しゃりこうべ
室生犀星



 電燈の下にいつでも座っているものは誰だろう、──いつだって、どういう時だって、まじまじとまたたきもしないでそれの光を眺めているか、もしくはその光を肩から腰へかけて受けているかして、そうして何時いつも眼に触れてくるものは、いったい何処どこの人間だろう、──かれはどういう時でも何か用事ありげな容子ようすで動いているが、しかしその用事がなくなると凝然じっと座ってそして物を縫うとか、あるいは口をうごかしているとか、または指を折って月日の暦を繰っているかしている、──かれのまわりには白い障子と沈丁花のような電燈とが下っているだけだ。

 誰でもこんな姿を見たことがないか──あるいは五年も十年もさきから、いつだって晩にさえなれば形紙の中から抜け出した蝙蝠こうもり色をした姿を、おのれの住家の中に──飽き飽きしながらもその影を除くことのできないようにして座っているではないか──よく考えて見てもそんな人間に知り合いはないが、よくよく見ると見覚えのある毎日見る顔で、毎日見ているために何時の間にか忘れ果ててしまっているような顔付かおつきで、そうして急にはちょっとは思い出せない顔付──そういう馴れきった顔つきであるために、心には何も残していないようで、とうていその顔付からげ出すことのできない宿命じみた蒼白い顔付──それが春夜にもなお電燈の下に座っている──。

 晩になると一軒の家にきっとこんな姿が決って座っている。どんなところにも黙りこくって、考え込んで、考え込むためにくろずんだ姿で、季節はずれのきのこのように湿っている──それは客間でも座敷でも茶の間でも、あかるい電燈の下にはいつでもきちんと座って、十年が二十年でも、そうしてこの世の終りまでも見とどける心がけで、この世の終りはきっと自分だけが居残るだろうという自信をもって、実際は見とどけ過るような長生きの前例で、さもしくしかしこっそりと一人で微笑ほほえんで座っている、──このおしの強いどうにもならない宿命じみた陰影をどうしたって追い払うことはできない、──明るければ明るいほどこの姿は濃い──消えてゆくような影や形ではない。

 こんな人生のくらしを眼をほそめて眺めて見わたすと、家というあんな陰気な箱みたいな二重にも三重にもあるいは十重二十重になった中から、ただ映ってくるものは一つの電燈の下っている真下に、いつまでも消えそうもない宿命の姿だけが家々の内部からえぐり出したように見えてくる──劇場のさじきに一人ずつおさまり返っている看客かんかくのように、人生のひもじい堪らない晩には、あんなにくどくどした宿命がにじんで、たいくつなこの世の終りを、自分のまわりに生命をもったものの終りをちゃんと見とどけるために座っているではないか──。あれらは退屈を退屈としていない宿命のかげである。強情と我慢とからきた人生の骨拾いで、対手のしゃりこうべを火葬場の寒い吹きさらしの灰の中からほじくり出して、さて箸のさきにつまみあげてほとほと安心しきった顔つきで優しい微笑をもらすところのゴヤの婆さん──そして己れもやっと宿命の衣を脱いでしまって、それきりがっかりして、

「わたしはこれから何をしたらいいのだろう──もうあんなにきちんと座っていなくともよい、あんなにろくでもない片いじな昼も夜もない見張りをすることもいらない。」

 かれは心でそう言っても、やはりぬけきらない宿命のつづきを己れの子供や、子供の又の子供などにむかって、くどくどと又あたらしく籠を編むように考え出すのだ、──そしてそのひまひまには、あのようにしゃりこうべになって、灰の粉になって、もうあんなまんまるい形さえなくなった骸骨にまでも、遠いむかしの考えを比較つきあててはそれを子供にためそうとする──あのときはああいうふうだったし、このときはあの人はこんな顔つきでこんな調子で物を言ったから、この子供にはこれこれのことが適当だろうとまだこわれもしない人生の算梯そろばんをはじくのである。そしてその、子供につきあてた考えが当ったらこの宿命のかげは心しずかに、この世の清い言葉で言うなら、全くほんとうにこころ静かに何十年ないほほえみを漏らすのだ。──あんなに永い間電燈の下で辛抱していたことも、ここまでくれば結局どんなに辛抱甲斐のあったことかもしれない──とそうかれはかれらしく考えるのである。だが、とうてい彼は彼らしい以外には何も考えることはできなくて、しまいにはかれはその以前の、かれのための宿命である──いまはそのしゃりこうべが何か言おうとするのを聞きすてるわけにゆかないのである。

 しゃりこうべは言うた。

「もう止せ。」

「いえ、わたしはわたしの言うだけのことを、わたしの生きている間はみんなに言わなければならないのです。」

「あとの者どもはあれらに勝手にさせたらいいだろう。おれ一人に取りいた宿命でおまえはもう沢山だろうからいいかげんに止せ。」

「あなたはしゃりこうべですもの──そんなことは言ったって言わなくたって、この世にはんにもならないことだとそう思いませんか。」

「ふむ、なるほどおれはしゃりこうべだ。──だが、おまえもそれになってしまって、箸のさきでその頭の鉢をつておれののを拾いあげたように、その子供らにつまみ上げられるだろう──だからいいかげんにしろ。」

「いえ、わたしはまだまだですもの。ほんとにまだまだだ──。」

 かれはかれらしく早速みぶるいを一つやって、さて霜どきのバッタのように瘠せたからだを身構えることによって、己れの健康がどれほどもどうもなっていないのを喜ばしげに顔の上にあらわした。

「迎えにゆくぞ、──」

「来られるものですか? 不吉な、そして用もないしゃりこうべさん。」

 かれはそこで又一つ、追いかぶさったように身ぶるいをした。

「その頭の鉢の地がだいぶげかかっているぜ、──風邪をひとついたってもうそれきりだと思うがよい、おれの見舞いにゆく前に、誰かが行っておまえのかたをつけてしまうだろう。」

「おどかしたってそりゃだめです。──このとおりわたしはありがたいことには、全くこのとおりにいきいきしているんでございますからね。」

「いや、ありがたいことにはそんなひまにも少しずつずり込んでくるような気がするからね、まああわてずにおれみたいになるんだね。」

 しゃりこうべは程よく微笑わらって、そしてその声を消してしまった。──かれは間もなく嘔気はきけに似たうすきみわるさを汚ない匂いをかいだように、その鼻膜のあたりにかぎつけた。そして何度も蒼白い唾を椽側えんがわへ出て、地面の上に吐きつけた。そして執念深そうにかれはつぶやいた。

しゃりこうべになるなんて厭なことだ。わたしはまだまだ──。」

 そして彼女かれはやはり電燈の下で、そのくろずんだ姿をいつまでも凝然と座らせていた。──その姿はかつてしゃりこうべでなかったかれの男の、嘆息のもとであったが、いまはその子供らがかわるがわるその姿を見ては、溜息をついていた。そして子供ら同士がささやき合せた。

「いつまでああしておれだちのことを、くどくどと小言を言い出すのだろう──もう止してくれればいいのに。」

 第二の子供は言った。

「いいかげんに往生とやらをしてくれればいい。」


          *


 或るところに二つのしゃりこうべがころがって、向き合って永い間どちらからも喋らなかった。が或るとき一つのしゃりこうべが言った。

「見覚えのある顔だ、──」と、そう考えてじろじろ眺めた。も一つのしゃりこうべほとんど同時に「どこかで見かけたことのあるような。」顔だと思った。しかしどちらも黙っていた。それから何十年経ったか、或いは何百年経ったかも知れない、──風雨にさらされながらも二つの白いしゃりこうべは、向き合ったままでいた。

 一つのしゃりこうべの穴のところに、毎年のように紫色をした威勢のいい凜としたすみれの花が咲いた。──別のしゃりこうべはその花の色の美しいのに見とれながらいたが、あるとき珍らしく声をかけた。

「その花をくださいな。」

 その時しゃりこうべ吃驚びっくりして、あいつはいつも電燈の下に座っていた奴だなと思った。──あいつはこんなところへまで出て来ておれに又たせがむんだなと思った。

「こんな花をお前は何にするつもりか──。」

 が、も一つのしゃりこうべは何も知らないように言った。

「その花はたいそう美しくて可哀かわいいんですもの。」

「ふう! お前にはまだ花なんかのことを気にしているのかい。」

 かれがそう言ったとき始めて、別のしゃりこうべは気がついて、嬉しそうにこんどは遠慮もなく菫をへし折ってしまった。

「それを折ってはいけない──。」

 そういう声はきこえなかったらしい──。

「あなたのならかまわない。」

 しゃりこうべはこういうと、あるたけの菫をむしり取ってしまった。別のしゃりこうべはがっかりしたはずみに、大方、この間からのひでりつづきの故だったのだろう──その白いしゃりこうべをあとかたもなく、ぼろぼろに崩れ落してしまった。──も一つのしゃりこうべはそんなことを少しも知らないで、紫の色をした菫を抱いて、その匂いを専念にかいでいたのである。──そして気がついて見ると、も一つのしゃりこうべ跡方あとかたもなく崩れてしまったのを見て嘆いた。が、そのぎにはまだ自分がこのようにがっしりした形をもっていることを何より喜んだ。

「わたしはまだまだだ、──。」

 だが、崩れたしゃりこうべのそばには、いつの間にか菫の花が咲かなくなって、そこは粉っぽい粗い地面になってしまった。──それにもかかわらず別のしゃりこうべは枯れた花を抱いたまま、こんどはすこしずつ崩れはじめた。──そしてしまいには跡方もなくなって、いつの間にか其処に一本の電柱が建ったきりあの世とこの世とを正確にしきりをしてしまった

底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年910日第1刷発行

底本の親本:「日本の名随筆 別巻64 怪談」作品社

   1996(平成8)年625日第1刷発行

初出:「中央公論」

   1923(大正12)年6月号

入力:門田裕志

校正:岡村和彦

2013年929日作成

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