薔薇と巫女
小川未明
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家の前に柿の木があって、光沢のない白い花が咲いた。裏に一本の柘榴の木があって、不安な紅い花を点した。その頃から母が病気であった。
村には熱病で頭髪の脱けた女の人が歩いている。僧侶の黒い衣を被たような沈鬱な木立がある。墓石を造っている石屋があれば、今年八十歳の高齢だからというので、他に頼まれて盲目縞の財布を朝から晩まで縫っている頭巾を被った老婆が住んでいる。
彼は、多少学問をしたので迷信などに取り付かれなかった。腐れた古沼には頭も尾もない黒い虫が化殖るように迷信の苔がこの村の木々に蒸しても、年の若い彼は頓着しなかった。
然るに或夜、夢を見て今迄になかった重い暗愁を感じて不快な気持から眼醒めた。
曾て来たことのない沙地の原へ出た。朧ろに月は空に霞んでうねうねとした丘が幾つも幾つもある。
全く道に迷うたのである。月の光りに地平線を望むと、行手に雲が滞っていて動かなかった。尚おも歩いて行った。月の光りは一様に灰色な沙原の上を照らしていて、凹凸さえ分らない。幾たびか踏み損ねて窪地に転げた。けれど勇気を出して起きては歩いて行った。ただ行く手には、同じいような形の円い沙の丘が連っていた。足許を見ると其処、此処に一個宛夢のように色の褪めた花が咲いている。白でもない。青でもない。薄黄色な倦み疲れた感を催させるような花であった。その黄色な花の咲いている草の葉は沙地に裏を着けていた。葉の色さえ鮮かでない。
単に葉は漠然として薄墨色に見えた。その花は、何の花であるか名を知らないが、海の辺に咲いている花の種類であると思った。
この沙原の先は海ではあるまいか。
暫らく、道の上に立って、遠くに響く波音を聞き取ろうとした……何の音も聞えて来ない。人も来なければ、犬の啼声もしないのである。
けれど彼は、足に委せて行ける処まで行こうと思った。いつしか細い道は、何処にか消えて、自分は道のない沙原を歩いている。
ふと、彼は、この時清水の湧き出る音を聞き付けた。この沙原に清水のあることが解った。水の音は何方からともなく聞えて来る。耳を左に傾ければ左の方に当って聞えた。その方へと歩んで見ると、水の音は、どうやら右の方に当って聞える。地底から湧き出て、沙を吹き上げる泡立つ音は、さながら手に取るように聞えて来る。その時右の方に歩みを変えた。すると水の音は、後方になって、次第に遠ざかるようにも思われた。
彼はただこの泉を見出しさえすれば、また自分の行くべき道が其処から見出されると考えたのである。必ずこの泉の辺りに来た人は自分が始てな訳ではない。既に幾人もこの泉を汲んだであろう。其等の人々の踏んで来、踏んで去った足跡は、自然、微かな道となって、この仄白い月の下に認めることが出来るだろう。
この時、月は雲に掩われた。一面に沙原は薄暗くなった。而して月を隠した雲の色は、黒と黄色に色彩られて、黒い鳥の翼の下に月が隠れたように見えた。
身に悪痛みを感ずるような寒気が沙原に降る。怖れと愕きに何れの方角を撰ぶという余裕がなかった。彼は闇の中に幾たびか躓いた。そのたびに柔かな沙地に跪いた。最後に、急な崖から転倒した。刹那に冷汗が脊に流れた。自分では深い、深い谷に落ち行くような気がしたが、不思議に怪我もせずに沙の中に倒れた。
彼は、倒れたまま空を仰ぐと、月は、黒雲を出て以前と同じように沙原を照らしている。其処も同じく沙地であったが、丘が見えない。平な沙地が、地平線の遠くにまで接している。南の方と思われた。雲の裾が明るく断れて、上は濃い墨を流したように厚みのある黒い線を引ている。
さながら、その地平線に咲き出た花のように、一輪の花が眼の前に頭を擡げている。
彼は、十歩余りで、その花に近づくことが出来た。それは病めるようなこの朧ろ月の下に咲いた黄色な薔薇の花であった。
この時、水を探ねたように香を嗅ごうと焦った。而して花に鼻を触れて見たけれど、花には何の香というものもない。
誰か造り花をこの沙原に来て挿したのではあるまいか。
急に、南の風が吹いて来た。明るく一直線に雲断れのした空は物凄かった。南の風は、人間若しくは、これに類した死ぬべき運命を持った生物の、吐く息のように生温かであった。急に頭が重くなって眼が暈るように感じた時、眼前に咲いた黄色な薔薇の花は、歯の抜けるように音なく花弁が朽ちて落ちた。
この夢の与えた印象を忘れることが出来ない。
何となれば、母は間もなく死んだ。
彼は、この時から「前兆」ということを考えた。今迄迷信と思って居た世の中の不思議な話が事実あり得べきことのようにも思われる。而して終には霊魂の不滅というようなことも信ぜぬ訳には行かなくなった。彼は寺の傍を通る時は、きっと何か考えて歩いた。夜、独り戸外に出る時は、きっと或る一種の不安に心が曇るのを覚えた。而して眠る時も、枕を東にするか西にするかと惑うようになった。
而して、人に遇うたびに不思議な怖しい話を知らないかと聞いて迫った。人がその様な怪談をする時には、きっと彼の顔は青ざめて、窓の外に誰か自分を待っているように体をもじもじさせながら怪しく眼が輝くのが常であった。
彼の友達は、彼を神経病だと言い始めた。
或年の夏もやがて過ぎんとする時、この青葉に繁った村へ一人の若い巫女が入って来た。自からはその女を見なかったが人々の噂によれば、眼が黒く大きくて、頭髪が鳶色に縮れていて頬が紅かったという。けれどこの村の人でその巫女を見た者は真に僅かばかりに過ぎなかった。
子供等が桑圃の中で、入日を見ながら遊んでいると黒い人影が、真紅に色づいた彼方の細道を歩いて来た。それがこの巫女であった。巫女は子供等に向って隣村へ出る道を聞いたそうだ。
ちょうどこの時、村の或る一軒の家で、娘が大病に罹っていた。命がとても助らないと知って親類の人々がこの家に集っていた。一室の裡は簷に垂れかかった青葉の蔭で薄暗かった。何となくしんめりとして水を打ったようであった。病める娘は、痩せ衰えて、床の中から顔を出していた。もはや、眼を見開いて、人々の顔を探ねる程の気力もなかった。既に意識は遠くなって、霊魂はこの現実の世界から、彼の夢の世界へ歩いていた。
人々は、心配そうな顔付をして互に黙って独りこの世を離れて行く、娘の臨終の有様を見守るばかりであった。
巫女は、脊に小さな箱を負って村を通った。娘の叔母がこれを見付けて家に連て来た。その時は、もはや娘は眼を閉じて最後の脈が打ち収めた時であった。一室の裡には、母親が泣き、妹が泣き、親類の人々も泣いて、娘の枕許には香が焚かれて、香りが冷かな夕暮方の空気に染み渡って、青い蝋燭の焔が風もないのに揺れるように思われた。
窓からは、木々の青々とした梢を透して夕焼の色が橙色に褪めかかっている。
巫女は、死んだ娘を呼び戻すと言った。而して枕許に坐って咒文を唱えた。人の魂いまでも引付けるような巫女の顔は、物凄くなって、見ている人々は顔を反けたという。刹那、地震が地球を襲って家を揺った。人々は驚きの瞳を見張ると死んだ娘は、深い溜息を吐き返した。而して閉じた眼を大きく見開いて、床の上に起き直って眤と母親の顔を見て物を言おうとした。母親は、喜んで娘に抱き付いた。而して、
「オオ、息を返してくれたか。助ったか。」といって、余りの嬉しさに娘の顔を見てしみじみと泣いた。
涙は、娘の痩せた頬の上に落ちた。眼を見開いて、母親の顔をさも懐しげに眺めていた娘は、再び静かに眼を閉じてしまった。もはや、口を耳許に当て娘の名を呼んだけれど何の応えもなかった。
人々は、巫女の魔術に驚かされた。中には娘の死んでからの行先を聞いたものがある。巫女は死んでからは、何の人も平等に同じい幸福を受けるものだ。而してその幸福の国は、何の人も経験するのであるから知ろうと思う必要がないということを告げたのである。
この娘の母は、奇蹟を行う巫女はこの世界に稀に現われて来る魔神の使であるといった。而して、人間の身の上に関することでこの女に聞いて分らないものはない。若し疑う人があるならここから五十里許ある南方のXの町へ行って巫女に遇って聞いて見れ、巫女は過去、未来、現在のことを言い当てると言った。巫女はそのXの町に住んでいる……。
彼は、やはり娘の母親に遇ってこの話を聞かされた。そればかりでないXの町へ行って見れと勧められたのであった。
彼はX町へ旅立しようか、何うしようと惑っていた。人間が死んでしまってから、果して国というような名のつくものがあるだろうか。霊魂はどういうように生活するものだろうか。死んだ母と、見た凶夢とに関係があっただろうか……などといろいろ目に見えない心の疑問があった。
彼は、遂にXの町へ旅立することに決心した。燕が南の国に帰りかけた頃、彼も亦南の方を指して旅をつづけていた。
余程旅した後であった。道を行く人にXの町を聞いた。或者は、まだ遠いと言った。或者は曾て聞いたことのない町だといった。彼は、或る町で老婆にXの町を聞いた。その老婆は彼を家に泊めてくれた。その夜、老婆はXの町について教えてくれた。
此処からまだ三十里南にある町だ。而して若い巫女のことも話したのである。その町に昔からの豪家があった。その家に一人の娘がある。生れた時から蛇や、鳥の啼声を聞き分け、よく人の生死を判じたのである。家の周囲は繁った深林であって、青い鳥や、赤い鳥が常に枝から枝へと飛び渡っていた。娘は、また生れつき蛙を食べたり、蛇を食うことが好きであった。家の人は、この娘が普通の人間でないのを怖れて、世間にこのことを秘そうとした。而して外に出して、勝手に生きた蛇や、蛙を食うのを止めようと思った。けれど娘は人の目を盗んで外の林や森の中に入って、鳥に物を言ったり、蛇を見て笑ったり、蛙を掌の上に載せて面白がったり、さながら狂人のような真似をしたのである。
その家では、世間の人が娘の噂を立てるのを怖れた。またこの家には余程いろいろの秘密が隠されているものと見えて、他人の家に入ることを怖れた。
それで一人の老翁を日夜、家の門に立たせて護らせている。この老翁は利巧な老人であった。智識にかけてはこの町の人の誰れよりも優って困難な問いを考え、また複雑な謎を解した。老人は長い月日の間にいろいろの経験をしたのである。だから忍耐強くて、物の悟りが速かった。
老翁は、一日眤として門を護っていたのである。しかし体の衰えは争われなかった。門に立っていて折々居眠りをすることもあった。けれど決して鼠一疋といえども其処を通ったものは覚らずにはいない。それ程、彼の霊魂は聡くあった。老人自身でもよくいうのに、肉体が衰えれば精神はそれだけ敏くなるものだと。……而して老人は常に手に太い棒を持っていた。けれどそれは何の役にも立つものでない。何となれば若かった昔は強力で容易にその棒を振り廻わすことが出来たけれど、今は、それを振り廻すだけの力がないのである。ただ、その棒を持って立っているのが老人にとって漸くの力といってもよかったのである。
彼は、老婆からこの話を聞いているうちに、幼い時分に聞いた昔の物語りを思い出した。その不思議な寓意の物語りの筋が、ちょうどこのようなものであった。勿論筋の大体は違っているようだけれど、やはり斯様な老人が出て来るように覚えている。こう思って、彼は、老婆を眺めた。燈火の光りが当って老婆の白い頭髪は銀のように輝いている。老婆は、下を向いて眼を細く閉って、尚おも語りつづけている。
然るに或日のこと、この豪家の娘は門を逃げ出した。その夜は非常な嵐が吹いて、雨が降りしきった。家の周囲に繁っている林の木は悉く呻いた。雨は草木の葉を洗って、風は小枝を揉んで荒々しく揺った。暗い夜の天地は、さながら雨と風と草木との戦場のように思われた。
森の梢に棲を造っている小鳥は、夢を驚かされて、雌鳥は雛鳥を慰わって巣の上にしがみ付いた。雄鳥は、慌しく巣の周囲を飛び廻って叫び立てた。是等幾百の小鳥は、森と林の中に飛び廻り、雨と嵐を突き破って行衛もなく駆け騒いでいる。この時、娘は雨戸を繰って身を縮めて庭の闇の中に飛び下りた。
「鳥よ、もっと喧ましく啼き立てておくれ。妾の足音が聞えぬように。
鳥よ、鳥よ、けれどあんまり啼き立てて家の人の眼を醒してくれては厭だよ。」
と言った。而してその姿は、何処にか消え失せてしまった。
その夜に限ってこの利巧な老人は、決して油断したのでない。また安心して居眠りしたのでもない。彼は常の如く落付いて門を見張っていた。しかしなぜ娘の足音を聞き付けなかったろうか。必ず聞き付けたに相違ない。けれどこの足音を犬の足音と聞違えたのかも知れなかった。また立騒ぐ小鳥の翼の音と聞違えたのかも知れなかった。気まぐれに森を離れて飛び来った小鳥が門の前を過ぎたのかとも思ったのであろう……。
その娘は、なんでも諸国を巫女になって歩いているといい、また、家に連れ帰されて座敷牢の中に入れられてあるともいう。何れにせよXの町のこの豪家には、必ず老人の番人がいるに相違ない。而して誰が訪ねて行くとも決してその大きな青い門から中へ入れない。いかなる強情な人でも、この老人の智識あることに怖れて、その命令に背いて入るものがないということだ……。
と、或る老婆は語って聞かせたのであった。
彼は、秋の末に南方のXの町に着いたのである。
白壁造の家は夢のように流れの淵に並んでいた。水は崖の下に咽んでいた。水色の夜の空は、白い建物の間から露れ出て、星は穿たれた河原の小石のように散っている。瓦や亜鉛の家根の上を月の光りが白く照した。
彼は、この白い静かな町の中をあてなく歩く小犬のように、白い乾いた往来の上に、みすぼらしい影を落してさ迷った。而して巫女の家を見舞おうと思った。
或日、遂にその旧家を見出すことが出来た。町から程隔った小高かな処にある。彼は、月の冴えた晩にその家の門に辿り着いた。
もはや、話に聞いた彼の利巧な老人は死んでしまったという。幾年前に死んでしまったのか分らない。何んでも或日、老人は門の扉に倚りかかって、横木に手をかけた儘、堅く死固っていたということだ。今は、誰も門を護る人がないと見える。半ば朽ちた大きな灰色の門は左右に明け放された儘、空しく青い月の光りを通していた。奥深く繁った木立は、今や葉が落ち尽している。黒く悪魔のように立っているのは常磐木の森であった。
最初Xの町の人に聞くと、「幽霊家敷」を問うのだと言った。その時、彼は心のうちで年若い巫女のことをいうのであろうと思った。何となれば巫女は、奇蹟を行って人を驚かしたからだ。彼はその様な女を見たいと思った。而してその様な女に愛されたいと思った。この好奇心は、彼を臆せずに秘密の門の中に導いた。ただ巫女の黒い大きな瞳で眤と見詰められたい。魔女の手に抱かれて、その鳶色の縮れた長い頭髪の下に顔を埋めたい。而して紅い頬と熱い唇に触れて見たいと胸の血潮が躍った。
彼は、百人の普通の人に愛せられなくても、異常な力を持った悪魔に可愛がられたならば、もはや、自身はこの世に於て孤独な人でない。
微かな細い道は、奥の方へ縷々としてつづいている。いつこの道を人が歩いたか、余程久しい前から、足跡が絶えたと見える。草が生えて、全く道を消そうとしていた。
独りとぼとぼと月の光りを頼りに覚束なげな道を辿った。天地は寂然として、草木も息を潜めている。ただ青い輝く月光が雨のように降って来るのを眺めた。月光はすべての森や林を神秘の色に染めている。彼は遂に道の消えた処まで歩いて来た。其処には大きな礎石があった。古い大きな建物のあった跡であった。常磐木の森の暗い影に隠れて古い沼がある。半分姿を現わした沼の面が、月光に照らされて鱗のように怪しく底光りを放っていた。
小鳥も啼かなければ、風の吹く音もしなかった。全く昔の建物は跡形もなく亡びている。旧家の人々は何処にいるか? 座敷牢に入れて人目に触れさせるのを恥じたという、凄い美しい不思議な娘は、姿を何処に隠しているか。声を上げて呼んでも木精より、何の答えもなかった。
小鳥の巣の下に立って物を言ったり、蛙を掌に載せて笑ったりした娘の姿は、この寂然とした広い家敷の中には見えなかったのである。
彼は、礎石の上に腰をかけてコオロギの啼声を聞いていた。而して荒れ果てた昔の秘密の園を眺めた。
冬が近づいたと見えて月の光りが白くなった。
彼は再び故郷へ帰って来た。黒い陰気な森は処々に立っている。彼は黙って家の中に坐っていた。偶々、墓石の右手に見える道の上で、病気で死んだ娘の母親に出遇った時、巫女を見て来たかと問われた。けれど彼は、巫女が死んでしまったとは答えられなかった。相手の母親は、
「いえ、また夏になったら、この村へ入って来るような気がする……。」
と、いって左右に分れた。
友は、黙っている彼を訪れていろいろと話しかけた。
「まだ、いつか見た夢を思っているかえ。」
その友の筋肉の弛んだように開いた口の穴が、刹那に彼に謎のように考えられた。彼の頭はぐらぐらとして理窟ではない、ただ夢知らせというようなものを信じない訳にもゆかない気がした。
同時に、人々の、形のない美しい話も、故意にうそをいっているとは思われなかった。
それから彼は、黒い木立や、墓石や、石屋や、婆さんの家の周囲を考えながらぶらぶらと歩いて毎日、黙って日を暮らした。
その内に、白い雪が降って来た。
底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日第1刷発行
2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「小川未明作品集 第1巻」大日本雄辯會講談社
1954(昭和29)年
初出:「早稲田文學」
1911(明治44)年3月号
※表題は底本では、「薔薇と巫女」となっています。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2020年4月28日作成
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