はつ恋
ツルゲーネフ
神西清訳
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P・V・アンネンコフに捧げる
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客はもうとうに散ってしまった。時計が零時半を打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。
主人は呼鈴を鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。
「じゃ、そう決りましたね」と主人は、一層ふかぶかと肘掛椅子に身を沈めて、葉巻に火をつけながら言った。──「めいめい、自分の初恋の話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ」
セルゲイ・ニコラーエヴィチというのは、まるまると肥った男で、ぽってりした金髪・色白の顔をしていたが、まず主人の顔をちらと眺めると、眼を天井の方へ上げた。
「僕には初恋というものがありませんでしたよ」と、彼はやがての果てに言った。──「いきなり第二の恋から始めたんです」
「それはまた、どうしてね?」
「しごく簡単ですよ。僕は十八の年に初めて、あるとても可愛らしいお嬢さんのあとを追い回しました。ところが、その追いまわし方というのが、こんなこと僕にはさっぱり新しくも珍しくもない、といった風だったのですよ。ちょうど、あとになっていろんな女を口説いた時と、まるっきり同じだったわけです。実を言うと、僕が最初にして最後の恋をしたのは、六つの頃で、相手は自分の乳母でしたが、──なにぶんこれは大昔のことです。二人の間にあったことの細かしい点は、僕の記憶から消えうせていますし、またよしんば覚えているにしたところで、そんなことを、誰が面白がるでしょう?」
「すると、どうしたもんですかな?」と、主人が言い出した。──「わたしの初恋にしたところで、大して面白いことはないのですからね。わたしは、現在の妻、アンナ・イヴァーノヴナと知合いになるまで、誰ひとり恋した覚えはないんですし──しかも我々のことは、万事すらすらと運んだのです。それぞれ父親から縁談をもち出されると、我々は見る見るお互いどうし好きになって、一足とびに結婚してしまったというわけ。わたしの話は、ほんの二言で済んでしまいますよ。いや皆さん、白状しますとね、わたしが初恋の問題をもち出したのは──むしろあなた方に期待していたのですよ、お二人とも、老人とは言えないけれど、さりとてお若いとも言えない独身者ですからな。どうです、あなたは何か面白い話をして下さるでしょうな、ヴラジーミル・ペトローヴィチ?」
「わたしの初恋は、全くのところ、あまり世間なみの部類には入らないものなんですが」と、やや言いよどみながらヴラジーミル・ペトローヴィチは答えた。これは四十がらみの、黒髪に白を交えた男である。
「やあ!」と、主人もセルゲイ・ニコラーエヴィチも異口同音に。──「なおさら結構……話して下さい」
「お安い御用です……が、困りましたな。話すのはやめにしましょう。わたしは話が不得手なほうですから、無味乾燥なあっけない話になるか、それともだらしない調子はずれな話になるか、そのどっちかです。もし宜しかったら、思い浮ぶだけのことをすっかり手帳に書いて、読んでお聞かせしようじゃありませんか」
友人たちは初め承知しなかったが、結局ヴラジーミル・ペトローヴィチは自説を押し通した。二週間ののち、彼らが再び寄り合った時、ウラジーミル・ペトローヴィチは、その約束を果した。
彼の手帳には、次のようなことが書いてあった。──
その頃わたしは十六歳だった。一八三三年の夏のことである。
わたしはモスクワの、両親のもとに住んでいた。彼らの借り入れた別荘が、カルーガ関門のほとり、ネスクーチヌィ公園の前にあったのである。──わたしは大学の入学準備をしていたが、勉強といってもろくにせず、ゆっくり構えていた。
誰一人わたしの自由を束縛するものはなかった。わたしはしたい放題に振舞っていたが、とりわけ最後の家庭教師と別れてからはなおさらだった。その教師はフランス人で、自分がまるで「爆弾みたいに」(コム・ユヌ・ボンブ)ロシアへ落下したという考えに、いても立ってもいられず、物凄い表情を顔に浮べながら、幾日も幾日もぶっとおしに、ベッドの中でごろごろしていたものである。父のわたしに対する態度は、いわば冷淡な優しさにすぎなかったし、母は母で、わたしのほかに子供がないにもかかわらず、ほとんどわたしを構ってくれなかった。ほかの心配事で母は手いっぱいだったのである。わたしの父はまだ若くて、すこぶる美男子だったが、財産を目当てに母と結婚した。母の方が十年も年うえだった。わたしの母親は、気の毒な生活をしていた。しょっちゅう興奮したり、焼餅をやいたり、ぷりぷりしたりしていたのだが──ただし父の面前でやったわけではない。母はひどく父をこわがっていたし、父は父で、きびしい、冷たい、よそよそしい態度を崩さなかった。……わたしは、あれほど乙に気どり澄ました、うぬぼれの強い、独りよがりの男を、いまだかつて見たことがない。
その別荘で過した最初の二、三週間のことを、わたしは決して忘れないだろう。すばらしい天気が続いていた。我々が市内から引っ越したのは五月九日で、ちょうど聖ニコライの日であった。わたしの散歩は──ときには別荘の庭、ときにはネスクーチヌィ公園、またあるときは関門の外まで足を伸ばすといった風で、いつも何か本を一冊──たとえばカイダノーフの万国史通など──を持って出るのだったが、それをめくってみることはめったになく、とてもたくさん空で覚えていた詩を、高らかに朗読する方が多かった。血潮は体内でたぎりたち、胸はうずき──いや思い出しても、むずむずするほど甘たるく、滑稽なほどだ。わたしは絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかにびくびくし、見るもの聞くものに心を躍らし、全身これ待機の姿勢にあった。空想が生き生きと目ざめて、いつもいつも同じ幻のまわりを素早く駆けめぐる有様は、朝焼けの空に燕の群れが、鐘楼をめぐって飛ぶ姿に似ていた。わたしは物思いに沈んだり、ふさぎ込んだり、ときには涙さえ流した。しかし、こうして響き高い詩句や、あるいは夕暮れの美しい眺めによって、あるいは涙が、あるいは哀愁がそそられるにしても、その涙や哀愁のすきから、さながら春の小草のように、若々しい湧きあがる生の悦ばしい感情が、にじみ出すのであった。
わたしには一頭の乗馬があった。わたしはそれに自分で鞍をおいて、ただ一人どこか遠乗りに出かけたものだった。馬をギャロップで走らせて、さも自分をトーナメントに出場した中世の騎士のように想像したり──ああ、わたしの耳に吹きつける風のなんと朗らかだったことよ! ──あるいは顔を大空へ振向けて、その輝かしい光明と紺碧の色を、あけひろげた魂の底まで深く吸い込んだりした。
いま思い返してみると、女の姿とか、女の愛の面影とかいうものは、ほとんど一度も、はっきりとした形をとって心に浮んだことはなかった。しかも、わたしの考えることのすべて、わたしの感じることのすべてには、何かしら新しいもの、言うに言われぬ甘美なもの、いわば女性的なもの……に対する、半ば無意識な、はじらいがちの予感が、潜んでいたのだった。
この予感、この期待は、わたしの骨の髄までしみわたって、わたしはそれを呼吸し、またそれは血の一滴々々に宿って、わたしの血管を走りめぐるのだったが……実は間もなく実現される運命にあったのである。
我々の別荘は、円柱の並んだ木造の地主屋敷と、さらに二棟の平べったい傍屋から成っていた。左手の傍屋は、安ものの壁紙を作る小っぽけな工場になっている。……わたしは二、三遍そこをのぞきに行ったが、油じみた上っ張りを着て、頬のこけた顔をした、もじゃもじゃ髪の痩せた男の子が十人ほど、四角な印刷台木を締めつける木の梃子へ、しょっちゅうとびついて、そんな風に自分たちの虚弱い体の重みでもって、壁紙のまだらな色模様を捺し出しているのだった。右がわの傍屋は空いていて、貸家になっていた。ある日──五月九日から三週間ほどたった日のこと──この傍屋の窓におりていた鎧戸があいて、女の顔がちらほらしたのは──どこかの家族が越して来たものと見えた。忘れもしない、その日の夕食のとき、母は侍僕頭に向って、隣へ引っ越して来たのは誰かと尋ねたが、公爵夫人ザセーキナという苗字を耳にすると、まんざら敬意のないでもない調子で、まず「まあ! 公爵夫人……」と言ったが、やがてこう付け足した、──「きっとどこかの貧乏貴族だろうよ」
「三台の辻馬車で越していらっしゃいました」と、うやうやしく皿を差出しながら、侍僕頭がしたり顔に、──「自家用の車はお持ちでありませんし、家具もごくお粗末で」
「そう」と、母は答えた。──「でもまあ、ましですよ」
父が冷やかな一瞥を母にくれたので、母は黙ってしまった。
全くザセーキナ公爵夫人は、裕福な婦人でありようはずがなかった。彼女の借りた傍屋は、いかにも古びて手狭で、おまけに天井の低い家なので、いくらか小金を持った連中なら、とても住む気にはならないからである。──とはいえ、わたしはその時、そんなことは気にもとめずに聞き流した。公爵などという肩書は、ほとんどなんの作用もわたしに及ぼさなかった。わたしは少し前に、シルレルの『群盗』を読んだところだったのである。
わたしは毎日、夕方になると、鉄砲を持ってうちの庭をぶらついて、鴉の番人をするのが習慣だった。──この油断のない、貪欲で悪賢い鳥に対して、わたしはずっと前から憎悪をいだいていたのである。さて今しがた話に出た日も、わたしはやはり庭へ出て行って──並木道という並木道をむなしく歩き回ったあげく(鴉はわたしをちゃんと知っていて、ただ遠くの方できれぎれに鳴くばかりだった)、ふと低い垣根に近づいた。それは、右手の傍屋の向うへ延びて、その家に属している細い帯のような庭と、うちの領分との境を成しているのだった。わたしは、うなだれて歩いていた。すると不意に、がやがやと人声がした。わたしはひょいと垣根ごしに眺めて──化石したようになってしまった。……奇妙な光景がわたしの眼に映ったのである。
わたしからほんの五、六歩離れた所──青々したエゾ苺の茂みに囲まれた空地に、すらりと背の高い少女が、縞の入ったバラ色の服を着て、白いプラトークを頭にかぶって立っていた。そのまわりには四人の青年がぎっしり寄り合って、そして少女は順ぐりに青年たちのおでこを、小さな灰色の花の束で叩いているのだった。その花の名をわたしは知らないけれど子供たちには馴染の深い花である。それは小さな袋の形をした花で、それで何か堅いものを叩くと、ぽんぽんはじけ返るのであった。青年たちはさも嬉しそうに、てんでにおでこを差出す。一方少女の身振りには(わたしは横合いから見ていたのだが)、実になんとも言えず魅惑的な、高飛車な、愛撫するような、あざ笑うような、しかも可愛らしい様子があったので、わたしは驚きと嬉しさのあまり、あやうく声を立てんばかりになって、自分もあの天女のような指で、おでこをはじいてもらえさえしたら、その場で世界じゅうのものを投げ出してもかまわないと、そんな気がした。鉄砲は草の上へすべり落ち、わたしは何もかも忘れて、そのすらりとした体つきや、ほっそりした頸の根や、奇麗な両手や、白いプラトークの下からのぞいているやや乱れた淡色の金髪や、その半ば眠った利口そうな眼もとや、その睫毛や、その下にある艶やかな頬などを、むさぼるように見つめていた。……
「君、おい君ったら」と、不意にわたしのそばで、誰かの声がした。──「よそのお嬢さんを、そんな風に見つめてもいいものかい?」
わたしは、ぎょっと顫えあがって、茫然としてしまった。……すぐそばの、垣根の向うに、黒い髪を短く刈りこんだ見知らぬ男が立っていて、皮肉な眼つきでわたしをじろじろ見ていた。ちょうどその瞬間、少女もわたしを振向いた。……わたしが、くりくりとよく動く活気づいたその顔に、大きな灰色の眼を見てとったのも束の間──その顔全体が、いきなりぶるぶる顫えて、笑い出して、白い歯なみがきらめいて、眉毛がさも面白そうに釣りあがった。……わたしはさっと赤面すると、地べたの鉄砲を引っつかんで、よく徹る、しかし意地の悪くない高笑いに追われながら、一目散に自分の部屋へ逃げ込んで、ベッドにころがり込むと、両手で顔を隠した。心臓は今にも割れそうに踊っていた。わたしはひどく恥ずかしく、またひどく愉快だった。わたしはまだ身に覚えのないほどの興奮を感じた。
ひと休みすると、わたしは髪を撫でつけ、服を払って、お茶を飲みに下りて行った。うら若い娘の面影は、眼の前にちらついて、動悸はもう落着いていたけれど、胸が何か快く締めつけられる思いだった。
「どうかしたのか?」と、不意に父が訊いた。──「鴉を仕留めたのかい?」
わたしはすっかり父に話してしまおうかと思ったけれど、じっとこらえて、にやりと独り笑いをしただけだった。寝支度をしながらわたしは、どういうつもりだか知らないが、三遍ほど片足でくるくる回って、髪にポマードを塗りたくって横になるなり、まるで死人のように、ぐっすり朝まで眠った。夜明け方にちょっと目をさまして、頭をもたげ、感きわまってあたりをぐるぐる見回したが──それなりまた寝入ってしまった。
『なんとかして、あの人たちと知合いになりたいものだが?』というのが、あくる朝わたしが目をさますが早いか、まず頭に浮んだ考えだった。わたしはお茶の前に庭へ出てみたが、例の垣根へはあまり近寄らず、誰の姿も見かけなかった。お茶が済むと、わたしは二、三遍、別荘の前の通りを行ったり来たりして──遠目に窓をのぞいてみた。……カーテンの陰に、あの人の顔が見えたような気がしたので、わたしはあわてて、さっさと前を行き過ぎた。『だが、どうしても知合いにならなくちゃ』と、わたしは、ネスクーチヌィ公園の前に拡がっている砂原を、めちゃめちゃに歩き回りながら考えた。『しかし、どうしたらいいかな? そこが問題だ』わたしは、昨日ひょいと出会った時のことを、ごく細かな点まで一々思い浮べてみた。どうしたわけだか、とりわけはっきり思い浮ぶのは、彼女がわたしに浴びせたあの笑い声だった。……とはいえ、わたしがしきりに気をもんで、いろんな計画を立てているうちに、運命はちゃんとお膳立てをしてくれたのである。
わたしのいない間に、母は新しい隣人から、灰色の紙にしたためた手紙を受取っていた。しかもそれを封じた黒茶色の封蝋ときたら、郵便局の通知状か安葡萄酒の栓にしか使わないような代物だった。その手紙は、いかにも無学らしい文章に加えるに汚ならしい筆跡をもって書いてあって、要するに公爵夫人がわたしの母に庇護してもらいたい旨を願い出たものだった。つまり、公爵夫人の言葉によると、わたしの母は二、三の重要な人物と相識の間柄であるが、今や夫人はすこぶる重大な訴訟を起していて、彼女自身の運命もまたその子女の運命も、かかってそれら人物の手中にあるというのである。『率事ながらわたしこと』と、書いてあった、──『叔女として同じ叔女たるあなた様にお手紙まいらせ候。この期会にめぐまされ候こと、まことに嬉ばしき限りにて』しかじかといった調子で、終りに彼女は母にむかって、訪問をお許し願いたいと申出ていた。わたしが外から帰ってみると、母は御機嫌斜めのていだった。父が不在なので、誰と相談しようにも相手がなかったのだ。いやしくも『叔女』であり、おまけに公爵夫人ともあろう人に、返事をしないわけにはゆかず、ではどう返事をするかという段になると──母は途方に暮れざるを得なかった。返事をフランス語で書くのは、場はずれのような気がするし、さりとてロシア語の綴りにかけては母は不得手だったし──自分でもそれを知っていたので、みすみす恥をさらしたくなかったのである。
母はわたしが帰って来たのを喜んで、顔を見るなり、これから公爵夫人のところへ行って、口頭をもって、わたしの母は力の及ぶ限りいつ何時でも奥様のお役に立ちたいと存じている旨を述べ、十二時過ぎに御光来をお待ちすると伝えるように言いつけた。自分のひそかな念願が、思いもかけず早速かなうことになったので、わたしは嬉しくもあれば空恐ろしくもあった。とはいえわたしは、自分をとらえている当惑を表にあらわさず──まず自分の部屋へ引取って、新しいネクタイと小さなフロックコートを着けることにした。家にいる時は、まだわたしは短い上着を着て、折り襟のカラーをしていたのだが、実はそれが厭でならなかったのである。
傍屋の、狭くるしい薄ぎたない控え室へ、わたしが押えても止らぬ武者ぶるいに総身を震わせながら入って行くと、そこでわたしを迎えたのは、白髪あたまの老僕だった。銅色のすすけた顔に、豚のような無愛想な小さい眼をしておまけに額からこめかみへかけて畳まれている皺の深いことといったら、わたしが生れてこの方見たこともないほどだった。彼は食い荒された鰊の背骨を一つ皿に載せていたが、奥の間へ通ずるドアを後ろ足で閉めながら、突拍子もない声でいきなり、
「なんの御用で?」と言った。
「ザセーキナ公爵夫人はおいででしょうか?」と、わたしはきいた。
「ヴォニファーチイ!」と、ドアの向うから、がらがらした女の声が呼んだ。
老僕が無言でわたしに背を向けた途端に、お仕着せのひどくすり切れた背中が丸見えになって、そこに赤さびの出た定紋入りのボタンが、ぽつんと一つ残っているのが目についたが、彼はそのまま皿を床へ置くと、奥へ引っ込んでしまった。
「警察へ行って来たかい?」と、同じ女の声がまたした。老僕が何やらぼそぼそ言うと、──「ええ?……誰か来たって?」と、訊き返して、「となりの坊ちゃんかい? じゃ、お通しおし」
「どうぞ客間へお通りなすって」と、老僕はまたわたしの前に現われて、皿を床から持ち上げながら言った。わたしは身仕舞を正して、『客間』なるものへ入って行った。
いざ入ってみるとそこは、あまり小奇麗とも言えぬ手狭な一間で、貧乏くさい家具の並べ方も、まるで急場しのぎにやってのけたといった様子だった。窓ぎわの、片肘の折れた肘掛椅子に坐っているのは、年の頃五十ほどの、髪をむき出しにした器量のわるい婦人で、着古した緑色の服を着て、まだら色の毛糸の襟巻を首に巻いていた。彼女の小さな黒い眼は、いきなり吸い着くように私の顔にそそがれた。
わたしはそばへ歩み寄って、一礼した。
「失礼ですが、ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?」
「ええ、わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたはVさんの御子息でいらっしゃるの?」
「そのとおりです。わたしは母の使いで参りました」
「さあ、お掛けなさいな。ヴォニファーチイ! わたしの鍵はどこ、お前見なかったかい?」
わたしはザセーキナ夫人に、その手紙に対する母の返事を伝えた。彼女はそれを聞きながら、太い赤い指で窓がまちを軽く叩いていたが、わたしが口上を終ると、もう一遍わたしをじっと見つめた。
「大層結構です、ぜひ伺いましょう」と、やがて彼女は言った。──「でも、あなたはまだほんとにお若いのね! お幾つですの、失礼ですけれど?」
「十六です」とわたしは、思わず口ごもりながら答えた。
公爵夫人はポケットを探って、何やらいっぱい書き込んだ油じみた着付を取出すと、つい鼻先まで持っていって、その検分にかかった。
「結構な年頃だこと」と、彼女は、椅子の上で身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしながら、不意に言い出した。──「どうぞあなた、お気楽になさいましな。宅では万事無造作ですから」
『どうも無造作すぎるな』とわたしは、思わず湧き上がる嫌悪の情をもって彼女のぶざまな様子をじろじろ眺めながら、心の中で考えた。
と、その瞬間、客間のもう一つのドアがいきなりぱっと開いて、敷居の上に姿を現わしたのは、昨日庭で見かけたあの娘だった。彼女は片手を上げたが、その顔にはちらりと薄笑いが浮んだ。
「これがうちの娘です」と、公爵夫人は、肘で娘をさして言った。──「ジーノチカ、お隣のVさんの御子息だよ。お名前はなんておっしゃるの、失礼ですが?」
「ヴラジーミルです」と、わたしは立ち上がって、興奮のあまり舌をもつらせながら答えた。
「で御父称は?」
「ペトローヴィチです」
「まあ! わたしの知合いに警察署長をしている方がありましたが、その人もやっぱりヴラジーミル・ペトローヴィチでしたっけ。ヴォニファーチイ! 鍵は捜さなくってもいいよ。ちゃんとわたしのポケットにあったから」
少女は心もち眼を細めて、首をやや傾げたまま、相変らずにやにやしながら、わたしを見つめていた。
「あたしもう、ムッシュー・ヴォルデマールにはお目にかかったわ」と、彼女は口をきった。(その銀の鈴を振るような声の響きは、何かこう甘美な冷たい感じをなして、わたしの背筋を走った)──「ねえ、あなたをそう呼んでもいいでしょう?」
「ええ、そりゃもう」と、わたしは、ますます舌をもつらせた。
「そりゃ、どこでなの?」と、公爵夫人が訊いた。
公爵令嬢は、母の問いには答えずに、
「あなた今、お忙しくって?」と、彼女は、わたしから眼を放さずに言った。
「いいえ、ちっとも」
「じゃ、毛糸をほどくお手伝いをして下さらないこと? こっちへいらっしゃいな、あたしの部屋へ」
彼女はわたしに、こっくりうなずいて見せると、さっさと客間を出て行った。わたしはあとに従った。
我々の入った部屋は、家具も幾分はましで、その並べ方も、前の部屋より趣味があった。もっともその瞬間、わたしはほとんど何ひとつ目に留める余裕がなかった。わたしは、まるで夢の中にでもいるように身を運びながら、何やら馬鹿々々しいほど緊張した幸福感を、骨の髄まで感じるのだった。
公爵令嬢は腰を下ろして、紅い毛糸の束を箱から出すと、向いの椅子をわたしにさしてみせて、一生けんめい結び目を解きほぐしてから、それをわたしの両手に掛けた。そこまでする間じゅう、彼女はいっさい無言のまま、何かさも面白くてたまらないといった風の緩慢な身振りで、相変らずの明るい狡そうな薄笑いを、やや少しひらいた唇に浮べていた。彼女は毛糸を、折り曲げたカルタ札に巻きはじめたが、そのうち不意に、ぱっと素早く私の顔を、なんとも言えない晴れやかな眼差しで射たので、わたしは思わず顔を伏せてしまった。彼女の眼は、たいていは軽く細目になっているのだったが、それが時たまいっぱいに見開かれると──顔つきがすっかり変ってしまって、まるでその面輪に光がみなぎりあふれるように見えた。
「ねえ、昨日あたしのしたこと、どうお思いになって、ムッシュー・ヴォルデマール?」と、しばらくしてから彼女が訊いた。──「きっとあなたは、けしからん女だとお思いになったでしょうね?」
「いいえ、僕……お嬢さん……僕は何にもその……とんでもない……」わたしの答えは、しどろもどろだった。
「ね、いいこと」と、彼女は切って返した。──「あなたはまだ、あたしという女を御存じないけれど、あたし、とっても妙な女なのよ。あたしはね、いつも本当のことだけ言ってもらいたいの。さっき伺うと、あなたは十六だそうですけれど、あたしは二十一なんですものね。あたしの方が年上でしょう、だからあなたは、あたしにいつも本当のことばかり言わなけりゃいけないのよ……そして、あたしの言うことをきかなくてはね」と、彼女は言い足して、──「さ、あたしの顔をまっすぐ見てちょうだい。なぜ見ないの?」
わたしはますます、あがってしまったが、とにかく眼を上げて、彼女の顔を見た。彼女はにっと笑ったが、それはさっきのとは違って、好意のある微笑だった。
「あたしの顔を見てちょうだい」と、彼女は、優しく声を落しながら言った。──「そうされても、あたし厭じゃないの。……あたし、あなたの顔が気に入ったわ。あなたとは、仲好しになれそうな気がするのよ。でもあたしは、あなたのお気に召しまして?」と、抜け目なく彼女は言い足した。
「お嬢さん……」と、わたしは言いかけた。……
「まず第一、あたしをジナイーダさんと呼んでちょうだい。それから第二に──子供のくせに──(と言って、彼女は言い直した)──青年のくせに──感じたとおりをまっすぐに言わないなんて、いけないことだわ。それは大人のすることよ。どう、あたしあなたのお気に召して?」
彼女がわたしを相手に、こんなに打解けて話してくれることは、わたしにとって実に嬉しいことだったけれど、とは言えわたしも、少し腹が立った。わたしは、そうそう子供と見てもらいますまいという意気ごみで、できるだけ磊落な、しかも鹿爪らしい顔つきになって、こう言ってやった。──「もちろん、とても気に入りましたよ、ジナイーダさん、僕は、それを隠そうとは思いません」
彼女は、ゆっくり句切りながら頭を振って、──「あなたは家庭教師がついているの?」と、だし抜けに尋ねた。
「いいえ、僕にはもうとっくに家庭教師なんかいません」
それは嘘だった。例のフランス人と生き別れをしてから、まだ一月にもならないのである。
「へえ! それでわかったわ──あなた、もうすっかり大人ねえ」
彼女は軽くわたしの指をはじいて、──「手をまっすぐにしてらっしゃい!」──そう言って彼女は、せっせと糸球を巻きだした。
しばらく彼女が眼を上げないのに乗じて、わたしは彼女をつくづく眺め始めたが、それも初めは盗み見だったものが、やがてだんだん大胆になっていった。彼女の顔は、昨日より一層魅力が増して見えた。目鼻だちが何から何まで、実にほっそりと磨かれて、じつに聡明で実に可愛らしかった。彼女は、白い巻揚げカーテンを下ろした窓に、背を向けて坐っていた。日ざしは、そのカーテンを通して射し入って、柔らかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首筋や、流れ下る肩の曲線や、優しい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。──わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだ! わたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲斐もなかったような気がした。……彼女はもうだいぶ着古した地味な色合いの服を着て、エプロンを掛けていた。わたしは、その服やエプロンの襞を一つ一つ、いそいそと撫でたいような気持がした。彼女の靴の先が、その服の下からのぞいている。わたしはできることなら、うやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った。『とうとう俺は、こうして彼女の前に坐っているんだ』と、わたしは思った──『俺は彼女と知合いになったのだ……なんという幸福だろう、ああ!』わたしはすんでのことで、喜び勇んで椅子からとび下りそうになったが、おいしいおやつにありついた赤ん坊みたいに、足をちょいとばたつかせるだけで我慢した。
わたしは、水の中の魚のようにいい気持で、一生この部屋から出て行きたくない、この場から動きたくないと思った。
彼女の目蓋がそっと上がって、またもやその明るい眼がわたしの前に優しく輝き出したかと思うと、またしても彼女はにっとあざけるように笑った。
「なんであたしを見つめてらっしゃるの」と、彼女はゆっくり言って、指を立ててわたしをおどかした。
わたしは赤くなった。……『この人はなんでもわかるんだ、なんでも見えるんだ』という考えがわたしの頭をかすめた。『全く、どうしてこの人に、何もかもわからないはずがあろう、何もかも見えないはずがあろう!』
不意に隣の部屋で、何か物にぶつかる音がして──サーベルが鳴り出した。
「ジーナや」と、客間で公爵夫人が呼んだ。──「ベロヴゾーロフさんが、お前に猫の子を持ってきて下すったよ」
「猫の子!」と、ジナイーダは叫ぶと、ぱっと椅子から立ち上がって、毛糸の毬をわたしの膝へほうり出したまま、部屋から駆け出して行った。
わたしも立ち上がって、毛糸の束と毬とを窓がまちに載せると、そこを出て客間へ入ったが、途端に呆気にとられて棒立ちになった。部屋の真ん中には縞の入った小猫が、可愛い足をひろげて仰向きになっていた。ジナイーダはその前に膝をついて、そっと猫の顔を持ちあげていた。公爵夫人の横には、窓と窓の間の壁をほとんど全部ふさいで、薄色の髪の毛を渦まかせた立派な青年の立っているのが、逆光線の中に、だんだんはっきり見えてきた。軽騎兵の士官で、血色のいい紅い顔をして、眼が飛び出している。
「なんて滑稽なんでしょう!」と、ジナイーダは何度も言って、「眼だって灰色でなくて、緑色だし、それに耳だってなんて大きいんでしょう! ありがとう、ベロヴゾーロフさん! あなたとても親切ねえ!」
その軽騎兵は、昨日見かけた青年たちの一人であることにわたしは気づいたが、にっこり笑って一礼する拍子に、拍車を打合せて、サーベルの釣輪をがちゃりと鳴らした。
「昨日あなたは、縞の子猫で大きな耳をしているのが欲しいと仰せでありましたから……このとおり、手に入れたのであります。男子の一言──でありますから」と言って、また一礼した。
子猫はかぼそい鳴き声を立てると、床を嗅ぎ始めた。
「おなかがすいてるのね!」と、ジナイーダは叫んで、──「ヴォニファーチイ、ソーニャ! 牛乳を持って来て」
小間使は、古ぼけた黄色い服に、色のさめたネッカチーフを首に巻いて、牛乳の小皿を手に入ってくると、その皿を子猫の前に置いた。子猫はぴくりと身震いして、眼を細め、ぴちゃぴちゃなめだした。
「まあ、バラ色の小っちゃな舌」と、ジナイーダは、頭が床に届かんばかりに身をかがめ、横合いから猫の鼻の下をのぞきこみながら、そう指摘した。
子猫はおなかがくちくなると、すまし返って前足をかわるがわる動かしながら、喉を鳴らし始めた。ジナイーダは立ち上がって、小間使の方を振向くと、平気な声で、「あっちへ持っておいで」と言った。
「子猫の褒美に──お手を」と、軽騎兵は、にやりと笑うと、新調の軍服にきっちり締め上げられた逞しい全身を、ぐいと反り返らせた。
「両方よ」と、ジナイーダは答えて、彼に両手を差伸べた。軽騎兵がキスしている間、彼女は肩越しにわたしを見ていた。
わたしは一ところにじっと立ったまま──いったい笑ったものか、何か言ったものか、それともこのまま黙っていたものか、それがわからなかった。すると突然、控え室のあけっぱなしのドア越しに、うちの下男のフョードルの姿が眼に映った。わたしに何かを合図している。わたしは何気なく出て行った。
「なんだい!」と、わたしは訊いた。
「お母様がお呼びするようにおっしゃいましたんで」と、彼はひそひそ声で、──「あなた様が返事を持ってお帰りにならないので、大層お腹立ちでございますよ」
「でも僕、そんなに長居したかい?」
「一時間の余になります」
「一時間の余!」と、思わずわたしは鸚鵡返しに言って、客間へ引返すと、お辞儀したり足ずりしたりし始めた。
「どこへいらっしゃるの?」と公爵令嬢が、軽騎兵の後ろから顔をのぞかせて聞いた。
「僕、うちへ帰らなくちゃならないのです。じゃ、こう申しましょうか」と、老夫人に向って言い添えた。──「一時過ぎにお見えになりますって」
「そうね、そう申上げて下さい、坊ちゃん」
公爵夫人があわただしく煙草入れを出して、うるさい音を立てて嗅ぎ始めたので、わたしはぎょっとしたほどだった。──「そう申上げて下さい」と、彼女は、うるんだ眼でまばたきして、ふんふん唸りながら繰返した。
わたしはもう一遍お辞儀をすると、くるりと回れ右をして部屋を出たが、照れくさい感じが背中を這っていた。後ろから見られていることがわかっている時、ごく若い人が感じるあれである。
「よくって、ムッシュー・ヴォルデマール、また遊びにいらっしゃいね」と、ジナイーダは叫ぶと、また大声で笑い出した。
なぜあの人は笑ってばかりいるんだろう? と、わたしは、帰るみちみち考えた。お伴にはフョードルが、一言もわたしに話しかけずに、不服らしい様子で後ろからついてくる。母はわたしを叱りつけて、あの公爵夫人なんかの所で何をいつまでしていたんだろうと、呆れ返っていた。わたしは何とも答えずに、自分の部屋へ引っ込んだ。すると突然ひどく悲しくなった。……わたしは泣くまいと懸命になった。……あの軽騎兵がねたましかったのである。
公爵夫人は約束通り母を訪ねて来たが、母の気に入らなかった。わたしは二人の会見の場に居あわさなかったけれど夕食の時母が父に物語った言葉によると、あのザセーキナという公爵夫人は、どうもひどく俗っぽい女らしく思われる。あの夫人は、どうぞ自分のためにセルギイ公爵に運動してくれとしつこくせがんで、ほとほと母をうんざりさせた。あの夫人はしょっちゅう何かしら訴訟や事件を起こしていて──それも卑しい金銭問題なのだから──てっきりとんでもない食わせ者に違いない、といった散々の評判だった。それでいながら母は、あの夫人を娘さんと一緒に明日の夕食に招いた、と言い足した(この『娘さんと一緒』という言葉を耳にすると、わたしは鼻を皿の中へ突っ込まんばかりにした)──とにかくあの夫人は隣どうしではあり、名のある人でもあるから、というのが理由だった。
これに対して父は母に、今やっとあの奥さんがどういう人かを思い出したと告げた。それによると父は若い頃、今は亡いザセーキン公爵を知っていた。立派な教育はあったけれど、薄っぺらな下らん男で、パリに長らく行っていたため、『パリっ児』と呼ばれていた。彼は大層金持だったが、カルタで全財産をすってしまい──どういうわけだか、まあ金が目当てだったらしくも思えるが──とは言え選びさえすれば、もっといい相手はあったのに(と父は言い足して、冷たい微笑を漏らした)──どこかの下役人の娘と結婚して、その結婚ののち、投機に手を出して、今度は完全に破産してしまった。
「どうぞあの夫人が、お金を貸してくれなどと言い出さなけりゃいいが」と、母はすかさず言った。
「それも大いにあり得ることだね」と、父は平然として言った。──「あの奥さん、フランス語を話すかね?」
「それが成っていないの」
「ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。誰かが言っていたっけが、とても可愛らしい、教育のある娘だそうじゃないか」
「へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね」
「父親にもね」と、父は応じて、──「あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ」
母はほっと溜息をついて、考え込んでしまった。父も黙ってしまった。わたしはこの会話の間じゅう、ひどく照れくさかった。──
夕食が済むと、わたしは庭へ出て行ったが、鉄砲は持たなかった。わたしは、『ザセーキン家の庭』へは近寄るまいと心に誓ったつもりだったが、うち勝ちがたい力に引かされて、ふらふらその方へ足が向いて──しかもそれが、無駄ではなかった。わたしが垣根のそばまで行くか行かないうちに、ジナイーダの姿が眼に入ったのだ。今度は彼女一人だった。両手で小さな本をささえて、ゆっくり小径を歩いていた。向うはわたしに気づかなかった。
わたしはあやうくやり過ごしそうになったが、はっと気がついて、咳払いをした。
彼女は振向いたが、立ち止りもしないで、まるい麦わら帽子についている幅の広い水色のリボンを、片手で払いのけると、ちらとわたしに眼をそそぎ、軽くほほえんだなり、またもや眼を本へ落してしまった。
わたしは庇のついた帽子を脱いで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いに沈みながら、そこを離れた。──『あのひとにとって、わたしはなんだろう?」とわたしは、(どうした風の吹きまわしか)フランス語で考えた。
聞き覚えのある足音が、後ろで響いた。振返ってみると──こっちへ、例の速い軽快な足どりでやってくるのは、父だった。
「あれが公爵令嬢かね?」と、父が尋ねた。
「お嬢さんです」
「はて、お前あの人を知ってるのかい?」
「けさ公爵夫人の所で会ったんです」
父は立ち止ったが、急に踵でくるりと回ると、とって返して行った。そして、垣根越しにジナイーダと肩を並べる辺まで行くと、父は丁寧に彼女に会釈をした。彼女も会釈を返したが、幾分びっくりしたような色を顔に浮べて、本を下へおろした。父の後ろ姿を見送っている彼女の様子が、わたしには見えた。わたしの父の服装はいつも、とてもりゅうとして、独特の味があって、しかもさっぱりしたものだった。けれどこの時ほど父の姿がわたしに、すらりと格好よく見えたこともなかったし、その灰色の帽子が、こころもち薄くなりかけた捲毛の上に、すっきり合って見えたこともなかった。
わたしはジナイーダの方へ行こうとしたが、彼女はわたしには眼もくれず、また本を上へあげると、向うへ行ってしまった。
その晩いっぱいとあくる朝の間じゅう、わたしはなんだか鬱々と沈み込んだ気持で過した。忘れもしない、わたしは勉強しようと思って、カイダノーフを読み始めたが──結局この有名な教科書のぱらりと組んだ行やページが、眼の前にちらちらするばかりで、なんにもならなかった。十遍も立て続けにわたしは、『ユリウス・ケーザルは武勇世にすぐれ』という文句を読み下したが──何ひとつ頭に入らないので、本を投げ出してしまった。夕飯の前になると、わたしはまたポマードを塗りたくって、またもやフロックコートとネクタイを着けた。
「そりゃ、どういうつもりなの?」と、母が尋ねた。──「お前はまだ大学生じゃないんですよ。それに、試験だって受かるかどうかわかりもしないのにさ。あの短い上着だって、まだついこのあいだ縫わせたばかりじゃないか? 勿体ないですよ!」
「お客様が来るので」とわたしは、ほとんど必死になってささやいた。
「馬鹿をお言い! あれがお客様なものですか!」
降参するよりほかはなかった。わたしはフロックを短い上着に着替えたが、ネクタイは取らなかった。
公爵夫人は娘を連れて、夕食の三十分前にやって来た。老婦人は、すでにわたしにはお馴染の例の緑色の服の上に黄色いショールを引っかけ、火のような色のリボン飾りのついた旧式の室内帽をかぶっていた。彼女はたちまち手形の話をやり出して、溜息をついたり、自分の貧乏を訴えたり、『おねだり』を始めたりするのだったが、礼儀も作法もさっぱりお構いなしで、相変らず騒々しく嗅ぎ煙草を嗅いだり、椅子の上で気まま勝手に身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしていた。自分が公爵夫人だなどということは、てんで念頭に浮んでも来ないらしい。
それに引替えジナイーダは、すこぶるツンと、ほとんど傲慢なほどに構えて、あっぱれ公爵令嬢であった。その顔には、冷やかな、ぴくりともしない尊大な表情が表われていたので──わたしにはまるで別人のように見え、あの眼差しもあの微笑も、てんで見当らなかったけれど、それでいてこの新しい姿になっても、わたしにはやはり素晴らしいお嬢さんと思われた。着ているのは、ふわりとした薄い紗の服で、淡青い唐草模様がついていた。髪はイギリス風に、長い房をなして両の頬に垂れかかっていた。この髪かたちが、彼女の顔の冷やかな表情に、しっくり合っていた。
父は食事の間、彼女の横に席を占めて、もちまえの優美で落着きはらった慇懃さで、隣席の令嬢のお相手をつとめていた。父は時おり彼女の顔をちらりと眺めやる──彼女の方でも、時たま父を見返す。その彼女の顔つきが、じつに不思議な、ほとんど敵意をふくんだものだった。二人はフランス語で話し合っていたが、わたしは今でも思い出す、ジナイーダの発音の奇麗さに、びっくりしたものである。公爵夫人は食事の間も、例によってちっとも遠慮せずに、さかんに食べては、料理を褒めそやした。母は、いかにもこの相手が荷厄介らしく、なんだか滅入ったような気乗りのしない調子で、しぶしぶ受け答えをしていた。父は時たま、かすかに眉の根をひそめた。ジナイーダもやはり、母の気に入らなかった。
「なんだか高慢ちきな娘だこと」と、母はあくる日そう言った。──「よく考えてみるがいいわ──何を高慢ぶることがあるんだろう──あんなグリゼットみたいな顔をしてさ!」
「君は確か、パリの下町娘を見たことがないはずだが」と、父はチクリと刺した。
「ええ、ありがたいことにね!」
「もちろん、ありがたいことには違いないが……だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?」
わたしの方へは、ジナイーダはてんで注意を向けずじまいだった。食事が済むと間もなく、公爵夫人は別れの挨拶をし始めた。
「どうぞ今後とも、よろしくお力添えのほどを、奥様にも旦那様にもお願いしますよ」と、彼女は、歌うように声を引っぱりながら母と父に言った。──「仕方ありませんわ! いい時もありましたけれど、返らぬ昔でしてねえ。これでももとは──奥方様と立てられたものですけど」と彼女は、いやな笑い声を立てて言い添えて、──「背に腹は、とやら申しましてねえ」
父はうやうやしく夫人に一礼すると、控え室のドアまで腕を貸して送って行った。わたしは、つんつるてんの短い上着を着たまま、じっとそこに突っ立って、死刑を言い渡された囚人よろしくのていで床を見つめていた。ジナイーダの冷たい態度を見て、すっかり悄気てしまったのである。ところが、ああなんという驚きだったろう。彼女はわたしの前を通り過ぎる時、例の優しい表情を眼に浮べて、わたしにこうささやいたのだ、──「今夜八時に、うちへいらっしゃいね、よくって、きっとよ……」わたしはあまりの思いがけなさに、両手をひろげたが──それなり彼女は、白いスカーフをふわりと頭にかけると、さっさと向うへ行ってしまった。
きっかり八時に、わたしはフロックコートを一着におよび、頭の髪を小高く盛り上げて、公爵夫人の住家なる傍屋へ入って行った。例の老僕が、無愛想な眼でわたしをじろりと見ると、しぶしぶ腰掛から尻をもたげた。
客間には陽気な人声が聞えていた。わたしはそのドアをあけると、あっとばかり後ろへすさった。部屋のまん中には、椅子の上に公爵令嬢が突っ立ち上がって、男の帽子を眼の前に捧げている。椅子のまわりには、五人の男がひしめき合っている。彼らは我がちに帽子の中へ手を突っ込もうとするのだが、令嬢はそれを上へ上へと持ち上げて、力いっぱい揺すぶっていた。わたしの姿を認めると、彼女は大きな声で、「待ってよ、待ってよ! 新しいお客様だわ、あの人にも札をあげなくちゃ」と言うなり、ひらりと椅子から飛び下りて、わたしのフロックの袖の折返しをつかまえると、──「さあ、いらっしゃいってば」と言った。──「何をぼんやり立ってるの? 皆さん、御紹介いたしますわ。この方はムッシュー・ヴォルデマール、お隣の坊ちゃんです。それからこちらは」と彼女は、わたしに向って順ぐりに客を指さしながら、付け加えた。「マレーフスキイ伯爵、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、退職大尉のニルマーツキイさん、それから軽騎兵のベロヴゾーロフさん、この方にはもうお会いになったわね、どうぞ皆さん、仲よくなすってね」
わたしはすっかりあがってしまって、誰にもお辞儀をせずにいたほどだった。医者のルーシンというのが、あのとき庭でわたしに小っぴどく恥をかかした例の浅黒い男であることはわかったが、あとはみんな初対面だった。
「伯爵!」と、ジナイーダはあとを続けた。──「ムッシュー・ヴォルデマールにも札を書いて上げてちょうだい」
「それは不公平ですな」と、心もちポーランドなまりのある言葉つきで、伯爵は反対した。これは頗る美貌の、凝った身なりをした栗色の髪の男で、表情に富んだ鳶色の目と、細い小ぢんまりした白い鼻をもち、小っぽけな口の上に、ちょび髭を生やしている。──「この人、罰金ごっこの仲間に入らなかったんですからねえ」
「不公平だ」と、ベロヴゾーロフと、もう一人別の男が相槌を打った。あとの方の男は、退職大尉と呼ばれた人物で、年は四十がらみ、みっともないほどのアバタ面で、アラビア人みたいに髪の毛が縮れて、猫背で、がに股で、肩章のない軍服を着て、胸のボタンをはずしている。
「札を書いて上げなさいってば」と、令嬢は繰返した。──「そりゃなんの暴動なの? ムッシュー・ヴォルデマールは初めて一緒になったんだから、今日はこの人特別扱いよ。ぶつぶつ言わないで、書いてちょうだい、あたしそうしたいんだから」
伯爵は肩をすくめたが、素直に一礼すると、宝石入りの指輪で飾りたてた白い手にペンをとりあげ、小さな紙切れを裂き取って、それに書き始めた。
「ではせめてヴォルデマール氏に、ことの次第を説明して上げてもいいでしょう」と、嘲るような声でルーシンが言い出した。──「さもないと、すっかりまごついておられるようですからな。実はね、君、我々は罰金ごっこをしているんだが、令嬢が罰金を払うことになったので、幸運のくじを引当てた人は、令嬢のお手にキスする権利を得るわけなんです。わかったですか、僕の言ったことが?」
わたしはちらりと彼の顔を見たばかりで、相変らず茫然自失のていで突っ立っていたが、その間に令嬢はまた椅子の上に飛び乗ると、またもや帽子を揺すぶり始めた。みんなが手を伸ばしたので──わたしもそれに従った。
「マイダーノフさん」と令嬢は、背の高い青年に向って言った。これは痩せこけた顔に、小さな眼をしょぼつかせて、黒い髪の毛をおそろしく長く伸ばした男である。──「あなたは詩人なんですから、気前のいいとこを発揮して、あなたの札をムッシュー・ヴォルデマールに譲って上げるべきだわ。するとこの方のチャンスは二つになって、一つじゃなくなるんですもの」
がマイダーノフは、首を横に振って、長髪をさっと揺り上げた。わたしは一番あとから手を帽子の中へ入れて、つかんで、さて札をひろげてみたが……ああ! 途端にふらふらっとしてしまった。見よ、その札には、『キス』と書いてあるではないか!
「キス!」と、わたしは思わず大声を上げた。
「ブラヴォー! この人に当ったわ」と、令嬢がすかさず引取って──「まあ嬉しい!」──そして椅子を下りると、なんともいえず晴れやかな甘い顔つきで、じっとわたしの眼をのぞきこんだので、わたしの心臓はワッとばかり踊り立った。
「あなたは嬉しくって?」と、彼女はわたしに訊いた。
「僕?……」うまく舌が回らなかった。
「その札は僕に売ってくれたまえ」と、突然わたしの耳のすぐ上で、ベロヴゾーロフのがらがらした声がした。──「百ルーブル出すぜ」
わたしが軽騎兵への返事に、非常な憤慨の一瞥をくれたので、ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは「でかした!」と絶叫する騒ぎだった。
「それはそうと」と、ルーシンは続けた。──「わたしは式部官として、すべてが規定通り行われるよう宰領せねばなりません。ムッシュー・ヴォルデマール、片膝をおつきなさい。そういう決りになっているのです」
ジナイーダはわたしの前に立つと、わたしを一層よく見ようとするかのように首を少し横にかしげ、いとも荘重に片手を差伸べた。わたしは眼の中が暗くなった。片膝をつこうとしたが、べったり両膝ついてしまって、おそろしく不器用に唇をジナイーダの指に触れたので、むこうの爪で自分の鼻さきに、かるい引っかき疵をこしらえてしまったほどだった。
「よろしい!」とルーシンは叫んで、わたしを助け起した。
罰金ごっこは続いていった。ジナイーダはわたしを自分のそばの席に着かせた。手を変え品を変え、実にいろんな罰金を彼女は思いついたものである! そのうちに彼女は、『立像』をやって見せることになったが──すると彼女は自分の台座に、醜男のニルマーツキイを選び出して、うつ伏せに寝るように命じたばかりか、顔を胸へたくし込ませさえしたものである。笑い声は小やみもなしに続いた。
四角四面の地主屋敷に生い立って、一人ぼっちの生真面目な教育を受けてきた少年のわたしは、こうしたらんちき騒ぎや、ほとんど狂暴ともいうべき無遠慮な浮かれ気分や、見ず知らずの連中との臍の緒切って初めての交際やのお陰で、たちまち頭がカーッとなった。わたしは酒でも飲んだように手もなく酔っぱらってしまった。わたしがほかの誰よりも大きな声で、笑ったり喋ったりし始めたので、隣の部屋にいた老夫人までが、わざわざわたしを見に出てきたほどだった。夫人は、相談ごとのために呼び寄せたイヴェールスキイ門あたりの小役人と、何やら話し込んでいたのである。しかしわたしは、すっかりもう幸福感に酔いしれていたので、誰が冷笑しようが誰が白い眼でにらもうが、下世話に言うとおり、どこ吹く風で、一文の価値も認めなかった。
ジナイーダは相変らず、わたしをひいきにして、寸時もそばから離さなかった。ある罰金に当った時、わたしは彼女と並んで、ひとつ絹のプラトークにくるまる羽目になったことがある。つまりわたしは、自分の秘密を彼女に打明けなければならないのであった。忘れもしない。わたしたち二人の頭が、突然もやもやした、半透明の匂やかな靄に包まれたかと思うと、その靄の中で、近々と柔らかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん見えてきて、ほつれ毛が焼けつくようにわたしの頬をくすぐった。わたしは黙っていた。彼女は神秘めいた狡そうな微笑を浮べていたが、やがて、「ね、どうしたの?」とささやいた。わたしは赤くなって、ふふと笑っただけで、顔をそむけ、じっと息を殺していた。
罰金ごっこに飽きると、──こんどは縄まわしが始まった。ああ! わたしがついポカンとして、鬼になった彼女から、したたかピシャリと指をぶたれたとき、なんという法悦をわたしは感じたことだろう! そのあとで、わざとわたしがポカンとした振りをしていると、彼女はわたしをじらそうとして、差伸べた両手に触れようともしないのだった!
我々がその晩のうちにやったことは、まだまだそれだけではなかった! ピアノも弾けば、歌もうたい、踊りもおどれば、ジプシーの群れの真似もした。ニルマーツキイは熊の縫いぐるみを着せられて、塩の入った水を飲まされた。マレーフスキイ伯爵は、トランプの手品を次から次へと披露したが、あげくの果てにカードをよく切ってから、札を四人に配る時、切札を全部わが手に収めてしまったので、ルーシンは『僭越ながら祝辞を述べる』ことになった。マイダーノフは自作の『人殺し』という長詩の一節を朗読したが、(それはロマンティシズムの全盛期に取材してあった)、彼はこの作品を、黒い表紙に血色の題字で、出版するつもりだと言っていた。イヴェールスキイ門からやって来た小役人の膝から、こっそり帽子を取ってきて、その身代金としてカザーク踊りをおどらせたり、老僕ヴォニファーチイに女の室内帽をかぶせたり、──そうかと思うと、公爵令嬢が男の帽子をかぶったり……とても一々数えきれない。ただベロヴゾーロフだけは、眉間に八の字を寄せて腹立たしげな様子で、だんだん隅っこへ引っ込みがちになった。……時たま彼の眼は、さっと血ばしって、満面に朱をそそぎ、今にもみんなに躍りかかって、わたしたちを木っ端みじんに八方へ投げ飛ばしそうな剣幕を見せたが、令嬢がちらりと彼を見て、指を立てておどかすと、彼はまたこそこそ隅っこへ引き下がるのだった。
しまいに、さすがのわたしたちも精も根も尽き果ててしまった。公爵夫人は、御自身の言い草を借りると、そんなことには一向平気な性分で──どんなに騒がれようがビクともしないたちだったが──それでもやはり疲労を覚えて、ちょっと一休み横になると言い出した。夜の十一時過ぎに夜食が出て、古いひからびたチーズの切れっ端と、ハムを刻み込んだ妙に冷たい肉饅頭とだけだったが、それがわたしには、どんなパイよりもおいしく思われた。葡萄酒は一壜きりで、それも怪しげな、頸のところがふくれ返ったどす黒い代物で、中身はプーンと桃色のペンキの臭いがした。もっとも、誰一人それは飲まなかった。
疲労と幸福感とでへとへとになって、わたしは傍屋から表へ出た。別れにのぞんで、ジナイーダはぎゅっとわたしの手を握りしめ、またもや謎めいた微笑を浮べた。
夜気がしっとりと重く、わたしの火照った顔へ匂いを吹きつけるのだった。どうやら雷雨が来そうな模様で、黒い雨雲が湧きだして空を這い、しきりにそのもやもやした輪郭を変えていた。そよ風が暗い木立の中でざわざわと身震いして、どこか地平のはるかな彼方では、まるで独り言のように、雷が腹立たしげな鈍い声でぶつぶつ言っていた。
裏口からこっそり、わたしは自分の部屋へもぐり込んだ。守役の爺やが、床べたで眠っていたので、わたしはそれをまたぎ越さなければならなかった。爺やは目をさまして、わたしを見るなり、母がまたぞろわたしに腹を立てて、またも迎えに人を出そうとしたが、父が止めたのだ、と報告した。(わたしは寝床に入る前には、必ず母にお休みを言い、祝福してもらうことにしていた)が、こうなってはもう仕方がない!
わたしは爺やに、自分で着替えをして寝るからいい、と言って──蝋燭を吹き消した。だがわたしは、着替えもしなければ、横になりもしなかった。
わたしはちょっと椅子に掛けたが、それなり魔法にでもかかったように、長いこと坐ったままでいた。その間に感じたことは、実に目新しい、実に甘美なものだった。……わたしはほんの少しあたりへ眼を配りながら、じっと身じろぎもせずに坐って、ゆっくりと息をついていた。そしてただ時々、声を立てずに思い出し笑いをしたり、そうかと思うと、『俺は恋しているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ』という想念に突き当って、胸の底がひやりとするのだった。ジナイーダの顔が眼の前の闇の中を静かに漂っていた──漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変らず謎めいた微笑を浮べ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、優しげにわたしを見まもっていた……あの別れた瞬間とそっくりそのままの眼差しだった。やがてとうとうわたしは立ち上がって、爪先だちでベッドに歩み寄り、着替えもせずに、そっと頭を枕にのせた。激しい動作によって、身うちに充ち満ちているものを驚かしはせぬかと、それが心配でならなかったように……。
わたしは横になったが、眼もつぶらずにいた。まもなくわたしは、何かしら微かな照返しが、わたしのいる部屋の中へ、絶えず射しては消え射しては消えするのに気がついた。……わたしは身をもたげて、窓をながめた。神秘めいてぼんやり白んでいるガラスの上に、窓の桟がくっきりと描き出されている。雷雨だな──とわたしは思った。確かに雷雨には違いなかったが、とても遠方を通っているので、雷鳴も聞えないほどだった。ただ、光の鈍い、長々と尾を引いた、枝に分れたような稲妻が、空にひらめいているだけで、それもひらめくというよりはむしろ死にかけている鳥の翼のように、ぴくぴく震えているのだった。わたしは起き上がって、窓のそばへ行き、朝までそこに立ち尽した。……稲妻はほんの束の間もやまなかった。俗にいう雀の夜──つまり夏至頃の短か夜である。わたしは、ひっそり静まった砂原や、ネスクーチヌィ公園の黒々とした森陰や、鈍く稲妻がひらめくたびにやはり震えるように見える遠い家々の黄いろっぽい正面やを、じっと見つめていた。……見つめたまま──眼を離すことができなかった。そのひっそりした稲妻、その遠慮がちのひらめきが、同じくわたしの身うちにもひらめいている無言のひそやかな衝動に、ちょうど相応ずるもののように思われた。夜が明け始めた。朝焼けがそこここに真紅のまだらを散らした。日の出が近づくにつれて、稲妻はだんだん淡く、短くなっていった。そのわななきはいよいよ間遠になって、ついに、はっきり明けはなれた一日の、もの皆の夢をさます疑いもない光にひたされて消えてしまった。
わたしの胸の中でも、やはり稲妻は消えてしまった。わたしは非常な疲れと静けさを感じたが……ジナイーダの面影は相変らず飛びめぐって、わたしの魂の上に凱歌を奏していた。ただしその面影も、いつかひとりでに安らいできたように見えた。さながら白鳥が、沼の草むらから飛び立ったように、その面影もまた、それを取巻いているさまざまな醜い物陰から、離れ去ったもののようだった。そしてわたしはうとうと寝入りながら、これを名残りにもう一遍、信頼をこめた崇拝の念をもって、その面影にひしとばかりとりすがった。……
おお、めざまされた魂の、つつましい情感よ、その優しい響きよ、そのめでたさと静もりよ。恋の初めての感動の、とろけるばかりの悦びよ。──汝らはそも、今いずこ、今いずこ?
あくる朝、わたしがお茶に下りてゆくと、母はわたしを叱ったけれど──思ったほどのことはなく、ゆうべどんな風にして過したかを、わたしに話をさせた。わたしは言葉少なに応答しながら、細かな点はどしどしはぶいて、全体として大いに無邪気な感じを与えるようにつとめた。
「とにかくあの人たちは、まともな連中じゃありません」と、母は釘をさした。──「だからお前も、あんなところへ出入りする代りに、ちゃんと勉強して、試験の準備をするんですよ」
わたしの勉強に対する母の配慮が、わずかこの数語に尽きていることは、わたしも心得ているから、別に口答えをする必要はないと思った。ところがお茶が済むと、父はわたしと腕を組んで、一緒に庭へ出て行きながら、わたしがザセーキン家で見たことを、逐一わたしに物語らせた。
父はわたしに、奇妙な影響力を持っていたし、そう言えば、互いの関係にしたところで、やはり奇妙なものだった。父はわたしの教育のことには、ほとんど風馬牛だったが、さりとてわたしを馬鹿にするような真似は、ついぞしたことがない。父はわたしの自由を尊重していたばかりか、更に進んで、ちょっと妙な言い方だが、わたしに対して慇懃でさえあった。……ただし、近くへは寄せつけてくれないのである。わたしは父を愛し、父に見とれて、これこそ男性というものの典型だと思っていた。だから、実際の話が、わたしはもっと強く強く、父になついたはずなのだが、ただ父の手が私を押しのけているような感じが、しょっちゅうあって、それが邪魔になったのだ! その代り、父さえその気になれば、ほとんど一瞬にして、ただの一言、ただの一動きでもって、父に対する無限の信頼感を、わたしの胸に呼びさますことができた。わたしは心をあけひろげて、まるで相手が聡明な友達か、親切な先生でもあるように、父とおしゃべりを始めるのだが……やがてまた不意に、父はわたしをほうり出してしまう。──またしてもその手がわたしを押しのける。いかにも愛想のいい、もの柔らかな手つきだが、とにかく押しのけるのである。
父も時には、浮き浮きした気分になることがあって、そうなると私を相手に、まるで子供のように、ふざけたり、はねたりするのをいとわなかった(父は、激しい肉体の運動なら、なんでも好きだった)。一度──あとにも先にも唯の一度きりだが! ──父がとても優しくわたしを可愛がってくれて、そのため危うくわたしが泣き出しそうになったことがある。……しかし、その浮き浮きした気分も、優しさも、すぐまた跡かたもなく消えて、──現に二人の間に起った事柄から、何かしら今後の期待を引出すなどということは、とてもできない相談だった。まあ何もかも、夢で見たようなものだったのだ。よくわたしは、父の賢そうな、美しい、澄みきった顔を、じっと見ているうちに……胸がどきどきしてきて、身も心も父の方へ吸い寄せられるような気がした。……すると父は、そういう私の気持に感づきでもしたようにひょいと通りすがりに私の頬をかるく叩いて、──それなり向うへ行ってしまうか、何か仕事をやり出すか、さもなければ、いきなり頭から足の先まで、凍りついたように冷たくなってしまう。その冷たくなりようときたら、ほかの人には見られない父独特のもので、それを見せられると私はたちまち縮み上がって、やはり寒々とした気持になるのだった。
ごく稀に、父は発作的にわたしに好意を示しはしたが、それは決して、口にこそ出さないが一目でそれと察せられる私の哀願によって、ひき起されたものではない。それは、いつも決って、不意に起るのだった。あとになって、父の性格をいろいろ考えてみたあげく、わたしの達した結論は、父としては私や家庭生活なんぞを、顧みるひまがなかったということである。父は、ある別のものを愛していて、その別のもので、すっかり堪能していたのである。
『取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであること──人生の妙趣はつまりそこだよ』と、ある時父はわたしに語った。また別の時、わたしは若き民主主義者として、父の面前で、とうとうと自由を論じ始めたことがある(父はその日は、わたしの当時の言い方でいうと「優し」かった。そんな時には、どんな話を持ち出そうと勝手だった)。
「自由か」と、父は引取って、「だがね、人間に自由を与えてくれるものは何か。お前それを知っているかね?」
「なんです?」
「意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力までも与えてくれる。自由よりもっと貴い権力をね。欲する──ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ」
父は、何よりもまず、そして何にも増して、生活することを欲した。そして実際、生活したのだ。……ひょっとすると父は、自分が人生の「妙趣」をあまり永く享楽できないことを予感していたのかもしれない。四十二で死んだのである。
わたしは、ザセーキン家を訪問した時の一部始終を、詳しく父に話して聞かせた。父はベンチに腰掛けて、鞭の先で砂に何やら書きながら、半ばは注意ぶかく、半ばは放心のていで、わたしの話を聴いていた。父は時々笑い声を立てて、一種こう晴れやかな、面白そうな眼つきで私の顔をちらりと見たり、ちょっとした質問やまぜっ返しで、わたしを焚きつけたりした。初めのうちは私は、ジナイーダの名前をさえ口にする勇気が出なかったが、やがて我慢がならなくなって、しきりに彼女のことを褒めちぎりだした。父は相変らず笑い続けていたが、そのうちにふと考え込んだかと思うと伸びをして、立ち上がった。
わたしは、父が家から出しなに、馬に鞍を置くように命じたのを思い出した。父の馬術はなかなか大したもので、レーリ氏などよりずっと早くから、どんな荒馬をも馴らすのに妙を得ていた。
「僕も一緒に行っていい、パパ?」と、わたしは父に訊いた。
「いいや」と父は答えた。その顔には、例の素っ気ない愛想のいい表情が浮んだ。──「乗りたけりゃ、一人でお行き。そして、わたしは行かないからって、別当にそう言っとくれ」
父はわたしに背を向け、足ばやに立ち去った。わたしが見送っていると、父の姿は門の外へ消えた。垣根に沿って、帽子の動いて行くのが見える。父はザセーキン家へ入って行った。
父は、一時間以上はそこにいなかったが、それからすぐさま町へ出かけ、夕方やっと帰って来た。
夕食のあとで、今度は私がザセーキン家へ行った。客間に入ってみると、老公爵夫人きりしかいなかった。わたしの姿を見た夫人は、室内帽子をかぶった頭を、編み針の先で掻くと、いきなりわたしに向って、請願書を一通清書してもらえまいかと問いかけた。
「おやすい御用ですとも」と、わたしは答えて、椅子の端に腰を下ろした。
「ただね、字をなるべく大きくお願いしますよ」と公爵夫人は、べったり書き汚した紙を一枚わたしながら言った。──「で、今日じゅうにやって下さらなくて、坊ちゃん?」
「やりますとも、今日じゅうに」
隣の部屋のドアがほんのちょっぴり開いて、その隙間に、ジナイーダの顔が現われた。──蒼ざめた、もの思わしげな顔つきをして、髪は無造作に後ろへはね返してある。大きな冷やかな両眼で、わたしをじっと見ると、またそっとドアを閉めた。
「ジーナ、これ、ジーナや!」と、老夫人が呼んだ。ジナイーダは返事をしなかった。わたしは老夫人の請願書を持って帰って、一晩じゅうそれにかかりきりだった。
わたしの「情熱」は、その日から始まった。忘れもしない、──その時わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、恋する人になったのだ。今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、も一つその上に、わたしの悩みもその日から始まったと、言い添えてもいいだろう。
ジナイーダがいないと、わたしは気が滅入った。何ひとつ頭に浮んでこず、何ごとも手につかなかった。わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼女のことを思っていた。わたしは気が滅入った……とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。わたしは嫉妬したり、自分の小っぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬鹿みたいにすねてみたり、馬鹿みたいに平つくばったり、──そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都度、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総身が震えるのだった。ジナイーダはすぐさま、わたしが彼女に恋していることを見抜いたし、わたしの方でも、別にそれを匿そうとも思わなかった。彼女は、わたしの情熱を面白がって、わたしをからかったり、甘やかしたり、いじめたりした。いったい、他人のために、その最大の喜びや、その底知れぬ悲しみの、唯一無二の源泉になったり、またはそれらの、絶対至上にして無責任な原因になったりするのは、快いものであるが、全く私は、ジナイーダの手にかかったが最後、まるでぐにゃぐにゃな蝋みたいなものだったのだ。
とはいえ、何もわたしだけが、彼女に恋していたわけではなかった。彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんな鎖につないで、自分の足もとに飼っていたわけなのだ。そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきり舞いさせたりするのが(それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた)、彼女には面白くてならなかったのである。しかも男たちの方では、それに抗議を申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。溌剌として美しい彼女という人間のなかには、狡さと暢気さ、技巧と素朴、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力ある混り合いをしていた。彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微妙な、ふわふわした魅力が漂って、その隅々にまで、他人には真似のできぬ、ぴちぴちした力が溢れていた。彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。まるで晴れた風のある日の雲の陰のように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女の眼や唇のほとりに、ちらついているのだった。
彼女にとって、自分の崇拝者は誰もかれも、みんな入用な人物だった。ベロヴゾーロフは、彼女から時によっては、『わたしの猛獣さん』と呼ばれたり、時によっては簡単に、『わたしの』と呼ばれたりしていたが、彼女のためとあらば火の中へも飛び込みかねない男である。自分の頭の働きにも自信はなし、ほかにこれといった取柄もないとあきらめている彼は、しょっちゅう彼女に結婚を申込んで、ほかの男の言うことは、要するに空念仏に過ぎないと、ほのめかすのであった。
マイダーノフは、彼女の魂のなかにある詩的な素質のお相手をつとめていた。ほとんどすべての文士の多分に漏れず、彼もかなり冷たい人間だったが、それでいて自分がジナイーダを崇拝しているものと、遮二無二相手に思い込ませようとしていたのみか、どうやら自分でも、そう思い込もうとしているらしかった。無尽蔵ともいうべき詩句に、彼女への讃美の情を託しては、それを、どこかしら不自然でもあれば真剣でもある感激をもって、彼女に朗読して聞かせる。彼女の方では、この男に共鳴する面もあり、いささかおひゃらかし気味でもあった。あまりこの男を信用していない彼女は、彼の真情の吐露もいい加減聞き飽きると、プーキシンを朗読させるのだった。それは、彼女の言い草に従えば、空気を清めるためだった。
次にルーシンは、皮肉屋で、露骨な毒舌をふるう医者だが、彼女というものを一番よく見ており、また誰より深く彼女を愛してもいながら、そのくせ陰でも面前でも、彼女の悪口ばかり言っていた。彼女は、この男を尊敬してはいたものの、さりとて決して容赦はせず、時々、一種特別な、さも小気味よげな満足の面持で、彼だってやはり自分の手中にあるのだということを、彼に感づかせるように仕向けるのだった。
「わたし、コケットなのよ。人情なんかないわ。まあ、役者向きの水性なんだわ」と、彼女はある日、わたしのいる前で、彼に言ったことがある。──「あ、いいことがある! さ、手を出しなさい。ピンを突っ刺してあげるから。するとあなたは、この坊ちゃんの手前恥ずかしいでしょうし、それに痛くもあるでしょう。でもね、あなたは笑って見せてちょうだい。いいこと、君子さん」
ルーシンは赤くなって、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局その手を差出した。彼女がピンを突っ刺すと、まさしく彼は笑い出した。……彼女も声を立てて笑いながら、そのピンをかなり深く刺しこんで、むなしくあちこち外らそうとする彼の眼を、じっと覗き込むのだった。……
ジナイーダとマレーフスキイ伯爵の関係が、一番わたしにはわかりにくかった。なかなか美男子で、如才なく頭のはたらく男なのだが、しかし、ほんの十六歳の少年にすぎないわたしでさえ、この男には何かしら油断のならぬ、うさん臭いところがあるような気がした。しかもジナイーダが、それに気づいていないのが、わたしは不思議でならなかった。ひょっとすると彼女は、そのうさん臭さに気づいていながら、別にそれが厭でなかったのかもしれない。なにしろ教育も変則なら、つきあいや習慣も風変りだし、しょっちゅう母親はそばにいるし、家の内情は貧乏で乱脈だし、かてて加えて、若い娘の身で気まま勝手はしたい放題、それに、ぐるりの連中より一段も二段も上だという意識もあるし──というわけで、そうした一切合財があわさって、彼女のうちに、一種こう人を小馬鹿にしたような無頓着さや投げやりな態度を、養ったのである。何事がもちあがろうが──よしんばヴォニファーチイが入って来て「砂糖がきれました」と言上に及ぼうが、何か忌わしい世間の陰口が耳に入ろうが、客の中で喧嘩が始まろうが──彼女はただ、豊かな捲髪を一振りして、「くだらない」と言うだけで、けろりとしていた。
お陰でわたしは、全身の血がカッと燃え立つような思いをすることが、よくあった。たとえばマレーフスキイが、まるで狐みたいに狡そうに肩を揺すりながら、彼女のそばへ寄って行って、彼女の掛けている椅子の背に、伊達な格好をしてもたれかかり、さも得意げな、追従たらたらの薄笑いを浮べながら、彼女の耳に何かささやきだす。すると彼女は、両手を胸に組んで、まじまじと彼を見つめながら、やがて自分も微笑を浮べ、首を振ったりするのである。
「あなたは、どこが好くて、マレーフスキイさんなんかを家へ入れるのです?」と、ある時わたしは彼女に訊いてみた。
「だって、あの人の髭、すてきじゃなくて!」と、彼女は答えた。──「でもそんなこと、あなたの知ったことじゃないわ」
また別の時、彼女はわたしに、こう言ったことがあった。
「わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない? 違うわ。わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしの欲しいのは、向うでこっちを征服してくれるような人。……でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね! わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ」
「すると、決して恋をしないというわけですね」
「じゃ、あなたをどうするの? わたし、あなたを愛していなくって?」そう言うと彼女は、手袋の先で、わたしの鼻をたたいた。
全くジナイーダは、さんざんわたしを慰み物にした。三週間の間、わたしは毎日彼女に会っていたが、その間に彼女がわたしに向ってやらなかったことは、何一つ、全く何一つなかった、と言っていいほどだ! 彼女の方でわたしの家へ来ることは、あまりなかったが、それはわたしにとって痛事ではなかった。うちへ来ると、彼女はたちまち、令嬢──つまり公爵令嬢に、早変りしてしまうし、こっちでも彼女を敬遠していた。わたしは、母に見破られるのが怖かったのだ。母はジナイーダに頗る悪意をいだいて、まるで仇のようにわたしたちを見張っていた。父の方は、大して怖くなかった。父は、わたしには気がつかない様子だったし、彼女ともあまり話をしなかったが、いざ話す時には、何か特別に気の利いた、もっともらしい話しぶりをしていた。
わたしは、勉強も読書もやめてしまった。郊外散歩や乗馬までも、やめてしまった。まるで足に糸をつけられたカブト虫みたいに、わたしはなつかしい傍屋のまわりを、絶えずぐるぐる回っていた。いいと言われれば、いつまでだってそこにいたはずだが……そうはいかなかった。母の小言もうるさいし、時には当のジナイーダから、追っ立てを食う始末だった。するとわたしは、自分の部屋へ引っこもるか、それとも庭のいちばん端まで行って、石造りの高い温室の崩れ残りへよじ登って、道路に面した壁から両足をぶらさげ、何時間も坐ったなりで、一心に眺めに眺めるのだったが、そのくせ何ひとつ目に入らなかった。わたしのそばには、埃をかぶったイラクサの上を、ものうげに白い蝶々が飛びかわしていた。元気な雀が一羽、少し先の、半ば割れた赤煉瓦の上に止って、絶えず全身をくるくる回し、尾をひろげて、癇にさわる鳴き声を立てていた。相変らず疑ぐりぶかい鴉の群れが、すっかり葉の落ちた白樺の高い高いてっぺんに止って、思い出したようにカアカア鳴いていた。太陽と風が、そのまばらな枝の間に、静かにたわむれていた。ドン修道院の鐘の音が、時おり、穏やかに陰気に響いてきた。──わたしはじっと坐って、見つめたり聞き入ったりしているうちに、何かしら名状しがたい感じで、胸がいっぱいになるのだった。その中には、悲しみも、喜びも、未来の予感も、希望も、生の恐れも、何から何までが含まれていた。けれど当時のわたしは、そんなものは何一つわかりもせず、また、自分の中に沸々とたぎっているすべてのもののうち、どの一つだって、それと名ざすだけの力はなかったろう。いや、いっそ、その一切をあげて、ただ一つの名──ジナイーダという名でもって、呼んだかもしれない。
ところがジナイーダは、猫が鼠をおもちゃにするように、相変らずわたしを弄んでいた。急にじゃれついてきて、わたしを興奮させたり、うっとりさせたかと思うと、こんどは手の裏を返すように、わたしを突っぱなして、彼女に近寄ることも、その顔を眺めることも、できないような羽目に落してしまう。
忘れもしないが、彼女が二、三日ぶっ続けに、とても冷たい態度をわたしに見せたことがある。わたしはすっかり怖気づいて、こそこそ彼女たちの傍屋へ這いこんでは、なるべく老夫人のそばに、くっついているようにしたものである。しかも折りも折り、夫人はひどく怒りっぽくなっていて、がなり散らしてばかりいたのだ。というのは、何か手形の件がうまくゆかないので、もう二度も、区の署長さんと掛け合ったところだったのである。
ある日、わたしが庭へ出て、例の垣根のそばを通りかかると、ジナイーダの姿が目にとまった。彼女は両手をわきについて、草の上に坐ったまま、身じろぎもせずにいる。わたしが、そっと遠ざかろうとすると、彼女はいきなり首を上げてさも命令するような合図をした。わたしは、その場に立ちすくんだ。どういうつもりなのか、一度では呑みこめなかったのだ。彼女は、もう一遍合図をした。わたしは、すぐさま垣根を飛びこえて、いそいそと彼女のそばへ駆け寄った。ところが彼女は、目でわたしを制して、彼女から二歩ほどのところにある小径を、指さして見せた。どうしたらいいのかわからず、当惑して、わたしは小径の縁にひざまずいた。見ると彼女の顔は真っ蒼で、なんとも言えず痛ましい悲哀と、深い疲れの色が、目鼻だちのくまぐまに刻まれているので、わたしは心臓が締めつけられるような気がして、思わずこう口走った。「どうかしたのですか?」
ジナイーダは片手を伸ばして、何か草の葉をむしると、歯で噛んで、ぽいと向うへ投げた。
「あなた、わたしがとても好き?」と、やがての果てに、彼女は訊いた。──「そう?」
わたしは、なんとも答えなかった。いまさら、なんの返事をすることがあろう。
「そう」と、彼女はなおもわたしを見つめながら、繰返した。──「そりゃ、そうだわね。まるで同じ眼だもの」そう言い足して、じっと考えこみ、両手で顔を隠した。やがて、「わたし、何もかも厭になった」とささやくように言った。──「いっそ、世界の涯へ行ってしまいたい。こんなこと、こらえきれないわ、とてもやってゆけないわ。……それに、行末はどうなるんだろう! ……ああ、つらい。……ほんとに、つらい!」
「なぜですか?」と、わたしは、おずおず尋ねた。
ジナイーダは返事をせずに、ただ肩をすくめただけだった。わたしは膝をついたまま、すっかり悄気かえって、彼女を見まもっていた。彼女の一言一句は、鋭くわたしの胸に突き刺さった。わたしはその瞬間、もし彼女の悲しみが消えるものなら、喜んで命を投げ出しもしたろう。わたしは、彼女を見つめているうちに、なぜそう辛いのか合点がゆかぬながらも、それでいて、彼女がにわかに堪えがたい悲哀の発作に襲われて、庭へ出てきて、ばったり地面に倒れた有様を、まざまざと心に描いていた。──あたりは青々と、光に満ちていた。風は木々の葉なみをそよがせ、時おり木苺の長い枝を、ジナイーダの頭上で揺すっていた。どこかで鳩が、ふくみ声で鳴き、蜜蜂はうなりながら、まばらな草の上を低く飛びかっていた。上には空が、優しく青みわたっているが、でもわたしは、なんとも言えずわびしかった。……
「何か、詩を読んでちょうだい」と、ジナイーダは小声で言って、片肘をついた。──「わたし、あなたが詩を読むところが好きなの。あなたのは、まるで歌うみたいだけれど、それで結構よ、若々しくっていいわ。あの、『グルジヤの丘の上』を読んで。──でも、まずお座りなさいな」
わたしは腰を下ろして、『グルジヤの丘の上』(訳注 プーシキンがカフカーズをさまよいながら、遠い恋人を思って作った抒情詩。その大意は、「グルジヤの丘の上、夜露かかり、アラグヴァの流れ、わが前にざわめく。われはわびしく楽しく、
わが悲しみは明るし。わが悲しみは、ただひとり君の姿にみたされて……このわびごころ、何ものの乱し騒がすものもなし。かくて胸は、またも燃え、恋いわたる……愛さでやまぬ胸なれば。」)を朗読した。
「《愛さでやまぬ胸なれば》」とジナイーダは繰返した。──「そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるのだもの。……愛さでやまぬ胸なれば──ほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!」彼女はまた黙り込んだが、突然ぶるんと身を震わして立ち上がって、「さ、行きましょう。お母さんのところに、マイダーノフが坐り込んでいるのよ。わたしにって、自分で作った叙事詩を持って来てくれたのに、ほっぽらかして来てしまったの。あの人も今頃は、きっと悄気てるわ。……でも、仕方がないのよ! やがてあなただって、わかる時が来るわ……ただね、わたしのこと、怒らないでちょうだいね!」
ジナイーダは、せかせかとわたしの手を握ると、先に立って駆け出した。二人は傍屋に帰った。マイダーノフは、やっと印刷になったばかりの自作の詩『人殺し』を朗読しだしたが、わたしはろくに聞いていなかった。彼は四脚の短長格を思いっきり声を引き引きがなり立てて、韻が入れかわり立ちかわり、まるで小鈴のような空ろで騒々しい音を立てたけれど、わたしはじっとジナイーダの顔を見たまま、彼女がついさっき言った言葉の意味を、しきりに考えていた。
さらずば、見知らぬ恋がたきが
にわかに君を 奪いゆきしや?
と、いきなりマイダーノフが鼻声でわめいた時、わたしの眼とジナイーダの眼がぶつかった。彼女は伏眼になって、顔を赤らめた。彼女が赤くなったのを見ると、わたしはびっくりして、五体が冷えわたった。わたしは、もう前々から彼女のことで妬いていたのだが、じっさい彼女が誰かに恋しているという考えは、やっとこの瞬間、わたしの頭にひらめいたのである。
『さあ大変だ! 彼女は恋をしている!』
わたしの本当の責苦は、その瞬間から始まった。わたしは頭が痛くなるほど考えつめたり、思案を重ねたり、考え直したりしながら、勿論できるだけこっそりと、執念ぶかくジナイーダを見張っていた。彼女に或る変化が生じたことはもはや明白だった。彼女は一人で散歩に出かけて、長いこと歩き回っていた。時によると、客たちに顔を見せずに、何時間も自分の部屋に引っこもっていた。それまでは、ついぞなかったことである。わたしは突然、ひどく目が見えだした。少なくも、見えだしたような気がした。
『あいつじゃないかしら? それとも、いっそあいつかな?』
とわたしは、彼女の崇拝者の一人からまた一人へ、せわしなく思いを馳せながら、胸の中で自問するのだった。なかんずくマレーフスキイ伯爵は、(もっとも、こんなことを認めるのは、ジナイーダのため心外の至りだったが)ほかの誰よりも危険人物のように、ひそかにわたしは思っていた。
わたしの炯眼は、残念ながら自分の鼻の先までしか届かず、また折角のわたしの密計も、誰ひとり瞞しおおせることはできなかったらしい。少なくともドクトル・ルーシンは、じきにわたしの腹を見抜いた。とはいえ彼だって、近頃は様子が変って、めっきり痩せもしたし、相変らず笑い上戸ではあったものの、その笑い声は妙に鈍く、毒を含んで、短くなったし、平生の軽い皮肉や、とってつけたような冷笑癖は、我にもない神経質ないらだちに変っていた。
「ねえ君、なんだってそうしょっちゅう、ここへやって来るんです」と彼は、ある日ザセーキン家の客間で二人きりになった時、わたしに言った。(令嬢はまだ散歩から帰って来なかったし、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。小間使と喧嘩していたのだ)──「若いうちにせっせと勉強しとかにゃならんのに、どうしたことです?」
「僕が家で勉強してるかどうか、あなたにはわからないでしょう」とわたしは、いささか高飛車に言い返したが、たじたじの気味もないことはなかった。
「何が勉強なものですか? そんなこと、君の頭にありはしませんよ。だがまあ、これ以上何も言いますまい……君の年頃では、まあ無理もないからな。ただし君の見当は、大いに狂っているですよ。この家がどういう家か、それが君には見えんのですか?」
「なんのことだか、わかりませんね」と、わたしは空とぼけた。
「わからないって? そりゃますますいかん。僕は義務として、一言君に注意します。我々甲羅をへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。なんのことがあるものですか? 我々は鍛錬ができてるからびくともしないです。ところが君は、まだ皮膚が弱い。ここの空気は、君には毒ですよ──ほんとですとも、うっかりすると伝染しますぞ?」
「どうしてです?」
「どうもこうもあったものですか。いったい君は、いま健康ですか? 果してノーマルな状態にありますか? 君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?」
「でも、僕が何を感じてるというんです?」と、わたしは言ったが、心の中では、なるほど医者の言う通りだと思った。
「いやいや、君は若い、まだ若い」と医者は、さもこの二つの言葉の中に、わたしに対する何かひどく侮蔑的な感じが籠めてありでもするような、そんな言いぶりで言葉を続けた。──「ごまかそうたって駄目ですよ。だってまだまだ、君の心にあることは、ちゃんと顔に出ているもの、ありがたいことにね。だがしかし、こんな話をしたって始まらない。第一この僕にしたって、こんな所へ来るはずはないんですよ、もしも……(医者は歯をくいしばった)……もしも、僕がこんな唐変木でなかったらね。ただ一つ、僕が不思議でならんのは、君のような頭のいい人が、自分のすぐそばで起っていることに、どうして気がつかないんだろうな?」
「でも、何が起っているんです」と、わたしは素早く相手を受けて、すっかり緊張した。
医者は、妙に嘲るような同情の色を浮べて、わたしをじろりと見た。
「なるほど、僕も大したものだ」と彼は、ひとり言のように言った。──「頗るもって、この人の耳に入れとく必要のあることだて。……まあ要するに」と、そこで声を高めて、「もう一遍言いますが、ここの雰囲気は君にはよくない。君はここで、いい気持になっているが、油断大敵ですぞ! そりゃ温室のなかだって、やはりいい匂いはするが、そこで暮すわけにはゆかんですからね。ねえ! 悪いことは言わないから、またあのカイダーノフ先生に戻りたまえ」
公爵夫人が入って来て、歯が痛いと医者にこぼしだした。やがてジナイーダが現われた。「そうそう」と、夫人は言い足した。──「ねえドクトル、この子を叱ってやって下さいな。一日じゅう、氷水ばかり飲んでいるんですよ。それが、体にいいことでしょうかねえ、胸が弱いくせに」
「なぜ、そんなことをなさるんです?」と、ルーシンが訊いた。
「やったら、どうなるとおっしゃるの?」
「なんですって? 風邪を引いて、死ぬかもしれませんよ」
「ほんと? まさか? でも、かまやしない──それが当然だわ!」
「おやおや!」と、医者はうなった。夫人は出て行った。
「おやおや」と、ジナイーダは口真似をして、「生きることが、そんなに面白いかしら? ぐるりを見回して御覧なさい。……どう、よくって? それともあなたは、わたしがそれさえわからない、感の鈍い女だと思ってらっしゃるの? わたしは、氷水を飲むといい気持なの。だのにあなたはこんな人生が、束のまの満足のために危険を冒してはならないほど大事なものだと、真顔でわたしに説教なさるおつもりね。──わたし、もう幸福なんかどうでもいいの」
「つまり、その」と、ルーシンが皮肉った。──「気まぐれと自分勝手。……この二語にあなたは尽きるんですな。あなたという人は、全部この二語のうちにありますよ」
ジナイーダは、神経質に笑い出した。
「証文の出しおくれよ、ドクトル先生。案外、目が利かないのねえ。だいぶ手おくれだわ。眼鏡でも、おかけになったら? わたし今、気まぐれどころじゃないの。あなた方をからかったり、自分を笑いものにしたり……そんなこと、何が面白いものですか! 自分勝手だとおっしゃるけれど……ね、ヴォルデマールさん」と、そこで突然ジナイーダは方角を変えて、小さな足をトンと鳴らした。──「そんな憂鬱な顔をしないでよ。わたし、人に同情されることなんか大嫌い」
彼女は足早に出て行った。
「君には毒だ。全く毒だよ、ここの空気は、ねえ君」と、またルーシンはわたしに言った。
その晩、ザセーキン家には常連が集まった。わたしもその中にいた。
話がマイダーノフの例の詩のことになると、ジナイーダはしんからそれを褒めちぎった。
「でも、よくって?」と、彼女はマイダーノフに言った。──「もし、わたしが詩人だったら、もっとほかのテーマでゆくわ。こんなこと、馬鹿げた話かもしれないけれど、でもわたし時々、妙な考えが頭に浮ぶのよ。ことに夜明け方、空がバラ色や灰色になってくる頃、眠れずにいるような時にね。わたしなら、そうねえ……。こんなこと言って、あなた方笑わないこと?」
「いいや、とんでもない!」と、わたしたちは異口同音に叫んだ。
「わたしならね」と彼女は、両手を胸に組んで、眼をわきの方へそそぎながら、言葉を続けた。──「若い娘が大勢、夜中に、大きな舟に乗って──静かな河に浮んでいるところ、それを書くわ。月が冴えている。そして娘たちは、みんな白い着物を着て、白い花の冠をかぶって、歌っているの。そうね、何か聖歌のようなものを」
「わかります、わかります。それから?」と、思わせぶりな空想的な調子で、マイダーノフが言った。
「すると不意に──岸の上に、ざわめきや、高笑いや、松明や、手太鼓があらわれるの。……それは、バッカスの巫女が群れをなして、歌ったり叫んだりして走ってくるのよ。まあ、この光景を写すのは、あなたにお任せするわ、詩人さん。……ただわたしの注文は、松明は真っ赤で、しかももうもうと煙をふいていること。それから、巫女たちの眼が、花の冠の陰でキラキラ光って、花の冠は黒っぽくしたいわ。虎の皮や、杯も、忘れないでちょうだい。──それに金だわ、金をどっさりね」
「その金は、いったいどこに使うのです?」と、マイダーノフは、平べったい髪の毛を後ろへ払いながら、鼻の穴をひろげて訊いた。
「どこにですって? 肩にも、腕にも、足にも、どこもかしこもよ。古代の女は、くるぶしに金の輪をはめていたというじゃありませんか。そこで巫女たちは舟の娘たちを呼ぶの。娘たちの歌ごえが、ぱったりやまる。──もう聖歌どころじゃありませんものね。でも娘たちは、そのままじっと身じろぎもしないの。河の流れに押されて、舟はだんだん岸へ寄って来ます。すると突然一人の娘が、そっと立ち上がるのよ。……ここのところは、よく描写しなければいけないわ。月の光を浴びて、その娘が静かに立ち上がるところや、ほかの友達がびっくりする有様をね。……で、その娘が舟ばたをまたぐと、巫女たちはワッとそれを取りかこんで、真っ暗な夜闇の中へ、さらって行ってしまうの。……ここは、煙が渦を巻いて、何もかもごっちゃになってしまうところを書くのよ。聞えるのは、巫女たちのキャッキャッいう声ばかり。そして、その娘の花の冠が、ぽつんと岸に残っているの」
ジナイーダは口をつぐんだ。(『ああ! 彼女は恋に落ちたのだ』と、わたしはまた考えた)
「それだけですか?」と、マイダーノフが訊いた。
「それだけよ」と、彼女は答えた。
「それだと、大がかりな、叙事詩のテーマにはなりかねますな」と、さも勿体らしく彼は指摘した。──「しかし、叙情詩の材料として、あなたのイデーを頂くとしましょう」
「ロマンティクなものですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「もちろん、ロマンティクなものです。バイロン風のね」
「が、僕に言わせると、ユーゴーはバイロンよりもいいですね」と、若い伯爵は何気なく口ばしった。──「面白い点でも上です」
「ユーゴーは第一流の作家です」と、マイダーノフは答えた。──「で、僕の友人のトンコシェーエフも、自作のイスパニア物語『エル・トロバドール』のなかで……」
「ああ、それ、あの疑問符が逆立ちしている本なのね?」とジナイーダが遮った。
「そうです。イスパニアでは、ああ書くことになっているんですよ。そこで僕の言いかけたのは、トンコシェーエフが……」
「おやおや! またあなた方の、古典主義だ浪漫主義だという議論が、始まるのね」と、またもやジナイーダは彼を遮った。──
「それより、何かして遊ばない?……」
「罰金ごっこですか?」と、ルーシンが受けた。
「いやだわ、罰金ごっこは退屈よ。比べごっこがいいわ」(この遊びは、ジナイーダが自分で考え出したものだった。何か一つ物を決めておいて、みんなでそれに似た何か別のものを考える。いちばんうまい比較を考えついたものが、褒美をもらうのである)
彼女は窓へ歩み寄った。日は沈んだばかりだった。空には、はるか高く、細長い赤い雲が幾筋も浮んでいた。
「あの雲は何に似ていて?」と、ジナイーダは訊いて、わたしたちの答えを待たずに、自分で、
「わたし、あの雲は、クレオパトラがアントニーを迎えに行ったとき、その金塗りの船に張ってあった緋色の帆に似ていると思うわ。ねえ、マイダーノフさん、あなたこの間、その話をして下すったわね?」
わたしたちはみんな、『ハムレット』の中のポローニアスよろしく、いかにもあの雲はその帆に似ている、これ以上うまい比較は誰にも見つかるまい、と決めてしまった。
「でもその時、アントニーは幾つだったのかしら?」と、ジナイーダが訊いた。
「そりゃ、きっと青年だったに違いないですよ」と、マレーフスキイが口を入れた。
「そう、若かったですな」と、自信たっぷりでマイダーノフが裏書きした。
「失礼ですが」と、ルーシンが大きな声を出した。──「もう四十を越していましたよ」
「四十を越して」とジナイーダは、すばやく一瞥を彼にくれて、鸚鵡返しに言った。
わたしは、まもなく家に帰った。
『彼女は恋に落ちた』と、我ともなく、わたしの唇はささやいた。……『だが、いったい誰に?』
日がたつにつれて、ジナイーダは、いよいよますます奇妙な、えたいの知れない娘になっていった。ある日、わたしが彼女の部屋へ入って行くと、彼女は籐椅子にかけて、頭をぎゅっと、テーブルのとがった縁に押しつけていた。はっと彼女は身を起したが……見れば顔じゅうべったり、涙にぬれていた。
「まあ、あなただったの?」と、彼女は薄情な薄笑いを浮べて言った。──「こっちへいらっしゃい」
わたしがそばへ行くと、彼女は片手をわたしの頭にのせて、いきなり髪の毛をつかむと、ぎりぎり捻じ回し始めた。
「痛い……」と、やがてわたしは音をあげた。
「おや! 痛いって! じゃ、わたしは痛くないの? 痛くないって言うの?」と、彼女は鸚鵡返しに言った。
「あら!」彼女は、わたしの頭から、ほんの一ふさ、髪の毛をむしり取ったのに気がつくと、いきなり大声をあげた。──「大変なことをしてしまったわ! 許してね、ヴォルデマールさん!」
彼女は、むしり取った髪の毛を丁寧にそろえると、自分の指に巻きつけて、小っちゃな輪に編んだ。
「わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけているわね」そう言った彼女の眼には、相変らず涙が光っていた。──「それで少しは、あなたの気も慰むかもしれないわ。……じゃ、今日はこれでね」
わたしが家に帰ってみると、不愉快なことが待ち構えていた。母が父を相手に言い合いをしていたのである。母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇懃な沈黙をまもっていたが、まもなく外へ出て行った。わたしには、母が何をまくし立てていたのか、聞えなかったし、それに、そんな心のゆとりもありはしなかった。ただ一つ覚えているのは、言い合いが済んだあとで母がわたしを居間へ呼びつけて、わたしがしげしげと公爵夫人のところに出入りすることについて、大いに不満の意を表し、あれはどんな卑しいこともしかねない女だと、罵ったことである。わたしは母のそばへ寄って、身をかがめてその手にキスすると(これは会話を打切ろうと思う時の、わたしの常套手段だった)、そのまま自分の部屋へ戻った。
ジナイーダの涙で、わたしはすっかり動転してしまった。わたしは、いったいどう考えたらいいものか途方に暮れて、こっちが泣き出さんばかりだった。年こそ十六になっていたけれど、わたしはまだほんの赤ん坊だったのである。もうマレーフスキイのことなどは、念頭になかった。ただしベロヴゾーロフは、日増しにだんだん殺気だっていって、この油断のならない伯爵を、まるで狼が羊をねらうような目つきで睨んでいたが、わたしときたらもう、何事も、誰の事も、てんで考えなかった。わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のない寂しい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あの崩れ落ちた温室だった。わたしはよく、そこの高い塀へよじ登って、腰を下ろし、いつまでもじっと坐っていた。その自分の姿が、いかにも不幸で孤独で侘しげな一個の若者といった格好なので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。そして、そうした悲哀に満ちた感覚が、なんとも言えず嬉しかったのだ。わたしはそれに夢中になっていたのだ! ……
さて、ある日、わたしは塀の上に坐って、遥かかなたに眺め入りながら、鐘の響きに耳をすましていたが……その時不意に、何ものか、わたしの身をかすめて過ぎたものがあった。そよ風かと思えば、そよ風でもない。さりとて、身震いでもなく、いわばそれは何かの息吹きか、それとも誰かが近づいてくる気配とでも言うか、そんな感じであった。……わたしは視線を落した。すぐ下の道を、軽やかな灰色がかった服を着て、バラ色のパラソルを肩にして、急ぎ足でジナイーダが歩いていた。彼女はわたしに気がつくと、立ち止って、麦藁帽子の縁を押し上げ、ビロウドのような眼でわたしを見上げた。
「そんな高いところで、何をしてるの?」彼女はなんだか異様な微笑を浮べて訊いた。「そうそう」と、すぐまた言葉を続けて、「あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。──そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。もし、本当にわたしを愛しているのなら」
ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小突かれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。塀の高さは三、四メートルほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍子に、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。わたしはどさりと倒れて、一瞬間、気が遠くなった。やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダのいることがわかった。
「可愛いわたしの坊や」と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。──「どうしてあんたは、こんなことができたの、どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。……わたしだって、こんなに愛してるのに。……さ、お起き」
彼女の胸は、わたしの胸のすぐそばで息づき、その両手は、わたしの頭を撫でていた。すると、突然──その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう! 彼女の柔らかなすがすがしい唇が、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。……やがては、わたしの唇にも触れたのだ。……だが、そこでジナイーダは、わたしの顔の表情からして、相変らず眼を上げずにはいるものの、もうわたしが意識を取戻したことを察したものと見えて、素早く身を起すと、こう言い放った。──
「さ、起きるのよ、向う見ずなお茶目さん。こんな埃の中に、いつまで寝ているつもり?」
わたしは起き上がった。
「パラソルを取ってちょうだい」と、ジナイーダは言って、──「まあわたし、あんな所へ放り出してしまったわ。だめ、そんなにわたしの顔を見ちゃ。……なんてお馬鹿さんなの、あなたは? どこか怪我しなかったこと? イラクサに刺されて、ちくちくしやしなくって? そう言っているのよ、わたしの顔を見ちゃいけないって。……まあ、この人ったら、なんにもわからないんだわ、返事ひとつしやしない」と彼女は、ひとり言のように言い添えた。──「早くうちへお帰りなさい。ヴォルデマールさん。そして、奇麗にしなさい。わたしのあとから、のこのこついて来たりしたら、承知しないわよ。そんなことをしたら、もう二度と再び……」
彼女は、終りまで言いきらずに、さっさと向うへ行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ。……足がいうことをきかないのだ。イラクサに刺された手がひりついて、背中はずきずきするし、頭はくらくらしていた。でも、その時わたしが味わったような至福の感じは、わたしの生涯にもはや二度と再び繰返されなかった。それは甘美な苦痛をなして、わたしの五体に宿っていたが、やがて法悦はついに堰を切って、わたしは踊り上がったり、わめき立てたりした。全く、わたしはまだほんの赤ん坊だったのだ。
その日は一日じゅう、わたしは堪らないほど浮き浮きと誇らかな気持だった。のみならず、ジナイーダのキスの感触も、顔一面にありありと残っていたので、わたしは興奮に身震いしながら彼女の言葉を一つ一つ思い浮べたり、自分の思いがけない幸福を、胸の底で愛でいつくしんだりしていた。それで、現にそうした新しい感覚の源をなした当の彼女に会うのが、むしろ怖ろしくなって、できることなら会いたくない、と思ったほどであった。もうこの上、何ひとつ運命から求めてはいけない、今こそ『思いっきり、心ゆくまで最後の息をついて、そのまま死んでしまえばいいのだ』と、そんな気持がした。
そのむくいは、てきめんで、あくる日わたしは傍屋へ出かける道々、ひどい当惑を感じた。それは、自分こそ秘密を守れますぞと、他人に見せつけたがっている人間に通有の、控え目な磊落の仮面などでは、とても匿しおおせるものではなかった。ジナイーダはいささかの心の乱れも見せず、すこぶる無造作にわたしを迎えたが、ただ指を一本立てて脅かす真似をして、どこか青あざはできなかったかと訊いた。わたしの折角の控え目な磊落さも、ものものしい態度も、その瞬間に消しとんでしまったばかりか、それと一緒に、うじうじした当惑の感じもなくなった。勿論わたしは、何も特別なことを期待していたわけではないが、とにかくジナイーダの落着きはらった態度にぶつかって、まるで頭から冷水を浴びせかけられたような体たらくだった。自分は、この人の目から見ればほんの赤ん坊なのだ──と、わたしはしみじみ思い知って、ひどく辛い気持がしてきたのだ! ジナイーダは部屋のなかを行ったり来たりしていたが、わたしの顔を見るたびごとに、素早い微笑を浮べてみせた。とはいえ、彼女の思いがどこか遠くにあることは、わたしにはありありと見て取られた。……
『いっそ、自分の方から、昨日の話を持ち出してみようか』と、わたしは考えた。──『あんなに急いで、いったいどこへ行ったのか、それを訊いて、すっかり泥を吐かせてしまおうか。……』とは思ったものの、わたしはただ片手を振っただけで、隅の方に腰を下ろした。
ベロヴゾーロフが入って来た。彼が来たので、わたしは嬉しかった。
「実は、あなたの御用に立つようなおとなしい馬が、まだ見つかりませんでね」と彼は、つっけんどんな声で言った。──「フライタークのやつが、きっと一頭だけ受けあったと言うのですが、どうも信用できません。危ないものですよ」
「なぜ危ないなんて、お思いになるの」と、ジナイーダは訊いた。──「伺いたいもんだわ」
「なぜですって? だってあなたは、馬の心得がないじゃないですか。ひょっとして、どんなことがもちあがるか、わかりませんからねえ! だがそれにしても、急に馬に乗ろうなんて、えらい気まぐれを起されたものですねえ」
「ふふ、それはわたしの勝手よ、親愛なる猛獣さん。そんなわけでしたら、わたし、ピョートル・ヴァシーリエヴィチにお願いするわ。……」(わたしの父は、ピョートル・ヴァシーリエヴィチという名だった。わたしは、彼女が父の名をさも気軽に、楽々と口にするのにびっくりした。まるで父ならば、いつでも彼女の御用命に応ずるように、響いたからである)
「おやおや」と、ベロヴゾーロフがやり返した。──「あなたは、あの人と一緒に遠乗りなさるおつもりでしたか」
「あの人とだろうと、ほかの人とだろうと、あなたの知ったことじゃなくてよ。ただ、あなたとではないことは、はっきりしているわ」
「僕とではない」と、ベロヴゾーロフは鸚鵡返しに──「どうぞ御随意に。まあいいです。とにかく馬は、手に入れて差上げますよ」
「でも、よくって、牛みたいなのろくさしたのだったら、願い下げよ。よく申上げときますけど、わたしはギャロップで飛ばしたいのよ」
「ギャロップも結構でしょう。……でもそれは、マレーフスキイとですか? え、誰となんですか?」
「おや、あの人とじゃいけなくって、軍人さん? まあ安心してちょうだい」と、彼女は言い添えた。──「あんまり目に角を立てないでね。あなたとも一緒に行くつもりよ。あなただって知ってるでしょう、──マレーフスキイなんて、今じゃわたしにゃ、ぴ、ぴーだわ!」そう言って、彼女はかぶりを振った。
「そんなことをおっしゃるのは、僕の気休めのためですね」と、ベロヴゾーロフはふてくさった。
ジナイーダは眼を細めた。
「そんなことが気休めになるの? おやまあ、あきれた軍人さんだこと!」と、彼女はやがての果てに、ほかの言葉が見当らないような調子で、そう言った。──「で、ヴォルデマールさん、あなた、わたしたちと一緒にいらっしゃる?」
「僕は苦手なんです……大勢の人前へ出るのは……」とわたしは、眼を上げずにつぶやいた。
「あなたは、差向いの方がいいのね?……いいわ。自由な者には自由を、救われた者には……天国を与えよだわ」と彼女は、ほっと溜息をついて言った。──「よくって、ベロヴゾーロフさん、一肌脱いでちょうだいね。わたし馬は、明日要るんですから」
「でもね、お金はどこから入るの?」と、公爵夫人が、口を入れた。
ジナイーダは眉をしかめた。
「お母様に出して頂こうとは言やしないわ。ベロヴゾーロフさんが一時立て替えて下さるわよ」
「立て替えて下さる、立て替えて……」と、公爵夫人はぼそぼそ言ったが、突然、声を限りにわめき立てた。──「ドゥニャーシカや!」
「ママ、呼鈴があげてあるじゃないの」と、令嬢が注意した。
「ドゥニャーシカや!」と、老夫人はまたどなった。
ベロヴゾーロフは別れを告げた。わたしも一緒に帰った。ジナイーダは、わたしを引留めなかった。
あくる朝、わたしは早く起きて、庭の木で杖を一本作ると、城門の外へ出て行った。ちょっと散歩をして、うさ晴らしをしてやれ、と思ったのである。からりと晴れた日で、日ざしは明るかったが、暑いほどではなかった。快いさわやかな風が、地上をさまよって、あらゆるものをそよがせながら、しかもざわつかせるほどではなく、適度にさやさやと戯れていた。わたしは長いこと、山や森を歩き回った。わたしは自分を、幸福だと思っていたわけではない。現に家を出た時も、思うさま憂愁にひたりに行くつもりだったのである。──ところがやがて、青春や、ほがらかな天気や、さわやかな空気や、さっさと歩く快さや、茂った草の上にひとり身を横たえる酔い心地や──そうしたものの方が勝ちを占めてしまった。あの忘れられぬ言葉のふしぶしや、あのキスの雨の思い出が、またもやわたしの胸にこみあげて来た。とにかくジナイーダは、わたしの思い切った勇敢な振舞いを正当に認めずにはいられないのだ──と、そう思うと愉快だった。……
『あの人の目には、ほかのやつらの方が、立派に見えるのだ』と、わたしは考えた。──『なあに、かまうもんか! その代り、やつらはただ、やりますと言うだけだが、僕は、見事やってのけたんだからな! それにあの人のためなら、まだまだどえらいことをやって見せられるんだからな』
いろんな空想が、働き始めた。わたしは、自分が彼女を敵の手中から救い出す有様や、血まみれになった自分が彼女を牢屋から奪い出す光景や、そしてとうとう彼女の足もとで死ぬ場面を、次々に心に描き出した。わたしは、うちの客間にかかっている絵を思い出した。それは、マレク・アデルがマティルダを奪い去るところだったが、──ちょうどその途端に、まだらな大きなキツツキが現われて、ほっそりした白樺の幹をせかせかと登り始めたので、すっかりそのほうに気を取られてしまった。キツツキが幹の陰から、心配そうな顔を右に左にのぞかせる格好は、コントラバスの首の陰から楽師が首をのぞかせる様子にそっくりだった。
それからわたしは、『白き雪にはあらねども』を歌い出したが、それがやがて、その頃はやっていた『そよ風ふけば、われ君を待つ』という歌謡にかわり、しばらくするとわたしは大声で、ホミャコーフの悲劇のなかの、星に呼びかけるエルマークの言葉を朗読し出した。そうかと思うとまた、多情多感な一編の詩を作ろうと野心を起して、全編の結句になるべき一行をさえ思いついた。それは、『おお、ジナイーダ! ジナイーダ!』という句だったが、結局ものにならなかった。
そうこうするうちに、そろそろ昼飯の時刻になった。わたしは谷間へ下りて行った。細い砂の小道が、谷間をうねって、町へみちびいていた。わたしは、その小道を歩き出した。……ふと、何匹か馬の蹄の音が、後ろから鈍く響いてきた。わたしは振返ると、思わず立ち止って、ひさしのついた帽子をぬいだ。父とジナイーダの姿を、みとめたからである。二人は並んで馬を歩ませていた。父は何やらしきりに彼女に話しかけながら、胴体をすっかり彼女の方へ傾け、片手を馬の首についていた。父は微笑を浮べていた。ジナイーダは、きっと眼を伏せ、唇を噛みしめて、黙って父の言葉に耳を傾けていた。わたしがまず目にしたのは、この二人だけだったが、やがてすぐその後を追って、谷の曲り角から、ベロヴゾーロフの姿がぬっと現われた。外套のついた軽騎兵の軍服を着て、泡をふいた黒馬に乗っている。駿馬は首を振り振り、鼻息を立てて、踊りはねている。乗り手は、手綱を引いたり、拍車を当てたり、大騒ぎだ。わたしは、わきへよけた。父は手綱を引いて、ジナイーダから身を離し、彼女は静かに父を見上げた。──そのまま二人は、駆け去ってしまった。……ベロヴゾーロフは、サーベルをがちゃつかせて、まっしぐらにそのあとを追った。
『あいつ、蝦みたいに赤くなってる』と、わたしは心に思った。──『それにひきかえ、なぜ彼女はあんなに青いんだろう? 朝いっぱい馬を乗りまわしたくせに──青い顔をしているとは?』
わたしは歩みを二倍ほども早めて、やっと昼飯のまにあった。父はもう服を改め、顔を洗ったあとのさっぱりした気色で、母の肘掛椅子のそばに腰を下ろして、持ち前のなだらかな響きのいい声で、『討論新聞』の雑録欄を読んでやっていた。母の方は、あまり身を入れずに聞いていて、わたしの姿を見ると、一日どこへ雲隠れしていたのかと尋ねた。かてて加えて、どこの馬の骨だか知れないような相手と、わけのわからない場所をうろつくのは、だい嫌いだよと言い足した。でも僕は、一人で散歩していたのですよ──と、わたしは答えようとしたが、ふと父の顔をうかがうと、なぜか黙ってしまった。
それから五、六日というもの、わたしはほとんどジナイーダに会わなかった。彼女は、体のぐあいが悪いと言っていたが、それでも傍屋の常連が入れ代り立ち代り、彼らのいわゆる『当直』にやってくるのは、一向さしつかえなかった。ただ一人例外はマイダーノフで、彼は感激する機会がなくなると、たちまち気落ちがして、悄気返ってしまった。ベロヴゾーロフは、軍服のボタンをきちんとかけて、真っ赤な顔をして、不機嫌に隅の方に坐っていた。マレーフスキイ伯爵の華奢な顔には、なんだか不気味な微笑が、絶えず漂っていた。彼は今や、まさしくジナイーダの寵愛を失ったので、老夫人に取入ろうと格別の勉励ぶりを示し、貸馬車で夫人のお供をして、総督の所へ出かけさえした。もっとも、この遠征は失敗に終ったのみならず、マレーフスキイは厭な目にまであわされた。総督は逆手をとって、彼がいつぞや土木局の連中を相手にもちあげたさる醜聞を、わざわざ言い出したので、彼は弁明これ努めて、何分にもあの頃はまだ未経験だったので──と、かぶとを脱がざるを得なかった。
ルーシンは、日に二度ぐらいやって来たけれど、長居はしなかった。わたしは、この間の言い合い以来、この男がいささか煙たくなったと同時に、しん底から彼に惹きつけられるような気持もしていた。彼はある日、わたしと一緒にネスクーチヌィ公園へ散歩に出かけたが、その時はひどく親切で愛想がよく、いろんな草や花の名前や特性を教えてくれたりしていたが、やがて突然、それこそ薮から棒に──額をぴしゃりと叩いて、こう叫んだ。
「ああ、俺は馬鹿だよ。あの人のことを、ただのコケットだと思ってたのだからなあ? どうやらこの世の中には、自分を犠牲にすることが楽しいような連中も、あるものと見えるなあ」
「それは、なんのことですか」と、わたしは訊き返した。
「いや、君には何も話したくないですよ」と、吐き出すようにルーシンは答えた。
ジナイーダは、わたしを避けていた。わたしの顔が見えると──これはわたし自身、いやでも気づかざるを得なかったのだが──彼女は厭な気持がするらしかった。彼女は無意識に、わたしから顔をそむけた……無意識にである。それがわたしには実に辛く、身を切られるような思いだった! しかし、どうにも仕方がないので、わたしはなるべく彼女の目に触れないようにして、ただ遠くから彼女を見張っていることにしたが、これまた、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼女には相も変らず、何やら不可解なことが起りつつあった。すっかり面変りがして、何から何まで、まるで別人のようになってしまった。
なかでも、彼女に生じた変化が格別わたしの胸を打ったのは、ある暖かい、静かな日暮れのことであった。わたしは、枝をひろげた一叢のニワトコの陰の、低いベンチに腰掛けていた。わたしは、この場所が好きだった。ジナイーダの部屋の窓が、そこから見えたからである。わたしが坐っていると、頭の上の、すっかり暗くなった茂みの中で、小鳥が一羽しきりにかさこそいわせていた。灰色の小猫が、背中をまっすぐ伸ばして、そっと庭へ忍び込んだ。すでに明るくはないけれど、まだ透いて見える空気のなかを、先陣のカブト虫たちが、重々しい唸りを立てて飛んでいた。わたしは坐ったまま窓を眺め、いつか開きはしまいかと待ち受けていた。果して、窓は開いて、ジナイーダが姿を見せた。白い服を着ていたが、彼女自身も、顔から肩、そして両手まで、真っ白なほど青ざめていた。彼女は長いこと、身じろぎもせずに、ひそめた眉の下から、じっとまっすぐ前を、いつまでも見つめていた。そんな目つきをする彼女を、わたしはついぞ見たこともなかった。やがて彼女は、両手をかたくかたく握りしめ、それをまず唇へ、それから額へ持っていったが──そこで、突然ぱっと指をひろげると、両の耳から髪の毛を払いのけ、さっと一振り髪を振上げたかと思うと、何か決心がついたといったふうに、頭を上から下へ大きくうなずかせ、ぱたんと窓を閉めた。
三日ほどしてから、わたしは庭で彼女に出会った。わたしがわきへ避けようとすると、彼女の方で引止めた。
「手を貸してちょうだい」と、彼女は、以前の情愛のこもった調子で言った。──「わたしたち、長いことおしゃべりをしなかったことね」
わたしは彼女の顔をうかがった。その眼は静かに光って、顔は、まるで靄をとおして見るように、ほほ笑んでいた。
「まだずっと、お加減が悪いのですか」と、わたしは尋ねた。
「いいえ、もうすっかりいいの」と彼女は答えて、小さな紅いバラを一輪摘み取った。──「すこし疲れているけれど、これもじきに直るわ」
「で、また元通りのあなたになって下さるんですね?」と、わたしは訊いた。
ジナイーダは、バラを顔へ近づけた。すると、あざやかな花びらの照返しが、彼女の頬を染めたように思われた。
「ほんとに、わたし変ったかしら?」と、彼女は訊き返した。
「ええ、変りました」と、わたしは小声で答えた。
「わたし、あなたに冷たくしたわ──それは自分でもわかっているの」と、ジナイーダは言い始めた。──「けれど、あなたがそれを気にすることなんか、なかったのよ。……わたし、外に仕方がなかったんだもの。……でも、こんな話をしても始まらないわ!」
「あなたは、僕があなたを愛するのが厭なんです──それなんです!」と、わたしは思わずカッとなって、陰気な調子で叫んだ。
「いいえ、愛してちょうだい。けれど、前のようにではなしにね」
「というと?」
「お友達になりましょうね──それがいいのよ!」ジナイーダは、わたしにバラの花を嗅がせて、──「ね、よくって、わたしあなたよりずっと年上なんだから──叔母さんにだってなれるはずよ、ほんとに。また、叔母さんでないまでも、姉さんになら立派になれるわ。そこであなたは……」
「僕は、どうせ赤ん坊ですよ」と、わたしは遮った。
「ええ、そう、赤ちゃんね。けれど、可愛らしい、おとなしい、利口な子だから、わたし大好きなのよ。ああ、そうそう、こうしたらいいわ。わたし、今日からあなたを、わたしのお小姓に取立ててあげるわ。そこで、お小姓というものは、御主人のそばを離れてはいけないということを、忘れてはいけませんよ。さ、これが、あなたの新しい位のしるし」と、彼女は言い足して、わたしの短い上着のボタンに、バラの花を挿してくれた。──「わたしの御寵愛のしるしよ」
「僕は前には、もっと別の寵愛を受けていましたよ」と、わたしは口をとがらした。
「まあ!」と、ジナイーダは言って、横合いからわたしの顔をちらりと見た。──「この人の覚えのいいこと! いいわ、今だってかまやしないわ。……」
そう言って、わたしの方へ身をかがめると、わたしの顔に、清らかな静かなキスを、一つしてくれた。
わたしはそういう彼女の顔を、ほんのちらりと見上げただけだが、彼女はくるりとそっぽを向いて、「あとからついて来るのよ、お小姓さん」と言い捨てると、さっさと傍屋の方へ歩き出した。
わたしは、続いて歩き出したが、心の中で絶えず疑いまどっていた。『いったい』と、わたしは考えるのだった、──『このしとやかな、思慮ぶかい娘が、これまでわたしの知っていたあのジナイーダなのかしら?』思いなしか、彼女の歩きつきまでが、前よりも静かになったような気がした。その姿もおしなべて、一層立派になって、すらりとしてきたような気がした。……
そして、我ながらいじらしいことだが、わたしの胸の恋情は、なんという新しい力をもって、燃え立ったことだろう!
夕食のあとで、また常連が傍屋に集まって、令嬢もその席へ出てきた。わたしにとって終生わすれがたいあの最初の晩のように、そこには全員が、一人も欠けずにそろっていた。ニルマーツキイまでが、のこのこやって来ていた。マイダーノフは、その晩イの一番にやって来たが、つまり新作の詩を持参に及んだわけだった。またもや罰金ごっこが始まったけれど、もう以前のような突飛な振舞いも、悪ふざけも、馬鹿騒ぎもなくて、──ジプシーめいた要素は消えうせていた。
ジナイーダが、わたしたちの一座を、新しい気分のものに切り替えたのだ。わたしは小姓の役目がら、彼女のそばに席を占めた。そうこうするうちに、やがて彼女は罰金に当った人が自分のみた夢の話をすることを提案したけれど、これはうまくゆかなかった。さっぱり面白くもない夢だったり(たとえばベロヴゾーロフは、愛馬にフナを食わせたが、その馬の首が木になっていた──という夢を見た)、あるいは不自然な、わざとでっちあげた夢だったりした。マイダーノフは、一編の小説をもって、我々をもてなした。そこには、アーチ形の古めかしい墓穴が出てきたり、竪琴を抱いた天使が現われたり、物を言う花だの、はるかに漂ってくる楽の音だの、たいした道具だてだった。ジナイーダは、終りまで話させなかった。
「一旦もう、作り話になったからには」と、彼女は言った。──「こんどはみんな、何か話をすることにしましょう。自分で考えた話でなくちゃ駄目よ」
さて、まず第一に話をする番にあたったのは、またもベロヴゾーロフだった。
若い軽騎兵は閉口して、
「僕は、話なんか考え出せませんよ!」と、わめいた。
「また、そんなつまらないことを!」と、ジナイーダは引取って、──「じゃ、たとえば、あなたがお嫁さんをもらったと考えてみるのよ。そこであなたが、お嫁さんと一緒にどんな風に暮すか、それを話してみるといいわ。あなたなら、お嫁さんを閉じ込めてしまうでしょうね?」
「閉じ込めるです」
「で、ご自分も一緒にいるんでしょうね?」
「自分も、必ず一緒にいます」
「結構だわ。でももし、お嫁さんがそれに飽きて、あなたを裏切るようなことをしたら?」
「殺してしまうです」
「でも、お嫁さんが逃げだしたら?」
「追っかけて捕まえて、やはり殺してしまうです」
「そう。でもね、かりにこのわたしが、あなたのお嫁さんだったとしたら、どうなすって?」
ベロヴゾーロフは、ちょっと絶句してから、
「そしたら、僕は自殺します……」
ジナイーダは笑い出した。
「どうもあなたの歌は、ぽつんと切れてしまうわねえ」
二番目の罰金は、ジナイーダに当った。彼女は、眼を天井へ上げて考え込んだ。
「じゃ、いいこと」と、彼女はやがて話し出した。──「私の考え出した話なのよ。……まず、立派な御殿を想像してちょうだい。夏の夜で、すばらしい舞踏会があるの。その舞踏会は、若い女王のお催しなのよ。どこもかしこも、金や、大理石や、水晶や、絹や、灯火や、ダイヤモンドや、花や、お香や、あらんかぎりの贅沢なもので、いっぱいなの」
「あなたは、贅沢がお好きですか?」と、ルーシンが遮った。
「贅沢って、奇麗ですものね」と、彼女は答えた。──「わたしなんでも奇麗なのが好き」
「立派なものよりもですか」と、彼が訊いた。
「なんだか、ひねくった言いようね。よくわからないわ。まあ、邪魔しないでちょうだい。とにかく、すばらしい舞踏会なの。お客も大勢いて、それがみんな若くて、立派で、勇敢で、みんな夢中で女王様に恋しているの」
「客の中に、女性はいないのですか?」と、マレーフスキイが訊いた。
「いないの。でも、ちょっと待って──やっぱり、いるわ」
「みんな不器量なんですね?」
「すばらしい美人ぞろい。でもね、男はみんな、女王に恋してるの。女王は背が高くて、すらりといい姿で、真っ黒な髪のうえに、小さな金の王冠を載せているの」
わたしは、ジナイーダをちらと見た。と、その瞬間、彼女は我々みんなよりも、ずっと高貴な存在に思われ、その白い額からも、じっと動かない眉からも、なんとも言えない明るい知恵や威力が、匂ってくるような気がして、わたしは思わず、『あなたこそ、その女王だ!』と、心に叫んだほどだった。
「みんな、女王様のまわりに、ひしめき合ってね」と、ジナイーダは話を続けた。──「あらん限りのお追従を奉るの」
「ほう。女王様は、お追従が好きなんですね?」と、ルーシンが聞きとがめた。
「やりきれないわね、この人は! まぜっ返してばかりいて。……お追従の嫌いな人が、どこの世界にあって?」
「もう一つだけ、最後に伺いたいですが」と、マレーフスキイが口を出した。──「その女王には、夫があるのですか」
「わたし、そんなこと考えもしなかったわ。いいえ、夫なんて要るもんですか」
「そうですとも」と、マレーフスキイは相槌を打った。──「夫なんて、要るものですか」
「静かに!」とフランス語のからっ下手なマイダーノフが、フランス語で叫んだ。
「ありがとう」と、ジナイーダは彼に酬いて、──「さて女王は、そんなお追従に耳をかしたり、音楽を聴いたりしているけれど、その実お客の誰一人にだって、目もくれないの。六つの大窓が、上から下まで、天井から床まで、すっかりあけ放たれて、その外には、大きな星くずをちりばめた暗い夜空や、大きな木々の茂った暗い庭があります。女王は、その庭に見入っているの。そこには、木立のそばに噴水があって、闇の中でも白々と、長く長く、まるで幻のように見えています。女王の耳には、人声や音楽の合間々々に、静かな水音が聞えるのです。女王は、闇に見入りながら、こんなことを考えるの──皆さん、あなた方はみんな、貴い生れで、賢くて、お金持です。あなた方は、わたしを取巻いて、わたしの一言一句を重んじて、わたしの足もとで死ぬ覚悟でいらっしゃる。つまりわたしは、あなた方の生死を、わたしの手に握っているわけです。……ところが、あの噴水のそばには、あのさわさわと鳴る水のそばには、わたしの愛する人、わたしの生死をその手に握っている人が、たたずんで、わたしを待っているのよ。その人は、おごった衣裳も着ていないし、宝石もつけてはいず、誰もその名を知る人はありません。けれど、その人はわたしを待ち受けているし、また、わたしがきっと行くものと信じきっています。──ええ、わたしは行きますとも。一旦わたしが、その人のところへ行って、一緒になろうと思ったら最後、わたしを引留めるほどの力は、この世のどこにもありはしない。そこでわたしは、あの人と一緒に、あの庭の暗がりへ、木立のそよぐもとへ、噴水のさわさわ鳴る陰へ、姿を消してしまうの……とね」
ジナイーダは口をつぐんだ。
「それは作り話ですか」と、マレーフスキイが鎌をかけた。
ジナイーダは、見向きもしなかった。
「だが諸君、いったいどんなものでしょうな」と、出し抜けにルーシンが言い出した。──「かりにもし、我々もそのお客さんの中にいて、しかもその噴水のほとりの仕合せ者のことを知っているとしたら、我々は果して、どうするだろうか」
「待って、ちょっと待って」と、ジナイーダが遮った。──「あなた方が一人々々どうなさるか、わたし自分で言ってみるわ。あなたはね、ベロヴゾーロフさん、その人に決闘を申込むわね。マイダーノフさん、あなたは、その人に当てつけた諷刺詩を書くわ。……でも、そうじゃないわ──あなたは諷刺詩が書けないから、バルビエ風の短長格の長詩でも作って、その力作を『テレグラフ』誌に発表なさるわ。それから、ニルマーツキイさん、あなたはその人から、お金を借り出すわ……じゃない、あべこべにお金を貸して、利息を取るわね。ところで、あなたは、ドクトル……」彼女は言いよどんだ。「そうねえ、あなたのことはわからないわ、どうなさるか」
「僕は侍医の役目として」と、ルーシンは答えた。──「その女王を諌めますな。お客どころでない非常時に、舞踏会なんか催さないようにね。……」
「なるほど、おっしゃるとおりかもしれないわね。ところで伯爵、あなたは?……」
「わたしは?」と、例の不気味な微笑を浮べて、マレーフスキイが鸚鵡返しに言った。
「あなたなら、毒の入ったお菓子を、その人にすすめるわね」
マレーフスキイの顔は、かすかに引きつって、一瞬間ユダヤ人のような表情を帯びたが、すぐ高笑いにまぎらしてしまった。
「さてそこで、ヴォルデマールさん、あなたはどうするかと言うと……」と、ジナイーダは続けたが、──「でも、もうたくさんだわ。何かほかのことをして遊びましょう」
「ヴォルデマール君は、お小姓の資格で、女王様が庭へ駆け出す時、その裳裾を捧持するでしょうな」と、毒々しい口調でマレーフスキイが一矢をむくいた。
わたしはカッとなった。しかしジナイーダは、素早くわたしの肩に手を置くと、半ば身を起しながら、やや顫えを帯びた声で、こう言い放った。
「わたし、無礼な口をきく権利なんか、差上げた覚えはございません、伯爵。ですから、このまま御退席を願います」そう言って、ドアをさして見せた。
「とんだことです。お嬢さん」と、マレーフスキイはつぶやいて、真っ青になってしまった。
「令嬢の言われるとおりだ」と、ベロヴゾーロフはわめいて、やはり立ち上がった。
「わたしは、誓って言いますが、こんなこととは思いもかけなかったのです」と、マレーフスキイが続けた。──「わたしの言葉には、別にこれといったことも、ないようですし……第一、お気を悪くさせようなどという考えは、毛頭なかったのです。……許して下さい」
ジナイーダは、冷たい一瞥を彼に投げると、冷やかな薄笑いを漏らした。
「じゃ、いいわ、いらしても」と彼女は、無造作に手を一振りして言った。──「わたしもヴォルデマールさんも、つまらない向っ腹を立てたものだわ。あなたは、皮肉を言うのが楽しみなのね……たんとおっしゃるがいいわ」
「許して下さい」と、もう一遍マレーフスキイは繰返した。
一方わたしは、今しがたのジナイーダの手の振りようを思い浮べながら、本当の女王様でも、あれ以上の威厳をもって、無礼者にドアをさして見せることはできまいと、改めてまた心に思った。
この小さな一幕のあったあとは、罰金ごっこも長続きしなかった。みんないささか気詰りになってきたが、それは当のその一幕のためというより、もっと別の、あまりはっきりしないが何かしら重苦しい、ある感情のためであった。誰もそのことを口に出しこそしなかったけれど、みんなそれぞれ、自分の胸にも仲間の胸にも、そんな感情がわだかまっていることを意識していたのだ。やがて、マイダーノフが自作の詩を朗読すると、マレーフスキイは大げさな熱狂ぶりでもって褒めそやした。
「こんどは先生、善良に見られたがってるんですな」と、ルーシンがわたしに耳打ちした。
わたしたちは、まもなく散会した。ジナイーダは急に物思いに沈んでしまうし、公爵夫人は頭痛がすると言いによこすし、ニルマーツキイはリューマチが痛むと言い出す──といった始末だったからである。
わたしは、長いこと寝つかれなかった。ジナイーダのした話で、激しく心を打たれたのだ。
『ほんとにあの話には、何か暗示があるのだろうか?』と、わたしは自分に尋ねた。──『そしていったい誰を、そして何事を、彼女は仄めかそうとしたのだろうか? それにしても、暗示すべき事がちゃんとあるとすれば……思い切って言い出すことが、できるものかしら? いやいや、そんなはずはない』
わたしは、火照った頬を代る代る枕へ当て変えながら、そうささやいた。……とはいえわたしは、さっきあの話をした時のジナイーダの顔の表情を思い出し……それから、ネスクーチヌィ公園でルーシンが思わず発したあの叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変ったことまでも思い出して──すっかり訳がわからなくなるのだった。「その男は誰か?」これだけの言葉が、闇のなかにくっきりと印されて、わたしの眼の前に立っていた。まるでそれは、低い不吉な雲が頭上に垂れこめたみたいな気持で、わたしはその重圧をひしひしと感じながら、それが爆発する時を、今か今かと待ち構えていた。近頃になってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。彼らのふしだらさや、あぶら蝋燭の燃えさし、欠けたナイフやフォーク、陰気くさいヴォニファーチイ、尾羽うち枯らした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い──そんな奇怪千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。……だが、今ジナイーダの身に漠然と感じられる或ること、──それには何としても馴染むことができなかった。……「男たらし」と、わたしの母はいつぞや彼女のことを罵った。その「男たらし」である彼女が、わたしの偶像であり、わたしの神とあがめる存在なのだ! その悪罵が、わたしの胸を焼き焦がした。わたしはそれから逃れようと、枕に顔を埋めた。わたしは無性に腹が立ったが、同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、どんなことでも承知してみせるどんな犠牲でも払ってみせる、と思った。……
体じゅうの血が燃えたぎった。『庭……噴水……』と、わたしは思った。……『よし、ひとつ庭へ出てみよう』わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した。
闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、野菜ばたけからは、茴香の香りが漂ってきた。わたしは、何本かの並木道をすっかり歩いてしまった。自分の軽い足音が、わたしを当惑させもすれば、励ましてもくれた。わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、自分の心臓が早鐘のように高鳴るのに耳をすました。やがての果てに、わたしは垣根のそばへ行って細い棒ぐいに倚りかかった。と不意に──あるいは、そら耳だったろうか──わたしからつい五、六歩のところを、さっと女の姿がひらめいて過ぎた。……わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。これは何だろう? 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、──それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか?「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは言ったが、舌がもつれて、ほとんど聞き取れない声だった。また何か物音がした。あれは何だろう? 押し殺した笑い声か?……それとも、そよぐ木の葉か?……それとも、耳のすぐそばで漏らされた溜息か? わたしは、こわくなった。……「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは声を低めて、また言った。
空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。空には、一筋、火のような筋がきらめいた。星が流れたのだ。
『ジナイーダ?』と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしの唇で空しく消えた。そして突然、あたりのものみな、深い沈黙に沈んでしまった。真夜中にはよくあることである。……木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて──ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。わたしは、帰ろうとしては佇み、帰ろうとしては佇みしていたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝床へ帰った。わたしは、異常な興奮を感じていた。さながら逢引に出かけて行って、結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。
そのあくる日、わたしはジナイーダを、ほんのちらりと見ただけだった。彼女は公爵夫人と一緒に辻馬車に乗って、どこかへ出かけるところであった。そのかわりわたしは、ルーシンに会った。もっとも彼は、ろくろくわたしに挨拶もしなかったが。それからまた、マレーフスキイにも出会った。若い伯爵は、にやにや作り笑いをしながら、さも親しげに話しかけた。傍屋の常連の中で、どうしたわけかこの伯爵だけは、わたしの家にうまく取り入って、母のお気に入りだったのである。もっとも父は、この伯爵を毛嫌いして、無礼なほどの丁重さであしらっていた。
「おや、お小姓君」と、マレーフスキイは口を切った。──「お目にかかれて、じつに嬉しいです。あなたの美しい女王様は、何をしておられますか」
彼のすがすがしい秀麗な顔が、その瞬間わたしには、虫酸が走るほど厭だったし、おまけに彼が、人を馬鹿にしたようなふざけた眼つきで、じっとわたしを見ているので、こっちは返事もしてやらなかった。
「君はまだ、おこっているのですか」と、彼は続けた。──「つまらんことですよ。第一、君にお小姓という名をつけたのは、僕じゃないんだし、それにまたお小姓というものは、まずもって女王様の付き物ですからねえ。だがしかし、失礼ながら一言御注意しますが、どうも君は職務怠慢ですな」
「どうしてです?」
「お小姓というものは、女王様のそばを離れてはいけないのですよ。お小姓は、女王様の一挙一動をみんな知っているべきだし、いっそ女王様の見張りをさえ勤めるべきものなんですよ」そこで声を低めて、彼は言い添えた、──「昼も、夜もね」
「それは、どういう意味です?」
「どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も──夜も、ですよ。昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。ところが夜というやつは、とかく災いの起りがちなものでね。まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐう寝てないで、一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。ほら、覚えているでしょう──庭、夜なか、噴水のほとり──そういう場所で待ち伏せるんですな。いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ」
マレーフスキイは高笑いをして、くるりとわたしに背を向けた。彼はおそらく、自分の言ったことを、特に重大とも思っていなかったろう。何しろ彼は、人をかつぐ名人として通っていたし、仮装舞踏会などで、まんまといっぱいくわせる妙技を謳われていたからである。これには、彼という人間全体にしみとおっている無意識な嘘つき癖が、あずかって大いに力があったのだ。……彼はただ、わたしをちょいとからかおうと思っただけのことだろうが、その一言一句は猛烈な毒となって、わたしの血脈という血脈を走り回った。血がどっとばかり、頭へ押しよせた。
『ああ! そうだったのか!』と、わたしはひとりごちた。──『よし! するとつまり、僕がなんとなく庭へ惹かされていたのも、やはり意味のないことじゃなかったのだ! いやいや、そんなことがあるもんか!』と、わたしは大声でわめいて、握りこぶしで胸をどんと叩いたが、そのくせ、何があってはならないのかという点になると、自分でも見当がつかなかったのである。
『マレーフスキイ御自身、庭へ出馬なさるわけかな』と、わたしは考えた。(彼がひょいと、口をすべらしたのかもしれない。そのくらいの鉄面皮さなら、ありあまっている彼のことだから)──『それとも、誰かほかのやつが現われるかな。(うちの庭の垣根は、とても低かったから、乗り越えるにはなんの造作もなかった)──だがとにかく、僕に取っつかまったやつは、百年目だぞ! 誰にもせよ、僕にぶつからないように用心するがいい! 僕は、僕だって復讐する力があることを、世間のやつらにも、裏切り者のあの女にも(とわたしは、ずばりと彼女を裏切り者と呼んだ)──思いしらせてやるぞ!』
わたしは、自分の部屋へ戻ると、デスクの引出しから、この間買ったばかりの、イギリス製のナイフを取出して、その切れ味をためしてみた。それから眉の根を寄せて、一点に集中した冷やかな決意をもって、それをポケットに収めた。そんなことは、別に驚くほどのことはないし、またこれが最初でもない──といった調子であった。わたしの心臓は、毒々しくたけり立って、石のようにコチコチになった。わたしは夜がふけるまで、眉をしかめたまま、唇をキッと噛みしめて、絶えず部屋の中を行きつ戻りつしながら、熱しきったナイフをポケットのなかで握りしめ、何かしら凄じい出来事にたいする心構えを、あらかじめ整えていた。この新しい、ついぞ味わったこともない感覚は、わたしを酔わせたばかりか、陽気にさえしたので、肝心のジナイーダのことは、ほとんど考えに上らないほどだった。わたしの念頭には、絶えずこんな文句がちらついていた。
──アレーコ、若いジプシー。──「どこへ行く、この色男め? そのまま寝ていろ……」それから、「まあ、あなた血だらけじゃないの! ……なんてことをしたの?」……「なんにも、しやしない!」(訳注 プーシキンの叙
事詩『流浪の民』より)
なんという残忍な微笑を浮べながら、わたしはこの『なんにも』という句を、繰返したことだろう!
父は家にいなかった。しかし、この間からほとんどしょっちゅう、内攻したいらだちの状態でいる母は、わたしのただ事でない様子に目をつけて、夜食の時、わたしにこう言った。
「何をお前、そうふくれ返っているんだね? まるでネズミが、ひきわり麦をねらってるみたいにさ」
わたしは返事の代りに、ほんのお付合いににやりと笑ってみせて、『この気持を、親が知ったらなあ!』と考えた。十一時が打った。わたしは自分の部屋へ引きとったが、服は脱がずにいた。わたしは、真夜中を待っていた。やがて、十二時が打った。『さあ、潮時だ!』と、わたしは歯を食いしばりながらささやいて、上着のボタンを上まで掛け、御丁寧に両の袖をたくし上げて、庭へ出かけて行った。
わたしはあらかじめ、見張りの場所を決めていた。わたしたちの領分とザセーキン家の領分との地境を成している垣根が、共同の塀にぶつかっている庭のはずれに、樅の木が一本、ぽつんと立っていた。その低く茂った枝の下に立っていれば、夜の闇がゆるす限りは、あたりで起ることの一切が、よく見えるのだった。そこには、一筋の小道がうねっていて、それがいつも、へんに神秘めいてわたしには見えた。というのはその小道が、ちょうどその場所で人が乗り越えたらしい足跡の残っている垣根の下を、蛇のように這い抜けて、アカシアばかりでできている円い四阿へ、通じていたからである。わたしは樅の木へたどり着くと、その幹に倚りかかって、見張りを始めた。
前の晩と同じく、静かな夜だった。しかし、空には雨雲が減って、灌木の茂みの形のみならず、背の高い草花の影までが、一層はっきり浮んでいた。待ち構える身にとって、最初の幾瞬間は辛かった。ほとんど恐ろしいくらいだった。覚悟はすっかりできていたけれど、さてどういう行動に出たものか、それだけが心がかりだった。『どこへ行くのだ? 止れ! 白状しないと、殺しちまうぞ!』と、どなりつけてやろうか。それとも、ひと思いに斬りつけてやろうか。……ちょっと音がしても、枝や葉がカサリと鳴っても、さやいでも、それが一々わたしには何か意味ありげに、ただ事でないように聞えた。……だんだん覚悟ができてきた。……わたしは上体を前へ乗り出した。……ところが、半時間たち、一時間たつうちに、わたしの血潮はしだいに静まり、冷めていった。こんなことをしたって無駄骨だ、我ながらいささか滑稽なくらいだ、これはてっきりマレーフスキイのやつがいっぱい食わしたのだ──という意識が、じりじりと胸の中へ忍び込んで来た。わたしは待ち伏せの場所を離れて、庭をぐるり一回りしてみた。まるでわざとのように、ほんの葉ずれほどの音さえ、どこにもしなかった。何もかも、しんと静まり返って、うちの犬までが、木戸のそばに丸くなって眠っていた。わたしは、温室の崩れ残りによじ登った。遠い野原が眼の前にひらけ、この間ジナイーダに出会った時のことが思い出されて、わたしは物思いに沈み始めた。……
わたしは、ぎくりとした。……どこかでギイと戸のあく音がして、それから小枝の折れる音が、かすかにしたような気がしたのだ。わたしは、ふた跳びで崩れ残りから跳びおりると、──その場に立ちすくんでしまった。すばやい、軽やかな、それでいて用心ぶかい足音が、はっきりと庭の中に響いていた。だんだんわたしの方へ近づいてくる。『さあ、来た。……いよいよやって来たぞ!』という考えが、わたしの心臓をかすめた。わたしは、引っつったようにナイフをポケットから抜き出すと、ぐいとそれを開いた。──何か赤い火花のようなものが、眼のなかでくるくる回りだし、恐ろしさと憎さとで、頭の毛がもずもずうごめいた。……足音は、まっすぐわたしの方へ進んで来る。わたしは、そろそろ腰を落して、足音に向って身構えた。……男の姿が現われた。……南無三! それはわたしの父だった。
わたしは咄嗟に見分けがついた。父は全身すっぽり黒マントにくるまり、帽子を目深におろしていたが、それでは包み匿せなかった。彼は爪先立ちで、そばを通り過ぎた。わたしには気がつかなかった。わたしは、何に身をかくしていたわけでもないけれど、地面に這いつくばらんばかりに小さく縮こまっていたのである。嫉妬にかられて、人殺しの覚悟までしていたオセロは、突如として小学生に化してしまった。……思いもかけぬ父の出現に、わたしはびっくり仰天のあまり、彼がどこからやって来て、どこへ姿を消したのか、初めは気がつかなかったほどであった。わたしがやっと身を伸ばして、『なんだってお父さんは、よる夜中に庭なんぞ歩くんだろう』と考えたのは、再びあたりが、しんと静まり返った時であった。恐ろしさのあまり、わたしはナイフを草むらに落してしまったが、それを捜すどころではなかった。恥ずかしくてならなかったのだ。
わたしは一遍に酔いがさめた。とはいえ、家へ戻る途中で、わたしはやはり、ニワトコの陰の例のベンチのそばへ行って、ジナイーダの寝室の小窓を見上げた。すこし反り返っている何枚かの窓ガラスは、夜空から落ちるかすかな光を受けて、ぼうっと青みを帯びていた。と不意に、その色が変り始めた。……内側から、──そう、わたしは見たのだ、この眼ではっきり見たのだ──白っぽい巻きカーテンが、そっと用心ぶかく下ろされて、窓がまちのところまで下りきってしまうと、そのままじっと動かなくなった。
「これはいったい何事だろう?」と、いつのまにか自分の部屋に舞い戻っていたわたしは、ほとんど無意識に、そう声に出して言った。──「夢なのか、偶然なのか、それとも……」
そこで突然あたまに浮んだ或る憶測は、あまりにも生々しく、あまりにも異様なものだったので、わたしはどだい受付ける勇気もなかった。
あくる朝わたしは、頭痛をおさえながら起き出した。ゆうべの興奮は消えていた。その代り、重くるしい疑惑と、まだ身に覚えたこともない──まるでわたしの中で何ものかが息を引き取ろうとしているような、一種異様なわびしさが、わだかまっていた。
「なんだって君は、脳みそを半分抜き取られた兎みたいな顔をしているのですね?」と、出会いがしらにルーシンが言った。
朝飯のとき、わたしは父の様子や母の顔色を、こっそり窺った。父は、いつものとおり落着きはらっていたが、母は例によって、内心いらいらしていた。わたしは、父が時々出す癖で、打解けてわたしに話しかけはしまいかと心待ちにしていた。……けれど父は、つね日頃の例の冷たいお愛想をすら、言ってはくれなかった。
『すっかりジナイーダに話してしまおうか?』と、わたしは考えた。……『こうなったからには、どっちみち同じじゃないか──どうせ二人の間は、きれいにお仕舞いなんだもの』
わたしは彼女のところへ出かけて行ったが、肝心の話を切り出すどころか、雑談さえ思うようにできない始末だった。公爵夫人の生みの息子が、ペテルブルグから帰省して来たのである。幼年学校の生徒で、十二ぐらいの子だった。ジナイーダはこの弟を、早速わたしの手にあずけた。
「さあ、よくって」と、彼女は言った。──「わたしの可愛いヴォロージャ(彼女がわたしを愛称で呼んだのは、これが初めてだった)、あなたのいい仲間ができたわ。この子もやっぱり、ヴォロージャっていうのよ。どうぞ、可愛がってやってちょうだい。まだ野育ちだけれど、気だてはいいのよ。ネスクーチヌィ公園でも見せてやって、一緒に散歩して、目をかけてやって下さいね。ね、いいでしょう、そうして下さるわね? あなたも、ほんとにいい人なんですもの!」
と言って、彼女が両手を優しくわたしの肩にかけたので、わたしはすっかりまごついてしまった。この少年が来たおかげで、わたしまでが子供に成り下がったわけである。わたしは黙って、幼年学校の生徒を眺めた。向うもやはり無言のままわたしを見つめた。ジナイーダは、ホホホと笑い出して、わたしたち二人を、どすんとぶつけ合わした。
「さ、抱き合うのよ、いい子だから!」
我々は抱き合った。
「どうです、庭を案内しましょうか?」と、わたしは幼年学校の生徒に訊いた。
「は、どうぞ」と彼は、いかにも幼年学校の生徒らしい、しゃがれ声で答えた。
ジナイーダはまた笑い出した。……そのひまにわたしは、彼女の顔にこれほど艶麗な紅らみのさしたことは、ついぞなかったことに気がついた。
わたしは、幼年学校の生徒と一緒に出かけた。うちの庭には、古いブランコがあった。わたしは彼を細い板ぎれに坐らせて、揺すぶってやり始めた。彼は、幅の広い金モールのついた、新調らしい厚地のラシャの制服を着て、身じろぎもせず坐ったまま、しっかり綱につかまっていた。
「襟のボタンでもはずしたらどうです?」と、わたしは言ってやった。
「いいであります、慣れていますから」と彼は言って、咳払いをした。
彼は姉さんに似ていた。とりわけ眼がそっくりだった。わたしは、この少年の面倒を見てやるのが楽しくもあったけれど、同時にまた、相も変らぬうずくような侘しさが、そっとわたしの胸を噛むのであった。『ああ、これでもう、僕はすっかり赤ん坊だ』と、わたしは思った。──『ところが昨日は……』
わたしは、ゆうべナイフを落した場所を思い出したので、そこへ行って拾い上げた。幼年学校生は、それをねだり取って、ウドの太い茎を折ると、それで笛を削りあげ、ぴゅうぴゅう吹き出した。オセロもやはり、ちょっと吹いてみた。
だがその代り、その夕方になると、この同じオセロが、ジナイーダの胸に抱かれて、どんなに泣いたことだろう! それは彼女が、庭の隅でオセロを見つけ出して、なぜそんなに悲しそうにしているのかと、尋ねた時のことである。するとわたしの涙が、おそろしい勢いでほとばしり出たので、彼女はびっくりしてしまった。
「どうしたの? いったいどうしたの、ヴォロージャ?」と、ジナイーダは繰返したが、わたしが返事もしないし泣きやみもしないのを見て、わたしのびしょ濡れの頬にキスしようとした。が、わたしは顔をそむけて、むせび泣きのひまから、こうささやいた。──
「僕は、すっかり知っています。なぜあなたは、僕をおもちゃにしたんです?……なんのために、僕の愛が入り用だったんです?」
「申し訳ないわ、ヴォロージャ……」と、ジナイーダは言った。──「ああ、ほんとに申し訳ないわ……」と続けて、両手をぎゅっと握り合せた。──「わたしの中には、悪い、後ろ暗い、罪ぶかいものが、なんていっぱいあるんでしょう。……でも今はわたし、あなたをおもちゃになんかしていないわ、あなたを愛しているの、──それが、なぜ、どういうふうにかっていうことは、あなたには夢にも想像がつかないわ。……それはそうと、何をいったいあなたは知ってらっしゃるの?」
何をわたしが彼女に言えたろう? 彼女はわたしの前に立って、じっとわたしを見つめていた。そしてわたしは、彼女に見つめられるが早いか、たちまち頭から足の先まで、すっかり彼女の俘になってしまうのだ。……それから十五分すると、わたしはもう幼年学校生やジナイーダと、鬼ごっこをしていた。わたしは泣かずに、笑っていたけれど、泣きはらした目蓋は、笑うたんびに涙をこぼすのだった。わたしの首っ玉には、ネクタイの代りに、ジナイーダのリボンが結んであった。そしてわたしは、首尾よく彼女の胴をつかまえるたびに、歓喜の叫びをあげるのだった。彼女はわたしを、思うままにあやつっていたのだ。
例の失敗におわった夜中の遠征から、一週間の間にわたしの経験したことを、詳しく話してみろと言われたら、わたしは頗る閉口するに違いない。それは、まるで熱病にでもかかったような異様な時期で、えたいの知れぬ混沌を成しており、この上もなく矛盾した感情や、想念や、疑惑や、希望や、喜びや、悩みが、つむじ風のように渦まいていた。わたしは、自分の心の中を覗いて見るのが怖かった。(ただし、十六歳の少年にも、自分の心の中が覗きこめるものとすればだが)何事にせよ、はっきり突き止めるのが怖かった。わたしはただ、手っとり早く一日を晩まで暮そうと、あせっていた。その代り、夜はぐっすり眠った。……子供っぽい無分別も、この際だいぶ役に立った。わたしは、自分が人から愛されているかどうか、知ろうともしなかったし、人から愛されていないと、はっきり自認するのも厭だった。わたしは父を避けていたが、ジナイーダを避けることは、わたしにはできなかった。……彼女の前へ出ると、まるで火に焼かれるような思いがするのだったが……わたしを燃やし熔かしてゆくその火が、いったいどういう火かということを、別に突き止めたいとも思わなかったのは、ただそうして熔けて燃えてゆくのが、わたしにはなんとも言えずいい気持だったからである。わたしは刻々の印象に、身を任せっぱなしにした。そして自分に対して狡く立ち回って、思い出から顔をそむけたり、前途に予感されることに目をつぶったりした。……こうした責苦は、ほうっておいてもおそらく長くは続かなかったろうが……そこへ降ってわいた出来事が、まるで落雷のように一挙にすべてに落着をつけ、わたしの道を切り換えてくれたのである。
ある日のこと、かなり長い散歩から、昼飯に帰ってみると、驚いたことには、わたしは一人きりで食事をしなければならぬことがわかった。父は外出しているし、母は気分が悪いから何も食べたくないと言って、寝室にとじこもっていたのだ。従僕たちの顔色から、わたしは何かしら変ったことが起きたなと察した。……従僕たちに問いただしてみる勇気は出なかったが、幸いわたしには、食堂係の若者でフィリップという仲好しがいた。これは熱烈な詩の愛好者で、またギターの名人だ。──わたしは、この男に訊いてみることにした。さて彼の話によると、父と母の間には、すざまじい一場が演ぜられたのだった。(それは一言残さず女中部屋へ筒抜けに聞えた。フランス語をだいぶ使っていたが、小間使のマーシャというのが、パリから来た裁縫師のところに五年もいたので、全部わかったのである)母は父の不実を責め、隣の令嬢との交際をなじった。父は最初、なにかと弁解していたが、やがてカッとなって、しっぺ返しに、『どうやら奥様のお年のことで』むごい言葉を投げつけたので、母は泣き出してしまった。母はまた、公爵夫人にやったとかいう手形のことを持ち出して、さんざん老夫人をこきおろし、ついでに令嬢の悪口まで並べたてたので、父はそこで何やら脅かし文句を叩きつけたそうだ。
「こんな騒動になりましたのも」と、フィリップは言葉を続けた──「もとはと言えば、無名の手紙からでございます。誰が書いたものやら、それはわかりませんが、それさえなければ、こんな事柄が表沙汰になるわけは、少しもありませんですよ」
「じゃ、やっぱり、何か事柄があったんだね」とわたしは、やっとのことで言ったが、その間にわたしの手足は冷たくなり、胸のずっと奥の方で何かわななき出したものがあった。
フィリップは意味ありげに目配せして、「ありましたです。こういう事は、隠しおおせるものじゃございません。旦那様も今度という今度は、ずいぶん用心ぶかくやんなさいましたけれど、──やはりまあ早い話が、馬車を雇うとか何とか……とにかく人手なしでは済まないわけでしてね」
わたしは、フィリップを下がらせると、ベッドの上にころがった。わたしは、咽び泣きに泣きもしなかったし、絶望の俘にもならなかった。また、そんな事がいったいいつ、どんな風に起ったのかと自問してみるでもなかった。どうして自分があらかじめ、もっとずっと前に察しがつかなかったものかと、それを不審に思うでもなかった。父を怨めしいとさえ思わなかった。……わたしの知った事実は、とうていわたしの力の及ばないことであった。この思いがけない発見は、わたしを押しつぶしてしまったのである。……一切は終りを告げた。わたしの心の花々は、一時に残らずもぎ取られて、わたしのまわりに散り敷いていた。──投げ散らされ、踏みにじられて。
あくる日になると母は、町へ引揚げると言い出した。その朝、父は母の寝室へ入って、長いこと二人きりでいた。父が何を言ったか、誰も聞いた者はないけれど、とにかく母はもう泣かなくなった。母は気持が落着いて、食事を命じたりしたが、とはいえやはり姿を見せず、決心を変えもしなかった。忘れもしない──わたしはその日は一日じゅう散歩ばかりしていた。もっとも庭へは足を入れず、傍屋を一度だって振向きもしなかった。ところがその晩になって、わたしは驚くべき出来事をこの眼で見ることになった。父がマレーフスキイ伯爵の腕をとって、広間を横ぎって玄関の方へ連れ出し、従僕のいる前で、冷やかにこう言い渡したのである。──
「二、三日まえ、ある家であなたは、ドアをさして見せられたことがありましたな、伯爵。ところで今わたしは、あなたと別に話し合いをしようとは思いませんが、恐縮ながらこれだけは申上げておきます──もしあなたが、この上また宅へお見え下さるようなことがあったら、わたしはあなたを窓からほうり出しますよ。わたしには、あなたの筆跡が気にくわんのです」
伯爵は頭を下げて、歯をくいしばると、小さくなって姿を消した。
モスクワへ引揚げる準備が始まった。アルバート街にわたしたちの家があったのである。おそらく父自身にしても、今ではもう別荘に残っていたくはなかったろう。ただし、父は、この際になってまた一悶着もちあげないように、首尾よく母を説きつけたらしかった。万事は穏やかに、ゆっくりと運んだ。母は公爵夫人にわざわざ人をやって、健康がすぐれぬため出発まえにお目にかかれず、まことに残念に思いますと挨拶させた。わたしは狂人のように、ふらふら表を歩き回って、一刻も早くこんな騒ぎがおしまいになってくれればいいと、そればかり待ち望んでいた。ただ一つだけ、わたしの念頭にこびりついて離れぬ想念があった。それは彼女が、あの若い娘が──しかも、とにもかくにも公爵令嬢ともあろう人が、現にわたしの父が独り身でないことは承知でいながら、また、よしんばあのベロヴゾーロフにしろ誰にしろ、結婚の相手にこと欠かない身でありながら、どうしてあんな思い切ったまねをしたのだろう──ということであった。いったい何をあてにしていたのだろう? みすみす自分の前途を台なしにするのが、どうして怖ろしくなかったのだろう? そうだ、とわたしは思った、──これが恋なのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧げ尽すということなのだ。……そこでふと思い出されたのは、いつかルーシンの言ったことである──『自分を犠牲にすることを、快く感じる人もあるものだ』
ひょいとわたしは、傍屋の窓の一つに、青白いものがぽつんと浮んでいるのを目にした。……
『あれはジナイーダの顔じゃないかしら』と、わたしはふっと思ったが……果してそれは彼女の顔だった。わたしは、もう我慢がならなかった。わたしは彼女に最後のいとまも言わずに、このまま別れてしまうに忍びなかった。わたしは折りをうかがって、傍屋へ出かけて行った。
客間にはいると、公爵夫人が例によって歯ぎれの悪い、だらしのない挨拶でわたしを迎えた。
「どうしたことなの、坊ちゃん、お宅がこんなに早く引揚げなさるなんて?」と夫人は、両方の鼻の穴へ嗅ぎ煙草を詰め込みながら言った。わたしはその顔を見て、ほっと胸が軽くなった。あのフィリップの言った手形という言葉が、ひどく気になっていたのである。ところが彼女は、そんなことは鵜の毛ほども考えてはいない……少なくともわたしには、その時そんなふうに見えたのだ。ジナイーダが、隣の部屋から姿を現わした。黒い服を着て、髪を梳きだして、青い顔をしている。彼女は無言のまま、わたしの手をとると、自分の部屋へ連れて行った。
「あなたの声がしたので」と、彼女は口をきった。──「すぐ出て行ったのよ。あなたはこんなに簡単に、わたしたちを捨てて行けるのね、意地悪な子!」
「僕は、お別れに来たんです、お嬢さん」と、わたしは答えた。──「たぶん、もうお目にかかる時はないでしょう。お聞きおよびのことでしょうが、わたしたちは引揚げるのです」
ジナイーダは、じっとわたしを見つめた。
「ええ、聞いたわ。来て下すってありがとう。もうお目にかかれないんじゃないかと思っていたのよ。わたしのこと、悪く思わないでね。時々あなたを、いじめたけれど、でもわたし、あなたの思ってらっしゃるほどの女でもないのよ」
彼女はくるりと向うをむいて、窓にもたれた。
「ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい」
「僕が?」
「そう、あなたが……あなたがよ」
「僕が?」と、わたしは悲しげに繰返した。そしてわたしの胸は、うち克つことのできない名状すべからざる陶酔にいざなわれて、あやしく震え始めた。「この僕が? いいえ信じて下さい、ジナイーダ・アレクサンドロヴナ、あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、たとえどんなに僕がいじめられたろうと、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します」
彼女はすばやくわたしの方へ向き直って、両手を大きくひろげると、わたしの頭を抱きしめて、熱いキスをわたしに与えた。その長い長い別れのキスが、誰を心あてにしたものか、神ならぬ身の知るよしもなかったけれど、わたしはむさぼるように、その甘さを味わった。わたしはそれが、もはや二度と返らぬことを知っていたのだ。「さよなら、さよなら」と、わたしは繰返した。……
彼女は、わたしを振りもぎって出て行った。わたしも外へ出た。外へ出ながら、自分の胸中を去来した感情を、わたしは筆に伝えるだけの力がない。わたしは、またいつかそれが繰返されることを望みはしなかった。とはいえ、もしついぞ一度もそのキスの味わいを知らなかったら、わたしは自分をよくよくの不仕合せ者と思ったことだろう。
わたしたち一家は、町へ引揚げた。わたしは、なかなか過去と縁を切ることができなかったし、そう手っとり早く勉強にかかることもできなかった。心の痛手が癒えるまでには相当の時間が要ったのである。とはいえ、父その人に対しては、わたしは少しも悪い感情を抱いていなかった。むしろ逆に、父はわたしの目に、一層大きな人物として映ずるふしもあったのである。……この矛盾は、心理学者どもが、なんとでも勝手に解釈するがいいのだ。
ある日、わたしは並木道を歩いていると、ひょっくりルーシンにぶつかったので、とびあがるほど嬉しかった。わたしは彼のまっすぐな、飾り気のない性質が好きだったし、かてて加えて、この久しぶりの面会が、わたしの胸に呼びさましてくれた追憶のおかげで、いやが上にも彼はなつかしい人物だったわけである。わたしは、その前へ飛んで行った。
「よう、これは!」と、彼は言って、眉の根を寄せた。──「なるほど、君だったんですね! まあちょいと、顔を見せて下さいよ。相変らずの黄いろい顔だが、さすがに眼の中に、一頃の無分別さだけはなくなりましたね。やっと愛玩用の小犬じゃなくて、一人前の男に見えますよ。いや結構、そこでどうです、勉強していますか?」
わたしは、溜息をついた。嘘をつくのはいやだったし、さりとて本音をはくのは恥ずかしかった。
「なあに、いいですよ」と、ルーシンは言葉を続けた。──「びくびくすることはないです。肝心なのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢中にならないことですよ。夢中になったところで、なんの役に立ちます? 波が打ちあげてくれるところは、ろくでもない場所に決ってますよ。人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。僕はこのとおり、どうも咳が出ていかんです。……ところでベロヴゾーロフは──あなた、何か噂を聞きましたか?」
「なんですか? 聞きませんが」
「ゆくえ不明なんです。カフカーズへ行ったという話だが、君みたいな若い人には、全くいい教訓ですな。要するに、潮時を見て引揚げること、網を破って抜け出すことが、できないからですよ。君はどうやら、無事に逃げ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。じゃ、さようなら」
『引っかかるもんか』と、わたしは思った。……『もう二度と再び、あの人には会わないんだ』
ところがわたしは、もう一度ジナイーダを見かける運命にあったのだ。
父は毎日、馬に乗って外へ出かけた。彼は赤栗毛の、すばらしいイギリス馬を持っていた。すらりと細長い首をして、よく伸びた脚をして、疲れを知らぬ荒馬だった。その名を、「いなずま」といって、父のほかには誰一人、乗りこなす人はなかった。
ある日のこと、父は久方ぶりの上機嫌で、わたしの部屋へ入ってきた。彼はこれから馬で出かけるところで、ちゃんと拍車をつけていた。わたしは、一緒に連れて行って下さいとせがんだ。
「まあそれより、馬とびでもして遊んだらいいだろう」と、父は答えた。──「おまえの痩せ馬じゃ、とてもついて来られまいからな」
「ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから」
「ふむ、まあいいだろう」
わたしたちは出発した。わたしの馬は、むく毛の若い黒馬で、脚も丈夫だし、悍も相当つよかった。もっとも、エレクトリークが早足いっぱいに走り出すと、わたしの馬は全速力を出さなければならなかったが、とにかくわたしは食い下がって行った。わたしは、父ほどの乗り手を見たことがない。その馬上の姿は実に美しく、無造作に楽々と乗りこなしているところは、鞍の下の馬までが感じ入って、乗り手を誇りとしているように見えた。わたしたちは、並木通りを片っぱしから乗り尽して、処女が原もしばらく乗り回し、垣根も幾つか跳び越して(初めは跳び越すのが怖かったけれど、父が臆病者を軽蔑するので、やがてわたしも怖がらなくなった)、モスクワ川を二度も渡った。それでわたしは、もうそろそろ帰るのだろうと思った。ましてや当の父が、わたしの馬の疲れたことに目をとめたからには、なおさらのことだった。ところが父は、いきなりわたしのそばから馬首を転じると、クリミア浅瀬からわきへそれて、河岸づたいにまっしぐらに飛ばし始めた。わたしは懸命にあとを追った。古丸太が山のように積み上げてある所までくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも下りるように命じた。そして、自分の馬の手綱をわたしにあずけると、しばらくその丸太積みのそばで待っているように言いつけて、自分は細い横町へ折れるなり、姿を消してしまった。
わたしは、二頭の馬を引っぱって、エレクトリークを叱りつけながら、河岸を行ったり来たりし始めた。エレクトリークは歩きながら、ひっきりなしに頭を振りもぎったり、胴ぶるいをしたり、鼻を鳴らしたり、いなないたりした。わたしが立ち止まると、左右の蹄でかわるがわる土を掘ったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまに噛みついたりした。要するにまあ、甘やかされ放題の純血種らしく振舞ったわけである。父はなかなか戻って来なかった。川からは、いやに湿っぽい風が吹いてきた。ぬか雨が音もなく降り出して、さっきからわたしがさんざんそばをぶらついて、今ではもう飽き飽きしてしまった馬鹿げた灰色の丸太の山に、べた一面ちっぽけな黒ずんだ点々をつけた。わたしは心細くなってきたが、父はやっぱり戻って来ない。フィンランド人のお巡りさんが一人、上から下までやはり灰色の服を着け、壺みたいな格好の、おそろしく大きな古くさい筒形帽子をかぶり、ほこ形の警棒を小脇にして、(それにしても、なんだって巡査がモスクワ川の岸になんぞいるのだろう!)わたしに近づいてきた。そして、婆さんじみた皺だらけの顔をわたしに向けると、こう言った。──
「あんた馬なんか連れてこんな所で、何してるんですね、ええ、坊ちゃん? およこしなさい、持っていてあげるから」
わたしは返事をしなかった。彼は煙草をねだった。この男からのがれたさに(それにまた、待ち遠しさに耐えかねもして)、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。それから、その横町をはずれまで行って、角を曲ると、はたと立ち止った。そこの往来を、ものの四十歩ほど行った先の所に、木造の小さな家のあけはなされた窓に向って、背中をこちらへ向けながら、父が立っていたのである。父は胸を窓がまちにもたせていた。家の中には、カーテンに半ば隠れながら、黒っぽい服を着た女が坐って、父と話をしている。この女が、ジナイーダだった。
わたしは立ちすくんでしまった。全くのところ、そんなことは思いもかけなかったのである。わたしのしかけた最初の動作は、逃げ出すことだった。『父は振返るかもしれない』と、わたしは考えた。──『そしたら、もう万事休すだ』……けれど、不思議な感情が──好奇心よりも強く、嫉妬などよりまだ強く、恐怖よりも強い感情が、わたしを引止めた。わたしは、じっと目をこらし始めた。一生けんめい聴き耳を立てた。父は、しきりに何やら言い張っているらしかった。ジナイーダは、いっかな承知しない。その彼女の顔を、今なおわたしは目の前に見る思いがする。──悲しげな、真剣な、美しい顔で、そこには心からの献身と、嘆きと、愛と、一種異様な絶望との、なんとも言いようのない影がやどっていた。そうとでも言うほかには、わたしは言葉を考えつかない。彼女は、「ええ」とか「いいえ」とかいったたぐいの、短い言葉で受け答えしていて、眼を上げずに、ただほほ笑んでいた。──従順な、しかも頑なな微笑である。この微笑を見ただけでもわたしは、ああ、もとのジナイーダだなと思った。
父はひょいと肩をすくめて、帽子をかぶり直した。それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。……それから「あなたは思い切らなくちゃだめです、そんな無理な……」という父の声がした。ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさし伸べた。……その途端に、わたしの見ている前で、あり得べからざることが起った。父がいきなり、今まで長上着の裾の埃をはらっていた鞭を、さっと振上げたかと思うと──肘までむきだしになっていたあの白い腕を、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。わたしは思わず叫び声を立てようとして、あやうく自分を押えた。ジナイーダは、ぴくりと体を震わしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくり唇へ当てがって、一筋真っ赤になった鞭のあとに接吻した。父は、鞭をわきへほうりだして、あわてて玄関の段々を駆けあがると、家の中へとび込んだ。……ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、顔をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。
驚きのあまり気が遠くなって、おそろしい疑惑に胸を締めつけられながら、わたしはもと来た方へ駆け出して、横町を走り抜ける拍子に、すんでのことでエレクトリークの手綱を離すところだったが、とにかく河岸へとって返した。あたまがこんぐらかって、全然まとまりがつかなかった。わたしは、冷静で自制力の強い父が、時々発作的な狂暴さを見せることは知っていたが、それにしても今しがた見た光景は、なんとしても合点がゆかなかった。──とはいえ、わたしは同時にまた、このさき自分がどれほど生きるにせよ、ジナイーダのあの身の動き、あの眼差し、あの微笑を忘れることは、終生とてもできまい、──今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの眼に映ったあの姿は、永遠にわたしの記憶に焼きつけられたのだ──とも感じた。わたしは、ぼんやり川に見入りながら、涙のながれているのに気づかずにいた。『あのひとが、ぶたれるのだ』と、わたしは思った。『……ぶたれるのだ……ぴしり……ぴしり……』
「おい、どうしたね、──馬をおよこし!」と、後ろで父の声がした。
わたしは、うわの空で手綱をわたした。父はひらりと、エレクトリークにまたがったが、凍えきった馬はいきなり後脚で突っ立って、一丈あまりも前へはねた。……だが父は、じきに馬をしずまらせた。ぐいと拍車を両の脇腹へ入れて、握りこぶしで首に一撃を加えたのである。……
「ちえっ、鞭がない」と、父はつぶやいた。
わたしは、ついさっきの風を切る唸りと、その鞭がぴしりと鳴った音を思い出して、おもわず震え上がった。
「どこへやったんですか?」と、しばらくしてからわたしは訊いた。
父は答えずに、ずんずん前へ飛ばした。わたしは追いついた。どうしても父の顔が見たかったのだ。
「わたしのいない間、退屈だったろうな、お前?」と父は、へんにもぐもぐした声で言った。
「ええ、少しね。でも、一体どこへ鞭を落したんです?」と、わたしはまた訊いた。
「落したのじゃない」と、父は言い放った。──「捨てたのさ」
彼は急に考え込んで、うなだれた。……わたしはその時初めて、そして多分これを最後に、父のきびしい顔だちがどれほどの優しさと同情の思いを、表わすことができるかを見たのである。
父はまた馬を飛ばし出した。もうわたしは追いつけなかった。わたしは十五分ほど遅れて、家に帰りついた。
『これが恋なのだ』とわたしは、その夜がふけてから、デスクの前に坐って、またもやひとりごちた。そのデスクの上には、すでにノートや参考書がそろそろ並び出していた。──『これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえ誰の手であろうと……よしんばどんな可愛らしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我慢はなるまい、憤慨せずにはいられまい! ところが、一旦恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それを俺は……それを俺は……今の今まで思い違えて……』
この一月の間に、わたしは大層年をとってしまった。そして自分の恋も、それに伴ういろんな興奮や悩みも、いま新たに出現した未知の何ものかの前へ出すと、我ながらひどく小っぽけな、子供じみた、みすぼらしいものに見えた。とはいえ、その未知の何ものかの正体は、わたしにはほとんど推察することができなかった。それはただ、自分が一生けんめい薄闇の中で見きわめようと空しい努力をしている、見知らぬ、美しい、しかも物凄い顔のように、わたしをおびえさせるだけであった。
ちょうどその夜、わたしは奇妙な恐ろしい夢をみた。わたしは、天井の低い暗い部屋へ入って行くところだった。……と父が、鞭を手に仁王立ちになって、足を踏み鳴らしていた。隅の方には、ジナイーダが身を縮めていたが、その腕にではなしに、その額に、紅い一筋がついている。……そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿怒にわななきながら、父を脅かすのだった。
ふた月すると、わたしは大学に入った。それから半年後に、父は(脳溢血のため)ペテルブルグで亡くなった。母やわたしを連れて、そこへ引移ったばかりのところだった。死ぬ二、三日前に、父はモスクワから一通の手紙を受取ったが、それを見て父は非常に興奮した。……彼は母のところへ行って、何やら頼み込んだ。そして聞くところによると、泣き出しさえしたそうである。あの、わたしの父がである! 発作の起る日の朝のこと、父はわたしに宛てて、フランス語の手紙を書き始めていた。『わが息子よ』と、父は書いていた。──『女の愛を恐れよ。かの幸を、かの毒を恐れよ』……
母は、父が亡くなったのち、かなりまとまった金額をモスクワへ送った。
四年ほど過ぎた。わたしは大学を出たばかりで、何を始めたものか、どんな扉をたたいたらいいのか、まだよくわからず、さし当ってぶらぶら遊んでいた。ある晩のこと、わたしは劇場で、マイダーノフに出会った。彼はめでたく妻帯して、役所に勤めていたが、わたしの目には少しの変化も見当らなかった。相変らず、要りもせぬのに感激したり、例によって、いきなり悄気かえったりした。
「君は知ってるでしょうね」と、話のついでに彼は言った。──「ドーリスカヤ夫人が、ここに来ていることは」
「ドーリスカヤ夫人というと?」
「おや、君は忘れたんですか? もとのザセーキナ公爵令嬢ですよ。みんなでてんでに恋していた……いや、君だってそうでしたね。覚えてるでしょう、あのネスクーチヌィ公園のそばの別荘で、ね?」
「あのひとが、ドーリスキイとやらの奥さんになったんですか?」
「そう」
「で、あの人がここに来てるんですか、この劇場に?」
「いや、ペテルブルグに来てるんですよ。二、三日前にやって来たんです。外国へ発つつもりらしい」
「夫というのは、どんな人なんです?」と、わたしは尋ねた。
「なかなかいい男ですよ、財産もあるし。僕とはモスクワの役所の同僚でしてね。あなたにもお察しがつくはずだが──例の一件以来……もちろんあれは、よく御存じでしょうね……(マイダーノフは、意味ありげににやりとして)あの人は配偶を求めるのが、なかなか容易じゃなかったんです。いろいろ、あとを引く問題もありましたからね。……だが、あの人の才智をもってすれば、どんなことでも可能ですよ。まあひとつ行って御覧なさい。君の顔を見たら、とても喜ぶでしょうよ。あの人は、前よりもっと奇麗になりましたよ」
マイダーノフは、ジナイーダの宿所を教えてくれた。彼女はデムート館というホテルに泊っていたのである。昔の思い出が、わたしの胸の中でうごめき始めた。……わたしは、あくる日すぐにも、かつての『想いびと』を訪ねようと心に誓った。ところが、何かと用事ができて、一週間たち、二週間たってしまった。ようやくわたしが、デムート館へ出かけて、ドーリスカヤ夫人に面会を申し入れると、──彼女は四日前に死んだ、と聞かされた。産のための、ほとんどあっという間もない死に方だった。
わたしは、何かしら心臓へぐっと、突き上げるものを感じた。わたしは彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった、しかももう永久に会えないのだ……という想念──このにがにがしい想念が、ひしとわたしの心に食い入って、うちしりぞけることのできない呵責の鞭を、力いっぱいふるうのだった。『死んだ!』とわたしは、入口番の顔をぼんやり見つめながら、鸚鵡返しに言った。そして、そっと往来へ出ると、どこへとて当てもなしに歩き出した。過去の一切が、いちどきに浮び出て、わたしの眼の前に立ち上がった。そうか、これがその解決だったのか! あの若々しい、燃えるような、きららかな生命が、わくわくと胸をおどらしながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか! わたしはそれを思いながら、あのなつかしい顔だちや、あのつぶらな眼や、あのふさふさと巻いた髪が、あの狭くるしい箱の中に納められて、じめじめした地下の闇のなかに眠っているところを心に描いた。──それは、まだこうして生きているわたしから、そう遠くない場所なのだ。そしてひょっとすると、わたしの父のいる場所からは、ほんの五、六歩しかないかもしれないのだ。……わたしは、そんなことを考えながら、想像のつばさを張りきらせているうちに、ふと、
情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。
そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳を澄ました。
という詩の文句が、わたしの胸に響いた。
ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。悲哀でさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢で、「われは、ひとり生きる──まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋のように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅力の秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまに吹き散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者と思い込んで、「ああ、もし無駄に時を浪費さえしなかったら、えらいことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの束の間たち現われたわたしの初恋のまぼろしを、溜息の一吐き、うら悲しい感触の一息吹きをもって、見送るか見送らないかのあの頃は、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影がすでに射し始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨の思い出ほどに、すがすがしくも懐しいものが、ほかに何か残っているだろうか?
だがわたしは、いささか自分につらく当り過ぎているようだ。その頃──つまりあの無分別な青春の頃にも、わたしはあながち、わたしに呼びかける悲しげな声や、墓穴の中からつたわってくる荘厳な物音に、耳をふさいでいたわけではない。忘れもしないが、ジナイーダの死を知った日から四、五日して、わたしは自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老婆の、臨終に立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、袋を枕代りにした老婆は、苦しみもがきながら息を引取った。彼女の一生は、その日その日の乏しい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福の甘い味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、──そのもたらす自由を、そのもたらす憩いをこそ、喜び迎えるべきではなかったか? ところが、彼女の老いさらばえた肉体がまだ保っているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力が抜けきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、「主よ、わが罪を許させたまえ」とささやき続けるのであった。──そして、これを名残りの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期の恐れやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆のいまわの床に付き添いながら、わたしは思わずジナイーダの身になって、そら恐ろしくなってきた。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみ祈りたくなったのである。
底本:「はつ恋」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年12月25日発行
1987(昭和62)年1月30日73刷改版
1997(平成9)年5月25日92刷
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「《」(非常に小さい、2-67)と「》」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:松永佳代
校正:阿部哲也
2011年9月28日作成
2013年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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