凍える女
小川未明




 おあいが村に入って来たという噂が立った。おあいを見たというものがある。また見ないというものがある。見たという人の話によると、鳥の巣のような頭髪かみのけつかねて、顔色は青白くて血の気のない唇は、寒さのためにうす紫色をしていた。背には乳飲児ちのみごおぶって、なるたけ此方こっちの顔を見ないように急いで、通り違ってしまった。きっと、森の中の家に来ているのだろうといった。

 村の北には森がある。森の中に一軒家があった。五六年前まではその森の中に二軒あったが、今は、一軒は壊れてしまって、ただ古い大きな家が一軒建っている。このうちも前に壊れた家も、森の中の秘密のある家としてこの村では知られていた。ちょうど森が黒い扉のようにこの二軒の家を包んでいた。夜になると、森を暗い夜が取り巻いて、その中に隠れた家ではいろいろの罪悪が行われたらしい。赤い色の着物をた女や、紺地の股引ももひき穿いた男や、白い手拭てぬぐいを被った者が一つのまたたきする蝋燭ろうそく火影ほかげを取り巻いて、その下で博打ばくちをした。また不義の快楽けらくふけったりしたのである。一軒の家はふとった主人で、その名をおくらといったが脹満ちょうまんで、しまいには動けなくなった。このおくらは動けなくなっても、二人の年若い女を使っていて、自分は厚い蒲団の上に坐ってさまざまの来る男共を相手として、相変らず博打をしたり、いろいろな性質の分らない仕事の取り持ちをして、いつもすべすべした生白い顔にはみをたたえて頭髪には油をこてこてと塗っていたのである。この女の、暮らし向きの秘密などを知っているものがなかった。或る夜、ふとこの女は何処どこへかこの家から立退たちのいてしまった。あくる日、いろいろな男共が、このの前に集って口を極めてこのおくらのことを悪者などといってののしった。けれど、それもいずれへか散って、その日の暮方くれがたからは、全くこの家は淋しくなって戸がしまっていた。中を覗いて見ると、何もなかったらしい。どういうものかその後誰も来てこの家の始末を付けるものがなかった。雨が漏ったり、風が壁板したみを破ったりして、彼是かれこれ一年余りもそのままになっていた。そのうちに或日、町から人が来て、この家を取り壊して何処へか車に乗せて運んで持っていってしまった。まだ後に腐れた畳や、紙のすすけた障子などがその儘はたけの中に置いてあったが、どういうものか其等それらのものは、その明る日になっても、ついに幾日たっても持って行かずに、其処そこで腐れてしまった。それから、もう、この家のあとに訪ねて来るものもなかった。

 まだ、家が立ち腐れになっている時分、この空家の中でも、いろんな者が集って来て博打をするなどという噂もあったが、この家が取り壊されてしまうと共に其様そんな噂も影さえなくなってしまった。



 それからというもの、森の中の秘密は、全く後に残った一軒の家に集められたのである。おくらはその後何処へ行ってしまったか、またおくらに使われていた年の若いなまめかしい、怪しげな女共はやはりいっしょになっているものか……誰も、その行衛ゆくえや消息を聞いたものがなかった。後にのこった一軒の、柿村屋という男は、にがみ走った、く黙った四十五六の男であったが、腹は一層いっそう黒くて落付いた、見ただけでは分らない人物である。村の人々はこういった。何といっても、まだおくらは女だ、柿村屋は、食える男でない、おくらをうまい具合に立行かぬようにし、あの森の中から追い払ったのも柿村屋の仕事だろうなどといった。柿村屋は、誰にっても丁寧な物言いをして、さも親切らしいことをいった。おくらに対しても、やはり、あの苦み走った顔付かおつきをして、極めて黙った落付いた態度をかえなかったものと思われる。何をおくらがしても、柿村屋は干渉がましいことを言ったこともなく、いつも、冷然として、気にとめずにそばから見ぬ風をして、見ては冷笑あざわらっていたらしい。しかし腹の中では、どういうことをたくらんでいたか知れない。おくらをこの森の中から、追い出したのも柿村屋の仕事だと村の人のいったのも、あながち根のない話でないようにも思われる。


 こうして、今では柿村屋には、町からも、また近村からも、この村の者でも、人に知れぬように集って博打をした。柿村屋は決して是等これらの人に対しても、親分らしい顔をしたことがなかった。いつも苦み走った顔でじろりと集った人の顔を見廻わして考え深いような眼付に、折々おりおり、底意味の知れない笑いをたたえた。

 おあいは、やはりこの柿村屋へ来るようになってからうちなくして落ぶれてしまった一人である。

 おあいの亭主というのは、人の好い、女房のいうなりになっている男であったが、時々気に向かぬことがあると癇癪かんしゃくを立て、怒鳴どなったり、器物を投げ付けて壊したりしたが、すぐに、おとなしくなって言うなりになるような意気地のない男であった。従って、自分は働きというものがなかった。村では、この男を仏のようだといったものもあった。

 おあいには子供が三人ある。亭主がこういうような風で、常に貧乏をしていた。亭主は村役場の小使に雇われたり、近隣の醤油問屋の帳付ちょうづけなどに雇われたりしたが三月みつきと同じところに勤めたことがない。これは、一つはこういう男の癖としてしょうであったからである。ぐおあいの隣りには、おあいの叔母にあたる人がすんでいた。この人は、全くの独り者で、骨肉こつにくというものはただおあい一人しかなかった。おあいは、極めてはきはきとした勝気の女であった。また、自分の出来ることなら人に対しても、随分物をやることなどにおしみはしなかった。けれどしみじみと物事を考うるというような女ではなかった。思ったことは、後からどうなってもはきはきとしてしまう。してたとえくゆるようなことがあっても決してそれを口に出して人に向って愚痴をいうようなことのない勝気な女であった。隣の叔母とも、いろいろ言い争ったこともあったが、つまり、おあいの勝気な性質から起ったことが多かった。叔母という人は、極めて、物の分った穏かな人で、死ぬ時まで人の世話になるのを好まずに自分で出来ることは自分でして人に迷惑をかけなかった人である。それで、おあいの子供等には、よく、着物を買ってやったり、また家のためにつくしたこともあったが、自分が、おあいの家へたえず出入りして、子供等の世話をするとか、おあいの家が困るからといって自分で来て、それの相談相手となるとかいうようなことはしなかった。おあいが、どうも困るから少し金を借して下さいと言って行けば、或時は黙って渡した。或時は「そんなに沢山はやられないからこれだけ持って行ってくれい。」といって少しばかりしか借してくれなかったこともあった。こういう風で、叔母は死ぬ時まで、あまり人の世話にならなかった。それで、心は親切な人で、あわれに思う時は、自分の出来るだけの親切は、蔭になってしたものである。しかし何事でも表に立ってするというようなことは好まなかった。

 叔母は七十で死んだ。死ぬ前々日まで、自分の身のまわりのことは自分の手一つでした。死ぬ前の日になってから、おあいに向って、「私も、もう長くはないと思う。この家と、少しばかりの金をお前に遺して行く。」とただこういって目をつぶってしまった。流石さすがに、勝気なおあいも、この日は心から泣いて、死んでしまった叔母を今更ながらなつかしく、悲しく思って泣いた。



 金は、幾何いくらも残っていなかった。おあいは、葬式をすまして、仏事を奇麗に営んだ。せめて、これが亡き叔母に対して尽すべきつとめであるように思った。

 叔母の死後一年と経たぬうちに、わずかばかりの金も借金を払ったり、やるべき処にやったりするとだんだん少なくなってしまった。而して、ついに叔母の家も売らなければならなくなった。この夜おあいは考えた。こうして家まで売ってしまっては、またまたたく間に昔のように苦しい、みじめな生活に立帰たちかえってしまうのが目に見えている。いまのうちに、どうかして方法を立てなければならないと考えた。……このことを何を言っても張合はりあいのない亭主に向って相談しても、何の役に立たないと思った。おあいは三人の子供のことを考えたり、行末のことを考えて、その夜は眠られなかった。

 始めて森の中の秘密の家に来たのは、この明る日のことであった。

 いつしか村では、おあいが森の家に出入するのを知らぬものがないまでになった。おあいが身形みなりにもかまわず、小さな子供を負って、雪を分けて、森の家を指して行くのを、晩方ばんがた、戸口に立っていて見た人があった。しまいには、自分も人前をはばからずに公然と森の家から出て来たのを見た人があったという。それは、おあいが勝負に敗けて、すっかり金を取られて帰った時であった。其様なことで、村の人々が予想したように、一年とたたぬうちに、おあいはこの村にいることが出来なくなるまでに困窮に落入おちいってしまった。而して、この村を引き払って、山を越えて、西の海に近い谷の村に引き移って行った。

 それから、いつしか二三年は経ってしまった。落葉の雨に混ってのきを打つ頃となり、いつとなく村は黄色く霜枯れて、冬が来て、また雪の降り出す頃となった。

 けれど誰も、別におあいのことを話にのぼすものもなかった。おあいの住んでいた家は、他人が入っていて、其処に圃の栗の木も、黄色く葉が霜枯れて風が吹いて、それを落してしまい、今は僅かばかり梢に枯葉が残っているばかり。


 今夜にでも雪が降って来そうだというように、非常に寒気がました。その日のこと、村では、おあいが入って来たという噂が立ったのである。

 これを見たという人の話によると、髪は鳥の巣のようにつかねられて、顔色には血の気がなくて、足には草履ぞうりを穿いて、背には乳飲児を負っている。而して、顔を見せぬように急いで通り過ぎた……という。ちょうど、おあいがこの村にいて、森の家に通うた時の有様と同じである。けれど、その人はいうのに、身形もその時より一層あわれに貧しげに見られた。而して、背に負っている乳飲児は、この頃生れたものと見えるといった。村の人は、

「何処へ来たのだろう……。」といった。……多分森の家に来たのだろう……なんで来たのだろう……きっとああいう勝気な女だから少しばかり金を造って、前の仕返しをしに来たのだろうなどといって噂し合っていた。

 ここに、おあいがまだこの村にいる時分に世話をしてやった老夫婦が住んでいる。その家は貧しい上に、馬鹿な、令一という息子があった。而してこの老夫婦のものは細い哀れげな暮らしをたてていた。おあいは、よくこの老夫婦のものに自分のまだよかった頃には着物の破れたのや、また洋傘こうもりの壊れたのや、また暮になれば餅や、豆などいろいろのものを恵んでやったことがあった。

 空には、黄色な雲切れがして青い空が覗いている。馬鹿の令一は、青竹を切って、それに小刀で小さな穴を明けて、吹いて、ツウ、ツウ、ツウという音を出していた。板の間には、竹屑たけくずが白く散って、鈍然どんよりとした小刀の光りが灰色の光線のうちに眠っていた。

 前の柿の木の、落ち残った葉が紅くなっている。彼方かなたの杉の木には小鳥が来て、令一の吹き鳴らす、管笛くだぶえと合わして鳴いていた。其処へ、老婆が入って来た。

 奥で炬燵こたつに当っている爺さんに向って、

「おあいさんが来ていなさるというが……家へも来なさるだろう……。」といった。

 二人は、ひそひそとしておあいの身の上話を始めた。し来て、泊めてくれいといわれたりすると、この寒空に、厭だということも出来ず困ってしまう。……などと語っていた。

 青い空がだんだん出て、黄色な雲が開いて、淋しい海をみるように冬の夕暮は晴れていた。けれど西風は身を切るように寒かった。沖の方は真暗で、今夜にでも雪が降って来るかも知れないと、村の人々に思わせたのである。



 明る日、おあいが森の家から出たのを見たという人があった。その人の話によると、泣き叫ぶ乳飲児を負って、慌てたようにして、其処から出ると、人家のある方へは来ずに、裏道から淋しい田圃たんぼの方へと行ったと語った。

 おあいは、頭から、黒い合羽かっぱを被ってみすぼらしい風をして逃げるように、並木の、痩せた、寒空にひょろひょろとして立っている細道を歩いて来た。もはや、枯れた草の葉に草履が触れて、熟したまま、死骸となってしがみ付いている草の実が、ぱらぱらと路傍に散った。道の上の、水溜みずたまりには、水の色が静かに澄んで、悠久ゆうきゅうに淋しい流れている空の姿を映している。れ一人として、この水を覗くものもなければ、雲は、その水溜りに映って音なく影は去来ゆききするにまかせている。背に負った乳飲児は、火のつくように泣き立てた。おあいは、何か後方うしろから、物にでも追われるように急いで来たが、全く独りとなった時、野中の細道の上に立って四辺あたりを見渡した。もう自分の住んでいた村が彼方に黒くなって霞んでいる。而して近隣の村々が、彼方にも、此方こなたにも黒くなってこんもりとした森の中にしずかに溜息を洩らしているように見られた。樺色かばいろに、褐色かついろに、黄色に、すがれて行くさまざまの林の色は、次第に黒ずんで来た。見渡す限り、人影もなくて、ただ刈りつくされた田や圃は、漠然として目に見えるもの、すべての自然はふさいだ顔付かおつきをしている。

 おあいは、路傍の、石の上に腰をかけて、背から、乳飲児をおろして乳を含めた。は、乳房にしがみついて乳を吸いはじめた。けれど、あわれな、おあいの頬の肉は落ちて、乳はしなびていて思うように出なかったので児は、やはりむせびつづけて時々、声を張り上げて泣き出したのである。おあいは、この痛ましい、寒い自然に対して、途方に暮れているという風であった。

 今にでも降り出して来そうな空を仰いで、頭をあげて見廻していたが、折々、身を切るような風が広野を吹き渡って、彼方にも、此方にも、ぱらぱらと黄色な、枯れた木の葉のひとしきり散るのが見られたのである。而して、児の声は、風のためにかすれて眼から頬に流るる涙が凍るかと思われた。児の手は、赤くなって人参のように腫れ上っていた。母親の胸には、青い筋が現われて、一枚の鉄板のように冷たかった。この下に熱い血液が流れて、滋養分のある乳の出るということが不思議に考えられた。

 おあいは、まだ乳の飲み足りないで泣きつづけている児を再び抱き直して、背の中に入れた。而して、赤い花模様のついている帯を締めて身仕度をした。児の頭ばかり出して、黒い合羽を被ると、再び急いで野中の細道を走って、街道の方へと行った。遠くには、町の家根やねが見えた。その彼方には、高い国境くにざかいの山々がつらなって見えた。淋しい細い道は無限に何処いずこへともなく走っている。

 午後の、雲の往来する、風の吹く、暗い空は益々ますます曇って来た。



 栗の木の下に立って、令一は手に長い竿を持って、管笛を吹きながら、小鳥を呼んでいた。その笛の音は、風に消されて、折々聞えたり聞えなくなったりした。そのたびに雨のように、ぱらぱらと大きな木の枝から、枯葉が吹きくられて、下に、散っている葉は、からからと音を立ててあたりをけ巡った。

「えらく、れてくるだ。」……と空を見ながら、家の前を通る人がいって過ぎた。

 沖の方は、墨をったように暗くなった。婆さんは、外に出ている下駄や、桶などを取り入れて、まきを割っていた爺さんに向って、おあいさんは、もう、来なさらないと見える。森の家から、何処へも寄らずに帰ってしまったらしい……と話していた。其処へ、ぼんやりとして令一が竿を引き摺りながら帰って来て、おあいの、もう田圃道はたけみちから帰ってしまったことを告げた。

 老婆は、喜ばしそうな顔をして、この寒い時分に泊られるようなことがあると困ったのが、それは都合がよかったというようなことをいって、気の休まる風が見えた。爺さんは、あの勝気の人のことだから、よもやみすぼらしい風をして来はしまいと思ったが、それとも博打に勝って帰ったろうかなどといっていた。三人のものは家に入ってしまった。


 戸外では、ひゅうひゅうと鞭を振るように鋭い風の、梢に当る音が聞えた。それに混って、ぱらぱらと障子窓に当るものの音がした。令一は、って窓を開くと、

あられだ、霰が降って来た。」と大きな声でいって、喜んで小躍こおどりした。而して、直様すぐさま戸外に駆け出して、霰だ。霰だ。といって走っていた。霰は、令一の衣物きものの上に当って、ころころとたもとふるうたびに散ってしまった。けれど頭髪の中に落ちたものや、襟元に溜ったものは、その儘白くなって、体の温味あたたかみで解けかかった。圃に取り残された菜の葉の上にも、白くなってたまった。また地面にも、下駄の跡がつく位に白くなってたまった。

「夜は、雪だぞ。」といって爺さんは、炬燵の中にもぐり込んだ。婆さんは、起って勝手元へ出て、夕飯の仕度にとりかかった。青いけむりは、するすると窓から流れて出て、寒い風に消されている。

 三人のものは、暗くなりかかった窓の処に立った。障子戸を半分開いて、其処から、雪の降っている外を眺めていた。

「もう、一寸位になったろう……。」

「今頃、おあいさんは、山越して行けるだろうか……。」

「まだそんなに遠く行けまい。」

 いつしか風は止んで天地は静かになった。而して、寒気は次第に加わって、雪は大きく綿をちぎったように、ぽたり、ぽたりと沈黙の空気のうちに、音をたてて降って来た。

「夜になるだろうのう……あの山越える時分には……。」

と、令一は、雪に、暮れかかっている空を見詰めながらいった。汽車の笛の音が遠くで、雪のために微かにしゃがれて聞えた。

 指の頭が赤くなって、寒気は加わった。ランプの火は、凍えたように硝子ガラスのホヤの中に紅くともって、いつもよりか冴えて清らかになって見えた。炬燵に当っていても背のあたりがぞくぞくと刺すように寒さが迫って来た。

「まだ、うす明るいのう……。」

「雪が降ったからだ。……雪明りだ。もういつもなら真暗まっくらなのだ。……」

と婆さんが窓の方を見ながらいった。

「雪明りというものは、気味の悪いものだのう……。」

と十六にもなって鼻を垂らしている令一は、言って、まだ、管笛を手から放さずに握っていた。しかし、もうそれを口にあてて、窓際まどぎわで彼方の森の方に向って吹いて見る気にもなれなかった。

 寂寥せきりょうと、夜とが、地の上に襲って来た。而して、雪は積って、寒さは益々加わった。



 風の叫びは、野の末に遠く聞えた。夜は、いつしか吹雪の中に更けてしまった。

 豆ランプのしんを細くして、枕についた老婆は、足の冷えるので容易に眠りに陥らなかった。まごまごしているうちに、夜中近くとなったらしかった。ごとごとと、戸に打ち当る吹雪ふぶきの音に、まぎらされて、最初の一声は聞えなかったが、二たび、

「今晩は……。」という、小さな声にハッと老婆は胸にとどろいた。

 つづいて、はげしいザーという吹雪が、烟出けむだし窓の障子に当って小さな声は消されてしまった。その後は、しばらく死のような沈黙が来た。老婆は、空耳であってくれればいいというねがいおこった。けれど、まだどきどきと心臓は波をうっているので、ていても落付くことが出来なかった。たび、

「今晩は……。」といって、トン、トン、トン、と戸を叩く音がした。而して、戸の外の人は、身に吹き積った雪をハタハタと振っている音がした。老婆は、この声がたしかに女の声であることを知った。おあいさんが来たのだと思った。而して、この儘黙っていようか、それとも出て戸を開けなければならないかと床の中で躊躇していた。老婆の胸には、この刹那せつなに、おあいから、これで受けた親切が思い出され、もらった品物の種類や、その数すら心の中で読まれて目先にちらついた。而して、義理としても戸を開けなければならないような気がした。

「今晩は……。」

と、いう声がして、つづいて、トン……トン……トン……と戸を叩く音が聞えた。寒さにふるえている、力のない姿が、この衰えた声で目に見るように分った。

「婆さん! 起きて開けてやんなさい。」と、いつの間にか眼をあけて、やはり、この声を聞いていたらしい爺さんは、老婆にこういって、自分は、外にまで聞えるようなせきばらいをした。老婆は、起きて、ランプを手に持って勝手許かってもとに行った。

 家の内を占領している空気も、肌には氷のようにひややかになって触れたのである。老婆は、しんとした勝手許に出て、ランプを棚の上に載せて、下駄を穿いて戸の傍に立ち寄った。外では、暴風に、圃の木立が口笛を吹くように鳴っている。

 而して、壁板に来て、衝き当る吹雪の音が怖しく、すさまじかった。

「どなたですか……。」と老婆はしんばり棒に手を掛けていった。

「早く、あけて下さい。わたしです……。」と、女はいった。

 老婆は、おあいさんかと口に言おうとしたが、心に他の暗愁あんしゅうきざして言葉を出さずにしまった。凍り付いた戸をガタピシさせて五寸ばかり開くと、寒い風に、粉のような雪が混って顔に真面まともに吹き付けた。老婆の体は、いつしかぬくみが消えて、外界と同じく冷え切っていた。

 黒い合羽には、雪が白くぶちとなって凍りついているのを頭から被って、足には足袋も穿かずに片方だけしか草履ぞうりも穿かない女が幽霊のように身をすぼめてもぐり込んだ。而して、物を言わずに其処に立竦たちすくんでしまった。もう、気力が衰えて、がっかりとしてしまったのである。老婆は、怖れと、寒さに自分もふるえていた。

「どうなさった。まあ、この雪に、今頃になってから……。」といって、この儘にしていては、この女が凍え死ぬと思ったから、まごまごしながら、囲炉裏いろりに火をき付けにかかった。風が、どっと吹き込んで棚の上のランプを吹き消そうとした。老婆は慌てて、戸口に駆けて戸を閉めて、また、勝手の板の間を上げて、中からまきを取り出して火を付けにかかった。幾たびか火は、付きかけては消えて、容易に付きそうでなかった。

 じじいも、起きて来て、三分心のランプに火を点けて、其処の勝手許に吊したのである。ランプはまだぐらぐらと揺れている。外には、吹雪の音が絶えなかった。

「ひどい寒さだ。」と、爺はいって、「さあ奥さん此方こっちに来て、合羽をとって上って下さい。」といった。

 けれど女は、其処に黙ってすくんだまま動かなかった。

「帰ろうと思ったらこの雪で、日は暮れてしまうし、とても山越えは出来ぬから、引きかえしたがもう道が分らなかったので……。」といって、女はランプに照らされた顔の色は、血の気が失せて青白かった。而して、手足はガタガタと震えている……。

 爺は、心から、この女の人の末路を気の毒に感じた。而して、自分も土間に下りて、女を介抱した。老婆は、やっと火を燃やし付けた。いつしか、この夜中の客をいとわしく思った心も消え失せて、全く憐みの心に変ってしまった。而して、さかんに火をもやし立てた。焔はすすけた壁や、障子を紅く染めて家の内が急に明るくなった。障子を隔てて次の間には、何も知らずに令一が眠っている。外の、吹雪の音は、やはり小止こやみもなく、狂っているのが聞えたのである。

「爺さん、その合羽をとってあげなさい。」と老婆が此方を向いて言った。白髪しらがには焔が映って、片頬は明るかった。

「どんなに寒かったか知れない。」と爺は言いながら、堅く結んで凍っている合羽の紐をようやく解いた。女の巣のような頭髪あたまからは、雪が解けて、しずくしたたっている。爺は、この黒い、白い雪の斑点はんてんの付いた昆布のように凍えた合羽を後方うしろに取りけると、女の背には、乳飲児がおわされていた。これを見た老婆は、

「まあ、可哀そうに……。」といって、驚きと憐れみのために眼をうるませた。

「子供をおぶっていなさるんだ。」といって、爺も、近寄って顔を覗いた。

眠入ねいっていなさるのか……。」といって、この寒さに、声も立てず母親の背にしがみ付いている乳飲児を見ていじらしく思った。が、たちまち怪しまれた。ちょうど女の後方となって、ランプの光りはよくこの蔭までは、明るく見せなかった。

「寒かったろう……はやくおろしてやんなさい……。」

といって、爺は、ちょっと子供の頬に指を触れて見た。而して、驚いて、声を立てんばかりに後退あとじさりをして、眼を見張った。

「奥さん……。」といって、その後も言わず、老婆に向って、

「早く燈火あかりを持って来い。」……

 二人は、ランプを、眠っている乳飲児の顔の上に差し出した。顔の色は、青白くなって、雪がかかっていて解けなかった。二人は、黙ってたがいに顔を見合った。いつの間にか子供は、寒気のために、凍え死んでいたのである。

 この時、女は、頭髪かみのけを乱して、幽霊のように土間に立ったまま物も言わずぶるぶると慄えている。頬は削り落したようにやつれて、青晒あおざめて、眼ばかり、怪しく、狂わしく、気味悪く、じっと坐ってランプの火影を見詰みつめていた。

底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年810日第1刷発行

   2010(平成22)年525日第2刷発行

初出:「三田文學」

   1912(明治45)年1月号

※誤植を疑った箇所を、「北国の鴉より」岡村盛花堂、1912(大正元)年125日発行の表記にそって、あらためました。

入力:門田裕志

校正:坂本真一

2017年22日作成

2017年39日修正

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