幼年時代
室生犀星
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大正八年八月
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私はよく実家へ遊びに行った。実家はすぐ裏町の奥まった広い果樹園にとり囲まれた小ぢんまりした家であった。そこは玄関に槍が懸けてあって檜の重い四枚の戸があった。父はもう六十を越えていたが、母は眉の痕の青青した四十代の色の白い人であった。私は茶の間へ飛び込むと、
「なにか下さいな。」
すぐお菓子をねだった。その茶の間は、いつも時計の音ばかりが聞えるほど静かで、非常にきれいに整頓された清潔な室であった。
「またお前来たのかえ。たった今帰ったばかりなのに。」
茶棚から菓子皿を出して、客にでもするように、よくようかんや最中を盛って出してくれるのであった。母は、どういう時も菓子は器物に容れて、いつも特別な客にでもするように、お茶を添えてくれるのであった。茶棚や戸障子はみなよく拭かれていた。長火鉢を隔って坐って、母と向い合せに話すことが好きであった。
母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って──。」
「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
「二日に一ぺんよ。」
私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった。
私は母の顔をみると、すぐに腹のなかで「これが本当のお母さん。自分を生んだおっかさん。」と心のそこでいつも呟いた。
「おっかさんは何故僕を今のおうちにやったの。」
「お約束したからさ。まだそんなことを判らなくてもいいの。」
母はいつもこう答えていたが、私は、なぜ私を母があれほど愛しているに関わらず他家へやったのか、なぜ自分で育てなかったかということを疑っていた。それに私がたった一粒種だったことも私には母の心が解らなかった。
父は、すぐ隣の間にいた。しかし昼間はたいがい畠に出ていた。私はよくそこへ行ってみた。
父は、葡萄棚や梨畠の手入をいつも一人で、黙ってやっていた。なりの高い武士らしい人であった。
「坊やかい。ちょいと其処を持ってくれ。うん。そうだ。なかなかお前は悧巧だ。」と、父はときどき手伝わせた。
畠は広かったが、林檎、柿、すもも等が、あちこちに作ってあった。ことに、杏の若木が多かった。若葉のかげによく熟れた美しい茜と紅とを交ぜたこの果実が、葉漏れの日光に柔らかくおいしそうに輝いていた。あまりに熟れすぎたのは、ひとりで温かい音を立てて地上におちるのであった。
「おとうさん。僕あんずがほしいの。採ってもいいの。」
「あ。いいとも。」
私は、まるで猿のように高い木に上った。若葉はたえず風にさらさら鳴って、あの美しいこがね色の果実は私の懐中にも手にも一杯に握られた。それに、木に登っていると、気が清清して地上にいるよりも、何ともいえない特別な高いような、自由で偉くなったような気がするのであった。たとえば、そういうとき、道路の方に私と同じい年輩の友だちの姿を見たりすると、私は、その友達に何かしら声をかけずにはいられないのであった。自分のいま味っている幸福を人に知らさずにいられない美しい子供心は、いつも私をして梢にもたれながら軽い小踊りをさせるのであった。
畠は、一様に規則正しい畝や囲いによって、たとえば玉菜の次に豌豆があり、そのうしろに胡瓜の蔓竹が一と囲い、という順序に総てが整然とした父の潔癖な性格と、むかし二本の大小を腰にした厳格さの表われでないものはなかった。父の野良犬を追うとき、小柄でも投げるように、小石は犬にあたった。または烏などを趁う手つきが、やはり一種の形式的な道場癖をもっていて、妙に私をして感心させるような剣術を思わせるのであった。
父の居間には、その襖の奥や戸棚には、驚くべき沢山の刀剣が納められてあった。私はめったに見たことがなかったが、ぴかぴかと漆塗の光った鞘や、手柄の鮫のぽつぽつした表面や、×に結んだ柄糸の強い紺の高まりなどを、よく父の顔を見ていると、なにかしら関聯されて思い浮ぶのであった。
それに父は非常に健康であった。へいぜいは俳句をかいていた。父は葡萄棚から射す青い光線のはいる窓さきに、習字机を持ち出して、よく短冊をかいていた。幾枚も幾枚も書きそこなって、
「どうも良く書けん。」
などと言って、うっちゃることがあった。母はそういう日は、次の間で縫仕事をしていた。れいの音一つない家の中には八角時計が、カタ・コトと鳴っているばかりであった。父も母も茶がすきであった。二人で茶をのんでいるとき、私も遊び友達に飽きてしまって、よく其処へ訪ねてゆくことがあった。
私はよく母の膝に凭れて眠ることがあった。
「お前ねむってはいかん。おうちで心配するから早くおかえり。」と父がよく言った。
「しばらく眠らせましょうね。かあいそうにねむいんですよ。」
母のいう言葉を私はゆめうつつに、うっとりと遠いところに聞いて、幾時間かをぐっすりと睡り込むことがあった。そういうとき、ふと眼をさますと、わずか暫く睡っていた間に、十日も二十日も経ってしまうような気がするのであった。何も彼も忘れ洗いざらした甘美な一瞬の楽しさ、その幽遠さは、あたかも午前に遊んだ友達が、十日もさきのことのように思われるのであった。
母は私のかえるときは、いつも養家の母の思惑を気にして、襟元や帯をしめなおしたり、顔のよごれや手足の泥などをきれいに拭きとって、
「さあ、道草をしないでおかえり。そして此処へ来たって言うんじゃありませんよ。」
「え。」
「おとなしくしてね。」
「え。おっかさん。さよなら。」
私はいつも感じるような一種の胸のせまるような思いで、わざとそれを心で紛らすために玄関を馳け出すのであった。母は、いつも永く門のところに佇って見送っていた。
私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐くもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家へ来たら此処の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。
母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった。
姉は嫁入さきから戻っていた。そして一人でいつも寂しそうに針仕事をしていた。私は机の前に坐って黙っておさらいをしていた。
「姉さん。これをおあがり。」
私はふところから杏をとり出した。美しい果実はまだ青い葉をつけたまま其処辺に幾つも転がって出た。
「まあ。おさとから採っていらしったの。」
「ええ。たいへん甘いの。」
「では母さんには秘密ね。」
「そう。いまおさとへ行ったって叱られちゃったところさ。」
姉はだまって一つ食べた。姉は一日何も言わないでいた。わずか一年も嫁入って帰って来た彼女は、生れかわったように、陰気な、考え深い人になっていた。
「ねえさんはお嫁に行ってひどい目に会ったんでしょう。きっと。」
「なんでもないのよ。」
姉はあとは黙っていた。私達は杏の種をそっと窓から隣の寺の境内にすてた。
姉はいろいろな布類や小さな美しい箱や、目の青い人形や、絹でこしらえた財布や、嫁入さきが海岸だったというのでそこで集めた桜貝姫貝ちょうちん貝などを沢山に持っていた。それは小さな手提箪笥の中にしまってあった。私はそれを少しずつ頒けてもらっていた。
「これもすこし上げよう。」
一つ一つ少しずつ分けてくれた。私はことに美麗な透明な貝などを綿にくるんで、やはり貰った箱にしまっておいた。姉は、ことに小布片が好きであった。様様な色彩の絹類を大切に持っていた。どうしたはずみだったか、姉の名あての手紙の束を見たことがあった。
「それ何に。おてがみ! 見せて下さい。」
私は何心なく奪うようにして取ろうとすると、姉は慌ててそれを背後に隠して、そして赧い顔をした。
「何んでもないものですよ。あなたに見せても読めはしないものよ。」
私は姉が赤くなったので、見てはわるいものだということを感じた。きっと、姉の友達から来たので、私どもに知らしてはならないことを書いてあるのだと思って、私は二度それを見ようとはしなかった。
「かあさんにね。ねえさんが手紙をもっているっていうことを言わないでしょうね。」
姉は心配そうに言った。
「言わないとも。」
「きっと。」
「きっとだ。」
私は小さな誓いのために指切りをした。姉はお嫁前とは瘠せていたが、それでもよく肥えてがっしりした手をしていた。私はそういう風に、だんだん姉と深い親しみをもってきた。
晩は姉とならんで寝た。
「姉さん。はいっていい?」
などと私はよく姉と一しょの床にはいって寝るのであった。姉はいろいろな話をした。医王山の話や、堀武三郎などという、加賀藩の河師の話などをした。
加賀藩では河師というものがあって、鮎の季節や、鱒の季節には、目の下一尺以上あるものを捕るための、特別な河川の漁師であって、帯刀を許されていた。ことに堀武三郎というのは、加賀では大川である手取川でも、お城下さきを流れる犀川でも、至るところの有名な淵や瀬頭を泳ぎ捜ることが上手であった。
膳部職から下命があると堀はいつも四十八時間以内には、立派な鮎や鱒を生け捕ってくるのであった。かれは、好んで、ぬしの棲んでいるという噂のある淵を泳ぎ入るのであった。そのころ、犀川の上流の大桑の淵に、ぬしがいてよく馬までも捕られるということがあった。
堀はその淵の底をさぐって見た。夜のような深い静寂な底は、からだも痺れるほど冷却った清水が湧いていて、まるで氷が張っているような冷たさであった。その底に一つの人取亀がぴったりと腹這うていた。で、堀は亀の足の脇の下を擽ると、亀は二、三尺動いた。まるで不思議な大きな石が動くように。──その亀の動いた下に暗い穴があった。かれは其処をくぐった。内部は、三、四間もあろうと思われる広さで、非常に沢山の鱒がこもっていた。堀はそれを手取りに必要なだけ(かれは必要以外の魚はとらなかった。)つかまえて、穴を這い出ようとすると、れいの人取亀がぴったりと入口を蓋していた。
堀はまた脇腹をくすぐって、動き出したすきに穴を這い出た。堀は、この話をしたが誰もそこへ入って見るものがなかった。それからというものは堀はそこを唯一の「鱒の御料場」としていた。
その堀が生涯で一番恐ろしかったという話は、鞍が岳の池を潜った時であった。この鞍が岳は、加賀の白山山脈もやがて東方に尽きようとしたところに、こんもりと盛り上った山があって、そこは昔佐々成政に攻め立てられて逃げ場を失った富樫政親が馬上から城砦の池に飛び込んだ古戦場であった。毎年かれが馬とともに飛び込んだといううら盆の七月十五日に、いつもその定紋のついた鞍が浮き上った。なかには鞍の浮き上ったのを見たという村の人もあり、その日はべつに変りはないけれど、何ともいえぬ池の底鳴りがするという人もあった。不思議なことには、馬と一しょに飛び込んだ富樫政親の姿が、その折とうとう浮いてこなかったことであった。
その池は深く青藍色の沈んだ色を見せて、さざ波一つ立たない日は、いかにもその底に深い怨恨に燃え沈んだ野武士の霊魂が沈潜していそうに思われるほど、静寂な、神秘的な凄い支配力をもって人人の神経を震わせてくるということであった。堀はこの伝説をきいて嗤った。そして、かれがこの池の底を探険するということが、お城下町に鳴りひびいて噂されたのであった。
その日、堀は得物一つ持たずに池にもぐり込んだ。しずかな午後であった。かれはかなり永い間水面に浮かなかったが、しばらくして浮き上ってきた彼は、非常な蒼白な、恐怖のために絶えず筋肉をぴくぴくさせていた。そして何人にもその底の秘密を話さなかった。何者がいたかということや、どういうぬしが棲んでいたかということなど、一つも語らなかった。唯かれは河師としての生涯に、一番恐ろしい驚きをしたということのみを、あとで人人に話していた。それと同時にかれは河師の職をやめてしまった。
姉は話上手であった。これを話し終えても私はまだ睡れなかった。そして色色な質問して姉をこまらした。
「いったい池の底に何者がいたんでしょう。」
「そりゃ判らないけれど、やっぱり何か恐ろしいものがいたんでしょうね。」
「では今でも鞍が浮くんでしょうか。」
「人がそう言い伝えているけれど、どうだか分らないわ。しかし恐い池だって。」
私は話最中にその鞍が岳を目にうかべた。それは鶴来街道を抱き込んだ非常に寛やかな高峯で、この峯つづきでは一番さきに、冬は、雪が来た。
「富樫って武士はまだ池の中に生きているの。それとも死んでしまったの。」
「それが分らないの。生きているかもしれないわ。」
姉は脅かすように言って、
「もうお寝み。」と言った。
私は軽い恐怖をかんじて姉にぴったりと抱かれていた。姉の胸は広く温かかった。やがて私は姉のあたたかい呼吸を自分の頬にやさしく感じながら眠った。
私どもの市街の裏町のどんな小さな家家の庭にも、果実のならない木とてはなかった。青梅の頃になると卵色した円いやつが、梢一杯に撓み零れるほど実ったり、美しい真赤なぐみの玉が塀のそとへ枝垂れ出したのや、青いけれど甘みのある林檎、杏、雪国特有のすもも、毛桃などが実った。
私どもは殆んど公然とそれらの果実を石をもって叩き落したり、塀に上って採ったりした。ちょうど七つ位の子供であった私どもは、そうした優しい果実を掠奪してあるくためには、七、八人ずつ隊を組んで裏町へでかけるのであった。それを「ガリマ」と言っていた。
「ガリマをしようじゃないか。」
こう発言するものがあると、みな一隊になって果樹園町へでかけた。しかし、それは全然道路の方へ樹の枝がはみ出た分の果実に限られていた。まるで南洋の土人のような、荒いしかし無邪気な掠奪隊であった。
だから果実の木をもつ家家の人は、子供らが道路の方へ出た分の果実を採っていても、別に咎めも叱りもしなかった。かえって、人のよい中年の母らしい人がにこにこ微笑って見ているのもあったりした。
「ガリマ隊の来ないうちに。」と言って、果実を急に採り初める家もあった。
私もよくその「ガリマ」隊に加わったものであった。「ガリマ」隊の進んで行ったあとの道路は、ちぎられた青葉若葉が乾いた路の上に、烈しい子供の悪戯のあとをのこして散らばっていた。
私だちは空地の草場に輪をつくって、「ガリマ」に拠って得た果実をみなに頒けっこをするのであった。そして、みな子供らしい白い足を投げ出して、わいわい言いながら、極めて自然らしい遊びにふけるのだ。いろいろな家の果実がそれぞれ異った味覚をもっていて、子供らはそれを味い分けることが上手であった。
私もやはり裏町を歩くと、何処の杏がうまくて、あそこの林檎が不味いということを良く知っていた。「ガリマ」隊が陣取っていると、そこらに遊んでいた女の子供らも、みな言い合わしたように集ってくるのであった。
「君らにも分けるよ。みな二つずつだよ。」
などと言って、にこにこしている少女達にみな平等に分け与えることも、いつもの例になっていた。女の子らはややはにかみながらも、「ガリマ隊」のなかに兄さんなどもいるので、みな親しく分けてもらって、隊をはなれて遊ぶのであった。
いつごろからそういう風習があったのか知らないが、それは決して不自然なところがなく、また非常に悪びれたところが、見えなかった。
「少し残して行っておくれ、みな採られるとおじさんの分がなくなるじゃないか。」という家もあった。
そんな家はいい加減にして引きあげた。どちらも微笑している間に、自然ととり交わされた礼節が、子供らの敏感な心を柔らげるのであった。
私は飛礫を打つことが好きであった。非常に高い樹のてっぺんには、ことに杏などは、立派な大きなやつがあるかぎりの日光に驕り太って、こがね色によく輝いていた。そんなときは、飛礫を打って、不意に梢に非常な震動を与えた途端にその杏をおとすより外に方法はなかった。
私は手頃な小石をもつと、ぴゅうと風を切って梢を目がけて投げるのであった。礫は青葉の間をくぐったり、触れた青葉を切ったりして、はっしと梢にあたるのであった。たいがい能く熟れ切った杏の萼は弱くなっていて、美しい円形をえがいて花火のように落ちてくるのであった。そういうときは、子供らは一斉に歓喜に燃えた声をあげた。
私はまたよく河岸へ出て、飛礫を打ったりしたものであった。ともかく、私の飛礫は、遊び友達の中でも非常な腕利として相応な尊敬を払われていた。たとえば、Aの町の「ガリマ」隊と、Bの町の「ガリマ」隊とが、よく静かな裏町で出会すことがあった。そんなときは、すぐに喧嘩になった。そんな時は、たいがい石を投げ合うので、私が一番役に立った。
私はいつも敵の頭を越す位に打った。一個から二個、三個という順序に、矢つぎ早に打つのが得意でそれが敵をして一番恐怖がらせるのであった。私はたいがい脅かしにやっていたが、飛礫打ちの名人として、私が隊にいると敵はいいかげんにして引上げるのであった。
喧嘩が白兵戦になると、随分ひどい撲り合いになるのであった。竿やステッキで敵も味方も滅茶苦茶になるまで、やり続けるのであった。私は組打ちが甘かった。そのかわり四、五人に組敷かれて頭をがんがん張られることもすくなくなかった。私はどういう時にもかつて泣かなかったために、仲間から勇敢なもののように思われていたが、心ではいつも泣いていたのだ。
小学校ではいちばん唱歌がうまかった。作文も図画もまずかった。私はいつの間にか家でおとなしかったが学校では暴れものになっていた。私はよく喧嘩をした。喧嘩をするたびごとに私が加わっていてもいなくても、私が発頭人にさせられた。そして「おのこり」によく会った。
私はたえず不安な、胸の酸くなるような気で学課のはてるのを待った。それは先生が私の読み方一つが違っていても、他のものが間違っていてはそうではなかったが、私だけはいつも居残りを命ぜられたからであった。「今日もやられるかなあ。」と考えていると、きっと、
「室生、かえってはいけない。」と居残りの命令にあった。
私のちょいとした読みちがいでもそうだ。ことに喧嘩から疑われて一週間も教室に残されたことは、殆んどいつものことであった。私の犯さない罪はいつも私の弁護する暇なく私の上に加わっていた。私は誰にも言いたいだけの弁解ができなんだ。
私の教室の寂しいがらんとした室内に、一時間も二時間も先生がやって来て「かえれ」というまで立っていなければならなかった。学友の帰って行く勇ましい群が、そこの窓から町の一角まで眺められた。みな愉快な、喜ばしげな、温かい家庭をさして行った。かれらの帰って行くところに彼らの一日の勉学を酬ゆるための美しい幸福と慰藉とが、その広い温かい翼をひろげているようにさえ思われた。私はそとの緑樹や、家にいる姉の優しい針仕事のそばで話しする愉快を考えて、たえず兎のように耳を立て、今にも先生が来てかえしてくれるかと、それを一心に待っていた。
私は教室の硝子が何枚あるかということ、いつも私の立たされる柱の木目がいくつあるかということ、ボールドにいくつの節穴があるかということを知っていた。私はしまいには窓から見える人家の屋根瓦が何十枚あって、はすかいに何枚並んでいるかということ、はすかいの起点から下の方の起点が決して枚数を同じくしない点からして、殆んど四角な屋根が、決して四角でないことなどを諳んじていた。
沢山の生徒の前で、
「お前は居残りだ。」
こう先生から宣言されると、沢山の生徒らにたいして私はわざと「居残りなんぞは決して恐くない。」ということを示すために、いつも寂しく微笑した。心はあの禁足的な絶望に蓋せられているに関わらず、私はいつも微笑せずにはいられなかった。
「なにがおかしいのだ。馬鹿。」
私はよく怒鳴られた。そんなとき、私は私自らの心がどれだけ酷く揺れ悲しんだかということを知っていた。おさない私の心にあの酷い荒れようが、ひびの入った甕のように深く刻まれていた。私はときどき、あの先生は私のように子供の時代がなかったのか、あの先生のいまの心と、私のおさな心とがどうして合うものかとさえ思った。
しかし私は先生に憎まれているという、心理上の根本を見るほど私はおとなではなかった。私は憎まれていた。──私は、先生のためならば何んでもしてあげたいと思っていた。私の所有品、私の凡てのものを捧げていいから、この苦しい居残りから遁れたいと思っていた。その半面に私はときどき、とても子供が感じられない深い残酷さの竹箆返しとして、あの先生がこの学校へ出られないようにする方法がないものかとも考えていた。そういう考えはとうてい実現できなかったし、また、そういう考えをもつことも恐ろしいことに思っていた。
家庭では毎日居残りを喰うために母の気嫌が悪かった。珍らしく居残りをされなかった日は、こんどは母がやはり居残りにされたんだろうと言って責めた。私はどうすればよいか分らなかった。
私は人気のない寂然とした教室で、ひとりで涙をながしていた。
「ね。早くかえっていらっしゃい。あなたさえ温和しくしていりゃ先生だってきっと居残りはしなくなってよ。あなたが悪いのよ。みな自分が悪いと思って我慢するのよ。えらい人はみなそうなんだわ。」
こう言ってくれた姉のことばが頻りに思い出されていた。私はしらずしらず教壇の方へ行って、ボールドに姉さんという字をかいていた。私はその字をいくつも書いては消し、消しては書いていた。
その文字が含む優しさはせめても私の慰めであった。姉の室の内部が目に浮んだ。姉の寂しそうに坐っている姿が目に入った。私は泣いた。
その時、突然教室の戸が開いた。そして先生のあばた面が出た。私は目がくらむほど吃驚して、指定された柱のところへ行って棒立ちになった。私の空想していた花のような天国的な空想が、まるで形もないほど破壊されたのであった。
「何をしているんだ。なぜ命令けたところに立っていないんだ。」
私は肩さきを酷く小衝かれた。私はよろよろとした。私は非常な烈しい怒りのために膝がガタガタ震えた。私は黙って俯向いていた。何を言っても駄目だ。何も言うまいと心で誓った。姉もそう言ってくれたのだ。
「なぜ先生の言いつけ通りをしないのだ。」
このとき、私は横顔を撲られた。私は左の頬がしびれたような気がした。それでも私は黙っていた。私はここで殺されてもものを言うまいという深い懸命な忍耐と努力とのために、私は私の脣を噛んだ。私はこの全世界のうちで一番不幸者で、一番ひどい苦しみを負っているもののように感じた。
「よし貴様が黙っているなら、いつまでも其処に立っておれ。」
こう先生は言って荒荒しく教室を出て行った。私はやっと顔をあげると、いままで怺えていたものが一度に胸をかき上った。顔が火のように逆上した。私は痛い頬に手をやって見て、そこが腫れていることに気がついた。私は撲られたとき、もうすこしで先生に組付くところであった。けれども怺えた。
私はもう午後五時ごろのように思った。そして窓から見ていると先生方はみな帰って行った。そのなかに私の先生もいた。そうだ。先生が帰っては、もうとても帰してくれるものがいないのだ。
私はすぐに自分の席からカバンを取ると、さっさと帰った。そとは楽しかった。うちへかえると母は小言を言った。
「また居残りでしょう。」
私は姉の室へはいるともう眼に一杯の涙がたまった。姉はすぐに直覚した。私は姉に縋りついて心ゆくまで泣いた。
「あなたの先生もひどい方ね。ちょいとお見せ。まあ可哀想にね。」
姉は私の頬を撫でて、涙をためた目で私を見つめた。私は胸が一杯でものが言えなかった。言いたいことが沢山あった。しかしどうしても口へ出なかった。
「あたし先生に会ってあんまり酷いって言ってやろうかしら。」
姉は昂奮して言った。
「いけない。いけない。そんなことを言ったらどんな目に会うかしれないの。」
私は姉をゆかせまいとした。
翌日起きると私は渋りながら登校の道を行った。私は昨日逃げて帰ったのを咎められる不安や、またあの永い居残りを思うだけでも気が滅入り込むのであった。雨は両側の深い庇からも流れていた。ほかの同級生はみな元気に歩いて行った。私は学校の「野町尋常小学校」と太い墨でかいた門のところで、極度の嫌悪のために牢獄よりも忌わしく呪うべき建築全体を見た。「私はなぜこんなところで物を教わらなければならないか。」という心にさえなった。あの商家の小僧さんのように何故自由な生活ができないのかとさえ思った。
先生はそしらぬ振りしていた。私はよろこんだ。私がいつまでも昨日残っていたものだと思っているのだと、心を安んじていた。五限がすむと生徒が行列をつくって下駄箱の方へ行くのであった。私も「きょうこそ早く帰れるのだ。」とひそかに心を躍らせた。そして、先生の前を通ろうとすると、
「お前は居残るんだ。」
いきなり襟首をつかんで、行列から引きずり出された。まるで雀のようにだ。私はかっとした。腸がしぼられたように縮み上った。真赤になった。ものの二分も経つと私はよく馴らされた厚顔さに、その図図しい気持ちがすっかり自分の心を支配し出したことを感じた。「どうにでもなれ。」という気になった。私の目はいつものようにじっと動かなくなった。頭から足まで一本の棒を刺し徹されたような、しっかりした心に立ち還っていた。
私は昨日のように教室に立っていた。
「一枚二枚三枚……。」
と、人家の屋根瓦を読みはじめた。何度も何度も読みはじめた。気が落ちつくと、だんだん瓦の数が不明なくなった。眼が一杯な涙をためていた。
私は、先生のみにくいぽつぽつに穴のあいた天然痘の痕のある頬を思いうかべた。それが怒り出すと、一つ一つの穴が一つ一つに赤く染って行った。そんなとき、私はいつも撲られた。チョォクの粉のついた大きな手が、いつも俯向いて宿命的な苛責に震えている私の目からは、いつもそれが人間の手でなくて一本の棍棒であった。その棍棒が動くたびごとに、私の全身の注意力と警戒と憤怒とがどっと頭にあつまるのであった。私の怒りはまるで私の腹の底をぐらぐらさせた。
その日は私の外に、貧しいボロを着た貧民町の同級生が私と同じように残されていた。かれは黙っていた。かれは面白そうに外を見ていた。私はかれが立っていると、さぞ私のように足がだるいだろうと思って言った。
「君は腰掛にいたまえ。先生が来たら言ってやるから。」
「そうか。」
と、言ってかれは腰掛に坐った。かれは室の奥の方にいたのだ。私は入口にいたので、先生が来れば見えるのであった。
先生が来た。私はすぐかれに注意した。
先生は、私の方へ来ないでかれの方へ行って何か小声で叱っていた。かれは泣いて謝まっていた。汚ない顔じゅうを涙で洗うにまかせた二目と見られない顔であった。
「では帰んなさい。」
かれは許されて出て行った。こんどは私の方へ来た。
「何故昨日許しもしないのに帰ったのだ。きさまぐらい強情な奴はない。」と言った。
私は「また何故が初まった。」と心でつぶやいた。
「何とか言わないか。言わんか。」
私はその声の大きなのにびっくりして目をあげた。私は極度の怨恨と屈辱とにならされた目をしていたにちがいない。
「何故先生を睨むのだ。」
私は怒りのやり場がなくなっていた。私はカバンの底にしまってあるナイフがちらと頭の中に浮んだ。突然天井が墜落したような、目をふさがれたような気がして、私は卒倒した。とても子供の私には背負いきれない荷物を負ったようにだ。
私は間もなく先生に起された。私は気絶したのであった。私は夢からさめたように、ぼんやり頭の中の考える機械をそっくり持って行かれたような気がしていた。
先生は急にやさしく、
「おかえりなさい。今日はこれでいいから。」
と、私は表へ出ることができた。私は「大きくなったら……」と深い決心をしていた。「もっと大きくなったら……」と地べたを踏んだ。私の心はまるでぎちぎちな石ころが一杯つまっているようであった。私はこの日のことを母にも姉にも言わなかった。ただ心の底深く私が正しいか正しくないかということを決定する時期を待っていた。
九歳の冬、父が死んだ。
朝から降りつもった烈しい雪は、もう私がかけつけた頃は尺余に達していた。父のからだは白絹の布で覆われていた。その上に立派な一と腰がどっしりと悪魔除けにのせられてあった。父は老衰で二、三日の臥床で眠るように逝った。
お葬式の日は、やはり雪がちらちら降っていた。母と一しょに抱かれるように車に乗った。途中雪がたいへんで、行列が遅れがちであった。
私はそれからは非常な陰気な日を送っていた。父の愛していた白という犬が、いつも私のそばへふらふらやって来た。毛並のつやつやしい純白な犬であった。
ある日、私は実家へゆくとゴタゴタしていて、大勢の人が出たり入ったりしていた。母は私にお父さんの弟さんが越中から来たのだと言っていた。四、五日すると母がいなくなって、見知らない人ばかりいた。母は追い出されたのであった。
母は私にも別れの言葉もいうひまもなかったのか、それきり私は会えなかった。母は父の小間使だったので、父の弟が追い出したことが分った。私はあの広い庭や畠を二度と見ることができなかった。いつも茶の間で長火鉢で向い合って話した上品なおとなしい母はどこへ行ったのだろう。私は母にも姉にも黙っていた。母はそのことを口へも出さなかった。私はひまさえあれば、白をつれて町を歩いていた。
「シロ! 来い。」
父が亡くなってから、ねむるところもないこの哀れな生きものは、何人よりも私を好いていたらしかった。私はこの生きものと一緒にいると、何かしら父や母について、引き続いた感情や、言葉の端端を感じ得られるのであった。私はどこかで母にあいはせぬかと、小さい心をいためながら、あるときはずっと遠くの町まで歩きまわるのであった。母と同じい年頃の女にあうと、私は走って行って顔をのぞき込むのであった。私のこの空しい努力はいつも果されなかった。
姉はよく私のこの心持を知っていた。姉はもう嫁には行かなかった。いつも家事のひまひまには室にいて静かに針仕事で日をくらしていた。そして私がひっそりと奥庭へ入れておいたシロに、御飯をやったりしてくれた。シロはもう私の家を離れなかった。私はよく庭へ出てシロと坐って、深い考事をしていたりしていた。私はだんだん子供らしくない、むっちりとした、黙った子供になった。
シロのことでよく母から小言が出た。
「そんな犬なぞどうするの。あっちい放していらっしゃい。」とよく言われたものだ。
私は、わざと放しに行くように見せて磧へなど行って遊んでいた。
「シロ! 行け。」
けしかけるとシロはたいがいの犬を負かした。私はそうして時間を潰してかえって来て、
「放して来ました。」と報告しておいた。
そのときはもうシロは奥庭にはいって円円とねていた。母は困っていたが、私がああした嘘をつくことをしらなかった。しまいには、出入の大工にたのんで母は放させたが、やっぱり帰って来た。そんなとき、私は嬉しかった。
「道を忘れないで帰って来い。きっと来い。」
私は大工が持ってゆくときに、心の中でつぶやくのであった。
姉は、
「あんなになついたんだから置いてやったらどうでしょう。」と母に言ったりした。
「でもお実家の犬だし、何だか気味がわるくてね。」と言っていた。そして私には、
「あんまりシロシロって可愛がるから家から外へ行かないんだよ。」と、小言をいっていた。
けれども私はシロを愛していた。
ある寒い雪の晩方のことであった。私はだんだん暮れ沈んで雪が青くなって見える門の前で、いつまでも歇むことのない北国の永い降雪期を心で厭いながら、あの何ともいわれない寂しい音響という音響のはたと止んだ静かな町を、寒げに腰をまげて縮んだように行く往来の人を眺めていた。近在の人であろう。みな急がしげに、しかも音のない雪道を行くのを得もいわれず淋しく見送っていた。どの人を見ても痩せて寒げであった。
私はふと気がつくと、白がぐったり首垂れて、しかも耳から鮮血を白い毛並のあたりに、痛痛しく流しながら帰って来るのを見た。私はかっとなった。
「シロ! 誰にやられたのだ。」
私はこの哀れな動物に殆んど想像することのできないほどの深い愛を感じた。そしてこの耳を噛んだ対手の犬に復讐いなければならなかった。
「シロ! 行け。何処でやられたのだ。」
私はシロとともに無暗に昂奮して、シロの来た方の道を走った。シロは高く吠えて私よりさきに走った。
シロは裏町のある家の門のところで、急に唸り出した。門の中から黒白の斑点のある大きな犬が飛び出した。シロは私という加勢に元気づけられたために、いきなり飛びついた。けれどもシロは小さかったために仰向けに組み敷かれた。シロは悲鳴を挙げた。私はもう我慢ができなかった。いきなり下駄を脱ぐと雪の中を素足になって、上に乗りかかっているシロの敵をめちゃくちゃにひっぱたいた。敵は悲鳴をあげた。シロはその隙に起き上って完全に敵を組みしいて噛みついた。
「シロ。しっかりやれ。僕がついている。」
私は冷たさもしらないで雪の上をとんとん踏んだ。シロは勝った。
そこへ門の中から私とは二級上の少年が出て来た。そしてこんどは自分の犬にけしかけた。
「生意気言うな。きさまの犬より僕のやつは強いんだ。」
私は彼の前へ飛びかかるように進んだ。
「そんな汚ない犬が強いもんか。」
彼は真蒼になって言った。
「犬より君の方があぶないよ。家へはいっていた方がいいよ。」
「小さなくせに生意気をいうな。」
「もう一度言え。」
こう私は言っておいて、いきなり得意の組打ちをやった。私はかれの背を両手でしっかり抱いて、くるりと、腰にかけて雪の上に投げつけた。そして私は馬乗りになって自分でどれだけ撲ったか覚えないほど撲った。私は喧嘩は早かった。そして非常な敏活な、稲妻のようにやってしまうのが得意であった。
私は下駄をはいてシロとかえりかけた。やっと起き上った彼は、「覚えていろ。」と言った。私は冷笑してかえった。私はそれから道でシロをなでてやった。そして「負けたら帰るな。」と言ってきかせた。
ある日、学校からの帰途のことであった。裏町の塀のところに上級生らしい私とは大きい少年が三人かたまって、私の方を向いて囁き合っていた。気がつくと、この間の犬の喧嘩のときの上級生が交っていた。私は直覚的に待伏せを食っていることを知った。私はすぐカバンの革紐を解いて、さきの方を固く結んだ。私の用意は、かれらの前にまで歩いてゆくうちに整っていた。
れいの少年はいきなり私の前に立ち塞がった。
「この間のことを覚えているか!」
かれは一歩前へすすんだ。
「覚えている。それがどうしたのだ。仕返しをする気か。」
かれはいきなり飛びつこうとした。私の振った革紐はひゅうと風を切って、かれの後脳を叩いた。かれは蹌踉とした。その時まで黙っていた彼の友達が右と左とから飛びつこうとした。私はまた革紐を鳴した。そのすきに私は足を蹴り上げられた。膝皿がしびれた。私は倒れた。そして私はめちゃくちゃに叩かれた。私は彼らが去ったあとで目まいがして、やっと家へかえった。しかし翌日はもう元気になっていた。
学校の便所で昨日の仲間の一人に会った。私は声をもかけずにその上級生をうしろから撲りつけておいて、漆喰の上へ投げ飛ばした。
かえりに例の上級生が五、六間さきへ行くのを呼びとめるとかれは逃げ出した。私はすぐさま手頃な小石を拾った。飛礫はかれの踝にあたった。かれは倒れた。私はかれをそのさきの日のように撲った。沢山の学友らは私らをとり捲いていたが、誰も手出しをしなかった。それほど私はみなから敬遠されていた。私はかれを尻目にかけて去った。
私はしかしそういう喧嘩をした日は淋しかった。勝って対手を酷い目にあわせればあわすほど私は自分の中の乱暴な性分を後悔した。してはならないと考えていても、いつも外部から私の危険性が誘い出されるごとに、私は抵抗しがたい自分の性分のために、いつも淋しい後悔の心になるのであった。
私のそうした乱雑な、たえず復讐心に燃えた根強い一面は、多くの学友から危険がられていたのみならず、非常に怖れられていたので、親しい友達とてはなかった。私はひとりでいる時、外部から私を動かすもののいない時、私は弱い感情的な少年になって、いつも姉にまつわりついていた。
「お前がまあ喧嘩なんかして強いの。おかしいわね。」
姉は、よく近所の少年らの親元から、私にひどい目にあった苦情を持ち込まれたときに、笑って信じなかった。姉の前では、優しい姉の性情の反射作用のように温和しく、むしろ泣虫の方であった。私が学友から一人離れて帰途をいそぐときは、いつも姉の顔や言葉を求めながら家につくのであった。姉なしに私の少年としての生活は続けられなかったかもしれない。
うしろの犀川は水の美しい、東京の隅田川ほどの幅のある川であった。私はよく磧へ出て行って、鮎釣りなどをしたものであった。毎年六月の若葉がやや暗みを帯び、山山の姿が草木の繁茂するにしたがって何処となく茫茫として膨れてくるころ、近くの村落から胡瓜売のやってくるころには、小さな瀬や、砂利でひたした瀬がしらに、背中に黒いほくろのある若鮎が上ってきた。
若鮎はあの秋の雁のように正しく、可愛げな行列をつくって上ってくるのが例になっていた。わずかな人声が水の上に落ちても、この敏感な慓悍な魚は、花の散るように列を乱すのであった。
私はこの国の少年がみなやるように、小さな尾籠を腰に結んで、幾本も結びつけた毛針を上流から下流へと、たえまなく流したりしていた。鮎はよく釣れた。小さな奴がかかっては竿の尖端が神経的にぴりぴり震えた。その震えが手さきまで伝わると、こんどは余りの歓ばしさに心が躍るのであった。
瀬はたえずざあざあーと流れて、美しい瀬波の高まりを私達釣人の目に注がす。そこへ毛針を流すと、あの小さい奴が水面にまで飛び上って、毛針に群るのであった。ことに日の暮になるとよく釣れた。水の上が暮れ残った空の明りにやっと見わけることのできるころ、私は殆んど尾籠を一杯にするまで、よく釣りあげるのであった。
川について私は一つの話をもっていた。
それは私が釣をしに出た日は、雨つづきの挙句増水したあとであった。あの増水の時によく見るように、上流から流された汚物が一杯蛇籠にかかっていた。私はそこで一体の地蔵を見つけた。それは一尺ほどもある、かなり重い石の蒼く水苔の生えた地蔵尊であった。私はそれを庭に運んだ。そして杏の木の蔭に、よく町はずれの路傍で見るような小石の台座を拵えてその上に鎮座させた。
私はその台座のまわりにいろいろな草花を植えたり、花筒を作ったり、庭の果実を供えたりした。毎月二十四日の祭日を姉から教えられてから、その日は、自分の小遣からいろいろな供物を買って来て供えていた。
「まあお前は信心家ね。」
姉もまた赤い布片で衣を縫って、地蔵の肩にまきつけたり、小さな頭布をつくったりして、石の頭に冠せたりした。私はいつもこの拾って来た地蔵さんに、いろいろな事をしてあげるということが、決して悪いことでないことを知っていた。ことに、地蔵さんは石の橋にされても人間を救うものだということをも知っていた。私はこの平凡な、石ころ同様なものの中に、何かしら疑うことのできない宗教的感覚が存在しているように信じていた。
「きっといいことがあるわ。お前のように親切にしてあげるとね。」
姉は毎日のように花をかえたり、掃除をしたりしている私を褒めてくれていた。私は嬉しかった。こうした木の蔭に、自分の自由に作りあげた小さな寺院が、だんだんに日を経るに従って、小屋がけが出来たり、小さな提灯が提げられたりするのは、何ともいえない、ただそれはいい心持であった。何かしら自分の生涯を賭して報いられてくるような、ある予言的なるものを感じるのであった。私は毎朝、洗面してしまうと礼拝しに行った。ときとすると、あぐらをかいたお膝のところに大きな夜露がしっとりと玉をつづけていたりしていた。そのつぎに姉がいつも謹ましげにお詣りをしに来た。
ことに夜は森厳な気がした。木の葉のささやきや、空の星の光などの一切をとり纏めた感覚が、直接地蔵さんを崇拝する私の心を極めて高く厳粛にした。私はそこで、大きくなったら偉い人になるように熱祷するのであった。
不思議なことは、この地蔵さんを大切にしてからは、よく蟻などが地蔵さんのからだを這っているのを見ると、これまでとは別様な特に地蔵さんの意志を継いでいるようなものにさえ思われた。蝸牛にしてもやっぱりこの神仏の気を受けているように感じた。私はだんだん地蔵さんの附近に存在する昆虫を殺すことをしなくなった。それがだんだん長じて街路でも生きものを踏むことがなく、無益に生命をとらなくなっていた。
「お前くらい変な人はない。しかしお前は別なところがある人だ。」
母も私の仕事に賛成していた。
「しばらくなら誰でもやるものだが、あの子のように熱心にする子はない。」
私はそれらの讃嘆にかかわらず、ときとしては恁麽にしてこれが何になるとか、いますぐ自分に酬いられるとかいうことを考えなかった。私はこの小さな寺院の建立に、いろいろな器物の増してゆくところに、自分の心がだんだん離れないことを知っていた。ことに私が川から拾って来たことが、母などが直ぐ大工を呼んで立派なお堂を建てたらと言い出すごとに、ひどく反対させた。いまさら母の力を借りなくとも、私は私一個の力でこれを祭りたいと思っていた。私は私の神仏としてこれを庭の一隅に置きたかった。誰人の指のふれるのをも好まなかった。
隣家に飴屋があった。そこの米ちゃんという子は庭がなかった。私はその少年をよく庭へ入れて遊んだ。私はこの友達と磧から石を運んだり、砂を持ち込んだりした。私はだんだん大仕掛けに建てて行った。一つのものが殖えれば、もっと別な神聖なものが欲しくなって来た。私は町へ出て三宝や器物や花筒や燭台を購って来た。
姉は毎日ごはんのお供物をした。私は長い庭の敷石をつたわりながら、朝のすずしい木のかげに白い湯気のあがるお供米を捧げてきてくれるのを見ると、私は涙ぐみたいほど嬉しく神神しくさえ感じた。
「姉さん。ありがとう。」
私はあつく感謝した。私のいろいろな仕事を見ている姉は、いつも清い美しい目をしていた。「姉さんの目はなんて今朝はきれいなんだろう。」と心でかんじながら、私は花をかえたりしていた。
私は益益ひどく一人ぼっちになった。学校へ行っていても、みんなが馬鹿のようになって見えた。「あいつらは私のような仕事をしていない。信仰をしらない。」と、みんなとは特別な世界にもっと別様な空気を吸っているもののように思っていた。先生を尊敬する心には元よりなっていなかった。あの酷い生涯忘れることのできない目にあってからの私は、いつも冷然とした高慢の内に、絶え間もない忍辱に虐げられたあの日を目の前にして、心を砕いて勉強していた。私が成人した後に私が受けたよりも数倍な大きい苦しみを彼らに与えてやろう。かれらの現在とはもっと上に位した総ての点に優越した勝利者になって見かえしてやろうと考えていた。
私はあの意地のわるい学友らは、もはや私の問題ではなくなっていた。全然、あの喧嘩や小競争が馬鹿馬鹿しいのみならず、その対手をしていることが最早私に不愉快であった。
明治三十三年の夏、私は十一歳になっていた。
私の母が父の死後、なぜ慌しい追放のために行方不明になったのか。しかも誰一人としてその行方を知るものがなかったのかということは、私には三年後にはもう解っていた。あの越中から越してきた父の弟なる人が、私の母が単に小間使であったという理由から、殆んど一枚の着物も持ちものも与えずに追放してしまったのであった。この惨めな心でどうして私に会うことができたろうか。彼女はもはや最愛の私にもあわないで、しかも誰人にも知らさずに、しかもその生死さえも解らなかったのである。
私は母を求めた。私があの小さな寺院建立の実行や決心や仕事のひまひまには、いつも行方のしれない母のために、「どうか幸福で健康でいらっしゃいますように。」と祈ったのであった。この全世界にとっては宿のなかったあの悲しい母の昨日にくらべて変り果てた姿は、どんなに苦しかっただろうと、私はじっと空をみつめては泣いていた。私がもっと成人して全世界を向うに廻しても、私の母の悲しみ苦しみを弔うためには、私は身を粉にしても関わないとさえ思っていた。私は母を追い出したという父の弟らしい人に裏町であったとき、私は一種の狂気的な深い怨恨のために跳りかかろうとさえ思ったのであった。私があのとき、その弟の人を殺そうとさえ日夜空想したことは、決して嘘ではなかった。私はただかれを睨んだ。その中に私は凡ての複雑な感情の激怒によって、呪わるべく値せられた下卑な人間を憎悪した。
私があのいたみ易い目をして、どんなに母の容貌を描いてそれと語ることと空想することを楽しみにしていたか! 私は人のない庭や町中で、小声で母の名を呼ぶことさえあった。しかも永久に会うことのできない母の名を──。
私は「そうだ。人間は決して二人の母を持つ理由はない。」と考えていた。そんなとき、現在の母を忌忌しく冷たく憎んだ。私は一方には済まないと思いながら、それらの思念に領されるとき、私は理由なく母に冷たい瞳を交したのであった。
「姉さん。僕の母は──。」
私は時時言ったものだ。姉は思いやりの深い目で、そんなとき、いつもするように私を優しく抱きながら、
「どこかで仕合せになっていらっしゃいますよ。そんなことをこれから言わないで頂戴。」と言ってくれた。
「何処なんだ。」
私はすぐに烈しく昂奮した。何者にもたえがたい激怒は、母のことになると最も信頼していた姉にまで及んだ。
「そんなこわい顔をしては厭。」
「僕の顔はコワいんだ。」
私は姉から離れた。こんなときは、姉でも私の心を知ってくれないように、生ぬるい感じのもとに怒りをかんじた。もう姉さんなんぞはいても居なくても、また、愛してくれても呉れなくてもいいとさえ思っていた。世界じゅうが私を不幸にするように思って、私は益益深く怒るのであった。
「姉さんに僕の心がわかるものか。」
私はすぐ表へ駈け出すのであった。たった一人の友であるものから離れて、ひとり裏町や空地などを歩いていた私には、木やそのみどりも人家も別なものに思われた。何も彼も冷たく悲しかった。
そんなときは、何にも言わない白が尾いて来た。そして彼がみな解っているような悲しい顔をしていた。──私は母とあの広い庭へ出て茶摘みをしたり、庭で父と三人でお菓子をたべたりしたことが思い出された。初夏の風はいつも若葉の匂いをまぜて吹いていた。私は小さな顔をかしげるようにして、父と母の顔を半分ずつに眺めていた。隔たりのない総ての親密さが私達親子の上にあった。そんなとき、シロも傍の草のなかにねむっていた。
「お前はいったい成人して何になるか。」
父はよく笑顔でたずねた。
私はだまってにこにこしていた。
「さあ、この子は考えることが上手だから必然先生にでもなるかもしれない。──ね。お前そう思わないかい。」と母は言った。
「僕なにになるか分らないんだ。何かこう偉い人になりたいなあ。」
私は本当に何になっていいか分らなかった。
「そうだ。ともかくも偉い人間になれ。その心掛けが一番いいんだ。」
「そうね。それがいい。」と母も言った。
私も目的のない漠然とした意志のもとに、ともかくも「偉い人」になりたいと思っていた。しかし軍人のきらいだった私は、それ以外に偉い人になりたいと思っていた。
「さあ。もうすこしで摘んでしまえるんだから、やって仕舞おう。」
「ええ。」
こうして父と母とは茶畠の中へ、あの美しい芳しい若芽をつみに行った。私はひとりで木の蔭にシロと巫山戯ていた──。
私はこの平和な心を今歩きながら感じた。そして、今総てがなくなっていた。私は何も彼も無くなっていた。私は元気づいて前方を馳ってゆく白を悲しそうに見た。「あれだけが生きている。あれがみな知っている。」と思った。「あれがもし話ができたら、よく私を慰めてくれるに違いない。」と思った。
私は廻り歩いて郊外の慈恵院の前にでた。そこには、親のない子が沢山に集まっていた。ちょうど、内の仕事の時らしく、一人の監督に連れられて、燐寸の棒を葭簀にならべて日光に乾していた。私と同じ年頃の少年らは、みな規則正しい手なれた運び方をして、一と掴みずつ簀の上に棒をならべていた。棒のさきには薬品がくろく塗られてあった。
私は静かに眺めていた。みな血色がわるくて蒼いむくんだような顔をしていた。「私と同じい親のない少年だ。私もああして働かなければならなかったのだ。私にああいうことが出来るだろうか。」と考えた。あの冷たそうな監督の顔が私には不快であった。そして、この院内から匂うてくる一種の嘔き気を催す臭気はたまらないほど、私の胸をむかむかさせた。「私がここへ来ても駄目だ。私は追放されるに定っている。」そして私のゆくところはやはり今の家庭より外にはないのだ。
この哀れな少年のなかに目の大きな青い顔をした、しかし何処かに品のある美しい顔が目についた。私は何心なくこの少年に惹きつけられた。私はじっと見詰めた。かれもじっと見ていた。私はかれの悩んでいるのが分るような気がした。弱いけれど絶えず淋しそうに大きく瞠る癖のある目、私はこの少年と遊んで慰めてやりたい気がした。きっとこの少年は私と遊ぶことを喜ぶにちがいないと思った。あの目の光はいま私を求めているのだ。私と話しすることに憧れているのだ。私は眼で微笑した。かれも燐寸をならべながら微笑した。私の微笑が冷笑にとられはすまいかと不安に思ったが、かれは、そう悪くはとらなかったのが嬉しかった。
私の地蔵堂は日を経るに順って立派になった。私は何処へ遊びに行くということもせずに、いつも庭へ出ていた。
垣越しに隣の寺に、年老った和尚さんが庭掃除をしていられるのが見えた。私はていねいに挨拶をした。和尚さんは垣のそばへやって来て言った。
「なかなか立派なお堂が出来ましたね。」
私は裏木戸をあけて、
「這入って御覧なすって下さいまし。」
「では拝見致しましょうか。」
和尚さんが這入って来た。そして堂のところを見まわして、
「なかなかお上手だ。」と言った。
それから和尚さんは袂から珠数を出して、合掌しながら小声で、地蔵経をよみはじめた。まるで枯れきった渋い声でうっとりするような美しいリズムを持った声であった。私はあとで、この地蔵さんを川から拾い上げて来たことなどを話した。
和尚さんは、地蔵さんの縁起について色色話してくれた。堂のところに、この小柄な坊さんは跼んで、いろいろな話をしてくれた。
「人間は何でも自分で善いと思ったことはした方がよい。よいと思ったことに決して悪いことはない。」
和尚さんが帰ると、私はふとこの地蔵さんを寺の方へあげたいと思った。私は姉に相談した。
姉はすぐ賛成した。
「そりゃいいわ。あの和尚さんはきっとお喜びになるわ。」
「じゃ姉さんからお母さんに言って下さい。」
「え。今から言ってあげる。」
姉は母に相談した。母もそれがよいと言ってくれた。かえって、俗家に置くよりも、もとは川の中にあったのだから、お寺へあげた方がよいということになった。
和尚さんも喜んでくれた。
お寺では吉日を選んで供養をしてくれた。私が施主であった。川の中に棄てられてあった地蔵さんは、いまは立派な御堂のなかに、しかも鐸鈴まで添えられて祠り込まれた。私は嬉しかった。
私はそれを機会としてお寺へ遊びに行くようになった。和尚さんは子供がなかったので、私をむやみに可愛がってくれた。私が学校からの帰りが遅いと、よく私の家へ来られた。
「まだ帰りませんかね。」
などと姉にたずねていた。
そういうとき、私はすぐにお寺へ、学校の道具を投げ出すと飛んで行った。
「和尚さんただいま。」
私は和尚さんの炉のよこへ坐った。
「よく来たの。いまちょいと迎えに行ったところだった。」
和尚さんは、いろいろ菓子などをくれた。それから古い仮名のついた弘法大師の朱色の表紙をした伝記などを貰った。
和尚さんは優しい人であった。いつも善良な微笑をうかべてお茶をのんだり、暦を繰ったりしていた。
私はだんだん慣れると、奥の院の涼しい書院へ行って、学校の書物をよんだり、または、つい涼しいまぎれにうとうとと少年らしい短い鼾を立てたりしていた。和尚さんは私の我儘を許すばかりでなく、心から私を愛しているらしかった。
ある日のことであった。
「あんたはここのお寺のものになるのは厭か。」と言った。
「来たっていいけれど、坊さんになるのはいやです。和尚さんの子になるのならいいけれど。」
「坊さんにならなくともよろしい。では厭ではないんだね。」
「え。喜んで来ます。お母さんがどう言うか知りませんが。」
「わしからお母さんにはお話する。」
この話があってから、私は母に呼ばれた。そしてお寺に行く気かとたずねられた。私はぜひ行きたいと思っていると言った。お寺にゆけば何も彼も私は心から清い、そして、あの不幸な母のためにも心ひそかに祈れると思ったからである。私がお寺に起居するということだけでも、私は母に孝をつくしているような気がするのであった。
坊さんにはしない条件で私はいよいよ寺の方へ養子にゆくことになった。姉は悲しんだが、すぐ隣家だったので、いつでも会えると言って諦めた。
私の着物や書物はお寺に運ばれた。式も済んだ。そして私は涼しいお寺の奥の院で生活をするようになった。私は寺から学校へ通っていた。
私の目にふれた色色な仏像や仏画、朝夕に鳴る鐸鈴の厳かな音色、それから彼処此処に点されたお燈明などに、これまでとは別な清まった心になることを感じるのであった。静かに私は時時姉にも会った。
「まあおとなしくなったのね。」と姉は言っていた。
「あたしお地蔵様にお詣りに来たの。あなたもゆかない。」
「行きましょう。」
私達姉弟は、境内の私の地蔵さんにおまいりをした。いつも新しい供物があがっていて、清潔ですがすがしかった。
「どこか坊さんみたいね。だんだん其麽気がするの。」
姉は言って笑った。
「そうかなあ。やっぱりお寺にいるからなんだね。」
私達は書院へかえると、父が出て来た。新しい父は、茶と菓子とを運ばせた。
書院はすぐ本堂の裏になっていた。
「そうして二人揃っていると、わしも子供のときを想い出す。子供のときは何を見ても楽しいものじゃ。」
父はこう言いながらお菓子をとって、
「さあ一つあがりなさい。」と、姉にすすめた。
私達三人は、うしろの川の上を渡る風に吹かれながらお茶をのんだ。
「お父さんはお茶がたいへん好きなの。」
私は姉に言った。父はにこにこしていた。
私のお寺の生活がだんだん慣れるにしたがって、私は心からのびやかに幸福にくらしていた。
私は本堂へ行って見たり、本堂を囲う廊下の絵馬を見たり、いろいろな起誓文を封じ込んだ額を見あげたりしていた。私の室は、私の静かさと清潔とを好む性癖によく適っていて、庭には葉蘭がたくさんに繁っていた。庫裏には大きな暗い榎の大樹があって、秋も深くなると、小粒な実が屋根の上を叩いておちた。
お寺には絶えずお客があった。客はたいがい信者であった。同年輩の子供をつれて来た人は、いつも私に紹介した。父は、私を自慢していた。その信者の一人で、下町の方に商いしている家の娘でお孝さんというのがあった。
その子はおばあさんに連れられてくると、いきなり父にとりすがって、
「照さんがいらしって──。」と言うのであった。
「います。さあ行っていらっしゃい。」
そのお孝さんはいつも私の室へ飛び込むように入って来た。九つになったばかりの娘であった。
私はいつも絵をかかされていた。
「もう一枚かいて下さいな。」
せがまれると、私はいつも拙い絵をかかなければならなかった。
「姉さんを呼んでいらっしゃいな。一しょに行きましょうか。」
「そうしよう。」
私達は庭の木戸から、三ツ葉や雪の下の生えている敷石づたいに、よく隣の姉さんを呼びに行った。姉さんと三人でいつも庭で遊ぶのであった。
柿の若葉のかげは涼しい風を通していて、その根許へしゃがんで話すのであった。私は姉とお孝さんとに挟まれていた。姉はいつも私の手をいじくる癖があった。
「お寺がいい? お家がいい?」
などと姉がたずねた。
「お寺もおうちも何方もいいの。でも両方にいるような気がするの。」
私は実際そんな気がしていた。一日に幾度も行ったり来たりしていたから。
「そうでしょうね。」
姉も同感した。
「でもね姉さん。晩はコワくてこまるの。誰も起きていないのに本堂で鐸が鳴るんだもの。お父さんにきくと、鼠がふざけて尾で鐸を叩くんだって──。」
「まあ。そう。」
お孝さんがコワそうにいう。
お孝さんは、ときどき面白いことを言った。
「あのね、姉さんがお好き。あたしをお好き。どっちなの。」
などと姉を笑わせることがあった。
「みんな好き。」
などと三人は、本堂裏の方へ遊びに行った。そこはすぐ石垣の下が犀川になっていて、楓の老木や茨が繁っていた。姉さんは、大きかったので、その細い危い本堂裏へは行けなかった。
「あぶないからお止しなさい。」と姉は言った。けれども私はそこへは行かれる自信があった。
「わたしも行くわ。行かれてよ。」
お孝さんが茨を分けて行こうとした。姉はびっくりした。
「いけませんよ。落ちたら大変だからおよしなさい。」
勝気なお孝さんはきかなかった。
「大丈夫なのよ姉さん。」
石垣の下は蒼い淵になって、その渦巻いた水面は永く見ていると、目まいを感じるほど気味悪くどんよりと、まるで底から何者かがいて引入れそうであった。
私も危ないと思った。
「いけない。此処へ来ちゃ。」
彼女は楓の根許をつたって、とうとう本堂の側面の裏へ出た。
「あたし平気だわ。あんなところは。」
私はからだが冷たくなるほど驚いたが、案外なので安心をした。
ここから姉のいるところは見えなかった。この堂裏にはいろいろな絵馬額のコワれたのや、提灯の破れたのや、土製の天狗の面や、お花の束や、古い埃で白くなった材木などが積まれてあった。
冷たい腐ったような落葉の匂いがこもっていた。
「あのね。さっきのね。あたしがすきか、おねえさんが好きかどっちが好きか、はっきり言って頂戴。どっちも好きじゃいやよ。」
私はびっくりしてお孝さんの顔を見た。お孝さんは泣き出しそうなほど真面目な顔をしていた。小さい額に小まちゃくれた皺をよせて、私の顔を仰ぎ見ていた。
「お孝さんが好きだ。ねえさんには内しょだよ。」
「ほんとう。」
「本当なの。」
「まあ嬉しい。あたし気にかかってしようがなかったの。」と神経的に言う。
私はお孝さんと姉とは別々に考えていた。お孝さんには、姉さんと異ったものがあった。つまり「可愛さ」があって姉さんにはかえって「可愛がられたさ」があった。
「あたしね。もうずっとさきから問おうと思っていたの。」
「そう。じゃお孝さんは僕の一番仲よしになって貰うんだ。いいの。」
「いいわ。一番仲宜しよ。」
そのとき姉の高い声がしていた。呼んでいるらしかった。私も大声で応えた。
私達は助け合って、姉のいるところへ行った。
「まあ私ほんとに心配したよ。何していたの。」
「絵馬の古いのや、天狗の面などどっさりあったの。おもしろかったわ。」と、お孝さんが言った。
私はすこし気まりがわるかった。姉が何も彼も知っていはすまいかという不安が、ともすれば私の顔を赧めようとした。けれども姉は何もしらなかった。
「私どうしようかと思っていたの。これからあんな恐いとこへ行かないでいて頂戴。」と姉は私にいった。
「これからは行かない。」と誓った。
「お孝さんもよ。」と姉は注意した。
「わたしも行きませんわ。」と誓った。
私達はそれから三ツ葉を摘みはじめた。あの芳ばしい春から二番芽の三ツ葉は、庭一面に生えていた。
姉が籠をもって来た。
庭は広く色色な植込みの日向の柔らかい地には、こんもりと太く肥えた三ツ葉がしげっていた。
「これを照さんの父さんに上げましょうね。」と姉はお孝さんに相談した。
「そりゃいいわ。きっとお喜びなさるわ。」
三人は一時間ばかりして、大きな籠に一杯三ツ葉を摘んだ。
寺の縁側では、お孝さんのおばあさんと父とがお茶をのんでいた。
「今日は。」
私はあいさつをした。おばあさんもあいさつをした。
「これをね。みんなして摘みましたの。で持って来ました。」
「どうもありがとう。たいへんよい三ツ葉ですね。」と父が言った。おばあさんも褒めた。
私達は縁側で休んだ。
おばあさんが、
「御姉弟ですね。たいへんよく似ていらっしゃる。」と言った。父は、
「そうです。」と言った。
私は姉と顔を見合せて微笑した。実際は私は姉とは似ていなかった。別別な母をもっている二人は、似ている道理はなかった。私はこんなとき、いつも人知れず寂しい心になるのであった。普通の姉弟よりも仲の睦じい私どもに異った血が流れているかと思うと、姉との間を断ち切られたような気がするのであった。
おばあさん等もかえったあとで、私は一人で室にこもって、ひどく陰気になっていた。父は、
「顔のいろがよくないがどうかしたのかな。」
「いえ。何でもないんです。」
と、私はやはり「ほんとの姉弟でない。」ことを考え込んでいた。一つ一つ話の端にも、私はいつも心を刺されるものを感じる弱さを持っていたために、ときどき酷く滅入り込むのであった。心はまたあの行方不明になった母を捜りはじめた。「いつ会えるだろうか。」「とても会えないだろうか。」という心は、いつも「きっと会うときがあるにちがいない。」というはかない望みを持つようになるのであった。
この寺にきてから、私は自分の心が次第に父の愛や、寺院という全精神の清浄さによって、寂しかったけれど、私の本当の心に触れ慰めてくれるものがあった。
私はよく深く考え込んだ挙句、人の見ない時、父にかくれて本堂に上ってゆくのであった。暗い内陣は金や銀をちりばめた仏像が暗い内部のあかりに、または、かすかなお燈明の光に厳かに照らされてあるのを見た。そして私は永い間合掌して祈願していた。「もし母が生きているならば幸福でいるように。」と祈っていた。がらんとして大きな圧しつけて来るような本堂の一隅に、私はまるで一疋の蟻のように小さく坐って合掌していた。私は人人の遊びざかりの少年期をこうした悲しみに閉されながら、一日一日と送っていた。
秋になると栂の実が、まるで松笠のように枝の間に挟まれて出来た。だんだん熟れると丁度鳶の立っているようになって、一枚一枚風に吹かれるのであった。遠くは四、五町も飛び吹かれた。
それを拾うとまるで鳶の形した、乾いた茜いろした面白いものであった。私もよく庭へ出て拾ったものだ。秋になるとすぐに解るのは、上流の磧の草むらが茜に焦げ出して、北方の白山山脈がすぐに白くなって見えた。
寺の庭には湧くようなこおろぎが、どうかすると午後にでも啼いていた。ある日、私は本堂の階段に腰かけてぼんやり虫をきいていた。門から姉がはいってきた。
「なにしているの。ぼんやりして。」
姉はいそいそしていた。何か昂奮しているらしかった。
「何だか寂しくなってぼんやりしているんだ。ほら、ひいひいと虫がないているだろう。──」
「そうね。虫はおひるまでも啼くんだね。」
姉も階段にこしをかけた。
ふいとおしろいの匂いがした。いつも、おしろいなどつけない姉には珍らしいことだと思った。
「あたしね。またおよめにゆくかもしれないの。」
私はびっくりした。
「どこへゆくんです。」
「よく分らないんだけれど、お母さんがきめてしまったんだから、行かなければならないわ。」
「その人を知っているの。」
「知らない──。」
「知らないひとのとこへ行くなんておかしいなあ。いつか姉さんがもっていた手紙の人だろう。」
「いいえ。」
姉は赤い顔をした。そして急に声までが変った。
「あたし嫁きたくないんだけれど……。」
姉は黙って涙ぐんだ。気の弱い優柔な姉のことだから、きっと、母のいうところならどういう処へでもゆくにちがいない。そして私ひとりになってしまうのは何という寂しいことだろう。
「いやだったらお母さんに断ったらいいでしょう。いやだって──。」
「そんなことあたしには言えないの。どうでもいいわ。」
姉は投げるようにいう。
私は姉が可哀想になった。
「僕が言ってあげようか。姉さんは嫁くことがいやだって──。」
「そんなこと言っちゃいやよ。本当にいわないで下さい。あたしかえって叱られるから。」
「じゃやっぱり嫁きたいんだろう。」
私は妬ましいような、腹立たしく性短にこういうと、姉さんはいやな顔をした。
「あなたまでいじめるのね。あたし、ゆきたくないってあんなに言っているじゃないの。」
「だっていやじゃないんでしょう。」と、斬り込むと、
「しかたがないわ。みな運命だわ。」
私は黙った。いやだけれど行くという、はっきりしない姉の心をどうすることもできなかった。
「じゃゆくのね。」
「たいがいね。」
私は寺の廊下屋根越しにお神明さんの欅の森を眺めていた。姉が行ってしまっては、友だちのない私はどんなに話対手に不自由するのみではなく、どんなにがっかりして毎日鬱ぎ込んだ淋しい日を送らなければならないだろう。姉は私にとって母であり父でもあった。私の魂をなぐさめてくれる一人の肉身でもあったのだ。
私はそっと姉の横顔をみた。ほつれ毛のなびいた白い頸──私が七つのころから毎日実の弟のように愛してくれたんだ。
「でもね。ときどきあなたには会いにきてよ。」
「僕の方からだといけないかしら。」
「来たっていいわ。会えればいいでしょう。きっと会えるわね。」
私は階段を下りて、庭へでた。姉は隣へかえった。
私は書院へかえると、父には黙っておいた。私は「少年世界」をひらいたり読んだりしていたが、姉が今にも行きそうな気がしてならなかった。私は庭へ出た。見るものがみな悲しく、末枯れの下葉をそよがせていたばかりでなく、川から吹く風が沁みて寒かった。
座敷から父が、
「きょうは寒いから風邪をひくといけないから家へ這入ってお出。」と言った。
親切な父の言葉どおりに家へ入った。
私はだんだん自分の親しいものが、この世界から奪られてゆくのを感じた。しまいに魂までが裸にされるような寒さを今は自分の総ての感覚にさえかんじていた。
四、五日して姉の嫁くことが決定した。
その日の午後、姉は晴衣を着て母とともに二台の車にのった。
私は玄関でじっと姉の顔を見た。姉は濃い化粧のために見違えるほど美しかった。そわそわと心も宙にあるように昂奮していた。
「ちょいと来て──。」と姉は呼んだ。
私は車近くへ行った。
「そのうちに会いにきますから待っていてくださいな。それからおとなしくしてね。」
姉は涙ぐんだ。
「では行っていらっしゃい。」
私はやっとこれだけのことが言えた。胸も心も何かしら圧しつけられたような一杯な悲しみに迫られていた。
「ではさよなら。」
言い交すと、車が動いた。はじめは静かに動いて、こんどは車の輪が烈しく廻り出した。姉はふりかえった。車がだんだん小さくなって、ふいと横町へ曲った。私はそれを永く永く見つめていた。横町へまがってしまったのに、まだ車が走っているような幻影が、私をして永く佇たせた。私は涙ぐんだ。あの優しい姉もとうとう私から離れて行ってしまったかと、私はすごすごと寂しい寺の書院へかえりかかった。
私は姉がいなくなってから、短い冬の日の毎日雪にふりこめられた書院で、父のそばへ行ったり縁側に上げてやったシロを対手に淋しくくらしていた。二週間もたったあとにも姉は訪ねて来てくれなかった。短い葉書が一枚来たきりであった。
別にお変りもないことと思います。姉さんは毎日忙しくて外へなど未だ一度も出たことがありませんので、あなたのところへも当分行けそうに思われません。姉さんはやはりいつまでも、おうちにいればよかったと毎日そう思って、照さんのことをかんがえます。照さんは男でしあわせです。そのうち会ったときいろいろお話しします。
と書いてあった。私はこの葉書を大切によごれないように、机の引出しの奥にしまっておいた。姉のことを考えたり会いたくなったりしたとき、私はこれを出して凝然と姉のやさしい顔や言葉に触れるような思いをして楽しんでいた。
私はときどき隣の母の家へ行くと、きっと姉の室へ這入って見なければ気が済まなかった。いつも黙って、静かにお針をしている傍に寝そべっていた私自身の姿をも、其処では姉の姿と一しょに思い浮べることが出来るのであった。その室には、いつも姉のそばへよると一種の匂いがしたように、何かしら懐かしい温かな姉のからだから沁みでるような匂いが、姉のいなくなったこの頃でも、室の中にふわりと花の香のように漂うていた。私は室じゅうを見廻したり、ときには、小箪笥の上にある色色な菓子折のからに収ってある布類や、香水のから罎などを取り出して眺めていた。何故かしれない不思議な、悪い事をしたときのような胸さわぎが、姉の文庫の中を捜ったりするときに、ドキドキとしてくるのであった。
姉はさんごの玉や、かんざし、耳かき、こわれたピンなどを入れておいた箱を忘れて行ったのが、これだけがちゃんと置いてあった。私はそういう姉の使用物をみるごとに、姉恋しさを募らせた。
私はある日、雪晴れのした道路をシロをつれて、いそいで行った。私はひそかに姉の嫁った家の前を通りたいためでもあった。川べりの前栽に植え込のある、役員の住みそうな家であった。
二階は障子がしまってあった。家じゅうがしずかでしんみりしていて、姉の声すらしなかった。私は、わざと犬にワンワン吠えさせたりした。それでも姉が留守なのか、一向人の出てくるけはいがしなかった。私は、なお強く犬を啼かせた。二階の障子が開いた。そして姉の顔があらわれた。
姉は「まあ!」と口籠るように吃驚して、手まねで今そこへゆくからと言った。シロは永く見なかった姉の顔を見ると、急に元気づいて前足を折って巫山戯るようにして高く高く吠えた。
姉は出てきた。
「まあ、よく来たのね。すっかり忙しくてね。ごめんなさいよ。」
私は姉の顔を見ると、もう涙ぐんでじっと見詰めた。姉はすこし瘠せて青ざめたような、乾いた顔をしていた。
「僕、来てはわるかったかしら。」
「いえ。わるくはないけど、お母さんからまたつまらないことを言われるといけないから、こんどから来るんじゃないのよ。きっとそのうち姉さんが行くからね。」
「きっとね。」
「え。きっと行きますとも、シロはまあ嬉しそうにして──。」
シロは姉の裾をくわえて、久しく見なかった主人にじゃれついていた。
「じゃ僕かえろう。」
私はこんなところで姉と話しているのを家の人に見られると、姉があとで困るだろうと思って、帰りかかった。
「そうおかえり? また今度姉さんが行きますからね。それまでおとなしくして待っていて下さいな。」
「いつごろ来てくれるの。」
「そりゃまだ分らないけれどもきっと行きますわ。誓ってよ。指切をしましょうね。」
姉は私の手をとった。
私はにっこりしてあたりを見廻した。誰か見てはいはしないだろうかと、しきりに懸念された。
姉は、ずっとむかし子供の時にやったように、小指と小指とをお互いに輪につくって、両方で引き合うのであった。
この子供らしい冗談のような些事ではあったが、何かしら私ら姉弟にとって神聖な信ずべき誓いのように思われていた。
「じゃ、さよなら。」
と私は姉のそばをはなれた。
「道草をしないでおかえりなさいな。」
「ええ。」
私は川岸のはだらに消えかかった道を行った。片側町なので誰も通らなかった。私は「いまから姉はどうして晩までくらすのだろう。何か面白いことでもあるのだろうか。」などと考えていた。家にいるときよりいくらか瘠せたのも私にはよく感じられた。私は嫁というものは単に生活を食事の方にのみ勤むべきものであろうかなどと、悩ましく考え歩いていた。
北国の冬の日没ごろは、油売の鈴や、雪が泥まみれにぬかった道や、忙しげに往き交う人人の間に、いつもものの底まで徹る冷たさ寒さをもった風が吹いて、一つとして温かみのないうちに暮れてゆくのであった。
私は寺へかえると、夜は父と、茶の湯の炉に強い火を起して対い合って坐っていた。父は何をするということなしに、茶をのんだり暦をくったりして一と晩を送るのであった。
父はよく柚味噌をつくったりした。柚釜の中を沸沸と煮える味噌の匂いを懐かしがりながら、私はいつも父の手伝いをしていた。境内の大きな栂に寒い風が轟々と鳴るような晩や、さらさらと障子をなでてゆく笹雪のふる夜など、ことに父と二人で静かにいろいろな話をしてもらうことが好きであった。
もはや姉に親しもうとしても、遠くへ行ってしまった後は、父と寂しい話などをきくより外はしかたがなかった。
父が初めてこの寺へきたときは、この寺が小さな辻堂にすぎなかったことや、夜、よく獺がうしろの川で鮭をとりそこなったりして夜中に水音を立てたということなどを聞いた。
父はよく言った。
「姉さんがいなくなってから、お前はたいへん寂しそうにしているね。」
「ええ。」
父はよく私の心を見ぬいたように、そんなときは一層やさしく撫でるように慰めてくれるのであった。
「さあ、休みなさい。かなり遅いから。」と、いつも床へつかすのであった。
私は佗しい行燈のしたで、姉のことを考えたり、母のことを思い出したりしながら、いつまでも大きな目をあけていることがあった。うしろの川の瀬の音と夜風とが、しずかに私の枕のそばまで聞えた。
私の十三の冬はもう暮れかかっていた。
底本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年1月25日第1刷発行
2003(平成15)年11月14日改版第1刷発行
2005(平成17)年12月15日第3刷発行
底本の親本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年1月刊
入力:辻朔実
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年12月7日作成
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