みずうみ
室生犀星
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これは何となく人間の老境にかんじられるものを童話でも小説でも散文でもない姿であらわそうとしたものである。──
舟のへさきに白い小鳥が一羽、静かに翼を憩めて止っている。──その影は冴えた百合花のように水の上にあるが、小波もない湖の底まで明るい透きとおった影の尾を曳いている。ときどき扇のような片羽を開いて嘴で羽虫でも𩛰るのであろう、ふいに水の上の白い影が冴えて揺れた。
「お母様はどうなすったのでございましょう? あんなにお急ぎになったのに──わたしちょいと見てまいりましょうか。」
纜を解きかけていた眠元朗は、渚にいる娘の方を顧った。
「すぐ来るだろうから、とにかく先きにお乗り。」
「纜をおときになっては厭でございます。舟が出てしまいますもの。」
「大丈夫だよ。湖から吹く風だからあと戻りしても沖へは吹かれはしない。」
娘はすらりと舟の上に乗ったとき、尾の脚の迅い小鳥のかげがへさきから消えた。娘はきょうこそ彼の小鳥をつかまえようと、あんなに静かに舟腹にかくれるようにして乗ったのに、とうとう影を見失ってしまったと、くやしそうに舟の中に坐った。
「あの鳥が出ると、島の方がはっきり見えますのね。」
「あの鳥が一羽でも飛んでいたら、晴れるにきまっているんだよ。──それに晴れると白魚がたくさん群れて岸へあつまってくるのも不思議だ。」
眠元朗は纜をといてから、舟を渚から少しずつ辷り出させた。引き波の隙間をねらって、舟はふうわりと白い鴨のように水の上を辷った。眠元朗は水馴棹を把った。たらたらする油ながしの雫は棹の裏を縫うて、静かな湖面に波紋をつくった。
「お母さまが入らっしゃらないのに、舟を出しちゃわるうございますわ。」
「出しはしないんだよ。」
「でも気になるんですもの。いつかのようにどんどん舟を出しておしまいなさるかも分らないんですもの。──わたしお父さまのなさることを後ではらはら思うことが沢山ありますの。何日のように出さないって言っていらしたくせに、とうとう島までおやりなすった──。」
眠元朗はひとりで微笑いながら、棹を一とさしずつ辷らせた。
「そうあの日は島まで漕いでしまったが、──あとでお母さんが来られないことが分ったじゃないか。」
「ご遠慮なすったのよ、このごろはお母さまは舟に乗ることをお喜びにならないようですわ。わたしなんだかそんな気がしますの。」
「舟に乗ることを喜ばないって──お前にそれが分るのかね。」
「きょうも急ぐには入らっしゃらなかったことから考えても、そう思われますもの。」
片手を水の上にひたせ、水をなぶっている繊指は、立っている父親の眼の下にあった。そろえた膝と小さな足──こまかいことを考えることに秀でた頭には、煙った髪がさらさらと肩まで垂れている。──眠元朗は棹を休めて娘と対い合って坐った。そして娘の顔をしずかに眺めた。
「お前はお父さまが好きか、又お母さまが好きか、もう一度それを言って見てくれないか。」
娘はそういう父の顔の、ずっと奥の方にある真摯さに刺戟されたが、やはり子供らしく可笑しかった。同じことを繰り返されるということより、その真面目さが可笑しかった。
「どちらも好き──。」
「それはいけない、どっちかに余計好きなところがあるに違いがないから──二羽の異った小鳥にもそれぞれべつに好き好きがあるものだから。」
娘はやはり水の上を指でいじくり、そら眼でほほ笑んで父の眼を見上げている。そして当惑した考えを無理にまとめようとしているらしい無邪気さが、清々した気もちを父親の胸に湧き立たせた。
「こまるわ、そんな事──。」
娘はすぐ言葉を継いで、何か自分の頭に今きゅうに起った新しい考えに思い付いて不図尋ねた。
「そんなことをお聞きになって何になさるの。どちらが好きでもかまわないじゃありませんか。わたしよそへ行きはしないし、誰一人として此処には人間らしいものが居ないんですもの。」
「誰一人いないところだから、お父さんはそうお前にききたいんだよ。お父さんはそれを聞くのが楽しみなんだよ。」
「ではお母さんより好きだといえば、いいお気もちになりますの。」
娘はそういうと黙っている眠元朗をかえり見た。
眠元朗は心のかたくななのに暫らく沈みこんでいた。
「お父さまがお喜びになるなら、わたしお父さまが好きだと言ってもいいわ。」
眠元朗は返辞をしないで、桃花村のある島の向うに眼を漂わせていた。それは娘の返辞のそれから鬱ぎ込んだのではなく、きゅうにやはり詰らない退屈さと所詮なささが、唐突にかれを心から脅かしたからである。自分の考えている事や、自分の今在るということ、そして妻のことなどがかれをかれの永い間持ち腐らせている悒鬱にまで追い込んだのである。──かれはそういうとき物を言うこと、又聞くことを厭うた。かれは自身でどうにもならないと知りながら、己れも心をくさらせることを悟っても、やはり自分の中でのみ住んでいた。
「お父さま、そんな顔をなさいますと、わたしきゅうに恐くなってまいりますの、おねがいですからそんな顔をしないでくださいな。」
娘の顔は美しいなりでその美しさが悲しそうに変化ってゆきそうだった。その移りかわりがあまりにあざやかに眠元朗の目にうつり過ぎたため、かれは危ないものをうしろから抱きとめるように、もとのように穏やかな心になろうとした。
「これはお父さまのくせなんだから、気にかけないでくれ、──もう、こわくはないだろう。」
「けれども……。」
娘はつとめて微笑おうとしたが、なぜか窮屈な硬ばりをおのれの顔にかんじた。──父はかならず自分の微笑いがおを見ることを望んでいるだろうと思ったが、やはり微笑えなかった。
しばらくしてから、弱々しい娘の顔はもとのように晴れかかってすこしの曇りのない色に戻った。父はそれを静乎と眺めていたが、やっと落着いてそして娘に言った。
「お父さんは何も分らないお前に分って貰おうとしたことは悪かった。」
かれはそういうと、又黙って桃花村の方を波の間に間に、ほんのりと染った色をくるしげに眺めた。──父は黙って、その桃花村を指してあれを見よと娘に言った。
「まあ、一日ずつ紅くなってまいりますのね。」
「あのなかに白い四角なものがあるだろう、あれは何のためにあるのかお前は知っているかね。」
「いいえ。」
「あそこにわれわれと同じい人間がいるんだよ、お前は知らないけれど……。」
娘はその美しい桃花村一帯のかげが、湖べりに映ってきらきら耀いているのを眺めていたが、べつに何とも言わなかった。──そこへは遠くもあり父にしても母にしても、まだ行ったことのないらしいところだった。
──或る波の穏やかな日に、娘は母おやと一しょに舟に乗って、湖心に近い、紫色の島の影のしているところに居た。──そのとき母親と娘との眼路の果に、まだ春浅い茜いろに燻されたような桃花村が静かすぎる空につづいて長閑げに見えた。
「お母さま。」
娘はそう母親を呼びかけて、「わたしあの村へ行って見たい気がしますの。」と瞳をいきらせて言った。
が、母親の返辞は意外にも娘の耳もとに、曾つて聞いたことがないほど冷たくむしろ意地悪くきこえた。
「いいえ、あそこへ行ってはなりません。あそこはお前のような綺麗な心を有っているものの行くところではありません。」
「どうしてでしょう。──それに、わたしはそう綺麗な心をもっていはしないんでございますけれど……。」
娘はふと母親の顔を見たが、すっかり顔色が硬ばって蒼褪めているのを、この上ない恐ろしいものに眺めた。
「お前は再度とあの桃花村のことを言い出さないで頂戴。ね、そしてそれを母さまに誓ってくれるでしょうね。」
「ええ。」
「母さんの大切なお前だから──そちらを向いてはなりません。それにもう泣かないでもいいのだろう。」
娘は母親の手を肩さきに感じながら、自分の言い出したことが母親を苦しめたことを悔んで、そして泣きしずんでいた。──
その日から娘は母親とその村のことを話し出したりすることを止めた。にも拘わらず父親は桃花村のことを口にすると、いつも機嫌がよかった。いまも眠元朗は静かではあるが熱のある目付で、うすあかい、渚に打ちあげられた、美しい貝殻の列のような村落を眺めていたからである。
「お父さま、なぜお母さまはあの村のことを話すると、あんなに寂しい顔をなさるのでしょうかね。」
娘は父の膝の上に手を置いて、うっとりと村の方に見とれながら言った。──が、父親の返辞がないので、何心なくふりかえって見ると、眠元朗は悒悒した眼で何か考え深んでいるらしかった。──その眼の表情はいつか母親の眼の上にもあった表情だ。娘はこのふしぎな父母の表情が期せずして二人とも同じく陰気で、同じい頼りなげな光を見せているのに、ひそかに心で驚いた。
「わたしそれが分らないもんですから……。」娘は父親の胸のあたりの着物をなでながら、あまえた中にうっすりと悲しげな皺のある声で言った。
「それはお父さんにもよくわからないことなんだ。──だが、お前はそんなことを知ろうとしてはいけない。」
いや、知ろうとする気になるまで、誰がそういう心にならせたのであろう、眠元朗はあんなにまで清浄な心でいた娘が、いつの間にか父と母の心の斑点に、優しい爪を立て始めたのであろうと思った。
「やはり黙っていなければならないんでございますか。」
娘はしくしく泣きはじめた。父親の膝の上に──眠元朗はその娘の髪の上に自分の手を置いて、悲しげに桃花村を罩めている紅霞をながめた。そういう父の眼に何が映ったか? 娘はただ凝乎としているばかりで、何をも知らなかった。知ろうとすることが自然に誰からも許されようとはしなかった。──そのとき娘はぼんやりした夢のなかを彷徨するような父親のこえを聞いた。
「お前はお父さんを好いているだろうね。」
娘はそのこえを恰も遠方からでも聞いているような気がして、一そう父親が悲しげに思われた。
「ええ。」
眠元朗はしばらくしてから、舟が湖心に漂うていることに気がついた。──娘もいまは紫色をした島影が、舟の上を半ば覆うているのを幾らか冷やりとした気もちの上に感じた。それと同時に眠元朗の耳もとをつんざいた女の声があった。しかも遠くから湖面をつたうてくる声だった。──娘は渚の方へ向いて、そして始めて驚いた声を上げた。
「お母さまが呼んでいらっしゃる──。」
眠元朗は娘と同じ方向に眼を遣ったが、しかし落着いた声で言った。
「母さまは寂しいことはないだろう──。」
父親は棹をとろうとしなかった。が、娘は棹を父にもたした。
「舟をもどしてくださいな。」
そういう娘の瞳は、渚に立つ母親の方へ動かずに凝らされていた。眠元朗はその娘の瞳を悲しげに眺め、なかば諦めたような顔つきをして、ぐいと、水馴棹を立てると、大きな島影は石油色をした虹のような小波を立てて、ゆらりとその静かな影を揺れくずし初めた。
一たい此処はどういうところであろうか、湖と島と、それを隔てた桃花村と、いつも曇色ある日かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交る交るに囁いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当らない──かれらがどうして此処ところに住んでいるかということ、それが何時から始められているかということは、ほとんど朧げな記憶を過っても、なお夢見ごこちだとしか考えられないのである。──かれらは或る時ふいに別々な三人が寄り集っているのではないかと考えるときにも、なお眠元朗は女につづいた深い永い過去をもっていることを感じた。──が、どうして此処にかれらの生活が置かれているかということの、その最初が分らなかった。──しかし彼らの生活がこの湖べりに来てから、何も彼もあたらしくされたことは実際であった。
眠元朗はおのれの妻である女と、そして娘とだけを眺めてくらした。その他の何ものをもかれらの眼を刺戟するものがなかった。白い無数の小鳥と、波間の魚介と、砂丘に這う紫色の藤蔓とだけだった。──かれらは此処でどれだけの月日を送ったか、その間は非常に永いようにも又短いようにも思われるほど、何事も平板にあぶら流しに過ぎ去って行った。眠元朗は女と、小さな家の、浜松のかげにある素朴な腰掛けに坐りながら、同じ窓さきにいる娘をみいみい、ほとんど居眠りと退屈とを相半ばする腐れた時間を送っていた。それと同じいように女もなかば眠って、ものうげに折々眠元朗を見戍るだけだった。一さいのものはその心をも静まらせ、ただ曇色ある空を仰ぎ見るような安らかなぼんやりした時のもとに過ぎて行くのみだった。
眠元朗はふと女が同じ腰樹けに坐って眠っている顔をみると、いつものように穏やかな気もちになることを感じた。拘泥のないはればれした快活さが、その女の眠っている間には必らず湧き上ってくる感情だった。かれは窃と腰掛を離れ渚の方へ向いて歩き出した。なるべく音のしないように、そして耳の聡い娘にもさとられないように注意して歩いて行った。
渚には舟がもやがれ、波にもまれながら平和に低くなったり高められたりしながら揺れていた。──眠元朗は舟に片足をかけ、そして乗り移ったときに、ふと女の方をふりかえって見たが、なお女も娘もふかぶかと眠っているらしく身うごきさえしていなかった。眠元朗はそれを目に入れると、急に舟を漕ぎ始めた。──湖面はしずかに波を打って乱れたが、その舟が島影へ着かない前に、渚からの娘の呼ぶ声がした。見ると女も立ち上って、眠元朗の方に向いて声を上げている。──かれは為方なしに舟をもと来た水脈の上にしずかに戻した。かれの顔容は寂しい歪をもちながら、目は桃花村の方にそそがれていたのである。
舟が渚につくと、娘はすぐ父親に抱きついて、あまえた声で言った。
「まあ、ひどいお父さま──。」
「どうして。」
「お一人でいらっしゃるんですもの。わたしだちの眠っている間に、──ひどいわ、そんなことを為すっちゃ──。」
眠元朗はあたまを掻いて、娘の手の甲をぴちゃぴちゃ叩きながら微笑った。
「そりゃお父さんがわるかった、まあ、がまんして呉れ。」
眠元朗は娘の肩ごしに、ふと女を見た。そのとき何年にも見たことがない──そう、ずっと古くに見たことのある女の顔が、いつの間にか今の表情に入れかわっているのを驚いて見た。この平明なくらしのなかで今までにこの女が、このような顔をしたことがなかった。
「お前は眠っている間に大そう顔貌が変った、まるで別人のようだ。」
「いいえ、それよりもあなたのお顔もかわっていらっしゃいますわ、いつものようではございません。」
眠元朗はあわてて自分の顔に両手を遣ってみた。そして女があんなにまで穏やかな眼をしていたのに、いまの変りようはどうだろう──眠元朗はこんどは娘の方をふり向いて見たが、しなやかな顔つきはのびのびとそれ自身夢のように静まり、瞳はまんまるく美しい白味にまもられ、艶やかに微笑っていた。
「お父さんの顔がへいぜいとは違って見えるかね、それをよく見て話してくれ。」
「いえ、お父さま、」
娘はあたまを振ってみせた。──母親も娘にちかづいて、同じことを娘に問いただしたが、娘はやはり変ったところがないと言ってほそぼそとおかしそうに微笑った。
「まあ、おかしなお母さま、──おふたりともどうかなすったのね。」
娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかも訝しく眺めたことがなかった。かれらが互いに何かの変化がその表情にないかという問いを、娘が再び頭のなかで働かしたときに、思いがけない母親の眼を見た。それは父親に対って何かを咎めているようなけわしい色をしていた。──そして父親は父親でまだ見たこともない悲しげな眼色をしていたからである。娘はそういう父と母との間に、自分の心がひとりで脅やかされ縮むような気がした。そして何時もならそのどちらかの胸に飛びつくのであるが、きょうはどちらへも抱きつく気にはなれなかった。そういうことをしてはならない気も交っていたのである。──娘は生れてはじめて二人のそばを離れたところで、そしてうしろ向きになって泣き出した。
「母さまが悪かった、──お前が悪いのではない……。」
暫らく経ってから母親は娘を抱きすくめ、そして髪をなでながら優しく言った。娘は一そう悲しくなって泣き出した。
「母さま、なぜお父さまとああいう目付をなさいますの。わたしあんなときに、どこかで、ああいう眼をいくどもいくども見たことがあるような気がして、それを考えようとして、考えあてられなくて辛い気がいたしますの。」
母親は娘の目を見た。そしてはっきりした声で
「それはお前の考えちがいですよ、あんないやらしい諍いはわたしだちは今日はじめてしたんですよ、それをお前が見たことがあるなんてことはありません。」
「いえ、いえ、わたしずっと古くに、そう、まだ何んだか知らないときに見たことがありますの。」
母親は黙って娘のくちをふさごうとした。娘はその手を払い退けようとあせりながら、指の間から漏れたこえを出した。
「わたしは怖い──何んだか一杯にいろいろなものが見えてくるんですもの。」
「何が……。」
「あんなに怖い眼ばかりが見えてくるんです。」
母親は狼狽てて娘の耳もとでささやいた。
「お前はつまらないことを考え出さないでおくれ、此処まで来て母さまの気を狂わさないでおくれ。」
そういうと母親は、娘を抱いたまま啜り泣きをはじめた。かれらは岩かげに動かずにいる間に、暮色はこの一帯をすこしずつ飴色にぼかしはじめた。
「お父さまは?」
娘は岩かげから出てくると、母親にそう言いかけ、渚の方へ目をやると、抱き膝をした眠元朗はすこし仰向きに顔を湖づらへ向けて坐っていた。──桃花村はかすんで見えなかった。が、なにか竹筒でも吹くような美しい楽の音いろが湖の上の湿りを亘って、娘と母親の耳をかすめた。
「お呼びしましょうか。」
母親は娘を手でもって、静かにするように止めた。
「暗くなったらおかえりでしょうから……。」
二人は肩をならべ歩き出したときに、眠元朗も立ちあがった。そして先きになった二人の姿を目に入れた。が、別に趁うこともしなかったが、かれらの歩いた砂の上の足あとを、一つは大きく一つは小さい優しい足音を、己れのそれに踏みあてとぼとぼと歩いて行った。
小さい見すぼらしい灰褐色のみで造られたような家──に、なお灰色の釣らんぷが卵黄のようにぼやけて灯れ、その影が歪んだ窓さきから白い砂の上に落ちていた。母親と娘は窓ぎわへ寄って眠元朗の姿がしだいに近づくのを待った。
「お母さま、どうしてお父さまは興味くなさそうにしていらっしゃるんでしょう。わたしそれが気になってならないんですよ。」
母親は砂の上に夕闇とはもっと濃い影をひいて歩いてくる父親の垂れた手と、うつ向きがちな顔とを目に入れた。
「あれはお父さんの、ずっとむかしからなさる癖なんですよ。──しかし此処にまで来てなおああも寂しそうに考え込んで居らっしゃろうとは思わなかった。──そういう考えることはわたしだちは一度に棄ててしまったんですけれど……。」
娘はふしぎそうに母親を見た。
「どうして考えることを母さまはお棄てになったの──でも、やはり毎日なにかお考えになっていらっしゃるじゃありませんか。」
「それは……。」母親は溜息をついた。「それは何も彼もすっかりこの世間のことが新しくなって、わたしだちは何時の間にか三人きりになってしまったときにも、やはりわたしだちは種々なことを考えなければならなかったことに気が付いたんですもの──お父さまだってむかしと渝らない、渝ったものはこんな湖べりに来ただけですもの。」
娘は幾度も頭をかたげていたが、夢を半分切りぬいたように何も彼もわからないらしかった。
──そのとき眠元朗は窓の外に立って、そこに出した娘の手を把った。娘は父親に甘えたこえを出した。
「お父さま、晩になったから又話してくださいね。」
眠元朗は考えながら、「お父さんの話することをすっかりお前が聞いてしまったら、お前は最う此処にいることが厭になってしまうだろう──。」
そう言って母親の顔をみた。母親も父の眼を見入った。
「どうしてでしょう?」
「お前の好きなことが此処にはなくて、お父さまの話の中にあるのだから?」
娘は父親の両手をとって、そして拝むような眼をして言った。
「その話をして頂戴。わたしその話が聞きたくてならないんでございます。──母さまからもおねがいしてくださいな、ほらこんなに聞きたいんですもの。」
母親は執られた手が娘のからだの何処にあるかを知ったときに、彼女自身も一度にどきどきした心臓を感じた。──まだ母親が若かったころにそっと或る夕方に握ってみた小鳥の、その微妙などきどきしたものを娘の柔らかい乳房のかげにあるものから感じた。
「お父さま、娘を見てやってくださいまし。」
父親もその手を娘の胸の上に置いた。何という匂い深く謹んだ花のような息づかいであったろう──眠元朗は掌につたわる息づかいを一弁ずつほぐれる花にも増して、やさしく心悲しく感じた。
「お父さま、聞えて……。」
「あ、きこえる。」
母親はあちらむきになって、唏きながらいた。なぜか彼女には目の前にずり落ちて来た世界が、煉瓦や白い建物や町や、彼女の父母や友達や、それから一そう悲しげな夫の女友達なぞが、一枚の絵を半分だけ引き裂いて目の前に叩きつけられたように、パラリと吊されてひらひらしているように思われた。──そういうとき母親は娘のことを忘れていはしなかったか? いや、それよりも騒々しい夕方の町のぞよめきの中に、なぜ夫である眠元朗があちゆき此方ゆきしているかを見なければならなかったか。
ドアが半分開いていて、白い砂の肌が一そう白く、一そう震えた青みを雑えていた。そして窓からはなれた眠元朗がその入口から、しずかに這入って来たのである。
「ドアをしめるな。」
三人が食卓に向ったときに、灰褐色のふしぎな家のまわりに、同じい蒼みある灰色の光が一杯に閉じ込めていた。そして誰かがその四角な小窓から眼を室内へうつしたら、そこになぜ三つの影があったかということに驚くにちがいない──。
かれが再び卓についたときに、睡眠よりもっと静かな娘のこえがこの二人の前にいくども囁やかれた。
「話して下さいな──おねがいでございますから。」
しかし二人は黙っていた。そして娘の胸の上が低くなったり高くなったりするのを凝乎として眺めていた。かれらは気むずかしく哀しげな容子を、ドアのそとから忍び込む光が間もなく卓子の脚にまでとどくまでつづけていたのである。
あらゆるものは静かな一色の灰色でなければ、それを一そう濃くしたような仄白い色に充たされている。一たい此処にも月夜はあるが玲瓏たる光ではなく、重いどんよりした曇色がかさなり合ってそのため褐色を眺めるような悲しげな面持ちをしている。湖面にしても明りはあるがよく影をうつさない──その他岩壁にしても舟にしても、波のよする渚にしても曇り硝子のようにぼんやりしているのである。このような褐色の主調はいたるところに同じい人間の皮膚に似た、或るさもしい感じを抱かせるのである。
こういう晩をどれだけ殆ど数えることもできないほど、眠元朗は目にうつし心に浸したかわからない。それ故眠元朗はこの褐色の晩景をあるくたびに、おのれの心も褐色に滲んだ皺をたたみ込まれているような気がした。しかしかかる単調な風物はあたかも箱のなかに押し込まれていて、その箱の上の磨硝子から外をながめているような戻かしい窮窟さをかんじてならなかった。──眠元朗は退窟と倦怠とをなお二重にとり廻したようなこの晩景のなかに、しかもなお索漠たる砂上を踏んで歩いていると、おのれの変り果てた姿をもう一度ふりかえって見て、しかもどうにもならない微笑が浮んでくることを感じた。──眠元朗はいまさらのように四辺を回顧しながら、寂しい風物の間に、貝殻に耳をあてながら聞くような湖鳴りに幾たびとなく耳を欹てた。
「これは何という寂漠とした、しかも動かない風物であろう、──この中に封じ込められているということは、夢でなくて何んであろう。」
しかも眠元朗の感情は、遠い世のそれから引続いたものを持って、絶えず何かにあこがれようとしている。かれのあこがれが何であるかも、そのあこがれに対って妻が絶えずその目をそそいでいることも、あまりに明るすぎるくらい分っている。──一度夢を棄てたかれらにいつの間にか夢は戻ってきて、二人の間になお暗い遠い世のつながりを置いている。いまはそれすらもおたがいに匿そうとしてはいない──まともに受けた光のように、何とこの褐色の寂しい世に二つの心はさびしく対い合っていることであろう? 眠元朗は遠い世にあってはこうまで厳しい人間の心が向きあう息苦しさを感じなかったのに、いまは何というまざまざとしたお互いの心を感じあうことのみに、月日が灰や炭のように消えて行くことであろうぞ──眠元朗は岩壁へ出て、そしてぼんやりした湖心のあかみに瞳を落した。その瞬間であった、或る三角形に引裂れた紙片のようなもののなかに、かれはかれのいた遠い世の雑音と白い多くの建物の町のつらなりが、さまざまな旗や色彩の濃い看板とともに、ちょうど古い都会の見取図のように目にうつった。
「あれらは決して夜ではない──あれらほど正確なものはなかったに違いない。」
かれの眼底にはなお紙片は去らずに、その青い窓のある家々の扉を開いて、扉の内部にあるあの世の平和と静謐と規律と、そうして其処にある人物を描いて見せた。かれはその人物がいかなる人物であったかということにも、しずかに心を動かせることができた。全くあれらの生活は眠元朗にはやはり退窟と倦怠と息づまりをあたえたに過ぎなかったのに、いまはどんなにこの三角形の紙片が珍らしく眺められることであろう、──しかし結局あの遠い世も今のかれのいる世も、一しょなものであって、それは別々に考えるものでないかも知れないと思われた。かれは岩壁の上に立って行った。そして灰だみた遠方に己が住む家の燈影をながめた。
「あれか、おれのいる家は?」
かれは微笑んで、己が家をふりかえって見た。燈火は一つきり窓のそとに漏れているばかりで、あたりは荒涼とした砂丘でなければ砂山のつらなりで、砂山のてっぺんが年古くなったせいか、夜ぞらに擦れてうすい明りをもつ燐のように、ちらちら光って見えた。眠元朗は、ふりかえってなお岩壁をも一層高みへ上ろうとしたときに、かれはそれにのみある清澄な水溜りのふちに佇んでいる女の姿を見た。──全くそれは女の姿であった。
彼女はうしろ向きになって、髪をすきながら己が姿をこの清い水たまりに映していた。その白い頸首にも、その露き出した肘さきにも、まんまるい処女らしい円みとほたほたする肉附があった。灰色めいた明りはうすいながらも、その女の姿を水の上にうつすには充分で、何か夜のうちに咲いてしまう重い白いたわわな花のように見えた。──かれがなお一歩近づいたときに、水の上にうつっている顔を見出して、愕然とした。──同時にその水の中にある顔もすぐそのかげを水の上から消した。
「まあ、お父さま!」
眠元朗はあわてて赧らんで胸をつくろう娘を見た。
「お前どうして今時分こんなところへ来ているのか?」
娘は父親のそばへ来て、やっと安心をしたような息づかいをした。
「わたしいつもこの水たまりへまいりますの。此処へくるとわたしお話しができるものですから。」
「誰と?」
娘は目を伏せて羞かしそうに微笑って見せた。
「水の中の人と?」
「お前のかげとかね。」
眠元朗は娘をはじめて女として見るような気になった。──なおかれの眼底を去らないのは、先刻見た女としての娘だった。
「さあ下りよう、お母さまはきっと寂しがっているだろうから。」
一軒きりの燈影は、ここからは微かなあるかないかの明りの中にあった。紫と灰色との縞状の色合いを曳いた砂原には、その家以外に何一つ明りらしいものがなかった。
「お前は自分を美しいとでも思って、それゆえああして影をうつして話をしているのかね、お前にはわたしや母親がいるではないか。」
眠元朗は黙っている娘が、すき間さえあれば父と母との目から離れて行って、そして何かひとりで考えごとをしているのを思い当てて、物に躓いたような軽い驚きをかんじた。
「けれども……。」娘ははにかんでいたが、思い切って、「わたし時々ひとりでいたいんですの。わたしは美しいと思ったことがないんですけれど……。」
眠元朗は低い湿り気のある娘のこえを哀れにかんじた。
「お前はまだお前の外に美しいものを見たことがないから──お前はもう父や母のそばにいたくないのかも知れない、お前のような年頃にはそんなことがよくあるものだ。」
「いえ、わたしは何時までもいたいんです。そんなことを言わないでくださいね。」
眠元朗は岩壁の坂を下りながら、突然劇しい寂寞の感に襲われた。この娘も間もなく自分をはなれた生活をしようとしている。自分が厭うた遠い世の暮しを外からではなく、内部からぞくぞくと叫び出そうとしている。──眠元朗は脇の下にある娘の手のまんまるさを感じた。それは異体の知れない恐怖に似た感じだった。かれはその瞬間に一足飛びにかれはかれ自身の、まだ弱りきれない遠い世の彼の引続いた感情を見た。
が、つぎの一瞬にはきわめて穏やかにかれは娘の肩をなでた。そしてしっかり小さいからだを抱いた。
「お前は父さん一人を置いてきぼりにしないでくれ。見なさいお父さんはこんな道を歩くのにも胸がさわいで苦しくなってくるのだ。」
娘の手のひらには、そうぞうしい或る雑音が心臓から感じられた。そして烈しい息切れがした。──娘はふと何気なく父の顔を目に入れると、そこには弛んだ村老の落ち窪んだ力のない眼の光があった。娘は父親がともすると頼りない足もとで、よろよろ坂を下りるのを今更らのように見戍った。
「お父さまはこのごろ急に弱りなさいましたのね。以前にはこんなではなかったんですが。」
眠元朗は黙って、心で既う娘にもそう見えるかなと思うと、それが得も言われず温かい気もちになったが、また反対にがっくりと腰が折れ込んだような気もした。
「お父さんは一人であるときは元気があるのだ。しかしお前と一しょにいると、いつの間にかお前の若さに負けてしまってよろよろするのだ。」
「どうしてでしょうか?」
「さあ、──。」
眠元朗は何故か返辞ができなかった。──かれらは砂原の上へ出た。褐色の木とその色からできた家の窓のそばに母親はいたが、眠元朗と娘とをみると、あわてて家の前へ出た。──母親の顔にも退窟な夜の疲れがぼんやりあらわれていた。
かれらが卓子に向い合っても、徒らに静かな夜はゆっくりと目に立たぬ程度で廻転っているらしかった。
「わたしだちは此処に何時まで居なければならないんでしょうか、わたしは心まで遠くにあるような気がしますの。」
女はそういうと身体を灯のかげから起した。
「お前も退窟しているな、だが、どうにもならないのだ。こうして何時までも居なければならないのだろう。それが此処での宿命なんだろう──。此処へきては宿命そのものすら身動きのならないほど退窟なものだ。」
眠元朗のその言葉はむしろ冷やかすぎるくらいの、誰に向ってするということもない嘲りを含んでいた。
「ではわたしだちは何の為めに此処にいるんでございましょう。わたしにはそれすら分らないんです。」
「やはり生きてゆくためだろう──それより外の何ものでもない。」
娘はらんぷの顔からそのつやつやした顔を父親の方へ向けた。
「一たい生きてゆくことがこんなにまで退窟で、そして興味くないものでしょうか。」
眠元朗は、娘と母親の顔とを見くらべ、一つはしなびてしまい、一つは開こうとしている、と、そう頭にうかべた。
「生きてゆくことは疑いなく退窟だ、だが、お前はそんなに退窟はしないだろう。わたしどものようなことはないだろう。」
眠元朗は、女をながめたが、女もその言葉には肯ずくような面持ちで、しずかに娘の方を向いた。──娘は黙っていた。そしてやっと口をひらくと言った。
「わたし最うすっかり退窟してしまいましたの。何一つおもしろいこともございませんし……。」
父親は苦笑した。そしてまじまじと娘の顔をながめると、思い切ったように言った。
「お前がわたしだちのそばを離れてしまったら、そんなに退窟はしなくなるだろう、けれどもわたしはお前をはなさない──。」
「なぜ?」
母親は父の顔を見てそういうと父はしょぼしょぼした目で寂しそうに、こんどは娘の方をながめた。
「お父さま御自身が寂しくなるからでしょう。ねえ、母さま、そうじゃないんでしょうか。」
眠元朗は心で、全くそれにちがいない、おれは娘を人にわたすことができない、と、呟いて見たが、なぜかいまわしい感じが滓のように残った。
「そうね、しかしお父さまはどう思っていらっしゃるのか──。」
女は眠元朗をちらりと見た。眠元朗は全く明瞭すぎるくらい明らかな寂漠しい風表に佇っているような顔をしていた。──しかしかれは黙ってむしろ気難しそうに口をゆがめて返事をしなかった。
「わたしたちはみんな面白くなくて、そしてみんな退窟をしているんでしょうね。いつまでもそれが癒らない間は、こうして居なければならないんでしょうね。」
女はひとり言のようにそういうと、むっつりした夫と、まだ夢のような目付で、父と母とを眺めている娘とを見た。が、誰も何も言わなかった。夜とともに濃くなる褐色の空気はこの家も砂原も、そうして湖の上まで飴のように固めてしまっていた。
娘は父親と渚をあるきながら其処に乱れている美しい貝殻を手に拾い、そして温んだ湖水がおりおり足を洗うのに、心から興じていた。
「こんなに温かくなると、貝殻までが沖へ向って帆を立てるように、みんな起き上っているようですわね。ほらこんなに片っ方の貝が開いているんですもの。」
「なるほど、みんな片貝を立てているようだね。」
眠元朗は寄せられた貝殻や、蜆に似てまだ生きているこの不思議な生きものにも、温かい湖水へ向って何かを憧れているようにも思われた。
「お前あれが見えるかね。今朝はあんなに美しい色をして露ばんで、まるで真紅じゃないか? そして影が長くつづいているのが見えないか。」
「さっきからわたし見ていますの、ひとりでお父さまにもこっそりと黙って行ってみたい気がいたしますわ。」
眠元朗はもう燃えるだけで燃えきった桃花村が、これ以上美しくなることがないだろうと思われるくらい、燎爛とした王城を形づくっているのを見まもった。
「では一人で思い立って行ったらいいじゃないか? 何も父さまにそんなに遠慮しなくともいいではないか。」
「けれども……。」
娘は憂わしげな眼で父親をそっと穏やかに見上げた。
「わたしが彼処へ行ってしまったら、既うそれきりになって帰って来ないような気がしますもの。もし然うだったらお父さまはどう成さるおつもり──。」
娘の眼はその瞬間にやさしい猾るさを、その可愛げな頬ににっとうかべた。──眠元朗はちくりと胸を螫されたような気がした。かるい不快が伴うた気分だった。
「お前がかえらなかったら──そうだな、お父さまはお前をさがしに出掛けるだろうよ、そして何処かでお前をどんなに困難してもさがし出すかも知れない──しかし此処へつれてかえるかどうかは分らないが、捜すだけは捜す──。」
「そして若し何処にもわたしがいなかったら! どんなにしても捜すことができなかったらどうなさいますの。」
「そんな筈はないお父さまの生涯をその為に潰してもきっと捜し当てて見せる。それでもお前はどこかに隠れ終せるだろうかね。」
娘は真寂しい父親の顔に日の光が射しているためか、なお一層悲しげにその目をみつめながら、自分の考えていることを言わずにいられなかった。そのためどんなに父がさびしい思いをするだろうという気はあったが、何んだか言ってみたかった。
「ええ、わたしきっと隠れてしまいますわ。そしてお父さまがもうがっかりしてしまうまでも、ずっとずっと隠れていますわ。
しまいにお父さまがわたしのことなんかすっかりお諦らめなさいますまで──。」
「いや、おれはそんなことで諦らめたりなんかするものか、きっとさがし出して見せるよ。」
そういう眠元朗のこえは何時の間にか、かすかな震えを帯びるほど或る恐怖に似た不安と憂慮を交えていた。その上いつの間に娘がこうまで執念深く自分の心を傷めるようになっただろうかと思った。──しかし心の奥では最初たわむれて言ったことが、次第に娘の本気をさそい出したことを何よりも悔まれた。
「いいえ、わたしきっと今に隠れてしまいますわ。見ていらっしゃい、きっと、きっとお父さまのそばから居なくなってしまいますから。」
眠元朗はそのときふと娘の眼をみた。娘の目のふちは赧らんで、白みのまんなかにある黒瞳は動かずにすわったきり、何を見ることもなく底輝きをもっていた。危ないと眠元朗は思った。かれはそういう美しい思いつめた眼を何と久し振りで見たことであろう? しかも分身のなかにこんなにまで美しい眼があったこと、その眼がいつの間にか自分に馴れなくて叛こうとしているのを──かれは恐ろしげにながめた。
「お前それを本気になって言っているのかね。」
「ええ、本気ですわ、本気でなくて何でしょう。わたし全くお父さまからはなれてしまいますの。」
眠元朗は昂奮している娘の肩へ手を伸べ、手のひらでしっかり肩をおさえた。そして悲哀で渋びた声をした。
「もっと落着いてくれ、そんなにお前のように昂ぶってはこまるではないか。ねえ、お父さんの眼をそっと見てごらん。そしてお父さんの何んであるかということ、又お父さんがお前がいなくなったあとを考えてみてくれ。もう分ったろうね。」
娘はそのまんまるい目を父の目に向けた。そのまんまるさは次第に大きくはなったが、しかし輪廓をぼやけさせてゆがんで、それを持ちこらえられなくなって、いきなり飛びついて悲しげに甲斐絹のような柔い長い声で欷り泣いた。その泣くたびに苦しそうにもがいて父の胸を突き突きしていた。
「わたしどこへも行きはしません。きっときっと行きはしません。」
娘はそういうとなお吃り泣いて、父の肩にかけた手にちからを込めて、抱きついた。が、眠元朗は娘がそう遣ったときから、忘失してしまったようにからだ全体に重々しい倦るい悲哀をかんじた。かれは先刻とは反対に物言おうとしなかった。──かれは嘘と真実とで娘の心を又ひん曲げてしまった。おれは何という下らない自分ひとりよがりを考えている父親だろうと思った。かれはかれの考えていることの嘘だらけなのに忌々しがって、そこらに大声挙げて何か正実な言葉をかたりたい気がした。
「お父さま、わたしがわるうございましたから勘忍してくださいな。もうもうあんなことを言わないようにいたしますから──ねえ、どうかもとのお父さまになってくださいまし。お願いでございますから。」
眠元朗はあわてて娘の手をとって、その手を合そうとするのをほつれさせ、そうして悲しげに何度も吃った。
「あやまるのはお前でなくて、わたしだ。わたしはお前を何度も何度もだました。そしておれ自身が寂しいためにお前をこんなに寂しいとこへ連れてきて、遠い世の何ものも見せまいとした。お前には人生そのものすら存在しないまでに、そんなにまで叮嚀にわたしはお前をこんな風と水と砂丘の世界へ封じようとした。──これがあやまりでなくて何であったろう、ひとりよがりの佗びしいヒネくれたわたしの小さな考えであったのだ。そういう間にもお前には済まないと思いながらわたしはわたしの快楽を何かの隙間からも偸みたのしんで、飽きることをしらなかった。何一つ人間として楽しみを逃さなかった。」
眠元朗のさびしい顔にはたぎって走るあらしのむれが、耳鳴りのするほど凄じくながれた。かれは娘を抱いて、そしてかれらは自然に両方のもたれ気味な姿勢が、最後にぺたりと砂原へ崩れるまで続けていた。
「お前はしょっちゅうお父さまにいろいろな話をききたがったが、しかしお父さんはお前になるべく遠い世の話をしようとしなかったばかりか、つとめてお前にその話を避けさせていたくらいだ。お前がどんなに人生に出たくとも、そのためどんなに寂しくともわたしはそれを考えようとはしなくて、そしてお前の心までいつまでも黙らせてしまったのだ。」
眠元朗は切ない苦しげな目で、娘に或る許しを乞う色をした。
「わたしはわたしばかりの事を考えていたのだ。お前というものがわたしの事情以外にも、何でこの世の中へ出てわるかっただろう? いや、お前はもっと早くにもっと素晴らしい人生へ出て行くべきであったに、わたしの頑なむしろむごたらしい気もちはこんなに永い間お前を封じていた。しかも今の今までお前の考えていたことまで、無理遣りに壊そうとしていた。娘よ、わるいものはわたし一人でお前でも、それからお前の母でもない──お前に退屈がやってくるなんてことは有り得ないことだ。退屈それ自身はわたしの受取るものだ。」
眠元朗は急に胸が拡がるような、或る鬱積したものが発散する清々しさを感じた。かれははじめて自分の娘をゆっくりと眺められるような気がした。
「見てごらん、あんなによく日が当って、桃花村がきらきら光って見えるではないか。今こそお前はいつでも桃花村へ行けるのだ。」
娘はその永い啜り泣きのあとで、ぼんやり夢でもさめたような父の顔をながめ、父の眼路を辿って、日の光をあびた美しい桃花村をながめた。そこからふしぎな音楽が花と花とに埋れたなかから、玲瓏とした楽しい音色をつづけた。気のせいか幾隻とない美しい竜旗を掲げたような舟が、朝日の湖にぽっかりと長閑げに浮いて見えた。
「お父さま、わたしお父さまの仰ることがよくわからないんでございますけれど……わたしはやはりお父さまのおそばにいとうございますわ。今までのように──。」
しかし娘は反対な桃花村をながめ、そこへ心はふしぎに憧れた。けれども何故かそう嘘をつかなければならなかった。
「お前はわたしのそばに居なくともよいのだ。お前の好きなところへ、そして勇ましく出て行ってくれ。」
眠元朗は娘を渚へつれて行ってそう言うと、不意に舟を渚から水の上へ辷り出させた。湖水の上には青い竜のような影をひいた日の光が、ななめに桃花村へ向いて、金色の巨鱗を打ちひろげていた。
「いえ、お父さまそんなことをなさいますと、あとでお母さまがお怨みなさいますわ。」
「誰も怨まないのだ──さあ、お乗り! そしてお前の手のつづくかぎり漕いで行くんです。」
娘はしかたなく船に乗りうつったときに、舟は父の手によって水の上へ辷り出された。青い竜のかげは乱れた。舟は白い小さい手によって漕がれた。──娘はそのときこれまでにないはっきりした顔をして、そして鋭い嬉しそうな声をあげた。
「もう行ってもようございますの。」
「いいとも……お前は何という嬉しい顔をしているだろう。」
父親の声はさすがに寂しくかすれていた。
「え、わたし嬉しくて──ではお父さまお大切になさいまし。」
眠元朗はしゃがんで、走る娘の舟を見つめた。舟は桃花村のある方へ白い水脈をひいて、目ぐるわしく迸った。眠元朗の目は湿うてその弄ぶ砂は手のひらを力なげにこぼれた。
底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星未刊行作品集 第1巻 大正Ⅰ」三弥井書店
1986(昭和61)年12月15日
初出:「詩と音楽」
1923(大正12)年5月号
※「退屈」と「退窟」、「舟」と「船」の混在は底本通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2013年10月11日作成
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