日没の幻影
小川未明



〔人物〕

第一の見慣れぬ旅人

第二の見慣れぬ旅人

第三の見慣れぬ旅人

第四の見慣れぬ旅人

第五の見慣れぬ旅人

第六の見慣れぬ旅人

第七の見慣れぬ旅人

白い衣物きものを着た女

〔時〕

現代


遥かに地平線が見える。広い灰色の原には処々ところどころに黄色い、白い、赤い花が固って、砂地に白い葉を這って、地面から、浮き出たように、古沼に浮いているように一固ひとかたまずつ其処此処そこここに咲いている。少し傾斜して一軒の小舎こやがこの広い野原の左手に建っている。ちょうど赤錆の出た箱のようで、それに付いている蓋の錠が錆び付いて鍵はいつしか失われたもののように、一つの窓があるが、閉っている。夕日はその閉った窓の上に、その赤黒い小舎の上に落ちている。


第一の見慣れぬ旅人 この広い、はてしのない沙原すなはら。疲れているように、物憂ものういように、あのゆるい波の如く、病的の発作のように波動をしている地平線を見よ。ああ曲線の果なくつづいている地平線の彼方へ、私は歩いて行くのだ。幾日も、幾日も、ただ独りで話しするものもなければ、また眼を楽しますものもない。(足許あしもとを見廻して)この黄色な花、何という色の褪せたような花だろう、この白ちゃけた沙原に咲いて、沈黙のうちに花を開いて、やがてはしぼんでしまう花だもの、誰がこの花を心して見るものがあろうか。空を飛ぶ鳥も、稀に小さな黒い影をこの沙原に落すことがあっても何等の音もしない。ああ、この白い花、硫黄いおうさらされて、すべての色の死んでしまった後の白い抜殻のようだ。ああ、この紅い花、私は、鶏の肝臓を切った時に出る血の色を思うような赤い色をしている。或時は、全く是等これらの草花も咲いていない、沙原ばかりを歩いて来た。

第二の見慣れぬ旅人 私もやはり、そうであった。して、遥かに黒い物を見た時は、それがんであるか分らなかった。日の光りが弱って、沙原の上を黄色く染めていた。ちょうど熱病を患った時、セメンを飲んで、天地が黄色く見えるその時のように、悩ましげに見えた。その弱い日の光りの中に黒い物を認めた時、最初私は木立であるかと思った。

第三の見慣れぬ旅人 木立……あの、夢のように立っている黒い杉の木か……いや杉の木か何んだか分らない。まあ杉の木のように、もっと葉のやわらかなような、色の緑色のほうきを立てたように鬱然こんもりとした、而して日の弱い光りを浴びてろうのような、りんの燃えるような、或時は尼が立っているとも見え、或時は、人が立って黙想にふけっているとも思われ、或時は、薄気味悪い杉の木の立っているようにも思われた……(第二の旅人の顔を覗く。力なげな様子である。)

第二の見慣れぬ旅人 そうであった。私も、そのような木立を見た。筆を立てたような、さながらたましいでもあって、この疲れた沙漠を歩いている魔物のような、しかし、静かに、音を立てずに抜足ぬきあしして歩いているような木立であるかと思った。

第一の見慣れぬ旅人 私もそのような木立を見た。(頭を廻らして)あ、日が大分遠くなった。此処では、そのような黒い木立を認めることも出来ない。

第三の見慣れぬ旅人 しかし此処は窪地である。少し高い処へ上がったら、きっとあのような黒い杉の木が、うねりうねってゆるやかな波をうっているような沙漠の中に処々立っているのが見えるだろう……(足先にて立って)こうやったら見えるか知らん……。

第二の見慣れぬ旅人 ハハハハ。(と笑う。その声も広い沙漠の中で時ならぬ沈黙を破るように聞えた。)其様そんななことで、この沙原の遠方が見えると思われるのか……。

第三の見慣れぬ旅人 こういう沙漠にあっては三寸の高さでも余程違うものだ。たとえて見れば(彼方を指して)あの沙の小高くなっている蔭になって一寸ちょっと、黒い木立の頭が覗いていたとする。吾等われらは、何とも思っていない。それが一足高い処に上ると、はっきりと木立の根許まで見えるようなことがある。誰でもこういう沙原を旅した人の経験する所である。だから、変化のないようで、やはりこの疲れた沙原にも変化を求めれば、何等なんらか求められるものだ。けれど、こういうような変化を求めても、人は黙って心のうちでうなずき、承知しているばかりで口に出して言うものでない。何となれば言うのが物憂いのだ。

第二の見慣れぬ旅人 そういうことは誰にもある。心に思っていて、どうしても口に出して言うには、余りに物憂過るようなこともあるものだ。ことにこうやって毎日単調な旅をつづけている吾等には……。

第一の見慣れぬ旅人 (第二の旅人に向って)まあ、その話は、それとして、あなたは、その黒い物が木立であるまいかと思ったといわれた……それが……。

第二の見慣れぬ旅人 ああ、私は、まさしく地平線に日の光りを浴びながら、憂鬱の色をあらためずにいる黒い木立であると思いました。而してそれを目標に疲れた足を早めました。すると黒い物が漸々だんだん近づいて、それがやはり人間であるように思われた。私は、それで、ず大声を立てて呼んで見る気になった。其処で呼んで見た。(第一の旅人の顔を見守って)あなたも随分疲れている。……あなたは、大海原に向って呼んで見たことがありますか。波が岩を打つ音と石を転して、引き退る潮の音とが不断に響いている海岸に立って、大声で叫んで見たことがありますか。

第一の見慣れぬ旅人 あります。而して胸の苦悶を晴そうとしたことがあります。

第二の見慣れぬ旅人 その声は大きく立ちましたか。

第一の見慣れぬ旅人 海というものは盲目ですね。無神経ですね。私は、その時そう思いました。小さな人間の努力が何になりましょう。私は腹立しくなりました。而して海をののしってやりました。けれどまたそれが何の役に立ったとも思いません。ただ私の咽喉のどが痛んで、声が立たなくなったに過ぎません。

第二の見慣れぬ旅人 やはり、この大きな広い沙原に対してもその通りです。海は、動いて、とどろいて、騒々しくて、人間の叫ぶ声が聞えませんが、この広い沙漠の裡にあっては、沈黙が人間の声を吸い取ってしまうのです。怖しい沈黙!

第三の見慣れぬ旅人 ああ、吾等は何処どこへ行くのだろう……。(溜息す。)

第二の見慣れぬ旅人 (第一の旅人を見て)あなたは私の声を聞き付けずにいられた。

第一の見慣れぬ旅人 けれど遂にいっしょになった。

第三の見慣れぬ旅人 私は、あなた方が休んでいる間に追い付くことが出来た。

第一の見慣れぬ旅人 三人は何等の約束もなしにこの沙原で出遇であった。

第二の見慣れぬ旅人 そしてこの不思議な窓の閉っている小舎の前に立った。

第一の見慣れぬ旅人 ああ日が暮れる。地平線が黒くなって、空が黄色くなった。

(何となく、一帯に日暮方ひぐれがたの景色となる。)

第二の見慣れぬ旅人 (進み寄って、小舎の壁板を叩く。)何のこたえもしない。この小舎の裡には、闇がとざしている。その闇は、腐れている。その闇の底に死骸がよこたわっている。死骸は、自分の上をおおうたこの小舎が壊れて、落ちて、自分を沙原の中に埋めてくれるのを待っている。何故というに空虚の中に横わっているのを不安に思っているからだ。死骸が土に埋った時、時間から、空間から全く逃れたのである。腐れた死骸が、空気に晒らされて空間を占め、時の流れに横わっている間は、死骸もまた不安を感ぜずにはいられないのだ。

第一の見慣れぬ旅人 あなたは、この小舎に人が死んでいると言われるのですか。

第二の見慣れぬ旅人 人の死骸があるばかりでない。毒草が腐れた床から、壁の間から延びて闇の中に黒い厚い葉を拡げているのだ。

第一の見慣れぬ旅人 私は、そう思わない。この小舎の中には何もない。もはやこの家に住んでいた人がこの寂寥せきりょうの小舎を見捨ててから長い間経ったと思う。ただこの小舎の中にあるものは冷えた空気ばかりである。音のない隙間をるる光線のおののきばかりである。而して、床の上に其等それらの人々が使っていたかめや、びんや、食器が転っているばかりだと思う。

第三の見慣れぬ旅人 私は、今夜この小舎の軒に泊る。而して疲れた足を休めたいと思う。

第一の見慣れぬ旅人 どうせ果しのない旅だ。私は、昼となく夜となく歩いて行こう。

第二の見慣れぬ旅人 大空に穴の明いたように、またたきのしない眼のように怪しく闇にるる星の光りが、ちょうどこの単調な沙原の上に降る時、(第三の旅人の顔を覗き込んで)あなたは淋しいとも、怖しいとも思いなさらぬか。この、窓の永遠に閉った小舎の軒下に寝ていて……そうじゃ、し窓が開いたら、あなたは死ぬのじゃ……。

第三の見慣れぬ旅人 窓が開いたら、死ぬって?……

第二の見慣れぬ旅人 窓が開いたら、死ぬって? (第一の旅人の顔を見る。)

第一の見慣れぬ旅人 開かぬ。決して開かぬ。開いたら奇蹟じゃ。(第三の旅人の顔を見る。)而して真夜中の沙原を吹く風が氷のように肌を冷すと思っている。(眼を転じて第二の見慣れぬ旅人を見て)私等わたしら二人は、かく歩きましょう、こうやってじっとしているのが堪えられぬ怖しさを覚える。眤としていると沈黙が息を止めるように覚える。歩いているうちがまだしも心が休まるような気がする。

第二の見慣れぬ旅人 私も、そう思う。ただ、考えたくない。何とか手足を動かして気がまぎれるようにしたい。

第三の見慣れぬ旅人 私は、この小舎の軒で静かに寝て夢を見たい。眼が醒めたら、星を見て未来を考えたい。──死骸が横わっているという──古い瓶や、壜が転っているという──私は昔の古い夢を見たい。怖しい悪魔の夢を見たい。

第一の見慣れぬ旅人 何故、怖しい夢を──懐かしい夢を見たいと言われぬのか……。

第三の見慣れぬ旅人 どちらも見たい。私は詩人である。

第一の見慣れぬ旅人 あなたは詩人ですか。(驚いた風にて、第三の旅人の顔を見る。)

第三の見慣れぬ旅人 (得意な面持おももちにて)詩も作れば、楽器に合せて歌もうたいます。

第二の見慣れぬ旅人 詩人には怖しいものも、やさしく見えるということだ。吾等の怖れている自然力、不思議な運命、悪魔も、さだめし柔和なえみを顔に浮べて近づいて接吻せっぷんすることだろう。(別れを告げんとし、第三の旅人に向い)今夜を平和に送りなさい。

第一の見慣れぬ旅人 私共は、先へ参ります。御機嫌よう。

(第一の見慣れぬ旅人、第二の見慣れぬ旅人、相顧あいかえりみて沙原を歩いて、地平線を望んで行く、日は既に奈落ならくに沈んで、ただ淋しげに紅く微笑む黄昏たそがれの空の色。)

第三の見慣れぬ旅人 (小舎の窓に歩み寄って叩く。)古い記憶にあるような古びた小舎。私だ。私だ。どうか窓を開けてくれ。而して、私に中を覗かせてくれ。……悪魔! 悪魔! 私は、暗い奥を見たいのだ。私は秘密を知りたいのだ。而して、窓が開いて、中から黒い毒気が洩れで、私の息を止めて、死んでも私は満足である。懐しい追懐ついかい! 懐しい追懐! どうかこの秘密の窓を開いてくれ。中に洩れる明るい鮮かな光線の戦いてるのを見せてくれ。怖しい闇の力でも、柔しい追懐の匂いでも、私は、兎に角この窓の戸を開けて見たいものだ。(けれど、小舎の中から何の応えもなかった。)

第三の見慣れぬ旅人 もう全く日が暮れてしまった。ほんの仄白ほのじろく沙原が見えるようになった。夜が地平線から、頭を出して此方こちらを覗いている。赤い夕焼は次第に彼方に、追いやられてしまった。夜が、漸々だんだん此方に歩いて来る。(背中の包を下して、袋の中から、マンドリンを取り出す。)自分の弾くマンドリンで自からを慰めて来たが……(指で撫でて見て微かな音を立てる。)私が、今悲哀の一曲を奏でたら、誰か聞くだろうか。やはり、聞くものは自分ばかりである。(マンドリンを弾くことを止めて、小舎の壁板に立てかけて)ああ、しばらく眠るとしよう。(旅人体を窓下の沙上に横えて眠る。)……(間)……


(天地全く薄明となって、旅人の顔がほんのりと白く見えるばかり。この時、窓が、さながら秘密の口の開くように次第に開きかかる。見ている間に、漸々開いて、小舎の片隅に四角な暗い穴が出来た。この時、白い衣物を着た女が窓の際に現われる。胸より下は隠れて、胸より上が現われる。頭髪かみのけを長く後に垂れて、わずかに顔の白いのと衣物の白いのとが薄暗うすやみの裡にほんのりと見えるばかりだ。)

白い衣物を着た女 (白い花弁を撒き散す。雪のように白い花弁は眠っている旅人の上にかかる。)よく旅人は眠ってしまった。楽器を捨てて、手を投げ出して、あの疲れた心臓から洩れる息の音が、この静かな薄暗に鼓動をうって聞きとれるようだ。(間)日も奈落ならくへ沈んでしまった。この旅人は、再び沈んだ日の登るのを見ない。永遠にこの旅人は眠りから醒めない。昔から、この窓の下を通る者で、この窓を開けようと試みたもの、また覗いて秘密を見ようと思ったものは、皆な命を落してしまう。……この小舎を古びた腐れたものと思い、誰も住んでいないと思うもの程、愚かなものはない。まあ、この小舎は、ちょうどこの沙原を通る旅人の命を取るためにとこしなえに解らない謎となって、この沙漠に建てられた小舎だということを知らない。私の、いつまでも姿の若いのは、生きた旅人の命を吸い取るからである。私の、頭髪のいつまでもこう長く、黒いのは、生きた旅人の血をすするからである。私の顔の、いつまでも美しいのは、旅人の中の詩人に恋いせられ、慕われるからである。空をすぐる星も私の顔の美しいのに見惚れた。何という私の性質は残忍であろう。その慕い、恋する詩人の命も手を触れるとすれば取ってしまう。これが私の生れつきだから仕方がない。(白い衣物を着た女は、また窓から、白い花弁を眠れる旅人の上にふり撒く。)心地よく、ひややかに、この旅人は眠るだろう。(白い衣物を着た女姿を隠す。暗い窓は、また音なく次第に閉って、もとのままとなる。)

……(暫らく死せる如き沈黙)……


(この時、数人の旅人の一群、各々手に裸蝋燭ろうそくともして来かかる。)

第四の見慣れぬ旅人 ここに倒れている者がある。

第五の見慣れぬ旅人 この小舎は気味の悪い小舎だ。

第六の見慣れぬ旅人 窓が閉っている。窓の下に倒れているのは、眠っているのだろう。

第四の見慣れぬ旅人 何んだか見覚えのあるような小舎だ。(蝋燭をかざして)けれど、誰も住んでいないと見える。

第七の見慣れぬ旅人 (蝋燭にて倒れたる旅人の顔を照して)この歌うたいは、何処かで見たように覚えている。

第六の見慣れぬ旅人 (手にて倒れたる旅人を揺り起す。)や、(驚いて)この歌うたいは冷いぞ。

第四の見慣れぬ旅人 死んでいるのか。

第七の見慣れぬ旅人 この歌うたいは、Xの町を幾年前かに通ったことがある歌うたいに似ている。(蝋燭にて死せる人の顔を照して)たしかにこの男だ。毎日、Xの町を歌をうたってマンドリンを弾いて歩いた。そのうち、或る家の寡婦と恋に陥った。なんでもこの歌うたいのうたって歩いた歌を覚えている。(少し考えて)なんでも……或る古物商の丁稚でっちは色白だ。古い、紅と青に色彩いろどった瓶を落してって泣いている。というようなあどけない歌であった。そのうちこの歌うたいの姿が見えなくなった。

第五の見慣れぬ旅人 その歌うたいに相違ないか。

第七の見慣れぬ旅人 保証は出来ぬが、その歌うたいによく似ている。

第六の見慣れぬ旅人 毒でも飲んで死んだのだろうか。

第五の見慣れぬ旅人 頓死とんししたものとも思える。

第四の見慣れぬ旅人 よくあることだ。

第六の見慣れぬ旅人 また、今夜も夢見がよくない。

第五の見慣れぬ旅人 夜が、長くなった。

第七の見慣れぬ旅人 この旅人を葬ってやりたいものだ。

(旅人の一群は倒れたる歌うたいを取り巻いて暫時ざんじ思いに沈む。この時、日の沈んだと反対の地平線から、赤い月が上った。その色は地震があるか、風が出るか、悪いことのある前兆と見えて、頭痛のするように悩ましげな赤い不安な色であった。)

第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色を見い。

第四、第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色は……。

(一同月の方を振向いて不安の思いに眉をひそむ……沈黙……。)
(幕)

底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年810日第1刷発行

   2010(平成22)年525日第2刷発行

底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集」講談社

   1979(昭和54)年46日第1刷発行

初出:「劇と詩」

   1911(明治44)年4月号

入力:門田裕志

校正:坂本真一

2018年727日作成

青空文庫作成ファイル:

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