I駅の一夜
中谷宇吉郎
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まだ戦争中の話である。
三月十日の未明、本所深川を焼いたあの帝都空襲の余波を受けて、盛岡の一部にも火災が起きた。丁度その時刻には、私は何も知らずに、連絡船の中でぐっすり寝ていた。
青森に着いても何事も知らされず、いつものように乗客は先を争って汽車に乗ろうとし、それを制止する駅員の声がとぎれとぎれに雑沓の中に響く、普段通りの連絡駅風景であった。雪が少しばかり降っていた。
やっと座席がとれてほっとした。やれやれこれでとにかく東京まで行けるのである。黙って坐ってさえいれば、いつかは東京に着けるということが、この頃は少し不思議なことのように感ぜられるくらいである。
ところがこの時は、折角のその安心感が僅か半日で打ち切られてしまった。盛岡へ着いてみたら、駅の周囲がすっかり焼けていて、まだ余燼が白く寒空に上ち昇っている風景に遭った。今朝の夜明けに初めての空襲があって、駅も少しばかりの被害を受けた。とにかく汽車は此処で打切るから、次の盛岡始発の列車に乗れという話である。
重い荷物を持ちあぐみながら、いわれた通りに三時間ばかり待って、次の列車に乗ろうとしたが、恐ろしい雑沓でとうとう乗りはぐれてしまった。もう二時間待って、その次の青森から来る上野行にやっと乗ることは乗ったが、それがまた満員で、漸くデッキの所に割り込ましてもらったくらいであった。初めのうちはどうにか我慢していたものの、夜に入ると共に風は冷くなるし、脚は疲れてくるし、このまま上野まで立ち通しではどうにも身体が持たないような気がして来た。
車掌に相談してみたら、I駅で下車して一泊すれば、明朝早く始発の上野行が出るから、それに乗ればすいているだろうとのことである。但し宿屋は今からではむつかしいかもしれないがという。しかしとうとう我慢し切れなくて、思い切ってI駅で下りてしまった。夜の九時過ぎのことで、しかも燈火管制のやかましい最中のこととて、何処も此処も真暗である。それに雪がまた少し強く降り出して来ている。
とりあえず闇の中を駅前の交番まで辿りついてきいてみたが「さあ、今頃になって宿は無理でしょうな」と巡査は極めて冷淡である。戦時研究の大事な要件で上京すること、途中の不測の災害でこういう始末になったことを説明しても、戦時研究員などというものには全然縁がないらしく、てんで相手にしてもらえない。やっとのことで二軒ばかり宿屋の名前を教えてもらって、真暗な町の中をたずねて行ってみたが、全部満員ですとあっさり断られてしまった。
仕方なく再び交番まで帰ってみると、巡査はひどく不機嫌である。「何度来たって駄目ですよ。此処に電話があるんで、ちょっと宿へ電話でもかけてくれたらと思うんでしょうが、これは警察電話で町へはかからない電話なんですよ」と頼まないことまで先手を打って断られてしまった。
かかわり合っても仕方がないと諦めて、再び街へ出てみた。雪は益々ひどくなり、真暗なこの田舎の街には人は一人も通っていない。もう十時を過ぎているかもしれない。望みはなさそうである。しかしそうかと言って、この雪の中では野宿も出来ないので、今一度宿屋らしい家はないかと盲滅法に当ってみることにした。
駅前の大通りを少し下って行ってみると、さっき断られた大きい宿屋の向いに、平屋の広い背の低い家があった。その恰好が夜目にも何となく昔の宿の宿屋を思わせるものだったので、思い切って前の硝子戸をあけてみた。戸には鍵がかかっていなくて簡単にあいて、中に広い土間がある。家の中は真暗であるが、真中に長い廊下があって、その一隅に燈火管制をした電燈がついている。其処の障子の蔭が帳場らしい様子である。果して宿屋らしい。
簡単に事情を言って、食事は要らないから一晩だけ泊めてもらえないかと頼んでみた。すると真暗な中から女中らしい女が出て来て、気の毒だが、もうすっかり満員で、蒲団がないから泊められないと言う。これだけでもひっかかりが出来れば脈がある。防寒具は持っているから、とにかくこの雪では外で寝るわけには行かないからと頼んでみた。
すると「はなや、一体蒲団は一枚もないのかね」と帳場の障子の蔭から、綺麗な言葉使いで若い女の声がした。「夏蒲団が二枚残ってるだけでさあ」と女中は帳場の方と私と両方にかけたような返事である。「それだけあれば結構です、毛皮を用意して来ていますから」と私の方も一所懸命である。
「お気の毒ですから、泊めておあげなさい。誠にすみませんが、其処で御所と御名前を言って下さいませんか」と若い女の声は依然薄暗がりの障子の中からの応対である。此処で断られては大変なので、官職を書いた名刺を出して、こういうもので決して怪しい者ではないからと、女中さんに取次ぎを頼んだ。
ところが名刺を持った女中が、障子の蔭へはいって行って、なかなか出て来ない。何か薄暗がりの中でごとごとと音がしている。大分待ってからやっと出て来たのは、さっきの女中さんではなく、声の主らしい。玄関は真暗なので、身体付きも分らないが「どうも失礼致しました。この頃ちょっと物騒なものでとんだ失礼を致しました。どうぞお上り下さいませ」という丁重な言葉付である。
「靴はお持ち致しますから。さあどうぞこちらの方へ、御二階の方で御座いますが」とその美しい声の主は、真暗な梯子段を先に立って案内してくれる。足許を探り探り上って行く私を、中段で待ち受けながら、その声の主は「こんな時に、こんな所に先生が御出でになろうとは夢にも思いませんでした。私は先生の随分熱心な愛読者なんで御座います」と言う。
「実はお部屋がもう御座いませんので、相宿を御願いしようと思ったので御座いますが、それも余り失礼なので。あの誠に失礼で御座いますが、私の部屋でおやすみになって戴くよりないので御座いますが」という話である。梯子段を上ったすぐ右がその部屋である。
前後一時間ばかり真暗な中をさまよった末に、初めて明るい部屋に通された。四畳半の部屋である。美しい声の主は紺絣のもんぺをはき、同じ紺絣のちゃんちゃんを着ていた。そして丁寧に御辞儀をされた。三十近い智的な美しい人である。
先方も驚いたと言われるが、私も一層驚いた。誠に思いがけない時に、思いがけない所で、思いがけない人に会うものである。その人よりも更に驚いたのはその部屋である。四畳半の二つの壁がすっかり本棚になっていて、それに一杯本がつまっている。岩波文庫が一棚ぎっしり並んでいて、その下に「国史大系」だの、『古事記伝』だの、「続群書類従」だのという本がすっかり揃っているのである。そして今一方の本棚には、アンドレ・モロアの『英国史』とエブリマンらしい英書が並んでいる。畳の上にもうず高く本が積まれていて、やっと蒲団を敷くくらいの畳があいているだけである。私はたった今の今まで、東北線の寒駅の暗い街をさまよい歩いていたことをすっかり忘れてしまっていた。
火鉢とお茶を持って上って来た夫人に、私は不躾ながら、色々な質問をせざるを得ない気持であった。きいてみると、目白の女子大の出身で、専攻は英文学であったそうである。卒業後ビクターの宣伝部とかに暫く勤めていたが、郷里に帰って女学校に奉職し、今の夫君のところに来られたのだそうである。夫君は国文学専攻で、この土地の中学校に奉職されているということであった。
「主人の両親が旧くからこの宿をやっておりまして、私たちこういう商売には不向きなもので御座いますから、父親が亡くなりましてから商売を止めようとしたので御座いますが、何分このIという土地は宿屋の少いところで御座いまして、それにこの頃附近の田舎から徴用された方たちが、此処で集って東京の方へ参りますので、毎日のようにその方たちを沢山割り当てられるので御座います。それで警察の方でどうしても廃業させてくれないんで御座います」
「もっとも徴用の方たちだって、宿屋がなくてお困りなんでしょうから、私たちこういう不馴れな商売を致しましても、これでやはり幾分かはお国の役に立っているのかと思いまして、一所懸命やることに決心致しました。まあ私たちなど手近なところで出来るだけお役に立つようにするより仕方御座いませんもの」
「それでも一番困りますのは、本を読む時間がないことで御座います。この頃女中といってもなかなか御座いませんし、それに小さいのもおりますし、もう一日中追われ通しで御座います。何の御かまいも出来ませんので」
私は何だか日本の国力というものが、こういう人の知らない土地で、人に知られない姿で、幽かに培養されているのではないかという気がして来て、静かに夫人の話に聞き入っていた。ふと目をやると、机の上に岩波文庫の『島津斉彬言行録』が載っている。
「それはそうと、これだけの本をお集めになるのは大変でしたでしょうね。昔の本は別として、その『島津斉彬言行録』なんか、最近出たものでしょう。どうしてそんな本が此処らの土地で手に入るんですか」
「実は、すぐ近くのK町に変った本屋がおりまして。私実家がKなもので、前からよく知っているので御座いますが、その人がこの附近で本を欲しがってる人から、毎月新刊の註文をとりまして、東京まで買い出しに行ってくれるんで御座います。毎月一回上京して自分で背負って来てくれますので、どうにか手に入るので御座います」
「随分御喋りを致しました。明日は一番でお立ちで御座いますね。私は毎晩大抵十二時になりますので、朝一番で御座いますと、御目にかかれないかと思います。御疲れで御座いましょう。何卒ゆっくりお寝みになって下さい。今女中にお床をのべさせますから、本当にこんな所で先生に御目にかかれようとは思いませんでした。主人も御目にかかりたがっておりますが、生憎風邪をひいて休んでおりますもので」と言い残して夫人は下りて行った。入れ代りに上って来たさっきの女中さんが、明日の朝御飯の代りにと奥様がいわれましたからと言って、紙包をくれた。あけてみたら真白な餅が五切れはいっていた。
翌朝四時半に起き出した私は、皆の眼を覚まさないように、静かに玄関へ下りて、真暗な中で靴をはいて、そっと外へ出た。雪はもうやんでいて、星が二つ三つ見えていた。
汽車はすいていて、二等車の中には三人しか客がいなかった。私は昨夜の出来事がひょっとしたら、夢ではなかったかと思いみながら、だんだん白んで行く東の空を眺めていた。
この話は戦争が第三年に入って、我が国が最後の苦しい段階に乗りかかった頃の話である。その時でも勿論この話は或る意味を持っていたと思われるが、今終戦後国民の多数が浅間しい争いと救われない虚脱状態とに陥っている際に、なるべく多くの人に知ってもらうことも、また別の意味で意義があるような気がする。日本の力は軍閥や官僚が培ったものではない。だから私は今のような国の姿を眼の前に見せられても、望みは棄てない。
底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「春艸雑記」生活社
1947(昭和22)年
初出:「世界」
1946(昭和21)年2月1日
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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