白い門のある家
小川未明
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静かな、春の晩のことでありました。
一人の男が、仕事をしていて、疲れたものですから、どこか、喫茶店へでもいって、コーヒーを飲んできたいという心が起こりました。
男は、家の外へ出ました。往来は、あたたかな、おぼろ月夜で、なにもかもが夢を見ているようなようすで、あちらの高い塔も丘も空も森も、みんなかすんで、黒くぼんやりと浮き出して、じっとしていたのです。
彼は、町へ出てから、はじめて、夜が、もう更けているのに気づきました。いままでへやの中で仕事に心をとられていたので、時刻のたったのがわからなかったのでした。町には、あまり人も歩いていません。また、この時分まで、店を開けている家も見当たらなかったのでした。
「もう、あの家も、起きていまい?」
彼は、顔なじみのカフェーが、もう戸を閉めてしまわないかと思いました。その方へぶらぶらと歩いていきました。彼は、歩きながら空を仰いで、なんという、いい夜の景だと感歎いたしました。
その町にある、彼のいこうとした、喫茶店は、もう戸を閉めてしまったのです。彼は、その家の前まできてがっかりしました。
しかたなしに、彼は、いま歩いてきた道をふたたび帰ろうとしました。そのとき、ふいに、彼のうしろで足音が聞こえました。だれだか、歩いてくるのでした。
「こんばんは、お疲れさま。」と、うしろから呼びかけました。彼は、このとき、立ちどまって、だれだかと振り向きました。うしろから歩いてきた人を、彼は、知らなかったのであります。
「こんばんは。」と、彼も答えました。
すると、相手の男は、さも親しそうに、彼のそばへ寄り添ってきて、
「私は、この町内に住んでいるものです。疲れたもので、コーヒーを飲もうとしてきたのですが、もう戸が閉まっています。やはり、あなたも、そのおつもりでいらしたように見えましたが、いい喫茶店をご案内いたしましょう。」といいました。
彼は、知らぬ人から、こういわれたので、ためらいました。しかし、町内のものであるということ、また、この人は、人のよさそうであること、もう一つは、自分と同じように、この人も仕事に疲れて、休息を求めにきたということ、そんなことが、なんとなく、親しみを感じさせたので、
「じつは、私も、散歩がてら、コーヒーを飲みにいったのですが、もう戸が閉まっていましたのです。」と、彼はいいました。
「この辺の町は、あまり客がないとみえて、早く寝てしまいますね。春の晩などは、もっと起きていてくれるといいのですが。」と、相手の男は答えました。
「もう、そんなに、おそい時刻でしょうか。」
「まだ、十二時前です。」
彼は、相手の男が、十二時といったので、もう、寝てしまうのは、あたりまえだというような気もされました。そして、家へ帰って、自分も眠ろうと考えました。
「なに、ご案内しようという店は、すぐこの裏通りですよ。ごく新しく開いたので、ちょっと居心地のいい家ですから、お知りなさっておいてください。」と、相手の男はいいました。
彼は、こうまでいわれると、その男といっしょにいかなければ、なんとなくすまないように思って、
「では、お伴いたしましょう。」といいました。
二人は、並んで、話しながら、ある横丁をまがりました。彼は、いままでにも、たびたびこのあたりを通ったことがありますが、今夜は、どうしたものか、その町が、ばかに美しくなって目に映ったのです。彼は、月の光が、こんなに、すべてのものを美しく照らしてみせるのだろうと思いました。やがて、二人は、明るい、店の前まできました。
「この家ですよ。」と、いっしょにきた男がいいました。
入り口には、すがすがしい緑色のカーテンが垂れています。内へはいると、なんの花か知らないが、香いの高い花が、たくさんびんに活けてありました。そして、あちらのテーブルに、三、四人の客が、腰をかけて話をしていました。また、どのへやからか、低いマンドリンの音が流れてきたのでした。
彼と相手の男は、一つのテーブルに向かい合って掛けました。このとき、彼は、はじめて、相手の男の顔を、はっきりと燈の下で見ることができました。そして、あまり、その男の顔が、小さい時分に別れた自分の従兄に似ているのでびっくりしました。従兄は、南洋の島で亡くなったので、もちろん従兄の生きているはずはないのであるが、なんとなく彼は、慕わしい気がしました。
「あすこにいるのは、みんなよくここへやってくる人たちなんですよ。」と、相手の男は、いいました。
彼は、その人たちを見ると、どの顔も、かつて一度は、どこかで見たことがあるように思われたのでびっくりしました。しかし、どこであったということも、またいつであったということも、思い出せなかったのであります。
「不思議な晩もあるものだ。こう、あう人々の顔が、みんな見覚えのあるような気がするのは、いったいどうしたことだろう……。」と、彼は、自分の目を疑ったのであります。
そのうちに、相手の男は、あちらにいる人たちと顔を見合わして、あいさつをしました。そして、「ちょっと。」といって、座を起って、あちらへいきました。
彼は、さっきから、奥の方できこえるマンドリンの音に、耳を傾けていました。なんといういい音色だろうと思ったのです。これを聞いていると、遠い昔のことなど思われて悲しくなりました。そして、だれが、いったいそれを弾いているのかと思ったりしていました。そのうちに、ぴったりとマンドリンの音がやみました。
そのとき、目の前へ、美しい、若い婦人があらわれて、その人は、彼の方へ、にこやかに笑いながらまいりました。
「あなたは、もう、私をお忘れになったでしょう?」と、婦人はいって、彼の前にきて腰をかけました。
「あなたは、いつも、私が、マンドリンを弾いている窓の下を通って、学校へいらっしゃいました。そして、ある日、雨が降って、あなたは、たいそう困っておいでになりました。私は、あなたに、かさをお貸ししました。あなたは、そののち、私に、きれいな本を持ってきてくださいました。その本には、たくさんの美しい絵がはいっていました。昔の伝説や、詩や、童謡や、お話や、いろいろなものが書かれていたのだけれど、外国の言葉で、私にはわかりませんので、ただ、私は、そのきれいな絵ばかり見ていました。あなたに、うかがったら、この本は古い書物で、字引きにもないような文字があるので、翻訳することは困難だとおっしゃいました。私は、まだ、その一つの水車が森の中にまわって、白い花が咲いて、赤い鳥の飛んでいた絵などは、目に残っています……。」と、彼女はいいました。
彼は、この話をきくうちに、十年ばかり前のある日のことを思い出しました。そして、どうして、忘れているそのころの人をふたたび、今夜は見ることができたろうと不思議に思ったのでした。
「私は、すっかり忘れていました。ほんとうに、そんなことがあります。いま、あの時分のことを、思い出しました。」と、彼はいって、過ぎ去った日をなつかしく思ったのであります。
「私は、ときどき、ここへまいります。今夜は、もうおそくなりましたから、帰ります。ちょうど車もきたようですから、これで失礼いたします。いつかお目にかかります。」と、その婦人は、いって出ていきました。
時計が、十二時半を打つと、みんなが帰りかけました。彼は相手の男といっしょに、そのカフェーから出たのであります。
「ちょっと、気持ちのいいカフェーではありませんか。お気にいりませんでしたか?」と、相手の男は、たずねました。
「しんみりとした、いいところです。私は、今夜は珍しく、見覚えのある人にあって、いろいろなことが思い出されてなりません。」と、彼は答えました。
二人は、おぼろ月夜の世界を話しながら歩いて、四つ辻のところへきました。すると、相手の男は、
「私の家は、これから三軒めの奥にはいったところです。どうか、お遊びにいらしてください。」といいました。
彼は、ちょうど、その前を通りますので、男のはいっていくうしろ姿を見送りますと、白い門が立っていました。男は、だんだんと、白い門から、内の方へはいっていきました。
彼は、家に帰って、眠りにつきました。
それから、数日もたった、後のことです。ある晩、彼は、男につれられていったカフェーを思い出しました。緑色のカーテンの垂れているカフェーに、もう一度いってみたくなりました。そこで、彼は、ひとりで出かけたのでした。たしかに、あのとき通った道を歩いていったのですけれど、どうしたことか、そのカフェーが見当たりませんでした。彼は、幾たび同じ町をうろついて、緑色のカーテンのかかっている喫茶店を探したかしれません。
「あの男の家は?」と、彼は、こんどは、白い門のあった家をたずねていきました。しかし、この家も見当たらなかったのです。四つ辻に立って、彼は、三軒めの家をかぞえてみましたけれど、どこにも白い門のある家がなかったのでした。
彼は、近所の人に、たずねてみました。
「ここらには、白い門のある家はありません。」と、人々は、答えました。
彼が、このことを家の人や、友だちなどに話をすると、だれも笑って、ほんとうに聞くものはなく、
「夢を見たのだろう。」というのでした。
底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日第1刷発行
2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷発行
初出:「赤い鳥」
1925(大正14)年5月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2016年6月10日作成
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