幻影の都市
室生犀星



 かれは時には悩ましげな呉服店の広告画に描かれたほとんど普通の女と同じいくらいの、まるい女の肉顔を人人が寝静まったころを見計って壁に吊るしたりしながら、飽くこともなく凝視みつめるか、そうでなければ、やはり俗悪な何とかサイダアのこれも同じい広告画を壁に張りつけるかして、にがい煙草たばこをふかすかでなければ冷たい酒を何時いつまでも飲みつづけるのである。

 かれは、わざと描かれたうす桃色のつたない色調のうちから誘われた、さまざまの記憶にうかんでくる女の肉線を、懊悩おうのうき乱された頭に、それからそれへと思い浮べるのであった、それらの女の肉顔は何処どこう見たことすら判明はっきりしないが、ただ、美しい女がつところの湯気のような温かみが、かれの坐っているあたりの空気をしっとりとあぶらぐませ、なごませてくるのである。温泉町の入口にでもひょいと這入はいったような気が、かれの頬や耳や胸もとをくすぐってくるのであった。かれの信じるところによれば、美しく肥えた女が特別な空気を惹き寄せるというより、皮膚や鼻孔や唇などが絶え間なく、そば近い空気をあたためているように思われるのである。

 わけても電車のなかや街路や商店の入口などで、はっとするほどの女の顔をみた瞬間から、かれ自身がうみずから呼吸するところの空気を、別なものに心でえがき、心で感じるからであった。かれは第一に何故にそのハッとした気もちになるか、なぜ胸を小衝こづかれたような心もちになるか、そして又なぜに自分の視覚がその咄嗟とっさの間にどぎまぎして、いままで眺めていたものを打棄うっちゃって、急にその美しいものに飛びかかって見詰めなければならないか、しかもそのめに一時に断たれた視線が、その美しいものに追いすがるまでの瞬間に仮令たとえ一時的にも何故に麻痺するかということを、かれは髪のなかに手をつッ込むような苛苛いらいらしい気持になって考え沈むのであった。こうしたかれは何よりその広告画の表面の色彩と肌地のいろが、かれの今まで眺めては消えてゆく女の、いろいろな特長をかれの眼底にすこしずつよみがえらしてくるのである。

 かれの住むこのへやのそとは往来になっているために、いつも雨戸はとざされているのであった。しかも昼間は、広告画を始めとして、かれが蒐集しゅうしゅうしたところのあらゆる婦人雑誌や活動写真の絵葉書、ことにいまわしげな桃色をした紙の種類、それからタオルや石鹸や石鹸入れなどが、みんな押入れのなかにしまわれてあった。かれは、ふしぎにも一枚の薄い竹紙のような紙のなかにも、卑俗な女学雑誌の表紙に描かれた生生しい女の首や、貝のような手つきをまで忍ぶため、いちいち大切に秘蔵しているのであった。しかもかれにとってはなお充分な飲酒をもむさぼることのできない貧しさのために、かれはかれの内部に於て、それ自らの快楽をさぐりあてなければならなかったのである。かれにとってはこのあらゆる都会のうちにかれ自身を置くべきパンの住家はないばかりではなく、あらゆるものがかれとは背中合せであったのである。それゆえかれは自分のうちに自分を次第にとも食いをするような生活をしなければならなかったのであった。

 日ぐれころになると、あてもなくぶらりと街路へでかけて、いつまででも歩きつづけるのであった。かれは何よりかれの住んでいる町裏から近い芸者屋の小路を、往来からふらふらと何かの匂いにつられた犬のようにぶらつきながら、きれいな鼻緒の下駄や雪駄せった、それからそうしたところに必ずある大きな姿見に、これまたきまったように帯を結んだり化粧をしたりする派手な女を、一軒ごとに見過すのがつねであった。かれにとっては、そういう種類の女に近づいたこともなければ、また、そういう機会もあろう筈がなかった。何かしら色紙ででもって作りあげたような擦れちがいの芸者などを、そば近く呼ぶものがこの世にあろうとさえ思えなかったのである。ぐなぐなな円っこいその手や足、いたずらに白いからだのすべての部分、そういうものがただちに自由になるということ、その事実がいまもなお行われていることを考えると、かれは頭の至るところに或る疼痛とうつうさえ感じるのであった。それほど、このきらびやかな待合まちあいの通りでは彼の着物がみすぼらしく、溝板どぶいたのような下駄をはいているのであった。誰もかえり見るものもなく、また、知合いとてもないのである。

 その通りは、すべての都会にあるような混乱された一区劃で、新建しんだちで、家そのものさえなまめかしい匂いとつやとをもっているのであった。ことにわずかばかりの石燈籠に寒竹かんちくをあしらったり、多摩川石を敷石のまわりに美しく敷き詰めたり、金燈籠かなどうろうからちらつく灯は、毎夜の打水にすずしく浮んでいるのを眺めるごとに、かれは乞食のようにその敷石の上を思わず知らずとんとん踏んで見て、わずかに心りをするのであったが。

「どなた!」と、まだ聞いたことのない卵のように円いなまめかしい声で呼ばれると、慌てて門へけ出しながら、ほっいきつくのであった。そのような僅かな胸さわぎがいかに彼にとって珍しく、むずがゆい快感によって思わず知らず微笑ほほえみをうかばせたことであろう。ことにその小路に多い二階には、いつも影があって女と男とがうつっていた。内部がしんみりと何かの香料にでもつつまれているようで、ふうわりとした座布団や快い食卓、みがきをかけたような一枚板のような畳、そこに菓子折のように美しく白い膝を折った女の坐り具合、などと悩ましく考えるごとに、かれはそこにふらふらとしている箱屋さえも、それ自身が彼女等の日常にふれることによって非常に幸福なようなものに思えたのである。

 かれにとって堪えがたいものは、その通りで聞くところの何処から起ってくるとも分らない一種の女の肉声であった。それはの家家からも二階からも起るらしい艶めかしい笑い声とまじって、かれののどすじを締めつけるような衝動的な調子でからみついてくるのであった。

「おれはあの声をきくごとに、からだの何処かが疼いてくる。あの声はおれのからだじゅうを掻き探っておれの呼吸をまでめるのだ。」

 かれは、そう何時もふしぎな女の肉声をきくごとに感じたのであった。その肉声のなかにはもずのような啼き工合や、いきなり頬を舐め廻されるような甘い気持や、また、いきなり痒いところをなお痒くえぐるような毒々しさをもっていた。なかには、あたまの底までしんと静まり冴え返らせるような本能的な笑い声と交っているのであった。ともあれ、それらはことごとく障子戸の内部から、あるいは雨戸越しに遠くきこえたりするのであった。

 それからう一つは、かれと擦れちがいにあるく女らが、どういう時でも必ず一度はこういう種類の女にありがちな一瞥いちべつを施してくれることで、そのため彼はどれだけ暗い往来で、ふいに花をぶつけられたように慌てたことであったか判らない。どの女らも決ったように鼻や唇や耳にくらべてその目つきが悧巧りこうげに黒黒と据えられていて、ひと目投げると対手あいての足さきから頭のさきまで見とどける周到な働きと迅速な解剖的視覚をもっているのであった。何かの黒漆こくしつな虫、とくに何ものでない異常の光、その冷たそうに素早く輝くものが、いつもかれに一滴の得体の知れないものを注いでいた。それがかれにとって理由なく嬉しかったのである。しかし、かれにそそがれる目つきは、なかばは卑しげなものを見下すひかりで、なかばは、こういう界隈はあなたがたのくるところでないという叱責しっせきさえも加わっているようであった。かれはそのためにあかくなって溝板のような下駄の音を忍んであるくのであった。

 こうした毎夜のような彼の彷徨ほうこうは、ついにふしぎな或る挿話をいつごろとなく彼の耳にいれていた。その何より先に、かれが一度ばかりでなく数度も、そのふしぎな娘とも女中ともつかない女を見たのであった。

 ある蒼白い冬の晩であったが、はしなく人人がはしるので何心なく近づくと、有名な女でみんなは「電気娘」と呼んでいたのが歩いてゆくのであった。おもにこの界隈の使いあるきや、大掃除の手つだいなどをして歩いていた。いつか彼女が金か何か盗んだときに、みんなで捕まえようとしたが、彼女の肩や手に手をふれると、異様なエレクトリックの顫動せんどうをかんじると同時に、とくに変な悪寒さえ感じたのであった。それでも皆でぐるぐる巻きに縄をつけたが、どれだけ巻いても、するすると抜け落ちるか、ふしぎにも途中で切れてしまうのである。しまいには皆が気味悪くなって、もう二度と彼女を追うものさえいなかった。かの女は老婆といっしょに住んでいたが、それから後も忙しい家族の手伝いに次から次へとやとわれていた。ただ、おかしいことには三度おんぶした子供が三度とも窒息してしまったことで、医師に診させると、別に外部からどうということがない。ただ女の肉体にはげしい鰻や夜光虫などの持つ電気性が多いとかで、それが決して彼女自身の内部にあるときは有害ではないということであった。ただ、

「その子供の種類にも依るし、彼女の電気性に摩擦力を与えるもののみが危険であるようだ。」とだけで、医師もくわしいことは説明しなかったのである。それ以来、かの女が子供を負ったことを見たことがなかった。

 かれはこのふしぎな女に、よくその小路で出会うごとに何日いつかは話をしようと思っていた。女はいつも風呂敷包みをもっていたり、巻煙草をかいに出かけたり、車を呼びに行ったりしていた。はじめのうちは彼女は彼をうすきみ悪く眺めていたが、このごろになって微笑わらって通ってゆくようなことがあった。実際、かの女が何かの樹木に(その木は何というのであったか忘れた。)つかまったとき、樹木がいちどきに震えたといわれたことや、ある家では食卓をたたもうとして、突然に、食卓に感電したことであった。

 かれは第一に彼女が驚くべき蒼白い皮膚をしているのを見逃がさなかったばかりではなく、その蒼白さは年の若いせいもあろうが、極めて肉付きがゆるやかで、その上肥えた色白な女が有つようなうっすりした冷たささえ感じるのであった。概して皮膚の冷たさには、内部の皮膚生活が枯れきったそれと、また、脂肪それ自らによって肉付きが冷たくなっているのとた通りあるが、かの女はその後者であって、いつも、くっきりした蒼白さは可成かなりな冷たさをもっていたのである。かれの考えるところに拠るとこのふしぎな女の皮膚の蒼白さには、どこか瓦斯ガスとか電燈とかにみるような光がつや消しになって含まれていて、ときには鉱物のような冷たさをもち、または魚族のふくんでいるような冷たさをもっているようにながめられたのである。

 それゆえかれは何よりも彼女を街燈の下でなければ、商店の瓦斯の光で眺めることを好んでいたのである。かれの異常な、殆ど説明しがたい物好きはかの女に一瞥をあたえるごとに、その皮膚の蒼白さにぴたりと眼球をふたされたような悩ましさを感じるのであった。たとえば、その洋紙のような白みに何時もうっすりとあぶらぐんだ冷たそうな光は、形よく整った鼻を中心にして、鼻の両側から少しずつ蒼白さを強めて、最後の鼻のさきの方で、いつも一と光りつるりと往来の灯を反射しているのであった。ともあれ、これらの驚くべき、また多少気味悪い皮膚は、かの女のきもののように言われている電気性と一しょに、この界隈のひとびとから一種のふしぎな徴候として眺められていたのである。綺倆きりょうは決して悪くはない。ただ余りに鮮やかに白すぎる顔面に、あまりに生きのいい黒ずんだ目がかげされていることで、なおよく見れば決して黒目が黒目ではなく、むしろ茶褐な瞳孔で、その奥の方に水の上に走るまいまい虫のような瞳がすわっていることが、なお彼女をえたいの分らない女としていた。そこまで彼女を見究めるなれば、遂にその皮膚のこまか過ぎる点や、産毛の異常に繁毛しているのや、白すぎる色あいや、ところどころにどうかするとあざのような影をもっていること(しかしそれは彼女の顔を側面から見たりするときに、ふいに痣のようなものを見るが、気をつけると決してそれがあざではないようである。)などが、かれにとっては益益ますますおかしな疑いをもたすのである。それは果して彼女が日本人であるかないかという疑問で、ひょっとすると、外国人の種子をもっていはすまいかということである。

 と言っても彼女は決して雑種児としての条件的相貌の全部をもっていないのである。日本語の巧みなことや、髪の毛のやや黒いこと(しかしそれは日光などの当っているときに見ると、殆ど茶いろに近いのだ。)ことに彼女の母親であるといわれている馬道の裏二階に住んでいる老婆が純日本人であることなどを取りあわせると、雑種児ではないようにも思えるのである。しかし、ここに疑問とすべきは、彼女の身体からだつきが非常にがっしりとしていることと、背丈の高いこと、そして骨盤のあたりが殆ど西洋人にくらべても遜色そんしょくないこと等である。いつも、すらりと足早あしばやにあるいてゆく彼女の長い足つきは、そのままかかとの高い女靴をはかせ、その上、スカアトを着けてみたなれば決して見劣りのない西洋人のように見えることである。その歩きぶりは其等それらの凡ての条件を全うすべき資格をもっているのである。彼女はすらりすらりと歩きながら八百屋の角や小路の曲り目などでは、凡ての西洋人の持つところの軽快な歩行と、しかもかなりな繊細さをもってくるりと八百屋の角をまがってゆくことである。かの女のちぢれ毛がそのときは実によい調和をあたえるのである。もしその小さい風呂敷包みを手に持つことなく、日本風な汚ない着物をつけていなかったとしたら、かの女はすっかり西洋人のように見えたにちがいない。

 しかもかれは暗い小路から突然に出てきた彼女に会うごとに幾度驚きを新たにしたことであろう。それは紛う方もない一人の西洋人がやみにまみれて歩きつづめているような気がするのであった。スカアトのあたりからあおられるともない優しい風さえ、かれの神経をおののかせたのである。それに彼の界隈にあるふしぎな十二層の煉瓦塔れんがとうが、夜夜かの女のあやしい姿と、最う一つはかれ自身の目の前に、あるときは黒ずんで立ち、あるときは星を貫いて立っているのである。その窓窓はいつも閉されてあったが、眺めているうちに不思議にいろいろな想念に悩み織りこんでくる古い塔の尖端に、かれは毎夜のようにかれの伝奇的興趣でんきてききょうしゅをそそるような星座を見出すのであった。かれは何故にふしぎな女とこの変な煉瓦塔とをむすびつけて考えたことであるかは分らないが、それら二者を離しては、もう彼女というものを完全に考え出すこともできなかったからである。



 かれがこの女の奇声ともいわるべき声をきいたのは、その晩がはじめてであった。かれはいつものように町から町をあるきつづめ、この都会のよどんでカスばかり溜った小路をあるきながら、例によって何等なんらの感銘もなく、ただいたずらに歩行するだけの毎夜の疲労にとぼとぼ歩いていたとき、例によって何処から何処と何の用事があって往来するかわからない群衆からはなれたときに、かれは、ふいに彼女が暗い小路からでてくるのに出会したのである。

 誰でもそうであろうか余り度度出会すときは、意志のない振りかえりをやるものである。彼女はそのときも例によってかれの顔を凝視しながら忙しげに往来へ出て行った。かれはその背後うしろ姿を見つめたときに、いつもの暗い屋上に積みかさねられた塔を目に入れ、また彼女の足早な姿を目にいれたのである。かれは何のために毎夜のように歩くのか、そして歩かなければ眠れない遊惰と過剰された時間は、ただに疲労のみが眠りを誘うにすぎなかったのである。また、決して彼女と話をしようという気もおこらなかったのである。なぜかといえば、かれがそういう界隈の家家の二階や下座敷のともれているのを眺めて居れば、かれ自身も何かしらそれらのものから、むずがゆい聯想れんそうと、れいの時時おこる肉声のなまめかしい声音によって、かれのあらゆるものをくすぐられる感覚的愉楽をとり入れることができたからである。それがため、かれは例の忌わしい広告画を押入れにしまって、宿を出ると、いつも騒騒しい楽隊や喧擾けんじょうや食物や淫逸いんいつちまたの裏から裏を這いありく犬のように身すぼらしくぶらつくのであった。

 かれはそのとき何をきいたか。また、どういう言葉の意味であったか判らないが、突然呼び止められたことは実際であった。

 かれの前には、異様な色白な彼女がたたずんでいたのであった。片側はしもた屋になり、片側から軒燈が漏れていて、蒼白い彼女の皮膚をいよいよ冴えた蒼白さに射かえして、くっきりと夜のくらみをくぎった上に、むしろ重く空中に浮いてみえたのである。

「わたしを呼んだのは君かね。いま何か言って呼んだのは──。」

 かれはそう言いながら、彼女の黒ずんだ目をみつめた。それはまたたきもせずに、むしろ猫のようなあやしい光をたたえていた。何か言おうとしながら、手に風呂敷包みをもったまま、むしろぼんやりとした視線をかれにそそいでいた。

「たしかにわたしを呼んだのは君だとおもうが……。」

 かれは又そう言いながら「しかし間違いかも知れない。あの女がわたしを呼ぶわけがない。」しかしかれは殆ど奇声にも近い声をきいたことは実際である。

「いえ。わたしではございませんわ。わたしは……。」

 彼女はそのとき不審そうにかれを見つめた。かの女にはこういう他人から呼び止められた経験に乏しいらしかったのであろう。その顔いろはいくらか慌てていた。かれは初めて蒼白い皮膚がその表情の雑多に富んでいるということを見て取った。

「そうですか。どうか構わないで行って下さい。べつに用事がないんですから。」

 かれはそう言って、かの女に道をゆずろうとしたとき、彼女の目が素早くかれの額に投げつけられた、それは目のなかで瞳をひと廻りさせたような素早さで、むしろ艶めかしい匂いをもっていたのである。決して日本の女にはできない多くの外国の女らが持つところの大きな瞳とその表情であったからである。

「ではごめんなさいまし。」

 そう言って腰をかがめ、かがめた腰をあげたときに上目をしながら、じろりと柔らかく一と目見て足早にあるいて行った。かれはそのとき一体いったい何をきいたのであろうか、あの女の声でないとすれば、かれは誰から呼び立てられたのであろうかと考えながら、ぶらぶら歩いていた。

 かれはこの巷に於けるさまざまな汚ない酒場やカフェ、飲食店などのならんでいる通りをあるくごとに、それらを包む夜のそらをながめながら、そこの公園にうとうとと一と眠りをするか、でなければ、必ず毎夜のように一時間余も同じところに客待ちをしている自動車の側面に、追い立てを食わないばかりの安逸さを、わずかな時間をぬすんで眠る人人のむれを見た。または泥にはまり込んで腰から下が水気でれた毎夜の乞食が、どこからどう消えてゆくか分らないが、集まっては消え失せてゆくのを見た。

 かれは昼間も、この騒騒しい公園の池のほとりに置かれたベンチの上に坐っていた。かれが二度目に例のふしぎな女を見かけたのは、この池のまわりであったのである。

 殆どいちように、このベンチに集まるひとびとは、みな疲れ込んで、なりも汚れていたし、顔という顔には当然現われるべき疲労と倦怠、つぎには悲しげな苛苛した貧しさをたたえていたのである。あるものは、電車ののりかえ切符を手にもちながら、それをどれだけ細かく引裂けるものであるかということを試すもののように、タテに裂いたり横にちぎったりしながら、ぼんやり池一つへだてて通りを眺めているものもいたし、なかにはあごつきを膝の上でやりながらぼんやり失神したように或一点をながめくらしているものも居た。なかには講談をよんでいるのも居たが、どれもこれも、となり合ったベンチの上にいながら、お互いに話をしようとするものがなかった。そういうことに興味をもたないもののように見えた。かれらは、お互いに人目を盗んでは煙草をひろい合うか、べつに何ごとかを深く考え込んで、根が生えて立てないようにも見えた。

 かれは、そこにある池のなかにいる埃とすすだらけの鯉をながめていた。かれはどういうものか、これらの魚族が決して生きているもののように思えなかったのである。俗悪な活動の絵看板の色彩が雨にでも流れ込んだものでなければ、ふしぎに、紙作りでもされたもののように、わけてもあやしい緋の鯉や蒼いのを見つめた。かれらはものうげに、よどみ込んだぬらぬらした池水を重たげに泳ぎ、底泥につかれたようなからだを水の上にあらわし、ぼっかりと外気をひと息に吸うのであった。空気は、そうぞうしい人人の埃と煤と雑音とによごれて、灰ばんで池の上に垂れていた。しかも、そこには、幾千ということない看客を呑みこんでいる建物が、さかさまにそのボール製の窓窓と、窓窓をさし覗く腰のまるい女らの姿をうつしていたのである。あるものは悩ましげな藍いろの半洋服で、あるものは膝よりも白いくびをさしつらぬいて、蒼蒼あおあおした水の上に、何らの波紋もなく、しんとして映っているのであった。日かげは、これらの高層な建物のうしろにつづく大通りの屋根屋根の上にかがやいているらしく、その為めななめにかげられて、ベンチの上の悲しげな蒼白い相貌をなお一層いっそう憂鬱に、かつ懶げに映し出しているのであった。かれのからだにも日の光はあたたかに当っていた。

 池のなかばにも日があたっていた。かれらの悲しげな泳ぎは温かい方へ、そこの明るみに舞うところの微塵はみな水の上におちて行った。風船玉の破れや、活動のプログラムを丸めたのや、果物の皮、または半分に引きさかれた活動女優の絵はがき、そういうものが岸の方へみな波打ちに寄せられ、あるかないかのさざなみに浮んでいた。哀しげなアニタ・スチュワードの白白しい微笑んだ絵はがきが、かれの方から濡れたまま、日の光のまにまに浮いて見えたのであった。かれはそれを見るともなく眺めているうち、ふしぎにその印刷紙の蒼白い皮膚が濡れているために、ふいに、れいの女のことを思い出した。

「ちょうど、ああいう風な蒼白さで、そして何時もすらりと歩いているのだ。よく似ている。さびしげな頬のあたりが、ほとんど彼女にそっくりだと言ってもいい。」

 かれがそういう思いに充たされているときに、不意に、赤い鯉が池のそこから浮びあがってきて、何かを吸いこんで、はっきりともんどり打って再び水中にかくれた。そのとき、かれは緋鯉の丸っこい胴体がじられて、彎曲わんきょくされて滑らかにあらわれたのをみた。それはかれには、婉然えんぜんとして円みのある胴体ばかりでない、美しいある咄嗟の幻想にいざない込んだのであった。みればあたりの水は濁り、ひっそりとして彼女のすがたは消え失せたのであったが、水面に浮んだ分の体がちらと光ったままで、かれの視覚にもつれついて中中なかなか離れなかった。

 ひょいと見ると、かれの正面の××館の看板絵にもなまなましいペンキ絵の女の顔が、するどく光った短刀をくわえて、みだれた髪のまま立っているのであった。その唇の紅さ、頬の蒼白さ、病的にばらばらに、かれの頬のあたりまでなびいてくるような髪の毛のうるささを感じながら、かれは飽くこともなく見つめたのである。かれは、そういう一切の光景のうちに、病みわずらうたかれの性的な発作がだんだんに平常のかれ以上のかれに惹き上げつつあるのであった。かれにとって、もはや一切の流旗や看板絵や、わずかに棄てられたアニタ・スチュワードや、鯉の胴体や、なやましげに紫紺の羽織をきた女や、下駄ずれの音や、しぶとく垂れている柳や、さては、そこにある交番の巡査のさびしげな赤い肩章まで、かれのからだに響き立てて、一種の花のようにむら咲きをはじめたのであった。それと反対にかれの顔面は荒んだような上乾きをしてゆき、悲しげな鼻翼の線を深めるばかりであった。

「おれはの鯉の胴体をしっかり心ゆくまで掴んで見たい願いをもっている。あれが不思議な冷たい生きものであるか。単にそれだけのものであるか、それとも柔らかい名状しがたい別な生きものであり、そしてその掴んで見ることによって何等かの愉楽を感じ得るものであるか、ともあれ、あれのからだには様様なものの感覚が、この混鬧の巷のうちの何かが潜んではいまいか。」

 かれのういう詰らない考えは、殆ど熱病のようにかれのからだのなかに広がってゆくのであった。埃と煤と紙きれと。またそれらにまみれた空気よりしかないこの池、あやしげな一切の影をうつす水の面、そのなかには、かれ自身さえ知ることのできないものが有り得るもののように思えた。三年に一度ずつの底浚そこざらいにはふしぎにも幾つものダイヤモンドの指輪と、ほかに又純金の指輪が必ず落されているということや、銀貨が沈められていることや、その他に純金細工の櫛やかんざしや珊瑚珠さんごだまや、ときとすると不思議な絵画が幾束となく固く封じられて底深く沈められてあることや、男と女との人形が固く両方から縛められ、おもりをつけられかつ呪われたままで泥底のなかに沈みこんでいることなどがあった。あらゆるこの都会の底の底の忌わしげな情痴の働きが、なおかつこの水中のなかに春のように濃く、あるものは燦然さんぜんと輝いて沈められてあるのであった。夜は夜についで蒼く明けきらないうちに、いかにそこは諸諸のものが棄てられ沈められることであったろう。かれは、これらの考えから、水とはいえない一種のあぶらのような水面をなお永くふしぎなものを見詰めるように眺めるのであった。

 そのときうっすりと日が陰ったような気がした。が、実はそうではなく、五六間さきに一人の女が歩いてゆくのが見られた。はっとする間もなく、彼女は、すぐかれを見つけると何気なく、すなおに微笑んだのである。そのときかれは殆ど夜ばかり往来で見た彼女の皮膚が、日光に透いて見えて、いかに白く明確に輪廓づけられたものであるかを初めて知ったのである。それは貝類の肌のような白みのなかにややうっすりしたオレンヂいろを交ぜたような光沢をもったところの、殆ど、日本人としては稀に見る皮膚の純白さをもっていたのである。之加しかも夜、やや褐いろに近いと思えた目は紛うかたもない藍ばんだ黒さで、両側の長い睫毛まつげおおわれていて、あだかも澄んだ蒼い池のまわりの蘆荻ろてきの茂みのようで、しかもゆっくりした光をもって、しずかに、かれの視線を見返したのであった。

 この不思議の女は、まがう方もない雑種児であることを感じたのである。かれはその微笑をほとんど咄嗟の間に返すと、かの女もすぐさま又返してきたのである。何かの買いものをした帰りであろう、風呂敷包みを有ちながら、裾を蹴散らして歩く背高い姿はひとびとの目を惹いたのである。かの女は足早に往来へ出て行ったが、その異常に白い頸首くびははっきりとかれの目にえぐり込まれてつッ立っていた。

 そのときかれの疲れた耳もとで、誰かが物うげな声でささやくのが聴えた。それほど彼女の姿はひとびとの目につき、また彼女自身がそれほど有名なものになっていたのであった。かれは耳を立てたとき、うしろのベンチでささやきはふたたび起ったのである。

「あの女は電気をからだに持っているんだそうだ。何をするか分らない。得体の知れない女だそうだ。」

 と、言うのがきこえた。にぶい虻のように疲れた声であった。

「どういう風に電気があるのだ。そんなものが人間のからだにある筈がないじゃないか。」

 別な声がいうと、さきの声がたこれに答えた。

「あの女がね。樹なんぞゆすぶると、樹がガタガタ震えるのだ。ふしぎに子供をおぶさすと何時の間にか窒息してしまうのだそうだ。だからの女はできるだけ電燈のそばに坐ったり歩いたりなぞしないそうだ。いつも暗いところばかりって歩くのだそうだ。」

 と言ったときに、彼女の姿はもう人込みに揉み消されてしまっていた。

「そんな不思議な女がいまどき居るものかね。」

 感嘆したような声がつづくと、

「一種のああいう病気なんだよ。あの変に白っぽい顔色を見ても何かの病持ちだということが判るじゃないか。」

 と、さきのだるい声がぜいぜい続いたのである。かれはしばらくすると、そこのベンチを離れた。

 そのとき日の光は、人家の屋根の上にななめにさしていた。冬近く、黄ばんだ夕方ちかい光線は、あらわに二階家の内部や、商店や飲酒店の暖簾をそめていた。この巷にきて、これらの光線を見ることは、いつも彼にとっては堪えがたい寥寥りょうりょうとした気持に陥らせるのであった。かれが観音堂の裏あたりへきたとき、うしろから来た男が何か言いたげに、うそうそと影のようにつきまとっていることを見いだしたのである。

 かれは、若い銀杏の木のしたに来たとき、その男は、低い声で、すれすれに寄ってささやいた。

「あなたは電車の切符をおもちでしょうか。実は……。」

 と言いかけて、かれは藍色した切符を一枚取り出した。

「これをあなたに買っていただきたいと思いましてお願いしたんです。わたしはまだ何も食わないんです。けさから……。」

 かれは、その男のよれよれになった単衣ひとえと古下駄と、この都会を絶えず彷徨しているもののみに見る浅黒い皮膚とを目にいれた。けれどもかれはまだ黙って、睡眠不足らしいかれの目をみつめた。

 かれは内懐中うちぶところから一枚の銀貨をつまみ出すと、やはり低い声で、

「お困りでしょうに──これだけあるから使って下さい。」

 そう言って、男の手のひらに銀貨をのせたのである。男は幾度も礼を言ってしつこく切符をかれにわたそうとした。

「それは要りませんよ。そんな心配はしないで下さい。」と言いながら、かれはくるりと踵を見せてあるき出した。

 かれは、かれの背後で浅猿あさましくも幾度となく挨拶をいう男の声をききながら、忌わしさのために、自分自身のしたことについて或る不愉快な憎しみを抱きながら歩いていた。何処から何処となく、町角に出るかと思うと、とある飲食店の内部に、さむざむとかれは夕食をしたためていたりしていた。

 かれは其処そこでさまざまな人人を見た。それは、当時に流行はやった小唄をヴァイオリンに併せて弾いたりする卑俗な街頭音楽者のむれであった。かれらは、吉原に近い土手裏の湿め湿めした掘立小屋のような木賃に、うじのようにうごめきながら、朝から晩まで唄いつづけていたのであった。かれがふとしたことから、そこの木賃をたずねたときは、午後三時ころの斜陽が、煤と埃とボロにまみれた六畳の、黒ずんだ畳の上をあかね色に悲しげに射していた。

 音楽者らは、みなヴァイオリンを一日十銭ずつに賃借りをしていた上に、糸や楽器の破損は凡て自分持ちにしていたのである。手垢にまみれた楽器はどれだけの人人の手に触れたか分らないほど黒ずんだ光沢をもって、胴の中はおびただしい埃にまみれていたのである。かれが其処に凡ての人人がするように、ぶらりと這入ると、すぐ紹介された。歳太郎というかれの郷里から出てきた古い友人が、かれを時時脅して電車賃などを持って行ったが、しまいに、かれをそこに紹介してくれたのである。

 そこには四人の青年がいたが、みな一様に日焼けをしていた上に、栄養不良らしい蒼白い皮膚をしていた。昼間は、ときどき万年町の元締もとじめからくる毎日の新しい小唄を予習することにわれていたが、もとよりメロディばかりを弾くのであるから、それほど困難ではなかった。ひとり唄えば、ひとり弾きながら、

洋燈ランプさん、わたしあなたに、

ほやほや惚れた──

しんのあるのを見て惚れた──。

 と、悲しげな皺枯れ荒んだ声でうたうのである。かれは、三人ともみな魚のような大きな口をあけて、うすぐらい室でうたい出すのをきいていると、本願寺の境内のくらやみや、公園の隅隅、それから町裏などに歌ってる帽子をも冠らない浮浪人のむれを思い出すのであった。その声は、変に破れて浮ずったような喉声で、ながくきいているとひとりでに心が荒みながら沈んでゆくような気がするのである。わけても折釘にぶら下げた垢まみれの着物やシャツや帽子や、蠅の糞でくろずんでいる天井、すぐ窓さきに隣の厠にひきつづいた湿っぽい腐った板囲い、それから次第に天井の方へ這いあがってゆくひとくれの日かげの寂しさ、そういうものが悉くかれの声音とよく調和されて何時までもつづくのであった。

ほやほや惚れた、れた……

 と、きいきいきしむヴァイオリンが、同じメロディを幾度となく繰りかえされながら、うたわれるのであった。

 かれは、歳太郎が手に持っている薄い印刷物を借りてよむと、そこには小唄が十種ばかり書いてあって、定価がつけられてあった。それらの印刷物は万年町の元締から「おろし」にされて、例の街頭で売りさばくことになっているのであった。

「この小唄を作る男に会いましたが、早稲田を中途でやめてこの方を専門にやっているんですよ。やはり原稿料みたいになっているんです。絶えず新しい作ばかりを節づけているんですよ。」

 歳太郎は、その男が現にこの原稿ばかりで食っていることや、東京で唄われる流行歌はみなその男が作ることなどを話した。そして、

「大阪と京都へもわざわざ旅費をつかって出かけるんですよ。それがつまり東京を振り出しにして横浜までの旅費さえあれば、ヴァイオリンを一ちょう持って、町町で唄ってはこの刷り物を売って歩けば大阪へでも京都へでも行けるんです。」

 と言って沢山の刷り物を二つ折りにしては重ねていた。仲間らしい青年がさっきからじろじろ見ていたが、

「あなたは美術家ですか。」

 かれは慌ててそうでないと言ったのである。ところが歳太郎はすぐ口をきって、

「この人は詩をかくんだから、小唄などは何でもないんだ。書いて貰うといい。」と言って、

「君、何か一つかいてやってくれませんか三四十行の奴を──。」と言ったのである。するとその男は、

「詩っていうのは新体詩のことですか。万年町の小唄の作者も詩がうまいんだという話ですよ。」

 そう言いながら「わたしも文学希望で田舎から出てきたんですけれど、とうとう、こんな処へはまり込んだのですよ。T先生S先生にもお会いしたことがありますよ。あのころからずっとやって居れば、今頃はどうにかなっていたかも知れないがなあ。」

 関西なまりで言うと、そばにいたヴァイオリン弾きが笑い出して、肩から楽器をおろしながら皮肉そうに、

「こんな男が君何をやったって出来るものですかね。木賃にごろごろしているより外に能のない男ですよ。なにかの癖にああして泣言なきごとをいいますがね。」と、抉るような浮いた調子で言って「僕なんぞも三度も音楽学校の試験に落第したものですよ。学校のなかの芝草の生えたところがあるでしょう。あそこで胸をどきつかせながら試験場へ這入って行ったものです。けれども、それも今は話の種でさ。」自分で自分を卑下するように、からからと笑った。すると、さっきの男が、じっと見つめていたが、

「嘘をけ、君が音楽学校の試験なぞを受ける資格があるものかね。第一、中学はえていないし、英語はビイルのレッテルも読めないじゃないか。」

 ヴァイオリン弾きはすぐ赤くなって、唇を噛んで慌てて赤くなった顔の遣り場に困ったらしくどぎまぎしたが「馬鹿を言え。きさまなんぞに音楽学校のことを言ったって分るものか、そのころ勉強した音程の本なぞ皆ちゃんと今でも持っているんだ。」

 そう少し蒼ざめながらいうと、さきの男は追いかけるように、

「じゃ拝見しましょうかね。音程の本がきいて呆れらあだ。」と毒づいて、気短かそうに煙草に火をつけていた。歳太郎がそばから、

「詰らないことを言わないで今夜のやつを練習しなければものにならないよ。日がだいぶ詰ったじゃないか。」と、年頭としがしらだけにそう言うと、ぐずぐず言いながら、「君、ちょいと失礼します。」と言って、また大きな口を開けながら、長長と歌いはじめるのであった。いちように大きく開けた口もと、そのきたない歯並、それらはただ機械的にすぼがったり開けられたりした。どこか哀調をふくんだところではわざと目をほそめ、額にしわを寄せながら泣くような声を出すのであった。

「楽器などがないと思って大きな声でうたえよ。低くっていけない。」

 と、ヴァイォリン弾きがどやしつけるように叫ぶと、さきの男もぶっきら棒に叩きつけるように怒鳴どなった。

「ヴァイオリンのような高い声などが人間に出るものか。」

「そこを出すのがいいのじゃないか。ヴァイオリンは今の場合伴奏にすぎないんだよ、伴奏なんだよ。」

 と遣り込めると、さきの男は、

「伴奏というのは別の曲を弾くことなんだ。メロディばかりじゃないか。」と、これも唱いながら噛みつくようにわめいた。

「生意気をいうな。──そら間違った。もっと長く引くんだ。ほやほや惚れた──とこういう風に」。

 ヴァイオリン弾きは、かれを横目で見ながら、決してこの男などにひけをとらないという暗示を与えるようにツケツケ叫ぶのであった。

 歳太郎は黙っていたが、さすが子供のときからの友だちの前でいがみ合っている仲間を見られた極まり悪さに陰気になって考え込んでいた。

「こんな口諍くちあらそいは毎日なんですよ。どうにもならないんですからね。」

 歳太郎は子供のときから明笛みんてきや流行唄などを上手うまくうたったが、こんな処へ墜ちてきた自分をいつもかれの前ではさげすんでいたのである。

「どちらでも同じことなんだよ。僕なんぞも君らのような仕事さえできなくてのらくらしているんですよ。」と、彼は彼で低い沈んだ声で囁くのであった。

「だってるにも事欠いて唄うたいなんですからね。」と言いながら、軽く思い上ったような調子で、

「食うには食えるんですよ。別に人さまに頭をげなければならないこともありませんしね。行き当りばったりで気に入ったところで唄っていさえすればいいんですよ。それだけが取りどころです。」と、歳太郎は言って安心したような顔になったが、「これで雨の十日も降られると、どうにもならなくなるんですよ。そと稼ぎはできないしね。蛆のようにでねころんでいるんです。そんなときになると君などと遊んだ郷里の町などを考え出しましてね。あれはどうしたろうなどと思い出すんですよ。」と、三十近い能なしのかれは、眉根の薄くなるような寂しい顔をするのであった。

 かれは先刻から室の隅に色白な少年が、じっと坐ったきりで少しも動かないでいるのを偸み見ていた。皆のあとにつきながら、口をもがもがさせていたが、少年の声音だけが皆の荒れたのにくらべて、なま若く不調和な高い調子になるので、すこし唄っては止め、そうしては居られなさそうに又急に、へんに跳ねあがるような声で唄っていた。そうしては時時かれの方を眺めながら、かれの視線に出会すとあわてて視線を外らし、いくらかあわてて声をへどもどさせるのである。それらの調子がどうしても最近にこの仲間に入ってきたものとしか思えなかった。それに少年の顔は他の仲間にくらべて、まだ滑らかな悪ずれのしていない若若しい光沢をもっているのであった。

 かれはそっと歳太郎の耳のもとで、

「あの少年はどうしたのかね。こんなところへ来るものとも思えないようだが……。」

 そう問うと歳太郎もちょいと一瞥しながら低い声で「あの少年ですか。あれは。」と一層声をひくめて、

「一週間ほど前に自分から進んでやって来たんですよ。田舎から出てきたらしいんだが、やはり種種いろいろ仕事を捜したが無いんで此処へやってきたらしいんですよ。それでも(君は将来はどうするのかね。)と尋ねると(昼間は学校へ行って苦学をしたいんです。晩はどんなことをしたっていいんです。)と言うんですが、誰でも始めは皆そうなんですが、しまいには怎うにも恁うにもならなくなってしまうんですよ。ああして居るもののちゃんと私にはどんな人間になるかが解るような気がするんです。いまはああやって恥かしそうにしていますがね。」

 歳太郎はやや自信あるらしい調子で言っているうちにも、少年は自分のことを話されている不安な予覚のためにこちらの方をじろじろ眺めていた。

「では最う街で唄い出すのかね。あれでは物にならないだろうが。」というと、

「まだ恥かしがっているんですが、なあに二週間も経てばすぐですよ。それも一度街で唄えばもうしめたものです。どこまでも厚面あつかましくならなければなりませんからね。巡査がやかましく追っ払いますからね。考えて見ると厭な商売ですよ。」

 歳太郎はすっかり刷り物を揃えてしまうと、懐中瓦斯とサイダアの瓶に湯ざましを詰めこんで、小さな風呂敷包みのなかに入れた。

「サイダアの瓶はどうするかね。」と問うと、

「唄っているうちは喉が渇くでしょう。それで用意して行くんです。」

 歳太郎は、はははと寂しく笑った。他の連中も練習が済むと、みな刷り物と懐中瓦斯とを一と包みにした。さきの少年はむんずりと立つと、自分の分と、連れられてゆく歳太郎の分とを土間の板の上にならべ、みんなの下駄をそろえた。

 そのとき日は室内にも外にも陰って、うそ寒げな夕方の空気があたりを這いはじめていた。ヴァイオリン弾きは木綿の袋に楽器を入れると、それを抱えて、さっきの口争いをもけろりと忘れたようにして、

「さあ出掛けよう、君はゆっくりしていらしって下さい。」と言いながら「なにを愚図ぐず愚図しているんだ。出かけよう。」と、さっきの男に言った。さきの男は青いボール箱から両切りょうぎりを出すと火をつけて、かれに挨拶がわりに何か言いながら、二人とも素足のまま古下駄をひッかけて出て行った。二人とも同じい背丈で、どこか似たような寒げな埃ばんだ背後姿をしていた。

「君もそろそろ出かけるんだろう。」というと、

「そろそろ出かけなければ……」と言って立ちあがった。少年はヴァイオリンと刷り物を抱えて、まだ何処か可愛げなさつま絣の紺の褪せない筒袖をきていた。そとへ出ると、かれは歳太郎と少年とに別れた。



 十二階から吉原への、ちょうど活動館のうしろの通りの、共同便所にならんで、いつも一台の自動車がやすんでいた。晩の十二時ごろからどうかすると明方あけがたの一二時ごろまで、いつも決ったように休んでいる自動車はめったに動いたことがなかった。何時の間にやって来て、いつ動き出すか分らないが、きまったように窓窓にカーテンをおろしながら、街燈と街燈との間の暗みに、にぶい玻璃ガラス窓を光らしながら置かれてあった。

 それに又、ふしぎなことには、ただの一度も運転手の姿を見たことがなかった。どういうときでも、誰かが修繕をしながら一と走りに機械でも取りに行っているように、人気もなく、あざらしのような黒い光沢のある自動車の全体が、しんと静まり返って、からかぜのなかにじっとしていた。

 かれは、そこにある柏の並木の黄葉がぽろぽろ落ちる夜なかに、一度、ふとした好奇心から通りとは反対の、溝のある方のハンドルのそばから内部を窺き見したことがあった。そのときかれは殆ど叫び出そうとする位の驚きに、おもわず自分の口もとを自分の手で塞いだくらいであった。──ちょうどかれが忍びよりながら、夜目にも自分の姿をうつす漆塗りの胴ッ腹から、そっと玻璃窓内をうかごうたときに、内部の深緑色(その晩は天鵞絨びろうどのような黒味をおびていた。)の窓帷カーテンがどうした途端であったか片絞りをされて二寸ばかり開いていたのであった。そこからかれが視線を流しこんだとき、かれは、いきなり喉を締め上げられたように吃驚びっくりしたのである。なぜだといえば、あかりを消した内部に陶器のような白い女の肉顔が、まっすぐに坐っているせいか、じっと動かないで据えられていたからであった。

 しかもその瞬間に、かれが第二の驚きの声をあげようとしたのは、その女の顔とすれすれに又別な男の顔を見出したことであった。ちょうど二つの白い瓜をならべたような姿勢が、内部のあるかないかの、あたかも通りからカーテンを透してくる明りがぼんやりしているのに浮きあがっていたからである。女の顔はくっきりと白く鮮やかな輪廓をもっていた。かれはこうした予期はしなかったが、このふしぎな自動車のなかに女の肉顔を見いだしただけでも、かれの靡爛びらんしつくしたような心をどれだけ強くゆすぶったか不明わからなかった。あり得べきところにあるものとはいえ、しんと静かな内部にかれいのように白く泳ぎ澄んでいるような彼女の顔は、変態なかれの情痴をぶちこわして了ったのである。

 女はその服装の華美な点から言っても、毛皮の襟巻をしているところから見ても、やはり女優のような妖艶さと押し出しをもっていた。第一、かの女の目はくらやみのなかでも、曇り硝子ガラスのようなくすんだ光をもって見えたのである。男は服をきていた。黒のソフトを深くかむっていた。かれらは黙っていた。話し声も何もしなかった。ただ、そうしているのは、葉巻でも買いにやったらしく思われる運転手の帰ってくるのを待っているものとしか思われなかったのである。けれども運転手は十分二十分経っても帰って来ないばかりか、それらしい姿さえ見せなかったのである。

 かれはその時咄嗟の間に、ある不思議な神経的な誘惑をかんじた。

「いったい何をしているのであろう。話し声もしなければ煙草ものんでいない。ただうごかずにふたりは白い瓜のように併んでいるのは変だ。何か本でも読んでいるのか。」

 そう思って気をつけても、それらしいものが膝の上にはなかったが──かれは、そのとき突然にドアから驚いて飛び退いたのであった。何者かがいてハジキ飛ばしたように、かれはかれのからだを溝からすぐに人家の裏口になっているところの、とある家と家との隙間に身を潜らせたのであった。かれはかのとき、得体のしれない蒼白いものの折り重なっていたのを感じたのであった。

 二三分の後に通りとは反対の(ちょうどかれの方から正面に見えるところの)漆塗うるしぬりのドアに、一本の生白い手がすうとすべり出たかと思うと、ハンドルの把手につかまって逆にねじられた。重そうで厚いドアが、さも軽軽と音もなくひらかれた。そこへなりの高い女が、ぱっと飛び下りると続いて服をきた男が下りた。かれらはあたりを見廻して暗い通りを足早に歩いて行った。そのとき烈しい香料の匂いが、溝の臭気をあっしながら、ふうわりとうすもののように漂いながら匂っていることをかんじた。

 かれは、これらの不思議な場面に、胸を小突かれてなおしばらく立ち止っていると、どこから現われてきたのか、一人の運転手が自動車のそばへ近づくと直ぐに運転台に上ったのである。間もなく、このあやしげな自動車はゆるゆると動き出して、俵町の方へひと廻りすると、やや早く馳り出した。と見る間にその自動車はかげのように消えてしまったのである。

 かれは人家の隙間から飛び出すと、何気なく自動車のタイヤのあとを見たりしていたが、又ぼんやり歩き出した。かれは眼底にうかんでくる様様な映像に悩まされながら、脳は重く心は疲れていた。かれ自身が何故に忌わしいこの巷の毎夜をぶらつかなければならないかということも、又そうすることに依って彼自身の内部が益益荒頽こうたいしてゆくことをも考えなかったのであった。かれは、総ての荒んだ独身者や失業者、また一切の無能者の当然辿るべき道を歩いているに過ぎなかったのである。

 かれは間もなく、殆ど幽霊のように樹立こだちから樹立を縫いながら公園をあるいていた。かれ自身何の目的もなく、多くの用なしとともに其処のベンチにもたれていたのであった。かれの前から半町ほどさきから、かれがつてきき覚えのある唄い声がきこえてきた。よく見ると、とある木立のかげに瓦斯を点しながら、三四十人の群衆にとりかこまれて、れいの卑俗なセンチメンタリズムが今さかんに弾き唄われているのであった。かれはその時すぐ街頭音楽者のむれを思い出した。それと同時に、

「誰に顔を見られたって最う何とも思いませんよ。恥も此処まで落ちてくれば落ちつくものです。」れいの爺むさい顔をして言ったことを思い出した。かれはベンチを離れると群衆の方へむかって歩き出した。

 歳太郎は自分で弾きながら、れいの沈んだ声で、ときどき故意わざと悲しげに長くひいたり、群衆の顔をいちいち眺めたりしながら唄っていた。少年は、ぽつねんとしゃがんで、右の手に刷り物をもって手持無沙汰に歳太郎の顔と群衆の顔をかわるがわる見くらべていた。

 かれは群衆の人垣の間にはさまれながら、しばらく聞いているうちに、均しく群衆が悲しげにすすり泣くヴァイオリンを、あたかもうっとりと聞きとれているもののように思えた。歳太郎はもちろんかれには気づかなかった。弾き終えると、少年はもじもじした声で、人垣をぐるぐる廻って、

「ご入用の方はありませんか。一冊十銭ずつです。唄は節づきでこのなかへ皆おさめられてあるのです。」と言っては、刷り物を人の目のさきに突き出して引っこませた。うす暗い群から「ここへ一冊。」という変な声で買うものがあるかと思うと、また反対の隅の方から鼠のような声で「こっちへも一冊。」と声がかかった。

 歳太郎は買手がつくと、きゅうに大声で怒鳴って、

「たった十銭で唄は残らず入っているのです。今のうちに、売りきれないうちに。」とき立てていた。そしては群衆越しに、あちこちに不安そうに眺めては、少年を急がしていたのである。それは公園廻りの巡査に追い立てを食うので、それを予覚しながら素早く刷り物を売り捌くのであった。

 見ているうちに八七冊売れると、群衆はだんだんに散りはじめた。黒黒とした人垣の輪が一人ずつ引っぺがされて、最後の四五人になるまで歳太郎はしつこく売りつけていたが、そのとき突然にかれは鋭く少年を呼んで手を振って、

「瓦斯を消してしまえ。」と叫んだ。少年はすぐ瓦斯を吹き消そうとしたが、なかなか消えなかった。歳太郎は何か言いながら、ふっと慣れた口つきで消した。

「早く逃げないと駄目だよ。早く瓦斯ランプを畳むんだ。」

 歳太郎は手早く刷り物を風呂敷包みにたたんだ。そして二人は観音堂の方へ急いで人込みのなかへ隠れて行ったのである。かれはそれを見ているうち、果して一人の巡回の警吏が靴音をしのびながら歩いてくるのを眺めた。



 所在ない日夜の彷徨は、至るところの街路や裏町にかれの姿を浮きあがらしていた。かれは何のために毎夜のようにほッつき廻らなければならないかということを問われたならば、一言答えることが出来なかったであろう。かれには理窟なしで、ひとりでにその足はいつも雑踏の巷に向くのであった。そのうち冬はまったきまでに、この巷の公園の樹の肌に凍えつき、安建築を亀裂ひびいらせるような寒さを募らした。

 或る晩、かれは十二階のラセン階段を上って行った。いつかは昇って見ようと思いながら、一度も昇ったことがなかったのである。かれの予測した古いかびのような匂いや、埃のむれや、至るところに不思議な軋り泣きする階段をおもしろく感じた。何かしら彼の好奇心をそそるような寂然とした自分の足音の反射、またかれと同じようにこの塔を見物するために上った少女のむれなどが、かれに奇怪な或る幻像を編み立てさせたのである。

 かれは第九階にまで昇りつめたとき、そこの壁にさまざまな落書が鉛筆や爪のあとで記されてあるのを読んだ。地方人らしい見物の人人がその生国しょうごくをかいたり、年号を記したりしてあるのがあった。なかには北海道とか日向国などがあった。爪のあとには埃が溜っていて、鉛筆のあとも消えぎえになっているのもあった。「われはきゅうをみやこに負い来れど、いまわれ破れてむなしく帰る」とか又は「ここよりして、遠く故郷の空気をかぐ。此処よりしてわが願いは空し。」などと記されているのがあった。それらの都会の落伍者はかれはかれ自身の上にも感じるのであった。都会を去るもの去ろうとして悩むものが、かれの目にありありと考え出された。あるいは「明治四十五年十月五日武島天洋。」などと無意味にかいてあるのもあった。ただ、その年号というものが奈何いかに寂しくあたまにひびくことであろう。かれは暫くぼんやりと眺めていたとき、すぐ歳太郎の爺むさい顔をおもい出した。

 かれが頂上に昇りつめたとき四囲の窓窓がすべて金網を張りつめられ、そこから投身できないようにしてあった。風は烈しかった。かれはそこから公園一帯の建物と道路と電燈のむらがりとを見おろした。道路には蟻のように群れた通行人のうごめく黒い諸諸の影が、といしのように白い道路の上に、伸びちぢみしながら、あるものは水の上にあるもののように、あるものは鳥のように蠢いてみえた。そこには電燈がいたるところに悲しげに点れていた。あたかも人影と人影との間に、建物と建物とのまわりに煌然こうぜんとして輝いていた。かれはそれを眺めているうちに、恰も射すくめられたような一羽の鴉が舞いおちるように、かれ自身がいま地上へ向けて身を投げることを思いいたった。

 そのときかれは既に地上に、ヘシ潰されたようになって、道路の上につッ伏していた。ひとびとは黒黒とかれのまわりを取り巻いたがかれはもはや呼吸を切らしていた。そこまで考えたとき、かれは金網につかまっている指さきが余りに強く掴っているためにしびれていることに気がついた。

「おれのようなやくざな人間の死も死にあたいするであろうか。おれの投身はきっと群衆を駆り集めることはできるであろう。今まで平和でいたひとびとの表情をしばらくは掻き乱すことはできるであろう。しかし次の瞬間には、ただ何事もなく、波紋のおさまるように人人は又平気で、先刻に考えていたことを更に考えつなぎ、愉楽するものはその方へ急いでゆくであろう。そこにおれは何の値せられるものがないのだ。」かれはこう考えたとき、あとから来た少女のむれも怖そうに地上を見おろしながら小鳥のようにさえずっていた。

「わたし此処から飛び下りて見たいわ。死んじまうでしょうか。」と、その少女は、そばにいたっと大きい少女にたずねた。

「え。きっと死ぬわ。あら危ないわ。そんなにそばへ行っては──。」と、うしろから小さな少女の肩を抱きすくめてやっていた。

 かれは、何気なかったが次第に蒼ざめながら立っていた。このふたりの少女をおれが地上まで連れて行ったら、この階上から、飛び下りたら、そしたら或いは、ひょっとするとおれは……などと悩ましげに考え込んでいたのであった。

 そのとき初めて少女達はかれの姿をドアと金網との間に見出した。かの女らの平和で斑点ひとつない顔は、すぐかれの蒼ざめた相貌から移しかえられたように、そっと変って青ざめたようであった。すくなくとも、その不安な顔いろは、かれが何者でもないものであることを知悉ちしつしながら、なおこの空中にある自らの優しいからだを護るためにしだいにうしろ退さりして行った。

「おれは怖がられている。おれは彼女らから見れば何という荒い容貌をしていることだろう。」かれはそう考えると、くるっと反対を向いて、烈しい夜ぞらに鋭く光る星座のあらゆる光をあびた。寒かった。それは殆ど痛みをかんじるほど寒かった。

 しばらくすると彼女らは慌しく階段から下りる音がした。それをきいた時かれは初めて安らかな心持になった。何もできはしない。しかしかれはかれの内部にうずいているものを恐れていた。五六分は過ぎた。しかしそのときかれは突然に金網の方へ走って見た。「おれはこういう風に走ってみるがいや決して投身するのではない。そういうおれは馬鹿ではない。唯こうして走ってみるだけだ。」と自分を制しながら、金網の破れたところを引ッ掻いていたのである。張りつめた金網はふしぎな金属性の音響を立てて、きみわるくドアの内側にまでひびいた。そのとき初めてそこにいた番人をかれは目にいれたのであった。その老人は静かに出てくると、かれの冷たい手をおさえた。

「そういう乱暴をなすってはいけません。それを破いてはいけない。」と、凡ての老人がもつ皺枯れた声で言って、かれの上から下をじろじろ眺めた。かれは殆ど機械的にぼんやり見返すと、

「乱暴とは……。」と、なに気なく言ったのである。老人はれたように微笑って、そっと近よると、

「だいぶ永くそこにいらっしゃるじゃありませんか。此処は高いところですよ。俗にいう魔が射すというようなこともありますからね。さあもうお降りなすったらいいでしょう。」

 そう言いながら、しずかに彼の背なかを押すようにドアのうちへ誘い込むのであった。かれは黙って老人のする通りにしていた。階段の入口へまで送って、

「ずっと下りなさい。わき目をふらずに下りなさい。」と言ってくれた。

 かれは腰から下がふらふらになっていることを感じた。目まいがひどくなるとかえって肉体が酔うものであることを初めてかんじたのであった。かれは階段をいくつも下りながら考えていた。「おれはあの老人から止められたほど変になっていたのであろうか。すくなくともう思わせるだけのものが、おれの目つきにあらわれていたであろうか。」と思うと、ふしぎにの塔の上にくると、誰でも高いところに登ったものは一度飛び下りてみたらと、ふいとわけなく然う考えるように、れいの「魔がさしてくるのであろうか。」それとも、あの老人が何かしら塔の上にくる人人の顔いろによって、そのひとが何を目的にして登ってきたかがわかるように習慣づけられているのであろうか。と、かれはぎっしりしぎっしりと階段を下りながら思い悩んでいた。一つの階段ごとに一人の番人がいて、卓子テーブルに向っていた。そのたびにかれは淋しい時計が静かな室内にときを刻んでいるのをきいた。番人らはかれの異常にあおざめた顔いろと、その変につかれた足どりとを目にいれると、またつぎの階段の入口で消えてゆくのを眺めた。ふしぎにこれらの階段の幾つとない入口から入口へと消えてゆくものが、昼となく夜となく打続くことで、誰も昇ったものがいない筈の階段を不意にきしませて、誰かがうしろから歩いてくるような気がして仕方がなかった。そうかと思うと、反対の階段からもぎしぎし昇ってくる足おとがかすかにしてくるのであった。まるでそれは入れかわり立ちかわり、絶え間なく影燈籠のようにくるくると廻っているように思われるのであった。かれはしまいには幾つの階段を上ったり下ったりしているか分らなかったのであった。目がふらふらしてきたのである。しかも手すりの真鍮しんちゅうをつかまりながらいるので、手はだらりと冷たく凍えあがったように垂れていた。そのとき番人はあわてて、

「入口はそちらですよ。飛んでもない。窓から転げおちますよ。飛んでもない。」そう言いながら、麻のような手つきで階段の下り口を指さした。河馬かばのような大きな入口は、かれの方にむかって、窓あかりに浮きながら開かれていた。

「そうですか。そちらでしたかね。」と、かれも慌てて歩き出して行った。と思うと、かれは、たしか七階目を下りた筈だのに、まだ八階目にいたのであった。窓外から吉原の灯つづきがぼんやり見えた。かれは恐ろしくなり出すと馳け足で下りはじめた。足音は相かわらず次から次へとつづき、背中をはたいてくるのであった。

 かれは、しまいに堪らなくなって、そこにいた番人に問うた。

「いったい此処は何階目なんです。さっきから考えてもわからないんですが……。」番人はじっとかれの顔をみつめた。その目はうごかなかった。かれもしばらくじっとしたが、顔が乾いて熱が出てきたような気がした。

「ここは七階目ですよ。あなたは先刻から此処を一体何の気でかけ廻っているんです。気味の悪い方だ。さあ、ここが下り口ですよ。」番人は気短かそうにかれを下り口へつれて行って、押すようにしながら鈍い声で、

「此処からわき目をしないで下りなさい。窓を見ないで。」

 そう言って引きかえして行った。かれはその通りにした。いくつも階段を下りて行くうちに、ある番人は湯気のあがった鉄瓶からいま茶をいれようとしているのが、ほとんど夢のように遠くながめられた。かれは、そこをも息をもつかずに下りた。

 三分の後かれは、とんと足の裏を小突かれたような気がした。気がつくとかれは、道路の上に立っていた。足のうらがしいんと脈打っていた。かれは、そのとき思わずふり仰ぐと、このふしぎな古い塔のドアがみな閉められはじめた。

 その塔はあたかも四囲なる電燈の海にひたっているため、影というものがなく、呼吸いきをのんで立ちあがっていた。しかもかれが再び見あげたとき、ふらふら目まいがしそうになって一種の悪寒をさえ感じたのであった。



 かれは、それから間もなく或る不吉な冬の夜の出来事に出会した。いつものように歩いていたとき、公園全体の人込みがみな塔の方へ向いて走ってゆくことと、そのなだれが塔の根の方を黒黒と染めたこととであった。

 かれははしなくその晩、いつかの電気娘が塔の上から投身したことを聞いたのであった。かれが馳けつけたときは既うその死体は運ばれてしまって、群衆も次第に散りはじめたころであった。かの女が何のために投身したかすら判らなかったが、かれは三四度かの女を見ただけの理由で、或る悪寒と哀惜とを同時にかんじた。しかもあの純白な皮膚がかれの目の前から去ることもなく、いつまでもかれにこびりついていたのである。

 それから幾晩かのあとに、かれは、塔のふもとの空地で彼のまずしい街頭音楽者らがヴァイオリンを弾きながら唄っているのを聞いた。かれは人込みのなかに佇んで、永い間歳太郎の顔をながめたのであった。なぜ歳太郎がこんな寂しい土地を選んだかというより、その日、かれはかれ自身が音楽者のむれに身を投じようかとさえ思うくらい、消極的の無為な或る淋しい観念にとらえられていたのであった。人人が散りはじめたときに、かれは歳太郎の肩を叩いた。歳太郎は驚いて、そして、

「先刻から君はきいていたんですか。僕のうたってたのを──。」と言って、顔をあからめた。

「いや別に聞いたわけでもないが、もう止めるのかね。」というと、歳太郎は瓦斯を消して、れいの少年に風呂敷に包ませると、暗いところを選んで跼んだ。

「こんな晩はいけないんですよ。なんだか陰気でね。一人寄ったかと思うと、二人行ったり、しまいには、ばらばらに四五人も固まって散ってしまうと、てんで唄う気がしないもんですよ。妙に神経的なものでしてね。そういう晩は初めから──そう、宿を出てくるときから解るような気がするんですよ。」

 歳太郎はそういうと、爺むさい顔をなお陰気にくもらせた。かれは、いくらか元気をつけるように、

「もう一度やって見るさ、第一此処は場所がわるいんだよ。暗いしじめじめしているしね。」と言って、かれはふいと塔の方へ目を走らせた。八角に削り立てられた尖端せんたんに、何かが引っかかっているような気がして仕方がなかった。

「場所も悪いが……今夜はもうだめです。寄ってくる奴がみんな影のうすい奴ばかりなんですから──それに、今夜は妙に腹の減ったような人間ばかりだったんですよ。あそこの瓦斯燈のせいもあったが、蒼白くへんに皆のかおが歪んで見えてね。」と歳太郎は言って、ちょいと瓦斯燈をながめた。その下を一疋の黒い犬がすたすたと歩いて行った。瘠せた骨立った犬であった。

 かれはその時まで今も話そうかと思いながら、もじもじしていたが、ふいに口をすべらした。

「昨日ここに身投げがあったというじゃないか。知っているかね。ちょうどこのあたりだよ。」

 かれはそう言いながら、老人の頭のように生えた雑草を見た。歳太郎はいやな顔をしたが、

「うん知っていますよ。さっきから私もそれを考えてたんです。ああいうことがあると商売がきっとうまくゆかないものですよ。」と言って、煙草をつけると、

「私どものように外で商売をするものは、身投げなどに縁起をとるものでしてね。今夜も宿を出るときは此処でしないことに考えていたんですが、いつの間にか始めてから気がついたんですよ。」と言って、かれは寒そうに肩をすぼめた。れいの少年はやはり歳太郎と同じい姿勢で跼んで、こつこつと石と石とを叩いていた。乾いた変な音がして気になって仕方がなかった。歳太郎もやはり気になるようにちょいちょい振り顧ったが、少年はそれに気づかないで叩いていた。

 かれも歳太郎も黙っていたが、ふいに、歳太郎はこう尋ねた。

「あの女を見たことがありますかね。白い顔をした──。」と言いながら、ちらと暗い目つきでかれの顔をながめた。

「二三度見たことがあるんだ。そこらの通りでね。」

 かれは、いつか彼女がにんがりと微笑って行ったことを思い出した。それきり又かれらは黙っていた。

 少年は依然として石をこつこつ叩いていた、乾いた音がした。

「おい、そんな変な音を立てるなよ。詰らない。」

 歳太郎は神経的に言うと、音はすぐんだ。それきり話が女のことに移らなかった。

 明るい通りへ出ると、歳太郎は真蒼な顔をしてかれに囁いた。そこは恰度ちょうど玉乗小屋の前で、すれちがいに行く女がいた。紛うかたもない例の女のすらりとした姿で、頸首もすっきり白く浮いていた。

「あの女が行く。何んという変な晩だ。たしかにあれにちがいない。」と歳太郎は叫ぶように言った。

 かれはその時総身に或るふしぎな顫律せんりつをかんじた。かれの眼にもはっきりとその姿が見えたからであった。どこか西洋人のような足早に歩いてゆく姿は、いつかの待合の小路で見たのと少しも異ったところが無かった。しかの女が生ているわけがない。あの女はたしかに投身したのだ。と思っても、やはり似ていた。かれは歳太郎の言葉をさえぎるようにして、

「あの女が歩いている筈があるものかね。いま時分、しかも死んでしまったものが歩いているものか。」

 歳太郎は胸をどきつかせながら呼吸をきらして、

「しかし変だ。たしかに似ているのだ。」

 と、またあとを振り顧った。群衆は絶え間もなく、つぎからつぎへと動いていた。一とところに溜るかと思うと流れ、流れるかと思うと、それが又ぞろぞろと溜ったり澱んだりした。

 かれは、そのとき突然にある思念に脅やかされた。しも、ひょっとすると……と思いながら口を切った。

「君はあの女をだいぶさきから知っているのかね。君の木賃から近くにある彼の女の宿を君は知っているのだろう。」

 歳太郎はそのとき顔いろを変えて、かれの顔を見つめた。それは紙より白くふるえるようになっていたのである。二分ばかり黙っていたが、

「だいぶ以前から知っては居るんです。しかし……。」と言って、つまずいたように黙り込んでしまった。かれも黙って歩きながら、次第に心持まで蒼ざめるような或る予覚のために震えをからだの凡てに感じ出したのである。あの女が噂のようにはらんでいたとすれば、そうして腹の子が彼女が地上に飛び下りたときに、蛙のようにヘシ潰れていたということが実際だとすると……かれはそう考えるとちらと、歳太郎をみたとき、かれは極度の恐怖と不安ともつかない或る不思議な悪寒とに脅かされた蒼白い顔を偸み見たのである。

 かれはそのとき又背後に大きな重い十二層の建物がのっそりと立ちあがっていることを何気なく感じた。射落された鴉のような姿をも、その塔の上から飛下とびおりする姿を、一切が衰弱したかれの神経のうえに去来する影をも。

底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年910日第1刷発行

底本の親本:「室生犀星全集第二巻」新潮社

   1965(昭和40)年415

初出:「雄辯」

   1921(大正10)年1月号

入力:門田裕志

校正:岡村和彦

2014年37日作成

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