森の妖姫
小川未明



 いつの時代からであるか、信濃の国の或る山中に、一つの湖水がある。名を琵琶池といって神代ながらの青々とした水は声なく静かに神秘の色をたたえて、木影は水面すいめんの暗きまでに繁りに繁り合うている。人もまれにしか行かない処で、春、夏、秋、冬、鳥の啼声なきごえと、白雲の悠々と流れ行く姿を見るばかり。

 偶々たまたま道に迷うて、旅人のこのあたりまで踏み込んで、この物怖しの池のほとりに来て見ると、こは不思議なことに年若い女が悄然しょんぼりたたずんで、自分の姿をその白銀しろかねのような水面みのもに映してさめざめと泣いているのを見る。旅人は斯様こんな山中にどうして斯様こんな女がいるかと怪しみながら傍へ行こうとすると蔦葛つたかずらや、いばらに衣のからまって、容易に行くことが出来ず、声を上げて女を呼ぶとその声音が不思議に妙な反響を木精こだまにたてて、静かな死せるような水面がゆらゆらとゆらぐ。ぞっとしてきびすを返して、一生懸命に野を横ぎり、又もや村里のかたを指して程少し来ると思う時分に百万の軍勢がときを造って、枯野を駆けるがようにごうと風やら、雨の物音が耳許みみもとを襲う。この時にはふもとの村々には大雷雨があって、物を知れる年寄などは又誰れか池で身投みなげをしてしぬんだな、と噂をするのである。しかしてその旅人は何処いずくへ行ったやら再び姿を見ぬ。

 昔、昔、ずっと昔に或る忠義な武士さむらいがあって主君の非行を諫言かんげんたてまつった。すると癇癪持かんしゃくもちきみは真二つに斬りさげんと刀のつかに手をかけたのを、最愛のおんなかたわらから止めたので、命だけはたまわって、国外に追放の身となったのである。その実妾はかえって武士を愛していたので、やがて自分もその武士の後を慕うて、一夜やみにまぎれて城を逃げ出た。してようやく追い付いて自分のこころの中のありたけを語った。武士は妾のこいに少なからず当惑したけれど、もはやいずれにしても命のない女の身を可哀そうに思って、意を決して二人は手に手を取り合うて、秋さに深き信濃の山路に逃げのびたのである。しかして三年この池のほとりに二人は安楽に暮した。しかるに一日夫は狩猟かりに出かけたり家に帰えらなかった。妻は案じて野の末をくまなく探して見ると、何者に殺されたか、切り捨てられたしかばねを見出したのである。やがてそれは君の追手の者に殺されたということが分った。何時いつしかその年も暮れてしまう。あくる年の春、うす紫の藤の花が咲く時分に、ついにこの憐むべき女は狂わしの身となって、人をうらみ世をいきどおって、遂にこの池の中に身を沈めて、妖霊ようれいに化したのである。道行く旅人、野に分け入る百姓は相いましめて、決して琵琶池のほとりにちかづかないという。

 もはや春もくれて、雲白き南信濃路に夏の眺めを賞せんものと、青年画家の一人は画筆をたずさえて、この深山路みやまじに迷いに迷い入った。緑したたるばかりの森影に、この妖姫ようきの住める美しの池はさざなみを立てて、じゃくとして声なき自然の万象をこの鏡中きょうちゅうに映じている。青年は池の畔りに腰を下して、名もなき花の、咲き満つる、青草の上にカンバスを構えた。

 都を立出でて、既に六十日、今や盛夏を告げ顔なる、蝉や、ひぐらしの声などが聞える。それにしてもこの艶々つやつやしい池の畔の草木の緑葉の眺めかな。赤々として熱そうな、日入いりひの影が彼方むこうの松林に照りつけると、蜩の声は深山の渓間たにまで鳴くのである。もはや帰るべき時はきたった。

 やおら青年はち上らんとする時、悲しき、嬉しき歌の声はもり彼方かなたに聞える。彼は耳を澄まして、じっと彼方を見詰めた。空色の衣物きものに緋の袴を着て、房々ふさぶさとした黒髪を垂れたる美女は梢の繁みを払って、我がかたを差し覗いているように思われる。はっとして青年は心臓の血潮をおどらすと、もはやその姿は歌と共に消え失せてしまった。

 次の日も青年は、写生に出掛けた。してその歌をきいた。やはり美しの姿は半ば木の葉に隠れて此方こなたを覗く様子は昨日と異ならない。この度ばかりは……と躊躇ためらう間に早や何処いずくへか消えてしまう。その夜は寝てもただ一目見し森の少女おとめの恋しくも、夢に見え、幻となりて時々目に浮ぶのである。何処の者ぞ……名は何と云うぞ。してその姿のしくも華奢はでやかに装いつるかな。

 白雲は折々、湖面を渡った。風は折々樹の葉を鳴らした。人も来ない、寂しい山中のこの辺の景色、永劫の自然を思い、人生の須臾しゅゆなるを痛んで、青年は一幅の画中にとこしなえにうら若きの少女を書き入れんとひとみを森の彼方に送る刹那せつな、いつもの悲しき、嬉しき歌の声がきこえた。気のせいか何となくいつもより悲しい。


うっとりと見れば、若者の恋しい。

昔ながらの、青く、動かぬ水に映つる。

絵筆とる、指の白くて、

その面形おもかげの、何とのう、恋しのつまに似たり。

紅き野薔薇の花を摘んで、唇にあてれば、胸の血潮が沸いて、耳朶みみたぶが熱する。

よそよそと吹く夕風、うらみもとけてい心地となった。わかやかな、恋をば又してみようか。

月の上るころおい、水辺の森に来て、琴を鳴らし、ああ、くびに掛けたる宝玉たまを解いて、青年わかものちぎりを結ぼう。


あれ、彼処あしこに我が兄子せこの、狩の扮装いでたちをして野原にせて行きやる。あれ、馬から落ちられた。

ああ、血潮を浴びて、白羽の矢が額を射貫いとおしたわいのう。


水に映る白雲の、いつしか消えてしまった。西の夕焼あかあかと、

木々の葉風のしく光る。


 許してたもれ! 許してたもれ! 暴風雨あらしあまつ日の光りをおおえかしと魔女は森の中に駆け込んだ。天日てんじつにわかに掻き曇って、湖面の水黒く渦巻き返える。疾風は林をかすめ、森を掠め、野を掠め、雲乱れて飛び、蜩の泣声止んで、寂寞せきばくとして天地は静まりかえった。青年画家は麓を志して道をいそいだが、後方うしろの山を越えて、千軍万馬の襲い来る鉄蹄てっていの響きや、馬のいななきをきいた。たちまち雨やら、風の物音が耳許みみもとを襲う。それぎり青年画家の行衛ゆくえは知れなくなってしまった。その夜は近隣の村々に黒風こくふう白雨びゃくうたけりに猛り狂いに狂った。そのくる日は、大空はぬぐうたように晴れ渡って、朝日影が麓の家々の白壁に落ちる、熱さは一入ひとしお加わって、蜩の声は汗をしぼるがように、野や、森や、並木や、雑木林に聞かれた。その後しばらく、魔女は姿を見せなくなった。今でも物静かなる琵琶池には画筆や、カンバスなどが浮いている時があるが、人が近づくと沈んでしまうそうな。

底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年810日第1刷発行

   2010(平成22)年525日第2刷発行

底本の親本:「愁人」隆文館

   1907(明治40)年625日発行

初出:「趣味」

   1906(明治39)年7月号

入力:門田裕志

校正:坂本真一

2019年329日作成

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