風隠集
北原白秋
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震前震後
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目にたちて黄なる蕋までいくつ明る白菊の乱れ今朝まだ冷たき
黄の蕋のいとど目にたつ白菊は花みな小さし咲き乱れつつ
さえざえと今朝咲き盛る白菊の葉かげの土は紫に見ゆ
独遊ぶ今朝のこころのつくづくと目を留めてゐる白菊の花に
菊の香よ故しわかねどうらうらに咲きの盛りは我を泣かしむ
咲くほどは垣内の小菊影さして日のあたり弱きしづもりにあり
独居はなにかくつろぐ午たけて酒こほしかもこの菊盛り
この垣内見つつ狭けど白菊のにほふおもてのかぎりなく澄む
日あたりの籬の白菊小町菊盛り過ぎつつなほししづけさ
白菊や香には匂へどうつつなしよにしづかなる日ざしあたれり
菊の影いくつしづけき真柴垣日は移るらしあたるとなしに
かの薫るは日当りの菊日かげの菊いづれともわかぬ冷たき菊の香
日向べは観てしづかなり菊の香のうつらかがよふひと日遊ばむ
日当りと日影のすぢめ目につきてしきりにさびし穂にそよぐもの
榧の木にかやの実の生り、榧の実は熟れてこぼれぬ。こぼれたる拾ひて見れば、露じもに凍てし榧の実、尖り実の愛し銃弾、みどり児が頭にも似つ、わが抱ける子の。
かい擁へかやの実ひろふ朝寒し子が掌にもしかと一つ持たしつ
かいかがみ拾ふ木の実のか青さよしみじみと置く今朝の露霜
みどり児が力こめたる掌に一つ手にぎる小さきかやの実
霜じみの一つかやの実押し据ゑて何ぞこの子があつき掌
かやの実も愛しとは思へかい撫でて吾がみどり児が愛し頭毛
みどり児の尖る頭よよく似ればあはれよひろふ凍てしかやの実
今朝も見てここだ現しきかやの実やほらよほらよと子に拾ひつつ
かやの根にかやの木地蔵ましまして子らも立ちたり霧の木しづく
地にころげここだ下凍むかやの実はかきさがすまも愛しかりけり
何あそびうつつなき子ぞ椅子の上にゆらぐ頭のうしろのみ見ゆ
うつつなく頭揺りをるうしろ影わが子ぞと見つつ息もつきあへず
独よく遊ぶ吾子や久しくを声ひとつたてず真日あかるきに
気にふかく遊ぶ吾子や後附きてうかがひほほえみ息つむ我は
あれの児が独あそびの幼くてはずみあまれば手を挙げ叫べり
うらなごむ今日の日向や種子とると刈りて干したり了へし葉鶏頭
茎も葉もあかき葉鶏頭根刈りして地にたたきをり房の種子殻
掌の汗にしみみ粒だつ紅の種子葉鶏頭の種子は柔ら揉みつつ
ねもごろにけふも了へたり葉鶏頭の千金丹は布の袋に
いつしかと寒うなるらし見つつ行く薄日の崖の竹煮草のかげ
竹煮草の枯がれの葉のがさつき葉をりふしの風も陽もかげらしむ
枯れにけり今は芙蓉の実の殻の中干割れつつ光る絹の毛
日あたりのうらめづらしき竜胆の蕾がふたつ開きつつゐる
日あたりの冬の薊に吹かれ来て揺れてゐる蝶の影のうつつなさ
円かなる月の後夜としなりにけり孟宗の秀の大揺れの風
照りあかき月の夜にしてさわさわし孟宗の揺れのあの寒さはや
物すごき藪の月夜の時あかりかげるかと見れば騒ぐ葉の影
目のさめて悔しと思ふ祈りごころ許されざらむ月に対へり
この寺の老木の栗のいが栗はまたすがれたり榧の木の前
榧の木はさしも青けど落葉木の栗はあらはに枯れにけるかも
百日紅が咲いたさうなよほうら見ろ隣の寺の藁屋根のつま
百日紅が寺に咲いたぞひさびさだ遊びがてらに出て見よかなも
百日紅が紅う咲いてる寺のむすめが手まりついてるその花かげで
百日紅が紅う咲いたとながめてゐた紅う咲いたと誰か云つてゐる
柔かなは仏の掌であるほんのりした百日紅の紅みが射して
百日紅が紅う咲いたと知らしてあげなお母様でもお見えなさろで
出入りに紅いな紅いなとながめてゐるとなりの寺の百日紅を
百日紅の花のさかりも過ぎまするどれよはなれの障子でも張ろ
このお父さ抱きあげ抱きあげほれ坊やよ紅い花がと何処迄行くぞ
ほれ坊やよ百日紅が咲いてましよ紅いな紅いなさしあげて見しよ
ほれ坊やよ海の向ふが見えましよが美しいでしよ差上げて見しよ
まだ秋だに早やもお寺の茶の花はふつこぼれてる茶つ株のねきに
幽かなる茶の花よりも濃き青の厚葉がかなし一枝摘めば
山川のみ冬の瀞に影ひたす椿は厚し花ごもりつつ
須雲川寒き日蔭の岩床にぬめる氷の面のかぐろさ
塔が島馬酔木しみ立ち岩床に暁かけて凝る垂氷これ
父母の枕にちかく目ざめゐて湖に寒のとほり来る聴く
父母の間に入り寝て思ふなり二方の寝息豈やすからず
父母と元旦に見てひと山の薄すさまじく穂に老けにけり
母のこと父のみ前に言わけて申し継げどももとな寒さや
箱根路は山松かげに萱の家の一戸二戸寒し木屑干しつつ
山岨の石畳道にあたる日のこのあかるさよ冬とし思ふに
昼ながらいまだ凍たる岨の隈つくづく踏めば草もみぢ濃き
霜の凍昼もきびしき草の葉にハトロン紙敷きてゆで卵食ふ
柴の火にたぎるちろりの酒の色とくとくとよみて口寄する吾は
日は寒し今は仰げば松ヶ枝の間かがやかし檮の秀に見ゆ
丘窪の棚田の畔の茨の実は玉し綴れど霜ふかきかも
このごろの日の短かさよ裏藪の下萌の草の霜も凍てつつ
たまたまは暇ありけりかやの木のこぬれのゆれも目にとまりつつ
ひえびえと明りて近き小竹の揺れ硝子戸越しに見つつ飯待つ
書読みて心安けきたまたまは我やさしかり餅など焼く
葉鶏頭は秀より照り透きつぎつぎに下葉紅く燃えぬ褪す時もまた
早く咲きし芙蓉が先きに萎えにけりいつまでか紅きこの葉鶏頭は
山椿山椒の魚が棲む淵にあかあかと映りたけぬらし春
島山の紅きつばきの花かげに足さすりをり母と休らひ
子らが編む花環の糸は鮮やけき椿の蕊の中つらぬけり
花樫に月の大きくかがやけば眼ひらく木菟かほうほうと啼けり
日あたりの山のなぞへの鉾杉は葉の叢深し群れこもりつつ
霜に焼けておほかた枯れし竝鉾の老木の杉に陽があたるなり
杉の秀に冬至過ぎたる陽のいろのほの温き山も遠くには見ゆ
渓岨の日かげの暗き青杉も上面焦げて冬去なむとす
寂ふかく雪に焼けつつ鉾杉の叢葉が層も春立たむとす
このごろは寂びて明るき杉山の日和つづきを飛ぶ鵯多し
冬の丘寂びし杉生の日あたりの見のこちごちに眺め足らへり
落葉たく煙しめらふ朝の間は杉垣の焦げもにほひ深く見ゆ
たまさかは夕焼の赤き海を透かす叢杉の秀ゆゑいよよ親しも
雪あかり冴えてましろき駒ヶ嶽まさ眼に北はかげの濃く見ゆ
墓の石一つ一つに雪つけて見の愛しもよ童がごと
櫨の木にとををに白く積む雪は枝にもつめど実の房ごとに
何にまして白くすべなし墓地裏の雑木の雪のいとど明るは
雪ふりぬ何といふことなく掻餅焼き裏かへしをり火を赤くつぎて
雪に立つ竹のあはひの気に立ちて紅くかがよふ春さりにけり
雪ののち今朝しづかなり大き窻の北の明りに書は読みつつ
箱根路は早やおもしろし山松やみ雪ふりつむ二三本見ゆ
畔は畔田は田の型につもりたりおもしろの雪やおもしろの雪や
雪しろき千本鉾杉下に見てわが行く岨よ冷えとほりつつ
明るさよ杉の叢葉につむ雪の揺るるかと見ればしづれてぞ見ゆ
暮の岨の雪踏み来る荷駄馬の蹄鉄に穿く大き草鞋
向つ山まだ明れどもこの日暮ひえびえと落つる細き白滝
しみしみと夕冷えまさるしら雪に岩うつり啼くは河原鶸かも
雪に来る河原鶸かと耳とめて碁石うちゐついまだ灯さず
したしくは妻子とこもれ雪あかりのこの谿底の日の暮の冷
おとなしく炬燵にはひり日暮なりふりつつやみし雪のあとの冷
雪ふかしここの谿間の湯の宿の湯気のこもりによくぬくもらむ
岩群の岩の畳みの雪あかり暮れつつしありて暗みつつあり
凍みひびく夜の渓がはの岩床の大岩床の間近くに寝る
二月十三日、佐藤惣之助、大木篤夫両君と、妻と四人裏の丘にのぼり、落葉を焚き酒を温めて朝餐す。後少時散策して帰る。
杉の根の縁白笹に燃ゆる陽のこの閑けさよたまらふ見れば
杉むらに杉の落葉を拾はなと拾ひつつゐてなにか素直さ
澄みたまる陽のしづけさよ熊笹のむら笹が奥も燃え明りつつ
澄みたまる陽のぬくとさにはひり来て妻とし拾ふ枯葉杉の葉
日あたりの杉の落葉の裏じめりやや手に冷き春さりにけり
落葉掻く我の歩みのおのづからよき日あたりへ向ひつつあり
山窪の陽ざしに遠き青杉も半ば焦げつつ花つけぬ皆
山はまだ花やや寒き榛の木の枯れ枯れの枝に蒿雀つどへり
春あさき榛の木原の空あかり今朝は蒿雀の飛ぶ影迅し
丘に来て酒あたたむる友情も稀なるが故に春の愛しさ
雪折の青の真竹はあはれなり三つ割に白く走り裂けたり
この寒きが竹の花かと手にふれてまたのぼるなり竹の上の岨を
春はまだ青からたちの刺の秀のするどに冷やき眼の触りなり
杉垣の小杉若木はその葉さへ紅う染み出つ漆葉のごと
春はまだ浅き菜畑、白き鶏日向あさるを、水ぐるままはるかたへの、窻障子さみしくあけて、女の童ひとり見やれり、外の青き菜を。
この春や水車が立つる水だまのまた大きなり芽柳のもと
停電の電車を降りてやや暇あり車掌は温き向ふ畔にゐる
日は小さけど早や松風の春あさき旧海道を行く道者あり
小山田の雪解の田居にゐる鶏のわづかに青む物あさるなり
まだ二月水車が傍の窻あけて誰か見てゐる青き菜のいろ
脊戸川に飯櫃ひたし春浅し白飯のつぶのしろく透く見ゆ
粗むしろ春は浅けどこぼれ陽の薔薇いろ温し子豚啼きゐる
見の飽かずさびしがりゐつ赤き実の南天のかげの水にゆるるを
前山の雪の斑らを仰ぎ見てやや言葉多し登山電車待つ
樫多き山の幾襞樫の秀に雪のはだれの白う凍てつつ
樫山の樫の秀ごとにつむ雪の鹿の子まだらの冴えの明るさ
この山は老樫おほし見てゆくに斑らの小雪凍てつかぬなき
鷹の巣かやどり木の団か一つ寒き欅の梢見はるかし登る
凍りし雪解けつつかあらし明星ヶ嶽鼠色ふかめつつ上る靄絶えず
枯山は縦に焼き切り幅びろき防火線黒し雪のこりつつ
谿々の雑木の芽立紅をふくみ雨こまやかなり春か来ぬらし
自凍てて硬ばりし雪か岩角の犬羊歯を打てばしやきりしやきり白き
堂ヶ島春近むらし雪解水とどろきたぎち昨日にも似ず
雪解靄嶺にはこもれ枯山のなだりは明し日のあたりつつ
谿底の萱家の氷柱つらつらに萱の色沁み冬去なむとす
林泉のしづけき水に目をとめて紅き鰭ふる魚も見にけり
岩蔭の井の辺にひたすさねかづら咲きにけるかと見つつ過ぎにき
春と云へどいまだ色なき谿隈は橋ところどころ吹きさらしの岩
陽のあたる向つなぞへの枯萱のほのあたたかき春としなりぬ
向う谿の青の女小竹の秀の揺も冷えびえと見ゆれ冬のそれならず
栂の木の夕日に対ふわが眺め早やさむざむし内へはひらむ
落ちつかぬ湯やどの春のほの寒さなになれば子を置きて来にけむ
硬雪に尿しつつも先いそぐ友が提灯に言葉かけて居る
時をり提灯の紅きさしつけて雪ふかき杉の葉裏見上げつ
二月十八日、晴、前田君と例の裏山に酒を温めて歓語す。後、水之尾より荻窪を散策して帰る。
榛の花くれなゐふかし遥か見る丹沢山に雪の消えつつ
雪しろき阿夫利の山の尖り秀にひたひたと触れて青き空はある
榛の木の花の盛りを声に出づる薬鑵の酒の煮えのしづけさ
ほたほたと掻きて垂らせる朱の漆榛の雄花は春早き花
陽のもとに酒あたたむるのどけさを今日も楽しと来りつどへる
春あさし酒を柴火にあたためて白木綿雲の行き消ゆる見む
ねもごろに酒はぬくめむ杉山の杉の落葉は火を燃すによき
日あたりに杉の落葉を燃しつけて酒わかす間の晴れの潮騒
おのづから滞らざらむ落葉火に薬鑵の酒も音を立つるを
春あさき樫の葉ならむ陽のさして風こもるらしきこまごまの照り
枯くさにしばし酔ひ臥てほかほかと身もぬくもらな心ゆくまで
狭間田の田尻にひびく瀬の鳴りのなにかしら近し春としなりけむ
雪解靄いまだはこもれ松山の高きを移る頬白のこゑ
峯の脊に辛うじてもつ夕ばえの後かがやきも暮れはてむとす
芝崖に草木瓜赤き日おもての水之尾道は行きつつ愛し
今思へばかの音なりし水車なりし櫟丘越えて見の春めくは
ああ早春、桐の木畑の桐の木の実の殻逸れて鶺鴒翔ける
竹藪にはひる径のよく見えて裾明り寒しせせらぎのあるか
はきはきと竹馬の跨ひろげゆく子が連多し藪外の風
蜜柑袋かつぎ来る子をよびとめし友さびしからむ五つ六つ買ひぬ
この日ごろ野山にまじり人にまじり遊びほれてゐるそれが愛しも
積藁に南天の実のかげ揺れて子ら騒ぎ出づる日の暮の晴
わが妻が厠借りにとゆく農家の縁さきに早し紅つばきの花
はちはちと蜜柑の硬き葉を燃してゐろり大きなり蜜柑山の家
大き籠を擁へ来ましぬ蜜柑なりいまだ馴染まねど友が母刀自
夕風に小さき子を負ひ蜜柑畑の岐れ道まで来らす爺かも
二月二十五日弟来る。行いて裏の丘に例のごとく酒を温む。細雨、後曇り。
たまさかは来よとねがひき来しゆゑにこの弟愛し酒なと温めな
芝丘のつばらの小松春浅し行きても愛でな酒わかしつつ
杉の秀にわづかにぬくき日のあたりなにがなうれし弟と見て
この日やや雨もよひ暗し土耳古赤の榛の木の花の房のみ揺れつつ
しゆんしゆんと煮立つ酒かも吾が弟と春早き丘に来り火をたく
やどり木の薬玉かがる春あさき欅の雨も見の親しかも
芝崖に妻が見つけし草木瓜の花赤きからに弟と掘る
この岨や焼芝つづき草木瓜のところどころ咲きて水之尾近し
日の在処くろく幽けき女松山の春雨親し田雲雀のこゑ
夕湿る女松山ゆき野山ゆき弟と語らふ父母の事
道の辺の落葉か薄くなりにけり菫咲くべき春や近づく
白梅のかかる盛りを父母と遊びまつらでうたたうとしも
白梅の咲きの盛りをうれしうれし弟も来ぬ弟嫁も来ぬ
これの世におなじ父母いただくと弟と愛し白梅のもと
われ歳たけ老いし父母守る事のさびしとは思へ白梅の花
この春も老いし父母かなしくて為すなき我や遠く遊ばず
梅咲きて空も明るか声立てて児は喜べり外に出づる度
抱かれて吾が児が触る梅の花蕚が紅しその枝のさきに
今を盛りの梅花の影を双手とりて歩かせば歩くこの児がかはゆさ
梅咲きて吾が児は愛し歩むとし歩み蹴上げぬ小さき赤き靴を
梅咲きて白くしづけき日おもては見つつよろしも草餅食み
この朝や山の迅風の風息にかがやきて白し梅の花みな
春はいま梅花の盛り七面鳥が風おこるたびに真正面向きて来る
春あさき夕日の光かやの秀にまだ射しあかるしばし暇あり
裏丘の楉がかげの花すみれ乏しくは咲けど咲ける皆濃き
下畦の赤き櫨子を根に掘るとかがみゐてさびし高圧線のうなり
焼芝に櫨子燃えたつ高畦の下道かへる新入生と母
朝ひらく黄のたんぽぽの露けさよ口寄する馬の叱られてゆきぬ
山ゆくと山の樒の黄の花のよにつつましき春も見にけり
山松の夕日のこぼれひろひ来て我幽かなり雲に会ひつつ
言にいでて春は山辺の夕がすみ愛づてふならね山にこもりぬ
夕かけて双子の山にゐる雲の白きを見れば春たけにける
濃き淡き遠山霞あかねさし夕べは親し日の洩れにけり
山の尾の襞の五百重の春がすみなごめる空は夕かけて見む
まだ白き野火のけむりの春じめりゆふべは靄にこもらひにけり
春はまた山辺の子らが防ぐ火の走り火あかく燃えて暮れつつ
なごやかに今日もありけりさみどりの蕨は結ひて灰汁にひたしぬ
春山は杉も青みていつしかと鶯の声が鶸に代りぬ
春といへば青き鱗の杉の花粉にふきいでてうち霧らふめり
ほたほたと掻きて垂らせる朱のうるし榛の雄花は春早き花
人言よほとほといとへ寂しくてえは堪へずけり春をこもるは
春いまも前の小藪の花なづな見つつすべなし見てをのみゐる
誰か知る人か来けらし蕗の薹の大きさ愛づる話声すも
春の靄こもらふみれば木いちごの一重のしろき花明るなり
直土の春のしめりに今朝見えてすれすれを飛ぶ柔き蝶なれ
山吹の咲きしだれたる窻際は子が顔出して空見るところ
褪せやすき蘇枋の花にふる雨のやや夏めきてまぶしもよ今朝
蕗の葉に薄翅の蜻蛉匍ひいでて日の照らしふかし夏は来らしも
浅々に夏はみどりの花つづる新桑細枝見るべくなりぬ
桑の芽にかがよふ雨の大きさよ肥桶積みて馬曳きて来も
雨あとや虎杖の芽のくれなゐは踏みてやわらかし斑萌の氈
陽に向ふ山路は暑し雨ばれのきらきらし黒き砂金の光
山村の水之尾村は落ちたまるつばきの紅に今日にぎはへり
水の辺の馬酔木の若木小さけれどほのかに群れて花つけぬらし
この春や水車が立つる水だまの早や大きなり芽柳のもと
桐畑はほほけし薹の数よりも蕗の葉おほし春も過ぎつつ
この里も春過ぎたらし篁のおもての照りに人が田を鋤く
よく湿る萱屋は低し新芽ふく一本の茱萸の銀鼠の雨
山ゆゑに深山つつじも咲きたらむ明うなりぬと眺めてくだる
日は午なれ明神ヶ嶽の裏空に山火事の煙ただならぬかも
わが窻の孟宗竹にふる雨はややまだ寒し書を読みつつ
藪かげの吾が宿ゆゑにふる雨の幽けさ満ちてこもらひにけり
白檀の幽けき花にふる雨の雨あし繁し細く見えつつ
わが宿の竹の林の春の暮仏焔ふかし蒟蒻のはな
わが宿の竹の林の春湿り昼やや闌けて軒に音あり
このしめる雨や春雨木の間ゆく馬のしりがひ紅褪せにけり
藪華曼は紫けまんとも云ふ、紫雲英に似て紅紫色の花穂をひらく。
朝なさな洗面室の窻あけて眼に露けきは藪華曼の花
裏藪の竹の根方の藪華曼花紅うつけて早うしぼみぬ
髭からむ藪蒟蒻の太茎は春し闌けたれ立ちのけうとさ
紫の藪蒟蒻の花かげはまだ土ふかき蟾蜍の隠り処
春の藪くぐもる蟾蜍のふたたびと声つづかねばひとりうとしも
わが宿の竹の林をのぞく子はつばきのあかき首環かけたり
朝なさな湿り親しき竹の根に筍生ひてうれしこの頃
春過ぎて夏来にけらし筍のみづみづし根の紫の疣
疣多き根太筍その根掘り紫ふかき畑にほふり出す
春はいま吾がかきさがす筍を隣の藪も気にはずむらし
土かむるいまだ幼き筍は落葉掻きわけ指に掘り出す
梅もややひらきそめたりたまさかは詣でて見ませ山の寺にも
わが宿は土間にも外にも若竹のさやにのびつつ白露むすぶ
伝肇寺春は老木の花つけてこちごちに明る山のしづけさ
山寺は緋桃しら桃枝あまた剪りて売りけり花の盛りを
寺ずみの二人の媼さみしからむ眺めては居れど花の向うの空
出で入りに紅し紅しと見し椿山門のわきに落ちてかさみぬ
坊が妻あかき椿をひろふ子のうしろ出でゐてあはれなるかも
この春も巡礼講を率て行くとあるじの僧はあわただしまた
日は永し巡礼講の寄合の媼が念仏山ざくら花
今はまだ梅の実小さし小糠雨のやや繁くして寺は寒かり
花めぐる父の御坊はいづらべぞ留守もる子らが見やる春雨
山寺の春も闌けたり秋田蕗の大きなる葉に雨は音して
大和路の花より帰り三日四日は落ちゐぬ僧か筍掘りをる
いつまでか栗のこずゑのあはれなるとなりの榧も花をつくるに
山寺は庭を畑とし馬鈴薯の根薯埋めたり秋待たむとす
白芥子の芽も葉も茎も食みつくす寺の小矮鶏の追へどまた来る
片開く窻に猫ゐて何の木か障子にうつる春の日の寺
この寺は葬式とぼし花蘇枋いつしか褪せて葉のこぞり出ぬ
§
たまさかは掃かれし墓か杉の花またすこし散りてそこら湿りぬ
閼伽水にこまかに溜る杉の花今朝見ればみな浮きし沈みぬ
§
墓地裏を肥桶載せてゆく駄馬の嚏大きなりまめんぶしの花
註・まめんぶしは灌木にして可なり高し。春、淡黄色の花房を垂れる。その形赤楊の花と似ている。
素木の卒塔婆のへりに来て跳ぬる螇蚸の子のさみどりの翅
朝咲きて夕べは凋む木芙蓉の花の紅ゆゑ水うたせけり
藪かげにあかき芙蓉のさく小舎をみみづくの家と知りて来にけり
朝光にあかき芙蓉をほめてゐてすがすがし妻と麺麭もぎり食ふ
静ごころ闌けつつにほふ木芙蓉の顕気もなき真昼なるかも
地震の間も光しづけき秋の日に芙蓉の花は震ひつづけつ
吾が宿の朝光ごとに咲く花の芙蓉の盛りおとろへにけり
篠の秀にすでに夕べの大き露のぼりゐにけり生けるもののごと
篠の秀は露を保てり揺りつつも涼しかるらむ涼しとを見つ
篠の秀の露のしら玉揺れつつや揺れつつし太る光放てり
篠の秀に光放てる露の玉ひとはじきしなば飛びも散りなむ
篠の秀に照る大き露子が指に触れしむとしてあやふく止めぬ
竹の根にほのかな花が咲いてるといふ真にほのかな藪茗荷の花
竹の根の夏の朝日に花つけてほの涼しきは茗荷ならむか
朝顔の露の干ぬ間と木の馬のくるまつけをり妻とかがみて
胡麻咲きてほのかに紅き日たむろは珠数かけ鳩の呼び鳴くところ
白き月指さす吾子は唐黍の実の房にすら脊丈及ばず
この秋はいよよあかるき葉鶏頭の三もと二もと見てを過ぎなむ
この秋よ、雲は白うて、事もなき世にしあるかな。山村はここの水之尾、樋のへりにみそ萩さきて、みそ萩に水だまはねて、水ぐるまやまずめぐれり、その水口に。
水ぐるままはる樋口のかがやくは夕日か水にさしあたるらし
伊張山老木の藤の花房に霧かとも思ふ雲の通へる
夏はまた伊張の山のやまもものこぼれ日しるくなりにけるかも
花明る桐の木原の前の田は早や水張れり紫の水
髪につく楊の絮に気はつかず先あゆむ妻よ乳母車押して
風にのる楊の絮はすかんぽの花の崖越えて光りつつあり
乳母ぐるま押しつつのぼる日のくもり一木は白きからたちの花
日盛りの山からたちも棘の秀に乏しき花を白う保ちぬ
松の花黄に立ちそろふ日おもてを幽かに霧らふ雲のかげあり
山ゆけば照りつつ涼し青羊歯の淡き胞子も夏ならむとす
何の草掘りてゐるらむ日だまりの風脇に小さく妻はかがめり
松山に子が母待つと乳母ぐるま停めてをりけり松蝉のこゑ
早や早やも松蝉鳴けりききてゐてこの松山も暑しと思ひぬ
熟れ麦は照り眩しかも乳母ぐるまの子が寝顔には幌をかけなむ
昼ふかき日の照りながらほのぼのと南天の花はいまだふふめり
伝肇寺桃の茂りのいぶせくてきのふもけふも雨は降りつつ
おぼおぼしく桃の茂り葉見て暮るる山寺の子らに雨の夜は来ぬ
坊が妻梅雨の雨間を出てはたく梅の実円し早や色づきぬ
乳母ぐるま傘さしかけて出でにけり梅雨のあがりを寺の外まで
この寺のはひりの径わびしけどまだしも明る釣鐘草の花
霖雨しげし大き蝙蝠傘低くさし女の子なるらし坂のぼり来し
朽ちかさむ椎の落葉の霖雨じめりいとどにしろきどくだみの花
梅雨の寺湿らひふかし栗の穂と挘ぎ後の梅の葉のにほひして
寺わきの乏し穂麦を刈るひとは日暮息き来る雨間うれしみ
寺わきを雨間せはしみ刈る麦は根に息き殺げりひとにぎりづつ
雨に刈る麦の手づかみひとつかみほさりと伏せていそぎ次ぎ刈る
山寺は麦刈りはてしこの夜さり唐藷の葉のみ雨に音しつ
朝かげに早や咲きそろふ木はちすの一重の白き花を楽しむ
焼場道ややに咲きつぐ木はちすのよき朝光となりて来らしも
花木槿いよいよ深しこの道や焼場へはひる道にかもあらむ
朝かげに咲きてすずしき木はちすの夕光も見ずときけばかなしき
§
風立ちて夕光あかし刈り棄てにそこばくねかす夏そばの花
夕光のさわさわ早稲の穂の間にはや咲きまじる白胡麻のはな
山畑の独活の繁りに風立ちて秋来と云はば驚きなむか(消息)
藪抜けて唐藷畑にそよぐ穂の猫じやらし吹く風も秋なり
昼の間はここの山家も日の照りて鶏頭あかし童のみゐる
外庭のかの夕光にさく蓼の紅きを見れば風出でぬらし
夕光はあはれなれども犬蓼の花穂はうれし揺れの重くて
籠ながら涼し花もつ秋草はその馬柵越しに黒馬が食みつつ
山はまだ毬栗あをし日のすゑにつくつくほうし鳴きしぐれつつ
外庭に日暮れてはこぶ木の鉢は何の粉か盛る白き粉のいろ
震災以来、広大なる隣の別荘への出入自在なれば、行きて遊ぶも心のままなり。素にして悠たるかな。この秋や。
秋さきてほろろこぼるる茶の花の日和みじかき世にしありけり
乏しくも今は足りつつ茶の花のにほふ隣を楽しみにけり
日あたりの広きお庭にまとゐしてわかつ昼餉は足らずともよし
この園の柑子の実りゆたけくていよよよろしき秋たけにけり
常なしと常に観つつも茶の花のにほふ日向ぞ寂びてよろしも
山水にかよふこころはおのづからこの茶の花にかかはりにけり
山ごもり月日も知らず茶の花のにほふ日ざしにあひにけるかも
この庭のこれの日向よ寄り寄りにねもごろならむ茶のはなはみて
破れ焜炉ほのにあほがせ茶の花のにほふ日向に茶を立つらくは
まゐり路の寺の日向の茶の花も咲きていくらかこぼれたるべし
茶の煙こもらふ芝のなぞへ原日のあたる辺が薄うもみでぬ
枯芝にそこらくまじる豆蓼のまだ紅き見て食むむすびなり
飯粒つく草のもみぢをあはれよと払ひつつゐて暑し日ざしは
箸もちて赤き蜻蛉の影慕ふ吾子なりけり豆菊のはな
日向辺はややほの紅き枯芝に茶の実こぼれて秋ふけむまた
目にとめて拾ふ茶の実のかそけさよ二つ三つ四つ手に鳴らしつつ
お茶の実を拾ふ吾子に着すべくは紅きスエタアもほころびにけり
山葵と独活
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なまよみの甲斐の須成のよきをぢさ山葵持て来ぬ春日よろしみ
太茎の八尺の独活のひとくくり無雑作にさげて笑ひ来爺さ
薄あかき秀はそろはざれ大き独活縄にくくりて二十本はあらむ
ほら見よと独活を持て来ぬ子を連れて見にも来よちふ畑の大独活
天そそる不二のうらべの山畑のまだ紅ふふむとりたての独活
山百合の大き根七つたびにけり植ゑてながめむ庭の七ところ
あしびきの山百合の根は冷たけど百合の息満つ層太の球
ひと球づつ百合の根埋めてこのところ百合の芽出むと帰れり爺さ
山べにはやたら生へたるつくつくし都はかしこつまむほど売る
春浅き山田の畔の草木瓜は刺は繁けど地面より咲く
渋柿の青柿漬けて味噌の香の染みつつ柿も味噌もうましも
椎茸や秋は持て来むみ山べは椎も老いたりさはに朽ちたり
干柿の粉をふく冬の日あたりのほのりほのりと老いて足りつつ
おほらかに不二の裾廻の湖五つ見てとめぐりて来らせ我脊
山越すと脊負梯子に樽つけて男子揺り脊負ふ須成少女ぞ
山越すと山の少女が脊の樽に乗りても見ませ乗りおほらかに
紫の通草の房の数花のかぞへて待たむ君が来らす日
口ひびく山葵磨りおろし不二川や水上の瀬々のたぎち忍ばむ
山葵田の砂田片附きたぎつ瀬や不二の雪解の水泡はも巻く
山葵植ゑ独活を分けつつこのあした我ゆたかなり足りて遊べり
太茎のくれなゐあさき秀の独活は吾がよき方へ褒めて分けなむ
紅あさき独活の酢びたしよろしなべ楽しむ酒はふふみふふみのめ
この春はとなりの御坊水たびず井の辺のつばきただに紅みぬ
となりびと日ごと言痛しくれなゐの椿も藪に落ちそめにけり
花多に老木の梅の明れるは盛りみじかくなりにたるらし
繁に出て帰れば吾子のいふ言のこのごろ痛しおぼえそめにき
赤い鳥の選稿了へず蕗の薹立ちほほけたり花はじけつつ
今朝見れば花壇荒れたり足跡の大き吾が子にまたおどろきぬ
湯にをりて我と子と聴く春雨は孟宗と梅にふれるなるらし
ロダンのユウゴーの首を見てゐる子かすけき地震に夜を驚きぬ
真夜中を紅き太陽見むと欲る吾が子はをさな窻べうかがふ
木曾川橋畔にある、雀の宿の主人(児童の愛護者)来りて、その丘の命名を乞ふ。乃ち
君が丘遊ぶ童の多ならば童ヶ丘と名づけたらなむ
童らと朝な夕なに遊びゐてけだし倦みなば遊ばぬぞよき
風たちてこまかに落つる竹の葉は日の照る方へみなちらふなり
竹の苞しきり散らへり日向辺の音のかそけき家のはひりかも
世を挙げて心傲ると歳久し天地の譴怒いただきにけり
地は震へ轟き亨る生けらくやたちまち空しうちひしがれぬ
この大地震避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
言挙げて世を警むる国つ聖いま顕れよ天譴下りぬ
大君は天の譴怒と躬自ら照らす御光を謙しみたまへり
国民のこのまがつびは日の本し下忘れたる心ゆ来れり
大正十二年九月ついたち国ことごと震亨れりと後世警め
篁に牝牛草食む音きけばさだかに地震ははてにけらしも
牝牛立つ孟宗やぶの日のひかりかすけき地震はまだつづくらし
冬ごもりうらさびぬらし。隣べは日のあたるよと、萩も枯れ萱も枯れぬと、よろしよと、見つつぬくもる、吾が和ぎごころ。
おのづからうらさびぬらし萩の戸のへだての垣も枯れて匂ひぬ
つれづれと眺めあかぬを、枯れしとて萩は刈られぬ。ほほけしと薄も刈りぬ。ほのぬくみ刈りつる人も、うちたばね、かつぎていにぬ。日あたりの、となりの庭の、そのよろしさを。
枯れはてて萩は薄は刈られける日のたむろべのよろしみ来るを
土見れば土の香立つを、はなはだし、春はをさなし。蕗の薹いづらにふふむ。つくつくし萌え立つやいつ。置く霜のややに浅くも、こぬか雨ややに繁くも、裏藪や、菫さく辺の、いまだなじまず。
隣べの春もをさなしたき火して梅のつぼみをしたしとを見れ
寺の井のぽむぷの把手今朝見れば春雨しげし動かしにけり
かにかくにうつろふ冬や、隙間洩る風を寒みと、破れはてし家にこもると、はららうつ雨のこまかに、置く霜の置くと解くれば、ふる地震のふると消につつ、おのづから霞立つ日ののどけくなりぬ。
いつしかとなごみ来ぬらし向山の地震の壊え土萌えかすみつつ
冬ごもり、こもりあかねど、寒き日は吾もちぢまりぬ。春まつと妻は急けども、のどならむ家も壊えたり。子が愛づる薄葉鉄の太鼓、その紅き片面剥げしに、土盛りて、せめて植ゑむと、福寿草霜に抜き来ぬ、二株三株。
児が愛づる薄葉鉄の太鼓剥がれたり植ゑて眺めむ福寿草のはな
おもしろの春や、この朝、花しろき梅のはやしに、をさな鵙来てををりける。草餅の蓬よろしと、黄粉つけ、食みつつきけば、いはけなの鵙や子の鵙。ふふみ音の、まだなづむ音の、うぐひすの鳴まねびをる。頬白のふりまねびをる。しづ枝ゆり、ゆり遊びをる。移り飛びをる。
梅おほきとなりやかたは明るくて花のさかりををさな鵙飛ぶ
春鳥の枝に揺る声の、ゆく水のかがよふ音の、朝風の松のひびき、夕風の小竹のさゆれの、おのづから我よあはれと、あはれにも恍れて、しらべて、あるべきものを。
一いきに歌ひ成してぞおもしろきこのごろくやし思ひ凝りつる
子よあそべ、父も遊ばむ、母呼ばむ、来り遊ばむ。日あたりにつくしも立ちぬ。つくしべに蓬も萌えぬ。枯萱の裏むらさきの、ほのぬくみ、かがやく根には、あなあはれ、白きなづなの花も群れたる。
うらなごむ春日よろしみ蓬生や花のなづなを踏みて暮しつ
匂だちとみに春めく蓬生の下べのしめり踏めばかなしも
春の草まだやはらかしとりまぜて摘むとためけり子らが帽子に
土筆摘み、妻と子と摘み、うすあかき土筆の茎の、緑だつその秀の粉の、かなしとも吾が妻も摘め、をさな児もしみみ摘みをる、そのをさなさを。
一つ一つ摘みし土筆をつくづくとまた植ゑてをりもとなをさな児
鍬入れて、繁に篩ひて、掻きならす土はよき土。春雨のよべのしめりに、けさ蒔くや、種子はひなげし、金蓮花、伊勢のなでしこ。向日葵は間をよくあけて、枇杷のべに糸瓜は寄せて、蒔かずしも朝顔夕顔、おのづからまかせたらなむ、垣の根かたに。
盛り土に足あとつけて子も蒔くと画の種ぶくろ日にかがやきぬ
このごろはくつろぎにけり。歌よめばよくもあしくも、墨磨れば濃けれうすけれ、うれしくも恍れて書きけり、かなしくも恍れて書きけり、ただ楽しみて。
歌ふらくおのれ楽しむものならし楽しみてあらむひとりこもりて
爺が張る四つ手の網に、月さしていろくづ二つ。その魚のくちびる紅き、この魚の脊の鰭青き、現とも思へばつめたく、幻と見れば霧らひつ。けだしくも息づく物の、水よりは空や明るき、水離り空やさみしき。春浅き潯陽江の、この月の魚。
月蒼き潯陽江の春浅しふなべり低め四つ手張りたる
たださへや月の光は霧らふらし四つ手に跳ぬる水の江の魚
口あけてぽちりと紅くそめにけり小さき木彫のいつくしき魚
魚売りの爺が日永や、ふち広の菅の編笠、たよたよと担棒かつぎて、はらはらに片手まはして、前籠に魚かすくなき、後の籠魚か多かる。後の籠地にしひきずる。重かるらしも。
菅笠の爺が日永となりにけりになひの籠のうしろさがりに
米つくと、杵は踏みゐつ。雁射ると、弓弦張りゐつ。足に踏む、をかしかりけり。手にし張る、あはれなりけり。米つきは下べ見てゐつ、雁射るは空べ見てゐつ、とざまかうざま。
米つくとうつらうつらに踏む杵のこなた踏むなべかなたあがりぬ
雁射ると弓弦ひき放ち反る弓の小手にくるりとかへりたるらし
高砂の牡丹社の子か、命こめ、荒く彫りけむ。つたなけど静立つ牛の、をさなけどゆゆし力や。男ごころよひたぶる恋ふと、下ふかく燃ゆる思の、えは堪へね、なほし堪ふると、遊びつつ遊び彫りけむ、くるしくも寂びて寂びけむ、外には見せずも。
荒彫の木彫の牛のみぎり角ほきり欠きたり思ひかねきや
父のごと眺むとすらしこれの子や春山霞ながめつつ来も
女童が脊に結ひかつぐ弟の足触りつつ蹴をり伸びし芽麦を
佇ちて見ていよよ歩まぬこれの子を甘菜吸ひほけ遊ぶ子らはも
この道よ踏むにはやはき虎杖の斑萌あかし子が手曳き行く
畑垣の風防木槿枯れはてぬ春の日ざしのかがよひにけり
崩え崖の櫨子の蕾朱の褪せて雨の跳ね土しみみ附き見ゆ
電柱に吾子は耳あてうつつなし蕾のたんぽぽが帽に光れる
山ゆけば春は恋しき仏の座子と目につきてうたたかなしも
円丘の芽麦の畑に子が立つと後山しろし雪ひかりつつ
櫨子さく畦と見てしか帰さには忘れゐにけり子と行き過ぎぬ
空は見て頭がちなる子がひとり雑草の香の照りのしづかさ
天づたふ日はまだ闌けず草ぶかにはずみてこもらふ幼な吾が子や
雑草の花の盛りは長からじ垂髪ゆすれをさな垂髪
草の香にはずむ吾子ゆゑはてはなしあはて角力ひて父はころぶを
あれを見よ荒地野菊ぞ、こを見よ帚草ぞ、藜こそ葉茎にも知れ、こすもすの入り乱れたる、それ見よと、父母ぞわれら、草いきれ暑きさなかを、立ちまはり、早やをへむぞと髪刈ると、よき篁に、子を坐らせて。
秋づけど草の香暑し子が髪の垂りいとほしみ愛しみ刈り居る
草深野月押し照れり咲く花の今宵の莟み満ちにけらしも
雑草の花咲き煙る夕月夜まうらがなしも歩きて見れば
たわみ飛ぶ鳥影見れば雑草原臈たき月の光照りたる
りりとして鳴く虫の音は夏蕎麦の月の光に闌けにたるらし
山に経る吾が幾秋ぞ目にとめて実のかなめなどしみみ見知りぬ
毬栗の目につきそめて染む声の寒蝉ならしつくつくと啼けり
山はまたつくつくほうし鳴く声のめねくすずしき秋立ちにけり
いなのめに茅蜩啼けり子は覚めてすでにききゐつその茅蜩を
茅蜩の啼きづるきけば眉引の月の光し白みたるらし
一つ啼く茅蜩ときくに音につぎてこもごもに啼く朝明の茅蜩
春の明けを清し茅蜩音に湧くと吾が心神よ揺りつつ透る
童のたまゆら寝覚めあはれなり茅蜩の声はききてねむりし
二階に臥りて久し向日葵の今は垂れたる萼のみ見ゆ
向日葵は円蕋黒しまだ暑く子とかがみゐて痒き蚋うつ
かぐろくも円き花芯や向日葵の花みな了へて西日暑かり
青萱に朝は流らふ日の光また総角のうつら蝶追ふ
萱の根のいよよにほてる日のさかり口赤くあけぬ蜥蜴出で来て
返り咲く黄の山吹のはかなさよ砌の照りに影さす見れば
白檀の土用芽見ればかたへ乾す梅の赤きは塩にふき出づ
雨けぶる孟宗見れば昨の夜の颱風のなごりけだしこもれり
孟宗のしだりいぶせくなりにけりしたべ払はむ雨のすき見て
柿の葉にふる雨見ればつぶら果のここだく青く頻吹きはねつつ
初夜後夜の虫の声こそあはれなれ時のうつりに音いろ代へつつ
耳とめて幽かに聴けや虫の音の一つ澄めるあればすだき満つるあり
一つゐてとほる声あり月あかりすがしくやあらむ揺りつつ鳴けり
蔵経に月の光ぞ満ちにける一つころろぐこほろぎの声
青柿に灯かげさだまる夜のくだち啼く虫のこゑのひとつとほれる
秋づきて土に親しき物の根は見つつし親し寝ねつつし見む
おのづから細み来ぬらし日向辺の物のはしにも影の引きつつ
日おもての小竹の靡きは明るけどしきりに涼し秋は来にけり
眺めつつ夕づきぬらむ竹の根の苧の日ざしとみに移りぬ
臥りゐてつくづく久し萩の葉の露の一つに我目とめをる
真日中をとわたる月の臈たさよきのふもけふも海は荒れつつ
八朔の波の音とぞなりにけるおのづからにし秋は満ちなむ
竹の枝に馬追啼けり良夜の涼しきがほどをわれは湯を浴ぶ
夕花のおしろい咲けば水うちてそこらいつぱいに虫の音湧き来も
篠の秀は露つきやすしかぎろひの夕の乳くばる音ちかづきぬ
枇杷の枝に星の生れ待つ夕涼をほのかに覚むる吾子が声はも
あはあはし星の出を待つ夕ごころうらひもじもよこの揺りごころ
篠の秀に露澄みとほる星月夜坐り幽けく吾も保たむ
秋は早や小竹の根かたに水引のつぶさに紅し咲きにけるかも
こぼれ陽に小蓼すずしき朝の間は茗荷も秋の香に立つらしき
風たちてこまかに落つる竹の葉は日の照る方へみなちらふなり
竹の苞しきり散らへり日向辺の音のかそけき家のはひりかも
篁にそよぎ閑けき日の光吾子が昼寝の時ちかづきぬ
篁に深うはひるは閑けくて夕づく秋の西日なりけり
葉茗荷にとどまる蠅の三つ二つ日向ま近き道の端にして
藪茗荷ほのかに咲けば寺の子の誘ふともなく吾子も出でつつ
寺畑は夏もけうとし立ち茎の蒟蒻の葉の張りて澄みたる
夏はまだ夕かげ永き柴の戸にねもごろふふむ蔦の花かも
ひもじくて臥り暑けき夕凪はとうすみの翅の来るもうれしき
夕かげの斜面の道ぞかびろけれ並らび駈けあがる我と妻と子と
この夜ごろひむがし親し大き星赤き火星の近づきにけり
水うちて赤き火星を待つ夜さや父は大き椅子に子は小さき椅子に
浪の音に妻とい対ふかかる夜は星合の空を来る小鳥あらむ
浪の音昼は忘れつ星合のこの夜すがらに高うおもほゆ
天の原広き夜頃も家ごもり我あわただし書きはつぎつつ
砂まじり白きザボンの落花の雷管に似し星の夜に思ふ
朝光のおもてに見れば山松や全くしづけく秋めきしかも
朝光よすずしとを見れ炒る声の油蝉居ればにいにい蝉居り
射干の日射に隣る鐘の疣かがやき染まず秋にはなりぬ
伝肇寺老木の木槿朝咲きてかかる日射に地震はふるひし
憤る裸の子なれ地面に寝て陽にはまぶしき眼をほそめ居り
小竹ごもりひびかふきけば蜂の子ろ月の光に営みにけり
御堂跡にはやほろほろし白の胡麻月の光の射しにけるかも
円けくて隈ある月の明るさよ今宵は小竹の揺るる秀に見ゆ
§
月の路やや移るらし昨夜よりはいくらか風も涼しくおもほゆ
萩むらにすでにこもらふ虫のこゑ朝な夕なを隣りて住めば
萩すすきにほふ日頃の親しくて通らせてもらふとなりの道を
隣べは秋いち早し萩すすきながめまさりぬ道をうづみて
萩すすき観つつ隣ればうらやすし今さらかはす言のすくなさ
さしなみのにほふ隣となりにける萩見薄見楽しむ吾を
吾命やまた若からじねもごろに身は省る時にいたりぬ
人常にすこやかならず朝露の藜のみどり観つつ飯欲る
朝顔の露の干ぬ間に食む飯はほの涼しうて白き飯ならむ
深き酒せちにつつすむ目醒あり茗荷の花を観つつ思ひぬ
白き飯久しくとらず蓼の穂の粒だち暑き日のみつづきぬ
目にたたぬ門のかなめに咲きつぐと朝顔はよしからみてのぼる
置きまさる露にふふめど朝顔の明日咲く花もちひさかるべし
§
眺めつつはかながれどもいや紅く百日紅は咲きつづくかに
百日紅花明らけし声ありて父よと呼ばふ子におどろきぬ
§
ほのあかき立穂の薄光るなり愛しかる子とい寄りさやらふ
朝露の穂のまだあかき糸薄をさなかる子よ父は守らむ
§
裏丘のなぞへすずしくなりにけり薄もあかき穂にそろひつつ
§
篁に起居すがしむきのふけふしみみに紅き水引のはな
穂に分きて水引紅き竹の根は常に濡れてよしその篁を
ほの寒く恙ある身のをさなさよ金水引の穂など引きつつ
宵はまだ啼くくだまきの気近くて照明笠親し童話読みつぐ
くつわ虫爆ぜて気近き外の藪に赤み恋しき月円くあり
男童は啼き爆ぜる音がよきならしくだまきよしと夜に喜びぬ
くだまきぞ宵は爆ぜたれ子がい寝てすずむしの音のみ今は透りぬ
浪の音とどろかぶらへうち消へず鈴虫の声がひとつ透りぬ
常よりは月夜明るき棕梠の葉に糸瓜さがりて風そよぐ見ゆ
良夜と月はあかれど雑草の見ゆるかぎりは穂にさびにける
野分だち孟宗さやぐいなのめは朗らながらに月かたぶきぬ
野分だつ茅萱がむらに飛び逸れてテニスの白き球ははずみぬ
月は見てねむり吾が子か眉引のおほに明るみ下笑めるかに
小夜ふけて吾子が寝顔のかがやくは望月の輪か照り宿るらし
子はいみじほのぼのとして交らふか父と母とのおもざしがあはれ
蟋蟀の啼くまも愛しみ手ぐさとり母の乳ゆらにゆりし子は眠ぬ
蟋蟀の声澄みとほる夜くだちて睫毛の黒き吾子をさまりぬ
母と子とまどろみ深き夜のくだち雨に浸て沁む蟋蟀のこゑ
蟋蟀ぞしきり鳴きつげ夜越しふり冷えゆく雨の灯に照らされぬ
童べに母の乳滴る夜明がた蟋蟀の声は冷えてやみにし
外の藪のあかつき雨や玻璃まどに電球の線の黄に映りゐる
一色と竹の葉に澄む暁の雨硝子戸あけて音にし立ち来も
竹の葉にふる雨聴けばおのづから揺りはこぼれてまたたまるらし
澄みつつし音こそこもらへふる雨の垂りゆるがせり竹の葉竝を
雨の後緑冴え来る竹の葉のしたたる雫その葉映せり
孟宗の根に生ひまじる篠の葉のなびかふ見れば雨伝ふらし
竹の葉にふる雨観つつ時久しつぎつぎと幹を水ながれ見ゆ
若竹に百舌とまり居りおもしろと友が見にけむその百舌啼くも
竹の葉に雨降り居らしま青くも灯影流らひ燃えゆらぎ見ゆ
芙蓉咲く窻べに伏せてアルミ鍋飯櫃とよし朝日射したる
朝光に芙蓉咲き満つ茅の家のしかすがによき吾が家かなしも
吾が童あかき芙蓉の門に居り秋の朝日の射しにけるかも
地のおもてまだ安からず咲きむかふ芙蓉の日射おぼにふるへり
ひえびえと百舌が音来る雨あとはまだ青柿の蔕も濡れつつ
百舌の鳥音に急き啼けばさえざえし夕風立ちて秋は来にけり
白芙蓉紅き芙蓉と層み咲き上なるがさびし白うにほひぬ
わすれ草茗荷をもがばほのぼのとその芽に白き花つかぬ間を
露じめるをさな茗荷の着る袷まだほのあかし早うもぎたり
香にさみし茗荷の花や日の洩れてまだし露けきひとつ房花
秋霖雨のふる雨長し地に抽けば茗荷の花も下冷えにけり
颱風のおどろ吹き分く花生薑タオルかかぶりそこら引き結ふ
草くづに蓼の紅浸て垂り繁きこの秋雨や地ににじむべみ
鶏頭の葉の冷え青き雨あとをしみじみと集りて凝る心あり
鴨跖草に冷やき雨ふるこのあした夕刊と朝刊と濡れてとどきぬ
鴨跖草は何に咲きつぐ青梅の夏よりかけて秋霖雨もなほ
鴨跖草に交る嫁菜の雨なれば鉄条網の垣も親しき
鴨跖草の露と思へや数まさり綴れる見れば瑠璃の勾玉
朝なさな雨はふりつげ白萩のこぼれきらねば我は観るかも
二百十日つひに過ぎたり白萩のしるくこぼれて雨はららやみぬ
白萩の露分きかぬる子がつむりいとどしく愛しこぼれ花つけて
吾の子を愛しと思へば人の子と分きへだちつつ早やかたぶきぬ
自づ似て父の子なれや子は激し堪へねば投げぬ手に触るるものは
葉鶏頭に風吹き添へば朱なるやうれ葉火に立つ騒めきにけり
葉鶏頭やうれ葉黄に立ちつぎつぎと下葉揺り煽る燃えうつるべみ
子よ見よや庭は燃えたつ葉鶏頭の獅子がしらにし今朝輝やけり
葉鶏頭の秀の燃えたちてふる雨の長月の雨の霽るる間はなし
雨の夜は腸冷えやすし早寝して啼くほどの虫の音を愛しむ吾は
聴くほどはすだきかなしき虫の声うちかたぶきて寝らえぬ吾は
ある虫は品まさり啼けまされるはひとり澄みつつ妙にさびしも
寄り寄りにすだく虫あり一連に継ぎは啼けどもかへてわびしも
二くさに三いろにもきく虫のこゑ夜の厠べぞわびまさりける
よく聴けば脊戸と庭とに啼く虫の音をし競へり脊戸のが鋭し
啼く虫は品にたがへれ聴くほどは声のかぎりに夜露愛しめり
一連に啼きつつ早む草雲雀夜のほどろまでとほりて冷えぬ
暁近く思ひつのるらし啼く虫の今をかぎりとはたや澄みつつ
鶏は啼け星の冷えにしふるごとき虫の音いろは夜明まさりぬ
弓張りの月の出おそくなりにけり南瓜畑のくつわ虫のこゑ
秋鳥かけだしさわたる耳とめて雨夜はせちに灯かげ守りゐむ
§
薄月に小雨添ひ来る夜のふけは身の冷えしるし懐炉灰つぐ
雨の夜は虫の音継がず錠剤の三粒五粒取り出噛み居る
§
人の気の衰ふ夜々は眼光りうかがふ蜘蛛の大き影うつる
壊ゑはてし家ぬちの闇に鳴きはぜて轡虫は居り住みつくならむ
向日葵の蘂の座黒う熟れにけり秋の日向もうらなつかしも
向日葵はいつしか花も了へにけり輝かでよし眺めてあるに
五方に五つ了へたれ向日葵の大きなる黒き円蘂よしも
向日葵の枯れたる蘂に雀来ていとまありげや種子つつき居る
向日葵の種つつくらし下向けて雀がつむり寂びにけるかも
向日葵の蘂も枯れたり揺り移り雀おとなしほどよき照りに
花了へし大輪向日葵日に干して種子は鼠が皆引きにけり
竹の根に秀の立ち赤き曼珠沙華この朝見れば数生ひにけり
曼珠沙華いまだをさなき秀の朱に指にぎりゐつ今年竹の根に
子が素肌ただに涼しく見し藪に数赤きかなや曼珠沙華出ぬ
寺の山風冷え来れば曼珠沙華ただ咲きつぎぬ外にも内にも
曼珠沙華そこらく赤き寺の山彼岸詣でのかげもふえけり
吾が庭もつひにわびしよ朝雨の藜がそばに曼珠沙華出ぬ
母が手に埋もる子ゆゑに曼珠沙華ひたと凝視めて尿放つあはれ
親しくも幽けき秋や篁の外べの柿のうれ葉赤みぬ
竹林逸興
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吾が宿の春深からず、梅しろく、小竹の葉黄なり。霧雨のふれば幽かに、鶯の啼けばをさなし。ああ、友よ、一日は過ぐせ、この山のしづけさを。
柿双樹、あれか双柿舎、春はまださびし梢や、かの丘よ、君おはすらし、白梅の盛りなるらし、このきり雨を。
おもしろの春の小雨や、うら向けに羽織かぶりて、笻かつぎ、石いくつ飛び、童さび、声うちあげて、翁こそ帰り来ましぬ。柿がもと、白梅がもとかうかうと帰り来ましぬ。先生らしも。
柿双木梅五三本この庭の春しづかなり小雨流らふ
春雨の柿の老樹の根に映えて八つ手濡れ居り坐りつつ見ゆ
きさらぎのこのふる雨にさびしくていとどしろきは梅の花かも
ここに来てなにか素直になりたらし先生の面を描きゐつ我は
大き耳持たすものかもまむかひに描きつつし嬉し吾が先生を
先生の片頬明るは玻璃越しに外の白梅の照り映ゆるらし
来の宮はここかよと思ふかたへ川梅白くちりぬ石群が上に
行くところ梅咲き明る丘の道湯の気噴き立つ湯の町が見ゆ
目のかぎりしろき花のみすがしくて幽けかりけりまさに梅林
花しろき梅のはやしの日曇せせらぎの音もかげりつつあり
松かげの草の菴は目立たずて梅の花しろし埋むかに見ゆ(撫松菴)
花しろき梅の林の夕かげは目下に見ていよよ閑けさ
尾羽黒き一羽の鶴の声なくてただ花ふかき林なりけり
吾が宿も梅の盛りかいちじるくむら小竹が間の白うい照りぬ
待ち迎ふ吾子が声こそ駈け来なれ梅の花しろきその小竹やぶを
五日六日相見ざる間にこの吾子や眼さかしう父になじまず
梅しろし吾が篁に飯食むと旅のつかれも忘れゐにけり
眺めても眺めあきずよ、親しめば親しむがまま、幽けきもありのさながら、かかはらず、またさまたげず、竹は竹、我は我ゆゑ、竹がうれしも。
篁に竹を愛でつつ歳久しつくづくと思ふよく住みにけり
篁に酒を楽しむ閑かなりいにしへびともけだしこもりき
篁の南なぞへの日のたむろ世にうま酒を楽しみにけり
おのがじし竹にい凭りて日を浴びてねもごろ楽し酒をふふめる
日たむろの竹の根方の鈴菜ぐさ下萌青し早すずろぎぬ
篁に酒を煮つつし将た安しとなりづからに柿放り賜ぶ
玻璃戸透く陽はかがやかず樽柿の皮むかせかじるペン画描きつつ
毛のシヨール照り柔かし卓に置きてうすうすと引けり窻硝子の影
まさしくも鵯の音寒し窻の陽に子とあたりゐてペン画まだ描く
破れ壁に冬の西日の澄むところ影親しかも窻枠と桟と
窻掛の皺みに残る日の光蠅ふたつをり離るとなしに
日にましに赤の豆柿にぎはひぬ山の目白の数つどひつつ
み冬来て豆柿あかる屋の空孟宗藪といつくしく見ゆ
子は起きて目も円らなり窓ぞひに豆柿が赤く一羽の目白
朝なさなふと目ざめつつ見るものに目白はうれし柿の実にゐる
柿の実に目白来てをり吾が見るとまだ知らざらし啄みほれぬ
玉つづるあけの豆柿よろしみとただに仰ぎて見てをる吾は
豆柿に目白群れ来る朝かげは窻に面出し子と楽しみぬ
ひそけさよ小さき目白の枝越しに揺りつつきをりまんまろき柿を
小禽来てひと日楽しむ豆柿は吾楽しみて食むにまかせぬ
豆柿に来ゐる小禽を仰ぐ子に竝び見あげぬものいひて吾も
豆柿に遊ぶ小禽のうらなさようつむけるがあり仰向けるがあり
豆柿に目白散らばりひそかなりたまたま来たる百舌の大きさ
柿食みにつどふ目白も寒からし孟宗の枝に移り啼きつつ
鵯来れば目白逃げちり百舌の声に鵯翔けり去りぬ赤きは豆柿
わが脊戸や熟れて落ちたる豆柿は鼠が赤くかかへ去りにけり
下枝には寒き蔕のみ数ましぬこずゑの柿のいとど赤くて
のどけくもゆゆしき野火か山越しに黄色の煙ふた塊あがれり
物の爆ぜ聴きて越え来る峰の脊を向うに燃ゆる山の大きさ
山ふたつ揺りとどろけり燃ゆる火の火立の走り添ひのぼりつつ
しづかなる昼と思ふをまなかひを山ふたつ燃えぬとよみ合ひつつ
さうさうと空揺りとよむ走り火の炎の幅は山を領らせり
山ひと山なだりともよし鳴りのぼる大野火赤しひろごりにけり
春まひる向つ山腹に猛る火の火中に生るるいろの清けさ
春山は霞揺り分き熾る火の火のことごとに火鳴澄みつつ
火は放てなにかのどけしうら霞み山かたつきて騒ぐ子らはも
先き先きと火は放つらし煙あがりしきりに白し山の根ごとに
心ぐく放つ炎のおぎろなし春山霞揺りて燃え立つ
山焼の飛ぶ火のあふりただならずまた燃えつぎぬとよみ響けり
篠の爆ぜたしかに深し向つ山鳴りしづみつつ火の渦巻きぬ
燃えさかる向つ山腹鳴り凄しみ雪踏みしき我は見にける
鳴り凄し山かた走る子等がかげおのが放ちし火にふためけり
春山の尾根もとどろに燃ゆる火のたちまちさびし消ゆらく思へば
物の爆ぜ間なくとよめどうらかすみあたりの山のあやにのどけさ
大野火にいささか遠き山の尾をなづさふしろき雲にぞありける
うら霞みしかもしづもる山中を火の鳴りふかし聴きつつあるけば
向つやま山火消えはてひたさびしほのくれぐれを鶯鳴くも(小涌谷)
向つ山夕冷早しくろぐろと此の面のなだり焼け果てにけり
とりよろふ山の畳峰の尾根ながら夕空ちかし火の赤みつつ
さねさし相模の嶺呂に燃ゆる火の夜ははた赤く見ゆる頃かも
尾根づたふほそき山火の幾つづりつぎつぎ赤し今宵冷ゆべみ
峰づたふ夜の火が赤しつくづくも言惜しみつつ今は下らむ
電は昆婆羅山と槃荼婆の岩窟に墜つ。斯の比倫なき(仏の児)は山窟に入りて禅思す。(シリクダ長老の偈)
電は槃荼婆山の岩に墜つ我も坐らむその電を
我竹叢の中にありて甘き乳糜を喫し、好く諸蘊を思念し心を遠離に専らにして、嶺を占得せん。(ゴーサラ長老の偈)
篁にもはらにそそぐ日のひかりゴーサラのごと我も坐らむ
この真昼我楽しめり南天のほのけき花もふふみたらしも
あきらけく我楽しめり竹の葉のしたたるみどり草と映らふ
吾庭の梅雨の雨間の花どころ藜しげりて青がへる啼く
輝かず降らず蒸す日ぞ日につづく藜の伸びのただに紅みて
となりびとまだ貧しかり食む物にうれ葉の紅き藜抜きに来
竹煮草ふふめば恋し我と子とほのけく言を云ひつつ通る
夏すでに花穂立ちそろふ巨き草西洋大葉子は吾子より高し
ほのぼのとねぢ花紅し草に寝て今日明日生れむ子を思ふなり
子とかがむ外の日の照りはかぎりなし蟻の移動のつばらかに見ゆ
§
まさやかに今朝し垂りたりいついつと待ちにし栗のしだり房花
梅雨のまをとなりの畑へくぐり出て落梅をひらふ吾が家の落梅
火の赤き蚊取線香けぶるなり子と対ひゐて饅頭食み居る
走る汽車クレオンで描けといふ子ゆゑ我は描き居り火をたく所
白き蛾のほの紫のにほひ羽の脊の重ね羽にこの夜ら闌けぬ
日の射して蛾のしきり飛ぶ夕つかた見辛くし居り紅き真萩を
藪茗荷花過ぎにけり帰り来てつくづくと子としいまだ遊ばず
竹の根にひとくきあかき曼珠沙華秋季皇霊祭の今朝見つけたり
白き猫ひそけき見れば月かげのこぼるる庭にひとり戯れぬ
柿の葉の濡れてかぶさる木片屋根に夜ふけて来る月のかげあり
月よみの光すずしくなりにけり通草の莢はいまだ青きに
うち見にもなにか閑けき秋ぐさのよきととのひや日ざしあびつつ
この庭の日の照るかたに咲きむれて紫苑はうれし秋づきにけり
野分過ぎ空うち晴れぬ朝戸出て梅の散り葉に目も染みにけり
影面の棚田の狭霧うらがなしこのごろきけば刈りつぎにけり
無花果に隣の御坊のぼりをりひとつふたつは食べにけらしも
氷の罅
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顔の上の蔽ひのガーゼとりにけりまこと死にせり鼻の尖りも
死顔のこの鋭き鼻よこの伯母ぞ吾が母に最も辛く当らしき
強面の伯母なりしかなほそぼそと死にたまひけり白髪染して
伯母の子の二郎そだたきその御足そろへまつるに人皆泣きたり
二郎よ俺は泣くなり故は無し泣かじとをすれど声のさぐるに
伯母の御の死顔見れば土の鳩ほろこほろこと吹きし日泣かゆ
雉子ぐるま子の雉子のせて走りけり幼児われは曳きて遊びし
あかあかとこの夜灯さな亡き人もひたにさむきはおそれたまひき
目まぜして燗場へつどふ夜の寒さ酒のたぎりがただ待たれつつ
通夜酒に酔へどけざむき夜のほどろ煮〆の昆布も青うねばりぬ
通夜の酒すぐさめやすし火は掻きて頭寒けば外套をかぶる
三宝の大き蕪にとりそへて人蔘はよし朱き垂鬚
亡き伯母の笑まししをどり踊らましすべからくのめこのうま酒を
神あがり伯母のみ霊も見そなはせ涙垂りつつ手うちをどるを
きはやかに物の気の澄む冬の晴れ棺はゆきぬ影をしるして
野の窪の牧場にかがむ牛のむれ閑かさすぎてかかはりもなし
競馬場の柵白くこなた辺や蕪と大根のなぞへ段畑
冬空のうつりて青き海のいろ火葬場道はゆきつつ高し
逝くものは影しとどめず風並に冬の光も流れたりけり
冬空に煙突白くつき立てり伯母の棺もいたりとどきぬ
人の世はつひに幽けし青竹の弾き鉄砲に澄む冬のいろ
何しかも過ごし酔ひけむこの夜さり声あららげて人を叱りし
夜の神酒に我酔ひけらし斑鳩やほろこほろことまねて寝にける
少女どち中に寝よちふうれしくて雑り寝にけり魚よと云ひて
うつし世の焼場の前の日のあたりぬるき番茶はすてて出にけり
骨あげて帰る丘べの霜ぐもり常にもがもな人は咳く
冬枯のアスパラガスに実はのこりそこらく赤し掻きわけにけり
礼まはりとざまかうざま日は寒し高き梢の頬白のこゑ
ほどほどに機械うごかす短か日の氷室の氷見にも寄るなり
繁に見てあつき涙のこぼれけり角の堅氷のまつしろの罅
鉄管に霜結晶し早やしろしアンモニヤ瓦斯はよく冷ゆるらし
外にうごく夜鳥の影は大きけどさむざむとあり製氷の照り
鼻の垂りゆたにかいあげ象の子の物食める見ればその目笑へり
真向より皺だみ垂るる象の鼻どこからが鼻ぞ訊いて見よ子よ
おもしろの象の鼻や食むなればあの鼻の下に口かもあるらし
子の象の寒けき見れば鼻の垂り振りは揺りつつひたすらにあり
高髄の毛に凍みこごるちらちら陽駝鳥は寒し張りてあゆみぬ
夕かげにゆるぎいでつつさむざむし駱駝は髯を反らしたるなり
へら鷺のついばみたらす黄の鰌家鴨ぬすまむ佇みにあり
軽鴨の池に遊ぶは寒けかりとりのこされし急ぎ追ひをる
春もまだ物書きいそぎいとまなし風呂立てさせて夕べ過ぎたり
早やあかる梅の下道走らして子が自転車の輪は走るなり
口あけばちやちやとのみいふ子に見せて萼愛しきあちむきの梅
さるかたへとなりの御坊越されけり萼ばかりのしら梅のはな
母としか湯には入らずと子は云へりひとりひたれり梅の萼見て
梅の萼赤く見づらし湯にひたり水鉄砲を吾子とはじかす
梅の蕊赤く毛ばだち雨しげし種痘のふれの今朝は来りし
恙ありてまゐるすべなしひたごころ堪へつつ献ぐ国おもふ歌
国おもふこころを堪へて我がこやる窻べの春はいまだ浅かり
国おもふこころはさやぐ葦鴨の乱れて寒し波立つなゆめ
み民われ思はずあらめやおほきみの大御詔にあひにけるかも
国を思ひ御詔伝ふと大鳥の立たしし君がきほひ猛しも
底本:「白秋全集 9」岩波書店
1986(昭和61)年2月5日発行
底本の親本:「風隠集」墨水書房
1944(昭和19)年3月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。
※「蕋」と「蕊」、「竝」と「並」、「窻」と「窓」、「蕚」と「萼」の混在は、底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:フクポー
2017年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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