赤い船のお客
小川未明
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ある、うららかな日のことでありました。
二郎は、友だちもなく、ひとり往来を歩いていました。
この道を、おりおり、いろいろなふうをした旅人が通ります。
彼はさも珍しそうに、それらの人たちを見送ったのであります。
二郎は、こうして街道を歩いてゆく知らぬ人を見るのが好きでした。
さまざまなことを空想したり、考えたりしていると、独りでいてもそんなにさびしいとは思わなかったからです。
暖かな風が、どこからともなく吹いてくると、乾いた白い往来の上には、ほこりが立ちました。
まだ、おそ咲きのさくらの花が、こんもりと、黒ずんだ森の間から見えるのも、いずれも、なつかしいやるせないような気持ちがしたのであります。
その日も、二郎は独りあてもなく、街道を歩いていました。
車の音が、あちらへ夢のように消えてゆきます。
薬売りかなぞのように、箱をふろしきで包んで負った男が、下を向いて過ぎていってからは、だれも通りませんでした。
二郎は、寺の前の小さな橋のわきに立って、浅い流れのきらきらと日の光に照らされて、かがやきながら流れているのを、ぼんやりとながめていました。
彼はほんとうに、このときはさびしいと思っていたのであります。
ちょうど、このとき、奥深い寺の境内から、とぼとぼとおじいさんがつえをついて歩いて出てきました。
おじいさんは、白いひげをはやしていました。
二郎は、そのおじいさんを見ていますと、おじいさんは、二郎のわきへ近づいて、ゆき過ぎようとして二郎の頭をなでてくれました。
「いい子だな、独りでさびしいだろう。」と、おじいさんはいいました。
二郎は黙って、おじいさんの顔を見ていました。
おじいさんは、たもとの中から、短い笛を取り出しました。
「この笛を坊やにやるから、あちらの丘へいって吹いてごらん。これはいい音が出るよ。」といいました。
二郎はおじいさんから、その笛をもらいました。
おじいさんの顔は、いつも笑っているように柔和に見えました。
おじいさんは、あちらへつえをつきながらいってしまいました。
二郎はその笛を持って、あちらの砂山にゆきました。
このあたりは海岸で、丘には木というものがなかったのです。
砂の山が、うねうねとつづいていました。
そして、暖かな日なので、陽炎が立っていました。
沖の方を見ますと、青い青い海が笑っていました。
砂山の下には、波打ちぎわに岩があって、波のまにまにぬれて、日に光っていました。
そして、翼の白い海鳥が飛んでいました。
笛には、いくつかの小さな穴があいています。
その一つ一つの穴から、吹くと、ちがった音が出ました。
笛は短い赤と青とに、その色が塗り分けてありました。
大きな穴が一つ、小さな同じような穴が五つあいていました。
二郎がそれを吹きますと、なんともいうことのできないやさしい、いい音色が流れ出たのであります。
いい音色は、沖の方へ流れてゆきました。
また、うねうねとつづいた灰色の山を越してゆきました。
そして、沖の方へいった音色は、波の上をただよったのです。
また、砂山の上を越していった音色は、あちらの空に、円くうずくまっていた、こはく色の雲のあるところまでゆくように思われました。
海はますます穏やかに見えたのです。
そして日の光は、ますますうららかに輝いたのでした。
あくる日もまた、二郎は砂山の上へやってきました。
そして、熱心に笛を吹いていますと、一つ一つの穴から出るものは、影も形もない音ではなくて、たしかに、いろいろ奇妙な姿をした、一人一人の人間であるように思われました。
二郎は、目をつぶって笛を吹いていますと、それらの人たちが二郎の身のまわりを取りまいて、笑ったり、話をしたりしているように思われました。
二郎はふいに目を開いて、その人たちがどんなようすをしたり顔つきをしているか、自分が、たいてい想像したとおりであるかと、見定めようといたしました。
そして目を開けますと、なにもかも消えてしまって、ただ砂山に、日がぽかぽかとあたっているばかりでありました。
このとき、二郎は、ふと沖の方を見ますと、そこにはわき出たように、赤い船が青い海の波間に浮かんでいたのであります。
二郎は、お伽話にでもあるように、美しい船だと思いました。
そして、どこからこんな船が、このさびしい港にやってきたのだろう……と、それを、不思議に思いました。
二郎は、また、砂山の下を、顔まで半分隠れそうに、帽子を目深にかぶって、洋服を着た人が、歩いているのを見ました。
そして、しばらくすると、赤い船の姿はうすれ、洋服を着た人の姿もうすれてしまいました。
二郎は、まるで夢を見ているような心地がされたのでした。
ふたたび目をつぶって笛を吹きますと、一人一人、異様な形をした人間が自分の身のまわりに飛び出して、笑ったり跳ねたり、話をはじめるのでした。
彼はふいに目を開きました。
そして、沖の方をながめますと、赤い船がいっそうはっきりとして、青い青い、波の間に浮き出ているのでした。
また、笛の穴の中から飛びだして、幻の中に笑ったり跳ねたりした、異様な、帽子を目深にかぶった洋服を着た男も、ほんとうに、砂山の下をてくてくと歩いているのでした。
二郎は目を開けながら、自分は、夢を見ているのではないかと思ったのでした。
「不思議な笛だ。」と、彼は、手に持っているおじいさんからもらった笛をながめたのです。
砂山の上に、仰向けになって臥ながら、彼は、笛を吹いてみました。
吹けば吹くほど、いい音色がでて、不思議ないろいろな幻が目に見えたのであります。
二郎はまた、起き上がりました。
そして、笛の穴をのぞきながら、「この穴の中に、なにか小さな魔物でもすんでいるのではないか?」と思いました。
このとき、海の方から、ため息をつくように、軽いあたたかな風が、吹いてきました。
「ほんとうに、不思議な笛だ。」
二郎は、しみじみと、この短い青と赤に塗り分けられた一本の笛に、見入っていました。
その中に彼は、棒きれを持ってきて、笛にあいている穴を、一つ一つ、つついてみていたのであります。
いくら棒きれでもって穴をつついても、その中からどんな魔物も飛び出しませんでした。
また、泣き声をたてるものもありませんでした。
笛の中は、ただ一本の空洞の竹にしかすぎませんでした。
それでも二郎は、なお思いあきらめることができなかったのです。
やはり、一つ一つ無理に、穴をつついているうちに、その笛は、ひびがはいってしまいました。
二郎は、もう一度いい音色を聞こうと思って、その笛を唇にあてて吹いてみました。
しかし、笛はもう、なんの音もたてずに、まったく役にたたなくなってしまったのです。
海や砂山や、空にかがやいている日の光には、すこしの変わりがなかったけれど、天地は急におし黙ってしまって、なにもかも、おしのごとくに見られたのです。
そして、赤い船の影は、波間にうすれて、見えたり、消えたりしています。
洋服を着た人は、どこへいったか、もうおらなかったのであります。
二郎は、笛をすてて家に帰りました。
そしてその夜は、後悔しました。
あの大事な笛を割ってしまって、とりかえしがつかなかったからです。
あくる日の昼ごろ、二郎は砂山へいって、昨日笛を吹いたところにきてみました。
するとそこには、いろいろの草が、一夜のうちに花を開いていたのです。
赤い花、白い花、紫の花、青い花、そして黄色な花もありました。
夕空に輝く星のように、また、海から上がったさまざまの貝がらのように、それらの花は美しく咲いていました。
二郎は、ぼんやりと立ってながめていますと、その中の、いちばん茎の長い赤い花は、どこかで見た女の人を思い出さずにはいられませんでした。
「どこで、ちょうどこの花のような人を見たであろうか……。」と、二郎はしばらく考えていました。
彼は、やがてそれを思い出しました。
それは昨日の晩方、港の方へ歩いてゆくと、町の中で脊のすらりっとした、ほおの色の美しい、りっぱな着物を着た旅の女の人を見たのでした。
二郎は、足もとに咲いている赤い花が、風になよなよと吹かれている姿が、その人のようすそのままであったことを思ったのです。
二郎は沖の方を見ますと、赤い船が、今日も停まっていました。
やはり、夢ではなかったことがわかりました。
晩方まで、花の咲いている丘の上で、彼は空想に時をすごしました。
そして、海の面が入り日の炎に彩られて、静かに暮れていった時分に、彼は町の方へ帰ってゆきました。
ある果物屋の前で、ふたたび昨日の美しい女の人に出あいました。
彼は思わず顔を赤らめて、その人を見送りますと、
「このごろ、港にはいってきた、赤い船のお客さまだよ。」と、町の女房たちが、うわさしているのをきいたのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社
1977(昭和52)年2月10日第1刷発行
1977(昭和52)年C第2刷発行
初出:「童話」
1924(大正13)年5月
※表題は底本では、「赤い船のお客」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田倫生
2012年1月21日作成
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