サラダの謎
中谷宇吉郎



 私はごく普通のフランス風のサラダが好きである。レタスとトマトを、酢とオリーブ油でドレスしただけの簡単なサラダのことである。洋食は、一般にいってあまり好かないが、このサラダだけは例外で、食卓に出ていると、つい先に手が出る。

 ものの好き嫌いなどというものは、たいてい子供の頃か、せいぜい二十代までの生活環境できまるものらしい。私がこのサラダを好きになったのは、若い頃、もう三十年も昔のことであるが、ロンドンに留学していた頃に、下宿で毎晩非常にうまいサラダを食わされたのが、今日まで後をひいているようである。

 大学を出て、三年間理研りけんで、寺田寅彦先生の助手をつとめていたが、北海道大学に理学部が出来ることになって、急に文部省の留学生として、ロンドンへ留学することになった。

 ロンドン人は、人づき合いが悪く、世界で一番英語の通じないところは、ロンドンだといわれている。そこへまだ三十前の、しかも日本でも田舎育ちの若い者が、突如として放り出されたのであるから、ずいぶん心細い思いをした。しかし幸いなことに、非常に運がよくて、思いがけなくよい下宿にめぐり合い、それですっかり落ちつくことができた。

 家はロンドン郊外の住宅地にあって、主人はオーチス・エレベーター会社の技師長であった。そんな家は一般にいって、東洋人などは家に入れてくれないのであるが、そこの夫人がフランス人であった。そして日本に好意をもっていたようで、親身になって世話をしてくれた。

 その夫人が、料理自慢の人であって、毎晩たいへんな御馳走ごちそうをつくってくれた。英国のことであるから、先祖代々伝わったオークの立派な食卓で、毎晩家族一同が、きちんと着物を着かえて、晩餐ばんさんの卓につく。今から考えてみれば、英国人へ嫁したフランス婦人の気持が、そのかげにあったのかもしれないが、当時はそんなことがわかるはずもなく、毎晩たいへんな御馳走でびっくりしていた。

 そのなかでも、とくに印象に残ったのが、サラダである。レタスとトマト、あるいはレタスとセロリのサラダであって、そのレタスが非常にうまかった。記憶が確かでないが、一年中新鮮なレタスがあったような気がする。現在のように「輸送農業」が発達したアメリカならば、別に不思議な話でもないが、当時のロンドンで、年中新鮮なレタスがあったのは、ちょっと不思議な気もする。

 それはあるいは記憶ちがいだったかもしれないが、とにかくこのサラダが非常にうまかったことは、事実である。キングス・カレッジの地下室で、一日中しんにこたえる高真空の実験に気を張りつめ、くたくたになって帰って来る。そういうときには、肉類よりも、まずこのサラダに手が出るのであった。

 それと今一つは、当時の日本の経済状態も、一つの要因をなしていた。清浄野菜などは夢にも考えられなかった時代のことである。寄生虫の心配なしに、生の野菜がばりばり食べられるということで、何だか別の世界へ来たような気がしていた。

 実験の都合で、まれには午後早く帰ることもあった。そういうときに、る日のこと、台所へちょっと顔を出したことがある。そしたらその夫人が、晩餐のサラダをせっせとつくっていた。レタスは手でちぎらなければならないような料理学の初歩を、そのとき初めて知った。

 それよりも不思議だったのは、レタスを木鉢に一杯入れたあと、何か石鹸せっけんのかけらみたようなものを、パンの切れはしにこすりつけて、それをサラダの中に入れたことであった。そういえば、毎晩の食卓で、サラダ鉢の中に、パンの切れはしがはいっていたが、これは皿にはつけないものであった。何かあのおまじないが、サラダをおいしくするこつのように思われて仕方がなかった。しかし男が料理のことなどきくものではないと思っていたので、別にたずねてもみなかった。

 その後、日本へ帰って、北海道で家をもってみたら、毎日の食事が問題になってきた。北海道では料理の材料が、われわれ子供の頃から育ってきた環境のものとは、だいぶちがっていたからである。それで思い出したのが、ロンドンで毎日食べていた、フランス風のサラダである。

 北海道の気候は、ああいう西洋風の野菜の栽培には適しているはずである。しかし市場にあるものでは、下肥しもごえを使ったかもしれないという心配が大いにある。それで庭の一部に小さい畑をつくって、そこで妻がレタスをつくることになった。レタスなどつくってみれば、何でもないもので、デパートから買ってきた種をき、油かすを入れておけば、結構立派なレタスが出来た。当時の札幌は案外ハイカラな街であったらしく、ヴィネガーもオリーブ油も、簡単に手にはいった。

 それで待望のサラダがつくられたわけであるが、食べてみると、どうも昔の味がしない。材料は全部同じもので、別に煮たきするわけでもないのに、味がまるで違っている。ヴィネガーと油と塩と辛子とを、いろいろ分量をかえてみても、やはり駄目である。結局これはあの石鹸のかけらをパン切れにこすりつけるおまじないに、何か特別の意味があるらしいということになった。

 それで妻は、同僚の夫人たちのうちで、外国生活をした経験のある人たちに、折があるごとに、この「石鹸の謎」を聞いてみたらしいが、その謎はついに解かれなかった。その間三十年かかったわけである。

 ところで今年になって、この三十年越しの「サラダの謎」が、いとも簡単に解けてしまった。それは二女が欧州から帰って来て、「パパの石鹸の謎がわかったわ、あれはにんにくだったのよ」と、一遍に片付けてくれたからである。

 この娘は、絵の勉強と称して、パリとマドリッドとに、二年間行っていたが、この夏アメリカへ帰って来て、グリーンランド帰りの親爺おやじの世話を、目下しているわけである。パリで友だちの家の娘さんが、サラダをつくるときに、にんにくをパンの固い切れはしでこすって、それを入れているのを見て、昔のパパの話を思い出したというのである。なるほどにんにくならば、安石鹸のかけらと同じような灰白色をしている。それから西洋には、わさびおろしのような便利な機械がないので、からびたパン切れを、わさびおろしの代りに使っているわけである。

 これで三十年越しの謎が解けたので、ヨーロッパへ二年間やっておいただけの値打ちはあった、といったら、娘は大いに不服のようであった。しかし気はやさしいらしく、その後、思いなおして、毎日このサラダをつくってくれている。

 レタスの水切りをして、手で適当にちぎって、それを冷蔵庫の中に入れておく。夕食直前にそれを冷蔵庫から出して、おまじないをして、食卓に出してくれる。冷蔵庫の中で冷やされたレタスは、パリパリと歯切れがよい。物質文明の進歩も、まんざらてたものではないと、親爺は満足している。

(昭和三十五年一月五日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店

   1988(昭和63)年916日第1刷発行

   2011(平成23)年16日第26刷発行

底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集3」朝日新聞社

   1966(昭和41)年

初出:「あまカラ」

   1960(昭和35)年15

※表題は底本では、「サラダのなぞ」となっています。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2012年1214日作成

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