楽器の生命
小川未明
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音楽というものは、いったい悲しい感じを人々の心に与えるものです。いい楽器になればなるほど、その細かな波動が、いっそう鋭く魂に食い入るように、ますます悲しい感じをそそるのであります。そして、奏でる人が、名手になればなるほど、堪えがたい思いがされるのでした。
愉快な楽器があったら、どんなに人々がなぐさめられるであろうと、ある無名な音楽家は考えました。
その人は、どうしたら、愉快な音が出るかと、いろいろに苦心をこらしたのです。そして、笛や、琴のような、単純な楽器では、どうすることもできないけれど、オルガンのように、複雑な楽器になったら、なんとかして、その目的が達せられは、しないかということを考えたのです。
彼は、日夜、いい音色が出て、しかも、それがなんともいえない愉快な音であるには、どうしたら、そう造られるかということに研究を積んだのであります。彼は、最初、純金の細い線でためしました。しかし、その音色は、あまりに澄んで、冴えきっています。つぎに、金と銀と混じて細い線を造りました。これは、また、調子が高いばかりで、愉快な音ということができませんでした。
それから、幾たびも失敗して、長い間かかって、やっと、彼は、鉄と銀とを混合することによって、ついに、愉快な音色を出すことに成功しました。
彼は、この鉄と銀とからできた、一筋の線をオルガンの中に仕掛けました。すると、このオルガンは、だれがきいても、それは、愉快な音が出たのであります。
心を愉快にする、たとえば、いままで沈んでいたものが、その音を聞くと、陽気になるということは、たしかに、いままでの音楽とは、反対のことでした。これなら、どんな神経質な子供に聞かせても、また、気持ちのつねに滅入る病人が聞いても、さしつかえないということになりました。
けれど、ただ一つ困ることには、こうしたオルガンは、たくさん造られないことです。ただ一つの機械にはされなかったので、鉄と銀とで、できた一筋の線は、この音楽家の手で鍛えられるよりは、ほかに、だれも造ることができなかったからです。それは、火の加減にあったとばかりいうことはできません。まったく、この人の創作であったからであります。
ある日、金持ちのお嬢さんは、外国の雑誌でこのオルガンの広告を見ました。
無名の音楽家は、このりっぱな発明によって、すでに有名になっていました。そして、その人の手で造られた、オルガンは、ひじょうな高価のものでありました。
お嬢さんは、病気のため海岸へ保養にいっていました。そして、そこで、この広告を見たのであります。
それでなくてさえ気が沈んで、さびしいのを、毎日、波の音を聞き、風の並木にあたる音を聞くと、いっそう気持ちが滅入るのでした。それは、けっして、病気にとっていいことでありませんでした。
お嬢さんは、音楽が好きでしたから、こんなときに、バイオリンか、琴が弾いてみたいと思いましたが、医者は、かえって、神経を興奮させてよくないだろうといって、許さなかったのです。その医者は、音楽と神経の関係をば、かなり深く心得ていたからでありましょう。
「ここに、こういう心を愉快にする、オルガンがありますよ。」と、お嬢さんは、雑誌の広告を、まだそう年寄りでない医者に見せました。
医者は、黙って、しばらくそれを見ていましたが、驚いたというふうで、
「お嬢さん、もしこれがほんとうなら、音楽界の革命です。」といいました。
お嬢さんの顔は、青白くて、目は、澄んでいました。その目で、じっとこちらを見て、
「そうした革命はあり得ることです。なんで私たちが、それを信じてはならないというはずがありましょう。」と、お嬢さんは、答えました。
「いやまったく、それにちがいありません……。」と、医者は、いうよりしかたがなかった。
彼女は、高価な金を出して、そのオルガンをお父さんから買ってもらうことにしました。それほど、お嬢さんは、このオルガンに憧れました。海を望みながら、はるか、異国の空の下で、この愉快な音を出す楽器が、何人かによって奏でられたり、また、この楽器が鳴りひびく夜が、ちょうどいい月夜で、街の中を歩いている人たちが、歩みをとめて、しばらく、そばの建物の中からもれる、オルガンの音色に聞きとれている有り様などを想像せずにはいられなかったのであります。
あちらの国から、オルガンが着きましたときに、お嬢さんは、どんなに喜んだでありましょう。それから、毎日、毎夜、オルガンを鳴らしていました。
それは、ほんとうに、愉快な音色でありました。ちょうど、柔らかな土を破って、芽がもえ出るような喜びを、きく人の心に与えました。
浜の人たちは、このオルガンの音を聞いてから、夜も、うかれ心地になって、波打ちぎわをぶらぶら歩くようになりました。
「こんなに、魚が跳ねることは、めったにない。あのオルガンの音がするようになってからだ。」と、漁師で、いったものもありました。
お嬢さんは、病気ということを忘れて、夜もおそくまでオルガンを弾いていました。お父さんは、そのことを心配しました。そして、医者に、どうか注意してくれるようにと申されました。
医者は、たとえ、なんといっても、お嬢さんがいうことをきかないのを知っていましたから、当惑してしまいました。
「お嬢さん、夜、窓を開けて、そうして、いつまでも、オルガンをお鳴らしになるのは、いけません。」といいました。
「わたしは、あの波の音と、いま調子を合わせているのですよ。魚が、浮かれて跳ねると、浜の人たちはいっています。」と、お嬢さんは、怒りっぽい声で、音楽のほうに、気をとられていいました。
「いえ、お嬢さん、海の方から吹いてくる潮風で、オルガンがいたむからいったのです。」と、医者は、答えました。
彼女は、オルガンがいたむときいて、はじめてびっくりしました。
お嬢さんは、病気がよくならないで、とうとう死んでしまいました。そして、このオルガンは、この村の小学校へ寄付することになりました。
校長は、どんなに喜んだでしょう。また、音楽の教師は、どんなにこのオルガンを弾くのをうれしがったでしょう。
「みなさんは、この上等のオルガンに歩調を合わせて愉快に体操をすることもできれば、また、歌うこともできます。」と、先生は、生徒らに向かっていいました。
小学校は、小高いところにありました。学校の窓からは、よく紫色の海が見えました。窓の際には、オレンジの木があって、夏は、白い香りの高い花が咲きました。そして、秋から冬にかけては、真っ黄色に実が熟したのであります。
若い女の教師は、日が暮れるころまで、独り学校に残ってオルガンを鳴らしていることがありました。また、男の教師も、おそくまでこのオルガンを弾いていることがありました。オルガンの愉快な音色は、紫色の海の上までころげてゆきました。この楽器で体操や、唱歌をならった子供らは、いつしか大きくなって、娘たちは、お嫁さんになり、男は、りっぱに一人まえの百姓となりました。けれど、その人たちは、子供の時分にきいた、愉快なオルガンの音をいつまでも思い出したのであります。
長い年月の間に、学校の先生は、変わりました。けれど校長だけは、変わらずに、勤めていました。しかし、もう頭ははげて、ひげは白くなっています。
「みなさん、この学校のオルガンは、上等な品で、だれでも、この音をきいて、愉快にならないものはありません。みなさんも、毎日、このオルガンの音色のように、気持ちをさわやかに、この音色といっしょに歩調を合わし、また、勉強をしなければなりません。」と、校長は、生徒らを集めていったのです。
唱歌の先生は、校長のいったことを、まことにほんとうであると思っていましたが、小さな生徒らは、この学校のオルガンを、けっして、愉快な音の出るものだとは、信じていませんでした。
家に帰って、この話をお父さんや、お母さんにすると、「おお、学校のオルガンは、有名なもんだ。」と、感歎しましたが、しかし、子供たちは、どういうものか、そのオルガンを愉快とも、なんとも思っていませんでした。
これは、どうしたことでしょう?
もし、このオルガンを送った、年とった音楽家が、このオルガンの音色を聞いたら、すべてがわかることです。そして、きっとそのとき、つぎのようにいったでしょう。
「小さなものの耳は、たしかだ。ほんとうに、子供たちのいうとおり、このオルガンは、愉快な音がしない。こわれているからだ。しかし俺には、もう、それを新しく造るだけの気力がなくなった。このオルガンの役目は、これまでに十分果たしたはずだ……。」
鉄と銀とで造られた、一筋の線は長い間海の上から吹いてくる潮風のために、いつしかさびて、切れてしまったからです。たとえこの線は切れても、オルガンは鳴ったのでした。ただ、その証拠に、もはや、このオルガンの音色が海の上をころがっても、魚が、波間に跳ねるようなことはなかったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社
1977(昭和52)年2月10日第1刷
1977(昭和52)年C第2刷
底本の親本:「ある夜の星だち」イデア書院
1924(大正13)年11月20日発行
初出:「随筆」
1924(大正13)年4月
※表題は底本では、「楽器の生命」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:館野浩美
2019年1月29日作成
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