嵐の夜
小川未明



 父さんは海へ、母さんは山へ、秋日和あきびよりの麗わしい日に働きに出掛けて、後には今年八歳になる女の子が留守居をしていました。

 もとより貧しい家で、山のふもとの小高い所に建っている一軒家で、三毛猫のまりと遊んで父さんや、母さんの帰るのを楽しみに遊んでいました。見渡す限りはたはたけは黄金色に色づいて、家の裏表にうわっている柿や、栗の樹の葉は黄色になって、ひらひらと秋風に揺れています。うす雲の間から、れる弱い日影は、藁葺屋根わらぶきやねの上に照って、静かな、長閑のどかな天気でありました。やがて大暴風雨おおあらしのする模様などは見えませんでした。栗林には人の声が聞えて、山雀やまがらを捕りに来たのでありましょう、鳥籠に山雀が二羽も三羽も入ってばたばたするのを下げながらもち竿を片手に持って、二三人の男の子が口笛を鳴らしながら、がさがさと落葉を踏んであちらへ行きました。またあちらの松林には茸狩たけがり男女ひとが、白地の手拭てぬぐいを被って、話し合いながらその姿が見えたり、隠れたりしています。また遥か田圃たんぼの方では、鎌の打ち振るたびにちらちらと光って、早稲わせを刈っている百姓の影も見えます。少女おとめは紫色に鉄漿かねを染めた栗の実や赤く色づいた柿の実をむしろの上に乱して、まりと一しょに何心地なく遊んでいます。

 少女の名はかねと云いました。母さんや、父さんの帰るを待っているのであります。午後ひるすぎの天気は、そよそよと萩や、柿の葉を鳴らす風の少しあるばかりで、日本晴れのした好い日和でありました。

 少女はもはや遊びに飽きてまりを抱いて、裏庭から細道を辿りながら、二三町も行きますとやぶになっていて、土手の両方にはしきみの赤い実が鈴生すずなりになっている、かやの繁って、白い尾花のそよいでいるだらだら坂になりますが、そのだらだら坂を下りますと、すぐ前に青々として目の醒めそうな日本海の波は、ど、どん、どどんと足許あしもとまで、打ち寄せる浜辺に出るのであります。少女は三毛を抱いて、海辺へ来ました。でうろついてやがて猟師の沢山に住んでいる村に着きますと自分の顔を知ってる、真黒く日に焼けた男がこっちを見て笑っています。少女はほとんど毎日のようにこのあたりまで遊びに来るのであります。低い、小さな破れた家が幾軒となく並んでいて前にはすなの上に鰯や、鯖や、その他いろいろの小魚を乾しているのです。まりは魚臭い匂いを嗅ぎつけて、しきりに鼻をひくひくやって、にゃあにゃあと鳴きだしました。けれど少女は「まりおんりしてはいけないよ。」といって、しっかと抱き締めて、さっさと広々とした沙原すなはらの方へ切れた草履ぞうりをひきずって、歩んで行きかけますと、遠くの沖の方を往来ゆききします白帆の影が見えます。

 足許まで、打ち寄せる雄波おなみ雌波めなみは、「かねちゃん、かねちゃん、やー。」といって転がるように笑いさざめく。真青な空! 真青な海! 白いかもめがふわふわと飛んでいる。ああ、はればれとしたお天気で気持のいいこと。かねちゃんは、涼しいを見張って、父さんの、今朝出て行きました、沖の方を眺めていました。

「ああ、父さんが恋しいことよ。」と、ほろりとして涙が頬を伝ったのであります。ひたひたと破れた衣の裾を吹く、沖の風は身に浸みて寒い。小猫は懐裡ふところに抱かれたままで、ごろごろうなっています。

 かねちゃんが、家へ帰っても、まだ母さんは帰って来ませんでした。柿の木の下に、敷いた筵の上は、栗の林にさえぎられて、今は日の光りもかげって、木の葉や、草の葉の上に風がさわさわと鳴り、にわかに、いつの間にやら大空に白雲がちらばったのであります。その内に天地は暗くなって、風が烈しくなって、栗の樹や、柿の木や、松林に鳴る音高く、萩の枝などは、もまれにもまれて、見渡すかぎり田畑は一面に白っぽく、稲や、芋の葉のひらひらとなびくのであります。

 かねちゃんは、小窓の内から外の方を見て、母さんが帰って来ないかと見ていますと、木の葉が空に吹かれて、舞い上ってはちらちらと降るように落ちるのであります。

 そのうちに雨も加わって、木の枝の折れる音やら、海の波の音がごうごうとえるように、今にも自分の家が吹き飛ばされそうになりました。かねちゃんは、

「父さん、父さん早く帰って来て頂戴よ──くしんくしん。」……と泣き出しました。すると雨風に打たれて、圃の細道を走って、濡鼠ぬれねずみのようになって入って来たのは母親であります。

「かねちゃんかねちゃん今帰って来てよ。」

 と、表戸を開けますとさっと風が中に吹き込んで、木の葉が座敷の中まで飛び込みました。

「まあ、ひどい風だことねえ。」といって、泣いているかねちゃんを自分の傍に引き寄せて、あたしの身体は濡れていてよ、と温かいくちをかねちゃんの薔薇色の頬辺ほっぺたにあてて、

「お父さんはどうしたでしょう……妾浜まで行って見て来るから従順おとなしうしておいでよ、よ、じきにね、晩方ばんがたまでには帰って来るから。……さあさあ、泣かんで、お留守居していておくれよ。ああ、心配でならないこと。沖はどないに荒れているか……浜へ行ったら消息たよりがあるかもしれない。……父さんを、かねちゃん……かねちゃん、見に行って来てよ。」

 泣くかねちゃんを家に残して、母さんは、またも雨風の中に駆け出しました。

 破れた小窓の障子をブーム、ブームと風が鳴らして、夜はばったりと暮れてしまいましたけれど、母さんも、父さんも帰って来ません……かねちゃんは、暗がりのまんまで、懐裡にはなにも知らずに眠っているまりを抱いたまましくしくと泣きあかしています。ただ物凄い風の音と、木の葉がぱらぱらと窓や、壁板したみに当って散り敷く音を聞くばかりで、誰とて自分の家を訪ねて呉れるものがありません。かねちゃんは、泣きあぐんで、少し気がつかれて、火もない囲炉裏いろりの傍で、まりの温かいむくむくとした毛の中に可愛らしい頬を埋めて、居眠りをしたのであります。

 その時、誰やら、ことことと戸を叩くものがありました。かねちゃんは知らずにています。またことことと叩くものがあります。かねちゃんはやっと眼を醒ましますと、一人の白いひげのあるおじいさんが、目の前に提燈ちょうちんけて入って来ました。そして黙って、手招ぎしますもんですから、かねちゃんは猫を抱いたままで、お爺さんの傍へ怖る怖る参りますとお爺さんは、柔和にこやかに笑顔を見せて、黙って、手招ぎして来い来いと言うのであります。かねちゃんはいつしか、お爺さんに連れられてちょうど夢心地で、歩いていますと、いつのまにやら海辺へ来たと見えて、波の音がどどんどどんと岸を打つのがやみのうちに聞かれました。

 かねちゃんは、お爺さんのあとについて余程よほど歩いたかと思う時分に、だんだんお爺さんの歩みが早くなったようで、かねちゃんは一生懸命に追い付こうと思って駆け出しましたけれどだんだん遠く遠くなって、提燈のあかりが小さくなるばかりであります。もはやこらえきれなくなって、泣き出そうとしました時、お爺さんの身のまわりから鬼火のようなものが、とろとろと燃え上りましたかと思うと、もはや消えて真暗まっくらやみになって、身体がだるくなって、とうとう眠てしまいました。

 あくる日の朝、目をぱっちりあけて見ますと、こわれた船の中に自分は眠ていて、まり枕頭まくらもとでごろごろごろついています。その傍に父さんも母さんも無事で、自分の方を見て、今お起きかと目元で笑っていなさる。真蒼まっさおな海には、白帆の影が見えて、薔薇色の朝日が見事に昇って、沖の方が輝いています。

底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房

   2008(平成20)年810日第1刷発行

   2010(平成22)年525日第2刷発行

底本の親本:「小川未明作品集 第1巻」大日本雄弁会講談社

   1954(昭和29)年

初出:「宗教界」

   1906(明治39)年11月号

入力:門田裕志

校正:坂本真一

2016年610日作成

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