海阪
北原白秋
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道のべの春
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大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見るとその駅の前にはもう薄ら寒い日の暮の風が吹きしきつてゐた。
日の暮のぼろ自動車にすくみゐつ赤き浮標見居り乗合を待ちて
風空に造船場の高く赤き鉄柱が焼け暮ならんとす
日暮れぬ路いつぱいに埋まり来る職工の群にひたと真向ふ
前まへと堰き溢れ来る人の顔どれもどれも青し押しわけてゆけば
雪のこる片山蔭の板びさし今は見て安し灯が点くも
外見ると幌ひきはづす手のつめたさ遥かの不二は吹雪雲の影
雪ふるは天城かと見る次の眼に夕焼の赤きまばら松見ゆ
山峡を遥に小さき人の影寒むざむと追ふ斑雪ぬかるみ
山間に愛し小さしと見し人が窻際に避くるこれの猿面
遥かの山ぎざぎざに白し半島の上をわが自動車はまつしぐらなる
あまりに月が良いので自動車を下りる。三崎の一里てまへ、引橋の茶屋の少し先き、そこらが半島の最も高い道である。
この空の澄みの寒さや満月の辺に立ち騰る黄金の火の立
満月の辺に立ち騰る炎の粉宵空の澄みに澄み消なむとす
山は暮れぬましぐらに駛る自動車の真正面の空の宵の満月
月明き半島の夜を歩まむとし汐ふかき風をまづ吸ひにけり
とりどりに歩む姿ぞおもしろき松の並木のきさらぎの寒を
青く真澄む幻燈の空に枝さしかはす山松が景も早や二月なる
月の坂に我ら追ひ越す自動車の埃の立ちの秀の青さはも
太鼓うつ音のきこゆる月の森そこかここかと聴けば遠しも
おのづから岡の歩みは太鼓うつ月照る磯に近づきにけり
この廓は燈火紅し草臥れて雪どけの道を行けばひもじき
宵はまだ月の入江の枯葦の影くきやかに汐あかり満つ
枯葦や入江の潟にのる汐の上づら寒し月はかがよふ
私の雲母集中の異人館はその後海嘯で流されたとかで、もはや跡方もなくなつてゐた。
今は無き我家の跡に櫓かけて磯の良夜を子ら太鼓うつ
月がたたく太鼓ならしとおもひきや我家の跡の子らが興なる
春あさき囃子求め来て月の磯の我家の跡の汐あかり見つ
来て見ればいよいよ近き月明り通り矢も見ゆ城ヶ島も見ゆ
照り曇る月の夜ながら小童がたたく太鼓の冴えの愛しさ
童らがたたく太鼓は月の夜とこだましにけり島の森より
何がなし心安きはたぷたぷと石垣をうつ満ち汐の音
元の私の家の隣である。当時親しくしてゐたその家も代が変つて今は旅館になつてゐる。ここに私達は泊ることにした。
この宿は小松にまじる枯葦の影し騒げど月明りせり
月明く風やや烈し湯をいでてさやぐ小松の影を見てゐる
沖釣の宵の夜ふけの漁火の繁く遥るけき憂世なるかも
灘遠く連れてまたたく漁火の風のこなたの月夜さざなみ
あれだあれだ城ヶ島のとつぱづれに燈台の灯が青う点いてる
雨雲に月飛ぶ迅し旅蒸気のマストは青き燈をかかげたり
この宿の生洲の汐に映るもの石崖と岩の墨いろの影
友よ飲まむ寂しと言葉落したり音せぬは汐も満ちたるらしき
草臥ぶれておのれ素直になりにけり酒やふふまな歌はせ女子
われ酔ひぬ君もうたへよ童うたうたひ遊ばむあはれあはれ酔ひぬ 戯れて三首
頭に火をつけよ線香花火の火の粉の松葉菊ちふ華も咲かさな
童うた「金魚の鉢」ぞあなかしこおのれよろしよ「金魚の鉢」は
この坂の椿の紅さ先のぼる一人は早くも佇ちて仰げり
あなかしこ女仏なりけり触り冷き石にてはませど常ならず見ゆ
つめたけど触りて愛しと惚れてしが石の女仏の眼眸の露けさ
椿葉の冷えの明りに浮き立たす石の仏のほそり肩はも
崖の上の高畑道のはだら雪踏みほそりつつ一人は遠し
日は高きに雪と小松のほそり道人には逢はね下は波の音
振りかへれば振りかへり見つ荒布採りの海女一人が籠は紅つばき挿す
雪うすき小松が間に啼く鳥は頬白か否か春も浅きか
昆布噛み冷酒ふふむと昼磯に集へどさびし一面の照り
はるばるに潮満つらしく思ふとき手をかざしたり迎への舟より
午ちかきひたひた潮の岩照りを迎への舟が揺れてはひり来
昼潮の照りの明りに漕ぎ馴れて遠く遊びし昔かなしも
昼潮に雙手ひたして思ふことかく父母と常に遊びき
満潮のゆたのたゆたに揺れゆかなゆくらゆくら漕げようつらうつら行けよ
昼潮の満ちのたたへに漕ぐ舟のねもごろにとろき櫓の音なるかも
萱わくる音こそすなれわがほかは先ゆく人も遠しと思ふに
萱原の萱の遥かに思はずも先ゆく友が頭見せたり
萱刈る人ひとり居りけり枯れかれし萱の中ふかく身をうづめつつ
島山に深き萱刈る鎌の音青空にひびき闌けんとす、昼
日小さしまだ遅からず仰ぎ臥て萱刈る音の刈り深む聴く
草刈りの七十ばかりのお婆さんに前田君がたづねてゐた。「お婆さん、この島でも盆踊の歌があるかね。」「お盆には無えだ、お正月には盆踊があるだ。」「なんと云ふ唄かね、」お婆さんはどう思つたか、ふと唄ひ出した。おもしろい手つきをして、唄つてゐる時はなんとも云へぬうれしさうな若やいだ顔をしてゐた。が唄ひをはるとむつりとした元の顔になつて黙つてまた刈り初めた。その唄はかうである。
つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて負けてやる
私たち二人は腹をかかへて笑つた。さうしてまた寂しくなつて了つた。
萱刈りやめ媼はうたふ日ののどかなんとその眼のうれしさうなる
歌ひをはり済まぬ顔しぬ島媼また枯草を刈りいそぎつつ
媼居り萱を刈りけり子らは来て萱を負ひけり日の小さきに
萱負ひて子らは子らとて下りゆけり媼は刈りぬひたむきの刈り
島鶉啼きつと思ひぬ深き萱のそよぎの照りのしづもりの中に
島山の萱の閑かに鶉ゐて啼くなる昼は雌もこもり啼く
すれすれに鶉飛び立つ萱の風また一羽立ちぬこもりたらしも
昼潮に櫓臍漕ぎ落し思はずも幼なごゑ立てぬそれがをかしき
同日薄暮、城ヶ島より宿へ帰つて後、散歩のついでに立ち寄つて見た。椿御所がこれである。宿の近く、同じ向ヶ崎にある。
この寺が大椿寺ぞとはひり来て寂しと出でぬ日暮を二人
この寺も古うなりぬと陽の隈に尿しつつ云ふ我も寒むかり
さびさびと暮れしづもれば磯寺の障子はかげる寒しとなしに
二月三日薄暮、三崎より乗合自動車での帰途半で下車、長井で一泊することになつた。翌四日、その磯を散歩し、裏道から県道へ出、逗子行の立場まで行きその日暮れに其処を立つた。その間の所見である。
黒川の浅夜の冷やき水あかり江につづくらし広き汐騒
黒川の葦辺の冷やき水あかり夜汐かまじる暗くにほへり
川間橋何か藻くづの青めくは夜釣のさしてにほふならしも
灯のもとに夕餉の騒ぎ露はなるまづしき磯に行けばひもじさ
磯宿は下の祠に提燈が点き白い幟の月と風です
安宿のこれの硝子戸夜風に鳴り佐島の燈うつつなく見ゆ
磯宿のこの婢女が言なきはまたくつめたき鱗がどちか
友とゐてさびしとは思はね一つの蜜柑いつまでもむきて酒うまからず
寂しけどなにか今宵の気の安さこの磯宿の磯香くさきも
雨かとも夜すがらききし点滴は朝起きて見れば幟竿の揺れ
この磯は半ば枯れたる浜木綿の日向かがやかし鰯子の函干す
磯に干す鰯子のかがやき目馴れねばうら寂しかり朝の餉はまだ
まじまじと眺めて蜜柑むきゐたり硝子戸越しの鰯子の浅照り
今朝はまだ太鼓たたかず磯の鼻に竹馬の子が遠く沖見る
入江の波いまだかがやかずつつましく箸さしおきて今朝暇あり
遠浅の春さきの江か今朝は晴れて風烈しけれど波の穂低し
風波の穂立の迅さ浅々に見えつつは走れ白く白く飜る
春と云へど横の出崎の日あたりもまださむざむし枯木三四本
寒い風の入江の潮にすれすれ出てる枯草の島に日があたるところ
潮ふくむ浅きみどりの青海苔の簀々を嗅げば春なり
この朝や風は高けど片磯の石垣に青く海苔簀干す
老らくの寂しごころか浜へ出て鶏追ひゆく万祝衣の爺
この磯は枯小竹多し行くところ吹かれ吹かれぬ小竹あらぬなき
磯村は風を荒みか背戸ごとに矢竹篠竹家垣にせり
家垣の篠の枯藪風をしげみほほけなびけり窻の障子に
この枯れし竹は矢竹か女竹かと立ちとまり見つつ見つつ行きけり
家垣の矢竹の裏の紅つばき咲きにけらしな花二つ三つ
丘窪は刈田の泥も刈株もさびつくしたれ日のあたりつつ
丘窪は刈田に泥ぢし稲株のさびさびにけりそのこちごちに
丘窪の刈田のへりの溝川の青の水藻は目に新しき
群松の日かげのあをきはだら雪見て通るなりこころ冷えつつ
日のあたる枯篠藪の円丘のところどころのしら梅の花
目にとめてはや寒からず柴刈る子ら日あたりの丘に何か笑へり
日蔭田をむつりむつりと群れ来る子ら早や日あたりへ一人は出づも
何祭る二月の子らぞ青榊手に手に持ちてつつましく来る
春浅き片山蔭の女松原つばらつばらに日のあたりたり
岡裾も青みそめたり肥やると揺れかつぐ影もはや寒むからず
牛ひとつほつり出たり下丘の日照る畑の青きはづれに
雪ふかき窪田の畔の蚕豆のみづみづしさに見ておどろきぬ
誰かゐて豚小屋のぞく日のいとま安けからしと見て通りゐる
春あさき小葱がそばの草ぐみの実のつめたさを食べて見んとす
目にとめてはや寒からず冬銀杏かうかうと白う寂び明りたる
銀杏の立枯の枝の白金光のほうほうとして実にこまかさ
梅はまだそこらここらの雑木山眺めつつ行かな遊び遊びに
たまさかの暇いただき出て遊ぶ二日三日ゆゑいよいよ愛しも
風烈しき高畑越えて耳柔き斑らの仔牛道はかどらず
青麦の高畑道の日の光斑らの仔牛眼もさだまらず
春はいまだ風かはげしきこの丘や警報球を赤くかかげつ
雪どけのぬかるみ坂を吹きあぐる早春の風はまだ頬につめたし
浅黄の外套に頬かむりしぬこの風の磯山道は梅ところどころ
かくばかり小竹多き磯と知らざりき通り抜けて薄き陽ざしに見れば
ここから出て見ようかと出て見てる洲崎の下の小竹の薄い陽
薯がらの小積のかげだ吸ふ煙草だ早春の出洲の烈風を除けて
道を問へばどの家も障子ひらかずしておつとりと答ふ午の里なる
早や青む畝の車前草つめたよと踏みつつ伝ふ友が後べを
風冷やき棕櫚の根方に尿して日向を走る子が前の矮鶏
向うの切りくづし崖の黄の壁に陽があたつてる菜畑も見えて
もう春だ春だほうれトロッコが走る走る走る誰か手をあげる
あの頃のあのこころもち手をあげてトロッコで走るちやうどあれです
どこやらから春が来さうな雪の後ですトロッコの土の東風です
さうだあの気合ださうださうだ一息に辷るトロッコの走り
引き潮にほとほと涸れし江の上の隣田寒し藁のみ積みぬ
潮の路こちごちに光れ黒き洲のおほかたは涸れぬ葦むらの外に
風の向をりふし変る荻むらはたださわさわし眺めに出ても
枯葦が枯葦のかげを落してゐるただそれだけの温い冬の日
へうへうと心はかろし旅ゆくとけふ春風に吹かれてぞゆく
酒みづきおのれわすれて昨夜はありき今朝は菜の葉の風見てぞゆく
青梅街道の春いまだ浅し山椒の魚提げて来る小さき爺に会ひにけり
早春の菜畑の風の爽かさよ野中の小さき駅も見えて来ぬ
枯欅目にとめていそぐ畑の道は行きつくるなし武蔵野に来ぬ
吹きさらす曠野の駅に兎をさげてぽつつりと待てる爺も居り午後
み冬なり曠野の駅に遅れて来る二時過ぎの汽車の煙いま見ゆ
枯桑のほろほろと白く汽車の窻の傍走るかにはてしなき見る
枯桑の曠野つつ切つてまつすぐな道がどこまでもどこまでも北へ向つてる
時をり話為かけてふたたび向く窻外は白しはてしなき桑
日の暮の枯桑原に火がぽつと燃えて時のま消えぬ赤かりしかも
寒いさむい曠野の中を走つてゆく日の暮の汽車の白い煙だ
この曠野の小さな駅に遅れて来てすぐ発つ汽車のふかき鑵鳴
枯桑の曠野の窪のところどころ煙たてゐてかげる村のある
山近く雪まだ残る桑の原の此処らにし見るは廂ふかき家
廂ふかく陽の照るとなき粗壁の枯桑のかげは映るともなき
風雲は気球のごとし冬枯の桑の曠野にただ一つ見ゆ
声高の曠野の人とむかひて坐りひもじき我や燐寸を赤く擦る
ああ名残の夕陽の栄やひとしきりそそぐ枯桑の原の金色の光
雪の山のつつましく近くあらはれ来て桑の枯野も今は末ならむ
雛店に灯あかくつきにけりはろばろし桑の枯野越え来し
鉾杉の春の焦いろよろしみと眺め見あかず谿岨のぼる
冬山の山ふところの群杉は鉾立ててよし寂びし鉾杉
日和よきけふにもあるかな人居りて山くづすところ爆音ふかし
山裾は枯芝原のひと平家居竝べり日のあたりよみ
多摩川原早瀬にうつる栂の木の春浅うして人うぐひ釣る
多摩川原清き川瀬に採る砂のかがやき白しうち響きつつ
多摩川の渡瀬の砂の水を浅み山葵採るべき春ちかづきぬ
春は早や向つ岸辺の栂の間にかすみて紅し欅なるらし
この水のみなもと遠くほのぼのし馬酔木の花も咲きそめぬらむ
春あさき川瀬の崖の老樫の風烈しけれやしきり光れり
隣り立つ樫と棕櫚との日のひかり春早き風に冷えみだれつつ
樫の葉に常しづもらぬ日の光なほさへや風の瀬を越えて吹く
この御嶽や春なりながら峯の奥は雪深からし山開まだ
谿隈は鶸の声多し杉の花のやや秀に焦げて春まさに来ぬ
杉谿の迫りの深さ時ありて鶸のむれ舞へど雪の山の蔭
斑ら雪山には凍れ伐りし杉はなまなまと積みてみな棚にせり
岩上のつめたき竹の秀は揺れてまことに冬も末かと思ひぬ
岩が根の氷柱の垂りに映りて通るわれかとも思ふ影のしたしさ
山菅に陽のさしあたるたまたまはかすかにうれしのぼり道なる
谿くまの湿地に生ふる鼬羊歯かすかなる陽の温くもりにあり
山がはの岩間の湍のひとところたぎつすなはち凍りたるらし
谿岨をいそぐひとりかたまたまはふり仰ぎ見居り真日の小さきを
おかめ笹日かげにそよぎところづら日向に枯れぬその間通る
日の闌けてややいそがしき心ありそこここに解くる氷柱の光
吹きさらしの岩に祠のごとき厠ありて見のさみしさよここらの谿は
雪凍る御嶽行者ののぼり坂こごしとは思へ青き杉の香
鉾杉の鉾の尖りの幾重ね畳はる谿に雪はふりにけり
並み立てる谿の鉾杉白雪つもり見のかうかうと幾秀こもれり
音せしは老杉が上の雪の塊凍雪の道に落ちたるらしき
今落ちし杉の葉の雪はすこし砕け地の凍雪にあざやけく白き
白雪のこごりの塊をひろひ食み我すなほなり母をおもひつ
樅の木の差出の枝の常盤葉のときをり篩ふ雪のかすけさ
雪しろき山畑は愛し雑木のさきちよぼちよぼと出てその実垂れたり
山畑の雪の平に暮がたの青ぞらのいろの吸はれつつぞある
ああ早春雪はだらなる山の尾を電信線は空まで走れり
後山は雪はだらなる杉の山前山はしろし伐りし山かも
いただきの雪にしたしく煙あげて群ゐる屋根見ゆ御師の家かも
風出でて山鳴ふかき日の暮は遥かに恋し海の汐鳴
ひようひようと風吹きとほる山の秀は月かげ白し夜明けたらしも
雪ふかき山の尾の上に啼く鶏の啼き応ふ鶏の声のしたしさ
きさらぎや多摩の山方、まだ寒き障子の内、人影の、手に織る機の、ていほろよ筬うつらしき。立ちどまり、うつらに聴けばからりこよ、杼の鳴るらしき。三杈の花咲き湿る、山の井よ、下井の水も滴るらしき。
障子にすずろにひびく筬の音山辺の春はすでに動きぬ
山かげの懸樋の縁の紐氷柱本末ほそうなりにけるかも
水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、常寂びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋は門櫓いかしく高く、棟さはに倉建て竝め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺なす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、庭広に干しも列ぬと、咽喉太の老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻の雌をし引き連れ、七十羽の雛を引き具し、春浅く閑かなる陽に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外にも満ち溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世々に幸はふ、うまし国うましこの家ぞ、うべも富みたる。
大御代の多摩の酒屋の門櫓酒の香さびて名も古りにけり
西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉
武蔵野や多摩のみなかみ、御嶽道払沢の口、春浅き日南のそとに、餅搗くや爺は杵とり、臼のべや婆は手に捏ね、ぽたらことのどに対ひぬ、ぽたらこよゆるにとめぐる。閑かなるここらの里も、雛祭ちかづきぬらし。御形咲き蓬萌えたり。古りぬれど雛もかざれり。山もあり川もありけり。こもり啼く子ろも居るらし。道埃しろじろ立てて、吹き過ぐと風はさむけど、雲ゆけば日ざし洩れ来て、おのづからうら安の世や、ぽたらこと爺は杵とり、ぽたらこと婆は捏ねつつ、水濞すする。
春なれば草の蓬も搗きこめてのどかなるらし餅搗きをる
道のべののどの餅搗きおもしろと見つつあかずも杵の手ぶりを
めぐり見つ見つつあかずも搗くたびに杵にのり来る餅のふくらみ
搗きたての餅ならすとしろき粉の米の粉まぶし手にたたきをる
§
しろじろと埃あげくる道の風やや片避けて旅ごころあり
人も見えね御嶽山道の風埃目にたちてしろき午過ぎにけり
五月中旬、千葉県人会よりの帰途、千葉より印旛沼の吉植宅にゆく。
この己は鰌になりぬ天然更新の君は鯰になるならよしも 夕暮へ
うれしくておれは鰌を踊るなりこれは大きい印旛沼の鰌 牧水へ
両国の一ぜんめし屋でわかれたるそののち恋し伯林の茂吉 茂吉へ 二首
ざるふりてすくふお前がうれしくておれは鰌になりにけるかも
おもしろとうれしうれしと尻ふりておれが踊ればほめられにけり
下総や印旛の大沼見にと来て見ておどろきぬ灰濁める波
はろばろし葦原かけて湛ふれば空よりも明し大き印旛沼
草食むと赤馬放れゐる土手越しに一面に明るあれが印旛沼
印旛沼の屯の楊ゆたかなれや息長の風に垂れて靡かふ
印旛びと出水かしこみはろばろし葦原かけて植ゑし楊彼れ
印旛沼家居とぼしき沼尻にも老木の楊絮深みつつ
印旛びと印旛の津々に屯して魚とり葦刈りいにしへ思はむ
友が家は沼尻のいづこ目も遥に葦野つづけり河楊も見ゆ
二人は遅れて行つた。久しぶりで汽車の中から飲んだ。この辺では四合瓶一本と大きな白い盃を二つ持つてゐた。尠いので大切に飲んだ。
日の照りて茅花そよめく浅茅原我等あぐらゐ冷き酒のむ
風あそぶ土手の蓬生たわたわに愛し女かなびきこもらふ
蓬生にいとど沁み照る酒の滴り惜しみ愛しみ飲みてゐるかも
酒を惜しみ春を惜しむと印旛沼や土手の長手をあかず飲み行く
印旛沼津々の荻原風ふけば見ゆるかぎりが皆そよぐなり
枯葦にとまるすなはち揺れ揺れてよしきりが鳴けり若葦の原に
この友と酒をふふめばねもごろに見つつよかりしあの頃おもほゆ
事繁み常し離ればまれまれものどにはあはず君とのまずも
酒飲みてまことよろしといふひととまことよろしくのむがうれしさ
菱の花菱の実となるあはれさも早やただよへり舟にて見れば
朝刈の戻りなるらし草負ひて渡し舟待つ姉と弟
南風よし葦と水田の中道は葭切も鳴けば蛙も鳴くもよ
ねもごろの印旛びとかも白の馬木につなぐとし一まはりすも
白馬つなぐ君がお庭の陽の影は百日紅の老木の若葉
昼ながらこの幽けさは印旛沼の湛への澄みの響かふならむ
一つゐる葭切のこゑはすがすがし広間徹りて家裏に響けり
しみじみと酒を控へて涼しきはこの大き家の葦原の映
大き家の外の日の照りあはれなり鶏遊べり小さくうごきて
印旛沼の出水ふせぐと臨終まで畏みし人のよかりける酒 庄亮氏の祖父君のこと
印旛沼の出津の若葦さやさやに響つたへて為すありにけり 庄亮氏に
蓮うゑて楽しまむよとほのぼのと酒のみていふ言のよろしさ
印旛沼の大きたたへとさながらに常を湛へつ上おほらかに
やさし妻ころも更へつつすがすがと笑ます君かも髪に手をあてて
あさみどり葦間の小田の下萌に蛙鳴きたつ霧雨の前
時ぐもり印旛落しを榜ぎ出でて幾時ならぬに明るさざなみ
時ぐもり下の水路の日たむろの楊の揺れもすぐかげるなり
ついそこの枯葦束の裏に来て日和よろしく葭切鳴くも
ふと見てし水のほとりの湿り花なでしこは紅し見つつ榜ぎゐる
印旛沼狭き水曲の水の手の若葦の伸びの丈のさやけさ
印旛沼の堤の楊老いにけり上げつぱなしの四つ手網の上
夏ごとに出水に水漬く河楊の絮白うして老いにけるかも
とのぐもり老木の楊影落す水面明りを飛べる絮あり
ねもごろに老木の楊絮つけておのづから離し立ちの閑けさ
楊より楊の絮が離れてをり穏かならし今日の曇りも
風たちぬ沼の隈回の日たむろは楊の絮の飛びよきところ
元棹に早や結ひつけて張る網の縁水漬きゆく河楊のかげ
垂りふかき河楊の根のそよそよ風鯉捕る網はすばしこく張る
鯉ひそむ河楊の根の底明りがぼがぼと棹に掻きみだしたれ
鯉ひそむ張りのしまりを引き引きて網たぐる手に水はねあがる
印旛沼の金鱗の鯉みじろがず夕風の網に捕られたりけり
早やゆふべ水滴り落つる網の目に赤き蟹が一つひつかかりてゐる
印旛びと鯉網は張れ鯉の巣に日にし重ねず畏み帰る
莎草の原昼もかなしと母が目を離れつつこもる夏ぞ来向ふ
朝草は朝に刈り干し夕草は夕べに刈り入すべな会ひけり
出津の夏いよよ深むか荻の葉の荻臭くしてすべし知らぬを
浅宵のかやつり草に似て大き莎草ちふ草を藉きて寝るなり
荻がくり莎草も莟めど大き手の男どち来て酒を惜しめり
ほのぼのと莎草の花さく荻むらは残暑の照りに後刈りぬべし
早や涼し葦原行けばしら玉の露上りをり秀にも縁にも
友が家は小米ざくらのこぼれ花けふあはれなり仔馬跳ねゐて
この出津の葦谷の照りにゐる馬は涼しかるらむ子を遊ばせて
仔の馬も前の荻生の日の照りに涼かぜ食ふと出て馴れにけり
此方向く仔馬は愛し母馬の莎草食む傍ゆ眼をあげてゐて
春生れし仔馬はいまだ乳のみて遊ぶのみなり蛍草の花
仔の馬の露けきまみに飛ぶ蟆子のまつはりしげし夕づきにけり
若荻原夕風吹けばあはれなり仔馬はかへる母に添ひつつ
馬柵越しに小米ざくらの花見て居る仔馬の頤に薄き髭あり
葦むらに舟とめて久し湿り風ソフトにも感じ水透かしをる
水の上の影はすべなし菅は菅葦は葦としさやにかがよふ
すべはなし水面に映る葦茎の太きは太き細きは細き
かの水の明るき面にふと映る葉の影は抽けて揺れし菰の葉
明らかに水漬く根方の葦茎は突き入るごとし影に折れつつ
葦茎のうぶの柔毛のいみじさよ水づくその毛はつけぬ白玉
陽の映えてまたあかあかとすべなきは穂のちぎれたるばんばらの葦
印旛沼の水照りのかすみ夕まけて湿らむとすらし鳰の鳴き出でぬ
印旛沼日の舂けば鳰のこゑこちごちに明る遠の靄より
水鳥の鳰の浮巣のさだめなさ水量まされば辺にと浮きつつ
夕沼のこちごちに浮く鳰の子は一羽は浮かず連れつつぞ鳴く
津の間の広き水路にぽつぽつと出て見て消ゆる暮の鳰なれ
榜ぎかへる舟のあとべに浮く鳰の尻ごゑは長く水にひびけり
ほのぼのと鳰の浮巣も湿るらむついたちの月の入るさの闇は
印旛沼の金鱗の鯉みじろがず諦め果てし姿思ひ食ふ
昼捕りし鯉の洗ひの水紅は大蒜磨りて浅夜食ぶべし
印旛沼の真夜のあやしき小つぶ雨鯉鮒どもが光りつつあらむ
印旛びと印旛囃子を葦原やよしきりが族にいにしへ習ひし
印旛びと津々の葦間にたむろしてこぞり葦刈り囃す歌これ
産土の印旛の歌よおのづから荻吹く風のさやぎしこもれり
大沼のここの印旛の葦の芽のさやさやし囃子ききにけるかも
常生くと朝魚夕菜に印旛びと今も暇なく網と鎌もち
筑波根に朝ゐ夕ゐる旗雲の豊の紅見て出ては刈るらむ
背は魚をとり妹は荻刈りよろしかもなしのさながら今も為しけり
いにしへの印旛の神が為し会の蘆谷のこもり今も為るかも
よく遊ぶ印旛びとかも鉦うちて遊ぶみぎりは恍れし顔せり
寒の鯉水にしめつつかつぐ子も夏は浅夜の鉦たたきけり
農人たちの群の中から、紅い手拭の頬かぶりにひよつとこ面、派手な友禅模様の短い衣裳をつけて踊り出したものがある。里神楽の囃子が起つた。
畚に盛り山をかつぐといにしへは笑ひぞめきぬ神楽囃子に
里神楽笑らぎ浮かるとよく跳ぬる毛脛の本を見らく愛しも
こを見よ笑へ笑へとをどりをり笑へざりけりひたぶるなるは
おもしろくなつて、今度はこちらも飛び出した。なかなかうまいをどりである。
踊るとて早もうれしくなりにけり頤に吾が結ふ手拭の紅
くれなゐの里の手ぬぐひうれしくて頬にかぶるきはよ何も思はず
面つけて豆の二つの眼の孔ゆ細く透かせば人小さくゐる
こはわるしかはつたなしと常云ふは遊ぶ心を常もたぬらし 尾山に戯れて 二首
酒のみて恍れて遊ぶを酒のまず恍れず遊ばぬ蒼き顔せり
このをどる面のうらべよ痕つけて涙しじなり誰ししらずも
ようをどるおのれ愛しも笛つづみあやに囃せばいよいよ愛しも
麦搗踊がまた始まつた。千樫君と私とが飛び入りにまた踊り出した。
世の中は常しさびしよ麦ほこり浅夜立てつつ搗きてめぐらむ
すべもなく常なかる世に鉦つづみ振りて鳴らして遊ぶ子らはも
おもしろと手うちはやしてはや立ちていつかをどるとをどりゐにけり
おもしろの印旛びとかも夜をこめて教へたぶなり麦を搗く型
杵はかく持て麦はかく搗け然見せつえやとをどりつ連れてつきつつ
やと下ろす杵の手ぶりのおもしろさえやととめぐる麦搗きをどり
麦を搗くをどりをかしとおもしろと手振りをどれど足取はまだ
えやおもしろそやおもしろとをどりをりこれの浅夜の麦搗きのとも
麦搗くと搗きてをどりてすべなけどをどりあかさむ鶏の啼くまで
杵とりて麦は搗かねど麦搗くとつれてをどれば香に酔ひにけり
なみなみと酒は注がしめややさめぬをどりをどりて吾は草臥れぬ
これの輪の小夜のをどりの身につきていよよよろしくなりてくるかも
ほのぼのと歌ひをさめてをどりの輪あはれとめたり鶏の啼くとき
踊りはてて残り酒すふ口あたり末苦うして臍辺寒しも
寝かされてふすまかぶりて夜のほどろ手だしをどらせ叱られてゐる
踊はててさがる厨に里びとがいただく酒はまたうまからむ
この里の麦搗きをどり夜の明けは早や憂かりけりよしきり鳴きゐる
あなかしこ童ごころもつゆなくて童さびしつ許されぬかも
大正十二年四月、妻子を伴ひ、信濃小県郡の大屋に義弟山本鼎の経営に成る農民美術研究所に臨む。旁々七久里の別所、或は追分沓掛等に淹留、碓氷を越えて下る。
別所より追分へ、追分より沓掛へ、その落葉松林より落葉松林の中へ、淹留すること半月。
浅間嶺の麓高原から松の林は黒し春来ともなし
うち霧らし浅間はわかず雨雲の弥しき垂るるすぐろ落葉松
小諸過ぎ御代田に来ればすぐと黒きから松の原が遥につづけり
夕せまる落葉松山にすぐろ木の高木は寒し目に久に在り
落葉松の渓間の窪は刈株の白う褪せたる乾田の菱畦
春浅き落葉松渓の線路ぎは哩標の白き杭がまた在り
霧雨の田中に囲ふ菰櫓いまだも寒し氷採りつつ
から松の夕深渓の渓かけて汽車うねり出づる白き湯けぶり
渓かけてうねりふくらむ汽車の腹のぞきゐる頬に煤吹きあがる
末黒の落葉松材の夕渓のなだり伐り下ろしほうり出し積む
夕かげの線路のさきに丸太木積み仮駅ならしややに明り来
から松の渓間の駅に今日から停まり汽鑵鳴らす汽車よここは追分
この渓に汽車見に来り夕遊ぶ子等が騒ぎも雨ならむとす
から松の渓間のぼると子を連れてから松の原をかへり見つ我は
この山は落葉松つづきから松に白かんばまじり霧小雨あり
夕せまる落葉松原のこぬか雨傘さして妻に子を負はせをる
から松は繁みすぐろしすぐろけど早や春来らし芽立湿れり
霧雨の落葉松原の白かんばまだすがれつつ白う光れる
から松の林の道はから松積み二輪馬車がとほるそれだけの道
新芽張るから松苗はいち早し春雨とめて千露むすべり
この雨や芽立の萌黄かをすかにから松の原を行けば湿り来
から松の芽立の林見にと来しまだすぐろ木の雨にぬれつつ
白樺は幹は白けどほそり木のこずゑの紅に雨も保てり
夕明るこの雨あとを出て見るとから松の靄に向ひて歩めり
このゆふべ傘たたみもちて見てゆくは雨あとの橋のてすりの光
雨とめてゆふべあかるき浅芝のへりかぢりゆく曳かれ山羊はも
たれこめてきけるかはづをゆふべ出てこゑの明るくきくがうれしさ
この門の夕明るみはから松の垣根ならしとほめて見にけり
落葉松原茜さしそふ雨靄の和ぎしめらへり出でてながめむ
雨の玉とめてあかるき真木の枝に紫あさく春は来向ふ
田の芝にぬか雨むすぶ蜘蛛の糸のかがよふ見れば春は来にけり
春あさきこの溜池の芽生藻に鯉の卵はととのはずまだ
芹青む小田の田べりのちよろろ水けさ見に来れば畦を越えつつ
この背戸は桑の根さむし姫笹の枯れし艶のみ雨に明れり
追分の小田の窪田の初蛙こゑのをさなにふふみそめつつ
この雨にをさなかはづも鳴きつぐとこゑととのひぬ二日三日して
今朝の田に雨よぶかはづをさなけどころろと鳴けば春田めかしも
雨しげし下田の根芹つみに出て濡れゐる媼かあの頬かむり
畑つものいまだ乏しか炬燵して芹のひたしを今朝もすすめぬ
あぶらうく鯉の味噌汁味噌くさし芹を醤油にひたし食べたり
靄しげき山の田見れば小舟ゆく潮来の沼の沖田おもほゆ
山かげの田を鋤く人は馬持たず高き犁もてのびあがり鋤く
家裏の一木から松ふる雨のぬか雨ながらしとど霧へり
雨の間は急き鳴く蛙しきりなり早や夕づきし障子にひびけり
雨なりしきのふをあれの八ヶ嶽雪つもりけらし今朝白う見ゆ
追分は脇本陣のむら青の蛇腹の獅子の眼眸も老いたり
軒並は旅籠の名のみゆゆしくてこの追分の宿も荒れたり
夕光にがた馬車駆るはあはただし小林区署の人にあらずか
春だ春だ木小屋の羽目にぶらついてゐる山火事警戒の赤いポスタア
春の日も古き駅の山羊の子は鈴ももたずて夕帰るなり
から松の夕かげおよぶ破れびさし石ここだのせていまだしめれり
浅間嶺の野分おそると屋根低く葺き竝べけむから松の原に
屋根低く窻ひとつなき側面に夕日いつぱいにあたる冬なり
仮宿を落葉松原にはいり来て落葉松つづき御代田へぞゆく
桑の根に枯れて光らぬ薄の穂根刈りすべくは春雨ののち
追分は夕光の間を戸を閉して本陣のまへに寝る犬が露は
あきらかに春とし思へど夕照のから松の梢が黒くそよげり
二十三日、山本夫妻、沓掛よりガタ馬車に揺られて来る。夕刻、うちつれて追分の岐れ道を見、惆悵として帰る。
馬子ぶしの古き追分夕陽さしぺんぺん草の二三本の花
追分の辻の浅芝斑萌えて伸びしはしより山羊に食まれつ
追分の辻に出て見て簡素なり馬頭観音の四月の夕陽
馬頭観世音の裏の夕陽に出でてゐて二人三人さびし鴉見やりつ
うつせみの仮宿過ぎて追分の道の二手になるがはかなさ
春浅き大名行列ここ過ぎて江戸は近しといそぎけらしも
この松は松笠多し枯なむと夕陽あかきに歩みとどめつ
信州小県郡別所温泉(古名七久里の湯)北向観世音の絵馬を観て詠める歌七十五首。絵馬には独立ちの馬を画けるもの、或は二頭立ちのものあれども、その中に特に異彩を放てるは大額一面に数百となき放牧の馬を画けるものならん。その全額面は、ただ僅かに地平に青空を残すのみにて、凡ては群馬を以て満さる。芸術品としてはさしたるものにあらざるべきもまことに信濃の風土色を現はしておもしろし。これらの歌は主として大額の絵馬の記憶について歌へり。但し、表現の上に於て、その全体の或は個々の神を伝へんとするに必ずしもその形態の写生に執せず。半ば以上は予が平生の「馬」そのものに於ける観照と、連想の自由にまかせたり。故にこれらは精神に於て新に予自身の絵馬として創作されたりと為す方当れり。ただかの絵馬は予に此の機会を些か暗示したるに過ぎず。
観音の春ののどかに詣でゐて我愁ふなしまかせまつりつ
我がこころ今は寛けしかもかくも春ののどかに遊び足りつつ
旅に来て今はた安しむらぎもの心放ちて遊びてをれば
この旅は妻と子を率ついとまなき旅ならずけり遊ぶとて来つ
旅ごころ今日うら安し子を抱きて絵馬のかずかず眺めまはりつ
七久里のこの観音の絵馬堂に献ぐる絵馬はみな牧の馬
青雲のそぎへのかぎり遊べよと絵馬師心あれや馬放ち遊ぶ
信濃の山の真洞に晴れて放ち心ゆく筆や馬描き満たす
馬は描け轡手綱のいましめは描かず放ちぬよき絵馬師かも
野に遊ぶ馬は描きつつ自が遊ぶ絵馬師が心しぬび泣きたり
群なす馬描き放つ勢ひさもあらばあれ幽けき馬は堪へて描きけむ
馬の顔馬の顔してゐたりけれ萱やすすきを吹く風の中
ねんねんに絵馬師が描ける愛し馬一つとしておなじ顔は無しもよ
奉納の絵馬の青駒よき馬によき名しるせり佐久の馬主
佐久びとはゆたかなるかも自が馬に自が氏名しるし絵馬奉る
ひたむきの馬ぬしかもや観音と云へば馬頭観音のほか御名しらぬなり
馬市にむらがる馬は数しあらめ自が馬よしと牽きむけ我背
雲のごと市にむらがるいななきは北佐久の馬小県の馬
野に放ち肥せし馬ぞこれ見よと汝兄が青駒ほこらくは今ぞ
野をうづみ馬のかぎりが遊ぶ絵馬眺めあかずよ子にも見せつつ
牧の野に馬のかぎりが食み足りて遊べる絵馬を見るがゆたけさ
この絵馬の馬のかぎりが食み足りて遊べる牧は北佐久の牧
みすずかる信濃の駒は鈴蘭の花さく牧に放たれにけり
青雲にきほひいななき牧の馬の応へとよもす秋は今来ぬ
信濃の山の真洞に解き放たれいななく馬は秋風の馬
青馬むるる牧のはたての秋山は金泥の霧にへだたりにけり
空ぎはに離りて遊ぶ白き尾のかすけき馬は雲にとどけり
息長の野分の息吹遠空に兆せども明しこの牧はまだ
野分来るや馬城の茅萱吹きなびけ風並しるし吹きちかづきぬ
胸高に風にいななく牧の馬やいとど白きは遠駆ける馬
薄吹く風にいななく青駒は力の張りや外に急燥るらし
前掻き掻きはやり堪へゐる赤駒の尻尾の垂りに力こもれり
跳ね立ちて今飛ばむずる雄の馬の後脚の据わりゆゆしかるかも
をどり立ち猛りおどろく赤駒のたてがみの振りに野分来れり
驚破と振る駒が尻尾の一と跳を描きとめて荒しこれの一筆
牧馬のきほへる中にゆゆしきは脚そろへ立つ大黒の馬
黒駒はゆゆしかしこし北佐久や野分しき吹けさゆるぎもせず
連銭の葦毛がむるるひとたむろ白虹させり犬蓼の花
寂しくもつくばふ馬かたまたまは首向けて見居りおのが尾の振り
この牧の深風凪に息澄みて前脚折る馬は大鹿毛の駒
日のさかり坐りゆたけき大鹿毛のねむりは深し萱むらのまへ
身もたまもをどりゆるがせ仔の馬の遊べる見れば心ゆらぐを
蹴り蹴合ふ仔馬は愛し逃ぐるとし黄の月見草かろく飛び越す
秋風の黒の母駒仔を守ると目もはなたねば痩せにけるかも
母馬は仔にはやさしけ仇ふせぐ構への張りは隙見せずけり
母が目を離れつつ遠し仔の馬は薄のあかき穂にかくれけり
風光る川はわたらず鹿毛の仔の小さきは戻る水のそばより
水のむと夕うなかぶし鹿毛の駒まだあはれなり眼をひらきつつ
まさびしく嚏る馬はたがらしの花にか触れし首はうづめぬ
風向ふ群の葦毛のたてがみはそろひて黒し揺れなびきつつ
青の瀬にをどり越ゆとし青の瀬に鹿毛の若駒いななきにけり
揺りおよぐ鹿毛の尻毛の垂り重くたぷたぷと沈み白き渦波
垂り重く尻尾沈めて青の瀬に前掻く馬は月じろの馬
前脚かけて岸にをどると急く駒の尻毛がさばく渦の水玉
たじたじと後退りつつこの馬や尾の根据ゑたり光る風の下
ものの蔓引きさぐる馬の長ら顔ゆふべはあかし陽に照られをる
朴の辺に日かげ求めつつ目のうすき月毛は疎し老いにけるかも
駈け駒はうしろ振り向くたまゆらも尻毛平になびかせにけり
駈け駒は四つの膝瘤力こもり蹄の裏し空向けつ皆
駈け駒は勢ひ空飛べ閑かなる駈けのとまりはひたと停りぬ
目も遥に野分吹きしくすすき原見わたして小さし丘に立つ馬
近き馬は太くゆたけく遠き馬は小さく描きたり幽かなる群
誰知らぬ深萱むらにかくれゐる鈍黒の馬も或はあるべし
薄より赤き顔だけ突きいだし馬あはれなり秋風ぞ吹く
この馬は吹きぬき風に草食みて耳ひとつだに動かさずあり
汗あゆる鹿毛の平頸浅間嶺の山肌のごとき光沢にあり
荻すすき馬は馬づれこもらへば馬くさくして寄りがたからむ
空見ると老馬のまなこ大きけどしばしば閉ぢて目やにたまれり
水のむと白と黒とがうなかぶし白かがやけりこなたべの馬
すがし眼を夕近づけて対ひ合ふ黒馬と黒馬とに月明りあり
絵馬ながら馬はさびしよ白は白黒は黒とし遊ぶほか無き
風の萱行き遇ひ馬のたてがみは逆さなびけり驚きにけり
春駒や背に結ふ手綱ゆたゆたに垂りてたるめり奉納の絵馬
おほどかに額いつぱいにゑがかれて群青剥げし独立ちの馬
観音のこの大前に奉る絵馬は信濃の春風の駒
子よ吾子よ馬はもたずも赤駒の木馬や買はむ大き揺り馬
四月中旬、妻子を率て、信州別所温泉、古名七久里の湯に遊ぶ。滞在数日。宿所たる柏屋本店は北向観音堂に隣接す。楼上より築地見え、境内見ゆ。遠くまた一望の平野みゆ。幽寂にしてよし。
湯どころの春のねざめのおもしろさ鐘と太鼓の互み鳴りつつ
観音の太鼓とどろく夜のほどろ下田はるかに啼く蛙あり
観音の春はあけぼの紫の甍の反りの隅ずみの鐸
遠べにも観音さまの反り甍早う眺めて起きる子もあらむ
父恋し母恋してふ子の雉子は赤と青もて染められにけり
別所に男神女神の両嶽あり。その御手洗の末合して相染川となる。
八重雲の豊の紅雲このあした女男の神嶽巻き立ちあがる
雲分きて男神は明くれほのぼのと女神はいまだ紅にこもれり
御手洗や相染川の両岸に対ひて明る連翹の花
ほのぼのと相染川の水越えて連翹の花に遊ぶ風あり
溝鼠ほのぼの籠めて霧ふかき黄の連翹の夜も明けむとす
起きぬけに新湯にひたり恙なし両手張りのべ息深うをり
ほのかをる硫黄のこもりよろしよと今朝安らなり湯にこもりつつ
ふくらかに空気こもらふ白タオル固うむすびて湯をよろこべり
浴泉のこの安けさに射しこもる朝かげ紅し顔を洗ひつ
ごむの毬湯には浮かしてあそぶ子とあかき日光をよろこびにけり
をさなかるいのちゆるがせ遊ぶ子の蹠見れば愛し紅せり
つくづくと身をいとほしむもとごころ湯にひたりつつ繁にゆすり来
観音の金鼓ひびけり湯に居りてのどかよと思ふ耳あらひつつ
鰐口の音ゆらぐもよ子を連れて或は妻か詣でたらしも
観音の金鼓揺りつつ子にとらす黄と赤の緒のねぢり緒のたま
観音の平鐘の緒長くこきたれしながき春日も暮れはてにけり
春昼、宿の若主人の案内にて散策す。同君はカメラ党なり。
護摩たくと築地の照りに映り来る人かげ見れば日も闌けたらむ
七久里のみ湯の湯川は橋竝に蒲団干したり春の日をよみ
裏透きて家内あをきはかへるでの陽の映りらし燕ゐるこゑ
早鐘うちすぐうちやめぬ春もやや山火事うとくなりにたるらし
日のあたる築地のもとに絮ふかき御形が咲きてうれしき御寺
萱ふかき御堂は框光らずて障子いつぱいの閑けき光
おとなひて待つ間は久し檐板の影は砌の外に移りぬ
寺庭の春の日向の閑けさよ山杉の風まれに音して
寺の子は日蔭の砌つたひ飛び素足さみしか眩し目をせり
吾が寺は豊かなるかも春かけて山松の風さはに音しつ
朝にけに芽独活かなしと盛高にかけつる土を今日は掻き掘る
山びとは春もふけぬと棚畑の芽独活かきほりのどにかがめる
独活の芽のかなしき紅がふふみたるこまごまし土はいまだ払はず
いや遠き昼の山火はのどのどと見もかすむらし芽独活ほりつつ
山畑にあれの独活ほるうしろでは君がカメラに撮るべかりけり
独活畑に莨吸ひをるあのすがた春はのどかによう撮しませ
薄束たかだかと積む御堂横日はあたりつついささか寒し
木蘭は寺の日向にあかるくて木ぶりかそけき紫のはな
木蘭の花のかたちは帰依びとが掌をあはせつつかそけきがごと
蔕ばかり枝にはつけて日のあたる豆柿ならしここだくの蔕
干葡萄酢にひたしつつこはよしと仰向きて食めば人が撮しつ
野の宮の二つ幟がこもごもに照りつかげりつ春はのどかさ
柴木たく野山ならしとながめゐて煙しき湧けばのどならぬかも
向畑に榛の花かと見ゆる房ほたほたと赤し出でて見んとす
高畑の柿の老木の下通さくらはあかくふふみそめにし
観音の矢場の日永にきそふ矢の的矢はおほく当らざりけり
路に西行の戻り橋あり。往昔、西行上人此地を過ぎ、畑の麦を見、村童を顧みて何の草ぞと戯れたまひしに、童すなはち冬茎立の夏枯草とし答へたりければ、何思ひたまひけむ、そのまま元来し道に歩み返したまひにけり。その名ここより出づと云ふ。
夏は枯れ冬は茎立つ草の穂のいまだは伸びね逢はむ子もがも
夕明る橋の上来つつ女童や甘菜吸ひほけ円き眼をせり
春は早や維茂塚の草塚のふくらにあをし萌えそめにけり
道を出てやや歩ますと子が手とり夕うらさびし旅に来てゐる
ほれほれ馬が来るぞと片避けて子とかがみをりそのとほる間を
蕗茎の七久里漬を売る子ろに声かけてとほる馬子の足どり
往還の積木に下ろす子の重さ腰かけてわれも遠田見てゐつ
春山の下田の畔に来る鳶はおどろきやすし翼伸し立つ
観音の甍ながめて帰るころ早や夕明る田螺がころころ
葱坊主夕づく遅し晴衣着て戻れる子等はいまだ外にあり
別所の裏山づたひに半里余をのぼれば氷沢にいたる。山高く、夏は三伏の盛夏と雖も氷雪ありと云ふ。ここに風穴を穿ち、蚕卵紙を貯蔵す。予がのぼりし陽春の候にも冷風絶えず。風穴の氷柱また深く、山椒の魚生れ、名知らぬ高山植物の花むれ咲きたり。この行、妻と伴なり。なほ湯川は一名相染川と称す。この温泉町を貫通する小流なり。石湯はその名の湯なり。岩石の湯床を以て名あり。
七久里や石湯へかよふ仮橋のかかりの上のしだり山吹
七久里のにほふ湯川は山吹の一重の花ににぎはひにけり
この道はよろし山道吾が好きな山吹咲きてよろし山道
山ゆけば蕗畑多し蕗の葉の畑にあまるは路へ萌え出ぬ
七久里は蕗の名どころ窪畑の蕗のかぎりが薹に立ちつつ
出はづれて山路へかかる日おもての棚畑の蕗は大き葉の蕗
猫やなぎ咲きほほけたる山路につき自由画持ちてとよみゆく子等
学童らクレオンで写生してゐしが雲浅き山へいつか消えたり
山畑にいくつ燃す火のすゑなびきこもごも白し春たけにつつ
山畑や赤き埃火の風脇にかがめる人ものどにかすみつ
雲あかる山の真洞に啼くこゑは丹の頬の子雉子早や巣立つらし
雉子啼く蔭山なだりこもごもに茅萱萌えたり丹つつじはまだ
山の井にさびしく髪はかいなでて子を思ふ妻か今はいそがな
山の井の下井にひたす早蕨は根にそろへたり笊を吊るして
早蕨の柔毛の渦の渦巻は萌えづるただち巻きにけらしも
浅芝や雪解のにじみ道越えてまだひえびえしはだら光れり
ひようとして寒き風来る山はなに上衣いそぎ着けぬ氷沢かも
苔水に山椒の魚はうまれゐてまだこまごまし日光いとへり
山椒の魚いまだちひさし追ひつめて杉の落葉のあかき掬ひぬ
岩清水堰き層みたる杉の葉の下べ紅せり水漬かぬはまだ
高山やここには白きすがし花雪間の枯れに群れてふふめり
岩が根の斑雪ににほふ紫は名しらぬ花の数群るるなり
雪のべににほひはふふむ群花の春のいとなみ深からむとす
むら燃えの朱の櫨子を見て過ぐと下りは急きぬ小石蹴りつつ
山里は桑の葉肥ゆる陽の青を遥けく春や残すならしも
雪かよふ山の榛生に晴衣着て遊べる子ろがひとり笑へる
花盛る山の榛生の裏かけてしきり飛び啼くは四十雀らし
声はすれ向ふ岨ゆく子等がかげ山松が間をまだ出はづれず
大正十二年四月、信州小県郡の大屋村に農民美術研究所が開かれた。
鐘が鳴る丘の研究所の鐘が鳴る雪が消えたよ春が来たよと鐘が鳴る鳴る
もうすぐだ農民美術の展覧会だ信濃の春も目に見えて来た
これからまた春蚕の支度だ桑つみだ研究所は閉鎖だちよとお別れだ
シルクハットの県知事さんが出て見てる天幕の外の遠いアルプス
うちの子があかい林檎をにぎつてゐるシルクハット抱いたほら笑つてる
あの光るのは千曲川ですと指さした山高帽の野菜くさい手
輝く果実とその影とだ盛つたばかりだ楊の籠には竹のナイフだ
いま注いだ麦酒のコップと瓶の黒とにはたはたとあふる天幕の反射
簡単に穂麦を染めた白い裂布折目ついてゐる夏だ光だ
風だ四月のいい光線だ新鮮な林檎だ旅だ信濃だ
いい言葉だまつたく素朴な雄弁だ村長さんだなと林檎むいてる
さあプロジットだ地面いつぱいに敷きつめた大鋸屑を飛ばす早春の風
おれがほんとにうれしいことはそつと云はうか兄さんとここで見られてる事
固い胡桃だとぴしりぴしり押しつぶしてるとなりの未醒が大きな両掌
食べさしの林檎とバナナを包んでゐる折目のついたハンケチの白光
木の鉢に赤い漆でぽたりぽたりとなすりつけてある赤楊の花だ
もう春だな赤い漆をたらたら滴らせ掻きまぜてまた篦をあげてる
麦の穂をすうつと緑で描いてあるなんと素朴な生地の木の鉢
ざつとただ塗つたばかりだニス塗りの荒くゑぐつた栂材の鉢
朱に金で落花生の花を描いてあるこれは露西亜塗だ百姓の鉢
ふかしたての赤馬鈴薯をこてこて盛つて食べろと出した木彫科の鉢
荒くゑぐつたこの木の鉢の鑿目にも春が来ました輝く春が
浅い春です白樺の皮を剥いで張るシガレット挿しの円い筒です
木を挽き切りぱんと二つにぶち割つた巻煙草入れの函と蓋です
荒彫の小さい書架です菓子のやうな赤い詩集を載せて冬です
臼見たいなこの椅子を見ろゑぐつた木の根つこだ林檎畑の昼めしの椅子だ
見ろまるでゴッホの画室だ椅子だ椅子だこのゆがゆがの栗の木の脚
木の皿に一つごろりと描いてある紫の芽の出かかつた馬鈴薯
青木の春だな花托の白地にころがした赤と青とのぽつとりした団
栗の木の花が咲きます農民美術の木彫のナイフが日に光ります
荒彫のでろの葉かげの白い家田には女が犁いてる春だ
おおこれは両手をあげてる天を見てる木彫の百姓だおつたまげてる
冬の日の炉ばたで彫つたか豆人形胡桃かなにか割つて食べてる
寒い寒い信濃の冬の豆人形みんな頭から裂布かぶつてる
赤に黄の風呂敷かぶつて葱をかかへてまだ娘だろかたい雪道
北国のしやくんだ固い泣きつ面これは彫つてるぽつり立つた子
髪を洗ふ人形は春を待つてゐる首の根つこで手を合してる
矢車の実で赤う染めたと笑つてゐた山のお百姓さんの壁掛の鹿
何もかも畑や丘から写して来たわしが図案だそのまま染めろ
どの村も桐の原つぱどの桐にも蝉がしいつく鳴いて朝です
雀の声だな雀の宮といふ駅だなやはり旅だなまた発車だな
旅さきで講演をして暑い日だのうぜんかづらが咲いて市街だ
暑さうにシルクハットがたかつてゐる立秋の駅のつばくらのこゑ
西那須野だれも汽車から眺めてる夕顔の花の昼の強い陽
秋が来て夏が去にますまつしろなかんぺうを干した那須の野つ原
西那須の青い曠野のあら草は風にまくれてきつい残暑だ
馬がゐて草も刈らいで放つたらかしだここの那須野の乳いろの花
何の穂かよく実がついた草土手の反射に沿つて汽車の午後です
宮さまのお通りを待つ沿道の薄あかい花はみんな煙草だ
行啓のまへ消防隊の朱の筋が並んで見てるたんばこの花
教科書の画だ煙草ばたけのあちこちの低い藁家の日の丸の旗
唐黍の金髪が早やふさふさと秋風に揺れる前に並ぶ子
西那須野行啓のまへのしんとした農園の白いいつぽんの道
朱の枠の幌馬車のかげが遠くに見えたんばこの花の秋の日ざしだ
どの馬の白い日覆も反射してちりからと来る渓の残暑だ
へそ茱萸は誰も採らぬか渓岨にかがやき垂れてしろい埃だ
この道はまつしろな道葛の花の紫の穂もとても埃だ
渓崖のひでりつづきに褪せかけた葛の花ですこの紫は
朴の葉の一枚の面の大きさよそれを何かが歯でかぢつてる
ちやうどかうした山擬宝珠の花だつたよいつだつたか二つ蕾んで一つ咲いてた
黙つてろと親友の子の肩を押へた朴の木にほら瑠璃鳥が啼いてる
塩原の塩の湯、対岸の岩壁の下、渓流のへりに湯の湧くところがある。湯は水に交り、水は湯に温まつてゐる。ここに常にひたるのである。この渓の湯は高い楼上より俯瞰する時にいよいよ仙家のものとなる。
渓の湯に裸の男女がつかつてゐて一面に射す青い葉洩日
渓の湯だみんなはだかだ男もをんなも円光が発つて夏だまつたく
渓に見れば人間も自然のよい一部だ日がかがやいて波が揺れてる
あの渓に男と女がゐるそれだけでも夏は素朴な光に燃える
子が手を曳き浅瀬をわたる裸婦ひとり青く明るい陽と漣だ
渓の湯に髪洗つてゐる裸婦がある薔薇いろの手だ群青だ水は
夏だ夏男は立つてすつ裸だ渓流の水で背をこすつてる
裸婦ばかり渓の湯に寝て笑つてる天に小さな日が廻つてる
まるで鍵陀羅の浴泉の図だあの渓の湯に朱の煩悩が照り動いてる
今はもう子どもばかりだ渓の湯が金色に揺れて空が焼けてる
甘露木のほのかな花に陽がさして湯にはをとめのうすべにの肌
渓がはの岩のぬめりを越す水に小さい素足がまるで魚だ
渓の湯をながめ見ほれてをさない眼だときをりは乳に水かけてをる
渓水にあのほのあかい乳のいぼいまはひたしてほほと笑んでる
うすべにのほのかな少女ほそぼそとなにか歌つてる腰に手をあてて
ほうこれは牛蒡の花だな湯の樋の湯気がふつかけ濃いむらさきだ
二本の穂の穂草にとまる二羽のてふ揺れてゐる間に見て下つてる
山の田の糯米の穂は霧雨の今の小雨の露つけてをる
首のべて母と仔とゐる馬小屋に刈りためた草は二番刈りの草
仔の馬が口で選つてるぼんぼんはまぐさの中のわれもかうの花
われもかうだ見ろ一茎ごとに海老いろの珠がついてるああ秋だ秋だ
母馬はうしろ向いてる仔の馬は馬柵で見てゐる孔雀草の花
不二大観
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小序
大正十三年正月五日、智学田中先生の懇招に応じて、伊豆修善寺を発して三保の最勝閣に赴く。この行父母を奉じ、妻子と伴なり。淹留五日、或は晴れ、或は雨。而も不二の観望第一なる有徳の間の朝夕は我をして感懐禁ぜざらしむ。羽衣の松竜華寺の探勝ともにまた清閑極りなし。乃ち成るところの長歌一首ならびに短歌百七十二首を献げて些か先生の慈情に酬いむとす。記して小序となす。
天つ辺にただに凌げば不二が嶺のいただき白う冴えにけるかも
不二ヶ嶺は七面も八峰もつむ雪の襞ふかぶかし眩ゆき白光
天ゆけば薄ら映ろふ雲のかげ不二のおもての尾の上にし見ゆ
雪しろき不二のなだりのひとところげそりと崩えて紫深し
雪しろくいとど晴れたれ御殿場の真上の不二は低く厚く見ゆ
鈴川の不二の眺めぞおもしろき寒き刈田ゆ絵凧あげたる
天そそり白く清けき不二が嶺はこのかの児すら見も飽かぬらし
常しろき山は不二の嶺あれ見よと為すなき父や子には見せつつ
よく見れば白くさやけき不二の秀のみぎり欠けたり地震の崩えかも
不二ヶ嶺はいただき白く積む雪の雪炎たてり真澄む後空
大船の心たのめて三保が崎君が御殿に参ゐ出来にけり
風吹きてさむきみ冬を御垣下浜防風の茎の真赤き
小松生ふるここの御庭に来寄る藻の汐騒広しにぎはひにけり
めづらかに夕光鎮む不二ヶ嶺のおのづから保つ明日のよき凪
風速の三保の浦廻、貝島のこの高殿は、天なるや不二をふりさけ、清見潟満干の潮に、朝日さし夕日てりそふ。この殿にまうでて見れば、あなかしこ小松叢生ひ、辺にい寄る玉藻いろくづ、たまたまは棹さす小舟、海苔粗朶の間にかくろふ。この殿や国の鎮めと、御仏の法の護りと、言よさし築かしし殿、星月夜夜ぞらのくまも、御庇のいや高だかに、鐸の音のいやさやさやに、いなのめの光ちかしと、横雲のさわたる雲を、ほのぼのと聳えしづもる。しづけくも畏き相、畏くも安けき此の土、この殿の青き甍のあやに清しも。
この殿はうべもかしこししろたへの不二の高嶺をまともにぞ見る
天そそる不二をまともに我が見るとこの高殿に参ゐのぼり見る
ここゆ見る不二のすがたは二方に裾廻ひき張れ清麗けきまでに
天そそりしろく反り立つ不二ヶ嶺の大き裾廻の張りのよろしさ
駿河なる不二の裾廻のおのづから張りつつし及ぶ海の原かも
不二ヶ嶺はいよよ清麗けし群山の高山が遥に天そそり立つ
朝ぼらけ不二の尾の上にのる雲の紫明うなりまさるらし
ほのぼのと不二の裾廻にしらむ燈のつらつら帆船行けりともなし
不二ヶ嶺はこごし裾廻の群山の柴山くらしいまだ夜明けず
ほのぼのと明けゆく不二のいただきは空いろふかし天の戸に見ゆ
空いろの裾濃の不二の立てらくは夜のほのぼののものにぞありける
不二の尾はいまだはねむれ天つ辺の秀の片面よ紅みさしつつ
愛鷹へ尾を曳く不二の片空の樺いろの晴れはいよよ凪ぞも
明る妙たなびく雲の百重にも不二の芝山暁ならんとす
豊かなる不二の茜の秀に燃えてまたく明けたり今日は晴ぞも
朝びらき明けゆく不二の大前に網曳き舟榜ぐ三保の崎はも
笠雲の昨夕見し不二のいちじるく寒けかりしか今朝のましろさ
清見潟満干の潮の煙に立てば柵寒し海苔のしがらみ
朝凍の海苔のしがらみつらつらに見れども飽かず小舟継ぎ来も
朝凪の海苔とり舟はほの寒し棹さし連れぬ二人づつゐて
海苔とるとたづきありけり朝びらき小舟揺りゆく棹手かなしも
海苔とると浜片附きてゆく舟の目馴れし不二は見ずて榜ぐらむ
海苔の田は上潮寒き海朶の間に逆さの不二が白う明り来
春はまだ潮干に見ゆる海苔粗朶の列竝続き寒う霧らへり
この眺め明りて寂びし引き潮の海苔の田遠く清見寺見ゆ
海苔の田は水照凹むか海朶の間にかぎろふ舟の居処わかなく
蜑の子は百の千鳥か頬のかぶりひかり移らひ海朶の間にをる
こもりゐて誰が嚏ぞ海朶の間も海苔の香立ちて寒からしあはれ
河野桐谷君夫妻と令息の宿るところ。六日、散策の後、我らここに小憩す。
大き実の柑子照り満つこの宿は見てあたたかしここにあがらむ
旅に来て去年の今年の肩の凝りおのづゆるびぬくつろぎにけり
不二ヶ嶺の眺めゆたけく煮る酒のあなねもごろや父とよろしき
こぞり来しよしと思ひけりつつがなく遊べる子らを眺めやりつつ
これの子とあの子と遊ぶ日のたむろ柑子も熟れぬ枝にし垂りつつ
童らに照らふ柑子ぞ撓をなるそのこの母はころも干しつつ
閑かなる柑子の熟れや母と子の睦ぶこゑのみ庭にありつつ
藁すだれ掛け干す浦の日たむろは海苔とる蜑がやすらひどころ
干す海苔の簀の辺のなづな伸び過ぎて咲き白らけたり浦の日和に
春は早や三保の砂地の日おもての白豌豆の翼状の花
松の間にここだ榑積む洲の土手は行けどもさびし不二の見えずて
さざら波来寄る浜辺の朝光は松の間あるき明るかりけり
三保の春うつらうつらに榜ぐ舟の榜ぐとは見えね行き進みつつ
不二ヶ嶺にいや重きつもる堅雪のゆふべはあかく天に燃えつつ
押し移り朱く騒立つ風雲の波だち雲は不二を目ざせり
片空に不二は晴れたれ風雲のゆふべはあかく吹き立ちにけり
不二ヶ嶺は見れど見あかね巻雲の夕照早し紅う染みつつ
清見潟夕照ひろし満汐の汐騒のかぎり舟の榜ぎつつ
昼の間を干潟に黒き海苔粗朶のゆふべは繁に汐にひたり来
風前の夕満潮のひとたひら渡船は急けり音に爆ぜつつ
夕明き横狭の入江あはれなり葦村つづき舟混める見ゆ
舟べりに小笊うちたたき蜑が子の海苔洗ふ見れば冬も過ぎたり
不二ヶ嶺はまた雪ならし笠雲の浅夜は白く下りゐ畳めり
天霧らひ不二はかくりぬ三保が崎いたも濡れゆく千本松見ゆ
天霧らしふる雨ながら三保が崎いやしろじろに辺波寄る見ゆ
うち霧らしふりつぐ雨はひまなけど早や春めかし葦辺かすめり
潮ぐもり春の雨間に榜ぐ舟の櫓の音おこりて沖べさす見ゆ
§
砂畑の浅き井のべにふる雨のいろこそ無けれふるが親しさ
足乳根を下心におもへば浜松のさやけき騒ぎ空に起れり
松風のさやけき聴けば生れ来しをさなき我の縁おもほゆ
松風に白き飯食む春さきは浜防風も摘むべかりけり
この浜の梵音声のさみしくて遥けきは空のあなたなりけり
§
日の真昼つくづく守れば不二の嶺の後べの空をこもる雲あり
父母を高く思へば不二の嶺の後べの空のはてなきがごと
これの子をしみみ思へば小松原松の千本の数わかぬごと
ただただに対ひゐてすら母父は見て慰さむか対ひいませり
父は父母は母とて長閑あらし足さすりをらす旅の春日を
酒よしと喜ぶ父の老らくを下心には泣きて清し酒選る
母父に妻がかしづくすがしさを下心にはほめて言に云はなく
日はぬくしほのりほのりとたまたまは出でても見ませ不二を見がてら
母父やたづきなからしをりをりは打ち出歩りかす不二を見がてら
見の飽かず不二を眺めてます母のうしろでゆゑに我は泣かゆも
ましろ髯祖父のみ髯愛しくも手ぐさとる子に垂らしたるはや
吾が父や浜の小浜の行き還り何為さすらむ白き髯見ゆ
海苔粗朶に汐の煙立ちて寒き夜は地酒もがもと父の宣らすに
あかあかと葦火たく屋も小夜更けて汐霧り来らし沖つ千鳥よ
繁にうつ櫓の音凍りて闌くる夜は荒磯の蠣も附きがたからむ
霜の煙の未明はこもる渡し場に子と出て見居り汐の満つるを
子には子の白の毛帽子かぶらせつなにしか清し朝の霧ぞも
この磯の浜防風に置く霜の濃くも薄くも見てを通らむ
ここらにも蠣は附くやと水杙の干潟のしめり母と透かしつ
寂しくも見つつ笑ましも蠣の子は荒磯の蠣の母の根に添ふ
八日、桐谷君(令息同伴)の案内にて一同御穂宮に詣づ。麗明、風無し
三保びとやまだ春寒く簀を干して海苔たたき貼る唾つけつつ
風速の御穂の御宮のきだはしは真砂吹きあげて松葉層めり
風速の三保の浦廻やこの宮にかかげし絵馬は皆船の絵馬
大船の波乗りごころゆたけくと絵馬やささげし三保の浦びと
参道の砂道に根匍ふまばら松照れる春日をほくりほくりゆく
浜宮の御宮の松に掛け干して唐藷がらも長閑に枯れたり
松ぼくりひろふ童が片言のいつ果つるらむ童とし居る
皆行きぬ吾子よいそがむ汝を待つとかの松陰に母の立てるに
松ぼくりしじに蹴あてつ松原や羽衣の松に行くはこの道
まことにも清し松原天馳けて舞ひくだる翼のけはひこそすれ
ひさかたの天つをとめがゆり掛けし羽ごろもの松はこれのこの松
さゐさゐし珍の羽ごろも取りかくし天つをとめが真素肌し見し
さにづらふ天つをとめが真素肌の乳房の莟み人は見にけり
天人は消なば消ぬがに羽ごろもの袖乞ひ祷めり草合歓の花
天向ふひとか羽ごろもうすごろも見えつつすべな夕さりにけり
ましら羽の天の羽ごろも夕羽振り消えにしひとのあやにかなしも
風向ふ根疏浜松磯馴松今朝さわさわし春日さしつつ
父母ようち出て見ませむら松の斜めみぎりに不二の秀が見ゆ
母父と妻と愛児とうちいでてふりあふぐ空に不二はかかれり
西風吹きて春も浅きか立つ波の潮見清けみ石廊崎見ゆ
風速のまこと三保はやまさやかに騒ぎ榜ぎたむ船の多かる
風速の三保の砂やま清しくて遊ぶにはよき玉敷きにけり
おのづから玉敷き明る三保の浦や辺波洗へり清の照る玉
朝羽振る沖つしら浪辺に寄ると揺りとよもせり清し浦廻を
不二ヶ嶺を高みさやけみ三保の崎けふ父母とうち出来にける
世に愛し母の御伴とさもらひに清ししら玉選りてゐにけり
しら玉のをさなごころの揺りごころあなたづたづし母に寄りつる
大海の晒すしら玉清けみと手には揺りつつ遊ぶ子ろはも
遊び足り楽しききはも陽炎の燃えて跡なし浜の長手に
§
うつつなく笑ふ子ゆゑに砂やまの砂すべりくだるも砂まぶれ我も
砂なだりもとなくづるれ踏み踏みてのぼらむ吾子がひた踏みのぼる
砂まろび遊びほれつつこれの子や丹塗りの汽車は忘れ来にけり
砂畑の苺の萎え葉もみぢして日のあたる辺を子の手ひきゆく
幼などち何か睦びてしなへ葉の苺のもみぢ踏みて来るかも
冬の田の刈田の眺めわびつつぞ俥つらねぬ風の畷を
冬の日も有縁のひとかまうづらしまれまれながら畦つたふ見ゆ
寒き田をあれや寺かと目にとめて俥急かせり薄き日ざしに
竜華寺や彼と俥に揺られ来て行き過ぐる見ればこは鉄舟寺
さむざむと御堂の縁に端居して眼を放つ不二の明る妙はも
見のよろし不二の眺めはこの寺にまさるなしてふ今は眺めぬ
不二見ると君が住みたる有渡の山不二の眺めのまことよろしも 日近上人
不二見ると君が臥れる有渡の山げにげに高う不二は冴えたり 樗牛
吹きわかれ雲立ちわたる不二の尾の夕影寒うなりにけるかも
一いろに蘇鉄の気のみこもらへば夕さり寒しこれの御庭は
五百重なす蘇鉄の葉叢冷え冷えて日の暮れたらし物の迫るは
日の暮は目見薄らよと宣る父に蘇鉄は寒し層む葉の隈
短か日の御堂の障子かげり来て絵葉書選らむ時過ぎにけり
かの赤きは蘇鉄の実かと竜華寺を出でつつ訊かす父は後見て
風速の三保の日和のさだまらでけざむく不二の尾根も暮れたり
山裾の柿の老木のはかな陽のたのみずくなに冬は宿れり
さむざむと詣でて帰る刈田道かもかく今日も暮れにけるかも
月わかく糠星満てりかくばかり清しき夜空我は見なくに
眉引の童の月のほのあかり見の幼なよと舟は榜がせつ
月ほそくまだ珍らなり有渡山の山の端あたり黄ばみそめつつ
ほのしろき浅夜不二なれ帆柱の高きは青き燈をぞ点けたる
星あかり凌ぎ榜ぐ子か黒船の艫出はづれて広き浦廻を
夜に見れば不二の裾廻に曳く雲の白木綿雲は海に及べり
高き屋にのぼりて仰ぐ星の座のいや遥けくも真近なるかも
目にとめて寒き夜空に澄む星の群多からし満ちにけるかも
夜の空に充ち満つ星の少くも目に見えぬ外もまたたきにけり
新月の早や照りながらみづみづし南天の星の満ちの細かさ
星の座の連れつつ隣る夜の天は見の親しかも廻りつつあり
ひむがしの夜天の星の大きくてひとつは光る不二の尾の上に
まつぶさに繁みに見れば星雲の微塵の光渦巻きにけり
夜の天はあやに清けし微塵数の珍の新星しぶき生れつつ
寂しくも永久に消ゆなと離るなと仰ぎ乞ひのむ母父の星
我の星或は見ゆやと星空の五百重の霞透かしてぞをる
かの紅き妻が守星前の世に薄雲纏きぬ今もこもれり
幼な星吾子が守星幸かれと夜天の遥に眼を放ち守る
空のむた闇はあやなし星の座の今宵の光息づきにけり
去年今年国の禍事しきりなり夜天の宿に幣奉る
おぎろなき夜天の宿は幽けけど人こそ知らね火の気立ち見ゆ
天宮の中極にして高しらす幽けき星もあれよとぞ思ふ
押し移る夜空の澄みやおのづから星座の極も傾きにけり
天雲の白木綿雲の五百重波波だちたぎつ夜は明けむとす
夜の雲の白木綿雲の寄り畳む五百重が奥に不二は隠れり
天雲の不二の高嶺の雪雲は五百重も千重も下り畳むらし
望月の月映なして照る雪の不二のいただき暁ならむとす
大正十二年二月、香取より潮来へ、潮来より鹿島へ、また舟行して帰る。
深靄に朝の間あかる日の居処たんぽぽのごと幼なかる見ゆ
黄にまろきをさな童の日の居処靄はふかしと舟ゆあふぎつ
朝花の黄のたんぽぽはいとけなし波揺り来ればざぶり濡れつつ
靄ふかき河心に吼ゆるをさなごゑ愛し仔牛か舟に母恋ふ
下ん田か早や犂きたらし這ふ靄の沼波撲ち来る土の香高し
榜ぎ着きて火もほのぼのと焚くならし沖田のガスの裾紅み見ゆ
つぶつぶと頭はうかぶ鳰の鳥靄ふかからし鴨のごと見ゆ
舟揺りて子ら取つ組みぬ水ぎはにとてもあざやけき朝花たんぽぽ
牛連れて棹手つぎゆく舟の子ろ繁みおもふや紅の帯まく
ひと萌えの沼べりのなづな露ふかし仔牛食みをりそのあさみどり
香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたに榜ぎつつ
靄ごもり鹿島遊行ぞおもしろき蛙啼く田の間を榜ぎつつ
露くさの花いろふかき沼波は榜ぎつつ繁し靄に見え来て
赤の牛乗せ来る舟のひとうから夕風沼の広みにとあり
家の牛かい乗せもどる作舟は夕安からしとろき櫓の音
櫓の音よき耕作舟や日を犂きて雌牛揺り乗せ今戻るらし
夕光の水門出づる舟ひとつ牛正面なり朱に燃えつつ
夕凪の遍照光となりにける沼尻の紅き太陽とポプラ
舟遣らふ子らが棹手のたぶつくは夕照り淀か揺りこたふらし
遠明り夕沼とわたる舟の上に静立つ牛の大きくは見ゆ
おほかたに真菰は焼きぬ沼の辺の芽の青しもよ母と子と居る
沼のべに黄のたんぽぽを摘む童ふかく嗅ぎて棄てぬ次の花をまた
牛の吼おほらにとよみゆふべなり沼いつぱいの金色の空気
夕光のかがよふ舟に頸かぶし目見おとなしき黄の牛はも
この眺めゆたかに寂し黄牛も家路の舟に日を見かへりぬ
櫓をあげて棹さしつぐと夕沼や細長堀へ舟はひりつつ
潮来舟夕づく水照りゆきつめて寒き葦間に入るがさびしさ
夕沼は遍照ひろしまれに来てかかる安らに会ひにけるかも
この安ら暮れであらめやよくぞ来て夕沼の水照りうち眺めたる
櫓を榜ぐと帆は巻き入れて春雨間香取の浦をうちも出でたる
舟びとや押手引手のゆりゆりに足踏み換ふるうつら櫓の取り
舟びとは榜ぎぞ足らへれ少くも櫓をし愛しみぬ揺り遊びつつ
たぷたぷとあたる水の音や櫓の取りのか揺りかく揺りその緒張りつつ
日の暮の水照まぢかきひとたひらつぶりつぶりと鳰は出てゐつ
けけろ鳴く声は放てど夕照の日の方附くか眩し鳰見えず
舟にゐて春は炬燵のうづみ火のはつかに赤し湿らひにけり
宵空の微塵の光おぎろなし人は牛曳き家路をたどる
微塵光夕さり永し芽やなぎに燕のむれは頬をそろへつつ
表より背戸の夜空ぞにほはしき柳しだるる川づら榜げば
色の隈揺り揺りひかる接ぎ褞袍夜釣すらしか榜ぎのけぶかさ
たぶんたぶんとざんざら真菰揺る水のながれは絶えず榜がで流さむ
十二橋三つはくぐりぬ糠星にせんだんの実の明る空見て
夜の靄に焚火する子の面あかりちかぢかと見つ潮来には来し
落ちつばき外方向きつつ蕋わかし落つるただちを坐りたらしも
春雨の地面のつばきひた紅しいくらかは濡れて動きたるらし
しつとりと雨がなじんだ籾がらに明りさしてる紅落椿
籾がらも紅い椿も暮れかけてゐる暮れて動いてゐる雨がふつかけるのだ
花だまり椿のあかき背戸道はふる春雨の日暮らしどころ
空堀はつばき層めりゆきつめて後戻りするその里道を
板わたす用水堀のこぬか雨遠田近田もとみに萌えつつ
魚すくふ童が叉手の水あかりほの温るむらし尻はからげつ
背戸堀はふる雨繁し飼ひ鳰のつけ糸曳きて泳ぎつめつつ
雨はまだ粒だつ橋の片てすりつかまりてのぞく子の面ふたつ
雨空にせんだんの実は明るけど簑笠つけてとほる人あり
この里の春やさみしきおとなびて莚織る子が梭手尽きなく
春雨に藁すぐる子らひめもすや顔はあげずて暮れてしまふらむ
つらつらに遊ぶ鶏のをる庭はふる春雨にぬれて来にける
この雨や春雨ならし芽やなぎに帆檣ぬれて船ももやひぬ
碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを
裏妙義つつじにほへり日の道やいただき近う寄り明るらし
熊蜂の翅音かがやきおびただし春山ふかく営みにける
黄金虫飛ぶ音きけば深山木の若葉の真洞春ふかむらし
こちごちに若葉かがやく日のさかり四十雀飛ぶ山片附けば
靄ごめにもえてかがやく朱の若葉碓氷峠の旧道ゆけば
深山路はおどろきやすし家鳥の白き鶏に我遇ひにけり
山吹の一重の花の咲きしだる春山岸のにはとりのこゑ
上つ毛へ碓氷をくだる春のくれ岨うづみ咲く山吹のはな
こなたさす使ひ童か見えつつも躑躅あかりをなかなか来ぬかも
前山に紅きつつじか日の照りて霞こめたり見さだむらくは
山路来てひたすらひもじ蕗の葉に満ちあふれゐる光を見れば
谿高くガアドそぎたち夏ちかし木橋ゆ仰ぐ若葉の光
物のこゑひびかふきけばおほかたの若葉は和ぎてほど経ちにけり
谿ふかくたぎつ瀬の音もまじるらし嵐は明し一山若葉
春山の道のたをりにちりそめて板屋かへでは翼紅き莢
蓬伸び鶏群れたり隧道の断れ目の岨の光の崩れ 以下二首坂本の宿
日はかすめ清にこごしき妙義嶺の檜山のなだり夏立ちにけり
山すそは夏の日ざしのいちじるし楓の花もちらひそめたる
ほうほうと落葉松寒し夕あかき鉱泉道のうねりをのぼる
製材の響けざむき谿沿は夕附き早し材小屋が二つ
幅広き谿岨寒し牛乳買ひてつらつら戻る夕日の光
前山の夕光寒きから松は材小屋の前を行きつつし見ゆ
採氷池青みそめたりかへる子や頭重くも揺りをどりつつ
鷹来りおたまじやくしは食まれけり沢べの芹もしじに青むを
上の田ゆ下田へ落つる水の音のおのおのよろしぬるみたらしも
明るけど洩れ陽はさびし久しくも村にはこもる風かとおもひぬ
枯れはてて見のなごやかになりにける谿の河原の穂すすきの群
日向べにほのあたたまるわびごころ胡桃わりつつ飽きもせなくに
押しあててかたき胡桃は手力こめ掌にぞひしりとつぶしつるかも
ほろぬくき今日にもあるかしばしばも胡桃の殻を膝にはたきつ
§
夕雨に踏みやはらかき落葉松の落葉は紅し沁みにけるかも
朝光に牝牛曳き出だししぼる乳の雑草をうつ新ほとばしり
ゆたに立ちて乳をしぼらせてゐたりけり母牛はよしこの朝光を
おもおもと桶にたぶつく生の乳の青葉くさくてまこと牛の乳
熔岩谷はよく霧らふらし日が射してしばしば寒し妻とかがむに
天つ日の光はわかし翁ぐさ地にぞあかく笑まひ初めたれ
山原の轍にあかき翁ぐさ愛しきものを我が見つるかも
をさなごやまだ覚めざらむ妻と出て翁ぐさ踏むこのしめらひを
林道を車きしませ来し鹿毛の眼が光りたり翁ぐさの花
黄の蝶の林に住むは幽けかり落葉松も芽ぶきそめにし
うち響き山のこだまのけ寒きは唐松の枝扱き放つなり
山原は轍とも思ふ道の窪に光り出て紅し花翁ぐさ
翁ぐさあかき手にとり土つきて冷やき和毛は弾きつつ歩む
落葉松のす黒き林露はなりまだ照り寒き光線そそげり
から松にから松の影うつりをり月の山路にながめて来れば
芽に匂ふ落葉松原の夕月夜かすかにひびく田蛙のこゑ
月の夜の自動車道のか広さよ山蔭遠く蛙の鳴きゐる
小山田は早や水張れりいまだしも落葉松の梢は芽ぶかず
山茶花に雪ふりつもり閑かなり七面鳥のくぐもりのこゑ
雪早ししきり膨るる勢ひ鳥七面鳥の尾羽響き鳴る
団扇羽の佝僂の碧き素のあたま七面鳥に雪はふりつつ
七面鳥けけろ歎けば斑碧の朱肉揺れ伸ぶくちばしのうへ
真青にかうべすくめて張り来る七面鳥の強面の歩み
両つばさ地に張り歩む傲り鳥七面鳥は見らくしよしも
雄に添ひてかがよふ青き頸のへり七面鳥の雌の細みかも
世に愛し雌にし矜ると張る尾羽の七面鳥は燦々しかも
七面鳥おほらかなるかな雌を追ふと広庭をまろく大きくまはる
真向におごり息づむ張胸の七面鳥の脚の短かさ
印旛沼の紫黝き雪ぐもり七面鳥は膨れ真向ふ
膨れ来てたまゆら停る七面鳥乳頭の垂り紅く今燃ゆ
七面鳥翼ひびかし歩をやめず白き蛾のごと雪乱り来ぬ
七面鳥車輪のごとく張る尾羽のゐさらひ紅し雪吹きつけぬ
紫の生れ来る雪のとどまらず七面鳥は啼きにけるかも
雪の間を硝子障子に来寄り澄む七面鳥の乳頭の光
泡雪の斑の紫の車尾羽七面鳥も春を待ちつつ
刈跡はつむ雪早しこちごちを葦づか白う見えまさりつつ
印旛沼の狭き細江の向ひ丘早や目にしろし雪つもりつつ
刈り継ぎて夕照寒き出津の野や葦づかおほく見はるかしつつ
西寒し萱野の遥に落つる日のこよなく赤く一つころげぬ
夕土間の鳥屋のはしごにい寝る鳥七面鳥は肩高く見ゆ
鶏の栖のくらき梯子にのぼりて寝て七面鳥は下寒むからむ
土間の栖も夕寒むからしまだいねで層みおぼめくうつつ家禽
吊棚にい寄りくぐもる数の鶏夜寒は見居り竈火の揺れ
おのがじし頸根かい曲げ寝る鳥の今宵のねむりあたたかくこそ
吊りとぼす提灯の紋の抱茗荷湯にぬくみつつ見てをり吾れは
夜は寒しひとさしくべし風呂の火に鶩は啼きぬ炭櫃のまへ
夜はふけぬねむりまどけき土間の栖に何鶏の面か白う浮き居る
霜の置閑けくしよし朝まだき近き野にゐる家禽のこゑ
霜の野に朝日さし照りあはれなり鶏と鶩と七面鳥のこゑ
七面鳥朝明の霜に居竦むは目のふち碧し葦づかのまへ
霜ふかし霜ふかしとて出でて見て一面の冬の朝日の光
朝を出て褞袍かかぶり聴きゐたり萱の濃霜のとけてひびくを
張る尾羽の白孔雀如し円かなりひとむらの萱に霜ぞ満ちたる
いつの日か馬に食まれて葦茎の伸びはそろはで霜に枯れにけり
火をつけて萱の刈穂の束なりに燃えさかり来る音のよろしさ
野の土手を蜆触れ来る声はして閑かなる霜の朝やこの朝
霜の煙のいまだ流らふ萱の屋に山茶花は紅しよくうつりつつ
水禽の鶩水かく屋敷堀楊は寒しいまだ芽ぶかず
印旛沼しろき明りのとほどほに葦鴨啼けり月の夜寒に
印旛沼水口の細江に寝る鳥の青頸鴨のこゑはひびけり
印旛沼の出津の萱原萌えそめぬ夜頃は月の冴え返りつつ
畷路の芽張柳のあさみどり何かになへる人揺りて来る
春過ぎて夏は日射の明らけし七面鳥のかがよふ見れば
朝光に一羽出てゐる真向き鳥七面鳥はまだ啼かずけり
莎草の紅いまだするどし七面鳥もそろあゆみぬ蹴爪をちぢめて
夏もやや鳥屋の外面の照りつよし雛鶏がかける突きころぶかに
真白羽の七面鳥の夏すがたかがやかに小さし野を隔て見ゆ
張り来りたたら足踏む七面鳥いや照りしらむ陽の直射を
真昼日のかぎろひ白き庭のうち七面鳥の足踏深し
落ちたまり黄なるつばきの腐れ花七面鳥はよそよそしかも
七面鳥なにかいらだつ日のさかりむら碧の朱の肉嘴ひびかふ
七面鳥ひた迫りつつまじろがず肉嘴燃え伸ぶ真向の垂り
一気に押しゆるぎ来て大きなる七面鳥のひたぶるの振り
かぎりなき陽の照り白し留り立つ七面鳥の影の大きさ
産屋戸に堪へてこもらふ雌の細み春は日射も外に白らみつつ
七面鳥照りゆるぎつつ歩は遅し尾羽響き鳴るひと足ごとに
七面鳥尾羽鳴らしつつ廻り居り春埃立つ明るき庭を
春まひる七面鳥の尾の張りの照り円うしてそよぎやまなくに
張る尾羽の真横見せゆく揺り歩み七面鳥は音深めつつ
鳴り深む七面鳥のしづけさよ蛙啼く田の遠く照りつつ
ほのぼのとまなぶた紅き巣守り鳥七面鳥は卵いだきぬ
栖にこもる七面鳥のひたごころ俵にのぼる陽の目よみつつ
栖に向ふ雄の七面鳥真昼なり張りふくれつつおもむろにはひる
夕遅き厩のまへの日の光七面鳥は行きとどまらず
さうさうとい行きめぐらへ安からず皺ばみ碧き七面鳥の面
立尾羽のしみらに光る日のをはり七面鳥も遠く見て居り
夕光のさわさわと揺る尾羽の張り七面鳥がうしろ見せつも
出津の野は莎草の芽紅し芹摘むとそこらここらを吾がかがみつつ
二方を雲雀囀れりうち羽振り大きなる円に小さなる円に
二つゐる雲雀とし聴きうら安し吾がつむ芹は籠にふえつつ
二つあがる囀りはあれうらがなし雲雀啼くとしただに聴きつつ
右ひだり生きの真鯉をひとつづつ手づかみて来る印旛びとなれ
両の手にひたぶる抱く鯉ひとつこれの童は泣かむばかりなり
朝光のほのくれなゐの茱萸のはな目にあきらけき雨を保てり
海阪
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烏賊乾してただ日くさき当別の荒磯の照りよ今は急がむ
修道院へ行く道暑し絮しろき河原ははこも目につきにけり
山独活の花明らけしおのづから洩れづる息をうれしみ休む
空のもとトラピスト修道院建てりけりこの正面の昼のしづかさ
燕麦は今刈り了へて真夏なり修道院にいたるいつぽんの道
裏山の青の円山のぼりをりよく群れしかも人と牛と羊と
影面は朝から暑し来て通る修道院正門のみそ萩の花
修道院の玄関の前に立ちにけり麦稈帽をとりつつ我は
修道院朝凪暑し小手鞠や花あぢさゐの藍も褪せつつ
白薔薇ふふむは紅し修道士のひとりは前を歩みゐにけり
聖堂のステンドグラス午ちかしをさなかるかもこの基督は
乳をふふみ幼きいえすいますなり時計の針もめぐりつぎつつ
基督の受難の額の裏のかげ廊下の青きこの光線を
行道の波型寄木踏むべくはこよなき光流らひにけり
二側に寝室の帷垂り白し真昼は空しそよりともせず
照りつづき白き帷の真昼なりひたけうとしもトラピストの寝間
とことはにまかずめとらぬ修道士のむなし寝部屋よ日のほてりつつ
祈り且つ働けと云ふすなはちよしかの修道士は丘に群れたり
日とともに出でてちらばりうやうやし彼等は空をいただきにけり
牧ぐさのくれなゐ柔きうまごやし愛し麻利耶よ彼ら夢みぬ
言いはず群れゐ木を挽く毛ごろもの褐の頭巾の日の光はや
木履をこつこつと刳り暑からし息づきあます深きしづまり
修道院の昼はてしなしぽこぽこと人歩むらしき木履の音あり
よく掃きて日のさしあかる道ほそし林檎のもみぢちりそめにけり
木履はきてさびしがり行く日のさかり木槿の花が白う見えつつ
弥撒過ぎぬ修道院裏は毛の紅きたうもろこしの一面の風
から松の木洩る光線や目にとめて地に幽けきは奉教人の墓
トラピストの墓原の外よ南風吹き唐黍の紅き毛のそよぐなり
真夏日の光に聴けば遠どほし緬羊の声は人に似るなり
美しみと外に出て見ればこの空や七つの岬海にい向ふ
夏だ夏だトラピスト修道院の柵の外に遊ぶ子供がまだはしやいでる
照り強しいゆきかへらひ憤るここの七面鳥は胸羽根真青
青刈の花ひまはりを食む牛のはてなき暑熱我は見にけり
草積みて香まさをき馬ぐるま牛舎近くを駈け込み来今は
岩清水しんしんとして夕近し赤松の幹の映れる見れば
谷隈の小さき泉の夕ひかりわれはひたにし口をつけつも
赤松の林を過ぎて夕づきし広原は見つ馬車の駈くるを
夕づきて何かひもじきひたごころ赤松の原をくだりつつ来し
つつましく君が住みけむ跡どころ谷沢越えて我は見に来し 消息
フオク持つ人もくもくと掻き掻けり燕麦ならし黄の穂かがやく
頸根つきかさりかさりと夕さむし草ほこり掻く修道士ふたり
修道院鐘を鳴らしぬ安らけくけふのひと日も晴れて暮れたる
修道院夕さり安し栗いろの群の毛ごろも竝み帰りつつ
月出でて明るき宵や修道士たち今は帰り来木のフオクもちて
丘の上に大きくうごくフオクのかげ月の光にまだ一人ゐる
夕闇の御堂のいのり声もなしあかき燈ひとつまたたきにけり
こよなくも聖体盒のにほふなり何か美しくわれが泣かゆも
客館で私たちは晩餐にあづかつた。赤いボルドオはぽんぽん抜かれるし、アルコールぬきの麦酒も出た。
修道院の窻あけはなち晩餐なり甜瓜がまろし月の光に
修道院こよなく明し燈のつきてこの焼豚の塊の美しさ
われ立ちて今は踊らむ月あかり深めば鐘もゆり傾ぐなり
月がいい。前庭に私たちも出た。「おんこ」とは「いちゐ」のことである。
円刈のおんこに光る月のかげまさしくここは修道院の庭
聖堂の夜の連祷もはてぬらし月に出でてをりふたりみたりのかげ
修道院の玄関の前の月夜なり神父歩めり話をしながら
天の露いよよ繁みか後の野に馬放たれて涼しこの夜良
丘の上に大きちひさき馬のかげ月夜すがらに見えてゐしかも
月の夜をしきり傾く鐸のかげ友は見しちふ我は聴きつも
ポプラ葉のかがやく見れば常ながら空のあなたよ見の美しかも
梢つづきかがやき久し日のさかりポプラ嵐に雀流らふ
修道院鐘の音美しまさしくもここのみ空は蒼うかかれり
空晴れて鐘の音美し苜蓿の受胎の真昼近づきにけり
空晴れてまた事もなし山なだり茶の毛ごろもの群れのぼりつつ
山鳩の居りて閑けき葡萄畑青うこぼるる日ざしなるかも
さみどりのキヤベツの地より湧くところ人つくりをり新しき乳酪
わが歩みひたすらさびし昨日見し木槿の花は白かりしかも
師団道夜の明けて広しさゐさゐと唐黍売もふれて来にけり
この朝かげすばらしくよし毛のあかき唐黍を呼べば馬車にはふりこむ
ひた駈けに馬車を駛らしすがすがし唐黍の穂の朝日なるかも
朝の日を馬車はかへしてあゆむなる大豆畑の露くさのはな
畑つもの豆の葉よりも露くさの瑠璃いろ深しすぐアイヌ村
朝の気の流らふ広き大豆畠旭川郊外に来てをりわれは
耳とめてこの野は広しこちごちにひびかふものの音のかそけさ
水の音今は聴きゐつこのあたり隠元豆の花がしろしも
あるアイヌの家にはいつて、お婆さんに唐黍を焼いてもらつた。 二首
たうもろこし焦げてにほへりはるばると遠来し旅を堪へてゐるかも
唐黍の焦ぐる待つ間よつくづくと摂政の宮の尊影を我は
おんこ彫る爺のアイヌがあぐらゐをい寄り見て立つさぶし和人我
日の澄みを毛深きアイヌ立てりけりほろびつつあるその厚志着を
家屋の外の熊檻このあした愛し仔熊も起きてゐるかも
往還に眼窩ふかき子は立てりほろほろと乾く直土の照り
韃靼の海、波のうねりに揺られゐて遊べる鴨か大きうねりを
平らにぞ凪ぎ青みたれ泛く鴨のかくろふ見れば大きうねり波
うねりの深き凹みへ辷る見し盛りあがる波を鴨の乗り来る
揺れあがる波の平になりにけりしばしとどまり鴨の確かさ
韃靼の海阪黒しはろばろと越えゆく汽船の笛ひびかせぬ
かき坐り仰げば巨き帆ばしらなり我この汽船をひたに頼まむ
耳あけて深くしづもる四五本の通風筒の前の照なり
波の上にぽつかりとありはてしなし走れる黒き煙突のかげ
日ざかりの道のべゆけば株だちてまだ柔かき箒草のいろ
除虫菊白きを見れば新みどり唐黍の毛もかき垂りにけり
歩み来て林檎畑にはひりたり日の明りつつ広く閑けさ
夏山の林檎畠の日のくもり白き鶏の閑けかりけり
一已の屯田兵の村ならしややに夕づくこの瞰望を
日は近しつくばふ牛の鼻づらを見つつ過ぎたりかむぼちやの花
牛小屋のおもての紅き巴旦杏手のとどくところはみなもぎりたり
蓮のはなほのけく赤しはひり来てここの牝牛の乳をもらひをる
澱粉靴といふものを子らははいたりける林檎畠を出て来る見れば
常掃きて日射透せばうやうやしこの牛小屋の青牛のかげ
家の戸に去勢無料としるしたり夕光あつきこの往還を
北海道深川町の郊外、音江村にさる林檎園あり。たまたま町のK氏を訪るるに、今は人妻ながらそのKのそのかみの恋人なりと云ふ女性ありて茶を供し、まだ小さき林檎などむく。我もただ庭を見、池をながめて、言葉なくゐぬ。
寂しくてなにかまぶしき日のくもり青き林檎をながめゐにけり
うすうすと林檎の梢葉染みにけり百舌の翔りはいまだ暑きに
つぎほなく閑けき夏や時あかる蜜蜂の翅音そこら響かふ
風たちて涼しく皺む池の面に百日草の影もうつれり
音江村一覧表をもらひたり役場のまへの鶉豆の花
直土に子らかき坐り夏おそし種人蔘の立枯れの花
傾斜地の虫除け菊のしろき花いまはつぶさに見て下るなり
遠山に白虹降りゐ閑かなりこの石狩の国の大きさ
白壁の反し陽見ればやちだもの木立の木膚かがやきにけり
のうのうと謡のこゑはそろひけり陸ひとつ見ぬ海に来にける
海に来てはたやあはれか老らくの連多くして謡ひほれたる
豊けくてかへてあはれぞまさりける謡のこゑの凪にそろへる
能の笛ひやうへうふれうと起りけりオホツク海の真夏日の凪
空のむた陰りて円きわたの原笛のひとつの音いろ響かふ
いつしかと日光反さずなりにけりオホツク海の波の穂のいろ
オホツクの波は光らずたどきなし甲板にひとつ我の足音
オホツクの凪はてしなし日の洩れて末あかりしが照らず止みたり
雲の上を日の行きながれさむざむしオホツクの海いまは観にけり
巻きなだりいやつぎつぎに重き層む波の穂冥し海豹の顔
日の遠き北に来にけりこの海やたえて光らぬかぐろき荒波
名も知らぬ黄なる花むらなだり咲き目もあはれなり時化波の隙間
凄まじく海ぞ荒れたれ目じろがず人は乗り来る舟の舳の反り
昆布食みて慧き鼠か長き尾の乱り走りぬ波裂くるとき
ぺんぺんとなづな実りて群れにけりとどろきくらき波なだり来ぬ
海豹は頬の髭黄なり孔まろき白き頭骨となりはてにけり
日の光薄き浜びの板びさし春の鰊は燻し了へにし
マントの黒き頭巾のふつかけ雨巡査は佇てり蕗の葉のかげ
浜びさし雨あぢきなし紙旗の日の丸の紅も垂りにじみつつ
ふたつ眼の毛皮の羆つるされて吹つかけ過ぎぬ網小舎の雨
この雨の樺太車前草踏み柔み村かたつくと親し車前草
夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
夏もなか黄なる鈴菜が明るなり北の日本のいやはての村
日のひかりいとど薄きを菜のはなのうつしく咲きて黄なりこの浜
菜の花に藻くづ昆布の塩じめば北の日本の春もいぬめり
鰊粕脂のり来る溜の面雨は沁まずてはねてちりつつ
あかき実のななかまどといふ藪の崖子供飛びをり鳥のまねして
ぎやをと啼きまた声継がずどしやぶりの実のあかき木に海猫はゐる
玉ぼこの道つくりびとすがすがし蕗と萱とを諸に刈りそぐ
ぬかるみの新墾道の吹きあげ雨反り立つ蕗の裏しごきうつ
吹きつけて息づき過がふ霧の塊樺太蕗の葉をひるがへす
茎高の葉広蕗うつ雨の音今はたしかに国境に来し
鷲ひとつ石のうらべに彫りにけりそなたにあらき虎杖の花
雨、雨、雨、虫くらひ葉の音繁きこの虎杖は露西亜領の花
椴松の霧たちかくす日の在処気流の冷えがとみにし著し
ここの空きびしく寒し椴松のうれを久しく霧はながれぬ
厳かしき国の境や椴松に雲白うゐて凝りたりけり
北樺太ピレオの村も寒むからし蝦夷松疎く雲こごり見ゆ
猟人のピレオ出て来る寒き影はたや向ひの尾に立つらむか
国思ふ心はもとなとどまらず雨はさ青の芒を流らふ
雨は小止み草山なだりさみどりなり日本の村へ一気にすべる
韃靼海西風吹きあげて立つ雨の色まつしろし潮さゐのうへ
黄の花の鈴菜畑のざんざ雨鴎あがれりまろき眼をして
日本のいやはての北の小学校水蝋樹蕾みて夏休みらし
隆盛の大き目の額見つつ出てすずろに紅し虎杖の花
ワレライマヤコクキヤウニアリ、むらさきの花じやがいもの盛りに打電す
じやがいもの花の香しるき頼信紙このふきぶりに濡らしけるかな
雨しげき鰊乾場の実のなづな国の境も見つくしにけり
樺太犬のそりとを居れ雨しとど吸ひふくれたる葱の玉鉾
われさぶし噴出の清水大き桶の溜あふれゐるそればかり見る
こんこんとしみみゆり湧く旅ごころ水は噴井に盛りあがりつつ
うらさぶしうらさぶしとを選りゐたり燻鰊の黄の腹の焦げ
夕づきて遊ぶ童の寄りどころ蟹の甲羅の朱も古りにけり
時化後の海ひたくらし向ひ立つ女の子がふふむほほづきの音
山方はけはひ幽けくなりにけり馬車ひとつ行けり虎杖の原を
幌の馬車とめつつさびし虎杖の虫くらひ葉の日ざかりの照り
波のみね千重しくしくにかがやかず海豹島も目路にかくりぬ
みちのくの千賀の塩釜雨ながら網かけ竝めぬほばしらのとも
みちのくの千賀の塩釜雨に来て木の橋わたる大き木の橋
千賀の浦夕立つ雨に船立てて雄島のはなに着けば暮れたり
松が根にきちかうの花開きけりこの松島に今朝は思はむ
松島の海岸どほりまれまれに人あそびゐて日射秋なり
大寺の厨のそとの水ために清水あふれて朝焼けにけり
瑞巌寺の朝餐の魚板響くなり顔洗ひつつよしと思ひぬ
僧たちと朝餐の席にならびたりつつましくしてほがらかにあり
飯櫃にたきたての飯の湯気たてり大寺はよしこのあかときを
瑞巌寺をまかりいでつつ朝早く松島が見ゆ雨後の松島
松島瑞巌寺前のさざら波施餓鬼すみたるあとのすずしさ
潮のいろ深むを見ればみちのくの金華山沖に今かかるらし
海に見て地球のかたち円しとふ童は小さしよろこびにけり
帆綱張りゆゆし安けし太敷きて厳のほばしら根生ひ据れり
真上空飛ぶ雲迅しまさしくは巨きマストの揺れかしぎつつ
かたむくと見つつ待つまをとどろかず巨き濤凄し騰りきりたる
まなかひに落ち来る濤の後濤の立ちきほひたる峯のゆゆしさ
躍り立ち羽搏ち巻き立つ波の穂のあひだに徹り青空のいろ
勢ひ立ちただち砕くる波の穂のしぶきが飛ばす潮の珍珠
巻き飜る波のなだりに飛ぶ珠のとどろきの泡ぞ白く競へる
渦潮のたぎつ潮漚しづまらず浅みどり透くその白き泡を
潮漚の消ゆと浮ぶとおもしろと見つつ見あかず騒ぐ潮漚
海なかに夕餐の銅鑼のひびくとき火星は赤くあらはれにけり
青海原夕さり来れば壮麗なり夜の高麗丸は灯を列ねたり
海なかに音耀けり夜はふけてしんしんと進む生物高麗丸
まさしく津軽海峡に入りにけり早や見る青き草崖のいろ
とどろと雲噴き騰りあざやかなり汐首岬の青の雑草
岬の雑草と雲のあざやかさ汽笛太く吼えて挨拶す汽船は
津軽の海南風吹き晴れ午前なり汽船ゆきすすむその中道を
煙曳く煙筒竝び爽かなり高麗丸はよしこの海峡を
この汽船の巨き煙筒けぶりなびき渡島の子らは此方見てあらむ
津軽の海雲はろばろしいにしへや大群のアイヌここ渡りけむ
津軽海峡はや秋ちかし雲の秀を耿として渡る小禽の群あり
この汽船や笑らぎ照り恍けはてはなし海峡の午後をゆきすすむなり
大船に日は照り満ちぬ紅つけてをどる一人が影の短かさ
ひと船の愛し戯けもはてにけり津軽のかたに日は隠りつつ
津軽の海凪に群れ寄る味鳧の命なりけり粒黒くゐる
つらつらに鴨の泛き来る蒼の波うねり大きく見えにけるかも
渡島の縦の赤雲竝び立ち見のはろばろし星の透き見ゆ
天に三層あり、中なる天を「星のゐる空」或は「騰れる空」と呼ぶ(アイヌ昔噺)
ぬか星の騰れる空にさ霧立ち今宵は清し蒼海の境
月のもといとど巻き立つ赤雲のかがやき近し崩れずあらなむ
沖つ鳥鴨のかしらのま青くてつらつらかなし泛きにけるかも
もこもことまだ盛りあがるたづきなき波の胴腹に鴨は居るなり
まなかひにおほにそびやぐ蒼の波かなたなぞへに鴨は居らしも
つれづれと鴨のすべるぞおもしろきこなたなぞへになり来る波を
夕凪の海、波のあひさにゐる鴨のかなしき声は空にとほれり
ここ過ぎて草は空より新なり汐首岬といふがかなしき
正眼にも夏は光りてとどろきぬ汐首岬の雑草のいろ
底本:「白秋全集 9」岩波書店
1986(昭和61)年2月5日発行
底本の親本:「海阪」アルス
1949(昭和24)年6月15日
※「夕光」に対するルビの「ゆうかげ」と「ゆふかげ」の混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。
入力:岡村和彦
校正:フクポー
2017年10月25日作成
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