべつ幕なしにお茶を運んで来る。隣りの席では、二、三人かたまって、煙草の煙をもうもうとさせながら、雑談をしていることがよくある。ああいう景色を見馴れているものの眼には、アメリカの官庁や会社の執務室に漲っている勤務意慾は、まことに異様な趣きを感じさせる。そしてアメリカ人に幸福を齎している、あの厖大な生産の基礎は、この能率生活にあることを痛感させられる。
物質を離れて生活は成り立たない。このアメリカの能率は、近代文明の所産であると同時に、その基礎でもある。それで世界中どこの国でも、近代の文明生活にはいろうとするには、何よりもまずこの能率生活をとり入れる必要がある。
しかしこういう能率生活は、人間を非常に疲労させる。筋肉的というよりも、毎日七時間四十分、一分の遅刻もなく、機械のように働くことは、精神的に非常な緊張を必要とし、それは人間の芯をつかれさせる仕事である。それでアメリカでは、近年は一週五日制をとっているところが大部分を占めている。官庁や大会社は既にこの五日制をとり、小さい会社なども漸次五日制になりつつある。
事実、月曜の朝の八時零分から、金曜の午後の五時零分まで、こういう仕事をしつづけたら、どんな人でもへとへとになってしまうのである。それで、土曜と日曜とは完全な休養をとる。またとらざるを得ないのである。もっとも一日は家庭内の細々した仕事もしなければならない。人を雇うとたいへんな金をとられるので、中流階級の人たちは、たいていの家の仕事は自分でやる。そして一日は自動車で朝早くから百哩もさきの自然林の中に出かけ、終日人工の全然加わっていない野性のままの自然の中でねころび、また汗を流して歩き廻り、ビールをのんで歌をうたう。夜は馬鹿騒ぎをして、ダンスをする。こういう休養、主として精神的の休養をして、そしてまた次ぎの日の朝の八時零分から仕事にとりかかるのである。
しかし一年間こういう生活をつづけると、だんだん眼に見えない精神的疲労が、身体の奥深いところにたまって来る。それを救うものは、夏休みである。どんな人でも、三週間くらい、少くも二週間は夏休みをとることができる。この時期が、気持の更生に大切な時期なのである。
夏休みになると、誰も彼もカーを駆って国立公園に走る。国立公園といっても、大きいものは、四国くらいの広さである。その地域は、なるべく人工を加えないで、原始の姿のままに保存されている。道路だけは立派に作ってあるが、一歩鋪装道路をはずれると、暗黒の密林、あるいは熱砂の沙漠、または奇巌の岩原である。道なき荒野や密林を、何哩と歩き廻り、草の上に寝たり、キャンプをしたりして、原始生活を楽しむ。そして煙にむせびながら炊事の火をあおぐ。それが最大の慰安なのである。
一週間か二週間、こういう原始生活をして、心身を新しくして、また職場に戻る。これで次ぎの一年間は、また朝の八時零分から始る仕事場で、機械のように働くエネルギーが湧き出して来るのである。
週末ごとに一週間の疲労を医やし、一年ごとに芯の疲れを救って、六十歳頃まで働く。その間に老後の生活費を貯蓄し、それを規則正しく使い果して死ぬ。見ようによっては、これが大多数のアメリカ人の一生である。
よく働き、よく遊び、大いに生産を上げて、国の富を増し、大衆の生活水準を向上させる。その御蔭で、何人に一台という自動車が行き渡り、食物も栄養価の高いものを、全国民が十分に摂ることができる。衣食住全般にわたって日本人の眼から見れば、何不自由ない恵まれた生活をしている。しかしこの極度に発達した近代文明は、次第に人間性を圧し潰しつつあるという見方もできる。草の上に寝たり、煙にむせながら、炊事をすることが、何よりの慰安であるというのが、この間の消息を物語っているといえないこともない。どんな階級の人にも、一年に二週間か三週間かの休暇がとれるというと、日本では無条件に羨しがる人が多い。しかしそういう休暇を貰わねば生命がつづかぬという生活をしているともいえるのである。
考えようによっては、敗戦後の日本人は、アメリカ人が一年に一回最上の慰安とする生活を、毎日やっているともいえよう。もっともこれは冗談であって、文明に逆行することが、人間の幸福であるのかと、正面切って問いつめられると、ちょっと困る。しかし、物にはすべて両面がある。それを忘れると、話がとかく極端に走るおそれがあるということは知っておく必要がある。
日本人には、どうも近代の西洋文明は、肌が合わないのではないかという気がする。そうかといって、世界文明に逆行することはできない話である。能率の向上、生産の拡充には、もちろんできるだけ努力する必要はある。しかしあまりその方だけに気をとられて、「もしもし、西洋の旦那」や「お国でもそういう字が流行りますか」という日本のこころを、むやみと振り棄てることも、ちょっと勿体ないような気がする。
底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「日本のこころ」文藝春秋新社
1953(昭和28)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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