香爐を盗む
室生犀星



 男が出かけようとすると、何時いつの間にか女が音もなく玄関に立っていて、茶色の帽子をさし出した。男はそれを手にとると格子をあけて出て行った。女はしばらくぼんやり立っていたが、間もなく長火鉢のところにぐったりと坐って、いつまでも動かないでいた。それは女のくせで、いつも男が出て行ったあとは考え込んで、すっかり陰気になって、なにも手のつかない一二時間をぼんやりして送るのが常である。そして考えつかれるとやっと縫物をはじめるのだ。海苔のような布片ぬのきれしゃくるようにして、暗い糸を通したりしていた。そういう一時間が経つと、かの女はまた上目うわめをしながら神経深くなって、何かこまかい感情の上のことや、茶碗のふちが、少しばかり欠けたことや、男の出掛けぎわに故意わざと視線を外らしたことや、口へまで出てわざと黙った素振りをしたことなどが、つぎからつぎと考えられた。その考えにふければふけるほど、しぜん仕事が留守になってしまって、あけた障子のそとのあかりを茫然ぼうぜんと上目をしながらながめるのであった。

 実際、女は日に日に瘠せおとろえていたのである、あごの尖ったのや、ほっそりと顔全体が毎日かんなをかけたようにがれてゆくのや、病的に沈みきって蒼みをもった皮膚が、きみの悪いほど艶を失って、喉のあたりまで白く冷たく流れこんでいるのや、それらは永く正視できないほど憂鬱にり上っているものに見えた。一つには彼女が物音を極端におそれたり、一つ事を永く考え込んだりする性質からきているのである。たとえば男のへやに、男のいないときに不思議に起る咳の音や、畳ずれのすることや、何か小言をいうらしいけはいなどが、よく空耳を襲うて彼の女をぎっくりさせるのであった。かの女はそのほっそりした弱弱しい顔をあげ、じっと耳をすまして、男の室におこる物音をしかも男のいない日にほとんど癖のようになって聞くのであるが、そういうとき彼女は真青になっておのずからふるえるような気がするのであった。

 かの女の眼底にはいつも黒ずんだ男の姿が、はっきりと仕事台に向って終日こつこつと彫りものをしている手つきまでが映っていて、それが異様な単に黒ずんだ影のようになってみえるときと、その顔まで生白く映ってくるときと、また別な余り見たことのない他人のように見えるときとあった。一つの材料に向って毎日彫りものをしているのみの刃が、ちらちらと鉋屑のなかに光ったり、たくみに彫っては木屑をすくい出したりしているのが、その黙々とした姿といっしょにうつってくるのである。男はいち日、ものも言わず不機嫌に仕事をし、不機嫌に咳をし、不機嫌に日に三度あて一しょに食事をするのであったが、何ひとつたのしそうな顔をせず、特に何事かを話し合うということがなかった。かれは女の蒼白い顔を見ることをおそれるもののように努めて視線を避け、つとめて話をし合わないようにしていた。女はそういうとき室にいて時時男の仕事にきき耳を立てることもあったが、すぐ寂しそうにれいの暗い糸から糸を引いては縫いものをつづけるだけであった。

 男は夕がたになると外へでかけた。男にはあきらかに女ができていることも、そとで初めて明るく微笑わらえることをも、女はいつのまにか感じていたけれど、女はしつこく黙って、いつも、

「いっていらっしゃいまし。」

 そう言って茶いろの帽子をわたすだけで特にくような素振りも言葉づかいもしなかったのである。そのため男は夕方になると妙にもじもじと時計や庭や空をながめたりして落ちつかなかったが、しまいには思いきって立ちあがるので、そのときの苦しそうな淋しい顔立ちのなかにしんと静まりかえった表情が、いつも女にはすぐ読みとれた。かの女は柔順に男を出してやり、男はおそくなるとひどく酔ってかえってくるのである。が、ふしぎなことには、男の目にうつる女のやつれようの烈しさは見るからにいたいたしく、細れきって精根もないそうめんのように小寂しくなって見えるのであった。それゆえ女が玄関に出て夜おそく迎えにでると、男のかおは後悔と羞恥とのいろを瞬間にたたえたが、まもなく気の強くなったような顔をして自分の室へはいったきり出てこないのである。

 女は日に日に瘠せるばかりで、どういうときにも音というものを立てなかった。すうと襖をあけたり、猫のような柔らかい足つきで畳の上をすべったり、深く睡りこんでいるように押入と障子との隅にぺたんこに坐り込んで、いつまでも黙っていたり、そうかと思うと何か洗濯ものをしながら、たらいのそばにかじりついていたりした。それは水のように音のない、どこか足のない生きもののようにも見られた。かの女が男の仕事場の障子をあけて、

「…………」と何かの用事をいうとき、男はおともなく開いた障子と同じいいろをした女を見ると、わけもなくぎっくりした。障子に半分以上を隠した顔が半分に切った鶏卵のように、つやを失って見えたからである。おどおどしながら、はじめ半分ばかり見せた顔をだんだんに障子のそとに隠してしまうのであった。

「どうしてお前はおれにこわがるんだ。そんなにおどおどしてさ。」

 男が鑿で荒彫りをと刃ざっくりと立てながら、ひょいと顔をあげて言うと、女はひくい声で、

「いいえ。べつに恐がっているわけじゃありませんの。」

 殆どささやくように言って、男の顔色がすこしばかり苛立たしくなっているのを読んだが、いつもの不機嫌とは違った若干いくらかの優しさが含まれているのをすぐに見て取った。いつもとちがった気もちでわたしと優しく何かを話しようとしているのだと、女はすばやく考えた。

「それならそれでいいがお前のように一日考え込んでばかりいるとしまいには病気になる。いまもからだが悪いようじゃないか。めっきり瘠せてしまったじゃないか。」

 女の肩のさびしい斜線の、すうとうすい鉛筆でひいたように薄く流れているのを、男はその細い腕のあたりまで目にいれて言った。

「自分じゃんともおもっていないんですけれど……それに別に何処どこ不良わるいということがないんでございますが……。」

「お前の瘠せかたがあまりひどいんだ。考えない方がいいのだ。」

 男がこう言ったとき「瘠せたことは知っているんですが……、」と女はこたえると、袖のところをまくって細い手をさすって見せた。ひじから手首まで鮎のように細く、生白いむずむずした臆病そうな艶を失ったせたいろで伸べられた。葉脈のようなうすあおいものがすいて見えた。

「お前は取越し苦労ばかりをしているんだ。つまらないことは一切考えない方がいいんだ。」

 男が煙草を喫いながら言うと、女は何か言おうとしながら口をつぐんだ。表情はすぐまぶたの顫えたのをきっかけに、一層いっそうの冷たさと蒼白さを加えた。それは何時も彼女が何もも押し黙っているときに不意にあらわす表情で、男はこれを見るとその執拗さと混乱された心をすぐ読みわけた。それほど男にとって永い間女と一しょにいただけ、すぐに感じられる表情であったのである。

「…………」女は黙って、目をあげて男をながめた。男はその目のいろを見ると、そこから奥深い、女がもつ特有な炎をかんじた。うらみぶかい変にからみついて取れないしつこさをもった目であった。

「も少し仕事をしよう。あっちへ行っていてくれ。」

 男はこんどは女の方を向かないで、鑿のさきでコツコツと細部の彫りものにかかりはじめ、再度にどと女のほうを向かなかった。女はその俯向きになって仕事をはじめた男をみると、二分ばかりもじもじと何か男の気に入るようなことを言おうと、心のうちでさがしたが浮ばなかった。女は音のしないように障子をひいた。白々とまった。男はそのときやっと安心したように目をやると、また仕事台にむかった。

 女は自分の室にかえると、ぺっとりと糊のように坐って、手を膝の上においてぼんやり何か考えこんだ。



 日がれかけると男はさらりとした着換えをすましたころ、勝手で茶碗や皿類を洗っていた女の手がびりびりと震えたかと思うと、その手がきゅうに止ってしまったとき、女の眼が大きな水甕みずがめの胴体に吸いつけられた。あめいろをした甕の地にあざのような焼きの斑点しみが、幾十となくあった。それを数えつくしたときに、内部に残ったうなぎの肌のようにぬらぬらした生きものの、長くとぐろを巻いた水がしんとして目にうつってきたのである。かの女はさかんに燃えるような一つの火になったかと思うほど、いすかになるほど、強烈な凝視をつづけたのであった。そのとき彼女の視界に何がうつったのか、いそいで休めた手を前垂れでくるくると拭いてしまうと、ほそいたすきを片はずしに桶の輪のようにって手拭かけにだらりとかけた。そしてすぐ茶の間へ出て、鏡をちょいと覗いた。夕あかりをはらんだ鏡は深くひかったが、何処か白紙のように寂しくみえた。

 かの女は玄関へ出て、れいの茶色の帽子をとって細っそりと立ちあがった、そのとき、男は自分の室からぶらりと玄関へ出てきて、女を見るとびっくりして顔いろを変えた。ふしぎにどういう時にでも、外出するときになると、どういう忙しい仕事をしていても女はいつも先廻りをして玄関へ出て待っているのが常であった。それが食後なれば外出することを感じやすいのは誰でもあるが、食事前にでも女はいつもれいの茶いろの帽子をもって、音のない水のように立っているのである。それゆえ男は暗いいろをした襖をうしろにして今の今、こうして女が立っているのを見ると、ぎっくりと胸にこたえた。あれほど静かに着換えをしていたのに、もう感じ出したのかと、そっとひと目くれると、女はしめった声で、

「いっていらっしゃいまし。」

 そう言って茶いろの帽子をさし出した。ほそい蚕豆そらまめのような指さきが、柔らかい帽子のふちにあたまをそろえているを見ながら、男は帽子をうけとると黙って習慣的に下駄をひっかけて、自分でもびっくりするほど強く格子を開けると、四角な箱のような玄関から、するりと脱けて出てゆくのであった。女はすこし上目をしながら見送ると、そっと障子をしめてしまって、長火鉢のとこへ又ぺっとりと坐りこむのであった。

 水気ぐんだ暗みが夕明りの隅々にいかけても、かの女は坐ったまま、永い間一とところを凝視しつづけたのである。片手だけ畳の上にちからなく垂れ、片手をひざの上におきながら、烈しい一点にあつまった目をめがけて、眉や鼻や唇や、やせた頬の肉が一時に集中されたように、顔じゅうが尖るほど、女の眼は凝りあがってみえた。そのとき女は前に置かれた新聞紙を一心いっしんになってみつめていたが、ちょっとの間その表情が動いたかと思うと、ますます烈しい凝視をつづけた。蒼白い顔面はまるで一とすじの布きれのようになって、その新聞紙の上にそそがれたが、間もなく女はそっとその新聞紙をひいたとき、そのしたから胡麻粒のような一面の赤蟻が、殆ど見わけることのできないほどのかすかな、いくすじとない行列を畳のへりから障子ぎわのしきいまでつづけていた。女はそれを見ると、ぬれた雑巾ぞうきんでいちいち拭きとってしまうと、また坐って毎夜のように壁や障子を見つめたのである。ふしぎに女が永い間壁や障子を見つめているうち、あたまがはっきりしてきて、いつも影のようなものを障子や壁のそとに映してくるのがつねであった。それが次第にくせのようになって男が留守にさえなれば、壁のうしろに(実際はそこは隣とのさかい目であるが。)もう一つ室があって、そこには電燈があかるく吊されてあり、白白した光を放っているのまで瞭然と目にうつってくるのであった。その室の特長として映るものは自分の家とはまるでかけはなれた明るさをもち、新しさをもち、その上掛軸や活花いけばなが整然として飾られているように思われた。何よりもはっきりと目に見えるのは男の姿で、その男がずっと以前に女にして見せた同じい微笑と、同じい胡坐あぐらをかいていることと、同じい声音とであった。おなじい微笑をしながら何か話しては、興味おもしろそうに、時には喜ばしそうにからだを動かしたりするのが、その手つきにまであらわれてみえた。

 男の姿がそれほど明瞭にうつってくるのにひきかえ、女のほうは影のようにぼんやりして、いくらく見ようとして眼をすえても、だんだん小さくちぢんで遠くなってゆくような気がした。しかしその不分判なむしろ朦朧もうろうとした顔つきにも、にんがりと踏みつぶしたような妖艶な微笑がうかんで、ことに黒ずんだ分厚な唇はまるで一ぴきのいもりのように跳ね返って、はげしい肉情のまとになって見えてくるのであった。その唇を見つめては、酔ったようなふらふらした目をした男が、手を伸ばしては女の手をとろうとしたり、唇に唇を合せようとしたりする苛々いらいらしい二つの影が壁を透したふしぎな室のなかに、ずるずると畳擦れの音とともに女の視覚と神経とをすっかり支配しつくしたとき、まるで女はきちんと正しく坐って、気でもれたように棒みたいにこわばっていた。蒼白い皮膚はますます烈しい生白さと、異常な精神の緊張とを完全なまでに覆うて、一面に微かな顫えを烈しくあらわしていた。ことにいまはいすかになったような斜視がたえまなく白い糸のようなものを壁のそとにそそいでいるようであった。壁のそと側のあやしい人物は幻燈のようにくるくるうごいて、あやうく女と男とが一つのかたまりになりかかったり、いきなり真赤ないもりのように泳いだりする微笑された口もとが、かっとほのぐらい四辺あたりに彫られたりした。男はまさしく餓えたように女のそばにき廻っていて、物憂い昼間の仕事台に向っていたときの男とは別人のような元気と精力をもっているようにおもわれた。

「わたしが毎晩こうしてあのひとのことを考えているうちに、だんだん瘠せほそってゆくのだ。わたしはあのひとが毎晩出て行ってからのことをすっかり永い間見ている。あのひとはそれを知らない。わたしは見まいとしながらも引きられるように毎日あのひとのことを考えなければならないのだ。」女はそう思いながら、ふと一時に気のぬけたようにかかとと踵との間におしりをおとした。ぐったりと生白い泡のようにしぼんだかと思うと、悪夢から醒めたように目をきょろきょろとさせた。そのときの疲労しつくした眼の下には黒ずんだ輪さえうかんで、じとじとしたあぶらが、額のうえに浮きでていた。

 女は恐ろしいものからのがれたように、「ああ。」と言って溜息をついたが、息がはずんでいるために肩さきが震えて見えた。女はしばらくすると勝手へ出て行ったが、すぐ、生水をあおっているらしい喉鳴のどなりがごっつりと、幾たびもつづいた。女はもとのところに坐ると、目のさきにふらふらと動くものを感じて仕方がなかった。目のせいかと平手で目をこすったりしたが、しかし動くものは絶え間なくその動きをつづけていて止まなかった。はっと気がついたとき柱時計がそこにかかっているのを見た。何心なくであったが、

「時計がうごいていたのだ。」そう言って女はうっすりした微笑をうかべた。笑っているのかいないのか判らないほどの、きわめて変な微笑であった。間もなくも一度時計を見るとこんどは気味悪く声にまで出して微笑ったとき、女は自分で自分の微笑い声にびっくりしてあたりを見まわした。そのとき九時を三十分過ぎた針がおたまじゃくしのようにちょろちょろ泳いでいるように見えた。

 十時がすぎ、十一時がすぎ、最終列車の汽笛がいつものようにしたときまで、女はやっぱり坐ったまま眠るでもなく醒めるでもない、うつらうつらした籠に揺られるような気でゆらゆらしていた。が間もなく何時ものようにその時刻から尻のほうから逆に上ってくるような水のようなものをかんじ、はっきりと目薬をさしたように瞳が冴え返ってくることをかんじるのであった。何が故であるか、そのおそい時刻はさっきのかの女をおそうた幻影の内にもう一度かの女を引き摺り込むのであった。かの女は搾木しめぎにかけられたように硬ばって、しきりにその聴覚をかたむけはじめた。そのとき何処か道路のようなところで跫音あしおとがした。いそいで来るらしい木魚もくぎょのような遠い音が、明るい電燈のいている広いところから、鉤形にまがって急にほの暗い通りに歩き近づいてくるような気がしてきた。

 かの女はそのとき目を閉じて耳だけを澄ましていたのである。奇妙な下駄の音はすこしずつはっきりしてきて、坂のようなところを上ってきた。ふた側の新しい家並みも寝しずまっていて、男の黒ずんだ姿だけが闇のなかに、もっと暗い影をひいていた。「あそこの角は果物屋になって居り、となりが床屋になっている。床屋だけが寝しずまった通りに明るい電燈を道路に投げている。そこへ暗い影が浮き出た。男がいまそこを通ったのである。それから溝川どぶがわのごぼごぼいう重い音がして、男がそこをそっと通ると、暗い小路をまがった。漆のような闇がつづいた五軒目の、ぼんやりともれた電燈にまざまざと格子戸がはまっている。……。」と考え沈んだとき、がったりと音がした。女がびっくりして目をあけた。格子戸があいて男がかえってきたのである。

 女はすっと立って玄関へでた。

「おかえりなさいまし。」

 茶いろの帽子はまた女の手にもどったが、それはすぐ帽子掛にかけられた。男は酔った声で低く遠慮しているような声でささやいた。

「誰もこなかったかね。郵便も。」

「いえ。どなたもお見えになりませんでした。」

 女はそう言って、ちらりと男の顔をみると先刻の男と異っているところがなかった。いもりのような唇をしている女が、玄関の内側にたたずんでいるような気がして暗い男のうしろをながめた。軒燈をうしろにした格子が寒々と荒い桟型にはめられていた。

「そうか。さびしかったかな。おそいから寝たらいいだろう。」

 男はそういいながら女の顔をみると、夕方出て行ったときから、また一と皮だけやつれてみえた。顔いろが日に日にわるくなってゆくのも目についた。

「お床をとりましょう。」

 女はそう言いながら床をとってしまうと、男はぐったりと疲れたからだを横にした。ほんとに気味の悪い女だ。なにも彼も見ていたように変なかおをしている。そう思って細目に眼をあけてみると、女は閾のところに手をついて、

「おやすみなさいまし。」

 男の顔をまじまじと見たが、すっと音のしないように立って自分の室へ行った。変な女だ。猫のように音をたてない。上目してじっと見つめられると、何も彼も写真に撮ったように知った顔をするのだ。男はそう思っているうちにうとうととした。

 女は着物をきかえながらほっそりした胸を鏡にうつして、女自身もふしぎに瘠せほそったからだをつくづく眺めこんだ。ちいさい乳房や鳩胸のさびしい高まり、それに喉ぐちがほっそりと上へ向けて伸べられていた。喉のうえにはれいの蒼白い首があった。女は全身のなまなましいからだから放つ紙のような白さを、夜更よふけの冴えた電燈にさらしながら、ながい間見つめているうちに、

 ふふ……と微笑ほほえんで見た。また、こんどはきっとした真面目な緊張した表情をして、目をいからして見た。かと思うと、またきゅうにうっとりと媚びたような艶めいた目つきをしたが、それらをいきなり取り崩すように又微笑ってみせた。白い歯があらわれた。寒かった。

 男の室から小さいいびきが起りはじめた。うさぎのように耳をつっ立てた女が、それをきくと見る間に憂鬱な曇った眉と目とのあいだから、さめざめと泣き出した。一時にためた様々な悲しそうな長い忍び泣きがつづいた。それはふしぎに笛のような声にも似ていたし、鼻でくんくん啼く犬のこえにも何処か似ていた。

 男はある日仕事場の鉋屑をまぜ返したり、道具箱をがちゃがちゃ鳴らしたりして、しきりに何か捜しているようであった。雨は飴いろにそとの空気をそめた陰気な午后であった。

 女がひょこり仕事場に顔を出すと、男はあわてた恰好でたずねた。

「鑿が見えない。鑿が……。」

 鉋屑をき廻しながら言った。

「そう。箱のなかにないでしょうか。」と女は道具箱を覗き込んだが、そこにもなかったのだ。

「いや箱にはないのだ。ふしぎだ。実にふしぎだ。現に今使っていたんだが。」

 男はそう言ってぼんやり女のかおを見た。女はそのとき鋭くあたりに目をくばって、そこらの棚や仕上物や材木のあたりを凝視みつめ出した。そのとき不思議に女の眼がだんだんいすかになり出してきたのである。いつもするような烈しい斜視が、めらめらと燃えつくように鉋屑のあたりを這い廻った。

 男は何気なくふと女の眼を見ると、すぐ驚いた。それはあまりにはげしい凝視と、気でも狂れたひとのような怪しい光とをもっていたからである。そのとき、女は立って鉋屑をつめこんだ俵のなかを指さした。

「あのなかに這入はいっていないでしょうか。わたしにはそう思えるんでございますが……。」

「俵のなかにかね。」

「ええ。」

「まさか──こうっと、さっき鉋屑をつめこんで……と……何か堅いものが手にあたらなかったかしら……。」

 男は考えこんでしばらくすると、びっくりしてすぐ俵のそばへ寄った。

「あ。たしかに木屑と一しょにつめ込んだのだ。」

 そう言って男は鉋屑をつかみ出した。と、一ちょうの白い刃のついた鑿が木屑と一しょにまぎれ込んでいるのを発見みつけたのであった。

「危ないところだった。それにしても能く怪我をしなかったものだ。」

 男は刃わたりを手のひらでしらべたときに、っと女が俵のなかにあることを言ったことを考え、ぎっくりして顔いろまで、変えて女を見つめた。しかし女は平気になっていたが、つかれたらしい蒼白い揉みくちゃにした紙のようになって、うっすりと優しく微笑んでさえいたのである。その落着きを見たとき、男は脇の下のさむくなるのを感じた。

「しかしお前にはどうして鑿が俵のなかにあることがわかったのだ。」

 こう言われると女は微笑って言った。

「でもあそこよりほかにあるとは考えられないんですもの。」

「それもそうだが……。」

 男はそれきり黙って気味悪く女をみつめた。そのとき男はいつもの女とは異ったものを見たような気がした。何かわからなかったが男にないものを女がそのからだに含んでいるように思ったのであった。何かこう特別な電気とかりんとかいうものが、その肉体にふくまれているようにさえ、一種言いがたい変な気がしてきたのであった。

 女はそっと次の室に行ったあとで、男はいろいろなことを考えた。女がたえまなく沈んで何かをしつこく考えふけっていることや、ふしぎに退屈もしないで一と処に何もしないで坐っていることなぞ、いまは次第に男の心を変にうち沈ませた。

 日が暮れた。男は女が庭へ出ている間に手早く仕事着をぬぎすてると、そと着をひっかけた。そして急いで玄関へ出たとき、男はびっくりして一尺ばかり飛び上った。そこに何時の間にぎつけてきたのか、れいの鼠の皮のような茶いろの帽子をもって、女がほそながく立っていたからであった。

「いまお前は庭に出ていたようであったが、それとも家にいたのか。」

 男は帽子をとると、こう言って女のかおをながめた。

「でもおでかけのようでございましたから……。」

 女は答えると玄関の障子をそっとあけて、

「いっていらっしゃいまし。」

 手をついて言った。指のないようなまるい手が畳のうえにおかれた。

「うむ……。」

 男は下駄をひっかけてそとへ出た。夕明りがまだ漂うている中空に、くらい蝙蝠こうもりやみを縫いながら低く地べたをすれすれにはしったりしていた。

「どうもあの女には別な気もちがあるらしい。しょっちゅう考え込んで何かをさぐりあてようとしているのだ。」男はそう思いながら何時もの溝川の橋までくると、きゅうに立ち停った。溝から泡がぷっくりと浮きあがって、魚の臓腑のように破れているのを眺めていたが、男はそのとき橋をわたらないで、自分の家へ向ってあと戻りしたのであった。

 家では男が出ていったあとで、女は又ぺったりと坐って、うつらうつらと何か考えていたようだったが、いきなり襟首えりくびを持って引き据えられたように顔をあげた。真白になっていた。耳はその輪廓を幾重とない渦巻きをあらわして、ぴいんとつッ立った。

「はてな。」

 女はちいさい声でつぶやいたとき、外では男が湿った板戸にぴったりと平蜘蛛のように忍びよったところであった。星ぞらではあったが、もう完全な暗がそこらじゅうを染めあげ、あるものはだらりと暗く地上を這うていた。

「とすると……あの方は橋のあたりから引きかえしてきて、勝手の板戸のところにいるのにちがいない。」

 女はそう心でつぶやいたとき、はっきりとうす暗く忍んでいる男の姿が、よこ板を使った勝手の板戸に平たく、黒い斑点のようになっているのを考えついた。そしてぶるぶると蜻蛉とんぼのように震えた。見つめているうちに黒い大きなひらめのような影が、一枚の障子にうつりきれないで、もう一枚の方にまでその影を伸ばしながらうつってきたのである。妙にざらざらと障子紙が擦れて鳴るような気がした。

 時計はそのあいだに十分二十分を過ぎた。間もなく三十分を過ぎた。夜はしずかに小雨あがりの湿っぽい土になく虫の音のほか、何事をも起りそうもない沈んだ静かさのうちに、闇はしだいにれてゆくようであった。──女は烈しい緊張のために呼吸を飲み込んではいたが、それがまたあえぐような苦しい調子になって、がくがくと空気を吸おうとしながら、からだが引きしめられているようで自由にならなかった。足や手や顔やがしんしばりをしたように張りつまった。ことに胸が板のように硬ばってきて、からだを動かすちからが抜けたようになってしまっていた。

 そとの姿はやはり板戸にくッついて、それが二枚の障子に写しかえられて女の眼にますます濃い姿をうつさせた。女のかおは糊のように乾いてただそれは一枚の紙きれにすぎない死んだような白さであった。呼吸はますます苦しそうに見えた。れいの斜視は最初の十分からもう一時間以上を経ていた。

 と、そとの影が板戸をすうっと引っぺかしたように離れたそのとき障子のかげもずるずると動いた。女の斜視はZ形にひらめいたとき、

一歩ひとあし二歩ふたあし三歩みあし……。」

 と、女はひくい声で心臓のはげしい鼓動と一しょの息ぎれでかぞえはじめた。柔らかい土には音がなかったが、女が五歩まで数えたとき障子のかげはすっかりなくなって、いきなり玄関の格子ががらがらと雷のような音をたてて男がはいってきた。が、その格子の音がするほんの二秒ほど前に女は恐ろしい驚くべき緊張と凝視との世界から切りはなたれて、ほそ腰から二つに折れたように気を失って前へつっしたのであった。骨まで折れたようにがっくりして──

 間もなく女は床についた。その目はいつも光線のある方を向かないで壁や障子のあるところ、隅々のくらみをもったところに注がれていたのである。彼女は乾したいわしのようにほそれきって、すこしばかりの粥と青白い乳や、たまには果物などをたべた。ただその瞳が異様に廓大かくだいされていて、光は床につかない前よりも鋭くなりまさっていたのである。

 ものうく自分の指紋をしらべたり、ほそい腕をさらさらと臆病そうに撫でさすって見たりするほか、うとうとと少しばかりの嗜眠しみんのあいだをさまようたり、またぽっかり目をさましたりしていた。そうかと思うと彼女はいつも、殆ど絶え間もなく同じい数をかぞえたりしていたのである。

「一二三四五……。」

 それが何の理由もなく繰りかえされ通されたのである。医者は脳神経衰弱であるといい、殆ど精神病者に近い憂鬱症に陥っているということを男に注意した。

 男はその仕事のひまひまには女の室へ行って、

「なにかほしいものがないか。」

 よく尋ねたが、女はあたまを振って、

「いいえ。にもほしくはありません。」

 そう答えるだけで目を閉じるのであった。かれはその蒼白くやせ込んだ額や首すじをみたりすると、いつかの晩の気絶したときの女の変にゆがんで、死人のようにくたくたに柔らかくなった身体をすぐおもい出した。それは手も首もはなればなれにぐなぐなになっていたからである。首を起すと、だらだらと流れるように肩のつけ根から下がった腕と、俯向けになった手首が畳の上に擦れて、げじげじ虫でも這うような厭な掻くような音をたてたからであった。

「わたし今どういう風にねていたんですか、言ってください。」

 こう女が言って、うっすりと目をあけたとき、男は気味悪いほど女が何故気絶したかを次第にわかるような気がしたのであった。

「俯向けに──こういう風に。」

 男は自分で腰を折って、つッ伏した姿をしてみせたとき、女は嬉しそうな表情になって、

「まあ……。」

 と言って男のかおをちらと見て微笑んだ。それがまた男にはわざとされたような気で、きゅうに黙りこんでしまったのである。

 男は仕事場にかえって、こつこつと彫りものをはじめた。そうしているうちに、かれはそっと障子をあけて次の室の病人がどういう風に寝ているかということが気になって、四ツ這いになって、つぎの障子戸までしずかに忍びよったのである。

 男は障子のすき間から覗いたとき、起き上った女が真青になって、男の忍びよったことをはやくに感知し待ちうけているような声で言った。

「なにか御用でございますの。」

 その声は落ちついていた。男は吃驚びっくりして冷たくなって、からだを縮めながらそれには答えないで黙っていた。

「そんなことをなすっても、ちゃんとわかりますの。」

 言われたとき、男はおもいきって障子をさらりとあけた。女は微笑んでみせた。つめたい亀のように瘠せた皺が額のところに寄った。

「どうしてお前におれの姿がみえるのだ。気味の悪い──。」

 男は棒立ちになって、なまじろい女のはだけた胸をみつめながら言ったとき、

「あなたこそ気味の悪い、四ツ這いになって忍びよるなんて。」

 そう女がこたえると、男は又冷たくなって急に言葉もでなかった。ただ不思議なものをみるように、この変な女をつくづく眺めた。いまは彼女はただ気持ばかりで生きているほど細ながく伸ばされたようになっていたのである。横になればなったままで、のろのろと這い出し兼ねないぬらぬらと細く、きみわるい蒼白さに澄んでいたからである。

「ほんとにどうしてお前はおれが忍んできたことがわかるのだ。」

 女はぐんにゃりと微笑って、

「どうしてって……どうしても見えるんですもの。」

 男は青くなって、やはり立ったまま女の耳をふいと目に入れた。それは薄手な白いきのこのようなかたちをしていて、ときどきぴりぴりと震えるように動いた。「人間の耳のうごくのというものは何て変なあやしい気をおこさせるものだろう、あれの耳の動くのを今日はじめて知ったのだ。これまで自分の知らなかったときにも動いていたのだ。」男はそうおもいながら尋ねた。

「眼をつぶって考えあてるのか。それとも眼をあけて考えるのか。」

 男は自分の質問の変なことを心でそれとかんじながらいうと、

「どちらでもないの……。」

「どちらでもないのか……。」

 男はそう答えて黙ってひきかえそうとした。女はそのとき又床のなかへからだを入れようとした。わき腹のほねが規則正しく波をうって、むしろざらざらした感じで目に映ったので、男はこりこりなあばらの骨を手で撫でたような悪寒をかんじた。

「そこを閉めていってください。」

 女はそういうとぬっと、生白い首を布団から辷り出した。男はわけなくぞっとして障子を閉めた。閉めたあとまでさきの姿が目にのこっていて離れなかった。



 男はそとへ出ていても、すぐ女の青白い顔がうつり出してきて落ちつかなかった。電車に乗っていてもふいと乗り合せの女のかおを目にいれると、ふしぎに家にいる女のかおがかすめてしまうのである。暗い室がみえる。壁と障子の方をむいて、わざと向かされたようになって、まじまじと何か考えながらいる横がおが見えてきてならない。きっと又出かけてきた道順や町などを考えこんで「いまごろはあの町角をまがって、ごちゃごちゃな通りへ出て、石でも投げあげたように電車に乗ったにちがいない。そしてあの人はガマ口を出して切符を買って……それから……」と男はいつも女のする想像を考えあてると、すぐそばに女が坐っているようで、あたりをきょろきょろ見廻したりした。

 男は電車を下りると、いつも行きつけたひっそりした家へはいった。そこは街裏の何処か艶めいたすだれや肘かけやほっそりした煙草盆だのが置かれてある室であった。つめたい紫檀したんのちゃぶだい、襖のかげから見える長いよく磨かれた廊下などがみえた。

「しばらくいらっしゃいませんでしたね。おかけしましょうか。」

 女中がそう言うと、男は疲れたようなこえで、

「あ、それから急いで酒をもってきて呉れ。」

 男がこう命じると、すぐ女中が去ってしまって、いつものようにぼんやりと一人ひろい座敷におかれた。雨のない重いような曇ったそとの空気は、ひっそりと家内をしずまらしていた。間もなく電話の鈴が鳴った。女にかけているらしいのである。

 男はたばこをふかしながら、いつになく家をでるとき「早くおかえりなさいまし。」と女が言ったことをおもい出した。病気になってから久しぶりに出かけようとしたとき、れいの蒼白い首を床から乗り出して女がそう言ったのだ。ぎらぎらした鱗のような目と、やせて尖った小鼻とがまた目にうつり出してきた。

「いけない、妙に気がかりになっていけない。」

 男はたばこをやめて、また、退屈な五六分をおくると、そこへ静かに目ざめるような派手な扮装をした女が膝をついた。男はすぐさま明るい顔になった。

「お久しぶりなのね。」とすこし膝を乗り出した。いそいで来たものらしく、おしろいの刷毛はけがよくとどかない地だけが茶がちな顔のいろを出して、そこだけ妙に禿げたようにつるつるしていた。

「妙に黙り込んでいらっしゃるわね。どうかして──。」

「いや、別に何も考えていないのだ。重くるしい厭な日だな。」

「きょうは変なことばかりあったのよ。お湯屋の時計が停っていたし、うちのも三時で止っていたし、それに本統ほんとうに妙よ。あたしののも止っていたの。」

 男はこう聞くと機械的に、

「ふむ──。」と帯のあいだをさぐって、辷り出した時計を出して眺めた。小さな音をきざんでいたので、ほっとしたように女は明るくなって、

「まあ嬉しい。あなたのも止っていたらあたしどうしようかと思っていたの。あたし妙に神経質で、かつぎ屋なの。」

 男はふいと欄間のところをみると、そこに小さな襖戸が開けられてあって、何か影のようなものをちらと見たような気がしてしかたがなかった。特に何者であるということが判然はっきりしないが、変な気がしてあたりをぐるぐる見廻した。なまこ色の壁と、障子と、床の間の小さな香爐こうろとが目にはいった。

「変だわね。あなたは……さっきから話の腰ばかり折って落ちつかないのね。」

 女はあちこち見廻す男の目を追ってこう言うと、

「そうかな。何んだか落ちつかないんだ。変に静かなせいもある。」

 男はそういうと、女はすぐ、

「どんなお客でもみんな考え込んで、へんに沈み込んでいるのね。しょっちゅう何か心のうちで捜っているようなところがあるわ。何を考えているんでしょう。」

「家のあるものは家のことを考えているんだろう。」男は横になった長いものや、障子と壁の方にむいた蒼白い顔を目にふいと入れると、もしかすると今夜あたりわるくなっていはしないか。あれが死ぬようなことがあれば、あれが死ぬようなことはないが、しかし悪くなるとすると……考えこむと、女はにっこりして、

「おくさんのある方はやっぱりおくさんの事を考え出すんでしょうね。」

 まじめな声で言った。

「まあそうだね。」

 男は一向いっこう酒がきかなかった。しかたなしに男は床の間の香爐のふたをあけようとすると、女はすぐ袖をとらえた。

「いけないわ。また、あんなものを見ちゃいけないわ。」

 男は気のくさくさするときは香爐の蓋をながめる癖があった。蓋のうらには精細な、美しい男と女とがあたたかに抱き合っている赤絵がえがかれてあって、ふしぎに男はそれをみているうち、からだに別なちからと精力が湧き出すのがつねであった。鬱々したときはいつもその白い二疋のむつれあった魚のようにぬらぬらしたものに、永い間ひとみをさらすのであった。

「気がくさくさするんだ。見たってかまうものか。」

 男は蓋をとりあげると、まじまじと眺めた。これを見ていると、くだらないことを忘れてしまえるからいいのだ。かれはそれを横にしたり透かしたりしていると、

「おかしいわ。そんなに見ちゃ、は、は、は。」

 女は微笑って引ったくろうとした。と、かっきり描かれたようないもりのような腹赤な唇が、男の目にいきいきとうつってきたのである。男はぐなぐなな手をとろうとする。そのとき、ぴっしりと打叩うちたたかれた。いつもそんなことをしない女なんだが。

莫迦ばか。何をするんだ。」男は叩かれた手をさすりながらいうと、

「何んにもしなくてよ。誰か叩いたようだったわね。」

「誰かが叩いたようだとは──。」

「あたしじゃないわ。こっちの手に煙草をもっているでしょう。だから叩くことができないわ。おかしいわね。は、は、は。」

 男は女の左の手をみると、指とおなじい長さと白さをもった紙巻が挟まれて、しずかに煙をあげていた。

「嘘をけ。」男はそう言って、わけのわからない激怒をかんじて、手をあげて女を打とうとした。ぐらぐらした苛立った癇癪かんしゃくが額に筋を立てた。

「は、は、は、だ。」

 女は不貞ふてくされて高い声で笑いぬいたとき男はびっしりと張りつけた。と、蒼くさっと洗ったように蒼くなった女はびっくりしてしばらくものをいわなかった。が、また変に笑い出した。酔うとそういう癖のある女は、ただ可笑おかしがった。

「ああ……。」そうだ聞える。いやな。男はがっくりと首を床の上から畳に擦れ落ちたような音を耳にした。もしものことがあるとやはり可哀想だ。今夜あたりは危ないのだ。家にいてやればよかったと、男は考え出したときは、もうよいが足もとをふらふらさせた。いつでも不平がましいことを言ったことがない。済まないと思いながら、こっそりと家を逃げ出してきたのだ。

「どうしたの。苦しいの。」

「莫迦をいえ。酒をもっと持ってきてくれ。あつくして。」

 女が梯子段はしごだんを下りて行ったあとで、しばらく男はひとりでいた。ひとりでいると障子が余りに白く鮮やかで、なにかが映ってくるようなあやしい予期をさせた。壁にしろ、無意味に広い座敷にしろ、どうもいけない。男は敷島の袋を手にとったときも、がさがさした落葉のような音がしたので、ふしぎそうに眺め出した。

「と、何かこう変化かわった事が起きて居はしないか。それとも毎時いつものように壁の方を向いて寝ているだろうか、どうしてあれは壁の方ばかり向いて睡るくせがついているのだろう。いつころだろう、あんな変な風な女になったのは……。」

 そのとき階下へおりた女が、長い廊下をしずかに歩いてくる足音がした。そして室へはいると、

「まあ恐い──。」と言って顔いろを変えた。おびえたように眉をそよがせているのだ。

「どうして怖いのだ。」

「どうしても恐かった。でも目ばかりくりくりさせているんですもの、きょうはどうかしていらっしゃいますわ。」

「いつもと異っているかな。」

「ほんとに変よ。手に何をもっていらっしゃるの。」

「何って……何をさ……。」

 気がつくとまだ男は香爐の蓋をしっかりと握っていた。握っていた手が殆ど無感覚になるほど、永くつかんでいた。

「いやなひと。まだあんな物をつかんでいるんだもの。」

 女は言って又引きろうとしたが、男はなかなか離さなかった。

「すっかり忘れていたのだ。渡してたまるものか。」

 男はそう言って頑固に堅く握っていた。むずむずと這い出るような二疋の生きものの絵を、あたまに柔らかくかゆいような心持でえがきながら。

「じゃ、いつまででも持っていらっしゃい。は、は。」

 女は仕方なしにこう言って、また酒をつぎ出した。男はいつか女に尋ねて見ようと思っていて、つい言い出せなかった喉のところの傷のことをたずねた。それは変に栗いろの二分ほどの、長さの気味の悪い傷であった。いろいろな想像を加えれば加えられる傷でもあった。

「何んでもないのよ。おできを切ったあとが残ったの。」

 女は言って人さし指で、その傷の上をなでてみた。柔らかい生白い、たえずろくろのように廻っているような首すじ、その喉笛のしたにぽっちりついた傷が男には忌わしい妄念をらせたのであった。

「おできなのか。おれはまた心中でも仕損しそこなったのかと思ったのだ。」

「そうなら気がきいているんだけれど……。」

 男は言ってきゅうに黙り込んだ。「何かがあったのだ。おれが気のつく程度で何事かがあったのだ。あの傷はただの傷ではない。決してただの傷ではない。」男はそう考え出した。女も黙り込んだ。男はすぐまた家にいる女の生白い首すじ、ねじ切れそうな白葱のような首すじを考えた。ほんとに何も起っていてくれなければいいが、男は苦しそうに心でむしろそれを「何も起る筈がないのだ。ああして壁の方を向いてやすやすと睡っているにちがいないのだ、」と考えて。ほっとして杯を口にした。

「何事が起り得る筈があるものか。生むは案じるより安しだ。本統ほんとうに何も起ってはいなかろう……がしかし、あれは又毎時の壁を見詰めて、こうしてに坐ってこの女と話していることをすっかり考えあてたとすると、しくば考えあてようと、ぎらぎらと例の斜視をやっているとすると、彼女あれっと悪く最っと細く、極端にヒステリックになっていはしないだろうか。」

 男は鑿のことや、玄関の隣の間から誰何すいかされたことを思い出して「あるいは意外に、真統ほんとうに意外に此処のすっかりを考えてあてているかも知らない。此処にいるおれのすっかりをだ。」男はこう思ったとき、ぎっくりした。吸殻がちゃぶだいの上に、白くざらざらにくずれた。

「あたし今夜はこれで帰らしてほしいわ。よそから口がかかっているんですし……。」

 女は恐そうに男の眼が異様に輝くのを眺めながら、おどおどと言って、男が承諾するかどうかを目敏めざとく読んだ。

「帰るか。ふむ。くちがかかっているんならいいよ。止めないから。」

 男は反対に怒りが沈みきって、森とした頭になった。

「わるく思わないでくださいな。」

 女はわざと男のかおを覗き込むように、猫のようなれた一瞬間の微笑をうかべると、すぐに座敷からでて行った。あし音が長い廊下から消えた。「また一人になってしまったのだ。何も別にあの女でなければならないことはないのだ。ふむ。」と反感的に考え込むと何故かふらふらと酔が一時に噴き出るようにやってきた。

 金を払うと、のっそりと池の端のまわりを歩き出した。

「ともかく帰ろう。何にも起ってないことはちゃんと信じているのだ。きっとだ。」男は執拗しつこく繰り返しくちのうちで言って、瓦斯燈ガスとうの青い光をびっしょりと浴びながら、た足ばかりあるいたとき、何んだかばっさりときあたった。

 酔っていたせいで、すこし眼がくらんだ。あしもとを見ると藁屑がそこら一面にみだれていた。乾いたいやな匂いでさらさらと鳴っていた。



 男が電車に乗ったころ、女は蒼白い蛙のようになって、床から半身を乗り出し、極度の疲労と凝視との世界から赦放しゃほうされたばかりの荒い肩息を吐いていた。不思議に女はすっかりを眺めていたというより、殆ど的確な想像で男の逐一な行為を感知してしまったのであった。女は女自身にあっても之等これらの凝視の世界が、果してどれだけまでが想像であるか、幻覚であるか、または一種の透視的な夢幻界を彷徨ほうこうしたものであるかという区別を判明はっきりすることができなかった。かれはいつもその男の姿が街へ浮び出し、街の混鬧こんどうのなかに紛れない色別をその姿に見出すとき、はっきりとその歩行や動作や、または女の家に這入ることや、そこの室内に於けるあらゆる細部の動作までを、もれなく、平常の男の生活や動作や言葉の内に感じ出して、ありありと描き出すことに馴れていたのであった。

 女はそのとき、男が今何処の通りを歩いているかという自分との隔離を、その次第に近づいて来る隔離を殆ど透明なものをるように、的確に感じ出していた。いろいろな商店や通行人や電燈や縁日商人などのなかを、一歩ずつ黒ずんだ姿を運んでくるのが、その町の家並がだんだん背後に遠くせばまってゆくのと一しょに写し出していた。女の見た男は非常に疲れていたし又はなはだしい苛苛した表情で、何かしきりに考え詰めているような鬱陶しい歩みをつづけていたのである。女はそれを以て明らかに自分の上にかかわっていること、自分以外にかれの意識が働いていないこととを確かめることができたとき、女が能くやる隠れた微笑みをうっすりと浮ばしたのであった。

 男が土橋をわたりかけると、その樽の上でも叩くような跫音が女の耳そこにきこえたとき、かの女はすっぽりと毛布をかむって、やすやすと睡った風をした。表があいた、くらい土間から上ってくると、すぐ障子をすらりとあけた。そして、

「べつに変化りはないか。睡っているのから。」彼は語尾をひとり言のように言って、女のあおい顔をみた。うっすりと目をあけた女は、だるい声で、

「おかえりなさいまし。たいへん晩うございましたのね。」

 女はこれだけ言って、いつもより親しそうな微笑をうかべた。「何事もなかったのだ。もしかすると非常な不吉なことが、起っていはしないかと思っていたのだ。」男は安心したような顔で、

「うむ。すこし手間のとれることがあって晩くなった。変化りがなくて何よりいい塩梅あんばいだ。」

 真面目に落ちついてこう言うと、女はくっすりと微笑って、すぐ元のまじめな顔になり澄ました。へんな奴だ。ああいう微笑いがおをこのごろになって時時するのだ。そんなときおれの方で何時も何か言いあてられたような気がするのだ。男は黙って自分の室へもどろうとすると、女は、

「あの……すこし……。」

 と言いどもって、男の左のたもとをじろりと眺めた。男は機械的に左の袂に手をやると、何か堅い陶器のような物がはいっているのに気がついた。「まさか酔っていても彼麼あんなものを入れて帰る筈がない。筈がないが……併し別に外の物が這入っている筈もないのだ。」そう男が思いついたとき、突然、ほとんど唐突に思いついたのが香爐の蓋であった。まさかあんなものを……と思ったが、顔はすぐ熱く火のように赤らんでしまった。

「見せてくださいましな。」

 女がこう言って、ぐんにゃりと伸ばされたように微笑ったとき、ぎっくりして男は機械的に袂から香爐の蓋をとり出した。出したとき男は羞恥も顧慮も無い、平明な、むしろ嫌厭けんえんするような顔をして、

「見たってしょうがないじゃないか。くだらない。」

 そう言い棄てると、女はいきなり長い蛇のような白い手をぬらぬらと這わせるように、布団のあいだから引きずり出した。そしてその香爐の蓋を手にとると、これも又突然に殆ど奇声ともいうべき高い猿のような叫びごえを立てた。が直ぐどうなるかと思うくらい病的にわなわなと震え出した。つぎの瞬間には崩れるようにげらげら笑い出して、

「あ、おかしい。あ、可笑しい。」

 と、そこらじゅうを転がりはじめた。白い馬鈴薯のような細いからだが、気狂きちがいのように筋ばって這ってあるいたのであった。

「馬鹿。」

 男はこう怒鳴どなると、ころがっていたからだが、坂の下にでも行きついたようにぴったりと停った。それと同時にこんどはゆるゆると顔をもたげはじめた。その顔は汗と熱とに湿って真青であった。いちめんにぐらぐらと煮え立ったようなところもあった。眼と眉と鼻とが呼吸をそろえて喧嘩でもしているように、各各別別な形と光と憤怒とに揉みあげられ、男のかおを目がけて烈しい速力で寧ろ叩きつけられたのであった。

 そうかと思うと訳のわからない囈言うわごとのような調子で叫び出して、其処そこらじゅう掻き掴むようながりがりした音を立てた。男の動悸は極度の不安と激しい乱打とに湧き立った。

「ひょっとすると気がふれたかも知れない。あの眼はただごとではないぞ。ひょっとするとだ。だがとっくに狂れてしまった後の瞬間かも知れないのだ。」そう思って、

「落ちついたらいいぜ。なんだそのだらしのない恰好は……じっと落ちついて……じっと動かないでいるんだ。」

 なだめるように慌てて低いこえで言うと、女はさっと目も鼻も一時に死んだような静けさに返ったが、また、ぐらぐらとその澄んだ静かな表情をいきなり叩きこわしてしまって、目は火のような炎を吐きながら正面に男にすえ込んだ。「も一度言ってごらんなさい。何ですて。しかし一体これは何です。何んです。ああ、これは何んです。」

 と又ぴったりと香爐の蓋を手にとって今にもそれに噛み附くように、ぎりぎりと恐ろしい歯がみをだした。男はそれを見ているうちにすっかり頭に不思議な恐怖と超自然的な威嚇いかくとが乗りうつって、ひとりでに胸が鳴り出し、軽い眩惑さえかんじ出した。

「これが一体何んです。」

 こうまた新しく叫び出してむっくりと起きあがって、その生白い首を据えたかとおもうと、いきなり壁のところに香爐の蓋をちから一杯に叩きつけた。古い陶器は白い肌をあらわして微塵に砕け散った。

「やったな。……。」

 男がおもわずこう叫び返したとき女は何やら昂奮以上の昂奮で又叫び出したが、間もなくげらげら笑い出して、

「ああ、おかしい。おかしい。」

 そう言って又転がり始めた。が、そのときその転がり方は弱弱しく力なく、間もなく車の輪のやすむようにばったり停ったかと思うと、

「ああ……。」

 と欠伸あくびのような気のぬけた声を立てて、ばったりと平ったくつッ伏してしまった。蒼白い顔がぐんにゃりと潰れたように古い畳にり込んで、瞳がどんよりと開けられたきり動かなかった。

底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年910日第1刷発行

底本の親本:「室生犀星全集 第2巻」新潮社

   1965(昭和40)年415

初出:「中央公論」

   1920(大正9)年9月号

入力:門田裕志

校正:岡村和彦

2014年410日作成

青空文庫作成ファイル:

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