隣の花
岸田國士




郊外にある例の小住宅向き二軒長屋。形ばかりの竹垣で仕切られた各々二十坪ほどの庭──霜枯れ時の寂寥さを想はせる花壇に、春の終りゆえ、色取り〴〵の草花が咲き乱れてゐる。


その庭を、朝七時、両家の主人、目木と久慈とが、何れも歯楊枝をくはへ、手拭を、一方は肩にかけ、一方は腰に下げて、ぶら〳〵歩きまはつてゐる。


目木  どうも近頃の天気予報はなか〳〵よく当りますね。

久慈  まだ、これで、どう変るかわかりませんよ。しかし、昨夕の様子ぢや、たしかに雨でした。

目木  僕は、あの護謨の長靴を穿くとまつたく憂鬱を感じるんです。

久慈  同感です。あれや、どう見ても靴の形をなしとらんですからね。(間)あなたは、歯麿は、何をお使ひですか。

目木  僕ですか。僕はライオンです。家内が来るまではクラブでした。

久慈  僕は、あべこべだ。へえ、さうですか。奥さんが来られてから……。

目木  いや、さう云ふ訳ぢやありませんが、何時の間にか、さうされちまつたんです。別々にして置くのも面倒ですしね。まあ、どつちでも、僕は同じことなもんだから……。

久慈  さう、さう。何処でも事情は同じと見えるなあ。奥さんが見えたのは、たしか去年の秋でしたね。はやいもんですね。

目木  此処へ越して来てから間もなくでした。此処へ来た当座は、あなたがた御夫婦の生活を、なんと云ひますかな、一種の好奇心を以て眺め暮したものです。

久慈  さう云へば、その頃は、こちらも遠慮があつて、御交際も差控へてゐたやうな訳だつたんですが……。お母さんはその後お達者ですか。

目木  国の方で、兄哥の家の台所を手伝つてゐますよ。

久慈  どうです、近頃は、大分結婚生活の何ものたるかを解して来られたでせう。

目木  解して来ましたなあ。大いに解して来ました。それにしても、あなたがたは、平和そのものゝやうな毎日を過してをられる。見てゐて一寸羨しいですよ。

久慈  冗談云つちやいけません。夫婦生活も六年続けば、お互に要領を飲み込んで、つまり諦めるところは諦めてしまつて、ぢたばたしなくなる。たゞそれだけのことですよ。

目木  いや、そんなことはない。第一、あなたのところの奥さんは、どこと云つて点の打ちどころはないぢやありませんか。朝は御主人よりも早く起きてちやんとするだけのことはなさるし。

久慈  あなたのところの奥さんは、あの若さと、あの健康さで、自然の美しさを……。

目木  よして下さい。そんな事をおつしやると、今、寝床の中で黙つてそれを聞いてゐて、何かの時に利用しますよ。あなたのところの奥さんは、夕方から雨が降り出すと、停車場へ傘を持つて迎へに来られる。僕は、それを何度も見かけました、処が、家の奴にそれを云ふと、自分で傘を持つて行かないのが悪いんだと云ふんです。そんなことをすると癖になる。どうせ雨が降れば傘を持つて迎へに来るんだからつて、雨が降りさうな時でも、傘を持つて行かなくなると云ふんです。外へ出る時は、帰りに雨が降るものと思へ──かうなんです。

久慈  それで毎日蝙蝠傘を持つて行かれるんですね。

目木  でも、僕は、雨に濡れると、世の中がつまらなくなるんです。

久慈  それやね、奥さんがあなたに甘えてをられるんですよ。決して我儘と云ふわけぢやない。その証拠に、あなたが雨に濡れて帰られたやうな時は、きつと、普段よりも優しく着物を着替へる手伝をなさるでせう。女にはさういふ一面がありますよ。

目木  なにさうでもありませんよ。一度なんか、自分で火を起して洋服を乾せつて云ふんです。おれは草臥れてるんだつて云ふと、そんなら明日は濡れたまゝ着てらつしやいですとさ。

久慈  ですが、まあ、それは、あなたみたいに、若い美しい細君を持つた者の務めだと思つて、せい〴〵我慢なさい。


奥より、久慈の妻文子の声で───


声  あなた、御湯を取りましたよ。

久慈  あゝ。

目木  お湯か……。いゝなあ。

久慈  ぢや、一寸顔を洗つて来ます。


久慈、奥に去る。

目木、憮然としてその後を見送り、また思ひ出したやうに歯を磨きはじめる。

文子、庭箒を持つて現れる。庭を掃きはじめる。


目木  奥さん、お早う。

文子  おや、もうお目覚めですか。

目木  だつて、もう御目覚めでなくつちや、出勤の時間に間に合ひませんや。これから、七輪の火をおこして、米をとがなくつちやならないんです。

文子  あらまあ……。奥さまは……?

目木  奥さまは、まだおやすみです。兎に角、起すだけは起して見ますが、当てにはできません。

文子  お可哀さうね。

目木  僕がでせう。

文子  おほゝゝゝゝ。さあ、どつちがでせう。

目木  久慈君は果報者だなあ。

文子  なぜですの。

目木  忠実な奥さんを持つてね。うちの奴、なんとかならないもんでせうか。

文子  よろしいぢやありませんか。奥さまのなさりたいやうにさせといておあげになれば……。奥さまは、それや、蔭では、旦那様思ひでゐらつしやるんですよ。

目木  思つてるばかりぢやしやうがないや。

文子  それでいゝんですよ。思つてもゐないくせに、表面だけ忠実らしく立ち働らいてる細君なんかより、どんなに頼母しいか知れませんわ。

目木  それは、誰のことです。

文子  誰つていふわけぢやありませんけれども、まあ、そんなのが、よく世間にあるぢやありませんか。

目木  世間にね。それやあるかも知れませんね。しかし、それは、旦那さんよりも、細君の方が惨めですね。そんなのは……。

文子  さうですわ。

目木  さうですとも……。だつて、考へて御覧なさい。愛されてゐない旦那さんも不幸にはちがひありませんが、愛してもゐない旦那のそばで、一生、からだを縛られてゐる細君、それでゐて、たゞ機械的に主婦としての煩はしい勤めを果して行かなければならない細君、なんの希望もなく、なんの慰安もなく、女としてのはなやかな時代を朽ちさせてしまふ細君、僕は、さういふ女のことを思ふと、胸がつまります。

文子  あなたのやうに、さうして、女の運命を真剣に考へて下さる男の方は、ほんとにすくなう御座んすわ。

目木  少くもないでせう。それは、当り前のことですもの。僕は決して、自分を腕のある男だとは思つてゐません。しかし、女の力になり得る男だと信じてゐます。自分の愛する女から、あなたならと云つて貰へば、命を捧げてでも、その女の幸福を護り得る男だと信じてゐます。

文子  ほんとですわ。

目木  奥さん。僕を信じて下さいますか。

文子  それや、もう……。

目木  僕はたしかに、間違つた結婚をしました。つまり、軽率だつたのです。

文子  そんなことはありませんわ。

目木  いゝえ、奥さん、もうなにもかも解つてゐるのです。(時々奥の方に気を配りながら)僕が、今、あの女を追ひ出すと云つたら、どうなさいます。

文子  …………。

目木  戯談を云つてるとお思ひになるんでせう。そんなら見てゝ下さい。奥さんのお返事次第で、今すぐにでも、あいつを追ひ出して見せます。

文子  (途方に暮れ)あの、もう時間が御座いませんから、一寸食事の支度をして参りますわ。

目木  奥さん、どうか僕を信じて下さい。

文子  はあ、でも、あの、御飯がふいてるやうですから……。


文子、大急ぎで奥に走り去る。

目木、急に明るい顔になり大股に花壇の間を歩き廻る。

座敷の雨戸が開く。目木の妻雛子の寝巻姿がのぞく。


雛子  何してんの、あんた、何時までもそんなとこで……。

目木  (黙つて、やたらに歩きつゞける)




舞台同じ

夕刻


雛子と文子が、垣を距てゝ、立話をしてゐる。


雛子  その点は、いくらか楽ですわ。

文子  御仕合せですわね。宅と来た日にや、すぐ眼に角を立てるんですからね。あなたの処の旦那さまとぐらゐですわ、あたくしが自由にお話のできるのは……。うつかり、誰とでも口を利いてゐようもんなら、流石にその場では黙つてゐますけれど、あとで、やれ、お前の眼附きはたゞの眼附きぢやなかつたとか、やれ、相手の男は、おれの顔を見て、慌てゝ一足後へ退つたとか……。

雛子  そんなですの。随分御窮屈ですわね。

文子  それだけなら、まだよろしいんですわ。さういふことのあつた後に限つて、もつと白粉をつけろとか、髪を結ひ直せとか、向うの派手な着物を着ろとか、うるさく注文を出すんですの。

雛子  どうしてでせう。

文子  おわかりにならないのねえ。

雛子  わかりませんわ。

文子  さうして置いて、今更らしく、お前はどうしてそんなに奇麗なんだなんて云ひながら、手を握つたり、あたくしのこゝんところへ(心臓を押へ)耳をあてゝ、聞えるぞ、聞えるぞなんて云ひ出すんですのよ。

雛子  何が聞えるんですの。

文子  心臓の鼓動がでせう。

雛子  へえ。

文子  それからが大変なんですの。

雛子  …………?

文子  いきなり、あたくしの頸を両手でかゝへて、額と云はず眼と云はず、鼻と云はず、──よしますわ。をかしいから……。

雛子  まあ……。

文子  苦しくもあり、気味がわるくもあり、あたくし、そのたんびに一と思ひに殺された方がよつぽどましだと思ひますわ。

雛子  西洋風でゐらつしやるのね。

文子  活動の影響ですわ。

雛子  でも、やつぱり、熱情家でゐらつしやるんですわ。

文子  普段は冷た過ぎるくらゐ冷たい人なんですのにねえ。

雛子  さうですわね、どつちかつて云へばお静かな方ですわねえ。そこへ行くと、うちなんかは、平生、あの通りガサガサしてゐるくせに、燃え上る時に、ちつとも燃え上らないんで、こつちがじれつたくなりますわ。男は、やつぱり内に熱をもつてゐて、それをたゞの時は奥深く包んでゐるといふ風でなけれや駄目ですわ。

文子  でも、お宅の旦那さまは、お若いのに、よくまめに色んなことをなさいますわね。この花壇だつて、あたくしが土運びまでしたんですからね。宅は、知らん顔をして、煙草をのんでゐるんですの。それでゐて、お宅の花の方が出来がいゝつて、嫌味を云ふんですのよ。

雛子  でも、宅ぢや、お宅の方が色が好いつて申してをりましたよ。肥料はどうなさるんだらうつて、かんがへてましたわ。

文子  まあ……。

雛子  うちの取柄は、花が好きなことと、決して食べ物の小言を言はないこととですの。

文子  何よりですわ。花がお好きなのは、お優しい証拠ですし、食べ物の小言をおつしやらないのは、奥さまに対して思ひやりがおありになるからなんですのね。

雛子  それや、まあね、手はかゝりませんの。どうかして、お汁でも温め直してゐると、そのひまに、御飯をおほかた済ましてしまふやうなことがありますわ。

文子  結構ですわね。宅なんかお醤油の味がちがつても、これやなんだなんて検べてかゝるんですからね。たまりませんわ。

雛子  その代り、時々、色んな珍しいものを買つてお帰りになるさうぢやありませんか。兎の肉だとか、アスパラガスの缶詰だとか……。

文子  えゝ、それやね、自分が食べたいものはね。

雛子  あなただつて召上れるでせう。

文子  欲しかありませんよ、兎の肉なんか……。

雛子  でも、さういふところは、家庭的で、あたくしなんか、うれしう御座んすわ。たとひ自分が食べたいものでも、うちへ買つてお帰りになるだけ、なんとなく温か味がありますわ。

文子  お宅の旦那さまは、外で何か召上るやうなことがおありですか。

雛子  そんな余裕はありませんけれど、自分から何か買つて帰るなんていふことは、一向考へつかないらしいんですの。野暮なんですわね。

文子  その方がさつぱりしてゝよう御座んすわ。食べものなんか、わざわざ提げて帰るやうな男は、あたくしは嫌ひですわ。

雛子  まあ、ほんとですの。

文子  (突然耳をそばだて)あ、帰つて来たやうですわ。うつかりお喋舌をしちまつて……御免遊ばせ。


文子、慌てゝ奥に去る。

雛子、それとなく、隣の話声に耳を傾ける。


文子の声  お早かつたのね。

久慈の声  今日本郷の方へ序があつたから、薩摩揚げを少し買つて来た。

文子の声  丁度よう御座んしたわ。まだ支度にかゝつてなくつて……。

久慈の声  隣の大将、今朝定期を忘れやがつてね……。(ここで、突然、声が途切れる。細君が制したのだらう。やがて)や、電車が込んだ、込んだ。

文子の声  お召替へ、すぐなさいます?


その声に送られて、久慈縁側に姿を現す。

雛子、素知らぬ振りして、花壇の花を弄んでゐる。


久慈  (これを見つけ)御主人はまだですか。

雛子  (始めて気づきたる風を装ひ)あら、もうお退けになりましたの。いゝえ、まだで御座いますのよ。

久慈  僕のやうに、貧乏会社に勤めてゐるものと違つて、なか〳〵、時間通りには帰れない。その代り、ボーナスが大したもんでせう。

雛子  さうですと、よろしいんですけれど……。

久慈  (いきなり細君の脱ぎ棄てた下駄を突つかけて垣近くに歩み寄り)どうです、何か変つたことはありませんか。

雛子  は?

久慈  御留守番にはお慣れになりましたか。

雛子  はあ、もうすつかり……。

久慈  たまには活動へでもいらつしやいますか。

雛子  いゝえ、もう、引込んだきりで御座いますの。

久慈  お里はなんでも此のお近くでしたなあ。

雛子  いゝえ、あの……違ひますんですの。

久慈  さうぢやなかつたですか。僕は最初あなたが此処へ来られた時、はてな、何処かで見たことのあるお嬢さんだなと思ひましたよ。その時は、もう奥さんに違ひないが……。

雛子  ずゐぶん子供臭いお嫁さんだとお思ひになりましたでせう。

久慈  いや、それはつまり、僕んとこの女房が年を取り過ぎてゐるからです。あれでいくつだとお思ひになります。恐らく、自分では、ほんたうの年なんか誰にも云やしますまいが、一体、あなたに幾歳だつて云つてます。

雛子  まだ伺つてゐませんの。でも、まだお若くつてゐらつしやいますわ、きつと……。

久慈  女房の年なんか隠したつてつまらないから、云つてしまひますが、あれで、今年九です。来年は三十……驚いたでせう。

雛子  ほんとですの。さうはお見えになりませんわね、どうしたつて……。

久慈  馬鹿だからです。

雛子  御子さんがゐらつしやいませんからね。

久慈  そばへ寄つて見て御覧なさい。瞼はたるみ、耳たぼは赤味を失ひ、喉には縦皺が寄りかけてゐます。

雛子  まあ、そんな……。

久慈  僕はこれでも、あなたのところの旦那さんと四つしか違はないんですよ。二十九の男が二十の女を細君にしてゐるんなら、三十三の男だつて、二十の女を恋人ぐらゐには有つてゐて差支ない筈ぢやありませんか。

雛子  …………。

久慈  御見かけするところ、あなたは、近代女性のあらゆる素質を備へておいでになる。僕はたゞ、男の顔色ばかりうかゞつて、自分のしたいこともできずにゐる女よりは、自分のしたいことをして、しかも、男の愛をしつかり握り得るやうな女を尊敬します。僕は、さういふ女から、思ふ存分苦められて見たいのです。

雛子  (花を取つて、花びらをむしつてゐる)


此の時、奥の方で「雛子ゐないのか、雛子、おい、おれだよ」と呼ぶ、目木の声が聞える。


久慈  奥さん、それぢや、今日はこれくらゐにして置きませう。またそのうち……。


雛子、無言のまゝ会釈して奥に去る。

文子の声が聞える。久慈その方を振り向く。


文子  (縁側に現れ)御待ち遠さま。あらまだ服を召したままで……。


久慈、口笛を吹きながら座敷に上る。


文子  (その後から)あなたは、お隣の花ばかり見てらつしやるのね。




舞台同じ

数日後の日曜日──午後一時頃


目木と久慈は、何れも丹前姿で、一方は庭に降り、一方は縁先に腰をおろし、煙草をすひながら、それ〴〵、細君のお化粧がすむのを待つてゐる。

細君たちは、それに頓着なく、一心に鏡に向ひ眉墨をひき、頬紅をぬつてゐる。


目木  ねえ、久慈さん、活動なんか見るより、一つ元気を出して、高尾山へでも行つて見ませんか。

雛子  なにを云ひ出すの、あなたは……。もう、ちやんと、きまつてるんぢやないの。

久慈  僕はどつちでもいゝが、折角奥さんも楽しみにしてらつしやるんだから、今日は、まあ、活動にしませうや。

雛子  ほんとですわ。高尾山なんて、年寄りか、さもなければ、酔つ払ひの行くところよ。

久慈  それと小学校の生徒ね、うちの奴もさつきさう云つてましたよ。活動なんかより、どこか、御弁当持つて遠足がしたいつて。

目木  遠足! 賛成だなア。

雛子  うるさいわよ。

久慈  いや、うちの奴は活動の趣味を解しないんですよ。今まで見たうちで面白かつたのは、変な、ブラジルかなんかの、森や牧場の実写だけだつて云ふんですからね。

目木  いや、実写は、あれで楽しみなもんですよ。役者の不味い表情なんかより、雲や水や、草木の、あの無心に動く姿の方が、よつぽど楽しみがもてますよ。それも、何処か、遠い国の、地図を出して見なければ見当がつかないやうな、さういふ国のね。

雛子  ブラジルが何処にあるか、地図を見なければおわかりにならないの。

目木  ブラジルは知つてるさ。ブラジルでなくたつて、例へばアラスカとかね、フインランドとか、マダガスカルとか地図を見なくたつてわかるけれども、なんとなく漠然とした輪廓で、頭の中にはひつてゐる、大阪よりも遠い、九州よりも遠い、勿論だ、しかし、船で何時間かゝる、それがはつきり云へないところが面白い。たゞ、遠いといふことと、あまり人が行かないといふことと、従つて自然が本来の姿のまゝで、保れてゐるといふこと、そんなことが、かう、ぼんやりわかつてゐるだけだ。

久慈  それより、僕なんか、人間といふものが一番面白いやうに思ひますね。

雛子  それやさうですわ。

久慈  人間と、それから、人間の形造つてゐる社会、その人間の持ち上げる事件、人間の生き死に、愛憎……これは、いくら見たつて見飽きませんね。

雛子  (夫に向ひ)あなた、一寸、済みませんけれど、お台所から、あたしの手拭を取つて来て下さらない。

目木  そこからの方が近いぢやないか。

雛子  (夫をにらむ真似をして)だつて、今立つと、膝の上に置いてあるものが落つこつちまうんですもの。

目木  (しぶ〳〵台所の手拭を取りに行く)

雛子  久慈さん、あなた「マノン・レスコオ」を御覧になつて……。

久慈  見ません。見よう〳〵と思つてゝ、たうとう見損ひました。

雛子  よかつたんですつてね。

目木  (手拭を細君の方に投げ)もうこれつきり、僕は御免だよ、君の用事をするのは……。

雛子  (平気で)有りがたう。あ、それから、一寸、そのお湯を、ここへ少し……。

目木  どのお湯……?

雛子  お湯は鉄瓶にきまつてるでせう。

目木  そんなこときまつてるなんて知らなかつた。(鉄瓶の湯を細君の差出す手拭の端にかける)

雛子  はい、もう沢山……。

目木  (再び縁先に現れ)奥さん、もう御化粧はすんだんでせう。

文子  えゝ、もう一寸で……。

目木  今、何処をやつてるんですか。

文子  今、今はね……。(口紅をつけながら)そんなことをお訊きになつてどうなさるの。

目木  僕んとこのと、どつちが早いかと思つて……。僕んとこのは、今やつと耳の掃除をしてますよ。

雛子  うそおつしやい。耳の白粉をつけ直してるだけぢやありませんか。

目木  耳にも白粉をつけるのか、どうせかくれるんぢやないか。

雛子  あなたは黙つてらつしやい。

久慈  (文子に)おい、早くしろよ。

文子  えゝ、もう済んだのよ。あたしなんかいくらお化粧をしたつて、奥さまのやうにはなりつこないんだから、好い加減にしときますわ。

久慈  さうさ、好い加減にしといて、おれの洋服を出してくれ。

目木  もうあと、何処と何処でおしまひ?

雛子  何処と何処なんてきまつてやしないわ。全体の調和が大事なんですもの……。今日はなんだか思ふやうに出来ないわ。

目木  おれはだん〳〵出掛けるのがいやになつて来るぞ。

雛子  さうしたら、独りでお留守番をしてらつしやい。

久慈  もういゝんだね。


久慈、座敷に上る。

文子、洋服を箪笥から出しなどする。


目木  (焦ら〳〵しながら)おれは一体、自分の行きたい処へ行けないのか。自分の行きたくない処へ、なんだつて行かなけれやならないんだ。

久慈  (突然、呶鳴るやうに細君に向ひ)お前は、それだからいけないんだ。人が楽しさうにしてゐる時は、自分も楽しさうにしてゐるものだ。


目木、その声に驚いて、そつと、垣根の方に近づく。


久慈  そんなら、勝手にしろ。もう、これから何処へも連れて行かないからね。目木君の処の奥さんを見ろ。すこしは駄々をこねたつて、かういふ時、いそ〳〵して、旦那さんの気持を引立てるからこそ、家の中は何時も活気がある。淀んだところがない。

文子  (泣きながら)御免なさいね。あたし、どうして、かう、浮き浮きすることができないんでせう。

久慈  無邪気でないからさ。


雛子、夫を手招ぎする。

目木は、両手の指で斬り合ひの真似をして見せる。


久慈  見つともないから、泣くのはよせ。行かないなら行かないで、お前、さう云つて断つて来い。

文子  …………。

久慈  行くなら行くで、さつさと着替へろ。

文子  あたし、やつぱり、行くのよしますわ。あなただけ御一緒に行つてらつしやい。


目木、そつと縁先へ戻り、雛子の方に首を伸ばし何か小声で囁く。


雛子  何よ。聞えないわ。

目木  もう、向うは着物を着替へてるよ。

雛子  奥さんも?

目木  奥さんもたしか、箪笥から何か羽織のやうなものを出してたよ。

雛子  そいぢや、あなた、一寸大急ぎで其処の足袋屋まで行つて来て下さらない。

目木  おれは洋服だぜ。

雛子  あなたのぢやないわよ。あたしの足袋、みんな汚れてゝ穿けないの。だから、大急ぎで買つて来て頂戴。(金入れから銀貨を出し)はい、これで……。九文三分よ。

目木  (黙つて、その銀貨を見つめてゐる)

雛子  どうしたの。早くしないと駄目よ。

目木  早くも遅くも、おれは断然、行かないよ。

雛子  (平気で口紅をつけながら)云ふこと聴かないと、ぶつわよ。

目木  君が僕をぶつのか。

雛子  さうよ。

目木  (決心するものゝ如く)よし、もうこれが最後だぞ、いゝか、総ての最後だぞ。

雛子  えゝ、いゝわ。転ばないやうに走つてらつしやい。

目木  (一寸、いま〳〵しげにあとを振り返るが、すぐに泣き出しさうな顔になり、一目散に走り出す)


一方、久慈は洋服を着終らうとしてゐる。文子は、機嫌を直し、甲斐々々しくその手伝ひをしてゐる。


久慈  急に頭痛がし出したとかなんとか云つて置かうぢやないか。折角、こつちから誘つて、今更、変ぢやないか。

文子  えゝ、さう云つて置きませう。あたし、よその方たちと一緒に何処かへ行くつていふ時は、何時でも、いざとなつて、気が進まなくなるんですわ。何時かも、そら、大崎の姉さんが、相撲を見に行かないかつて誘つてくれたことがあるでせう。あん時だつて、着物を出しかけていやになつてしまつたんですもの。それが、いやだと思つたら、どうしても我慢ができないんですもの。大抵のことは我を通さないつもりなんですけれど、こればかりは、泣きたいほどなの。ほんとに、どうしたつて云ふんでせう。

久慈  まあ、いゝさ。無理にいやな顔をしてついて来たつてしやうがない。しかし、損だね、その性分は……。なほるものなら、直した方がいゝ。

文子  えゝ、ぼつ〳〵直しますわ。

久慈  それぢや、お前、一寸行つて来い。もう用意ができたかどうかそれを聞いてね。

文子  お庭からぢや可笑しいかしら。

久慈  可笑しかないさ。

文子  でも、あたし、自分で云ふのは変ですわ。後生ですから、あなた、さうおつしやつて頂戴な。──かういふわけだからつて……。

久慈  そんなら、表から行かう。靴を出して……。


雛子は、やうやく化粧を終り、箪笥から一張羅を取り出し、帯をほどきはじめる。そして、思ひ出したやうに、縁側の障子を締める。


久慈は、細君に靴を出させ、玄関から出て行く。

文子は、重荷を下ろしたやうにぐつたりと茶の間の長火鉢の前にすわる。


目木が此の時、女の白足袋を片手にもつて、とぼ〳〵と帰つて来る。障子が締まつてゐるので、一寸、不審さうな顔つきをするが、別にその中をのぞかうともせず、縁側に腰をおろし、何事か思案に耽る。


表玄関が開く音。続いて──。


久慈の声  まだですか。

雛子の声  あら、もう御用意はおできになつたんですの。

久慈の声  目木君は……?

雛子の声  今、一寸、そこまで足袋を買ひに参りましたの。すぐ帰つて参りますわ。どうぞ、縁側の方へでもお廻りになつて……。


目木は、急いで足袋を懐にしまふ。

久慈庭に現れる。


久慈  おや、君はそのまゝでいゝんですか。

目木  僕ね、今、急に頭が痛くなつて来たので、どうしようかと思つてゐるんです。

久慈  頭が痛い。それやいけませんね。陽気のせゐかな。今うちの奴も、なんだか眩暈がするとかつて、着物を着替へかけて、出るのを見合せてるんですがね。

雛子の声  奥さまがどうかなすつたんですの。

久慈  えゝ、今ね、急に眩暈がして出られないつて云ひ出すもんですから、一寸、そのお断りかた〴〵来たんですが、その為に折角の計画をふいにするのも残念ですし、なんなら、僕だけお伴しようと思つて……。ですが、目木君も、なんだか、気分がおわるいさうだから、今日は、活動行きは見合せませうか。

雛子  (障子を細目に開け、顔だけ出し)あら、あたしつまらないわ。

目木  だから、お前は行けばいゝさ。久慈さんさへ御差支なかつたら、一緒に連れて行つて頂いたらどうだ。

久慈  いや、僕は、それやかまひませんがね……。どうせ、行くつもりで出掛けて来たんだから……。しかし、君独りで、あと、大丈夫ですか。奥さんがをられなくつて……。

目木  僕はいゝですよ。

雛子  そんなら、あたし、行つて来るわよ。

久慈  なんだか、わるいなあ。

雛子  奥さまにおわるいかしら……。

久慈  うちの奴は平気ですよ。

雛子  そいぢや、今すぐすみますから、一寸お待ち下さいましね。

久慈  どうぞ御ゆつくり……。(目木に)ひどく痛みますか。

目木  なに、原因がわかつてるから、大丈夫です。今そこで犬を追つかけたりなんかしたのが悪るかつたんでせう。僕少し心臓が弱いんです。かう見えて……。

久慈  鳩のやうにでせう。僕の心臓は人並すぐれて丈夫らしいです。僕が死んでも、恐らく心臓だけは、一時間ぐらゐ鼓動を続けてるだらうと思ふんですがね。

目木  まるで蛙ですね、それぢや……。

雛子の声  蛙がどうしたの。

目木  垣根のところから、こつちを見てるんだよ。

雛子  大きいの?

目木  (真面目に)中くらゐ……。

久慈  ハヽヽヽヽ、しかし、もう実際蛙が出る頃ですな。


文子は、その間、夫の脱ぎ捨てた着物を畳み、台所から通帳を持つて来て検べたりなどする。やがて──。


雛子  (障子を開け)どうも、お待たせいたしました。

久慈  いゝえ。(目木に)それぢや、奥さんはたしかにお預りします。

目木  (力なく)どうぞ、よろしく……。

雛子  行つて参ります。あと片づけといて頂戴ね。


久慈は表に廻る。

雛子は、夫の存在を忘れたる如く、もう一度鏡に向ひ、髪をなほし、あたふたと玄関の方へ走り去る。

門口を開ける音。


目木は、しばらく、そのまゝの姿勢で、ぼんやり、前の方を見つめてゐるが、やゝあつて、腰をあげ、そろ〳〵垣根の方に行きかける。が、なんとなく、気おくれがするらしく、また引き返して来る。懐から足袋を出して、手荒く捻り、傍に投げ出す。


文子は、これも、落ちつかぬらしく、隣家の方に気を配りながら、縁側の方に歩み寄る。小首を傾ける。流石に、庭へ出て見る勇気はなく、また元の座に帰る。


目木は、いよ〳〵、辛抱ができなくなり、それでも、はやる心を押鎮める形でひそかに、隣家の垣根に近づいて行く。──此の時、何処からともなく、Drdla のセレナアドが、一節二節、聞えるともなく聞えて来てもいゝ。


──幕──

底本:「岸田國士全集3」岩波書店

   1990(平成2)年58日発行

底本の親本:「新選岸田國士集」改造社

   1930(昭和5)年28日発行

初出:「文芸倶楽部 第三十四巻第四号」

   1928(昭和3)年41日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2012年220日作成

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