海阪
北原白秋

道のべの春


半島の早春


三浦三崎


大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見るとその駅の前にはもう薄ら寒い日の暮の風が吹きしきつてゐた。


ぼろ自動車の上


日の暮のぼろ自動車にすくみゐつ赤き浮標うき見居り乗合を待ちて


風空に造船場の高く赤き鉄柱が焼け暮ならんとす


日暮れぬ路いつぱいに埋まり来る職工の群にひたと真向ふ


前まへと堰き溢れ来る人の顔どれもどれも青し押しわけてゆけば


雪のこる片山蔭の板びさし今は見て安しあかりくも


外見ると幌ひきはづす手のつめたさ遥かの不二は吹雪雲の影


雪ふるは天城かと見る次の眼に夕焼の赤きまばら松見ゆ


山峡を遥に小さき人の影寒むざむと追ふ斑雪はだれぬかるみ


山間やまあひかなし小さしと見し人が窻際にくるこれの猿面さるづら


遥かの山ぎざぎざに白し半島の上をわが自動車はまつしぐらなる


良夜行


あまりに月が良いので自動車を下りる。三崎の一里てまへ、引橋の茶屋の少し先き、そこらが半島の最も高い道である。


この空の澄みの寒さや満月の辺に立ちのぼ黄金こがねたち


満月の辺に立ちのぼる炎のこな宵空の澄みに澄みなむとす


山は暮れぬましぐらにはしる自動車の真正面まともの空の宵の満月


月明き半島の夜を歩まむとし汐ふかき風をまづ吸ひにけり


とりどりに歩む姿ぞおもしろき松の並木のきさらぎの寒を


青く真澄む幻燈の空に枝さしかはす山松が景も早や二月なる


月の坂に我ら追ひ越す自動車の埃の立ちのの青さはも


太鼓うつ音のきこゆる月の森そこかここかと聴けば遠しも


おのづから岡の歩みは太鼓うつ月照る磯に近づきにけり


北条入江


このさと燈火ともしびあかし草臥れて雪どけの道を行けばひもじき


宵はまだ月の入江の枯葦の影くきやかに汐あかり満つ


枯葦や入江の潟にのる汐の上づら寒し月はかがよふ


月と太鼓


私の雲母集中の異人館はその後海嘯で流されたとかで、もはや跡方もなくなつてゐた。


今は無き我家の跡に櫓かけて磯の良夜あらたよを子ら太鼓うつ


月がたたく太鼓ならしとおもひきや我家の跡の子らが興なる


春あさき囃子め来て月の磯の我家の跡の汐あかり見つ


来て見ればいよいよ近き月明り通り矢も見ゆ城ヶ島も見ゆ


照り曇る月の夜ながら小童こわらべがたたく太鼓の冴えのかなしさ


童らがたたく太鼓は月の夜とこだましにけり島の森より


何がなし心安きはたぷたぷと石垣をうつ満ち汐の音


臨江閣


元の私の家の隣である。当時親しくしてゐたその家も代が変つて今は旅館になつてゐる。ここに私達は泊ることにした。


この宿は小松にまじる枯葦の影し騒げど月明りせり


あかく風やや烈し湯をいでてさやぐ小松の影を見てゐる


沖釣の宵の夜ふけの漁火いさりびの繁く遥るけき憂世うきよなるかも


灘遠く連れてまたたく漁火いさりびの風のこなたの月夜さざなみ


あれだあれだ城ヶ島のとつぱづれに燈台のが青ういてる


雨雲に月飛ぶ迅し旅蒸気たびぶねのマストは青きをかかげたり


この宿の生洲いけすの汐に映るもの石崖と岩の墨いろの影


友よ飲まむ寂しと言葉落したり音せぬは汐も満ちたるらしき


草臥ぶれておのれ素直になりにけり酒やふふまな歌はせ女子をなご


われ酔ひぬ君もうたへよわらべうたうたひ遊ばむあはれあはれ酔ひぬ 戯れて三首


頭に火をつけよ線香花火の火のこなの松葉菊ちふはなも咲かさな


童うた「金魚の鉢」ぞあなかしこおのれよろしよ「金魚の鉢」は


八景原


二月二日八景原に遊ぶ。


椿


この坂の椿の紅さ先のぼる一人は早くも佇ちて仰げり


女仏


あなかしこ女仏によぶつなりけり触りひやき石にてはませど常ならず見ゆ


つめたけど触りてかなしと惚れてしが石の女仏の眼眸まみの露けさ


椿葉のえの明りに浮き立たす石の仏のほそり肩はも


崖の上


崖の上の高畑道のはだら雪踏みほそりつつ一人は遠し


日は高きに雪と小松のほそり道人には逢はね下は波の音


りかへればりかへり見つ荒布採りの海女あま一人が籠は紅つばき挿す


雪うすき小松があひに啼く鳥は頬白か否か春も浅きか


八景原


昆布噛み冷酒れいしゆふふむと昼磯につどへどさびし一面の照り


はるばるに潮満つらしく思ふとき手をかざしたり迎への舟より


午ちかきひたひた潮の岩照りを迎への舟が揺れてはひり


舟上


八景原より城ヶ島へ


昼潮の照りの明りに漕ぎ馴れて遠く遊びし昔かなしも


昼潮に雙手ひたして思ふことかく父母と常に遊びき


満潮のゆたのたゆたに揺れゆかなゆくらゆくら漕げようつらうつら行けよ


昼潮の満ちのたたへに漕ぐ舟のねもごろにとろき櫓のなるかも


城ヶ島


二月二日午後


萱原


萱わくる音こそすなれわがほかは先ゆく人も遠しと思ふに


萱原の萱の遥かに思はずも先ゆく友が頭見せたり


萱刈る人ひとり居りけり枯れかれし萱の中ふかく身をうづめつつ


島山に深き萱刈る鎌の音青空にひびきけんとす、昼


日小さしまだ遅からず仰ぎて萱刈る音の刈り深む聴く


老媼


草刈りの七十ばかりのお婆さんに前田君がたづねてゐた。「お婆さん、この島でも盆踊の歌があるかね。」「お盆には無えだ、お正月には盆踊があるだ。」「なんと云ふ唄かね、」お婆さんはどう思つたか、ふと唄ひ出した。おもしろい手つきをして、唄つてゐる時はなんとも云へぬうれしさうな若やいだ顔をしてゐた。が唄ひをはるとむつりとした元の顔になつて黙つてまた刈り初めた。その唄はかうである。

つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて負けてやる

私たち二人は腹をかかへて笑つた。さうしてまた寂しくなつて了つた。


萱刈りやめをうなはうたふ日ののどかなんとその眼のうれしさうなる


歌ひをはり済まぬ顔しぬ島媼また枯草を刈りいそぎつつ


媼居り萱を刈りけり子らは来て萱を負ひけり日のちひさきに


萱負ひて子らは子らとて下りゆけり媼は刈りぬひたむきの刈り


島鶉


島鶉啼きつと思ひぬ深き萱のそよぎの照りのしづもりの中に


島山の萱のしづかに鶉ゐて啼くなる昼はもこもり啼く


すれすれに鶉飛び立つ萱の風また一羽立ちぬこもりたらしも


遊びが崎


昼潮に櫓臍漕ぎ落し思はずも幼なごゑ立てぬそれがをかしき


大椿寺


同日薄暮、城ヶ島より宿へ帰つて後、散歩のついでに立ち寄つて見た。椿御所がこれである。宿の近く、同じ向ヶ崎にある。


この寺が大椿寺ぞとはひり来て寂しと出でぬ日暮を二人


この寺も古うなりぬと陽の隈に尿しつつ云ふ我も寒むかり


さびさびと暮れしづもれば磯寺の障子はかげる寒しとなしに


長井


二月三日薄暮、三崎より乗合自動車での帰途半で下車、長井で一泊することになつた。翌四日、その磯を散歩し、裏道から県道へ出、逗子行の立場まで行きその日暮れに其処を立つた。その間の所見である。


水あかり


黒川の浅夜のやき水あかり江につづくらし広き汐騒しほざゐ


黒川の葦辺のやき水あかり夜汐かまじる暗くにほへり


川間橋かはまばし何か藻くづの青めくは夜釣のさしてにほふならしも


安旅籠


この晩は少し疲れて苦しかつた。心臓を弱めたのである。


のもとに夕餉のさやあらはなるまづしき磯に行けばひもじさ


磯宿は下のほこらに提燈がき白い幟の月と風です


安宿のこれの硝子戸夜風に鳴り佐島のあかりうつつなく見ゆ


磯宿のこの婢女はしためが言なきはまたくつめたきうろくづがどちか


友とゐてさびしとは思はね一つの蜜柑いつまでもむきて酒うまからず


寂しけどなにか今宵の気の安さこの磯宿の磯香くさきも


鰯子の函


雨かとも夜すがらききし点滴は朝起きて見れば幟竿の揺れ


この磯は半ば枯れたる浜木綿はまゆふの日向かがやかし鰯子しこの函干す


磯に干す鰯子のかがやき目馴れねばうら寂しかり朝のはまだ


まじまじと眺めて蜜柑むきゐたり硝子戸越しの鰯子の浅照あさて


今朝はまだ太鼓たたかず磯の鼻に竹馬の子が遠く沖見る


入江の波いまだかがやかずつつましく箸さしおきて今朝いとまあり


遠浅の春さきの江か今朝は晴れて風烈しけれど波の穂低し


風波の穂立の迅さ浅々あさあさに見えつつは走れ白く白くかへ


春と云へど横の出崎の日あたりもまださむざむし枯木三四本


寒い風の入江の潮にすれすれ出てる枯草の島に日があたるところ


海苔


潮ふくむ浅きみどりの青海苔の簀々すのこすのこを嗅げば春なり


この朝や風は高けど片磯の石垣に青く海苔すのこ干す


老らくのさびしごころか浜へ出てかけろ追ひゆく万祝衣まいはいをぢ


小竹の村


この磯は枯多し行くところ吹かれ吹かれぬ小竹あらぬなき


磯村は風を荒みか背戸ごとに矢竹篠竹家垣にせり


家垣の篠の枯藪風をしげみほほけなびけり窻の障子に


この枯れし竹は矢竹か女竹かと立ちとまり見つつ見つつ行きけり


家垣の矢竹の裏のべにつばき咲きにけらしな花二つ三つ


丘窪


丘窪は刈田の泥も刈株もさびつくしたれ日のあたりつつ


丘窪は刈田に泥ぢし稲株のさびさびにけりそのこちごちに


丘窪の刈田のへりの溝川の青の水藻は目に新しき


群松の日かげのあをきはだら雪見て通るなりこころえつつ


日のあたる枯篠藪の円丘のところどころのしら梅の花


目にとめてはや寒からず柴刈る子ら日あたりの丘に何か笑へり


日蔭田をむつりむつりと群れ来る子ら早や日あたりへ一人は出づも


何祭る二月の子らぞ青榊手に手に持ちてつつましく来る


春浅き片山蔭の女松原つばらつばらに日のあたりたり


岡裾も青みそめたりこえやると揺れかつぐ影もはや寒むからず


牛ひとつほつり出たり下丘の日照る畑の青きはづれに


雪ふかき窪田の畔の蚕豆のみづみづしさに見ておどろきぬ


誰かゐて豚小屋のぞく日のいとま安けからしと見て通りゐる


春あさき小葱がそばの草ぐみの実のつめたさを食べて見んとす


立枯銀杏


目にとめてはや寒からず冬銀杏かうかうと白う寂び明りたる


銀杏の立枯の枝の白金光のほうほうとして実にこまかさ


暇あり


梅はまだそこらここらの雑木山眺めつつ行かな遊び遊びに


たまさかのいとまいただき出て遊ぶ二日三日ゆゑいよいよかなしも


高畑道


風烈しき高畑越えて耳やわまだらの仔牛道はかどらず


青麦の高畑道の日の光斑らの仔牛眼もさだまらず


春はいまだ風かはげしきこの丘や警報球を赤くかかげつ


風の下り坂


雪どけのぬかるみ坂を吹きあぐる早春の風はまだ頬につめたし


浅黄の外套に頬かむりしぬこの風の磯山道は梅ところどころ


長井遠望


かくばかり多き磯と知らざりき通り抜けて薄き陽ざしに見れば


ここから出て見ようかと出て見てる洲崎の下の小竹の薄い陽


薯がらの小積こづみのかげだ吸ふ煙草だ早春の出洲の烈風をけて


県道へ出る道


道を問へばどの家も障子ひらかずしておつとりと答ふひるの里なる


早や青むうね車前草おほばこつめたよと踏みつつ伝ふ友が後べを


やき棕櫚の根方に尿して日向を走る子が前の矮鶏ちやぼ


林新道


向うの切りくづし崖の黄の壁に陽があたつてる菜畑も見えて


もう春だ春だほうれトロッコが走る走る走る誰か手をあげる


あの頃のあのこころもち手をあげてトロッコで走るちやうどあれです


どこやらから春が来さうな雪のあとですトロッコのつちの東風です


さうだあの気合ださうださうだ一息に辷るトロッコの走り


入江の上


引き潮にほとほと涸れし江のかみの隣田寒し藁のみ積みぬ


潮の路こちごちに光れ黒き洲のおほかたは涸れぬ葦むらのそと


風の向をりふし変る荻むらはたださわさわし眺めに出ても


枯葦が枯葦のかげを落してゐるただそれだけのぬくい冬の日


多摩川上流の歌


途上


へうへうと心はかろし旅ゆくとけふ春風に吹かれてぞゆく


さかみづきおのれわすれて昨夜よべはありき今朝けさは菜の葉の風見てぞゆく


青梅街道の春いまだ浅し山椒の魚げて来るさきをぢに会ひにけり


早春の菜畑なばたけの風の爽かさよ野中のさき駅も見えて来ぬ


枯欅目にとめていそぐ畑の道は行きつくるなし武蔵野に来ぬ


桑の曠野


国分寺、立川、青梅


吹きさらす曠野あらのの駅に兎をさげてぽつつりと待てるをぢも居り午後


み冬なり曠野の駅に遅れて来る二時過ぎの汽車の煙いま見ゆ


枯桑のほろほろと白く汽車の窻のそば走るかにはてしなき見る


枯桑の曠野つつ切つてまつすぐな道がどこまでもどこまでも北へ向つてる


時をり話かけてふたたび向く窻外まどそとは白しはてしなき桑


日の暮の枯桑原に火がぽつと燃えて時のま消えぬ赤かりしかも


寒いさむい曠野の中を走つてゆく日の暮の汽車の白い煙だ


この曠野のさな駅に遅れて来てすぐつ汽車のふかき鑵鳴かまなり


枯桑の曠野の窪のところどころ煙たてゐてかげる村のある


山近く雪まだ残る桑の原のらにし見るは廂ふかき家


廂ふかく陽の照るとなき粗壁あらかべの枯桑のかげは映るともなき


風雲は気球のごとし冬枯の桑の曠野にただ一つ見ゆ


声高こはだかの曠野の人とむかひて坐りひもじき我や燐寸マチを赤く


ああ名残なごり夕陽ゆうひはえやひとしきりそそぐ枯桑の原の金色こんじきの光


雪の山のつつましく近くあらはれ来て桑の枯野も今は末ならむ


雛店にともしびあかくつきにけりはろばろし桑の枯野越え来し


多摩川上流


鉾杉の春のこげいろよろしみと眺め見あかず谿岨たにそばのぼる


冬山の山ふところの群杉むらすぎは鉾立ててよし寂びし鉾杉


日和ひよりよきけふにもあるかな人居りて山くづすところ爆音ふかし


山裾は枯芝原のひとたひらいへ竝べり日のあたりよみ


多摩川原早瀬はやせにうつるつがの木の春浅うして人うぐひ釣る


多摩川原清き川瀬に採る砂のかがやき白しうち響きつつ


多摩川の渡瀬わたせの砂の水を浅み山葵わさび採るべき春ちかづきぬ


春は早や向つ岸辺の栂のにかすみてあかし欅なるらし


この水のみなもと遠くほのぼのし馬酔木あしびの花も咲きそめぬらむ


春あさき川瀬の崖の老樫の風烈しけれやしきり光れり


隣り立つ樫と棕櫚との日のひかり春早き風に冷えみだれつつ


樫の葉に常しづもらぬ日の光なほさへや風の瀬を越えて吹く


杉の谿


この御嶽みたけや春なりながら峯の奥は雪深からし山開やまびらきまだ


谿隈たにくまひはの声多し杉の花のややに焦げて春まさに来ぬ


杉谿のせまりの深さ時ありて鶸のむれ舞へど雪の山の蔭


まだら雪山には凍れりし杉はなまなまと積みてみな棚にせり


岩上いはがみのつめたき竹のは揺れてまことに冬も末かと思ひぬ


いは氷柱つららの垂りに映りて通るわれかとも思ふ影のしたしさ


山菅


山菅にのさしあたるたまたまはかすかにうれしのぼり道なる


谿くまの湿地しめちに生ふる鼬羊歯いたちしだかすかなるくもりにあり


山がはの岩間のたぎのひとところたぎつすなはちこごりたるらし


谿岨をいそぐひとりかたまたまはふり仰ぎ見居り真日のさきを


おかめ笹日かげにそよぎところづら日向に枯れぬそのあひ通る


日のけてややいそがしき心ありそこここにくる氷柱つららの光


吹きさらしの岩にほこらのごときかはやありて見のさみしさよここらの谿は


雪の山道


こご御嶽みたけ行者ののぼり坂こごしとは思へ青き杉の香


鉾杉の鉾のとがりの幾重いくかさたたなはる谿に雪はふりにけり


み立てる谿の鉾杉白雪つもり見のかうかうと幾秀いくほこもれり


音せしは老杉が上の雪のくれ凍雪いてゆきの道に落ちたるらしき


今落ちし杉の葉の雪はすこし砕け地の凍雪いてゆきにあざやけく白き


白雪のこごりのくれをひろひみ我すなほなり母をおもひつ


もみの木の差出さしでの枝の常盤葉のときをり篩ふ雪のかすけさ


雪しろき山畑はかな雑木ざうきのさきちよぼちよぼと出てその実垂れたり


山畑の雪のたひらに暮がたの青ぞらのいろの吸はれつつぞある


ああ早春雪はだらなる山の尾を電信線は空まで走れり


後山あとやまは雪はだらなる杉の山前山はしろしりし山かも


いただきの雪にしたしく煙あげて群ゐる屋根見ゆ御師おしの家かも


御師須崎氏に宿る。


風出でて山鳴やまなりふかき日の暮は遥かに恋し海の汐鳴しほなり


山上の黎明


ひようひようと風吹きとほる山のは月かげ白し夜明けたらしも


雪ふかき山の尾の上に啼くかけの啼きこたかけの声のしたしさ


道のべの春


きさらぎや多摩の山方やまかた、まだ寒き障子あかりどの内、人影の、手に織る機の、ていほろよをさうつらしき。立ちどまり、うつらに聴けばからりこよ、の鳴るらしき。三杈みつまたの花咲き湿しめる、山の井よ、下井の水もしたたるらしき。


反歌


障子あかりどにすずろにひびくをさの音山辺の春はすでに動きぬ


山かげの懸樋かけひへり紐氷柱ひもつらら本末もとすゑほそうなりにけるかも


造り酒屋の歌


水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、とこびて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋つくりざかや門櫓かどやぐらいかしく高く、棟さはに倉建てめ、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺やさかなす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、庭広に干しもつらぬと、咽喉太のどぶとの老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠とさか、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻ななづまをし引き連れ、七十羽ななそはの雛を引き具し、春浅くしづかなるに、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外うちとにも満ち溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世々にさきはふ、うまし国うましこのぞ、うべも富みたる。


反歌


大御代の多摩の酒屋の門櫓かどやぐら酒の香さびて名も古りにけり


西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉


餅搗きの歌


武蔵野や多摩のみなかみ、御嶽道みたけみち払沢ほつさわの口、春浅き日南ひなたのそとに、餅搗くや爺は杵とり、臼のべや婆は手に捏ね、ぽたらことのどにむかひぬ、ぽたらこよゆるにとめぐる。しづかなるここらの里も、雛祭ちかづきぬらし。御形ごぎやう咲き蓬萌えたり。古りぬれど雛もかざれり。山もあり川もありけり。こもり啼く子ろも居るらし。道埃みちぼこりしろじろ立てて、吹き過ぐと風はさむけど、雲ゆけば日ざし洩れ来て、おのづからうら安の世や、ぽたらこと爺は杵とり、ぽたらこと婆は捏ねつつ、水濞すする。


反歌


春なれば草の蓬も搗きこめてのどかなるらし餅搗もちひつきをる


道のべののどの餅搗きおもしろと見つつあかずも杵の手ぶりを


めぐり見つ見つつあかずも搗くたびに杵にのり来る餅のふくらみ


搗きたてのもちひならすとしろき粉の米の粉まぶし手にたたきをる


    §


山道にかかる


しろじろと埃あげくる道の風やや片避かたよけて旅ごころあり


人も見えね御嶽山道みたけさんだう風埃かざぼこり目にたちてしろき午過ひるすぎにけり


印旛沼吟行集


五月中旬、千葉県人会よりの帰途、千葉より印旛沼の吉植宅にゆく。


この己は鰌になりぬ天然更新の君は鯰になるならよしも 夕暮へ


うれしくておれは鰌を踊るなりこれは大きい印旛沼の鰌 牧水へ


両国の一ぜんめし屋でわかれたるそののち恋し伯林の茂吉 茂吉へ 二首


ざるふりてすくふお前がうれしくておれは鰌になりにけるかも


おもしろとうれしうれしと尻ふりておれが踊ればほめられにけり


初夏の印旛沼


印旛沼展望


下総や印旛いには大沼おほぬ見にと来て見ておどろきぬ灰濁はいだめる波


はろばろし葦原かけて湛ふれば空よりも明し大き印旛沼いんばぬま


草食むと赤馬あか放れゐる土手越しに一面にあかるあれが印旛沼


印旛沼いにばぬの屯のやなぎゆたかなれや息長おきながの風に垂れて靡かふ


印旛びと出水かしこみはろばろし葦原かけて植ゑし楊


印旛沼家居とぼしき沼尻ぬじりにも老木の楊わた深みつつ


印旛びと印旛の津々に屯してとり葦刈りいにしへ思はむ


友が家は沼尻ぬじりのいづこ目もはるに葦野つづけり河楊も見ゆ


註・葦野(アシヤ)はその地の俗語である


千樫と歩む


二人は遅れて行つた。久しぶりで汽車の中から飲んだ。この辺では四合瓶一本と大きな白い盃を二つ持つてゐた。尠いので大切に飲んだ。


日の照りて茅花つばなそよめく浅茅原我等あぐらゐひやき酒のむ


風あそぶ土手の蓬生たわたわにかなし女かなびきこもらふ


蓬生にいとど沁み照る酒のり惜しみかなしみ飲みてゐるかも


酒を惜しみ春を惜しむと印旛沼や土手の長手をあかず飲み行く


印旛沼いんばぬま津々の荻原風ふけば見ゆるかぎりが皆そよぐなり


枯葦にとまるすなはち揺れ揺れてよしきりが鳴けり若葦の原に


この友と酒をふふめばねもごろに見つつよかりしあの頃おもほゆ


しげみ常しさかればまれまれものどにはあはず君とのまずも


酒飲みてまことよろしといふひととまことよろしくのむがうれしさ


菱の花菱の実となるあはれさも早やただよへり舟にて見れば


朝刈の戻りなるらし草負ひて渡し舟待つ姉と弟


南風みなみよし葦と水田の中道は葭切も鳴けば蛙も鳴くもよ


昼餐


ねもごろの印旛びとかも白の馬木につなぐとし一まはりすも


白馬しろつなぐ君がお庭の陽の影は百日紅の老木おいきの若葉


昼ながらこの幽けさは印旛沼の湛への澄みの響かふならむ


一つゐる葭切のこゑはすがすがし広間とほりて家裏やうらに響けり


しみじみと酒を控へて涼しきはこの大きいへの葦原のはえ


大き家の外の日の照りあはれなりかけろ遊べりさくうごきて


印旛沼の出水ふせぐと臨終いまはまでかしこみし人のよかりける酒 庄亮氏の祖父君のこと


印旛沼の出津でづの若葦さやさやに響つたへて為すありにけり 庄亮氏に


蓮うゑて楽しまむよとほのぼのと酒のみていふことのよろしさ


印旛沼の大きたたへとさながらに常を湛へつ上おほらかに


やさし妻ころも更へつつすがすがと笑ます君かも髪に手をあてて


舟に乗る


あさみどり葦間の小田の下萌したもえに蛙鳴きたつ霧さめの前


時ぐもり印旛落しをぎ出でて幾時いくらならぬに明るさざなみ


時ぐもりしもの水路の日たむろの楊の揺れもすぐかげるなり


ついそこの枯葦束の裏に来て日和よろしく葭切鳴くも


ふと見てし水のほとりの湿り花なでしこはあかし見つつぎゐる


印旛沼狭き水曲の水の手の若葦の伸びのたけのさやけさ


楊と絮と鯉網


印旛沼いんばぬまの堤のやなぎ老いにけり上げつぱなしの四つ手網の上


夏ごとに出水に水漬みづ河楊かはやなぎわた白うして老いにけるかも


とのぐもり老木おいきの楊影落す水面みのもあかりを飛べる絮あり


ねもごろに老木の楊絮つけておのづから離し立ちのしづけさ


楊より楊の絮が離れてをり穏かならし今日の曇りも


風たちぬ沼の隈回くまみの日たむろは楊の絮の飛びよきところ


元棹に早やひつけて張る網のへり水漬みづきゆく河楊かはやなぎのかげ


垂りふかき河楊かはやなぎの根のそよそよ風鯉捕る網はすばしこく張る


鯉ひそむ河楊かはやなぎの根の底明りがぼがぼと棹に掻きみだしたれ


鯉ひそむ張りのしまりを引き引きて網たぐる手に水はねあがる


印旛金鱗こんりんの鯉みじろがず夕風の網に捕られたりけり


早やゆふべ水り落つる網の目に赤き蟹が一つひつかかりてゐる


印旛びと鯉網は張れ鯉の巣に日にし重ねずかしこみ帰る


荻と莎草


数百町歩の荻と莎草と葦の原である。


莎草くぐの原昼もかなしと母が目をれつつこもる夏ぞ来向ふ


朝草は朝に刈り干し夕草は夕べに刈りすべな会ひけり


出津の夏いよよ深むか荻の葉の荻臭くしてすべし知らぬを


浅宵のかやつり草に似て大き莎草ちふ草を藉きてるなり


荻がくり莎草もふふめど大き手の男どち来て酒を惜しめり


ほのぼのと莎草の花さく荻むらは残暑の照りにのち刈りぬべし


早や涼し葦原行けばしら玉の露上りをりにも縁にも


母馬仔馬


友がは小米ざくらのこぼれ花けふあはれなり仔馬こうま跳ねゐて


この出津の葦谷あしやの照りにゐる馬は涼しかるらむ子を遊ばせて


仔の馬も前の荻生の日の照りに涼かぜ食ふと出て馴れにけり


此方こなた向く仔馬はかなし母馬の莎草食むそばゆ眼をあげてゐて


春生れし仔馬はいまだ乳のみて遊ぶのみなり蛍草の花


仔の馬の露けきまみに飛ぶ蟆子ぶよのまつはりしげし夕づきにけり


若荻原夕風吹けばあはれなり仔馬はかへる母に添ひつつ


馬柵ませ越しに小米ざくらの花見て居る仔馬の頤に薄き髭あり


葦間の明暗


葦むらに舟とめて久し湿り風ソフトにも感じ水透かしをる


水の上の影はすべなし菅は菅葦は葦としさやにかがよふ


すべはなし水面に映る葦茎の太きは太き細きは細き


かの水の明るきめんにふと映る葉の影はけて揺れし菰の葉


明らかに水漬みづく根方の葦茎は突き入るごとし影に折れつつ


葦茎のうぶの柔毛にこげのいみじさよづくその毛はつけぬ白玉


陽の映えてまたあかあかとすべなきは穂のちぎれたるばんばらの葦



印旛沼の水照みでりのかすみ夕まけて湿らむとすらし鳰の鳴き出でぬ


印旛沼日の舂けば鳰のこゑこちごちに明る遠の靄より


水鳥の鳰の浮巣のさだめなさ水量みかさまさればにと浮きつつ


夕沼のこちごちに浮く鳰の子は一羽は浮かず連れつつぞ鳴く


津のあひの広き水路にぽつぽつと出て見て消ゆる暮の鳰なれ


ぎかへる舟のあとべに浮く鳰の尻ごゑは長く水にひびけり


ほのぼのと鳰の浮巣も湿しめるらむついたちの月の入るさの闇は


夜食


印旛金鱗こんりんの鯉みじろがずあきらめ果てし姿ひ食ふ


昼捕りし鯉の洗ひの水紅は大蒜にんにく磨りて浅夜あさよぶべし


印旛沼の真夜のあやしき小つぶ雨鯉鮒どもが光りつつあらむ


印旛の葦


印旛囃子


夜宴は農人たちの印旛囃子から始まつた。その讃唱歌。


印旛びと印旛囃子を葦原やよしきりがぞうにいにしへ習ひし


印旛びと津々の葦間にたむろしてこぞり葦刈り囃す歌これ


産土うぶすなの印旛の歌よおのづから荻吹く風のさやぎしこもれり


大沼のここの印旛いにはの葦の芽のさやさやし囃子ききにけるかも


常生くと朝魚あさな夕菜ゆふなに印旛びと今も暇なく網と鎌もち


朝の出がけに出て山見れば雲のかからぬ山はない


筑波根に朝ゐ夕ゐる旗雲のとよあけ見て出ては刈るらむ


をとり妹は荻刈りよろしかもなしのさながら今も為しけり


いにしへの印旛の神があひの蘆谷のこもり今も為るかも


よく遊ぶ印旛びとかも鉦うちて遊ぶみぎりはれし顔せり


寒の鯉水にしめつつかつぐ子も夏は浅夜の鉦たたきけり


里神楽


農人たちの群の中から、紅い手拭の頬かぶりにひよつとこ面、派手な友禅模様の短い衣裳をつけて踊り出したものがある。里神楽の囃子が起つた。


ふごに盛り山をかつぐといにしへは笑ひぞめきぬ神楽囃子に


里神楽らぎ浮かるとよく跳ぬる毛脛のもとを見らくかなしも


こを見よ笑へ笑へとをどりをり笑へざりけりひたぶるなるは


おもしろくなつて、今度はこちらも飛び出した。なかなかうまいをどりである。


踊るとて早もうれしくなりにけり頤に吾が結ふ手拭の紅


くれなゐの里の手ぬぐひうれしくて頬にかぶるきはよ何も思はず


めんつけて豆の二つの眼の孔ゆ細く透かせば人小さくゐる


こはわるしかはつたなしと常云ふは遊ぶ心を常もたぬらし 尾山に戯れて 二首


酒のみて恍れて遊ぶを酒のまず恍れず遊ばぬ蒼き顔せり


このをどるめんのうらべよ痕つけて涙しじなり誰ししらずも


ようをどるおのれかなしも笛つづみあやに囃せばいよいよ愛しも


麦搗踊


麦搗踊がまた始まつた。千樫君と私とが飛び入りにまた踊り出した。


世の中は常しさびしよ麦ほこり浅夜立てつつ搗きてめぐらむ


すべもなく常なかる世に鉦つづみ振りて鳴らして遊ぶ子らはも


おもしろと手うちはやしてはや立ちていつかをどるとをどりゐにけり


おもしろの印旛いにはびとかも夜をこめて教へたぶなり麦を搗く型


杵はかく持て麦はかく搗け然見せつえやとをどりつ連れてつきつつ


やと下ろす杵の手ぶりのおもしろさえやととめぐる麦搗きをどり


麦を搗くをどりをかしとおもしろと手振りをどれど足取はまだ


えやおもしろそやおもしろとをどりをりこれの浅夜の麦搗きのとも


麦搗くと搗きてをどりてすべなけどをどりあかさむ鶏の啼くまで


杵とりて麦は搗かねど麦搗くとつれてをどれば香に酔ひにけり


なみなみと酒は注がしめややさめぬをどりをどりて吾は草臥れぬ


これの輪の小夜のをどりの身につきていよよよろしくなりてくるかも


ほのぼのと歌ひをさめてをどりの輪あはれとめたり鶏の啼くとき


その後に


踊りはてて残り酒すふ口あたり末苦うしてへそ辺寒しも


寝かされてふすまかぶりて夜のほどろ手だしをどらせ叱られてゐる


踊はててさがる厨に里びとがいただく酒はまたうまからむ


黎明


この里の麦搗きをどり夜の明けは早や憂かりけりよしきり鳴きゐる


あなかしこ童ごころもつゆなくて童さびしつ許されぬかも


信濃高原の歌


大正十二年四月、妻子を伴ひ、信濃小県郡の大屋に義弟山本鼎の経営に成る農民美術研究所に臨む。旁々七久里の別所、或は追分沓掛等に淹留、碓氷を越えて下る。


落葉松林の中に


別所より追分へ、追分より沓掛へ、その落葉松林より落葉松林の中へ、淹留すること半月。


落葉松林に添ひて


浅間の麓高原から松の林は黒しはるともなし


うちらし浅間はわかず雨雲のいやしき垂るるすぐろ落葉松からまつ


小諸過ぎ御代田みよだに来ればすぐと黒きから松の原がはろにつづけり


夕せまる落葉松山にすぐろ木の高木は寒し目に久に在り


落葉松からまつ渓間たにまの窪は刈株かりぐひの白う褪せたる乾田ひだ菱畦ひしあぜ


春浅き落葉松渓の線路ぎは哩標の白き杭がまた在り


霧雨の田中に囲ふ菰櫓いまだも寒し氷採りつつ


から松の夕深渓ゆふふかたにの渓かけて汽車うねり出づる白き湯けぶり


渓かけてうねりふくらむ汽車の腹のぞきゐる頬に煤吹きあがる


末黒の落葉松材の夕渓ゆふたにのなだり伐り下ろしほうり出し積む


夕かげの線路のさきに丸太木積み仮駅ならしややに明り来


から松の渓間の駅に今日から停まり汽鑵かま鳴らす汽車よここは追分


この渓に汽車見に来り夕遊ぶ子等が騒ぎも雨ならむとす


から松の渓間のぼると子を連れてから松の原をかへり見つ我は


追分の油屋まで


この山は落葉松からまつつづきから松に白かんばまじり霧小雨きりこさめあり


夕せまる落葉松原のこぬか雨傘さして妻に子を負はせをる


から松はしみみすぐろしすぐろけど早や春来らし芽立湿しめれり


霧雨の落葉松原の白かんばまだすがれつつ白う光れる


から松の林の道はから松積み二輪馬車がとほるそれだけの道


新芽にいめ張るから松苗はいち早し春雨とめて千露ちづゆむすべり


この雨や芽立の萌黄かをすかにから松の原を行けば湿しめ


から松の芽立の林見にと来しまだすぐろ木の雨にぬれつつ


白樺は幹は白けどほそり木のこずゑのあけに雨も保てり


雨後の夕


夕明るこの雨あとを出て見るとから松の靄に向ひて歩めり


このゆふべ傘たたみもちて見てゆくは雨あとの橋のてすりの光


雨とめてゆふべあかるき浅芝のへりかぢりゆく曳かれ山羊はも


たれこめてきけるかはづをゆふべ出てこゑの明るくきくがうれしさ


このあたり、から松の細枝を編みて垣とす、風致雅なり。


この門の夕明るみはから松の垣根ならしとほめて見にけり


落葉松原茜さしそふ雨靄のぎしめらへり出でてながめむ


細雨の朝


雨の玉とめてあかるき真木まきに紫あさく春は来向ふ


田のしばにぬか雨むすぶ蜘蛛ののかがよふ見れば春は来にけり


春あさきこの溜池の芽生藻めばえもに鯉の卵はととのはずまだ


芹青む小田の田べりのちよろろ水けさ見に来ればあぜを越えつつ


この背戸は桑の根さむし姫笹の枯れしつやのみ雨に明れり


追分の小田の窪田の初蛙こゑのをさなにふふみそめつつ


雨にこもれる


この雨にをさなかはづも鳴きつぐとこゑととのひぬ二日三日して


今朝の田に雨よぶかはづをさなけどころろと鳴けば春田めかしも


雨しげし下田の根芹つみに出て濡れゐるをばかあの頬かむり


畑つものいまだ乏しか炬燵して芹のひたしを今朝もすすめぬ


あぶらうく鯉の味噌汁味噌くさし芹を醤油したぢにひたしべたり


靄しげき山の田見れば小舟ゆく潮来いたこの沼の沖田おもほゆ


山かげの田を鋤く人は馬持たず高きすきもてのびあがり鋤く


家裏の一木ひときから松ふる雨のぬか雨ながらしとど霧へり


雨の間はき鳴く蛙しきりなり早や夕づきし障子にひびけり


雨なりしきのふをあれのやつヶ嶽雪つもりけらし今朝白う見ゆ


追分の宿


追分は脇本陣のむら青の蛇腹の獅子の眼眸まみも老いたり


軒並は旅籠の名のみゆゆしくてこの追分の宿しゆくも荒れたり


夕光ゆふかげにがた馬車駆るはあはただし小林区署の人にあらずか


春だ春だ木小屋の羽目にぶらついてゐる山火事警戒の赤いポスタア


春の日も古きうまやの山羊の子は鈴ももたずて夕帰るなり


から松の夕かげおよぶれびさし石ここだのせていまだしめれり


浅間嶺の野分おそると屋根低く葺き竝べけむから松の原に


屋根低く窻ひとつなき側面に夕日いつぱいにあたる冬なり


仮宿かりやどを落葉松原にはいり来て落葉松つづき御代田へぞゆく


桑の根に枯れて光らぬ薄の穂根刈りすべくは春雨ののち


追分は夕光ゆうかげを戸をして本陣のまへに寝る犬があら


あきらかに春としへど夕照のから松のうれが黒くそよげり


二十三日、山本夫妻、沓掛よりガタ馬車に揺られて来る。夕刻、うちつれて追分の岐れ道を見、惆悵として帰る。


馬子ぶしの古き追分夕陽さしぺんぺん草の二三本の花


追分の辻の浅芝斑萌むらもえて伸びしはしより山羊に食まれつ


追分の辻に出て見て簡素なり馬頭観音の四月の夕陽


馬頭観世音の裏の夕陽に出でてゐて二人ふたり三人みたりさびし鴉見やりつ


うつせみの仮宿過ぎて追分の道の二手ふたてになるがはかなさ


春浅き大名行列ここ過ぎて江戸は近しといそぎけらしも


この松は松笠多し枯なむと夕陽あかきに歩みとどめつ


放牧の絵馬


信州小県郡別所温泉(古名七久里の湯)北向観世音の絵馬を観て詠める歌七十五首。絵馬には独立ちの馬を画けるもの、或は二頭立ちのものあれども、その中に特に異彩を放てるは大額一面に数百となき放牧の馬を画けるものならん。その全額面は、ただ僅かに地平に青空を残すのみにて、凡ては群馬を以て満さる。芸術品としてはさしたるものにあらざるべきもまことに信濃の風土色を現はしておもしろし。これらの歌は主として大額の絵馬の記憶について歌へり。但し、表現の上に於て、その全体の或は個々の神を伝へんとするに必ずしもその形態の写生に執せず。半ば以上は予が平生の「馬」そのものに於ける観照と、連想の自由にまかせたり。故にこれらは精神に於て新に予自身の絵馬として創作されたりと為す方当れり。ただかの絵馬は予に此の機会を些か暗示したるに過ぎず。


序歌


観音の春ののどかに詣でゐて我愁ふなしまかせまつりつ


我がこころ今はゆたけしかもかくも春ののどかに遊び足りつつ


旅に来て今はた安しむらぎもの心放ちて遊びてをれば


この旅は妻と子をついとまなき旅ならずけり遊ぶとて来つ


旅ごころ今日うら安し子を抱きて絵馬のかずかず眺めまはりつ


絵馬師


七久里ななくりのこの観音の絵馬堂に献ぐる絵馬はみな牧の馬


青雲のそぎへのかぎり遊べよと絵馬師心あれや馬放ち遊ぶ


信濃の山の真洞まほらに晴れて放ち心ゆく筆や馬描き満たす


馬は描け轡手綱のいましめは描かず放ちぬよき絵馬師かも


野に遊ぶ馬は描きつつが遊ぶ絵馬師が心しぬび泣きたり


群なす馬描き放つきほひさもあらばあれ幽けき馬は堪へて描きけむ


馬の顔馬の顔してゐたりけれ萱やすすきを吹く風のうち


ねんねんに絵馬師が描けるかなし馬一つとしておなじ顔は無しもよ


馬主


奉納の絵馬の青駒よき馬によき名しるせり佐久の馬主


佐久びとはゆたかなるかもが馬に氏名うじなしるし絵馬奉る


ひたむきの馬ぬしかもや観音と云へば馬頭観音のほか御名しらぬなり


馬市にむらがる馬は数しあらめが馬よしと牽きむけ我背


雲のごと市にむらがるいななきは北佐久の馬小県ちひさがたの馬


野に放ちこやせし馬ぞこれ見よと汝兄なえが青駒ほこらくは今ぞ


群馬


野をうづみ馬のかぎりが遊ぶ絵馬眺めあかずよ子にも見せつつ


牧の野に馬のかぎりが食み足りて遊べる絵馬を見るがゆたけさ


この絵馬の馬のかぎりが食み足りて遊べる牧は北佐久の牧


みすずかる信濃の駒は鈴蘭の花さく牧に放たれにけり


青雲にきほひいななき牧の馬のこたへとよもす秋は今来ぬ


信濃の山の真洞まほらに解き放たれいななく馬は秋風の馬


青馬あをむるる牧のはたての秋山は金泥の霧にへだたりにけり


空ぎはにさかりて遊ぶ白き尾のかすけき馬は雲にとどけり


息長おきなが野分のわき息吹いぶき遠空にきざせどもあかしこの牧はまだ


野分来るや馬城うまきの茅萱吹きなびけ風並かざなみしるし吹きちかづきぬ


胸高に風にいななく牧の馬やいとど白きは遠駆ける馬


薄吹く風にいななく青駒は力の張りや急燥はやるらし


前掻き掻きはやり堪へゐる赤駒の尻尾の垂りに力こもれり


跳ね立ちて今飛ばむずる雄の馬の後脚あとあしの据わりゆゆしかるかも


をどり立ちたけりおどろく赤駒のたてがみの振りに野分来れり


驚破すはと振る駒が尻尾の一とはねを描きとめて荒しこれの一筆


牧馬のきほへる中にゆゆしきは脚そろへ立つ大黒の馬


黒駒はゆゆしかしこし北佐久や野分しき吹けさゆるぎもせず


連銭の葦毛がむるるひとたむろ白虹びやくこうさせり犬蓼の花


寂しくもつくばふ馬かたまたまは首向けて見居りおのが尾の振り


この牧の深風凪ふかかざなぎに息澄みて前脚折る馬は大鹿毛の駒


日のさかり坐りゆたけき大鹿毛のねむりは深し萱むらのまへ


身もたまもをどりゆるがせ仔の馬の遊べる見れば心ゆらぐを


蹴り蹴合ふ仔馬はかなし逃ぐるとし黄の月見草かろく飛び越す


秋風の黒の母駒仔をると目もはなたねば痩せにけるかも


母馬はにはやさしけ仇ふせぐ構への張りは隙見せずけり


母が目をれつつ遠し仔の馬は薄のあかき穂にかくれけり


風光る川はわたらず鹿毛の仔の小さきは戻る水のそばより


水のむと夕うなかぶし鹿毛の駒まだあはれなり眼をひらきつつ


まさびしくはなひる馬はたがらしの花にか触れし首はうづめぬ


風向ふ群の葦毛のたてがみはそろひて黒し揺れなびきつつ


青の瀬にをどり越ゆとし青の瀬に鹿毛の若駒いななきにけり


揺りおよぐ鹿毛の尻毛の垂り重くたぷたぷと沈み白き渦波


垂り重く尻尾沈めてさをの瀬に前掻く馬は月じろの馬


前脚まへかけて岸にをどるとく駒の尻毛がさばく渦の水玉


たじたじと後退あとしざりつつこの馬や尾の根据ゑたり光る風のしも


ものの蔓引きさぐる馬の長ら顔ゆふべはあかし陽に照られをる


朴の辺に日かげ求めつつ目のうすき月毛はうとし老いにけるかも


駈け駒はうしろ振り向くたまゆらも尻毛平になびかせにけり


駈け駒は四つの膝瘤力こもり蹄の裏し空向けつ皆


駈け駒はきほひ空飛べしづかなる駈けのとまりはひたととまりぬ


目もはろに野分吹きしくすすき原見わたして小さし丘に立つ馬


近き馬は太くゆたけく遠き馬は小さく描きたり幽かなる群


誰知らぬ深萱むらにかくれゐる鈍黒にびぐろの馬も或はあるべし


薄より赤き顔だけ突きいだし馬あはれなり秋風ぞ吹く


この馬は吹きぬき風に草食みて耳ひとつだに動かさずあり


汗あゆる鹿毛の平頸ひらくび浅間嶺の山肌のごとき光沢くわうたくにあり


をぎすすき馬は馬づれこもらへば馬くさくして寄りがたからむ


空見ると老馬のまなこ大きけどしばしば閉ぢて目やにたまれり


水のむと白と黒とがうなかぶし白かがやけりこなたべの馬


すがしゆう近づけてむかひ合ふ黒馬くろ黒馬くろとに月明りあり


絵馬ながら馬はさびしよ白は白黒は黒とし遊ぶほか無き


風の萱行き遇ひ馬のたてがみはさかさなびけり驚きにけり


春駒


春駒や背にふ手綱ゆたゆたに垂りてたるめり奉納の絵馬


おほどかに額いつぱいにゑがかれて群青剥げし独立ちの馬


観音のこの大前に奉る絵馬は信濃の春風の駒


をはりに


子よ吾子あこよ馬はもたずも赤駒の木馬きうまや買はむ大き揺り馬


七久里の蕗


四月中旬、妻子を率て、信州別所温泉、古名七久里の湯に遊ぶ。滞在数日。宿所たる柏屋本店は北向観音堂に隣接す。楼上より築地見え、境内見ゆ。遠くまた一望の平野みゆ。幽寂にしてよし。


観音の暁色


湯どころの春のねざめのおもしろさ鐘と太鼓の互み鳴りつつ


観音の太鼓とどろく夜のほどろ下田はるかに啼く蛙あり


観音の春はあけぼの紫の甍の反りの隅ずみのすず


遠べにも観音さまの反り甍早う眺めて起きる子もあらむ


ふるさとは清水観音の雉子車を思ひて  一首


父恋し母恋してふ子の雉子は赤と青もて染められにけり


春暁


別所に男神女神の両嶽あり。その御手洗の末合して相染川となる。


八重雲の豊の紅雲あけぐもこのあした女男の神嶽巻き立ちあがる


雲分きて男神は明くれほのぼのと女神はいまだあけにこもれり


御手洗みたらしや相染川の両岸もろぎしに対ひて明る連翹の花


ほのぼのと相染川の水越えて連翹の花に遊ぶ風あり


溝鼠みぞねずみほのぼの籠めて霧ふかき黄の連翹の夜も明けむとす


春朝浴泉


起きぬけに新湯あらゆにひたり恙なし両手張りのべ息深うをり


ほのかをる硫黄のこもりよろしよと今朝安らなり湯にこもりつつ


ふくらかに空気こもらふ白タオル固うむすびて湯をよろこべり


浴泉のこの安けさに射しこもる朝かげあかし顔を洗ひつ


ごむの毬湯には浮かしてあそぶ子とあかき日光ひかげをよろこびにけり


をさなかるいのちゆるがせ遊ぶ子のあなうら見れば愛しあけせり


つくづくと身をいとほしむもとごころ湯にひたりつつしじにゆすり来


観音の春昼


観音の金鼓こんくひびけり湯に居りてのどかよと思ふ耳あらひつつ


鰐口の音ゆらぐもよ子を連れて或は妻か詣でたらしも


観音の金鼓揺りつつ子にとらす黄と赤の緒のねぢり緒のたま


観音の平鐘かねの緒長くこきたれしながき春日も暮れはてにけり


湯の町 春昼散策の一


春昼、宿の若主人の案内にて散策す。同君はカメラ党なり。


護摩たくと築地ついぢの照りに映り来る人かげ見れば日もけたらむ


七久里のみ湯の湯川は橋竝に蒲団干したり春の日をよみ


裏透きて家内やぬちあをきはかへるでの陽の映りらし燕ゐるこゑ


早鐘うちすぐうちやめぬ春もやや山火事うとくなりにたるらし


安楽寺 春昼散策の二


日のあたる築地のもとにわたふかき御形が咲きてうれしき御寺


萱ふかき御堂はかまち光らずて障子いつぱいのしづけき光


おとなひて待つは久し檐板のきいたの影はみぎりそとに移りぬ


寺庭の春の日向の閑けさよ山杉の風まれに音して


寺の子は日蔭の砌つたひ飛び素足さみしかまぶし目をせり


老松少し。伝肇寺を思ひて  一首


吾が寺は豊かなるかも春かけて山松の風さはに音しつ


独活畑 春昼散策の三


朝にけに芽独活かなしと盛高もりだかにかけつる土を今日は掻き掘る


山びとは春もふけぬと棚畑の芽独活かきほりのどにかがめる


独活の芽のかなしきあけがふふみたるこまごまし土はいまだ払はず


いや遠き昼の山火はのどのどと見もかすむらし芽独活ほりつつ


山畑にあれの独活ほるうしろでは君がカメラにるべかりけり


独活畑に莨吸ひをるあのすがた春はのどかによううつしませ


常楽寺 春昼散策の四


薄束たかだかと積む御堂横日はあたりつついささか寒し


木蘭もくれんは寺の日向にあかるくて木ぶりかそけき紫のはな


木蘭の花のかたちは帰依びとがをあはせつつかそけきがごと


へたばかり枝にはつけて日のあたる豆柿ならしここだくの蔕


干葡萄酢にひたしつつこはよしと仰向きて食めば人が撮しつ


野の宮の二つ幟がこもごもに照りつかげりつ春はのどかさ


柴木たく野山ならしとながめゐて煙しき湧けばのどならぬかも


春夕散策


向畑にはりの花かと見ゆる房ほたほたと赤し出でて見んとす


高畑の柿の老木の下通さくらはあかくふふみそめにし


観音の矢場の日永にきそふ矢の的矢はおほく当らざりけり


路に西行の戻り橋あり。往昔、西行上人此地を過ぎ、畑の麦を見、村童を顧みて何の草ぞと戯れたまひしに、童すなはち冬茎立の夏枯草とし答へたりければ、何思ひたまひけむ、そのまま元来し道に歩み返したまひにけり。その名ここより出づと云ふ。


夏は枯れ冬は茎立つ草の穂のいまだは伸びね逢はむ子もがも


夕明る橋の来つつ女童めわらべや甘菜吸ひほけ円き眼をせり


往還に出づ。余五将軍維茂の塚あり。


春は早や維茂塚これもちづかの草塚のふくらにあをし萌えそめにけり


道を出てやや歩ますと子が手とり夕うらさびし旅に来てゐる


ほれほれ馬がるぞと片けて子とかがみをりそのとほる間を


蕗茎の七久里漬を売る子ろに声かけてとほる馬子の足どり


往還の積木に下ろす子の重さ腰かけてわれも遠田見てゐつ


春山の下田のあぜに来る鳶はおどろきやすしつばさし立つ


観音の甍ながめて帰るころ早や夕明る田螺たにしがころころ


このあたり鎮守の祭らし。


葱坊主夕づく遅し晴衣はれぎ着て戻れる子等はいまだにあり


氷沢行


別所の裏山づたひに半里余をのぼれば氷沢にいたる。山高く、夏は三伏の盛夏と雖も氷雪ありと云ふ。ここに風穴を穿ち、蚕卵紙を貯蔵す。予がのぼりし陽春の候にも冷風絶えず。風穴の氷柱また深く、山椒の魚生れ、名知らぬ高山植物の花むれ咲きたり。この行、妻と伴なり。なほ湯川は一名相染川と称す。この温泉町を貫通する小流なり。石湯はその名の湯なり。岩石の湯床を以て名あり。



七久里ななくり石湯いはゆへかよふ仮橋のかかりの上のしだり山吹


七久里のにほふ湯川は山吹の一重の花ににぎはひにけり


この道はよろし山道吾が好きな山吹咲きてよろし山道



山ゆけば蕗畑多し蕗の葉の畑にあまるは路へ萌え出ぬ


七久里は蕗の名どころ窪畑の蕗のかぎりが薹に立ちつつ


出はづれて山路へかかる日おもての棚畑の蕗は大き葉の蕗



猫やなぎ咲きほほけたる山路につき自由画持ちてとよみゆく子等


学童らクレオンで写生してゐしが雲浅き山へいつか消えたり



山畑にいくつ燃す火のすゑなびきこもごも白し春たけにつつ


山畑や赤き埃火ごみび風脇かざわきにかがめる人ものどにかすみつ



雲あかる山の真洞まほらに啼くこゑは子雉子こきぎす早や巣立つらし


雉子きぎす啼く蔭山なだりこもごもに茅萱萌えたり丹つつじはまだ



山の井にさびしく髪はかいなでて子を思ふ妻か今はいそがな


山の井の下井にひたす早蕨さわらびは根にそろへたり笊を吊るして


早蕨の柔毛にこげの渦の渦巻は萌えづるただち巻きにけらしも



浅芝や雪解ゆきげのにじみ道越えてまだひえびえしはだら光れり


ひようとして寒き風来る山はなに上衣うはぎいそぎ着けぬ氷沢かも



苔水に山椒の魚はうまれゐてまだこまごまし日光ひかげいとへり


山椒の魚いまだちひさし追ひつめて杉の落葉のあかきすくひぬ


岩清水かさみたる杉の葉の下べ紅せり水漬みづかぬはまだ



高山やここには白きすがし花雪間の枯れに群れてふふめり


岩が根の斑雪はだれににほふ紫は名しらぬ花の数群るるなり


雪のべににほひはふふむ群花の春のいとなみ深からむとす


むら燃えのあけ櫨子しどみを見て過ぐと下りは急きぬ小石蹴りつつ



山里は桑の葉肥ゆる陽のさをを遥けく春や残すならしも


雪かよふ山の榛生はりふに晴衣着て遊べる子ろがひとり笑へる


花盛る山の榛生の裏かけてしきり飛び啼くは四十雀らし


草刈のもどりならし


声はすれ向ふそばゆく子等がかげ山松がをまだ出はづれず


農民美術の歌


大正十二年四月、信州小県郡の大屋村に農民美術研究所が開かれた。


鐘が鳴る


鐘が鳴る丘の研究所の鐘が鳴る雪が消えたよ春が来たよと鐘が鳴る鳴る


もうすぐだ農民美術の展覧会だ信濃の春も目に見えて来た


これからまた春蚕はるごの支度だ桑つみだ研究所は閉鎖だちよとお別れだ


開所式と丘の上の宴会


シルクハットの県知事さんが出て見てる天幕テントそとの遠いアルプス


うちの子があかい林檎をにぎつてゐるシルクハット抱いたほら笑つてる


あの光るのは千曲川ですと指さした山高帽の野菜くさい手


輝く果実とその影とだ盛つたばかりだ楊の籠には竹のナイフだ


いま注いだ麦酒のコップと瓶の黒とにはたはたとあふる天幕テントの反射


簡単に穂麦を染めた白い裂布きれ折目ついてゐる夏だ光だ


風だ四月のいい光線だ新鮮な林檎だ旅だ信濃だ


いい言葉だまつたく素朴な雄弁だ村長さんだなと林檎むいてる


さあプロジットだ地面いつぱいに敷きつめた大鋸屑おがくづを飛ばす早春の風


おれがほんとにうれしいことはそつと云はうか兄さんとここで見られてる事


固い胡桃くるみだとぴしりぴしり押しつぶしてるとなりの未醒が大きな両掌


食べさしの林檎とバナナを包んでゐる折目のついたハンケチの白光


木の鉢 其他


木の鉢に赤い漆でぽたりぽたりとなすりつけてある赤楊はんのきの花だ


もう春だな赤い漆をたらたららせ掻きまぜてまたへらをあげてる


麦の穂をすうつと緑でいてあるなんと素朴な生地きぢの木の鉢


ざつとただ塗つたばかりだニス塗りの荒くゑぐつた栂材つがざいの鉢


朱に金で落花生の花を描いてあるこれは露西亜塗だ百姓の鉢


ふかしたての赤馬鈴薯あかじやがいもをこてこて盛つて食べろと出した木彫科の鉢


荒くゑぐつたこの木の鉢の鑿目にも春が来ました輝く春が


浅い春です白樺の皮をいで張るシガレット挿しの円い筒です


木を挽き切りぱんと二つにぶち割つた巻煙草入れの函と蓋です


荒彫の小さい書架です菓子のやうな赤い詩集を載せて冬です


臼見たいなこの椅子を見ろゑぐつた木の根つこだ林檎畑の昼めしの椅子だ


見ろまるでゴッホの画室だ椅子だ椅子だこのゆがゆがの栗の木の脚


木の皿に一つごろりと描いてある紫の芽の出かかつた馬鈴薯じやがいも


青木の春だな花托の白地にころがした赤と青とのぽつとりしたたま


栗の木の花が咲きます農民美術の木彫のナイフが日に光ります


彫刻人形


荒彫のでろの葉かげの白い家田には女がいてる春だ


おおこれは両手をあげてるてんを見てる木彫の百姓だおつたまげてる


冬の日の炉ばたで彫つたか豆人形胡桃かなにか割つて食べてる


寒い寒い信濃の冬の豆人形みんな頭から裂布きれかぶつてる


赤に黄の風呂敷かぶつて葱をかかへてまだ娘だろかたい雪道


北国のしやくんだ固い泣きつつらこれは彫つてるぽつり立つた子


髪を洗ふ人形は春を待つてゐる首の根つこで手を合してる


染色──図案


矢車やしやの実で赤う染めたと笑つてゐた山のお百姓さんの壁掛の鹿


何もかも畑や丘から写して来たわしが図案だそのまま染めろ


塩原の夏


途中


どの村も桐の原つぱどの桐にも蝉がしいつく鳴いて朝です


雀の声だな雀の宮といふ駅だなやはり旅だなまた発車だな


宇都宮


旅さきで講演をして暑い日だのうぜんかづらが咲いて市街だ


この日 摂政宮殿下の行啓があつた。その少し前である。


暑さうにシルクハットがたかつてゐる立秋の駅のつばくらのこゑ


西那須野駅まで


西那須野だれも汽車から眺めてる夕顔の花の昼の強い陽


秋が来て夏がにますまつしろなかんぺうを干した那須の野つ原


西那須の青い曠野のあら草は風にまくれてきつい残暑だ


馬がゐて草も刈らいで放つたらかしだここの那須野の乳いろの花


何の穂かよく実がついた草土手の反射に沿つて汽車の午後です


電車に乗る


宮さまのお通りを待つ沿道の薄あかい花はみんな煙草だ


行啓おなりのまへ消防隊のしゆすぢが並んで見てるたんばこの花


教科書のだ煙草ばたけのあちこちの低い藁家の日の丸の旗


唐黍たうきびの金髪が早やふさふさと秋風に揺れる前に並ぶ子


西那須野行啓のまへのしんとした農園の白いいつぽんの道


朱の枠の幌馬車のかげが遠くに見えたんばこの花の秋の日ざしだ


渓の残暑


どの馬の白い日覆ひよけも反射してちりからと来る渓の残暑だ


へそ茱萸ぐみは誰も採らぬか渓岨たにそばにかがやき垂れてしろい埃だ


この道はまつしろな道葛の花の紫の穂もとても埃だ


渓崖のひでりつづきに褪せかけた葛の花ですこの紫は


林の道


朴の葉の一枚のめんの大きさよそれを何かが歯でかぢつてる


ちやうどかうした山擬宝珠の花だつたよいつだつたか二つ蕾んで一つ咲いてた


黙つてろと親友の子の肩を押へた朴の木にほら瑠璃鳥るりが啼いてる


浴泉俯瞰


塩原の塩の湯、対岸の岩壁の下、渓流のへりに湯の湧くところがある。湯は水に交り、水は湯に温まつてゐる。ここに常にひたるのである。この渓の湯は高い楼上より俯瞰する時にいよいよ仙家のものとなる。


渓の湯に裸の男女がつかつてゐて一面に射す青い葉洩日


渓の湯だみんなはだかだ男もをんなも円光がつて夏だまつたく


渓に見れば人間も自然のよい一部だ日がかがやいて波が揺れてる


あの渓に男と女がゐるそれだけでも夏は素朴な光に燃える


子が手を曳き浅瀬をわたる裸婦ひとり青く明るい陽と漣だ


渓の湯に髪洗つてゐる裸婦がある薔薇いろの手だ群青だ水は


夏だ夏男は立つてすつ裸だ渓流の水で背をこすつてる


裸婦ばかり渓の湯に寝て笑つてる天に小さな日が廻つてる


まるで鍵陀羅がんだらの浴泉の図だあの渓の湯に朱の煩悩が照り動いてる


今はもう子どもばかりだ渓の湯が金色に揺れて空が焼けてる


浴泉の処女


甘露木かんろぎのほのかな花にがさして湯にはをとめのうすべにの肌


渓がはの岩のぬめりを越す水に小さい素足がまるで魚だ


渓の湯をながめ見ほれてをさない眼だときをりは乳に水かけてをる


渓水たにみづにあのほのあかい乳のいぼいまはひたしてほほとんでる


うすべにのほのかな少女ほそぼそとなにか歌つてる腰に手をあてて


須巻を下る


ほうこれは牛蒡の花だな湯のとひの湯気がふつかけ濃いむらさきだ


二本の穂の穂草にとまる二羽のてふ揺れてゐるに見て下つてる


山の田のもち米の穂は霧雨の今の小雨の露つけてをる


首のべて母と仔とゐる馬小屋に刈りためた草は二番刈りの草


仔の馬が口で選つてるぼんぼんはまぐさの中のわれもかうの花


われもかうだ見ろ一茎ごとに海老いろの珠がついてるああ秋だ秋だ


母馬はうしろ向いてる仔の馬は馬柵ませで見てゐる孔雀草の花

不二大観


不二大観 三保遊行集


小序

大正十三年正月五日、智学田中先生の懇招に応じて、伊豆修善寺を発して三保の最勝閣に赴く。この行父母を奉じ、妻子と伴なり。淹留五日、或は晴れ、或は雨。而も不二の観望第一なる有徳の間の朝夕は我をして感懐禁ぜざらしむ。羽衣の松竜華寺の探勝ともにまた清閑極りなし。乃ち成るところの長歌一首ならびに短歌百七十二首を献げて些か先生の慈情に酬いむとす。記して小序となす。


不二を仰ぐ


沼津より江尻にいたる途上、汽車の窓より 五日


天つ辺にただにしぬげば不二がのいただき白う冴えにけるかも


不二ヶ嶺は七面ななも八峰やをもつむ雪の襞ふかぶかし眩ゆき白光びやくくわう


天ゆけば薄ら映ろふ雲のかげ不二のおもての尾のにし見ゆ


雪しろき不二のなだりのひとところげそりと崩えて紫深し


雪しろくいとど晴れたれ御殿場の真上の不二は低く厚く見ゆ


鈴川の不二の眺めぞおもしろき寒き刈田ゆ絵凧あげたる


天そそり白くさやけき不二が嶺はこのかの児すら見も飽かぬらし


常しろき山は不二の嶺あれ見よと為すなき父や子には見せつつ


よく見れば白くさやけき不二ののみぎり欠けたり地震なゐの崩えかも


不二ヶ嶺はいただき白く積む雪の雪炎せつえんたてり真澄む後空あとぞら


最勝閣に着く


清水港より渡船にて渡る 五日午後


大船の心たのめて三保が崎君が御殿みとの来にけり


風吹きてさむきみ冬を御垣みかきした浜防風の茎の真赤まあか


小松生ふるここの御庭おにはに来寄る藻の汐騒しほざゐ広しにぎはひにけり


めづらかに夕光ゆうかげしづむ不二ヶ嶺のおのづから保つ明日のよき凪


最勝閣にまうでて詠める長歌竝びに反歌


風速かざはやの三保の浦廻うらみ貝島かひじまのこの高殿は、天なるや不二をふりさけ、清見潟満干の潮に、朝日さし夕日てりそふ。この殿にまうでて見れば、あなかしこ小松叢生ひ、辺にい寄る玉藻いろくづ、たまたまは棹さす小舟、海苔粗朶のりそだあひにかくろふ。この殿や国の鎮めと、御仏ののりの護りと、ことよさし築かしし殿、星月夜夜ぞらのくまも、御庇みひさしのいや高だかに、すずの音のいやさやさやに、いなのめの光ちかしと、横雲のさわたる雲を、ほのぼのと聳えしづもる。しづけくもかしこすがたかしこくもやすけき此の、この殿の青きいらかのあやにすがしも。


反歌


この殿はうべもかしこししろたへの不二の高嶺をまともにぞ見る


不二大観


最勝閣より


天そそる不二をまともに我が見るとこの高殿にゐのぼり見る


ここゆ見る不二のすがたは二方に裾廻すそみひき張れ清麗さやけきまでに


天そそりしろく反り立つ不二ヶ嶺の大き裾廻すそみの張りのよろしさ


駿河なる不二の裾廻のおのづから張りつつし及ぶうなの原かも


不二ヶ嶺はいよよ清麗さやけし群山むらやまの高山がはるに天そそり立つ


不二の暁色


朝ぼらけ不二の尾のにのる雲の紫あかうなりまさるらし


ほのぼのと不二の裾廻にしらむのつらつら帆船ほぶね行けりともなし


不二ヶ嶺はこごし裾廻の群山むらやましば山くらしいまだ夜明けず


ほのぼのと明けゆく不二のいただきは空いろふかし天の戸に見ゆ


空いろの裾濃すそごの不二の立てらくは夜のほのぼののものにぞありける


不二の尾はいまだはねむれ天つ辺の片面かたづらよ紅みさしつつ


愛鷹へ尾を曳く不二の片空の樺いろの晴れはいよよ凪ぞも


明る妙たなびく雲の百重にも不二の芝山あけならんとす


豊かなる不二の茜のに燃えてまたく明けたり今日は晴ぞも


朝びらき明けゆく不二の大前に網曳あびき舟榜ぐ三保の崎はも


海苔とり舟


有徳の間より眺む


笠雲の昨夕よべ見し不二のいちじるく寒けかりしか今朝のましろさ


清見潟満干の潮のに立てばしがらみ寒し海苔のしがらみ


朝凍あさじみの海苔のしがらみつらつらに見れども飽かず小舟


朝凪の海苔とり舟はほの寒し棹さし連れぬ二人づつゐて


海苔とるとたづきありけり朝びらき小舟をぶね揺りゆく棹手かなしも


海苔とると浜片附かたづきてゆく舟の目馴れし不二は見ずて榜ぐらむ


海苔の田は上潮うはじほ寒き海朶ひびの間に逆さの不二が白う明り来


春はまだ潮干に見ゆる海苔粗朶の列竝つらなみ続き寒うらへり


この眺めあかりてびし引き潮の海苔の田遠く清見寺見ゆ


海苔の田は水照みでりくぼむか海朶の間にかぎろふ舟の居処をりどわかなく


蜑の子はももの千鳥か頬のかぶりひかり移らひ海朶ひびの間にをる


こもりゐてはなひり海朶ひびの間も海苔の香立ちて寒からしあはれ


柑子照る宿


河野桐谷君夫妻と令息の宿るところ。六日、散策の後、我らここに小憩す。


大き実の柑子照り満つこの宿は見てあたたかしここにあがらむ


旅に来て去年こぞの今年の肩の凝りおのづゆるびぬくつろぎにけり


不二ヶ嶺の眺めゆたけく煮る酒のあなねもごろや父とよろしき


こぞり来しよしとひけりつつがなく遊べる子らを眺めやりつつ


これの子とあの子と遊ぶ日のたむろ柑子もれぬにし垂りつつ


わらべらに照らふ柑子ぞとををなるそのこの母はころも干しつつ


しづかなる柑子のれや母と子のむつぶこゑのみ庭にありつつ


午前の散策


藁すだれ掛け干す浦の日たむろは海苔とるあまがやすらひどころ


干す海苔のの辺のなづな伸び過ぎて咲き白らけたり浦の日和に


春は早や三保の砂地の日おもての白豌豆の翼状はねがたの花


松の間にここだくれ積む洲の土手は行けどもさびし不二の見えずて


さざら波来寄る浜辺の朝光あさかげは松の間あるき明るかりけり


三保の春うつらうつらに榜ぐ舟の榜ぐとは見えね行き進みつつ


不二の夕照


不二ヶ嶺にいやきつもる堅雪かたゆきのゆふべはあかくあめに燃えつつ


押し移りあか騒立さやだつ風雲の波だち雲は不二を目ざせり


片空に不二は晴れたれ風雲のゆふべはあかく吹き立ちにけり


不二ヶ嶺は見れど見あかね巻雲の夕照早しあかみつつ


清見潟夕照ゆうでりひろし満汐の汐騒のかぎり舟の榜ぎつつ


昼の間を干潟に黒き海苔粗朶のゆふべはしじに汐にひたり


風前かぜまへ夕満潮ゆうみちじほのひとたひら渡船とせんけり音にぜつつ


夕明き横狭よこさの入江あはれなり葦村つづき舟める見ゆ


舟べりに小笊うちたたき蜑が子の海苔洗ふ見れば冬も過ぎたり


不二ヶ嶺はまた雪ならし笠雲の浅夜あさよは白くりゐ畳めり


雨にこもる


天霧らひ不二はかくりぬ三保が崎いたも濡れゆく千本松見ゆ


天霧らしふる雨ながら三保が崎いやしろじろに辺波寄る見ゆ


うち霧らしふりつぐ雨はひまなけど早や春めかし葦辺かすめり


潮ぐもり春の雨間あままに榜ぐ舟の櫓のおこりて沖べさす見ゆ


    §


砂畑の浅き井のべにふる雨のいろこそ無けれふるが親しさ


小閑


父母無聊なり


足乳根たらちね下心したにおもへば浜松のさやけきさやぎ空に起れり


松風のさやけき聴けば生れ来しをさなき我のえにしおもほゆ


松風に白きいひ食む春さきは浜防風も摘むべかりけり


この浜の梵音声ぼんのんじやうのさみしくて遥けきは空のあなたなりけり


    §


日の真昼つくづくれば不二の嶺のあとべの空をこもる雲あり


父母を高く思へば不二の嶺の後べの空のはてなきがごと


これの子をしみみ思へば小松原松の千本の数わかぬごと


ただただにむかひゐてすら母父おもちちは見て慰さむか対ひいませり


父は父母は母とて長閑のどあらし足さすりをらす旅の春日を


酒よしと喜ぶ父の老らくを下心したには泣きて清し酒


母父に妻がかしづくすがしさを下心したにはほめてことに云はなく


日はぬくしほのりほのりとたまたまは出でても見ませ不二を見がてら


母父やたづきなからしをりをりは打ち出歩りかす不二を見がてら


見の飽かず不二を眺めてます母のうしろでゆゑに我は泣かゆも


ましろ髯祖父おほぢのみ髯かなしくも手ぐさとる子に垂らしたるはや


吾が父や浜の小浜の行き還り何さすらむ白き髯見ゆ


小夜


海苔粗朶のりそだに汐の立ちて寒き夜は地酒もがもと父のらすに


あかあかと葦火あしびたくも小夜更けて汐らし沖つ千鳥よ


しじにうつ櫓の音こほりてくる夜は荒磯ありその蠣も附きがたからむ


早朝


霜の未明まだきはこもる渡し場に子と出て見居り汐の満つるを


子には子の白の毛帽子かぶらせつなにしかすがし朝の霧ぞも


この磯の浜防風に置く霜の濃くも薄くも見てを通らむ


ここらにも蠣は附くやと水杙みなぐひの干潟のしめり母と透かしつ


寂しくも見つつましも蠣の子は荒磯ありその蠣の母の根に添ふ


御穂宮


八日、桐谷君(令息同伴)の案内にて一同御穂宮に詣づ。麗明、風無し


三保びとやまだ春寒くを干して海苔たたき貼る唾つけつつ


風速の御穂の御宮のきだはしは真砂吹きあげて松葉かさめり


風速の三保の浦廻やこの宮にかかげし絵馬は皆船の絵馬


大船の波乗りごころゆたけくと絵馬やささげし三保の浦びと


参道まいりぢ砂道すなぢに根匍ふまばら松照れる春日をほくりほくりゆく


浜宮の御宮の松に掛け干して唐藷からいもがらも長閑のどに枯れたり


松ぼくりひろふわらべが片言のいつ果つるらむ童とし居る


皆行きぬ吾子あこよいそがむを待つとかの松陰に母の立てるに


松ぼくりしじに蹴あてつ松原や羽衣の松に行くはこの道


羽衣伝説


まことにもすがし松原天馳けて舞ひくだるはねのけはひこそすれ


ひさかたの天つをとめがゆり掛けし羽ごろもの松はこれのこの松


さゐさゐしうづの羽ごろも取りかくし天つをとめが真素肌ますはだし見し


さにづらふ天つをとめが真素肌の乳房のふふみ人は見にけり


天人あまびとは消なばぬがに羽ごろもの袖乞ひめり草合歓の花


天向ふひとか羽ごろもうすごろも見えつつすべな夕さりにけり


ましら羽の天の羽ごろも夕羽振り消えにしひとのあやにかなしも


三保の松原


御穂宮より松原へ出づ。ここに世に謂ふ羽衣の松あり


風向ふ根疏ねあら浜松磯馴そなれ松今朝さわさわし春日さしつつ


父母ようち出て見ませむら松の斜めみぎりに不二の秀が見ゆ


母父おもちちと妻と愛児まなごとうちいでてふりあふぐ空に不二はかかれり


西風にし吹きて春も浅きか立つ波の潮見さやけみ石廊崎見ゆ


風速のまこと三保はやまさやかにさやぎたむ船の多かる


風速の三保の砂やますがしくて遊ぶにはよき玉敷きにけり


おのづから玉敷きあかる三保の浦や辺波洗へりさやの照る玉


朝羽振る沖つしら浪辺に寄ると揺りとよもせりすが浦廻うらみ


不二ヶ嶺を高みさやけみ三保の崎けふ父母とうち出来にける


世にかなし母の御伴みともとさもらひにすがししら玉りてゐにけり


しら玉のをさなごころの揺りごころあなたづたづし母に寄りつる


大海おほうみの晒すしら玉さやけみと手には揺りつつ遊ぶ子ろはも


遊び足り楽しききはも陽炎の燃えて跡なし浜の長手に


    §


うつつなく笑ふ子ゆゑに砂やまの砂すべりくだるも砂まぶれ我も


砂なだりもとなくづるれ踏み踏みてのぼらむ吾子あこがひた踏みのぼる


砂まろび遊びほれつつこれの子や丹塗にぬりの汽車は忘れ来にけり


帰途


砂畑の苺のえ葉もみぢして日のあたる辺を子の手ひきゆく


幼などち何か睦びてしなへ葉の苺のもみぢ踏みて来るかも


竜華寺


三保の松原より清水港へ出で、俥に乗る。短日、風寒し。


冬の田の刈田の眺めわびつつぞ俥つらねぬ風の畷を


冬の日も有縁うえんのひとかまうづらしまれまれながらあぜつたふ見ゆ


寒き田をあれや寺かと目にとめて俥かせり薄き日ざしに


竜華寺やあれと俥に揺られ来て行き過ぐる見ればこは鉄舟寺


さむざむと御堂の縁に端居して眼を放つ不二の明る妙はも


見のよろし不二の眺めはこの寺にまさるなしてふ今は眺めぬ


不二見ると君が住みたる有渡うどの山不二の眺めのまことよろしも 日近上人


不二見ると君がこやれる有渡の山げにげに高う不二は冴えたり 樗牛


吹きわかれ雲立ちわたる不二の尾の夕影寒うなりにけるかも


一いろに蘇鉄の気のみこもらへば夕さり寒しこれの御庭は


五百重いほへなす蘇鉄の葉叢はむら冷え冷えて日の暮れたらし物の迫るは


日の暮は目見まみ薄らよとる父に蘇鉄は寒し層む葉のくま


短か日の御堂の障子かげり来て絵葉書選らむ時過ぎにけり


かの赤きは蘇鉄の実かと竜華寺を出でつつ訊かす父はあと見て


風速の三保の日和のさだまらでけざむく不二の尾根も暮れたり


山裾の柿の老木のはかな陽のたのみずくなに冬は宿れり


さむざむと詣でて帰る刈田道かもかく今日も暮れにけるかも


浅宵舟行


清水港より三保へ、竜華寺参詣の帰途なり。 八日


月わかく糠星ぬかぼし満てりかくばかりすがしき夜空我は見なくに


眉引のわらべの月のほのあかり見の幼なよと舟はがせつ


月ほそくまだめづらなり有渡山うどやまの山の端あたり黄ばみそめつつ


ほのしろき浅夜あさよ不二ふじなれ帆柱の高きは青きをぞけたる


星あかりしぬぐ子か黒船のとも出はづれて広き浦廻うらみ


夜に見れば不二の裾廻すそみに曳く雲の白木綿雲しらゆふぐもは海に及べり


星宿観望


夜、迎晨台にのぼる


高き屋にのぼりて仰ぐ星の座のいや遥けくも真近まぢかなるかも


目にとめて寒き夜空に澄む星の群多からし満ちにけるかも


夜の空に充ち満つ星の少くも目に見えぬ外もまたたきにけり


新月にひづきの早や照りながらみづみづし南天の星の満ちのこまかさ


星の座の連れつつ隣る夜の天は見の親しかもめぐりつつあり


ひむがしの夜天やてんの星の大きくてひとつは光る不二の尾の


まつぶさにしみみに見れば星雲ほしぐも微塵みぢんの光渦巻きにけり


夜のあめはあやにさやけし微塵数みぢんすううづ新星にひぼししぶきれつつ


寂しくも永久とはに消ゆなと離るなと仰ぎ乞ひのむ母父おもちちの星


我の星あるは見ゆやと星空の五百重の霞透かしてぞをる


かの紅き妻が守星もりほしさきの世に薄雲きぬ今もこもれり


幼な星吾子あこが守星さきかれと夜天やてんはるに眼を放ち


空のむた闇はあやなし星の座の今宵こよひの光息づきにけり


去年こぞ今年ことし国の禍事まがごとしきりなり夜天の宿しゆくぬさ奉る


おぎろなき夜天の宿は幽けけど人こそ知らね立ち見ゆ


天宮の中極なかはてにして高しらす幽けき星もあれよとぞ思ふ


押し移る夜空の澄みやおのづから星座のはても傾きにけり


暁雲重畳


天雲の白木綿雲しらゆふぐも五百重波いほへなみ波だちたぎつ夜は明けむとす


夜の雲の白木綿雲の寄り畳む五百重が奥に不二はこもれり


天雲の不二の高嶺の雪雲は五百重も千重も下り畳むらし


望月の月映なして照る雪の不二のいただき暁ならむとす


浅春舟行


大正十二年二月、香取より潮来へ、潮来より鹿島へ、また舟行して帰る。


深靄


深靄に朝の間あかる日の居処をりどたんぽぽのごと幼なかる見ゆ


黄にまろきをさな童の日の居処靄はふかしと舟ゆあふぎつ


朝花の黄のたんぽぽはいとけなし波揺り来ればざぶり濡れつつ


靄ふかき河心に吼ゆるをさなごゑかなし仔牛か舟に母恋ふ


したん田か早や犂きたらし這ふ靄の沼波ぬなみち来る土の香高し


榜ぎ着きて火もほのぼのと焚くならし沖田のガスの裾紅み見ゆ


つぶつぶとあたまはうかぶ鳰の鳥靄ふかからし鴨のごと見ゆ


舟揺りて子ら取つ組みぬ水ぎはにとてもあざやけき朝花たんぽぽ


牛連れて棹手つぎゆく舟の子ろ繁みおもふや紅の帯まく


ひと萌えのべりのなづな露ふかし仔牛食みをりそのあさみどり


香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたに榜ぎつつ


靄ごもり鹿島遊行ゆぎやうぞおもしろきかへる啼く田のあひを榜ぎつつ


露くさの花いろふかき沼波は榜ぎつつ繁し靄に見え来て


返照


赤の牛乗せ来る舟のひとうから夕風沼の広みにとあり


家の牛かい乗せもどる作舟さくぶねは夕安からしとろき櫓の音


櫓のよき耕作舟や日を犂きて雌牛揺り乗せ今戻るらし


夕光ゆうかげの水門出づる舟ひとつ牛正面まともなりあけに燃えつつ


夕凪の遍照光となりにける沼尻ぬじりの紅き太陽とポプラ


らふ子らが棹手のたぶつくは夕照り淀か揺りこたふらし


遠明り夕沼ゆうぬとわたる舟の上に静立しづたつ牛の大きくは見ゆ


おほかたに真菰は焼きぬ沼の辺の芽の青しもよ母と子と居る


沼のべに黄のたんぽぽを摘むわらべふかく嗅ぎて棄てぬ次の花をまた


牛のほえおほらにとよみゆふべなり沼いつぱいの金色こんじきの空気


夕光ゆうかげのかがよふ舟にうなかぶし目見まみおとなしきあめの牛はも


この眺めゆたかにさみ黄牛あめうし家路いへぢの舟に日を見かへりぬ


櫓をあげて棹さしつぐと夕沼や細長堀へ舟はひりつつ


潮来舟いたこぶね夕づく水照みでりゆきつめて寒き葦間に入るがさびしさ


夕沼は遍照ひろしまれに来てかかる安らに会ひにけるかも


この安ら暮れであらめやよくぞ来て夕沼ゆうぬの水照りうち眺めたる


櫓の音


櫓を榜ぐと帆は巻き入れて春雨間はるあまま香取の浦をうちも出でたる


舟びとや押手おしで引手ひきでのゆりゆりに足踏み換ふるうつら櫓の取り


舟びとは榜ぎぞ足らへれ少くも櫓をししみぬ揺り遊びつつ


たぷたぷとあたる水のや櫓の取りのか揺りかく揺りその緒張りつつ


日の暮の水照みでりまぢかきひとたひらつぶりつぶりと鳰は出てゐつ


けけろ鳴く声は放てど夕照の日の方附くかまぶし鳰見えず


舟にゐて春は炬燵のうづみ火のはつかに赤し湿しめらひにけり


微塵光


宵空の微塵みぢんの光おぎろなし人は牛曳き家路をたどる


微塵光夕さり永し芽やなぎに燕のむれは頬をそろへつつ


おもてより背戸の夜空ぞにほはしき柳しだるる川づらげば


色のくま揺り揺りひかる褞袍どてら夜釣すらしか榜ぎのけぶかさ


たぶんたぶんとざんざら真菰揺る水のながれは絶えず榜がで流さむ


十二橋三つはくぐりぬ糠星にせんだんの実のあかる空見て


夜の靄に焚火する子の面あかりちかぢかと見つ潮来には来し


十二橋


落椿多し


落ちつばき外方そつぽ向きつつしべわかし落つるただちを坐りたらしも


春雨の地面ぢべたのつばきひたあかしいくらかは濡れて動きたるらし


しつとりと雨がなじんだ籾がらに明りさしてるべに落椿


籾がらも紅い椿も暮れかけてゐる暮れて動いてゐる雨がふつかけるのだ


花だまり椿のあかき背戸道はふる春雨の日暮らしどころ


空堀からほりはつばきかさめりゆきつめて後戻りするその里道を


春雨繁し


板わたす用水堀のこぬか雨をちこち田もとみに萌えつつ


魚すくふ童が叉手さでの水あかりほのるむらし尻はからげつ


背戸堀はふる雨繁し飼ひ鳰のつけ糸曳きて泳ぎつめつつ


雨はまだつぶだつ橋の片てすりつかまりてのぞく子のかほふたつ


雨空にせんだんの実は明るけど簑笠つけてとほる人あり


この里の春やさみしきおとなびて莚織る子が梭手をさで尽きなく


春雨に藁すぐる子らひめもすや顔はあげずて暮れてしまふらむ


つらつらに遊ぶかけろのをる庭はふる春雨にぬれて来にける


この雨や春雨ならし芽やなぎに帆檣ぬれて船ももやひぬ


碓氷の春


碓氷うすひの南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを


裏妙義つつじにほへり日の道やいただき近う寄り明るらし


熊蜂の翅音かがやきおびただし春山ふかく営みにける


黄金虫こがねむし飛ぶ音きけば深山木みやまぎの若葉の真洞春ふかむらし


こちごちに若葉かがやく日のさかり四十雀飛ぶ山片附けば


もやごめにもえてかがやくしゆの若葉碓氷峠の旧道ゆけば


深山路はおどろきやすし家鳥の白きかけろに我ひにけり


山吹の一重の花の咲きしだる春山岸はるやまぎしのにはとりのこゑ


上つ毛へ碓氷をくだる春のくれ岨うづみ咲く山吹のはな


こなたさす使ひ童か見えつつも躑躅あかりをなかなか来ぬかも


前山さきやまあかきつつじか日の照りて霞こめたり見さだむらくは


山路来てひたすらひもじ蕗の葉に満ちあふれゐる光を見れば


谿高くガアドそぎたち夏ちかし木橋もくきやうゆ仰ぐ若葉の光


物のこゑひびかふきけばおほかたの若葉はぎてほど経ちにけり


谿ふかくたぎつ瀬のもまじるらし嵐はあかし一山若葉


春山の道のたをりにちりそめて板屋かへでははねあかき莢


蓬伸びかけろ群れたり隧道とんねるの断れ目の岨の光の崩れ 以下二首坂本の宿


日はかすめさやにこごしき妙義嶺の檜山のなだり夏立ちにけり


山すそは夏の日ざしのいちじるし楓の花もちらひそめたる


星野温泉


ほうほうと落葉松からまつ寒し夕あかき鉱泉道のうねりをのぼる


製材の響けざむき谿沿たにぞひ夕附ゆうづき早し材小屋きごやが二つ


幅広き谿岨寒し買ひてつらつら戻る夕日の光


前山さきやま夕光ゆうかげ寒きから松は材小屋の前を行きつつし見ゆ


早春


採氷池青みそめたりかへる子や頭重くも揺りをどりつつ


鷹来りおたまじやくしはまれけり沢べの芹もしじに青むを


塩沢村


かみの田ゆ下田しもだへ落つる水ののおのおのよろしぬるみたらしも


明るけど洩れ陽はさびし久しくも村にはこもる風かとおもひぬ


胡桃わりつつ


枯れはてて見のなごやかになりにける谿の河原の穂すすきの群


日向べにほのあたたまるわびごころ胡桃くるみわりつつ飽きもせなくに


押しあててかたき胡桃は手力たぢからこめ掌にぞひしりとつぶしつるかも


ほろぬくき今日にもあるかしばしばも胡桃の殻を膝にはたきつ


    §


夕雨に踏みやはらかき落葉松の落葉はあかし沁みにけるかも


乳牛


朝光あさかげに牝牛曳き出だししぼる乳の雑草あらくさをうつにひほとばしり


ゆたに立ちて乳をしぼらせてゐたりけり母牛おやうしはよしこの朝光あさかげ


おもおもと桶にたぶつくなまの乳の青葉くさくてまこと牛の乳


翁ぐさ


子の眠れるまを妻と出て


熔岩谷ラヴアだにはよくらふらし日が射してしばしば寒し妻とかがむに


天つ日の光はわかし翁ぐさつちにぞあかくまひめたれ


山原のわだちにあかき翁ぐさ愛しきものを我が見つるかも


をさなごやまだ覚めざらむ妻と出て翁ぐさ踏むこのしめらひを


林道を車きしませ来し鹿毛の眼が光りたり翁ぐさの花


浅間山麓にて


黄の蝶の林に住むは幽けかり落葉松らくえふしようも芽ぶきそめにし


うち響き山のこだまのけ寒きは唐松の枝き放つなり


早春


翁ぐさ


山原は轍とも思ふ道の窪に光り出て紅し花翁ぐさ


翁ぐさあかき手にとり土つきてやき和毛にこげはじきつつ歩む


から松


落葉松のす黒き林露はなりまだ照り寒き光線ひすぢそそげり


から松にから松の影うつりをり月の山路にながめて来れば


芽に匂ふ落葉松原の夕月夜かすかにひびく田蛙のこゑ


月の夜の自動車道のか広さよ山蔭遠く蛙の鳴きゐる


小山田は早や水張れりいまだしも落葉松らくえふしようの梢は芽ぶかず


朱と紫


七面鳥


山茶花に雪ふりつもりしづかなり七面鳥のくぐもりのこゑ


雪早ししきり膨るるきほひ鳥七面鳥の尾羽響き鳴る


団扇羽うちはば佝僂くぐせの碧きのあたま七面鳥に雪はふりつつ


七面鳥けけろ歎けば斑碧むらあをの朱肉揺れ伸ぶくちばしのうへ


真青まさをにかうべすくめて張り来る七面鳥の強面こはもての歩み


両つばさ地に張り歩む傲り鳥七面鳥は見らくしよしも


雄に添ひてかがよふ青き頸のへり七面鳥の雌の細みかも


世に愛し雌にし矜ると張る尾羽の七面鳥は燦々きらきらしかも


七面鳥おほらかなるかな雌を追ふと広庭をまろく大きくまはる


真向まつこうにおごり息づむ張胸の七面鳥の脚の短かさ


印旛沼の紫くろき雪ぐもり七面鳥は膨れ真向ふ


膨れ来てたまゆら停る七面鳥乳頭ニツプルの垂り紅く今燃ゆ


七面鳥翼ひびかし歩をやめず白き蛾のごと雪乱り来ぬ


七面鳥車輪のごとく張る尾羽のゐさらひ紅し雪吹きつけぬ


紫のれ来る雪のとどまらず七面鳥は啼きにけるかも


雪の間を硝子障子に来寄り澄む七面鳥の乳頭ニツプルの光


泡雪のの紫の車尾羽七面鳥も春を待ちつつ


雪景


刈跡はつむ雪早しこちごちを葦づか白う見えまさりつつ


印旛沼の狭き細江の向ひ丘早や目にしろし雪つもりつつ


夕照


刈り継ぎて夕照寒き出津の野や葦づかおほく見はるかしつつ


西寒し萱野の遥に落つる日のこよなく赤く一つころげぬ


土間の鳥屋


夕土間の鳥屋とやのはしごにいる鳥七面鳥は肩高く見ゆ


とりのくらき梯子にのぼりて寝て七面鳥は下寒むからむ


土間のも夕寒むからしまだいねでかさみおぼめくうつつ家禽いへとり


吊棚にい寄りくぐもる数のとり夜寒よさむは見居り竈火かまどびの揺れ


おのがじし頸根うなねかい曲げ寝る鳥の今宵のねむりあたたかくこそ


吊りとぼす提灯の紋の抱茗荷湯にぬくみつつ見てをり吾れは


夜は寒しひとさしくべし風呂の火に鶩は啼きぬ炭櫃のまへ


夜はふけぬねむりまどけき土間のに何鶏のかほか白う浮き居る


霜の朝


霜の置しづけくしよし朝まだき近き野にゐる家禽いへどりのこゑ


霜の野に朝日さし照りあはれなり鶏と鶩と七面鳥のこゑ


七面鳥朝明あさけの霜に居竦むは目のふち碧し葦づかのまへ


霜ふかし霜ふかしとて出でて見て一面の冬の朝日の光


朝を出て褞袍かかぶり聴きゐたり萱の濃霜のとけてひびくを


張る尾羽の白孔雀し円かなりひとむらの萱に霜ぞ満ちたる


いつの日か馬に食まれて葦茎の伸びはそろはで霜に枯れにけり


火をつけて萱の刈穂の束なりに燃えさかり来る音のよろしさ


野の土手を蜆触れ来る声はしてしづかなる霜の朝やこの朝


霜ののいまだ流らふ萱の屋に山茶花は紅しよくうつりつつ


水禽


水禽の鶩水かく屋敷堀楊は寒しいまだ芽ぶかず


印旛沼しろき明りのとほどほに葦鴨啼けり月の夜寒よさむ


印旛沼水口いりの細江にる鳥の青頸鴨のこゑはひびけり


余寒


印旛沼の出津の萱原萌えそめぬ夜頃は月の冴え返りつつ


浅春


畷路の芽張柳のあさみどり何かになへる人揺りて来る


初夏の光線


七面鳥


春過ぎて夏は日射の明らけし七面鳥のかがよふ見れば


朝光あさかげに一羽出てゐる真向き鳥七面鳥はまだ啼かずけり


莎草くぐべにいまだするどし七面鳥もそろあゆみぬ蹴爪けづめをちぢめて


夏もやや鳥屋とや外面とのもの照りつよし雛鶏がかける突きころぶかに


真白羽ましろはの七面鳥の夏すがたかがやかに小さしを隔て見ゆ


張り来りたたら足踏む七面鳥いや照りしらむ陽の直射たゞさし


真昼日のかぎろひ白き庭のうち七面鳥の足踏深し


落ちたまり黄なるつばきの腐れ花七面鳥はよそよそしかも


七面鳥なにかいらだつ日のさかりむら碧の朱の肉嘴にくしひびかふ


七面鳥ひた迫りつつまじろがず肉嘴燃え伸ぶ真向まつかうの垂り


一気いつきに押しゆるぎ来て大きなる七面鳥のひたぶるの振り


かぎりなき陽の照り白し留り立つ七面鳥の影の大きさ


産屋戸うぶやどに堪へてこもらふ雌の細み春は日射もに白らみつつ


七面鳥照りゆるぎつつは遅し尾羽響き鳴るひと足ごとに


七面鳥尾羽鳴らしつつ廻り居り春埃立つ明るき庭を


春まひる七面鳥の尾の張りの照り円うしてそよぎやまなくに


張る尾羽の真横見せゆく揺り歩み七面鳥は音深めつつ


鳴り深む七面鳥のしづけさよかはづ啼く田の遠く照りつつ


ほのぼのとまなぶた紅き巣守り鳥七面鳥は卵いだきぬ


にこもる七面鳥のひたごころ俵にのぼる陽の目よみつつ


栖に向ふ雄の七面鳥真昼なり張りふくれつつおもむろにはひる


夕遅き厩のまへの日の光七面鳥は行きとどまらず


さうさうとい行きめぐらへやすからずしわばみ碧き七面鳥のつら


立尾羽たてをばのしみらに光る日のをはり七面鳥も遠く見て居り


夕光ゆうかげのさわさわと揺る尾羽の張り七面鳥がうしろ見せつも


野へ出て


出津の野は莎草くぐの芽あかし芹摘むとそこらここらを吾がかがみつつ


二方ふたかた雲雀ひばり囀れりうち羽振り大きなる円に小さなる円に


二つゐる雲雀とし聴きうら安し吾がつむ芹は籠にふえつつ


二つあがる囀りはあれうらがなし雲雀啼くとしただに聴きつつ



右ひだり生きの真鯉をひとつづつ手づかみて来る印旛びとなれ


もろの手にひたぶる抱く鯉ひとつこれの童は泣かむばかりなり


茱萸


朝光あさかげのほのくれなゐの茱萸ぐみのはな目にあきらけき雨を保てり

海阪


トラピスト修道院の夏


正面


烏賊乾してただひなくさき当別たうべつ荒磯ありその照りよ今は急がむ


修道院へ行く道暑し絮しろき河原ははこも目につきにけり


山独活の花明らけしおのづから洩れづる息をうれしみ休む


空のもとトラピスト修道院建てりけりこの正面の昼のしづかさ


燕麦えんばくは今刈りへて真夏なり修道院にいたるいつぽんの道


裏山のさをの円山のぼりをりよく群れしかも人と牛と羊と


女人禁制の札あり


影面かげともは朝から暑し来て通る修道院正門のみそ萩の花


修道院の玄関の前に立ちにけり麦稈帽をとりつつ我は


修道院朝凪暑し小手鞠や花あぢさゐの藍も褪せつつ


白薔薇しろさうびふふむはあかし修道士のひとりは前を歩みゐにけり


礼拝堂


聖堂のステンドグラス午ちかしをさなかるかもこの基督は


玄関の内部


乳をふふみ幼きいえすいますなり時計の針もめぐりつぎつつ


行列廊下


基督の受難の額の裏のかげ廊下の青きこの光線を


行道ぎやうだうの波型寄木踏むべくはこよなき光流らひにけり


階上の寝室


二側ふたがはに寝室のとばり垂り白し真昼は空しそよりともせず


照りつづき白き帷の真昼なりひたけうとしもトラピストの寝間


とことはにまかずめとらぬ修道士のむなし寝部屋よ日のほてりつつ


ORA ET LABORA.


祈り且つ働けと云ふすなはちよしかの修道士は丘に群れたり


日とともに出でてちらばりうやうやし彼等は空をいただきにけり


牧ぐさのくれなゐやはきうまごやしかなし麻利耶よ彼ら夢みぬ


木工場の内と外


ものいはず群れゐ木を挽く毛ごろものくりの頭巾の日の光はや


木履サボウをこつこつと刳り暑からし息づきあます深きしづまり


修道院の昼はてしなしぽこぽこと人歩むらしき木履サボウの音あり


後園


よく掃きて日のさしあかる道ほそし林檎のもみぢちりそめにけり


木履サボウはきてさびしがり行く日のさかり木槿の花が白う見えつつ


更にうしろは畑である


弥撒ミサ過ぎぬ修道院裏は毛の紅きたうもろこしの一面の風


墓地があつた。外国人の神父たちも埋められてゐる。


から松の木洩こも光線ひすぢや目にとめて地に幽けきは奉教人の墓


トラピストの墓原の南風みなみ吹き唐黍の紅き毛のそよぐなり


真夏日の光に聴けば遠どほし緬羊の声は人に似るなり


ルルドの洞窟にて


くはしみとに出て見ればこの空や七つの岬海にい向ふ


牛舎近くに出て見る


夏だ夏だトラピスト修道院の柵の外に遊ぶ子供がまだはしやいでる


照り強しいゆきかへらひ憤るここの七面鳥は胸羽根むなばね真青まさを


青刈の花ひまはりを食む牛のはてなき暑熱しよねつ我は見にけり


草積みてにほひまさをき馬ぐるま牛舎近くを駈け込み来今は


赤松林を通ると蘿風君の旧居があつた。


岩清水しんしんとして夕近し赤松の幹の映れる見れば


谷隈の小さき泉の夕ひかりわれはひたにし口をつけつも


赤松の林を過ぎて夕づきし広原は見つ馬車の駈くるを


夕づきて何かひもじきひたごころ赤松の原をくだりつつ来し


つつましく君が住みけむ跡どころ谷沢越えて我は見に来し 消息


フオクとは木製の一間ばかりある草掻きのことである。


フオク持つ人もくもくと掻き掻けり燕麦えんばくならし黄の穂かがやく


頸根うなねつきかさりかさりと夕さむし草ほこり掻く修道士ふたり


晩鐘が鳴つた


修道院鐘を鳴らしぬ安らけくけふのひと日も晴れて暮れたる


修道院夕さり安し栗いろの群の毛ごろも竝み帰りつつ


月夜


月出でて明るき宵や修道士たち今は帰り木のフオクもちて


丘のに大きくうごくフオクのかげ月の光にまだ一人ゐる


晩祷


夕闇の御堂のいのり声もなしあかきひとつまたたきにけり


こよなくも聖体盒せいたいごうのにほふなり何かめぐしくわれが泣かゆも


客館で私たちは晩餐にあづかつた。赤いボルドオはぽんぽん抜かれるし、アルコールぬきの麦酒も出た。


修道院の窻あけはなち晩餐なり甜瓜メロンがまろし月の光に


修道院こよなく明しのつきてこの焼豚のくれめぐしさ


われ立ちて今は踊らむ月あかり深めば鐘もゆりかしぐなり


月がいい。前庭に私たちも出た。「おんこ」とは「いちゐ」のことである。


円刈のおんこに光る月のかげまさしくここは修道院の庭


聖堂の夜の連祷もはてぬらし月に出でてをりふたりみたりのかげ


修道院の玄関の前の月夜なり神父アツパ歩めり話をしながら


天の露いよよ繁みか後の野に馬放たれて涼しこの夜良よら


丘のに大きちひさき馬のかげ月夜すがらに見えてゐしかも


月の夜をしきり傾くすずのかげ友は見しちふ我は聴きつも


客館の横にポプラ並木がある。


ポプラ葉のかがやく見れば常ながら空のあなたよ見のくはしかも


うれつづきかがやき久し日のさかりポプラ嵐に雀流らふ


今日もいい晴である。


修道院鐘の音くはしまさしくもここのみ空は蒼うかかれり


空晴れて鐘の音くは苜蓿つめぐさの受胎の真昼近づきにけり


空晴れてまた事もなし山なだり茶の毛ごろもの群れのぼりつつ


乳酪工場の附近を逍遥した。


山鳩の居りて閑けき葡萄畑青うこぼるる日ざしなるかも


さみどりのキヤベツの地より湧くところ人つくりをり新しき乳酪バタ


帰途


わが歩みひたすらさびし昨日見し木槿の花は白かりしかも


アイヌ村風景


師団道夜の明けて広しさゐさゐと唐黍売もふれて来にけり


この朝かげすばらしくよし毛のあかき唐黍を呼べば馬車にはふりこむ


ひた駈けに馬車をはしらしすがすがし唐黍の穂の朝日なるかも


朝の日を馬車はかへしてあゆむなる大豆畑の露くさのはな


畑つもの豆の葉よりも露くさの瑠璃いろ深しすぐアイヌ村


朝の気の流らふ広き大豆畠旭川郊外に来てをりわれは


耳とめてこの野は広しこちごちにひびかふものの音のかそけさ


水の音今は聴きゐつこのあたり隠元豆の花がしろしも


あるアイヌの家にはいつて、お婆さんに唐黍を焼いてもらつた。 二首


たうもろこし焦げてにほへりはるばると遠来し旅を堪へてゐるかも


唐黍の焦ぐる待つ間よつくづくと摂政の宮の尊影みかげを我は


おんこ彫るおぢのアイヌがあぐらゐをい寄り見て立つさぶし和人しやも


日の澄みを毛深きアイヌ立てりけりほろびつつあるその厚志着あつしぎ


家屋ちせ熊檻ベウレツプチスこのあしたかなし仔熊も起きてゐるかも


往還に眼窩めのくぼふかき子は立てりほろほろとかは直土ひたつちの照り


除虫菊



韃靼の海、波のうねりに揺られゐて遊べる鴨か大きうねりを


平らにぞ凪ぎ青みたれ泛く鴨のかくろふ見れば大きうねり波


うねりの深き凹みへ辷る見し盛りあがる波を鴨の乗り来る


揺れあがる波の平になりにけりしばしとどまり鴨のたしかさ


海上


韃靼の海阪うなざか黒しはろばろと越えゆく汽船ふねの笛ひびかせぬ


かき坐り仰げば巨き帆ばしらなり我この汽船ふねをひたに頼まむ


耳あけて深くしづもる四五本の通風筒の前の照なり


波の上にぽつかりとありはてしなし走れる黒き煙突のかげ


音江村


日ざかりの道のべゆけば株だちてまだ柔かき箒草のいろ


除虫菊白きを見ればにひみどり唐黍の毛もかき垂りにけり


歩み来て林檎畑にはひりたり日の明りつつ広く閑けさ


夏山の林檎畠の日のくもり白きかけろの閑けかりけり


一已いつちやんの屯田兵の村ならしややに夕づくこの瞰望みおろし


日は近しつくばふ牛の鼻づらを見つつ過ぎたりかむぼちやの花


牛小屋のおもての紅き巴旦杏手のとどくところはみなもぎりたり


蓮のはなほのけく赤しはひり来てここの牝牛の乳をもらひをる


澱粉靴といふものを子らははいたりける林檎畠を出て来る見れば


常掃きて日射ひざしとほせばうやうやしこの牛小屋の青牛のかげ


家の戸に去勢無料としるしたり夕光ゆふかげあつきこの往還を


青き林檎


北海道深川町の郊外、音江村にさる林檎園あり。たまたま町のK氏を訪るるに、今は人妻ながらそのKのそのかみの恋人なりと云ふ女性ありて茶を供し、まだ小さき林檎などむく。我もただ庭を見、池をながめて、言葉なくゐぬ。


寂しくてなにかまぶしき日のくもり青き林檎をながめゐにけり


うすうすと林檎の梢葉うれは染みにけり百舌のかけりはいまだ暑きに


つぎほなく閑けき夏や時あかる蜜蜂の翅音そこら響かふ


風たちて涼しく皺む池の面に百日草の影もうつれり


役場の前のさる歌人の牛飼の家にて


音江村一覧表をもらひたり役場のまへの鶉豆の花


直土ひたつちに子らかき坐り夏おそし種人蔘の立枯れの花


傾斜地の虫除け菊のしろき花いまはつぶさに見て下るなり


深川郊外


遠山に白虹りゐしづかなりこの石狩の国の大きさ


白壁のかへ見ればやちだもの木立の木膚こはだかがやきにけり


オホツク海にて


一等船室


のうのうとうたひのこゑはそろひけり陸ひとつ見ぬ海に来にける


海に来てはたやあはれか老らくのつれ多くして謡ひほれたる


豊けくてかへてあはれぞまさりける謡のこゑの凪にそろへる


能のワキの囃の笛を吹く人あり


能の笛ひやうへうふれうと起りけりオホツク海の真夏日の凪


空のむたかげりて円きわたの原笛のひとつの音いろ響かふ


薄ら陽


いつしかと日光ひかげかへさずなりにけりオホツク海の波の穂のいろ


オホツクの波は光らずたどきなし甲板にひとつ我の足音


オホツクの凪はてしなし日の洩れて末あかりしが照らず止みたり


雲の上を日の行きながれさむざむしオホツクの海いまは観にけり


国境安別


安別沖まで


巻きなだりいやつぎつぎにかさむ波の穂くら海豹あざらしの顔


日の遠き北に来にけりこの海やたえて光らぬかぐろき荒波


名も知らぬ黄なる花むらなだり咲き目もあはれなり時化波しけなみ隙間ひま


凄まじく海ぞ荒れたれ目じろがず人は乗り来る舟の


砂浜


昆布こぶ食みてさとき鼠か長き尾の乱り走りぬ波裂くるとき


ぺんぺんとなづな実りて群れにけりとどろきくらき波なだり来ぬ


海豹あざらしは頬の髭黄なり孔まろき白き頭骨づこつとなりはてにけり


鰊乾場


日の光薄き浜びの板びさし春の鰊は燻し了へにし


マントの黒き頭巾のふつかけ雨巡査は佇てり蕗の葉のかげ


浜びさし雨あぢきなし紙旗の日の丸の紅も垂りにじみつつ


ふたつ眼の毛皮のひぐまつるされて吹つかけ過ぎぬ網小舎の雨


この雨の樺太車前草おほばこ踏みやわみ村かたつくと親し車前草


夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨


夏もなか黄なる鈴菜が明るなり北の日本のいやはての村


日のひかりいとど薄きを菜のはなのうつしく咲きて黄なりこの浜


菜の花に藻くづ昆布こんぶの塩じめば北の日本の春もいぬめり


鰊粕あぶらのり来るためおも雨は沁まずてはねてちりつつ


ななかまど


あかき実のななかまどといふ藪の崖子供飛びをり鳥のまねして


ぎやをと啼きまた声がずどしやぶりの実のあかき木に海猫はゐる


天測点へのぼる道


玉ぼこの道つくりびとすがすがし蕗と萱とをもろに刈りそぐ


ぬかるみの新墾道にひはりみちの吹きあげ雨り立つ蕗の裏しごきうつ


吹きつけて息づきがふ霧のくれ樺太蕗の葉をひるがへす


茎高の葉広蕗うつ雨の音今はたしかに国境に来し


国境標附近


鷲ひとつ石のうらべに彫りにけりそなたにあらき虎杖いたどりの花


雨、雨、雨、虫くらひ葉の音繁きこの虎杖は露西亜領の花


椴松とどまつの霧たちかくす日の在処ありど気流の冷えがとみにししる


ここの空きびしく寒し椴松のうれを久しく霧はながれぬ


いつかしき国の境や椴松に雲白うゐてこごりたりけり


北樺太ピレオの村も寒むからし蝦夷松疎く雲こごり見ゆ


猟人かりうどのピレオ出て来る寒き影はたや向ひの尾に立つらむか


国思ふ心はもとなとどまらず雨はさ青ののぎを流らふ


雨は小止をやみ草山なだりさみどりなり日本の村へ一気にすべる


韃靼海西風にし吹きあげて立つ雨の色まつしろし潮さゐのうへ


時化後


小学校にて番茶を饗せらる


黄の花の鈴菜畑のざんざ雨鴎あがれりまろき眼をして


日本のいやはての北の小学校水蝋樹いぼた蕾みて夏休みらし


隆盛の大き目の額見つつ出てすずろにあか虎杖いたどりの花


電信局にて


ワレライマヤコクキヤウニアリ、むらさきの花じやがいもの盛りに打電す


じやがいもの花の香しるき頼信紙このふきぶりに濡らしけるかな


缶詰工場は休みて商品陳列所となれり


雨しげき鰊乾場にしんかんばの実のなづな国の境も見つくしにけり


樺太犬のそりとを居れ雨しとど吸ひふくれたる葱の玉鉾


われさぶし噴出ふきでの清水大き桶のためあふれゐるそればかり見る


こんこんとしみみゆり湧く旅ごころ水は噴井ふきゐに盛りあがりつつ


うらさぶしうらさぶしとを選りゐたり燻鰊いぶしにしんの黄の腹の焦げ


端舟に乗る頃


夕づきて遊ぶわらべの寄りどころ蟹の甲羅の朱も古りにけり


時化後しけあとの海ひたくらし向ひ立つ女の子がふふむほほづきの音


幌馬車


音江村


山方はけはひ幽けくなりにけり馬車ひとつ行けり虎杖いたどりの原を


幌の馬車とめつつさびし虎杖の虫くらひ葉の日ざかりの照り


オホツク海拾遺


波のみね千重しくしくにかがやかず海豹島も目路にかくりぬ


松島


みちのくの千賀の塩釜雨ながら網かけ竝めぬほばしらのとも


みちのくの千賀の塩釜雨に来て木の橋わたる大き木の橋


千賀の浦夕立つ雨に船立てて雄島のはなに着けば暮れたり


松が根にきちかうの花開きけりこの松島に今朝は思はむ


松島の海岸どほりまれまれに人あそびゐて日射秋なり


瑞巌寺に泊る


大寺の厨のそとの水ために清水あふれて朝焼けにけり


瑞巌寺の朝餐あさげの魚板響くなり顔洗ひつつよしと思ひぬ


僧たちと朝餐の席にならびたりつつましくしてほがらかにあり


飯櫃にたきたての飯の湯気たてり大寺はよしこのあかときを


瑞巌寺をまかりいでつつ朝早く松島が見ゆ雨後の松島


松島瑞巌寺前のさざら波施餓鬼すみたるあとのすずしさ


金華山沖


潮のいろ深むを見ればみちのくの金華山沖に今かかるらし


海に見て地球のかたちまろしとふわらべは小さしよろこびにけり


帆綱張りゆゆし安けし太敷ふとしきていつのほばしら根生ひ据れり


真上空まうへぞら飛ぶ雲はやしまさしくはおほきマストの揺れかしぎつつ


かたむくと見つつ待つまをとどろかずおほなみ凄しあがりきりたる


まなかひに落ち来る濤の後濤あとなみの立ちきほひたる峯のゆゆしさ


躍り立ち羽ち巻き立つ波の穂のあひだに徹り青空のいろ


きほひ立ちただち砕くる波の穂のしぶきが飛ばす潮の珍珠うづだま


巻きかへる波のなだりに飛ぶ珠のとどろきの泡ぞ白く競へる


渦潮うづしほのたぎつ潮漚しほなはしづまらず浅みどり透くその白き泡を


潮漚の消ゆと浮ぶとおもしろと見つつ見あかずさやぐ潮漚


わだなかに夕餐の銅鑼どらのひびくとき火星は赤くあらはれにけり


青海原あをうなばら夕さり来れば壮麗なり夜の高麗丸こままるつらねたり


わだなかに音耀かがやけり夜はふけてしんしんと進む生物いきもの高麗丸こままる


津軽海峡


まさしく津軽海峡に入りにけり早や見るあを草崖くさがけのいろ


とどろと雲噴きあがりあざやかなり汐首岬のあを雑草あらぐさ


岬の雑草ざつさうと雲のあざやかさ汽笛ふえ太く吼えて挨拶す汽船ふね


津軽の海南風みなみ吹き晴れ午前なり汽船ゆきすすむその中道を


煙曳く煙筒竝び爽かなり高麗丸はよしこの海峡を


この汽船ふねおほき煙筒けぶりなびき渡島をしまの子らは此方こなた見てあらむ


津軽の海雲はろばろしいにしへや大群たいぐんのアイヌここ渡りけむ


津軽海峡はや秋ちかし雲のこうとして渡る小禽の群あり


仮装行列あり


この汽船や笑らぎ照り恍けはてはなし海峡の午後をゆきすすむなり


大船に日は照り満ちぬ紅つけてをどる一人が影の短かさ


ひと船の愛し戯けもはてにけり津軽のかたに日は隠りつつ


津軽の海凪に群れ寄る味鳧の命なりけり粒黒くゐる


つらつらに鴨の泛き来る蒼の波うねり大きく見えにけるかも


渡島の縦の赤雲竝び立ち見のはろばろし星の透き見ゆ


天に三層あり、中なる天を「星のゐる空」或は「騰れる空」と呼ぶ(アイヌ昔噺)


ぬか星の騰れる空にさ霧立ち今宵はすがし蒼海のさか


月のもといとど巻き立つ赤雲のかがやき近し崩れずあらなむ



沖つ鳥鴨のかしらのまさをくてつらつらかなし泛きにけるかも


もこもことまだ盛りあがるたづきなき波の胴腹に鴨はるなり


まなかひにおほにそびやぐあをの波かなたなぞへに鴨は居らしも


つれづれと鴨のすべるぞおもしろきこなたなぞへになり来る波を


夕凪の海、波のあひさにゐる鴨のかなしき声は空にとほれり


ここ過ぎて草は空より新なり汐首岬しほくびざきといふがかなしき


正眼にも夏は光りてとどろきぬ汐首岬の雑草のいろ

底本:「白秋全集 9」岩波書店

   1986(昭和61)年25日発行

底本の親本:「海阪」アルス

   1949(昭和24)年615

※「夕光」に対するルビの「ゆうかげ」と「ゆふかげ」の混在は、底本通りです。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。

入力:岡村和彦

校正:フクポー

2017年1025日作成

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