野草雑記・野鳥雑記
野鳥雑記
柳田國男
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暫らく少年と共に郊外の家に住むことになって、改めて天然を見なおすような心持が出て来た。少なくとも今までの観察の、大抵は通りすがりのものだったことを感ずる。旅は読書と同じく他人の経験を聴き、出来るだけ多くの想像を以て、その空隙を補綴しなければならぬ。自分の如き代々の村人の末でも、ほんの僅かな間の学問生活によって、もうこれほどまでに概念のしもべになろうとしている。これは忘れたというよりも最初から談ろうとしなかったためであろう。今において始めて野の鳥の徒らに饒舌でなかったことを考えざるを得ない。
畠に耕す人々の、朝にはまだ蕾と見て通った雑草が、夕方には咲き切って蝶の来ているのを見出すように、時は幾かえりも同じ処を、眺めている者にのみ神秘を説くのであった。静かに聴いていると我々の雀の声は、毎日のように成長し変化して行く。ある日はけたたましい啼声を立てて、彼等の大事件を報じ合おうとしている。これが人間でいえば物語であって、集めまたは編纂して歴史となるべきものであろうが、あれを構成して行くめいめいの悩みと歓びとの交渉配合が、こんなに人生の片寄った一小部分であったことを、今までは頓と心付かずにいた。
雲雀が方々の空で鳴いている。多くはこれも自分の畠を持っていて、他処へ出て行かぬ時ばかり、最も自由に囀り得るものらしい。一つ一つに流義というようなものがあって、出来るならば名を付けてやりたい気がする。ある者はいかにもブマであって、朝も夕方も少しでも調子をかえず、土の上にいて空の声を啼いたりする。そうかと思うと精確におりる時、立つとき、横に行く時と歌いかえ、高さによって次々の節を変えるものがある。籠に入れて飼い始めてから、人は漸くその巧拙を聴分け、価の差等を設けようとするが、もし差等があるならば疑いもなく持って生れたものであった。こんな東京の近くの、真似ならば幾らでも出来る土地に住みながら、一生涯下手に啼いて、暮してしまう雲雀もあるのを見れば、親が教えるということは師弟とはまた別のもので、鳥屋が名鳥の籠の隣へ雛を連れて来て、好い調子を学び習わしめようとするのは、一つにはただ天分の試み、今一つは外界を遮断して、仮に幼ない者にこれを親かと思わしめるだけの細工であったかも知れぬ。
だから雛を育てることのむつかしい雁などの囮は、かつて荘周の寓言にもあったように、その鳴声の遺伝がたちまちに食われると愛せられるとの境を区別する。美濃から信濃にかけては秋に入ると、鶫の売買が盛んであるが、好いオトリの何年かを飼い馴らしたものは、ただの仲間の麹漬になる鶫の、何千羽を集めたよりも高い価を持っている。それが決して教育の力ではなく、単に偶然にその声の囮に適することが発見せられて、多数の中から稀に一つ、取残して珍重せられたというに過ぎぬ。専門の鑑定家の話を聴いて見ると、声の佳いというのも決して鶫たちのために佳いのではない。よく鳴く鳥でもその声が悲しければ、空を行く群がうかうかと降りては来ない。籠にいながら籠を忘れて、ただ食糧と水との豊かなることに満足してさも楽しそうに歌っていると、しからばここで休もうと多くの渡り鳥が、網を張り渡した夜の明け方の小松原へ、ばらばらと飛んで来て捕えられるのである。文人で言うならば病的天才である。ここいらの野の雲雀の群には、そういう標準から鳴声の善悪を批判せられるような心配は幸いにしてまだないばかりか、彼等の仲間だけでは頓馬を極上々と、きめていたところで致し方はないのである。
少なくも下手はお構いなしに、精一杯に彼等は鳴いている。それをまた我々が色々と意味を付けて聴こうとしていたのである。自分などの小さい頃には、雲雀は
と啼くものと思っていたから、麦畠のへりの土にいながら、そういう鳴き方をするのを聴くと、何かなまけ者の夢のようでおかしかった。それからまたあの羽を互いに傾けつつ下って来る声を
と聴く習いがあった故に、たまたまそれが行動と一致しないと、今でもあの雲雀はどうかしていると、思わざるを得ないのである。面倒に考えて来るとこうした批評家のもつ先例の集積は、目に見えぬ自然らしさを以て法則の力を支持するようでもあるが、果してしからば何故に突如として、非難せらるべき雲雀をこの世の中に、出現せしめたかという問題が残る。いやこれはとんでもない理屈になったが、とにかくに我々の故郷の小鳥は、ただそれぞれに人間の心持ちだけを鳴いていたのである。
燕が軒の端に来て囀っているのを聴くと、あれは
というのだと思っていた。土を食い虫を食い口が渋くなったということを、彼もまた中国の田舎の方言を以て談っていたのである。画眉鳥が杉や川楊などの最上端にとまって、青い天地を眺めつつ啼く声まで、我々には
というように聴えた。もちろんこれは寺小屋に行く子供などの、邪推といえば邪推のようなものであった。明けても暮れても手習いの文句の、調子の面白いところを口癖にするのを、後には聞き覚えて鳥の癖に真似をする。それが例の蒙求を囀るという諺の引続きであって、しかも句としては新らしかった。『物類称呼』は安永年間の書物であるが、あの中には関東で「一筆啓上せしめ候」、遠江国においては
というとある。小玉銀五粒と二朱負けたというのだから、これは明らかに博奕のことで、今でも信州の大河原の奥などでは、そういう無教育な鳴き方をするように伝えられる。同じ頃にまた薩州の方では
と、頬白が啼いていたということである。このトトはもちろん亭主のことで、若い嫁御さんをひやかした言葉のようだが、しかも丁寧に三八二十四と、九九の声を添えてあるのは、そういう暗記をしていた連中、即ちやはり子供らの通弁であった。
秋の蟋蟀の「肩させ裾刺せ、寒さが来るぞ」でも、さては梟の五郎助奉公、珠数掛鳩の年寄来いも、それぞれにこれを聴いて特に心を動かす人があったのである。そうして大抵は老人か女か子供、忙がしい働き手はそんなことを考えている余裕もないから、世の中が段々ませて来ると、もう鳥虫の歌は今日の舶来の歌の如く、意味は何でも構わぬという音楽になるのである。私はこれを忘れてしまわぬうちにと思って、少しずつ集めて置いたものである。こういう話のついでにぼつぼつと思い出すならば、いかるがという鳥がヒジリコキーと啼いたというのも、古い時代の戯れ言葉かと思われる。ヒジリは上人で女房はないはずであるのに、時々はその聖の児というものがいたのである。キーは調子を高く別に発声するから、恐らくは嘲ける意味に聴えたのであろう。地方によってはこの鳥を三光鳥ともいって、「月星日」と啼くというのが、信州の諏訪・筑摩ではミノカサキー、奥州のどこかの田舎ではアケベエキー、即ち紅い衣を著よと聴いていた時代もあった。四月山々の花のゆったりと咲く頃に、なつかしい心持を以てこの鳥の枝に遊ぶのを、見ていた子供たちの姿まで目に浮ぶようである。
これとは反対に時鳥の啼き声には、どういうわけでか哀愁を催すような話が多く伴のうている。昔名古屋の近くの村で、五つ六つばかりの男の子が、人に連れられて物詣りに行く途中、頻りにこの鳥の啼く声を聴いて、一人で嬉しそうに笑っていた。どうして笑うかと人が尋ねると、それでもあの鳥が「ととさへ、かかさへ」と啼くものをといったというのは、親のない児であったのであろう。その年麻疹を病んでその子は死んだと、真澄の奥州の紀行の中に書いてある。郭公は時鳥の雌などという俗説もあるが、これがまた同じように冥土の鳥であった。古い物語に母一人子一人、夕の山路を物淋しく通っていると、早来早来とこの鳥が啼いた。そうして心付いて見ると、背の幼な児は死んでいたという。今では我々の耳にはカッコウとばかり聞えるが、ハヤコもしくはアコという以前の語音に近かったために、特にあの鳴声を怖れていたものと思われる。他の小鳥が寝処を捜す時刻になってから、この二色の鳥ばかりが際限もなく鳴いて来る故に、憂ある者は殊に耳を欹てざるを得なかったのである。
それがまたちょうど昔の農民たちの間に、子供の頃聴いた爺姥の物語を、想い出す刻限でもあったのであろう。驚くばかりの沢山の昔話が、時鳥と郭公とについてのみ保存せられている。そうして広い地域に流伝して、しかもその啼声の聴きようと、これに基づくこの鳥の異名だけは、土地ごとに少しずつ変っている。誰でも自分の生れた土地のみの、つまらぬ話のように聞き流してはいるが、昔々時鳥と郭公は兄弟でまたは姉妹で、誤って一方を殺して悔い嘆いて鳥になったという類の口碑が、少なくとも国半分に拡がっているのである。以前もその一部分を比較して見たことがあるから、ここには簡略に異名だけを述べるのだが、信州の各郡でオトットコイシ、またはオトットキッタカキョキョキョ、越後に接した郡でオトットコロシもしくはオトトツッキッタ、土地によってはホチョカケタ、東京府下の西部山村でも、あるいはオトットツキッチョと啼くといい、またはオトハラツキッチョと啼くともいうが、何と鳴こうとも話は大抵同じである。青森県などは広い区域にわたって、この鳥をコナベヤキという処があり、秋田でも北部はナベコドリという異名がある。昔これも兄弟の二人があって、兄が出て働いている留守に、弟一人小鍋立てをして楽しんでいるところへ、兄が還って来たのでそっちへ隠れこっちへ隠れて、食えるだけ食ってしまうと背中が裂けて死んで時鳥になった。だから鳴く声が
というのだという昔話もある。
鳥が我々の前に来て最も自由に物を言う動物であることは、恐らくは昔話の特に彼等のためにいつまでも成長した理由の一つであろう。昔話の管理者はかなり久しい以前から、老人とその孫たちであった。そうして彼等にはまた昔話の、時刻というものがあったらしいのである。椰子の葉蔭に横たわって日を過す人々は別として、働かねばならぬ温帯の国の田舎では、日の夕暮はただこれ等の人々にのみ寂しかった。兄姉はまだ野仕事から還らず、母は勝手元に火焚き水汲みまたは片付け物に屈托をしている間、省みられざる者は土間の猫雞、それから窓に立ち軒の柱にもたれて、雲や丘の樹の取留めもない景色を、眺めていることの出来る人たちであった。年寄がいなければ子供仲間で、物蔭を怖れて遠くへは行かずに、心ばかりを誰よりも自由に、働かそうとしたのもこの時刻であった。それが百万回以上も積重ねられて、ここに色々の村の文学が出来た。蛍や蝙蝠は言うに及ばず、雁でも鴉でも五位鷺でも、彼等に喚びかけられる多くの鳥は、大抵は皆夕の空の旅人であった。喧嘩もよくしたが歌もこの際において歌われた。何百と算えられる子守唄の類を見ても、大部分は日のくだりから、黄昏近くまでの産物であった。昔話の主人公となった梟や時鳥、東北の野山ではカッコウや馬追い鳥が、いずれも暮れかかってから啼きしきる鳥であったことは、私には些しも偶然とは思われぬ。
殊に時鳥には絵に描かれるあの形から、思い付いたような話は一つもない。中部地方の人々には珍らしいが、いわゆるコナベヤキまたはナベコ鳥の物語は奥羽には弘く行われていたらしい。下北半島のある村々の少年は、我々がカラスカラスと歌うように、時鳥を見ると次のような詞を繰返していた。
小鍋焼きよ
そちゃとでた、あちゃ飛でた
誰に小鍋隠された
即ち弟が兄に隠して小鍋立てをしていて、それを隠そうとして腹が裂けたという話は、あるいは今一つの山の薯の話などと、混同してからああなったのかも知れぬが、少なくともこの鳥がさも急いで、森から岡へ空を横ぎって飛ぶ声を聴いてそっちへ飛んで行ったと叫ぶように、考え出した者があったのである。羽後大館にはこの鳥はいたって少ないが、試みに何と啼くかと尋ねて見ると、やはりまた
と啼くそうだと言った。それから鹿角郡の宮川村、または南部の野辺地でも盛岡でも、アチャトデタカと啼くという人が多かった。即ち小鍋隠しのおかしな昔話も、基づくところはこの鳥の啼く声であったのである。
それよりもなお一段と有名なホンゾンカケタカ。これもあの声をそう解して後に徐々として物語の空想は伸びまた彩られたようである。森口清一君の説によれば、紀州の有田一郡でもこの系統の話は五つまであって、いずれも奥州の鍋子鳥と同じく、この鳥の前生の因縁を説くものであった。百舌と時鳥とは古い友人であるが、百舌が唐から本尊の掛図を盗んで来たのを知って、いつも時鳥が「本尊掛けたか」と啼く故に、これに閉口して時鳥の啼く時節だけは、百舌は黙っているという話。あるいはまた時鳥が百舌に金を預けて、御本尊を求めてくれと頼んだ。それを買わずに酒を飲んでしまった故に、今でも百舌という鳥の顔は赤い。時鳥が「本尊買うたか」と啼くと面目次第もないので、その頃だけは百舌はどこかに隠れて出て来ないという話などもある。
しかし時鳥の声の聴きようとしては、これはいかにも面白いに相異ないが、話は子供にとって幾分か込入っている。それというのは百舌と時鳥との関係が、実は今一つ以前から既にあって、それをここまで持って来るために、やや不自然な継合せがしてあるからである。伊予の大洲のあたりでは、百舌は友人の時鳥に昔から借りがあって、それを返弁するために時々は蛙などを捕って、枯枝のさきに突刺して置く約束をした。時鳥はそれを催促して、今でもトッテカケタカと啼くのだといっている。俊頼や顕昭の盛んに古歌を解説した時代には、果して京都でもそう啼いたものか否かは知らぬが、少なくともこの話だけは源平以前からあった。「五月ばかりにもずまろ、もろ〳〵の小鳥若くは蛙などを捕りて、木の枝などに貫ぬき置くことあり。是を鵙の速贄とは云ふなり。時鳥に借りしをわきまふると也」と顕昭が言っていれば、俊頼もまた時鳥の啼く五月頃は、百舌は沈黙して垣根などをつたいあるき、ただ時々声低く「ほとゝぎすこそ」と喚ぶばかりだなどといっている。はやにえというのは新鮮なる貢ぎ物、即ち魚類などを貴人に献ずるために昼夜の飛脚を走らせることをいうらしいが、それを百舌から時鳥に向って、進上せねばならぬというような何か一つの話が、もうあの時代の歌人等の耳に入るまで、広く日本にはもてはやされていたのであった。
あるいはまたこれを「もずのくつで」ともいう者があった。『八雲御抄』には単に「もずのくつで、我身がはりに蛙やうの物を、物に刺して置くなり」とばかりあるが、これも同じく時鳥に向って、支払われなければならぬ沓の代価であったことは、後々の童話が十分にこれを証明する。例えばこれも紀州の吉野川の流域で、今も行われている語り草の一つに、昔時鳥は馬の沓を造る職人で、百舌はその友人の馬方であった。何遍となく時鳥の作った沓を借倒して、その代銭を払うのを怠ったために今以て百舌は蛙その他の虫類を取って来て、これを樹の枝に串刺にして置いて忘れる。そうして時鳥に餌を供しているのは、昔不義理をした罰であるというそうである。百舌が生き餌を木に刺して忘れてしまうことは、誰でも簡単に観察し得るだろうが、それを時鳥が後から廻って食うかどうかは、そう容易には実験するわけに行くまい。ましてやそれを昔の馬の沓の弁償であるなどとは、空に想像することはむつかしい話であった。これはこの鳥の異名を沓手鳥という如く、かつてはトッテカケタカの代りに、「沓手掛けたか」と子供やその爺婆に啼いて聞かせた時代があって、それから段々に鳥が人間であった前の生を、こういう風に想像するようになったのであろうと思う。しかも移り変って本尊掛けたかと聞く世の中になっても、なお百舌と時鳥との交渉は絶えなかったのである。それから推して考えて見ると、ずっと以前にも別になおこれと類した他の話があったのかも知れぬが、少なくとも沓手鳥の異名のもと、即ち百舌に対して馬の沓の代価をはたるという話は、あの啼き声をクツテと聴くようになって後に、始めて発生したものに相異ないのである。
稚児の最も敬虔なる伝統主義、あれどもなきが如き作者意識を以てして、なおこれだけ人望のある昔物語がいつの間にか消え改まり、もしくは新たに美しい芽を吹いたのである。昔と名の付くもの必ずしも古物でない。我々はむしろ常に珍らしく驚くべきものを求めていた。ただ幸いにして童子の世界においては、それが彼等の心臓に近く幾らでも転がっていたというばかりである。野の鳥が以前は人間であり、または今でも人の如き心を持って、その思いを我々に語ろうとしているかという想像は、単に大古以来のある人類の癖というよりも、むしろ代々の小児たちの、新たなる二葉の夢と言った方がよいのかも知れぬ。道の教えが果して天地の自然ならば、これとなんらの交渉もなしに成長することは出来なかったはずである。彼等の不思議の国は茫漠たるものではあったが、しかも説法伝道の労を仰がずして、自ら夕方の窓に凭って、進んで「かくり世」の消息を問わんとしたのも彼等であった。あの簡単な時鳥の一声を、これほど色々にまた意味深く、解釈しようとするには準備を要する。そうしてその準備もまた歴代の少年少女が、大切に積み重ねて姥翁になってから、後に来る者に引継いで行ったものばかりでいわゆる智慮ある人々は一向にこれに干渉していないのであった。
しかし彼等のいわけない空想にも、やはり大昔以来の隠れたる制限はあった。日本に馬の沓作りという職業が現れて後、始めて沓手鳥の異名は認められたに相違ないが、それを前世の馬方が生れ替って、負い目を返すという物語と結び付けたのは、依然として歌に詠まれるシデノタオサ、もしくは浄瑠璃の「冥途の鳥」の、引続き以外の何物でもなかった。北信のある山村では、あの声をオットコイシと聴いて、妬み深い女房の魂が化してこの鳥と成ったという説があり、一方には東京近くの青梅・八王子あたりの田舎では、継子のひがみから疑って弟を殺したと称して、オトノドツキッチョと啼きまわるという話がある。谷がちがい水の流れの異なるにつれて、聴きようは幾通りにもかわっているが。それを解説した物語はほぼ一様で、いずれもかつて人間であった頃の誤りを悔い悲しみ、我とその罪業を名乗って子供等の前に来て啼くというのであった。二人ある兄弟の一方が素直で優しく、一方がねじけて荒々しかったというなども、いたって古い昔物語の型である。その争いの原因が通例は山の薯で、それがちょうど時鳥の山の木に飛びかわす頃に、芽を出し蔓を延ばしてありかを人に知らせる、単純な我々の食物であったことを考えると、年に一度の定まった季節が来るごとに、これを思い出し語り出した人間の言葉の方こそ、かえって野の鳥の声よりも更に自然なものであった。
能登・越中の境あたりの時鳥は、「弟恋し、掘って煮て食わそ」と啼いていた。これも山の薯の話であったことは説明をするまでもあるまい。奥州各地の昔話においては、心のひがんだ兄は盲目であった。妹の掘って煮て食わせた山の薯が、あまりに旨いのでかえって邪推をして、妹はもっと旨いのを食っているだろうと思った。そうして包丁を以て親切な妹を殺したところが、それが先ず鳥になってガンコ・ガンコと啼いて飛去ったという。ガンコというのは多分頭の意味で、薯の筋だらけの悪い部分をいうのである。即ち私が食べていたのはガンコだガンコだというと、さてはそうだったかと悔い歎いて、盲の兄も鳥となり、ホチョカケタと啼いて飛び、今でも山の薯の芽を出す頃になると、こうして互いに昔の事を語るのだというのである。自分の想像では郭公と時鳥の混同、今でも多くの田舎でカッコウを時鳥の雌だと思っているのは、こういう昔話によって誤られたものであろうと思う。小さい者に聴かせる話としては、鳥の争いは兄弟とした方が解しやすいが、諸国の例には親と子、妻と夫というものも少なくはない。要点はむしろ前の生の罪業によって、鳥となっていつまでも啼いているというにあったので、それにはカッコウは百舌などと違って、同じ季節に里近くへ来るというだけでなく、夕闇のやや深くなるまで、悲しい声を立てて啼きかわし飛びかわす習性さえ、よく時鳥と似ている故に、いよいよ夫婦兄妹の霊魂が鳥になったという話に似つかわしかったのである。
昔も昔話が小児ばかりの戯れであったなら、あるいはこんな細かなことまで考えて置く必要はないのかも知れぬが、自分にはそうと考えられぬ理由がある。信ずる人がもう尠なくなって、聴衆を無智文盲の幼童に求めた以前、久しい間夜の鳥は成人にも怖れられた。鵺は単に未明の空を飛んで鳴くために、その声を聴いた者は呪言を唱え、鷺も梟も魔の鳥として、その異常な挙動を見た者は祭をした。前に掲げた時鳥のトトサヘカカサヘ(父へ母へ)も、聴く人はこれを孤児の死ぬ前兆と考えた。郭公を早来鳥と名づけて人が畏れたのも、ハヤコーをかの国への招きの如く感じたからである。あるいはハコ鳥とも称して魂は箱の中に、管理せられ得るものの如き信仰をさえ養っていた。
鳥が突如として天空の一角から、我々の眼の前に現れて啼くのを見て、神の使のように思うのは自然である。人の心がこの躯を見棄てて後まで、夢に現れまたしばしばまぼろしに姿を示すのを、魂が異形に宿を移してなお存在するためと推測したのがもし自然であるならば、それを野の鳥の声殊に清く、人の休息しまたは静かに物思う刻限を測って、訪れ来る者に求めようとしたのも、怪しむ余地は殆とないのである。ただ凡人は自ら公冶長を以て任ずることは出来ぬ。その語を通訳するにはおのずから術がなくてはならぬ。故に我々の祖先はその心情の最も小児に近かった時代に、特に謹んで野の鳥の昔話を聴いたのみならず、更に忠実にこれを記憶して、次に来る者に教えて置こうとしたのであった。そうしてこれを説きまた一致して耳を傾ける心持を、我々は名づけて面白いといったのである。「面白い」は人の顔が一つの光に向って、一斉に照らされる形を意味したらしい。そういう顔をして共同の興味を感じ得る者は、今ではもうごく小さな子供より他にはなくなったのである。
鳥の話は百舌と時鳥、あるいは時鳥と郭公の友であり同胞であったという話の如く、大抵は善い鳥と悪い鳥との比較対照を以て彩られている。馬の沓屋と馬方との話に、一番よく似ているのは梟と烏との話である。昔は梟は染物屋で、烏は真白な羽をした美しい鳥であった。そのせっかくの白い衣裳を、一つ流行文様に染めましょうと思って、梟紺屋に誂えたところが、梟は粗忽で真黒々に染めてしまった。烏は腹を立て梟は面目ながって、日中烏の出てあるく時刻には、梟は樹の蔭に隠れて決して出て来ない。たまたまその居処を烏が見付けると、寄ってたかっていじめ抜くのはそのためだといっている。この話の頓才ある者の発明であることは認められるが、もしそうならば「沓手掛けたか」の物語が既に出来た後、どうしてまたその同じ古い形を追おうとしたのか。要するに老人や童児には、特に前生の因縁を以て鳥類の生活習性を解説しようという要求があって、それが無意識に彼等の Why So Stories の傾向を指定したのである。日本にはこの類の動物説話が、存外乏しいかの如く考えられたのは誤っている。ただこれを西洋のよく開けた国と比べて、こちらにはまだ統一があり、従って単調を免れぬというだけで、それ故にまた一段と我々の中においては、どうして民間の説話が成長し分裂し、もしくは世のいわゆる文芸化を受けて行くかを、察し知ることが容易なのである。
例えば時鳥の童話の今一つの様式として、これも紀州の有田で次のようなものが採集せられている。昔雀と時鳥と百舌とは三人の兄弟であった。母が病気で死のうとしていた時、雀は知らせを聞いて一番先きにかけつけた。時鳥はお化粧をしていて、母の臨終に間に合わず、何故に遅く来たかと雀が小言をいうと、「もう本尊たてたか、建ててなければ急ぐにや」と言い返した。百舌は不幸を知りながら一番おくれてやって来て、棺に納めてある母の顔を見たい見たいとだだをこねたので、姉の時鳥に静かにせよと叱られた。それだから雀は親孝行の報いで、一年中里にいて食物が最も多く、時鳥は後れて来た故に春の末にやっと出て来る。百舌は時鳥に叱られたから、今でも隠れまわって時鳥が啼かぬようにならぬと出て来ない。
この話の継ぎ合せであることは他の地方の例と比べて見なくともよくわかる。殊に羽の色に何の特徴もない時鳥に、お化粧を説くということがおかしく、本尊建てたかも関係が甚だ薄い。しかしとにかくに親の死に目に逢った逢わぬという話は、不思議に全国に弘く行われている。我々の知っている最も普通の形では雀と燕と啄木鳥の三兄弟となっている。この中で啄木鳥の化粧は一番念入りであるが、そのために親の臨終の日に最もおくれてやって来た。雀はちょうどお歯黒を附けかけていたが、急いで頬ぺたの汚れているのも拭かずに、飛んで来て介抱をしたので褒められ、燕は黒繻子の引掛け帯などをしているうちに、少し遅くなって碌々死水も取らなかった。それが今の世まで雀は頬に墨が付いていても常に穀物にあり付き、燕は姿こそよいが忙しく飛廻って虫しか食べられず、啄木鳥は伊達な衣裳を着ていても常に木を叩いて苦労をする。三人三様の幸福もすべて前生の報いだというのである。土地によっては啄木鳥は見られず、あるいは別の鳥をこの仲間に入れようとした例もあるか知らぬが、先ずこういうのが整った形といってよろしい。
近代の親子嫁姑の共に住む社会において、これが適切なる教訓譚として人望を博したことは、雀の異名を孝行鳥という地方が、少なくないのを見ても察せられる。これと相隣りする雨蛙の不孝者が、せめては亡き親の最終の望みを容れようとして、かえってその真意に反して水の岸に埋めた。それで雨降る日には泣くのだという話などは、確かに転用でありまた計画ある道話であるために、あるいはこの三つの鳥の物語なども、新たに考え深い先輩の製作したものの如く、速断する人がないとも言われぬが。鳥の前生譚だけは前にも列挙したように、少しも道徳味のないものが幾らもあって、民話は久しい間別の経路を辿っていたのである。しかも時鳥の話には、童児があの中空の声を聴いて、次々に物語の外形を改めて行く機会があったが、孝行譚の方にはそのような夕方の冥想はないはずであるのに、かくまで芸術化しまた近代と調和して、しかも前生の因縁を語る点において、他の多くの鳥の話と、著しい共通を持つのは不思議だと思っていた。
ところが偶然なる手掛りがあって、今私はその原由を見出そうとしている。磐城の上遠野附近に住む人から、一友人への通信の中に、あの地方のワカが神明の祭をする時に、雀の孝行、燕の不孝の童話と、同じ内容の歌詞を唱えるといって、その文言の一部までも報告して来た。ワカは仙台領以北でオカミといい、南部領ではモリコともまたイタコともいう巫女のことであるが、関東以南のイチコ・梓神子・大弓などいう婦人と違うことは、弓や幣束の代りに木に刻んだ二つの人形を手に持つことで、その人形を奥郡ではオシラガミ、阿武隈水域ではシンメサマというのである。ワカの輩がもし果して鳥類前生の説話に参与していたとすれば、この程度の開展は必ずしも意外でない。彼等は単に文字を使用せぬという一点を除いて、当代のいわゆる大衆作家と同じ行き方をしようとした作家であった。即ち前の方からは時代の趣味、予期せられた通念に引張られ、しかも目に見えぬ伝統の綱を以て、その空想のうしろ帯を繋がしめて、いわば硝子箱の中に泳いで、活きていたのが彼等であった。彼等が語るということは種子があることを意味する。そうしてその種子のいつから始まったかは、彼女等自身もまた知らないのである。しかし最近の興味の中心が、妖女と剣侠と宝物さがしであるに反して、昔の聴衆は幽界の消息と、因果応報のことわりとを悦んだ。すなわち目に一丁字なきこれ等の女性文人が、特に物識りとして尊ばれた根拠である。
これが福島県下のある一村の偶然でなかったことは、近頃漸くのことでこれを確めることが出来た。南部のイタコなどの経文と称して読み上げるものは、長者の姫と名馬との恋物語、後に二つの霊魂は天上に昇り、再びこの土に降って蚕の神になったという、神怪を極めた由来記であるが、現在普通のオシラ神はその影響を受けて、馬と美女との頭にそのいわゆる桑の木人形を彫刻している。しかもそれ以外に今一つ古い形として、別に鳥頭というオシラ神があって、その根原はなお不明である。八戸のイタコなどの記憶する雀燕の歌物語は、まだ仔細には聴取っていないが、主として鳥類のかつて人であった時の事を説くというから、恐らく以前これを以てオシラ遊びの経文とした時代があって、それが木像の形の上に影響したのではないかと思っている。
奥州のオシラサマには取子と名づけて、多くの少年少女の特別な保護を受ける者があった。それが祭の日には座に列なって神と共に一日を遊んだ。イタコの歌語りが大きな印象を、彼等に残したことは想像に余りがある。仮に時鳥の小鍋焼きの話などが、この日の耳学問の記念ではなかったとしても、その感化がなければボットサケタという啼き声は出て来まい。土地によりまた時代につれて、次から次へと幾らでも奇抜な聴きようをしていながら、それが結局はことごとく魂の苦悶であり、あの世の音信であるということに帰著するのは、単独に幼ない者だけの経験ではなかった証拠ではないか。
だからもしこの物寂しい黄昏の感動が、自然に人の空想を死の国に誘うたものとしたら、それは我々がまだ子供の如く、為すこともなくして静かな夕暮を過すことの出来た大昔から、そういう心持を持続けていたのである。しかもそれから後の子供等の観察の相違に伴のうて、次第に時鳥の昔話は変って来た。ある村では克明に古い形を需め、他の村では新しいものが珍重せられて、それをまた忘れようとさえしているのである。少年の天地はもちろん広くまた明るくはなって来たが、それと同時に彼等の働くべき仕事はなくなった。新時代の童話はただ料理したご馳走の如く、おまけに飽きられて既に腐って行こうとしている。
鳥と我々の祖先とは、今よりもずっと親しい交際をしていたことが、彼等の名前からでも想像し得られると私は思う。鳥の名前は確かに人間の贈り物で、それも二人や三人の志ではなかったはずだからである。そうしてその記憶の久しく残っていることは、更にまた以前の親しみの、近い頃まで続いていたことを語るのだから、それをもう一度思い出すということは、鳥によって我々の親たちの生活を新たに知ることにもなるのである。私はこういう心持を以て「鳥の名と昔話」を集めて見ようとしている。静かな山近くの村里に住む諸君の、援助を求めたいものである。
赤ショウビン一名深山ショウビンが、歌に詠まれた水恋鳥のことだという説は、関東の方でも信じている人が多い。普通の会話には用いにくい言葉だが、本を読まぬ人でもこの名はよく知っている。こういう耳の方言の保存は多分はその背後にある昔話の力であろうと思う。もっともその昔話にも時代につれて、少しずつの変化はあったようだが、大体に鳥の挙動や啼声の特徴と結び付いたものは古くからあった形と見てもよいようである。鳥にはどういうわけか親に不孝をしたという話が多い。三河の北設楽郡の山村では、水恋鳥は親に死水を遣らなかった罰で、自分でも水が飲めぬようになった。真赤な胸の毛が水に映って、近づいて飲もうとすると水が火に見えるという(『旅と伝説』二巻一号)。それから下流の長篠附近でも、この鳥前生に姑を虐待して、その報を以て鳥に生れた。谷の流れに飲むことが出来ないので、僅かに雨露を口に受けて渇をしのぎ、いつも水恋しと啼いているのだというが(『郷土研究』二巻一二号)、人によっては話が少し異なって、前生は女で馬に水をくれるのを怠り、そのために馬が死んだから、罪を被って水恋鳥になったというそうである(『三州横山話』)。
この方が一段と原因が特殊だから、前の形であったろうかと思うが、今はまだ確かにそういい始めた動機を見つけることが出来ない。野州の一部でこの鳥をトウガラシゴマというのは(『本草綱目啓蒙』巻四三)、啼声が駒鳥に似て羽色が赤いからであろうが、会津の大沼地方でも、また九州の南端でも、共にこれをただコマドリともいう所を見ると(川口氏)、直接にあの声を駒の嘶きに似ていると感じて、馬の聯想を起した者もあったのかも知れない。東京から見えている津久井地方の山村でも、水恋鳥という名は人がよく知っているにもかかわらず、別にこれをバクロノカカという俗称がある。昔ある博労の女房、邪見で馬を乾し殺してその罰で馬と化し、終始雨ばかり待っているという話は、大よそ他の地方も同じである(『相州内郷村話』)。信州の木曽渓でもある家の馬飼童が、惰けて水を忘れて主人の馬を死なせ、それから水が火になって飲むことが出来ず、辛うじて木葉の雫で咽を沾おすようになったといって、やはりこの鳥の雨を待ち兼ねるが如き啼声を説明している(『小谷口碑集』)。しかしそういう話も、必ずしも啼声と結び附いたものだけでない。奥州地方の馬追鳥を始め、馬と少年との話も色々あるのである。同じ信州でも白馬山の麓のあたりでは、その牧童は死して雲雀になったといっている。今でもこの鳥は主人への言いわけの言葉「水ハホントニクレタンネ」という文句をくり返して、終日空に上っては水のありかを捜しているというから(同上)、ここでも水が飲めぬという昔話があったらしいのである。鳥は一般に雨降り前に多く啼くためか、雨の話にもまた色々の鳥が参与している。鳶や鳩が親不孝で親の墓を水のほとりに設け、雨が降るたびにその墓が流れはしないかと憂えて啼くという話は方々にあるが、なおそれ以外にも雨を待つという鳥の話はある。たとえば能登の鹿島郡で六七月の頃にチーフレー、チーフレーと啼く鳥を慈悲心鳥だというが、その点は私には判断が出来ない。昔石崎の漁村に貰われて来た子供が、毎日朝から晩まで干鰮の番をさせられ、雨が降る時ばかり僅かな間休むことが出来た。それで死んでからこの鳥となって、いつも少し降れと啼いているのだという話になっている(郡誌)。
赤ショウビンの啼く季節は十日位のもので、雨蛙がすきで捕って食う故に、雨の日には殊に活躍するのだと竹野氏はいっている(『野の鳥の生活』)。これは正しい観察であろうと思うが、とにかく雨の降り出す前に立って、さも待ち兼ねたようにまた悦びそぞろくように、急に声を立てる情景は感動を与えずにはいられなかったので、自然にこういう話は成長し、また流布したものかと思われる。会津の飯豊山麓では、啼声によってマメコロバシという名もあるが、普通にはこれをアマゴイドリと呼び、この鳥が啼けば雨が降るからというのは(『耶麻郡誌』)、実際は降りそうになると啼くことを意味するのであろう。利根の上流の川場附近でミズハカリドリというのは(川口氏)、あるいは雨降る中を飛びまわるからの名であろうが。下野の山村でミズホシドリ、またはアマガエルともいう処があるのは(『本草啓蒙』)、仮に啼声の類似から出た名であるとしても、なお竹野君の説と合致する。土佐の幡多郡では方言をミズヨリ、同郡檮原村ではまたミズヨロというそうだが(川口氏)、『本草啓蒙』には既に山城の一部でも、ミズヨロということを録しているから、近頃の語ではなかったのである。ミズヨロは多分啼声を写したもので、なお想像を進めて見れば、これにも水を悦ぶという意味が持たせてあったのかも知れぬ。
山形県の荘内地方では、この鳥をまたアマケロと呼んでおり、ここにも例の通り馬喰のかかあという昔話が伝わっている(『土の香』一四号)。ケロは啼声を擬した名であること疑がない。隣の越後でもまたショウビンはキョロロまたナンバン鳥とも称し(『新潟県天産誌』)、そのナンバンは蕃椒のことである。三河地方でも水恋鳥はヒョロローンと鳴くといい、岩手県南部においてもナンバンドリの啼く声は、ヒョウロローと聴えるといっている(『東磐井郡誌』)。秋田県も一般にナンバンドリであるが、またその声によってテロロと呼ぶ土地も多く、角館附近ではテロロが鳴けば天気が好くなるというそうである(武藤鉄城君)。栃木県の一部にはこの鳥をキヨモリという処があることを、これも『本草啓蒙』に録しているが、果して現在まで伝わっているかどうか。もちろんこれは平清盛が火の病ということを知った者でなければ付けられぬ名ではあるが、ここにも胸の羽が水に映って火に見えるという話が、かつて行われていたことを推測せしめるだけでなく、事によるとこれも啼声のケロロ・キョロロが、こういう異名を誘い出す元であったかと思う。そう考えて行くと土佐や山城のミズヨロの語も偶然ではないようである。
熊本県の阿蘇地方では、チヨユミドリというのがこの鳥のことらしいが、啼声が少しちがっている。近頃はもう姿を見たり声を聴いたりする折も少ないだろうから、話ばかりが伝わればこれくらいの変化は免れないのであろう。いつも川の端に多くいる鳥で、辛夷の花の咲く頃に啼くといっている。前の生で親に偽って、飼牛に水を飲ませなかった者が、死んで生れ変ってこの鳥になった。チヨユミはその人間であった時の名だというが、これもあるいはキヨモリの類かも知れない。その牛を川の端に埋めて、牛が流れはせぬかと見てあるくというのは、この地方でいうアマガクの話、即ち前に挙げた鳶不孝の昔話との混同かと思うが、それにしても雨が降ると啼くという話はあったのである。川に沿うて下る時は川の音のようにゴーウゴーウと啼き、川を上るときにはキキキキと啼くという点は、テロロ・キョロロとは一致しないけれども、やはり川上には水が一滴もないので、下って来るとはいっているのである(『民俗学』四巻七号)。どういう鳥かということを確かめてからでないと何とも断言し得ぬが、南の山続きの肥後五箇荘などには、三河とよく似た話が残っている。奥州南部領などでは、親不孝鳥というのが時鳥のことであるに反して、この地方の山村では、水恋鳥を親不孝鳥と呼んでいるのである。
ナンバンドリという名の行われている区域は、北は津軽の果にまで及んでいる。十和田湖の附近ではトンガラシドリコ、日光の周囲にもトウガラシドリの異名があるのを見ると、命名の動機は赤いからであったことは明かであるが、北秋田の方では羽が赤いから蕃椒鳥だというに反して、東磐井郡では嘴が真紅で蕃椒に似ているからといい、鳩より小さくして茶褐色だとあるのが(郡誌)、何だか山ショウビンの方にも取れる。しかし啼声のヒョウロローは赤ショウビンでなければならない。鹿角郡などでも体が赤いからナンバンドリだといっている(内田武志君)。北秋田地方ではまたの名をテロロもしくはヒョウスドリ、青森県に行くとヒドリという方が普通であった(『薄の出湯』)。ヒドリは下北半島の海近い山でも、晩春初夏に朝早くよく啼いた。色が赤いから火鳥であったろうと思うが、その名に伴のうて不吉な聯想もあって、必ずしも人望の多い鳥ではなかった。津軽地方ではまた赤ショウビンをジゴクドリあるいはケカチドリともいう。ケカチは飢渇の字音から出来た語で、東日本は一帯に凶年のことを意味している。ケカチの年ばかり多くこの鳥が出るわけはないから、単にこの鳥をその前兆として忌み怖れたのが起りかと思う。九州の方でも彦山の周囲の村などでは、赤ショウビンをニイレという方言があり、この鳥が人家に入れば死人があるといった。人家へは滅多に入って来ることがなかろうが、啼声を聴いただけでもその前兆であるようにいい、午前に鳴けば若い者、午後ならば老人が死ぬなどとさえいう者があった(安部幸六氏)。ニイレという語の語義は明かでないが、沖縄諸島にはニイラ・ニライまたはニラヤという語があって、いわゆる根の国を意味し、また竜宮の代りにも用いられる。あるいはこれもまた時鳥のように、冥土の鳥ということかも知れぬ。豊後の竹田附近にはヒトダマという鳥がある。嘴大にして赤く、羽の端には蒼味がある。赤ショウビンかという者もあるが、山ショウビンかも知れない。神原村などではこの鳥が啼けば人が死ぬといっている(川口氏)。気味のよくない話には相違ないが、鳥を霊ある者また不幸の警告者と見る例はこればかりでない。空から来る故に遠い国の使と解し、もしくは亡き人々の仮の姿とも見たので、それ故に「前生は人」という昔話が、数おおく生れたのである。奥羽各地でいうマオドリや、中部山村のニヨヒドリの類には、声のみ聴いて姿を見たことのないもの、即ち動物学上の問題でない鳥は幾つかある。それに比べるとミヤマショウビンなどは、日本一番の派手な鳥、緑の樹の蔭で最も目に立つ鳥で、その声もまた決して憂鬱でないのだが、いかんせん毎年その数は乏しくなり、かつその消息があまりにも突如としている故に、終には逢う人の胸を轟かせ、こういう俗信の次第に成長することを制止することが出来なかったのである。
終りにこれは自分の領分でないが、少しばかり分類学上の赤ショウビンを擁護してやりたいと思う。この一科の形めずらしい諸鳥は、通例カワセミ即ち翡翠を以て総代としているようだが、これは後世に入ってこの鳥のみが数多く、いわゆる赤ショウビンが深山に隠れて、尋常でなくなったためかと思う。全国を見渡してカワセミを意味する方言は最も数多く、あるいは水恋鳥に数倍するかと思うが、その中で殊に大きな区域で行われているのはショウビンの一語であり、これがまた赤ショウビンの名の元でもある。そのショウビンも川せみのセミも、共に大昔のソニから転訛した語音であることは、狩谷棭斎の『箋註和名鈔』にも既に詳かに説いている。『和名鈔』の時代には曾比、それが『壒嚢抄』には少微となり、近世に入っては少鬢ともなったが、なお播磨では将人・伯耆・出雲では初人、備前・美作では初爾といって、最初の蘇邇の形を遺していると述べてある。今日の方言分布に照して見て、大体に狩谷翁の挙げた通りである上に、関東東北にはソウナという例も弘く、宮城秋田等のスナゴドリの如きも、更にそのソナから進化したことが察せられる。故にもし名を正すとなれば、ヤマセビ・カワセミよりもショウビンの方が古に近く、それが訛りとして排斥せられるとすれば、いっそソニドリと呼ぶより他はないのである。ところが現在のカワセミなるものが、果して大昔のソニであったか否かには疑がある。『万葉集』の歌にはソニ鳥の青き衣とある故に、これで多くの人はもう安心しているようだが、奈良朝だから間違いをしないという、証拠などは一つもないのである。ソニは引離して見ればいずれも赤いという意味しかもっていない。始めてこの語を鳥の名に応用した時には、やはり赤ショウビンの方の名であったのを、形状習性のよく似た同類に押拡めていたために、次第に青い衣の里馴れた魚狗が、最も多くソニと呼ばれるようになったとも見られる。もしそうだとすると、元のソニは名を取られたのである。そうして赤ショウビンなどと二重の形容を受けているのである。イブセンの芝居の医師ストックマンの言い草ではないが、数が少ないということは、何かにつけて損だと思う。ソニを尸者とするという有名な神代紀の記事は、我民族の信仰生活の歴史を尋ねる人々のために、相応に重要なる史料である。喪のある家で口寄せを立てて、死霊の言を聴く風習は、今なお田舎には正式に行われている。これと同一の行事が夙に天稚彦の神代にもあったことは、僅かにこの記録によって明かになるのであるが、その尸者が青い衣を着ていたか、または赤々と染めた衣を着ていたかは、今日の学問ではまだ知ることが出来ぬわけである。
近世の俳人たちに、妙に行々子という鳥の名は気に入ったらしく、江戸では殊にこれを句にした者が多いようであるが、一時の流行であったと見えて、『七部集』などにはまだ一句も出ていない。そうして元来どこでこの文字が生れたかも、明かには知れないのである。私たちが聴いている限りでは、今の関東の田舎はほぼ一円に、ケェケェシまたはケケスというのが「おおよしきり」の方言で、静岡県に行くとキャキャス、播磨の自分の故郷ではココチンともいっていたが、ケケスはなお近江の湖畔、阿波の吉野川流域、丹波等にもあって弘い名称である。行々子に近い音で呼ばれているのは、九州の方では福岡県のギョギョウシもしくはギョウギョウセン、佐賀県のギョギョス、東の方では越後でキョキョシ、青森県の津軽地方でチョチョジ、それから秋田県の北部にチョンチョジンまたはギョギョジという語があるのみである。最近に八郎潟のほとりで生れた者が訪ねて来て、いっしょに岡の麓の蘆原をあるいて、この鳥の囀りを聴いたのだが、この人々ははっきりとジの音を濁って呼んでいた。
行々子という名前は、まさかこれ等の遠方の土地から借りて来たものではなかろうと思う。いずれ双方とも啼声から出た語には相違ないが、多分は以前多くの土地に、こういう二種以上の称呼が併存していた時期があって、後に主としてその一つだけが用いられ、他の一方が忘れられたのであろう。『裏見寒話』を見ると、古くは甲州にも剖葦をカラシという方言があった。一つだけ聴くとやや変だが、宮城県などは一円に今でもカラカラジ、その北に続く旧南部領はガラガイシ・ガラガラズまたはガラガイデ、秋田県にもカラガラスという鴉のような名があり、『青森県総覧』には五種六種の地方名が列記してあって、しかも土地によってはその幾つかを共に知っている。たとえば西津軽郡七ツ石の子供言葉に、
チョチョジ、カラカラジ
竹原の雀
おらもチョチョジに負けねでしゃべろ
というのがあるが(『津軽口碑集』)、普通は片方ばかりを使っていると見えて、よくしゃべる者を評して、「チョチョジのあだまさ鈴こゆい附けたようだ」というたとえ言が、この附近には弘く行われている。ケケス・ケェケェシに今は統一した関東の田舎にも、もう一つの呼び方がつい近い頃まであったので、それが俳諧者流の愛用する所となると、かえって児女日常の言葉には向かなくなったものと思われる。行々子はまことに気の利いた文字かも知らぬが、それこそぎょうぎょうしくて、俗衆は敬遠せざるを得なかったろう。
以上の外に、この小鳥の地方名には、全く系統を異にしたものが現在もなお二つ以上あって、ヨシキリ・ヨシワラスズメなどというものはその一つである。享保二十年に成った『備前産物帳』という写本に、ムギウラシ、剖葦鳥ギョギョシのことをいうと出ている。故友島村知章君の『岡山方言』を見ると、現在はムギワラスズメというのが普通で、麦の熟する前に来てヒュヒュヒュカチカチカチと啼くと説明している。熟する前に啼くのでは、麦藁では理に合わないから、多分二百年の間に麦ウラシがこう変化したのであろう。ムギウラシとヨシワラ雀とが融合すれば、こんな形になるのも自然である。ウラスというのは熟させることで、即ちあたかもこの鳥の声に促されては、麦がウレズにいられぬというような昔の民間暦思想の産物とも認められる。しかし若夏の麦漸く黄ばもうという頃に、里近くへ来て啼く鳥は他にも数多い。だから僅かばかり西に離れて芸州の高田郡などに行くと、麦ウラシは即ち雲雀のことであり(郡誌)、今はどうあるか知らぬが対岸の香川県あたりでは、郭公を麦ウラシと呼んでいたことが、蘭山先生の『本草啓蒙』に見えている。もっと異なった例としては、壱岐では梟をムギウマセドリといい、この鳥が啼き始めると麦がウンデ(熟して)来ると伝えている。各地の命名がこのように思い思いで、弘い一致のないということは、たとえ二世紀前の写本に出ておろうとも、やはりその頃の一種の新語であったことを意味するものである。
ヨシキリという名なども今日は標準語に編入せられているが、それはただ文化の中心に近い地方の、近世の発案というに過ぎなかったかも知れぬ。漢名の剖葦もあの鳴声の物騒がしく、葦を裂く音のようだという形容らしいから、もし偶然ばらばちょっとおもしろい内外の一致だと言ってよいけれども、私にはどうやらそれ等を既に知っていた人の、飜訳かの如き感じがする。語韻がさっぱりとしていてかつ四音声であるということは、歌謡や語りものには都合がよいので流行も容易であったろうが、葦をキルという語は少しばかり無理である。ヨシワラスズメという名はその前からあって、多分ヨシキリの理解記憶を助けたのであろう。スズメという語は本来は小鳥の総称で、今でも藪スズメ(あおじ)だのカナスズメ(鶺鴒)だのという方言は多く、これを差別するためには今日の軒の雀をサトスズメ・ホクロスズメまたはマスズなどと呼んでいる。蘆荻の間ばかりに棲む小鳥だから、ヨシワラスズメといったのは自然である。
しかしそれとてもまた一つの異名で、ヨシキリもムギウラシもまだ生れなかった以前、京阪江戸を含んだ広い日本の版図には、簡単にあの啼声を模擬したギョギョシ系統の言葉が行われていて、俳諧の行々子はただこれを漢字にしたまでの手柄であり、他の一方ケケス・カラガイデという類の多くの方言は、何も知らずにこれを保存していたのかと思う。鳥類は昔の方が数も多くまた永く続けて啼き、人のその声に耳を傾けている余裕も、たしかに今よりは多かっただけでなく、それになんらかの意味あるものと解して、名称をその間に求めようとした念慮も、古人は我々よりも遥かに強烈なものを持っていたのである。
その証拠というのも物々しいが、行々子は全国の隅々にわたって、その名と因みのある一定の昔話をもち伝えている。名前が地方ごとに変って来るに伴のうて、話も追々に興味を薄めてはいるが、伝承の力は誠に恐ろしいばかりで、心を留めて見れば幽かながら、方々にその痕跡がある。たとえばこの鳥をココチンなどという私の郷里でも、子供の頃に父から聴いた前生譚が一つあった。昔々ココチンはあるお屋敷に奉公をしていた下郎であった。主人の草鞋をたった半足盗んだばかりで、罪せられて打首になった。それで鳥に生れかわって、今でもワランジカタシデクビキラレと啼くのだ云々。私にはこの昔話がいつまでも腑に落ちなかった。というわけはどこで何べん聴いて見ても、何としてもワランジカタシとは聞えなかったからである。ところが近年になって青森県八戸市の新聞にあの地方のいわゆるガラガイシが
と啼くというが、いかなる由来であろうかと設問した人があるので、こいつは面白いと気をつけていると、暫らく経ってからその答が投稿せられた。そうしてこれが最も詳細に昔話の元の姿を伝え、またあの啼き声を適切に説明していたのである。簡単にその筋をいうと、昔々ある処に長興寺というお寺があった。そこの寺男が和尚の伴をして行く途中、主人の草履を片一方落してしまった。それが不埒だというので打首になり、下男は死んで行々子になった。それ故に今でもこの鳥は
チョコウジ、チョコウジ
ゾウリカタアシナンダンダイ
キラバキレ、キレキレキレ
と啼くのだという。もちろん最初にはあの啼声をこう聴いて、次々にこの説話をまとめ上げたものであり、言わば第一次の話し手は鳥だったとも言えるのだが、それにした所で不思議なのは、同じ言い伝えが中国の村里にも及んで、なお履物の片足という点を、失わずにいたということである。しかもこれがただ南北二箇処だけの一致であった場合は、また何とか手短かの解釈も出来るが、後々気をつけていると中間の例はまだそちこちにある。たとえば羽後の仙北地方では、この鳥は
常光寺常光寺
ケエズケエズ
と啼くといい、文句は忘れてしまっているけれども、お寺の名だけがよく似ている。栃木県の一部分にも、たしかまた草履を片足盗んで斬られたという話があり、顛末は少し入組んでいたが、寺の名は長松寺とか何とかいっている。捜したらまだまだ見つかることと思うが、東京近くの武州保谷村でも、
ケエケエズケエケエズ
坊主の頭でクルクルクル
と啼くといって、依然としてなおお寺との縁は切れない。
もっと変った例では同じ南部領でも九戸郡及び上閉伊郡の一部分に、剖葦はその前生に不品行な娘だったという、少しばかりオブシインな昔話がある。萱原の中に寝たために萱の葉で尻を切り、それで今でもイテテテと啼いて、そういう処を飛びまわるのだという笑話であって、殺されたのではないが切ったという条はなお残っている。これなどはほんの思い付きに、田舎の曾呂利がいい始めたものかと思うと、それさえも突発ではなかった。越後南蒲原郡の子供言葉に、剖葦の鳴声だと言って、それと三分二以上同じものが伝わっているのみならず別にまた屁ひり爺の昔話の一変形として、小鳥が娘の腹に飛び入って、そういう唄を歌ったというものも採集せられている(『昔話研究』二号)。こんなたわいもない戯れごとまでが、なおその発端を遠々しい昔に持っていたのである。
私の行々子観は次の通りである。この言葉は現在はほぼ俳諧者流の専売の如くなっているが、それがかつてこの小鳥の普通の名であった時代は相応に遠くまた久しく、ちょうど我々の間に説話の叙述法が、自由な躍進を許された時代と重なっていた。人は小鳥が前生を啼いて語るという、古い信仰にはなお囚われていながら、それを出来るだけ奇抜にまた写実的に、話して見ようという努力をしていた。あの一風かわったヨシキリの声によって、下郎の絶望した斬れ斬れ斬れの罵りの語を空想し、更にありそうなお寺の名を取添えて、一場の哀話を組立てたなどは、これもまた日本特産の中世の大衆文芸であったろうと思う。
「家の光」の編輯者から、何か夏の晩の椽先などで、子供や女たちといっしょに読んで面白いような、話はないかという相談を受けた、それは幾らでも捜したらあると思う。
しかし話は長くなってしかたがない。私は今非常に用が多い。だからここには問題だけ出して置こう。この雑誌の読者は何万人とあるはずだから、その中から追々に跡を継いで話をすることにしたら賑やかでよかろうと思う。そうしてもし自分の誤まっている点などが、そのついでを以て訂正してもらうことが出来たら、学問のためにも大きな利益である。実際子供たちの話から、我々の学び得ることは多いのである。そこで先ず最初には梟の話をして見よう。
自分たちは今ちょうど日本語の歴史を考えている所である。千年以前の日本語と、今日我々の使っている言葉との間には、かなり著しい変化がある。それがどうしてこのように変ったかを説明するには、やはり一つ一つの物の名から始めて行かなければならぬ。それがまた随分と興味のある仕事なのである。その中でも鳥の名は最も久しい間、田舎に住む少年たちの面白がる題目であった。そんなものを忘れたり考えて見なくなったりすると、てき面に村の生活が淋しくなる。だからそれを思い出すことは、一つの大なる復興にもなるのである。
そういう理屈はどうでもいいとして、梟の昔の日本語はツクであった。それがいつの間にかフクロウと変っている。どういう事情からそう変化したかというと、じっとあの鳥の啼く声を聴いているうちに、子供たちが誰いうとなく、この名を採用することになって、それに大人も反対をしなかったものである。鳥とか虫とかの名前は、大抵はこうした簡単な理由から出来ているが、それが古くなって意味が少し不明になる頃には、子供はまた新らしい次の名をこしらえて、彼等仲間の話の種にするのである。
大人には到底考えられぬことだが、あれは何と言っているのだろうかという疑問は、今でも鳥や虫に対して子供が持っている。つまり閑が多いからでもあろうが、耳を澄ましていつまでも聴いていると、後にはその言葉がきまって来て、外に解釈のしようもなくなってしまい、それが自然に名前ともなれば、またこれに伴なう唄にも話にもなって来るものらしい。
実例で説明するならば、東京の附近から信州北国にかけて、梟の啼き声が
と聴える地方はいたって弘い。そうして子供はこの鳥の名を、ノリツケとも呼んでいるのである。あしたはお天気だ、洗濯物に糊を附けて乾すによい日だと、教えてくれるように想像をしたのが、実際はしばしば雨降りのこともあって、そんな予報が当るはずもない。そこでしかつめらしく説明をして、ノリスリオーケと啼く時が晴天、ノリトリオーケと啼くときが雨天だなどと、ちょっと聴くとなるほどそうかと思うようなことを言った人もあったが、あれは大人の冗談というもので、子供たちはそんなことまでは考えない。
つまりは梟の啼き声が二段になっていて、ホホという高い声の部分が、何だかホーセとも聴えるので、その他の低い声のぐずぐずとした部分を、糊附けとでもいうのだろうかと、想像して見ただけである。著物を洗って糊を附けて著ることは、随分古くからの我々の風習らしいが、百姓の衣類の麻糸が細くなり、または木綿で織ったものを用いるようになって、その風が非常に盛んになったのはやっと二百年ぐらい前からの事である。故にこういう意味に梟の声を聴くことになったのも、そう古い話ではないように思われる。
富山県の田舎には、ノーツキホーホと啼くという処もある。仙台などではノラスケホーホと啼くといっているそうだ。ノラスケは多分なまけ者ということであろう。昔から梟のホーホは、人を馬鹿にしたような声に聴えたと見えて、こういう種類の解釈をして、面白がった例が幾らもある。一人で林の陰の暗い路などを還る者はやや敵意を含んだようなホーホを聴かされると、腹が立つよりはむしろ心細く感じたかも知れぬが、村にいて多くの人と共にこの声を聴く子供ならば、誰かそこらに梟にひやかされてもよいような、ノラスケがいるものと想像して、おかしがってこの声を聴いていたことと思われる。
伊勢から三河・遠州の方面にかけては、この鳥をゴロスケと呼ぶ村が多い。そうしてあの啼声を説明して
ホーホ
五郎助どうした
酒でも飲んだか
と啼くのだと、教えてもらっていた子供もあった。もちろんそんな長たらしい啼きようはせぬのだが、ホーホと五郎助だけではまだはっきりとせぬ故に、子供を愛する年よりなどが、おどけた通弁をしたのであった。大抵の子供はこれを聴いて、笑って夕方の淋しさを忘れたであろうが、親がそんな事も考えずに、五郎助という名を付けてくれた少年だけは、きっとそのたびにいやな思いをしたことであろう。
静岡県の方では、梟のことをある村はゴロスケといい、また他の村ではゴロシチともいっている。
五郎七ほうこう
ただ奉公
と啼くという話もあった。あるいはこの鳥をゴロッチョともいう処がある。また千葉県から茨城県へかけてはゴロットホーコーと啼くと子供たちはいう。多くの農民の子弟は学校へ行く代りに、奉公に出て働くのが近い頃までの習いであったから、梟もやはりそういう啼き方をしたのである。岡山県の西の方へ行くと
という歌がある。幾ら貧乏人の児でも始めて奉公に出るときには、少しはさっぱりとした著物を著て行くのに、それをひやかしてこんなことをいう。だから梟は子供たちには好かれなかったらしいが、実際はあの喉を鳴らすような低い声が、何だか五郎七・五郎助といい、または襤褸著てという風に、聴えたのだから仕方がない。
栃木県の宇都宮附近では、梟のことをボロスケといい、またその啼き声をボロキチといっている。それから西の方へ行って見ると、和歌山県から徳島県、香川県広島県などではこの鳥の名をフルツクといい、
フルウツクの子
糊をすり置け
あすは日より
と啼くなどともいっていた。ツクというのは古くからの名だが、あれもやはり啼き声から出たものかと思う。その他茨城でもホロスケといい、山口県の大島でボロコキといい、筑後の柳河でゴロクソというなどは、いずれも皆同じことであろう。大島のボロコキはボロキテトウコイ、破れた衣物で早く来いと啼くといい、筑後ではゴロクソヘーゾ、即ち何だか平造という人を、馬鹿にしたような啼き声である。
だから私はフクロウという名前も、元は自分で啼き始めたものと思う。名古屋の近くの人はこの鳥を、ホクロクという。秋田県でも男鹿半島ではフクログと呼んでいる。何かそれ相応の文句があったのであろうが、私はまだ聴いておらぬ。東北でまた梟のことを
モホ 秋田県大館
モオドリ 青森県弘前
オーホ 岩手県盛岡
などというのは、これもまたホーホという高い声の形容である。それを他の国で何といっているかと尋ねて見ると
コヘイドリ 栃木県
ゴヘイ 茨城県一部
コウゾウ 福岡県
ドウコウ 佐賀県
コオズウ 大分県
コウゾウ、コウズウドリ 熊本県
などというのが多く、いつでも梟はその声を聴いて怖ろしがるような、小僧たちの名ばかりを喚んでいたようである。鹿児島県にも色々の名前があるが、小さい子供のだだをこねる時などは、「この人取って食おう」と啼くという説もあって、だから梟のことをトックオとも名づけていた。
諸君の田舎にはまだ色々の名前があり、歌があり話があることと思う。私の生れた中国の村では、以前は梟のことをコジョロといっていた。そうしてあの啼き声を
コジョロ
戻ってねんころせ
というように解していた。小女郎というのは小さな女の児のことである。もう夕方になった。家に還って寝よということを、昔の人はこういったものらしいので、他の地方に比べると甚だ上品な、かつ心のやさしい梟であったと思っている。コーゾーといって啼いたという村でも、多分は必ずしも取って食おうというような、怖ろしいことばかりは言わなかったものと思う。
以前の子供はまだ色々の話を知っていた。それをもう覚えている者がなくなって、名前ばかり残ったのである。一体この鳥は巣を作るのが面倒で、大木のうつろの中に寝るのだけれども、冬の晩は寒くて仕方がないから、「夜が明けたら巣作ろう」と啼いているのだという話もあった。そうして朝になると忘れてしまうともいっている。即ちフクロウをツクロウと聴き取って、こんな想像をした子供もあったのだ。それから推測すると、次に挙げて置く梟の異名にも、必ず何かこれに伴なう歌があり、また話もあったことと思う。それを知っている人がまだあるなら、今一度子供たちに話して聴かせたらどうであろうか。
キドジュ 鹿児島県
コーキチコイ 島根県美濃郡
キロク 岐阜県山県郡
ボンスケドリ 滋賀県野洲郡
オクンボ 静岡県志太郡
トリオイ 三重県白子
多くの友人は笑って信じなかったけれども、私は今でも九州の鳥の言葉が、少しばかり東国とちがっているように思っている。たとえば球磨郡の五木では、終日雨の旅宿で鶯の声ばかり聴いて暮したことがあったが、ホケキョと三音に鳴くのは二十回に一度くらいなもので、普通はきまって四声ずつ続けていた。時鳥なども始めに間を置いて二音、それから例の「かけたか」を言うのが、関東の方では当り前となっていたのだが、この節東京郊外の私の村などを啼いて通るものは、それさえ節約して大抵は「かけた」きり、時にはキョキョとただ二音だけで行ってしまうような気の早いのもある。ところが九州では大隅・日向の海岸で、里のはずれのアコウの木の高い梢などに、腰をおろし悠々と啼いていたものは、いずれもよく聴いていると五音であった。これはあるいは樹にいる場合と、空を飛ぶ折とは感情が別なのかも知らぬが、以前日光の山の寺で、庭の木に来てうるさいほど啼いた時にも、やはり関東の時鳥は四音にしか啼かなかったことを思うと、今では既にまた土地土地の、彼等の方言が出来ているらしいのである。
鳥の言葉にも地理があり歴史があることは、我々はつとに家々の鶏においてこれを経験している。チャボと名古屋交趾とを並べて鳴かせて見ても、神代の常世の長鳴鳥の声音を、想像することはむつかしい。単に生れが異なる故にその声がちがうとすれば、時を同じくせぬものの間にも、また若干の変化はある方が自然である。現に今日はコロクと鳴く鴉も少なく、カケロとうたう鶏などは探してもいないのである。都の時鳥もヘドトギスの狂歌の出来た頃までは、まだ南九州の如く克明に我名を啼いていたかも知らぬ。仮にそうだとすると約に背いたのは彼等であって、古人の命名法は必ずしも不精確ではなかったのである。
私などの生れた中国のある村では、梟の名はコジョロであった。それはあの鳥が初夜近くなると、「小女郎、戻って寝んころせ」と啼いて、遊び浮かれている小娘をからかうというのだが、話ばかりであって終にそういう風に聴きなす折はなかった。梟にも何か面白げな「ぐぜり」のあることは事実だけれども、通例はその声が非常に低く、夜深く背戸の樹にとまって枕元で啼くような家でないと、それまでを記憶することが出来なかったのである。だからあのホーホという大きな声ばかりに、色々の意味を持たせて聴くようになった。例えば「糊つけ」という名は、ホーセー(乾せ)と聴いた人たちの想像で、それからまた「あすは天気」と鳴くのだとまでいった。関東東国の村の子どもが、これを「奉公」と聴いたのは哀れであったが、それに伴って五郎七少年の身の上話などが、空想せられたのは面白いと思う。九州ではやや弘い区域にわたって、この声をコーゾーと聴くのが普通であった。
こういう幾分か教訓味を帯びた、軽い嘲笑に解釈した土地もあったけれども、終始は意地の悪い、殊に子供を嚇そうとする鳥として、わざと家庭用に残して置いたかと思う地方が多かったのである。
これが当世の童話文学なるものの、一の起原であったろうという想像は、もう恐らくは多くの人が抱いていることと思う。子供は梟が何と啼くかを教えてもらって、決してそうかと言って黙ってしまうものではない。必ずその後から「なあぜ」と「どうして」を連発して、満足するまでの説明を要求する。そうなると親たちはうろ覚えの中から、半分は手製の昔話を持出し、ないしは即興の一篇を創作して、それが傑作ならば永く後代に伝わることもあったかも知れぬからである。しかも自分などの驚いているのは、そういう思い思いの咄嗟の趣向かと思う昔話に、なお見遁し得ない共通の動機のようなものがあって、それが殆と日本の全国に一貫している事である。単に頑是ない聴衆の好奇心を充すためならば、入って行く必要もなかったろうと思う説明に入っていることである。これには何か隠れたる約束があるのではないか。即ち天然はむしろ各地の鳥の言葉を、ちがった聴きように誘おうとしているにかかわらず、歴史はいつも根強い暗示を以て、我々の解釈を一方に引付けているのではないか。もしそうだとすれば童話そのものの今日の定義は、当然変って来なければならぬ。私はこの推測の当っているか否かを知るために、今まで意外に顧みられなかった九州の鳥の昔話が、これから諸君の努力によって採集せられて来るのを待っているのである。
梟は何と言って啼くかという問題は、今から四十年も前に「日本」という新聞で、その答を全国から募集したことがある。この鳥の地方名は大抵は啼き声が元で、中国と四国とはやや弘い区域にわたってフルツクであるが、一たび九州に入ると殆と土地ごとに名が違っている。比較的多く行われているのは小僧鳥てあるが、それでも「鼻くそ」を「かなくそ」といって見たり、また「かれくそ食うか」という処もある。肥前の南高来郡の一部などでは、
というそうで、これに伴のうて鳥と小僧との童話があったというが、長崎はもう別で、
といい、すなわちまた金貸の霊、死して梟となるという昔話があったのである。これと同じような例はまだ幾らもあって、それを並べて見るときっと面白いのだが、余り話が長くなりそうだからここには割愛する。独り梟という一種の鳥だけに限らず、九州は全体に他の地方と比べて、鳥の昔話が豊富であるように思われる。豊富ということは村と村、もしくは家と家との間にも言い伝えの変化があることで、前にもいう通り、話の基調までが別なのではない。これは恐らく輸送が古く行われ、保存が久しく続いたことを意味するので、仮に最初から各地独立して発生したものであったら、かくまで一致しているはずがないわけだ、と私は思っている。
いずれの民族においても、動物の説話は最も古く、従ってまた出処原産地の確かめ難いものとなっている。実際日本でもいかなる種類の人が運搬したものか、これほど全国的な鳥の話が、今ではすべて実生えの如く、村々の土と結び付いているために、あるいは大昔一つの炉にあたっていた時からあったのを、持って別れて来たようにも考え、あるいはまた偶然に人の空想が、一致したように想像している者もあると思うが、それは両方とも証拠の入用なことであった。人によってはまたこれと反対に、何でもかでも昔話と言えば、すべて説教僧が法談の資料に、持ってあるいて残して行ったものと、思っている者もあるらしいが、これも簡単には承認し難いことである。
もちろんこれだけの一致は偶然というわけには行かぬが、同時にまた地方ごとに必ず少しずつの変化を見るということも、やはりまた隠れたる原因があったのである。その原因を発見するためには、何と言っても事実をもっと多く、集めて見ることが順序である。ところが自分たちは遠方に住んでいて、そういう機会が得にくいのかも知れぬが、今まで一向に九州の鳥の話を聴いていない。たまに珍らしい「鳥の言葉」があるので、どうしてそういうのかと子供らしく尋ねて見ても、私も知らぬと言って、殆と答えてくれた人はないのである。あるいは九州の諸君が殊にこういう昔話を、下らぬことだと考えておられるのかも知れない。もしそうだとするとほんとうに忘れてしまわぬうちに、決してその採集が無意義でないことを、話して見る必要があるかと思う。昔話を最も多く持っている鳥は時鳥、それに次では梟であるけれども、余り長くなるからこの二つは後まわしにしよう。そうしてもう少し簡単なものから、段々に比較を進めて見ようと思う。
この類の昔話は、妙にいつまでも心の底にしみ込んで消えぬものである。年を取ってから思い出す機会の多いものである。それには相当の理由があるのだが、普通は自分だけがそうなのかと思って、話し合う者が少ないのである。耶馬渓附近の人ならば皆知っていることと思う。あの地方の山で初夏の夕方に、淋しい声で啼く猟師鳥という鳥がある。東の方では何という鳥であろうか、ここでは「猟師来い、黒来い」といって啼く故に、猟師鳥というのだといっている。昔々春の末にある一人の狩人が、黒という狗をつれて狩に入り、彦山に近い山の中で鹿を見つけた。それが彦山権現の神鹿であることを知らずに、七日七夜の間追い続けて終に射留めることが出来ず、その鹿も猟師も狗も、共に疲れて平田の岩屋という処まで来て倒れてしまった。猟師には美しい孝行な娘があった。毎日毎日父の行くえを捜して、山中を尋ねまわっていたが、悲歎の余りに発狂して父と狗との名を喚びつづけて死んでしまった。それから毎年その季節になると、この鳥が出て来て「猟師来い、黒来い」と啼くので、娘がその鳥になったといい伝えるようになったといい、誰でもこの鳥の姿だけは、見たものがないとも言っている(『郷土研究』三巻六号)。その神鹿の蹄の痕、及び犬岩・握飯岩などの遺跡もあると言うから、とにかく土地では実際あったこととして伝えていたので、化して鳥となる点はいわぬけれども、かつて井上哲次郎氏の作として有名であった「孝女白菊」なども、あるいはこの昔話を現代化したのではなかったかと思う。
今日の人の考えからいうと、せっかくこのような美談を伝えておりながら、石になったの鳥に化したのと、信じ難いことを附け添えたのは不本意かも知れぬが、実際はその方が元は主であった。山に奇妙な形をした石がなく、また夏ごとにこの鳥が啼かなかったならば、この一話の永世に伝わらなかったのは固より、あるいは最初からこれを説く者もなかったかも知れない。事蹟はそれほどにまで遠い幽かな記憶であって、ただ年々の鳥の声ばかりが、現実に人の心を動かしておったのである。けだし九州には土著の久しい山村も多いことだから、同じ話はなお色々の変化を以て、阿蘇や山国谷以外にも行われているに違いない、それを比べて見れば必ず新たに心付くことがあろうと思うが、その仕事はまだこれからである。そこで私は試みに遠く離れた土地の例を引いて、この想像の必ずしも空なものでないことを認めてもらおうとするのである。
東北には特にこの類の鳥の話が多い。その一つは南会津の山々に啼くモナクナ鳥、これなども啼く声がちがうから別な鳥だろうと思うが、やはりまた父を尋ねに行った猟師の話になっている。昔この辺の村に老いたる狩人があって、元七・黒七という二人の子供を持っていた。父は山に入って大岩に打たれて死んだのを知らず、その二人の子が山へ探しに出て、これも終に還って来なかった。その魂魄が化して鳥となり、今でもモナークナーと啼いて山中を飛びまわるといっている。モナクナは即ち元七・黒七の呼名らしいから、あるいは父の方が子を尋ねているのかも知れぬが、話はとにかくこう伝わっている(『話の世界』大正九年六月号)。人が鳥になることが実際はない事だとすれば、少なくともある一つの鳥の話を聴いて、親子相慕うの情を聯想する習性が、北と南との住民に共通していたという、証拠にはなるのである。
しかもその中間にも飛び飛びの例があるから、単なる偶然の一致とは言われないのである。瀬戸内海では讃岐の小豆島などにおいて、梟のことをヨシトクといっているが、これにも半分まで同じ話がある。昔ある村に母と二人の娘が住んでいて、その娘の名は姉がヨシ、妹がトクであった。ある時大水が出て二人の子の姿が見えなくなり、母はそれを悲しんで死んで鳥となった。今でも夏の夜が来ると、毎晩暗い中からヨシトクと呼ぶのは、その母親のなった鳥であるという(川野正雄君、『小豆島民俗誌』)。
都会の地に住む人々は、今ではもう闇夜や黄昏時の淋しさを理解せぬと同時に、人を喚ぶという声を聞く事が稀になったが、以前の生活にはそれが通例であり、また最も大切な耳の働きでもあった。そうして宵暁のいたって静かな時刻に、村里近くまで啼きあるく鳥の言葉は、妙にこの人を喚ぶ声と、間拍子が似ておったらしいのである。それが恐らくは我々をして耳を傾けしめ、何か簡単なる日本語を、その中から聴き出し得るように、思わせた一つの原因でもあろうが、まだそれだけでは親を尋ねる子、もしくは子を失って悲しむ親の話の、かように流布する理由を説明し難いのである。もっとも土地によって必ずしも親子の関係とも限っていない。例えば『遠野物語』においては長者の娘、男が山へ行って還って来ぬのを慕うて、化して鳥になってオットーン、オットーンと啼きあるくという口碑を載せ、薄暮に深山の中でこの声を聴くと、限りもない哀愁を催すと記している。同じ地方にはまた馬追鳥という鳥もあった。昔ある長者の家に奉公して、馬飼をしていた少年が、山に多くの馬を放して夕方連れて戻ろうとすると、一匹だけどうしても見えない。それを心配して夜どおし山の中を探しているうちに、これも鳥になって今でもアーホー・アーホーと啼きあるくといっている。つまりいずれも皆その声の鳥なることを知りつつも、何か人間の悲しい言葉であるかの如く、解せずにはいられなかったことは一つである。
遠野の馬追鳥は時鳥に似て少しく大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の手綱のような縞、胸のあたりには馬の口籠に似たる紋様があるという。アーホーはこの地方の牧童が馬を集める喚び声であって、他では必ずしもそうは言わぬから、他処ではもうその話は通用せぬわけである。ところが何かわけのあることと見えて、妙に馬を失ったと言ういい伝えばかりが、方々の田舎に鳥の声と伴なって残っている。九州でもあるいはそうでないかと思うが、自分はまだ一向に聴いていない。中部日本ではいわゆる北アルプスの麓の谷に、雲雀は元馬飼であったという話がある。馬に水をくれなかったのでその馬が死んだ。それで自分も死して鳥となり、空高く上って常に水の在処を探している。そうしてその啼く声は、ミズハホントニクレタンネと、いうのだとも語られている(『小谷口碑集』)。同じ信州でも木曽川の流域に入ると、これがまた水恋鳥の話になっていた。水恋鳥は前生馬を乾し殺した罰で、鳥になって一生水に恋い焦がれて飛びまわらねばならぬ。せっかく流れや水溜りを見つけても、自分の胸の毛の赤い色が水に映り、火のように見えるので飲むことが出来ない。それ故にいつも空に向って雨を喚んで啼くのだといっている。武蔵に接した相模の山村においてもこの水恋鳥を「博労のかか」といっている。昔この鳥は邪見な女で、夫の留守に水もくれなかったために馬が渇して死んでしまった。その罰で鳥になったと言って、それから後段は木曾と同じ話である(『相州内郷村話』)。
全体に夕方や雨の前に啼く鳥の声は、何となく物悲しく聴えるものだが、殊に水恋鳥のヒョロロンヒョロロンと啼くのは、あの世のたよりのように感じられるという人が多い。それだから自然にこの類の話も出来たのであろうが、不思議なのはこの馬を粗末にした報い、そうでなければ親不孝の罪でという風に、原因がおおよそ定っていたことである。三河の長篠の古戦場に近い村にも、水恋鳥は前の生は女で、馬に水を遣ることを怠ったからという話があるが(『三州横山話』)、人によってはまた姑を虐待した悪い嫁であったともいっており、僅かに雨露によって渇を凌ぎ、常に水恋しと啼くということは同じである(『郷土研究』二巻七号)。それから北の方の山村に入って行っても、親に死水を与えなかった罰で、鳥になってから自分も水を飲むことが出来ぬという話は、なお弘く行われているので(『旅と伝説』二巻一号)、恐らくこの鳥が雨の前に鳴き、また胸の毛が火のようであったという以外に、あの啼声の中からも、以前は幽界の言葉を聞いていたものかと思われる。
しかし話は必ずしも鳥の言葉に基づかず、むしろ我々の聴きようの方が、話によって色々に変って来たことは、梟や時鳥の例を見てもよくわかる。親に不孝な鳥という昔話なども、鳶・燕・啄木鳥その他多くの鳥類に行わたって、ただ啼き声だけが変った点であることは、雲雀や水恋鳥の馬を殺した話も同じであった。つまりはかの
という俳句のように、とかく夕暮方の鳥の声を聴くと、自然に胸に浮ぶ感情には、夙くから定った型の如きものがあったらしいのである。
近頃私の聞いた青森県八戸附近の口碑に、山鳩の啼く声はテデコーケー、即ち「父よ粉を食え」と啼くのだという話がある。昔々ひどい凶作の年に、父は山畑に鋤踏みに出ており、母は家にいて炒麦の粉を搗いた。それを子供に持たせて遣った所が、途中の小川を渡ろうとしてその粉をこぼし、それを川の雑魚が浮いて来て食った。子供は面白いので今度はわざと少しこぼすと、雑魚がもやもやと浮いて来て食ってしまう。またこぼすとまた来て食う。そんなことをするうちに時が経って、哀れ父は餓えて山畠で死んでしまった。少年はこれを悔い悲しんで、たちまち山鳩になったというので、今でもその季節が来るとこういって啼くと伝えられている(『奥南新報』)。
テデコーケー、(父よ粉を食え)
アッパーツーター(母が搗いた)
この一つの例だけを見ると、誰しも話はあの山鳩の鳴く声によって、思い付かれたものと考えるのであるが、実際はそうでなかったのである。全然同じ話というわけではないが、これとほぼ似通うた話は、郭公についても語られている。たとえば甲州の精進湖に近い山村では、カッコウ鳥はもと悪い継母であった。どうかして継子を苦しめようと思って、ある日山畠へ麦刈に行っている処へ、子供が弁当を持って来ると、上へ登れば下の方に行き、降りて来ればまた上の方へ行っていて、早く持って来ぬかと何度も叱るので、しまいには疲れきって子供は死んだ。その罰で鳥になって毎年麦を刈る頃、山畠の附近を上下し、八千八声まで啼かぬと口に蛆がわくということである(『甲斐昔話集』)。紀州の高野の麓の鞆淵村あたりでは、昔木樵があって三人の男の子を持っていた。母は継母でその子たちを憎み、ある日弁当を持たせて父のいる山へ遣り、そっと路傍に隠れていて三人を谷へ突き落してしまった。父はその子を探しに日の暮まで、山の中を尋ねまわり、終に郭公という鳥になった。それだから今でもワコーワコーと啼きつつ淋しい山の中を飛んであるくのだと伝えている(『土俗と伝説』)。そうなると全く南会津のモナクナ鳥や、豊前の山奥の「猟師来い黒来い」と同じ話の土地ごとの変化であったのである。
太平洋に面した東上総の村々で、クラッコ鳥といっているのも、やはりこの郭公のことであったらしい。昔おくらという女がただ一人、田の畔に幼児を寝させて置いて田の草を取っていると、不意に鷲が来てその子を攫んで飛んで行ってしまった。驚いて跡を追うたが尋ねようもなく、自分もそのまま鳥になって、毎年夏になるとクラッコクラッコと、啼きつつ山や野を飛びまわる。この鳥の足が片方は黒く、片方は白いのは、よごれた股引を半分脱ぎかけたまま、飛んで行ったからであるという(『南総の俚俗』)。おくらが自分の子をクラッコと喚んであるくのも妙だが、この話は決して突如として始まったものではなかった。隅田川・桜川・柏崎・三井寺等の十数篇の謡曲を始めとして、近くは駿州の姥ヶ池、下野足利の水使の淵、または仙台の小鶴が池の伝説の如く、子を失った親の悲しみを取扱った民間の文芸ほど、久しくもまた力強く、我々の心を支配したものはなかったのである。その中でも鷲がつかんで遠くの国まで、連れて行った子が成長したという昔話などは、次々形を変えて千年以上も続いている。それを忘れかけてはまた幽かに思い出し、そうして新しい話に語りかえて行く機縁が、やはりこの折々の鳥の声であったとすれば、人間は決して書物に書き誌され、もしくは学者に説明せられることのみによって、祖先の思想感情を相続していたのではなかった。いかに時代が進み人の心が改まっても、到底絶ち切れない親子の縁、生を隔てて相思う骨肉の情愛の如きは、むしろこういう天然の記録によって、文字を解せざる万人に読みかつ嘆かれていたのである。
殊に郭公や時鳥は、親を慕い子を懐わしめる鳥であった。昔の「はこ鳥」という簡単な言葉の中にも、人を動かす深秘の意味があったかと思うが、箱と信仰との関係などは、むしろ訓詁を業とする学者の攷究に任せて置いた方がよいと思う。それから転じてまた「はやこ鳥」という名も出た。かつて夕暮方に幼児を背に負うて、山路を行く若い母があった。早来・早来と啼く鳥の声を聴いて、悲しく怖ろしく道を急いでいると、いつの間にかその背の子が死んでいた。これは『藻塩草』という本にある話で、多分知っている人も多いであろう。近世の例としては菅江真澄翁の日記、若い頃尾張で聴いたといって次のような話を載せている。五つか六つになる男の子が、人に負われて物詣りに行く路で、頻りに時鳥の声を聞いて一人で笑っている。どうして笑うかとはたの者が問うと、あの鳥が「ととさへ、かかさへ」と啼くからというので、つれ立つ者もいっしょになって笑ったが、その子はほどなく麻疹をわずらって死んだと言うことである。多分はもう親のない児であったのであろう。支那でも時鳥を蜀帝の魂という伝えがあるために、日本の「しでの田おさ」はその飜訳であろうという人もあったが、なんぼ飜訳ずきの日本でも、こんなことをまで訳して見たところが、弘く平民の間に通用するはずがない。おまけに我々の昔話は、時鳥ばかりか郭公の方にも及んでいたのである。この二つは共に夕暮に鳴く鳥ではあるが、一方は高い樹に住んで空を飛ぶ故か、今でも都市に近づき文学に親しみを持っている。郭公はこれに反して低い林に遊ぶ性質があって、もう私たちの郊外の村にも段々と少なくなった。そうしてこの二種類を混同する説が、古くから行われていたのである。
杉村楚人冠氏は、巣箱主義の新たなる使徒である。彼の我孫子の村荘は園は森林の如く、晴れたる朝に先生斧を提げて下り立ち、数十本の無用の樹を斫り倒すと、その中に往々にして自然の鳥の巣を見出すという実状なるにもかかわらず、更に邸内に総計十二箇の巣箱を配置し、その箱の板にはヘットなどを塗り附けて、いとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。吾人窃かに憂うらくは、昔国中の牢人が競うて大阪城に馳せ集まった如く、いやしくも空中の音楽師の自由なる者の限り、ことごとく湖畔の白馬城に身を投じて、いよいよ以て浮世の金網と鳥籠との束縛を、必要とするに至るなきか。すなわちまたこの際巣箱の全国的普及を、切望して止まざる所以である。
ただし幸いなることには、小鳥に対する先生の好意には、著しい厚薄がある。その愛憎には若干の偏頗がある。カワセミという奴ばかりは、実際困るのだといっている。巣箱の大屋さんから、あの飄逸なる尻尾のない鳥だけが、疎まれているのである。それはまたどうしてかと尋ねて見ると、池に飼ってある魚を狙って、始末にいけないという話であった。
水豊かなる関東の丘の陰に居住する者の快楽の一つは、しばしばこの鳥の姿を見ることである。あの声あの飛び方の奇抜なるは別として、その羽毛の彩色に至っては、確かに等倫を絶している。これは疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散ってここにあるものである。魚類ならばホノルルの水族館の如く、辛苦して硝子の水槽の中に養わざる限りは、常に西海の珊瑚暗礁の底深く隠れ、銛も刺網もその力及ばず、到底東部日本の雪氷の地方まで、我々に追随し来る見込はないのだが、独りカワセミだけは多分我々の先祖の移住に先だち、夙にこの島国に入り来って異郷の風物と同化し、殊にそのおかしな嘴と尻尾とを以て、遠くから存在を我々に知らしめ、これによって寂しい太陽の子孫たちを慰安し、永く南方常夏の故郷を思念することを得せしめるのである。燕の春を待って漸く我々を訪うのに比べて、より以上の忠誠を認めて遣らねばならぬ、それがこのように有力なる愛鳥者から、新たに忌み嫌われなければならぬというのは、仮に是非もない自然の運であったとしても、なお深く嗟歎すべきことではある。
嫌いなら嫌いでそれも結構と言ってよいが、好いじゃないか君の家の泉水に、ほんの小雑魚を年にもう七十ぴきか、八十尾ほども余分に飼って置いて、彼奴に自由自在に狙わせて、遊ばせて見たらどんなものだ。冗談を言ってはいけない。金魚を捕って食うのだよ。せっかく大事にして育てている金魚を、時々せしめて行くからけしからぬと申すのだとある。
なに。カワセミが金魚をくわえて行くか。
なるほど誰やらを金魚の刺身に譬えた如く、あれは食品として人間すらなお断念している魚類だ。かつて大町桂月君等は蔦の温泉で食ったという話だが、少なくとも美味求真でない事だけは明白だ。それを何ぞや小児が餅菓子を鑑定するように、徒らに皮相の色彩に誘惑せられて、選択は当を失するのみならず、終に先生の怒を買うに至っては、翡翠の無智浅慮は誠に憫むに堪えざるものがある。
しかも飜って他の一面、古い天然に倦まんとする人間の目から見ると、実はまたこれほど斬新奇抜なる取合せはないのである。和漢古今の画と文学とを通じて、ないしは繊細の美を誇りとする印度・波斯の芸術の中を求めても、恐らくはこの如き光景はなかった。光あるコバルト色の羽をした、首ばかりのような形の鳥が、丹色の小魚を長い嘴のさきに啄ばんで、水の上を飛び渡るというような絵様は、いまだかつて人の空想にも浮ばなかったと思う。
僕が楚人冠であったら、土工の許す限り先ず庭中に幾つもの池を穿ち、水を浅く面を広々として、安物の数物の大和金魚をその中にうんと放し、少なくとも下総一国のカワセミが評判を聞いて集まり来り、赤い金魚をくわえて右往左往すること、あたかも友禅の染紋様の如くなることを飽かず眺め興じたであろう。惜しいかな好漢、胸中百巻の書を蔵すといえでも、楽しむ所は専ら水墨雲煙の変化にあって、こういう極彩色に対しては、存外に趣味が淡かった。
かつて聴く徳大寺の某大臣、寝殿に鳶居させじとて、屋の上に網を張らしめたという話がある。即ち人間の非巣箱主義の巨魁であったが、しかも鳶の居たるばかり何ほどの事かあらんなどと、一旦は批難をした法師原も、後にその目的が池の蛙の保護にあることを知って我を折った。誠に徳虫魚に及ぶは尊い所業に相異ないが、しかもその間に人を本意とした親疎内外の差別観がなかったならば、このように無造作に、一方の生命を愛惜するためばかりに、他の一方の存在を憎むことは出来なかったのではないかと思う。
けだし物の命を取らねば生きられぬものと、食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の裁決にお迷いなされた。終には御自身の股の肉を割愛して、餓え求むる者に与え去らしめたというが如き、姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得ざったのであす。語を換えて言うならば、おれの池のおれの金魚が大切といえばともかくも、単に金魚が可愛そうだということは、一般にカワセミを納得せしむる理由としては不十分だと思う。
その上に被害者が、もし見にくい池の蛙などであったら、果してこの弱肉強食の現実に当面して、能く同一程度の義憤を起し得たかどうかも、また大なる疑問である。
なるほど池の蛙は惜しげもなく沢山に、毎年の春は生れて来る。しかし金魚の出産率は実はこれよりも遥かに大きいので、鯡や鰹などと同じように、全く最初から食われるため死ぬためだけに、生命を開始するといってもよい者が大部分なのである。大和の郡山の旧城跡、三笠・春日と向き合いの暖い岡に、広い池を幾つも掘って、この中に孵化する金魚の子の数は、百万が単位である。その飼主の柳沢伯が、世に知られた統計学者であるのも、何だか渋い皮肉のように感ぜられる。
この池の中から町の金魚屋が、小さなタマを以てやたらにすくい上げ、荷桶に入れて担い出すときに、やっとの事で金魚の微弱なる生存の価値は発生する。それから次々に山坂を越えて、関東の田舎まで運ばれるに至り、始めてカワセミに対抗して主張せらるべき、何物かが現われるのである。本源に溯れば利欲に専らなある商人、ないしは物ずきの殿様があるために、美しい翡翠たちが楽には取って食うことを許されず、困窮することにもなるのである。どちらが弱肉だか知れたものではない。
しかしそんならそうかといって、丸々カワセミの放恣を黙認することも、出来ない世の中にもうなってしまった。たしか幸堂得知の句であったが、
江戸座の俳諧にはいつも敬服すべき軽妙はあるが、その代り村の生活に対する同情は不足であった。もしこうして雀の食いしん坊を寛容したなら、全国の秋において二三百万石の収穫は違うだろう。幾ら食うものかどころではないのである。二百万石は今日の相場で、一箇の大学でありまたは一艘の戦艦である。これは棄て置かない方が確かによいのだ。
北斎などの読み本の挿画には、田舎の豊饒を写し出そうとすると、きまって鳴子に頓著せぬらしい雀の大群が描いてある。全くこれは結果と原因との取違えであって、この通りにして棄て置いても、まだ余裕がありそうだというだけで、実は雀の一族の大繁栄が、隠れたる後代の禍根であることを知らぬのであった。雀を絵に描いて豊年万作の図と題するが如き人々が、政治を預っていた故に農村は衰えたのである。
妙に纏まりが悪くなったが、何としてなりとももうこの一篇を終ろう。
かかるがゆえに、雀は百姓たちの生れながらの敵である。鷺も烏も苗代を荒らすによって、農民はこれを憎んでいる。正月松の内のめでたい朝も、鳥追いと称して野らに出て大声にわめき、あたま切って尻尾切って、塩に漬けて俵につめて、西の海に流すというような怖しい宣言をする。皆これ白馬城主の金魚に対する憐憫を、今一つ下層の穀物にまで推拡めたものであった。しかもそのような憎らしいことを言いながら、雪解け春来り水盈ち稲茂り、やがて秋の風に黄金の穂が波うつ時が来ると、僅かばかりの充足に心まで酔いうかれて、かえって村雀と共に踊り歌うのである。国富が増殖して生命があり余ると、将軍が兵を用いたがったのと同じように、人は案外無慾で、財宝でもやや不用のものが出来ると、無意味にこれを散じて見たくなるらしいが、ただこの節はそんな場合が、昔に比べて大分少なくなっただけである。
浜で漁師が地曳網を揚げる時などには、今でも子供や老女が来て盗むのみか、事によると飛びまわる鴎の数が、魚の数よりも多いかと思う折もある。梨の実の出盛りに庭阪に行き、または葡萄酒の仕入時にローヌの渓などをあるいて見ると、盗まれて見なければ豊年の悦喜が、徹底せぬような顔した人がいる。極端な場合になると、旅人を捕えて酔い倒れしめざれば止まず、あるいは信州などの十一月には、昔は少なくとも一人の乞食を、食責めにして殺さなければ、済まぬと考えた日さえあった。最近までも我々の間には残っていた饗宴というものの基調は浪費であった。貴人長者の羨まるる所以は、土蔵の戸口に検束が緩くして、台所の隅には怠け者の、飯時だけ起きて来るような男が、幾人も転がっていることに過ぎなかった。黄金時代の太平と称するものも、ありようは特別の奇跡でなかった。ただこんな気楽さが趣意もなく繰返されているうちに、多勢の中から名工も詩人も出たので、結局する所は庭前の池の金魚に、竜田だの唐錦だのと名を附けて、朝夕その頭数を勘定しているような世中になっては、もうカワセミも安閑として、ヒイーなどとは啼いてはいられないのである。
天下の小鳥をことごとく巣箱に保護して見たら、かえって生活闘争は激烈になって来るのではないか。平和とは単に山林に生き残った者の間だけの、差引勘定の名ではなかったか。もしそうだったら今少し考えて見なければならぬ。故にカワセミの問題は今なお未解決である。
ある年の五月、アルプという川の岸の岡に、用もない読書の日を送っていたことがあった。氷河の氷の下を出て来てからまだ二時間とかにしかならぬという急流で、赤く濁ったつめたい水であったが、両岸は川楊の古木の林になっていて、ちょうどその梢が旅館の庭の、緑の芝生と平らであった。なごやかな風の吹く日には、その楊の花が川の方から、際限もなく飛んで来て、雪のように空にただようている。以前も一度上海郊外の工場を見に行った折に、いわゆる柳絮の漂々たる行くえを見送ったことがあったが、総体に旅客でない者は、土地のこういう毎年の風物には、深く心を留めようとはせぬらしい。
しかしそれはただ人間だけの話で、小鳥はこういう風の吹く日になると、妙にその挙動が常のようでなかった。たて横にこの楊の花の飛び散る中に入って行って、口を開けてその綿を啄ばもうとする。それをどうするのかと思ってなお気を付けていると、いずれも庭の樹木の茂った蔭に入って、今ちょうど落成しかかっている彼等の新家庭の、新らしい敷物にするらしいのであった。ホテルの庭の南に向いた岡の端は、石を欄干にした見晴し台になっていて、そこにはささやかなる泉があった。それとは直角に七葉樹の並木が三列に植えられ、既に盛り上がるように沢山の花の芽を持っている。どれもこれも六七十年の逞ましい喬木であった。鳥どもは多く巣をその梢に托していると見えて、そちこちに嬉しそうに家普請の歌の声が聞えるが、物にまぎれてその在処がよくはわからなかった。
ところがどうしたものかその中でたった一つがい、しかも羽の色の白い小鳥が、並木の一番端の地に附くような低い枝の中ほどに巣を掛けている。僅かばかりその枝を引き撓めると、地上に立っていても巣の中を見ることが出来た。巣の底には例の楊の綿を厚く敷いて、薄鼠色の小さな卵が二つ生んである、それがほどなく四つになって、親鳥がその上に坐り、人が近よっても遁げぬようになってしまった。折々更代に入っていて、一方が戻って来るのを待兼ねるようにして、飛んで行くのが雄であった。気を付けて見ると、この方が少しばかり尾が太い。庭掃き老人がそこを通るから、試みに名を尋ねて見た。多分 Verdier という鳥だと思うが確かなことは知らないと答える。英語では Goldfinch という鳥だと、また一人の青年が教えてくれたが、これも怪しいものであった。後に鳥譜を出して比べて見ると、似ているのは大きさだけで、羽の色などは双方ともこの巣の鳥とは同じでなかった。がとにかくに幾らもこの辺にはいる鳥ではあったらしい。
この頃家に十姉妹を飼うようになってから、その小さな目を見るたびに、いつでも私はあの時のことを想い出す。ちょうどこの目をして七葉樹上の彼等も、また私を見たのであった。少しの反抗もない警戒に、一分の懇願をまじえたような目であった。どうしてそのように近々と私たちを見るのかと、訝かるような心持も感じられぬことはなかった。そこで自分は出来るだけ遠くから、また尻尾の方からばかり、いるかいないかを見ようとしたのであった。風の吹く日には尻尾は必ず風下の方へ向いた巣の外へ突出していた。そうしていつ行って見ても、殆とその尻尾の出ていない時はなかったのである。英国に留学して鳥を研究している蜂須賀君が遣って来て、何日目に雛になるかを知らせてくれと頼んで行ったが、余り遠慮をしていたのでとうとうそれを確めることすら出来なかった。
おまけにこの鳥の巣の秘密が、次第に同宿の間に知れ渡って来た。私の目的は全く保護にあったのだが、心なくその木の蔭に立つ者を制しようとしたために、かえって多くの人の話の種になり、中には娘たちを案内して、ぞろぞろと見物に行く男もあった。そのうちに和蘭の外交官だという人の細君が、いたずらそうな男の児ばかり、四五人も連れて遣って来た。頬の赤い眼のくるくるとした子守娘が、事実上の餓鬼大将としてこれを引率している。これはとんでもない敵軍が押寄せたものだと、独り鳥以上の不安を抱いておったところが、果せるかなその次の日の昼過ぎには、もうその巣は空っぽになっていた。何でも昨日の朝とかから、親鳥は餌を運び始めていたというが、私はとうとう様子を見ずにしまった。そんな小さな目も見えぬものを、彼等は取下してどうしたというのであろうか。尋ねて見ようにも言葉は通ぜず、さもさもそんな事は冤罪であるかの如く、平気な顔をして一日中その樹の下を飛びまわって、もう次の日にはいずれへか出発してしまった。
私の話は前置きが長くて、本文はかえって僅かしかないが、書いて見たいと思うことはこのあとの経験である。ホテルには毎日午前のうちに、寂しいといってもよいほど静かなる少しの時刻がある。私はその際ふと窓外の鳥の声を聴きつけて、庭に下りてまた昨日の七葉樹の蔭に行って見たが、巣は殆と元のままであって、その上の枝に二羽の親鳥が、半ば身を傾けてじっとしてその巣の中を覗いていた。何とも言われぬ位にその形があわれであった。そこで始めて心付いたことは、古来東方の故郷の国において、人が深くも考えずに粉本を伝えていた、絵様というものにも基づく所があるということであった。獣には普通子を連れた形、右往左往に遊び戯れるのを、それとなく見守っている処を絵にしているが、いわゆる花鳥には往々にしてこの日の午前の Verdier のような姿がある。それを単なる配合の面白さから、選び出して写したようにこれまでは考えられていた。即ち画は人間の美しいという尺度が定まって後に、それを自然にあてはめて合格したのを採ったものと、多くの歴史家は説明するのであるが、もう自分等はそれを信じなくてもよいと思った。夢で見たもの幻しで感動したことが、強く残っていなければ神の像は描かれぬ如く、かつてある日の物の哀れというものが、自然に我手を役してその面影を再現させようとしたのが、言わば我々の技芸の始であった。写生の真に迫るということは、恐らくは単に心の鏡の澄みきっていたことを意味する以上に、更にそれ自身の光というものがあって、特に力強くある物を照そうとした結果であろうと思った。鳥が人間の魂の兄弟であることを信じていた者は前代には多かった。従って同じ親子の愛情にしても、彼等の感じたものは格別に理解しやすかったので、彼等のこんな簡単な巣を窺うような形までが、永く記念の像を後代に遺すことになったのではないかと思った。
旅人が殊に鳥類の声姿に、心を引かれるのも由来があることらしい。これも芸術の起原論と同様に、美しいということはむしろ結果であって、以前は今よりも一段と彼等の挙動によって、学び心づくことが多かったために、これをよそよそしく眺めることが出来なかったのかも知れぬ。私はまたある時、亜米利加の曠野を過ぎていて、二羽の闘う小鳥が中空に向き合って、羽ばたきをする姿の美しいシンメトリイを見たことがある。古い鏡の絵や錦の模様の中に、これは何度となく見馴れている形であった。鶴の稲穂の国々の伝説を記憶する者には、いわゆる松喰鶴の絵様も、単なる空想の所産とは思われない。たとえその実験は稀にしか得られなくとも、やはり最初はこれによって、何か貴重なる啓示を与えられた名残であることは、卍字も十字架も異なる所はなかったのである。
これは三好さんの話である。
雲仙の国立公園のゴルフ場では、たった一つだけ困ることがある。あの山の烏は横合からやって来て、飛んでいる球をくわえて行ってしまう。それでキャディの任務があそこでは一つ余分になっている。打出すと同時にわいわいと大声でわめき立てて、皆してその烏を逐い払わないと、毎々大事な球を取られてしまうからだという。
自分はこの話を聴いて、思わず本当ですかと言わなければならぬほど驚いた。しかもそういう心当りは正にあるのである。同じ経験は日本でならば、今後もまだ他の地方でも得られるかも知れない。そうして外国のゴルフ場には、恐らくはあまりないことであろうと思う。これは動物にも国史があるという、非常に大切な問題の糸口である。僅かにわかっているだけでも一応は記述して置く方がよい。
それでまず試みに四五人の仲間の寄合の席で、どんな印象を与えるかと思ってこの話をして見た所が、早速にまた新たなる知識を一つ添えることが出来た。友人の榊木敏君は、雲仙の西麓、小浜という海岸の村の人であった。それはいかにもあり得ることだと同君はいうのである。榊木君等の少年の頃には、円い平たい小石を拾って、烏の群を目がけて投付ける遊びがあった。そうすると烏は飛んで来てそれをくわえようとする。つまり雲仙のゴルフ場が開けるよりもずっと前から、島原の烏どもは皆そんな練習をしていたわけである。今でも子供たちは同じ遊びをしているかも知れない。行って聴けばすぐにわかることだが、榊木君などの頃にはその石を投げながら
という詞を唱えていた。そうしてそのカンジョウを子供心に「食わぬぞ」という意味に解していたそうである。
そうすると「この石は餅のような形をしているが、石だから食うわけには行くまい」と、嘲るつもりであったのか。ただしはまたこれは餅だが食わないかと、欺くような気持であったものか。いずれであったかが問題になるが、そういう細かな点までは確かめ難いのみならず、この解釈も実は誤解であったらしいのである。今までの子供の遊戯は、大抵は成人の所作の模倣であった。これも多分は古い時代に、餅を烏に投げ与えた際の唱え言で、烏勧請は即ち烏を迎えて、饗応をするという意味であったのを、後には口拍子に猫勧請を付添えたものと思われる。
自分はそういって独りで感心していると、傍からまた注意をした者がある。関東の子供等は今でも烏の空を行くのを見ると
烏はかアかア勘三郎
雀はちゅうちゅう忠三郎
とんびは熊野のかね叩き
百日たたいて麦一升
などと、何も投げずにただこういって囃すが、文句の長くなったのは面白ずくであって、この勘三郎も本来は烏勧請、即ち烏を招待する時の言葉から出たものかも知れぬという。なるほどそれもまた一つの発見かも知れぬが、これにはなお一応東京近郊のゴルフ場でも、折々は飛ぶ球をくわえに来る烏があるか否かを確かめてから、問題にしても遅くはない。近頃の考証家中には言葉ばかりを気にする人もあるが、言葉ほどこじつけやすいものはないのである。言葉は傍証であって事実の根拠が確かめられた後に、それと思い合せていよいよ間違いがないという時の役にしか立たぬものである。
我々がここで考えて見なければならぬのは、島原半島の烏のゴルフの球をくわえに来る技術は、果して児童の悪戯の円い平たい小石ばかりで、これを養成することが出来たかどうかである。これには今一つ以前の久しい期間、投げて食わされるのがご馳走の餅であった時代が続いて、今なお空中に投げられる円くて白いものを、飛んで来てくわえる習性が生じたのではないかということである。人間が今のように逼迫するよりも前から、もう九州ではこの烏祭は絶えている。子供と烏だけがその古い契約を、僅か片端だけでもなお憶えているのではないか。この点がまず究められなければならぬのである。
ポンソンビ・フェーヌ君は英国から遣って来て、もう二十年近くも日本の神道を研究している。この頃は鳥喰神事に深い興味を抱いて、書物で知っただけの場所は、片っ端から尋ねてあるいているということである。熱田神宮で行われる鳥食いの古式は、この春も拝観して来た。名古屋の南の郊外が煙突の林になってしまってからは、もう肝腎の烏が参列してくれない。式は型ばかりになって空しくお祭の供物をもてあましているという。宮司の桑原さんは考え深い人だ。今にいずれかへ祭場を移される他はあるまいと私も思っている。それから近江の多賀大社、あそこでは毎日烏に神供を与える行事が、今でもまだ続いている。安芸の宮島の女夫烏は、一年に一度しか祭を享けぬことになっているが、時々は七浦回りの信心者の船が供えものをする。熊野は素より日本一の烏の楽土だが、なおこの以外にも何ヶ所とか、烏祭のあるお社をポンソンビ君は知っている。もっとどこかにないだろうか。あるなら行って見たいのだがというご相談である。
いいやまだ一向に私などは調べていません、東京では今頃やっと、国際文化の会というようなものが出来る所なのに、よくも貴方一人でそういう仕事を始めたものですね。これは何とかしてお手伝をしなければならぬと、それから色々関係のありそうなことを話し合っているうちに、かの雲仙のゴルフ場の一件なども出て来たわけである。烏に食物を与えるお社は、府県にはまだ幾らでもありそうに思われる。単に我々が構いつけなかったために、現在はお答えをすることが出来ないだけである。近頃目に付いたたった一つの例は『防長史学』という雑誌(二巻一号)に、玖珂郡柱野村杉森大明神の、御鳥喰神事というのを報じている。旧暦九月十三日の朝、餅を二重ねと米の粉を餅の形にしたもの一重ね、それにその朝の飯・しる・菜を添えて、社の前なる御供石の上に置くと、即時に烏二羽来ってこれを食う。ただしけがれがある時は烏来らずして石の上に腐り、また他の鳥獣も食わぬというが、無論そういう場合はめったにないのであろう。
この烏がただ二羽ということは、宮島でも伝えられていて人がよく知っている。いつでも一つがいに限って出て来るということが信じられ、相続烏が出来ると親は熊野へ還って行くとさえいう者がある。これにも何か理由のあることらしいが、私などにはまだ説明することが出来ない。関東の方でも那須の矢又村の鷲子神社に、二羽烏というのが山中七不思議の一つに数えられているそうだが(『下野神社沿革史』巻八)、これも恐らくお社の祭なり、または信心の参詣者なりの供え物を、出て来てご馳走になる当番の如きものであったらしく、土地ではその二羽烏をミサキともいっているとのことである。
ミサキ烏という言葉は、また宮島でも熊野でも聴くことがある。ミサキは先鋒であり、従って神々の代表者というような意味ではなかったろうか。とにかくに人民ともっとも多く接触する神霊に、その名を用いた例が他にも沢山ある。これによって思い合せることは、西の方の諸県では現在は村共同に、鎮守の社において行う烏祭を、東北や越後は今も家々で、個々に営んでいるのが多いことである。言いかえれば、烏は餅をふるまわれる機会が、この方面では西部の同類よりもずっと多いらしいのである。
福島県平附近の例をいうと、正月十一日の農立ての日の朝、今年苗代にしようと思う田に行って初鍬をいれ、三所に餅と神酒・洗米とを供えて、これを早稲・中稲・晩稲の三通りに見立てて置く。そうして大きな声でオミサギ・オミサギと喚ぶと、直ぐに烏が飛んで来てその餅をくわえて行く。どの餅を先に持って行くかを見て、三種いずれの稲が本年は当り作であるかを決するのだそうである(『民族』一巻二号)。常には憎んで追い散らす烏でも、こういう改まった式の日だけはオミサキであった。
気仙地方にもオミサキツリという語がある。社寺に参って供えた散米を、烏がついばむことをそういうのだそうである。正月の式の日には限らず、山や墓所に上げて置く食物なども、烏が取りに来るのを追わぬのみか、かえって食ってくれないと気にするのである。これもそういう場合に限って、烏を一種のミサキと見ていたものと解せられる。ただしミサキガラスというのは、茨城県などではハシボソガラスのことであって、ハシブトの方はクソガラスという方言もあり、この仲間には入っていないらしいが、果して雲仙の山でもそうした差別があるかどうか。また宮島あたりのミサキはどうであろうか。この点を一応当って置きたいと思っている。
正月に烏に餅を食わせる風習は方々にあるが、同じ東北でも土地によってその式は少しずつ変っている。青森県の東の部分では、これを初山掛けといい、正月八日の早朝に行う村が多いけれども、その初山も四日にする所、十一日にする所などが他にはある。
普通に行われているのは餅を一種の藁苞に入れて、屋敷まわりの一定の樹の枝に引掛けて置き、それから大きな声で烏を喚ぶのである。その言葉が村によりまた家によって、色々変っているのが私には面白い。北秋田の扇田あたりから、鹿角郡にかけてはポーポーといっていた。これは鷹つかいが鷹を呼ぶ時にもそういったそうだから、烏だけに限った語ではないらしい。青森県の上北部ではシナイシナイ、もしくはコーロコロという家もある。シナイはまたスナイとも聞え、スナイチカイと唱える例もあるから、多分苗を結ぶ稲わらのことであろう。餅を包んだ藁苞を蔵って置いて、田植の日の苗束に用いる風習があったらしいのである。
八戸附近の烏喚びの言葉は、ロウロウというのがもっとも多いが、家によってはまたシナイシナイ、シナイローというものもあり、あるいはただカアカアという人もある。越後の古志郡にはカッカラカッカラと呼ぶ村もあり、福島県などにはカラスカラスとばかりいう所もある。東京近くの農村にも、折々はこの正月の烏祭をするものがあるが、これもカラスというだけで、他の合言葉はもう使わぬらしい。
餅を引掛けて置く樹にも、以前は定まった約束があったかと思われる。今でも里はずれの一本の老木、もしくは山の口元のある樹まで持って行って掛け、帰りにその樹の片枝を伐って来て、わざわざそれを燃してお茶をわかして飲む土地もある。初山即ち若木採りの儀式と結びついているので、この木を山の神様、烏を山の神のお使と思っている者の多いのも、相応にいわれ因縁のあることである。しかしそうなるとその餅の苞を、山や里はずれまで持っては行かずに、めいめいの屋敷の外にある樹木にただ引かけて置いて烏を喚ぶことが、何だか説明しにくいように思う人もあるか知らぬが、これは全く餅を烏にやったという事実が、家に取っては大切な記念だからで、いわばその証拠に正月の間だけ、受取状のようにして眼につく所に掲げるのだろうと思う。
それで次にはこの藁製の入れ物の名を、村々で何というかも尋ねて見る必要がある。誰か我邦にもポンソンビさんの如き人が現われて、丹念に各地の例を比較してくれるとよいがと思う。私の知っているだけでは、山形秋田の海岸ではこれをノサ、これを樹につるす行事をノサカケという。その日は正月四日でありまた二日にする処もあり、烏が取りに来るか否かをもう省みない土地もあるが、とにかくに藁できれいに飾り物を作り、それに色々の供物を結び付けて、神の樹の枝に掛けに行く風は、荘内以北由利の海岸も一様である。越後も多分そうであろうと思う。これを烏よりも里の子供が楽しみにして、すぐに後から取りに行くことは、近畿地方の烏塚の風習、もしくは渥美半島の山神祭などとも似ている。
岩手青森の旧南部領でも、ノサもしくはヌサという語があって、正月八日の前夜にヌサウチをする。打つというのはわらでそのヌサをこしらえることで、これには必ず烏にやる餅を挟むことになっている。三戸郡の村々では、ヌサといっても通ずるが、あるいはこれはヒサゲトシナという家もある。トシナは年縄で、東京でいう注連縄のことを意味し、ヒサゲは手に持って提げることである。普通の年縄はただ張り渡すばかりだが、初山掛けに用いるものだけは、下げて行かれるように取手がつけてある。それを自分などは挟んだ餅を投げるための装置だろうと想像しているのである。
現在の烏祭では、投げ遣らずにただぶら下げて置いて、自由にくわえて行かせる例の方が多いが、以前は烏の挙動を見るために、空中に向ってほうり投げるのが普通であったのではないかと思う。秋田県北部などの、烏をポーポーと喚んでいる地方では、その藁製の飾り物をポッポカラといっている。これには三つの乳を付けて、大小三個の丸餅をその穴に挿み、これを振回して餅を投げ飛ばすのである。そうして後にそのわら飾りを樹に引掛け、その枝を少しばかり折って帰って来るという(『民俗学』四巻二号)。関東の田舎の子供たちは、石投げの遊びにもこれとよく似た装置のものを用いていた。餅を烏に遣るために発明せられた技術でもあるまいが、石を投げるよりも正月に餅をこうして投げる方が、心理学的にも何倍か愉快であり、また大人もこの日ばかりは少年の心持にかえって、昔の腕前を示そうとしたことであろう。置いて取らせるようになったのは、烏の警戒心の増加だけでなく、あるいはこの石投げ武芸の衰微のためだろうかと私は思う。
こういう風に解しなければ、かの雲仙ゴルフ場などの、奇現象は説明することが出来ない。正月に烏を祭る風は九州にはもう絶えてしまったらしく、神社の儀式としても有名なものはないようだが、なお烏だけは何十代か前の親々が、かつて空中の餅をついばんだ経験を相続して、今でも白い小さな円いものの飛ぶのを見ると、大急ぎに出て来てくわえ去ろうとする特殊の習性を現わすのである。人がミサキを信じてこれを饗せんとし、烏の本能的なる貪食を以て、神が祭を享けたまうしるしとする思想が、もしも中頃から発達して来たものならば、烏の環境はこれに伴のうて改まり、その生活は変化したのである。即ち烏にもまた一国限りの、種族の歴史というものがあったのである。
日本の烏の風習に大きな特徴のあることは、つとにエドワード・モールス翁なども深い注意を払っている。どこの田舎へ行っても彼等は人に興味をもち、殊に我々の手元や挙動をいつでも横目で見守り、時には近よって立聴きでもしようとするかと思うことがある。これをモールス翁は日本人の徳が、無心の鳥獣までをなつけているように、一人で合点して敬服しておられるが、他にもまだ一つの隠れたる理由はあったので、それだからまた雲仙の球拾いの子供などが難儀をするのである。この頃大分流行ってきた動物心理の研究なども、面白い仕事であるだけに、このモールス翁の真似はさせたくないと思う。
烏が横着であったり悪賢こかったりするのにも、西洋には西洋だけの理由があり、日本にはまた日本限りの、隠れたる原因があるのかも知れない。個々の動物が出現以来、たった一つの道しか生きなかったように、きめてかかるのが出発点であるとしたら、この研究も実は心細い。烏にだってやはり土地ごとの歴史はあり、それがまた後々の生存条件をきめている。なるほど彼等の間には歴史家なく、無論また記録もない。それが人類とちがうといえばちがうのだが、その人類の内にだって、九割以上は記録などは伝わっていやしない。それを歴史がなかったものの如く、考えることはもう許されないのである。
雲仙の烏がゴルフの球を盗むには、この国限りの永い由緒があり、また新らしい誤解があった。一旦の遺伝はその原因が消えると、再びまた薄れてもよかったのだが、子供たちがいつまでも烏勧請の遊戯を覚えていて、それを今日のゴルフの時代まで持越して来たのである。子供の所業は烏どもの歴史の上には、太閤やナポレオンほどの力があった。
烏はあのような悪らしい面構えの鳥だが、それでも丸っきり来なくなってしまうと、正月は殊に思い出さずにはいられない。近世の歳時記には、ただ早天の鳴き声のみを賞美し、絵では日の出前に五羽か六羽、黒く飛んでいるところを描いて、まず初春の景物としたものであったが、その簡略な景物すらも、今では実景ではなくなってしまった。
最初にはこれが万歳の太夫以上に、我々の正月とは深い関係のあったことを、鳥の方でももうとっくに忘れている。雪の多い東北の村だけでは、旧の暦の二日の朝、あるいは四日の朝にする土地もあるが、農家の主人が自分の田の畔に出て行って、食物を烏に与える風習がまだ残っている。土佐や九州の在所でも、事によると同じことをしているかも知れない。本来は山の神への供物を、烏がお使に来て持って行くものと思ったのか。とにかくそれが食い残されることを非常に嫌って、早くご馳走をするために、この日は朝起きの競争をした。そうしてまた烏を喚ぶ単純な唱え言葉もあったのである。不思議な話ではあるが、その「からす来うい」という喚び声を聞きつけて、必ず山々の烏が降りて来て、白いシトギを口にくわえてあちこちへ飛びあるいた。村によっては食物を三所に分けておいて、今年は早中晩稲のいずれが宜しいかを、占なって見ようとする習慣もあった。これが恐らくは初期の俳諧のいわゆる初烏なるものであったろうと思う。
田畠に遠い城下町の民家では、多分はその食物を屋根の上などへ運んで置いて、やはり大きな声を挙げて、烏を招き寄せたことがあったらしい。人間は勝手な者で常は憎んで追っていながら、用のある時ばかりはこの通りちやほやした。それと同じような待遇を受けたものが、他にもまだ色々ある。鼠なども松の内だけは「よめが君」などといって、三日の晩または地方によって六日の晩に、最もよく出る通路に食物を器に入れて、出しておく家が各地にある。信州ではこれを嫁御の年越しなどという者もあって、彼等にもこうして「おせち」に坐って年を取らせるのだといっているが、これも口をつけずに朝まで残してあると、やはり不吉の兆として気にかけたものであった。
牛や犬・猫・鶏には、もちろん銘々の年取りがあったのみならず、同じ晩はまた道具の年越と称して、臼や箕や枡の類まで、一ところに集めて鏡餅を供える風が、実際はまだ決して稀でない。こういう家々の正月が、いかに晴々と心の改まるものであったかを考えると、自分たちの年始状と初刷との中に、ごろんと寝ころんでいるような新年の、徒然なものであることに始めて心づくのである。
私の家などは町から五里、隣は枯薄の空屋敷であって、どの窓からも一本ずつ、かなり大きな松の樹が見える。海からさほど遠くないためか、空が真青で折々通って行く雲が、洗ったように白く光っている。そういうさっぱりした日影の下に坐っていても、何だか物が一つ足りないような気がするのは、考えて見ると鳥が来ないからであった。鳶もここへきてから三度目の冬になるが、まだ一度も舞っているのを見たことがない。こう毎日のように立川の大先輩が、えらい音を立てて飛んで来る時代になっては、幾ら頃合の林の木があっても、巣を掛けて住もうという気にはなれぬのであろう。そうすれば一つ舞ってやれというような、威勢のいい鳶もこの辺にはいないはずである。
烏はそれでも岡の下の、田の苅跡まで行くと見られぬことはない。晩方には大急ぎで、黙って遠くの方へ飛んで行く一群を見ることもある。しかしいかなる明け方に眼を覚まして見ても、ついぞ一回も烏が啼くなと思って聴いたことがない。彼等の正月も楽しみが少なくなったか。これではやはり生活法を、変えて見なければならないと思っているのか。何にもせよ三馬の『浮世風呂』などに見るような、僅かばかりの初春の風情までが、もう郊外に出て味わうわけには行かなくなったのである。
この秋よく聴いたのは百舌鳥ばかりであった。こやつは一羽いても騒々しいから、直ぐに遠方からでも来たなということが知れる。早天には普通百舌鳥の合間に、画眉鳥の声を聴いたものであった。春のまだ深いころから夏のかかりまでは、いつもその辺のもっとも高い枝で啼き、それから暫らく静かで、秋は低い草むらを渡ってあるいている。この二つだけは来年もまた来るかも知れない。しかし椋鳥だけはどうやらもう見切ったらしい。椋鳥に見切られたということは、私の家にとっては実は大事件なのである。善後策を講じなければならぬ一問題が、今や突如としてこの閑居に迫って来ているのである。
先日も電車の中で、駒場の原煕博士に逢って聞くと、どうも郊外の住宅では芝が枯れて困る。あの害虫ばかりは駆除のしようがないという話であった。私の庭でもこの冬のかかりに、気をつけて見ると芝生が端の方から枯れてくる。熊手で掻いて見たらその根のところに、青い虫が円くなって眠っている。それが半日の間に三合ばかりも捕れた。来春はこれが羽虫になって、子を産むのだから、先ずはせっかくの芝の末期というの他はない。それから腕を組んで考えて見たことであるが、去年はどうしてこの災難を遁れたかと思うと、毎日今ごろは午前の暖かい時刻に、生垣を潜って隣の空屋敷から、必ず二三羽のむく鳥が入って来て、熱心に芝原の上で何かを食っていた。その挙動には興味があるので、ぼんやりとただ見ておったのであったが、彼が実際はこの小庭のために、害敵を退治していてくれたのであった。それが本年は朝日住宅その他、方々の普請があって、物の音が高く、新しい瓦やペンキの光が空を射ている。あるいはまだご馳走の記憶があろうとも、降りて遊んで行く気にはもうなれぬのであろう。何だか知らぬが今年はちっとも来ていない。その上に私の家では犬を飼いはじめたのである。
犬はこの芝生を以て自分のサロンと心得ている。しかも敷物の虫食いを少しも気にしない。そこでいよいよむく鳥が来ぬと決すれば、別に何かその労に代るものを求めなければならぬ。鶏などはどんなものだろうかとも考えている。雞犬というから仲がよさそうなものだが、この近所には猟犬の後裔で、鶏を獲物と解しているらしき犬が沢山いる。だから飼うなら昔の山家の鶏のように、羽ばたきをして高く飛び上る種類を求めなければならぬ。そうして日中だけは犬のいない片隅において、去年の椋鳥の代りを勤めてくれるとよいのだが、そういう在来種の卵が手に入らぬか、またはいくら鶏でもそう虫ばかり食わぬということになると、私の庭の芝は枯れなければならぬのである。
それからまだ雀と正月ということも考えているのだが、あんまり呑気だから正月がもう二つもある年の話にしよう。ただ一言だけいうと、この辺の雀は、文化住宅の生活にまだ馴れぬために、いわゆる改造の悩みに苦しみ抜いている。私の家だけは早くこの形勢を察して、軒の庇に五つばかりの巣箱を作ってやったが、雀が家鳩になるのは困難だと見えて、その半分はまだ空屋のままである。そうしてどの家も雀の住むための瓦の隙間を作らぬために、この村の雀は掛樋に巣くって、大雨の日には流れ落ち、または煙突の掃除をすると、三戸分ぐらいの巣が出ることも稀ではない。それでいてまだ以前の林の木の生活には、還って行こうという決心がつかぬかと思われる。人間はもう古い慣習を棄てようとしているが、雀や烏等は妙に代りのものを作り設けたがる。そうしてそれにはまた何十代かの、新たなる苦難を経なければならぬらしいのである。
交番で鼠を買上げることになってから、もうかれこれ三十年もたったであろう。東洋の黒死病の歴史なども、この方面より筆を著けるならば文学になり得ると思う。鼠の価は最初は二銭、後に諸色の騰貴と共に、改めて五銭と定められた。その間に暫く割増金附の抽籤券を以て、鼠を引換えた時代があった。自分の友人に一人の好事家があって、こういう記念になるような紙切れを蒐集して、張り交ぜの小屏風を作ろうとして。吉原で発行する御遊興切符なども、品行方正なるがために最も採集に苦心をした。ある時金網の鼠捕りを買いたいというから、何で急にそんな事をするかと思うと、実はこの「鼠一匹」と書いた抽籤の番号札を、手に入れたいためであった。
七つ八つの小児が、長い尾をつまんで鼠をぶら下げ、交番の前に立って巡査の顔を見ている光景などは、もう見ることが出来なくなった。おまわりさんが来るといって泣く子を嚇した時代から、一時は急転して飴屋などの如く、警官に親しみを感じていた時もあったのである。
五銭に値上した当座であった。東京市中には鼠を捕って生活する職業が出来た。青山あたりには買上げてもらう目的を以て、鼠を養殖している牧場があるという評判さえあった。それは話であったかも知れぬが、つまりはその頃から東京という大都会全体が、一つの鼠放牧場となったことだけは事実である。殊にペスト流行の兆候ある時ばかり、期間を限って鼠の買上を実施することになれば、その中間の何年間の如きは、最も鼠算の繁栄に好都合な時であった。人類をも包含する日本全国の動物中で、首都の鼠族ほど食糧に屈托せぬものはないといってよい。市民が投げ棄てる食物の余りは、彼等以外の者には到底手の届かぬ、ドブや石垣の蔭にばかり、堆積しているからである。
猫入らずの害はとんでもない方面だけに顕われたが、なお今一つの背後に隠れた影響があった。やっぱり猫は入用である。猫ならば鼠を捕って新しい中に食うから、自分も肥え太りまたその辺も片付くのだが、猫入らずでは天井裏や椽の下に不用なものが残る。それを片づけるのも主として鼠に任せてあるが、多分は甚だ始末の悪いことで、結局は春秋の清潔法を、無意味なものにしてしまうだろうと思う。
田舎では田鼠の撲滅策として、久しい前からチブス菌を撒布することが奨励せられた。これは自然の結果、鼠の一族を殲滅して、打棄てて置けば化して土地の肥分ともなるであろうが、その筆法で町屋の鼠を始末するのは、看過すべからざる不始末である。これを考えることなくしては殺鼠剤・駆鼠薬を売る者は、物売りとしては怜悧であったかも知れぬが、少なくとも憂国の志士ではなかった。
白昼に銀座の横町などを歩いていて、大きな鼠の走るのを見ることが、近年は次第に多くなった。彼等が大古の土の中の安全な生活に、復帰して行く傾向は著しい。これに比べると人間は旧弊なもので、せっかくの鼠捕り器械と薬品、もしくは持って来い引取ろうという警察令が出ているにもかかわらず、今なお鼠を殺すと埃溜めの中へ、持って行くだけの改良法も採用せず、依然として百年以前の旧様式を墨守し、これを表通りの街路の上にほうり出して、車の輪の蹂躙に委ねている。
教育というものは机・腰掛の中間に、子供を押込まなければ不能なるものの如く、考えたのは誤りであった。単なる模倣を以て、何人からともなくかように無意味なる前代の斃鼠処理法を、多数の東京人は学んでいたのである。この方法たるや、かつて帝都の青空の中に、無数の鳶が輪を描いていた時代の遺物である。三馬の『浮世風呂』がもてはやされた世の中には、江戸はまだ一本の電線もなかった故に、京橋の鳶は能く小僧の揚豆腐さえも、さらって行くことがあったのである。今日ではいかに勇敢なる昼鳶でも、またいかにうまそうな無毒の鼠が落ちていても、この無数の針金の間をくぐって、これを拾いに町に降るやつがあろうか。それを一考して見ずに、鼠は町へ捨てるものだと今以て心得ている。実に驚き入った伝統主義ではないか。
第一にちょっと周囲を見まわしても鳶など一羽も鳴いていないでないか。広重の世を過ぎてなお三四十年の間は、京橋・築地辺の河岸近くにも、材木屋があり竹屋があり、その材木のてっぺんなどには、鳶が羽を休め目を光らしていた。下品な鳶だと人が軽蔑していたのは、形ばかり鷹のように堂々としていながら、腐ったきたない食物をも念掛けて、齷齪としてこれを拾ってあるくためであった。今となってはその好意は尊いものに感ぜられる。お城や山内の樅・檜は、亭々として千年の緑を湛えているけれども、かつてこの間に静かなる居を構えて、首府の掃除役を一手に引受けていた彼等は、知らぬ間にいずれへか追い払われ、彼等の活動を必要とした事情ばかり、かえって以前よりも更に痛切を加えたのである。進歩と名づけられる人類生存方法の変更には、しばしばかくの如き省察の不十分、また同情の欠乏を伴うていた。これを十分に考えて見ぬ以上は、今のいわゆる生活改良も要するに手前勝手である。
巣箱を始めて見たのは、大正六年に、青島へ遊びに行った時であった。あそこの公園は東海に面して、鳥の沢山来そうな静かな小山であった。それへ独逸が色々の山の樹を、日本から取寄せて植えている。巣箱はなくとも巣をかけるにちがいないと思うような処だった。しかも巣箱をこういう場所に設けて置けば、なお一段と確かであろうと思ったが、今考えるとそれは誤りであったようだ。巣箱を引掛けて置いて、それを忘れてしまうということが、実は容易なことでないからである。
鳥にはこうして人間が始終気を付けているということが、かなり有難くないことらしい。だから木の香や刃物の香が新らしいうちは、人の家だと思うから、覗いて見ようともしない。一向平気なのは雀ぐらいなものである。私は支那から帰ってから、早速巣箱の話を内田博士などから聴き、またこれを実行しかつ友だちにも勧めたが、庭が小さいためか暫らくは皆空家であった。
一人の友人は田舎にいて庭が広いので、何でも十ばかりも備え付けたらしいが、雀ばかり入りやがると舌打ちをしていた。ある時は何だか変だと思って、後の戸を開いて見たら、熊ん蜂が巣をくっていた。あぶなく刺される処だったという。私は構わずほったらかして置くに限ると思った。
そうして自分の家の巣箱だけは、曲っても直さぬ位にして置いたところが、果していつの間にか鳥が入り込み、しかもとっくの昔に立ってしまって、もうその巣が腐れかかっていた。偶然にそれを子供が見出したのだが、雀ではどうもないようだ。頬白はこういう穴住居はしないし、四十雀ならよく来るが、どうも小さい頃見た四十雀の巣ともちがう。鶯にしては笹の葉が少しも使ってない。やっぱり雀かなアというような次第で、大よそ家主も先ずこれくらい無頓着であったら、借家人も居心地がよかろうと、内心すこぶる得意であったが、よく考えて見ると、それでは何も巣箱などを、持って来てぶら下げて置く必要もないわけであった。
この砧村へ移住して来た際にも、私は一応巣箱の問題を考えて見た。鳥が十和田湖の姫鱒のように、必ず放流せられた浜に戻って来るものなら、何でもかでもこの庭に巣を掛ける仕組みをしなければならぬ。しかし鳥の故郷というものは、相応な広い区域であるらしい上に、少し物騒なら中途からでも立退いてしまうのだ。私たちの見たいのは小鳥が小枝を運んだり、雛に通って来たりするしおらしい挙動なのだが、それがこういう風では眺めていることが出来ぬのみならず、第一に箱の巣は真四角で、我々が見たいと思っている小鳥の巣とはちがう。これはどうでも鳥が宿なしになって、家が持てなくって困るという場合に、彼等のために企ててやるべきことで、自分の楽しみにはならぬものと考えて、今以て巣箱は掛けずにいる。
ただし雀だけはまた別な取扱いをしなければならぬと思った。彼等がこう殖えるのはよいことか悪いことかは別として、住居に困っているだけは確かである。お互いの家が出来たら、次には雀の家のことも考えてやらねばならぬ。この辺の雀は勝手がちがうためか、時には実に無法な巣の作り方をする。雨樋の受口に藁などを運んで来て、雨が降るたびに直ぐに流れる。煙突の上に巣を掛けて煙がよく詰まり、ボイラーを焚いて見ると、落ちて焼け死んでいたということも二度や三度ではない。全くこの節の新築には、軒にも庇にも寄寓の場所がないから、こんなことをするのだと思った。それで最初に先ず鳩の箱の半分ほどなものを、東側の壁の上へずらりと並べて打附けてやった。これは今でも利用し、また雀以外のものは利用していないようである。
次に燕もまた年々苦労をしているらしい。この村には燕は来ぬのかと思っていると、来ないのではなく高い空はよく飛んでいる。夕方に散歩をして見ると、作り芝の畠の上などを、虫を追いかけて何羽も飛びまわっている。雨あげくには真直な新道を、低くどこまでも走って行くこともある。ただ巣だけはかける便宜がないから、どこの家を覗いて見てもかけておらぬのである。全くこの頃の建築は燕には不便だ。甲州あたりへ来る岩燕でもないと、こんな新式の住宅地には入り込んで住めない。これは是非とも雀と同様に、そうしてなるべくは道に面した壁の上に、彼等の土の巣を載せる僅かな棚を作ることを、皆様にもお願い申したい。
この村が春の末から到る処、燕の児のチチチチと啼く村になったら、どの位またのんびりとした気分になるか知れない。私は今に二三の友だちと相談して、この燕棚の普及運動にかかりたいとも思っている。
他の小鳥の巣箱でも同じことで、一戸や二戸でそんなものを支弁しても、鳥の社会は我々のような個人的のものでないから、生活改良は行われない。どこでも行く先々に巣箱があって、入ろうと思えば入れるようになっていたら、そのうちにこの地方の小鳥の習性も少しずつは変り、高台はやがて小鳥の村ともなるかも知れない。雀もほったらかし燕にも門戸閉鎖で、彼等が既に林か崖の下に、巣をくう小鳥に変化しなければならぬような状態で、単に小鳥の趣味から巣箱に珍客を招こうとしても、そんなことは私は知りませんと、小鳥の方でいうかも知れない。
小鳥の生活ぶりも、いつとなく大分変っている。巣の形なども地方によって、かなりな違いがあることは、私たちも実験している。この頃本になっている鳥の巣の写真などを見ても、鶯や四十雀のは私の見ているのとは確かに異なっている。材料や場所の関係で、巣箱にも入らぬ前から、彼等はもうちがった巣で我慢をしつけているのである。人間は何でもする。弱い従順な小鳥位の生活を、変えてやることが出来ぬわけはない。ただそれを自然と信じて、多くの人は変えられぬものと思っているのと、私たちはまた余りにも孤立的で、たった一人で出来もせぬことを考えているから、むだをするのである。天然も実は人類がその管理者だ。これから多くの集合の力で、計画してこれをもっと好いものに改めることにしなければならぬ。
しかしその案を立てるためには、やはり私のような愚かな失敗も経験である。今までして来たことは大抵は笑うようなしくじりのみであった。たとえばある季節には、暫らく小鳥がさっぱり来なくなって寂しいことがある。多分食物の都合だろうと思って、粟を買って来て机の傍に置き、思い出すたびに庭に出てそちこちに撒いた。そうして見ていると少年らしい雀が三四羽、さも面倒くさそうに下りて来てこれを拾っていると、直ぐにまたどこかへ行ってしまうのである。
こんな無益な手数は、少し考えれば掛けずとも済むことである。雑草の種子でも穀物でも、勝手に好みのものを選り食いが出来るので、言わば小鳥は台所をあちらへ移しているのである。人家の庭園へ来るのはそんなものが少なくなって、殊に繁殖の栄養のために、動物質の食餌をここで探すので、僅かな穀粒などは当てにしてはいないのだ。これが飼鳥と自由な鳥との、最もはっきりした生活方法の差別であるが、そんな事すら知らずに私などは、ただ小鳥を愛していたのである。
目白は籠に飼われると、熟柿などよりもかえって薯を好んで食う。私は子供の頃の一冬、兄にねだって薩摩芋を一俵買ってもらって、朝々その薯を一つずつ火に焼いて、半分は目白に、半分は自分で食って暮していたことがある。目白の実家にはもちろん焼芋などはない。だから気楽に野で遊んでいる小鳥は、焼芋を遣るからといっても附いて来ないのは当り前である。
またこの村へ来てからのことだが、春さき庭へ出て見ると芝の上に、真赤な青木の実がとんでもないところに転がっている、近い処では宅地の北の隅の二三本、ちょうど出入口ではあるが、夜明けの静かな時刻に、鵯がやって来て啄むらしいのである。それがこうして折々落ちているのを見ると、彼を招き寄せるには赤い木の実に限ると考え出した。
それから閑人なものだから、懸命になって赤い実のなる木を集め始めた。青木ばかりでも能がないと思い、またもう少し嘴の小さい小鳥も、このついでに招き寄せてやれなどと、虫のいいことをたくらんで、大よそ実のなる木なら何でも栽えようとした。植木にかけてはむやみに慾が深いじゃないかと、いわれたのもこの頃のことであった。たった二冬の経験だから確かでないが、同じ我々の眼には赤いというだけの樹の実でも、鳥の好みは色々であり、また鳥によってそれぞれの趣味があるらしい。もっと沢山に栽え比べて見なければ、目的に合わぬように思っていよいよ慾を深くしている。
たとえば莢蒾などはいい色だが、どこで注意して見てもついぞこれにたかっている小鳥を見ない。南天の実には鵯は花鳥の画では附き物だが、うちの南天などはかつて省みられたことがない。梅モドキの実だけはたしかに人望がある。三四年前に庭に一本の小さいのを栽えると、早その実をくわえて方々に落して歩く鳥がある。こいつを利用してやれと思って方々から買い集めた。
牛込の旧宅の隅に、篠竹の中にまじって一本の梅モドキがあった。暫らく気付かぬうちに大きくはなったが、竹に押されてひょろひょろと一方へかしいだ、おかしな枝ぶりの樹になってしまった。それを持って来て庭の正面に栽えたものである。恰好はなるほどよくないが、ちょうどいいじゃないか、あの横っちょの枝に鵯が来てとまって、赤い実に恋々としている様子を見るにはといって、頗る熱心な気構えで冬の来るのを待っていた。
ところが滑稽な経験というのは、せっかく今年はよく附いたと思う梅モドキの実が、僅かな間にめっきり少なくなっている。ある朝早天にふと気がつくと、窓の外に何やらばさりばさりという音がする。それが鵯鳥どのの朝飯時であった。少し小休みしてはまた枝移りをして、脇目もふらずに貪り食っているのである。そうしていかにも悪いことをしたように、昼間は遠くへ行っていて影も見せない。鳥にはどうやら遠くへ出て食事をする習性のあるものがある。こういうのに出逢っては梅モドキもやはり客引きにはならない。
それでわかったのは、この近村の路傍の家に、この木の美しく実のったのに、破れ傘を覆うているのがあった。おかしな事をすると思ったが、こうしないと木は二朝か三朝で坊主になってしまうのであった。東京の町内の三十坪か五十坪の小庭に、栽えてこそ梅モドキは風情を愛し得られる。たまたま紛れ込んだ鳥があっても、きょときょとと人に畏れて窓を覗き、ほんの二粒か三粒かを取って食うと、ぴいと啼いて飛んで行ってしまうので、そういう処にまたこの木の面白味があったのだ。梅モドキは要するに市中の愛玩用で、こんな広々とした村の庭に植えて置いて、赤い実に日のあたる美しさを眺めよう、鳥も呼び寄せて楽しもうなどという、虫のよいことを考えたのが誤りだった。
この村の身上は、何といっても高い数十本の雌松雄松である。やがてこれも減って行くことだろうが、今はとにかく亭々として茂り栄え、またこの五六年にかなり大きくもなった。私の家などは自分の地面には一本もなくて、落葉を掃く手数がなく、しかもどの窓を開けても正面に松があり、晴れた日ならばその木々に日が当っている。そうしてこの樹の上で鳴く鳥は、庭へ下りて来る場合とちがって、全く自分の在所のような顔をして、いつまでも同じ処で遊んでいるのである。お蔭で我々は色々の鳥の歌を覚え、また遠くからだがその挙動や姿勢を見た。春の末にはエナガが来る。コガラが来る。秋も暮れんとする頃には、以前は野外に出てしか聴かなかったカワラヒワの群が、終日ギイキリキリと啼いて遊び、時にはその透きとおった羽根が日に照らされて見える。椋鳥とか雲雀とかいう地面を恋しがる鳥は、もう段々退去したが、松のあるために枝移りをして、意外な野鳥までがめいめいの庭へ入って来る。これを迎えるような新しい設備は、鳥を愛する人々の合同によってでないと実現されない。それにはまた案もあるのだが、余り一人で飛びまわるのも百舌鳥のようでいけない。百舌鳥は私なども実は嫌いだ。
雲雀は飛行機にはさまで苦しめられないが、いわゆる文化住宅には事の外閉口しているらしい。この辺の新築は、去年までの麦畠を乗り取ったものが多くそうして白く青く絶えず光って、彼等を寄せ付けまいとしているように見えるからである。渡り鳥なら二度と再び、こんな処に来るものかと、どこへでも引越してしまうだろうが、雲雀だけは余りにも巣立った土地をよく覚えている。それで同じあたりにまた自分の児を育てて、毎日その巣の見える空ばかりで、啼いていようというのだから気ぜわしない。この夏も方々に大工の音がする。止めたり立ち退いたり、子なしで暮らしてしまう雲雀も多いのではないかと思う。三四年前まではこの屋根のほぼ真上で、終日啼いているような日も時折はあったが、近頃は二階の南の小窓をあけて、目をさまして寝ている明け方などに、斜めに遠くからその声が入って来るだけになった。日中は賑やかな雀の鳴きに紛れてしまう。少し横日になると杖を携えて、一人で雲雀を聴きに出て見ることもあるが岡の端まで行くと下は一帯の水田で、その向うにはまた隣村の同類が啼いている。こちらの雲雀は段々に狭くなる畠に我慢して、どうにか昔通りの生活を続けようとするらしいのである。
行々子は最初から、人の来ぬような不毛の地に拠って、孤立の平和を保とうとする様子が見える。同じ岡つづきの僅かな沢に、水がじめじめとして周囲は杉、中は一面に蘆より外の草の生えないような土地がある。猟友倶楽部がその片端を使って、夏分の射撃の練習場にしている。静かな番人の親子が野鴨の子などを飼っている。そこまで出かけぬとこの鳥は聴くことが出来ない。通例五月のなかば、この蘆の芽のまだ若々しい頃に往って見ると、ただあちこちと雀などのように飛びまわって、一向身を入れて囀ろうという様子がない。それが月を越え蘆のたけが伸びて、葉ずれの音がさらさらさらさらとするようになると、あたかもその音を威圧するかの如き調子で、巣を持つ限りの葦切がかわるがわる鳴き立てるのである。ケケシや行々子という名も面白いが、ヨシキリという語もよく観察してある。何だってこのように高い声を出すのか。人に聴かせるならもっと出て来てもよいに、自分はこんな谷陰の蘆の中に隠れて、しかも悠揚とした挙動で澄まし込んで啼いている。雲雀とは竪横の差はあるが、これもやっぱり遠くで聴くように出来ている鳥であった。殊に月のある夕方などに、一望限りもない村の外の蘆原で、永い一日がかりでもまだ啼き切れなかったように、さも物々しく啼いているのを聴いて、昔の人たちが空想を描いたのも、私だけには理由があるように思える。どこの田舎へ行っても行々子には昔話がある。首を切られた下郎の魂がこの鳥になって、いつまでも同じ最後の悪口雑言を、くりかえしているように伝えられるのは、滑稽なようだが考えて見ると淋しい。
燕はこのあたりでは宿をしている家がどこにもない。農家も折々は気を付けて見るが、燕が土を持って出入りする様子を見かけない。それでいて空の晴れた午後には、高いところを冴えた声で、元気よく飛んで行く姿を見ることもあれば、時には芝作りの広い畠地の上を、羽虫を求めていつまでも飛びかわしていることもある。往来には人と同じように、道路を利用する癖がまだ残っている。自動車が通ったばかりの後の土埃の中を、さも用ありげに走って行く影を時々見る。現在の住居は寺の堂か、お宮の軒の下などに限られているかと思うが、これだけでは追々に来なくなるだろう。巣箱を設ける位な人はこの鳥のために、今の内に壁へ板でも出しかけて、少しは親切を示してやってもよいと思う。
電線はこの頃では燕はとまらず、ただ頬白ばかりが利用している。大きな松の木などもあるのに、わざわざ窓に近い針金の上にとまって、時々は一時間も囀りつづけていることがある。多分は遠くの見える処を好むからであろうが、我々には何か人間に親しみたい風に見える。この鳥くらい物おじをせぬ快活な鳥はないと言った人があるが、なるほど冬のさ中にも里から遠くへは去らず、いつも路傍の叢の上ばかりを飛んでいる。アオジも遁げない鳥で、「婆たらし」などの異名があるが、これは声も羽の色も共にじみで、おまけにこの辺では妻問いの季節になっても、高い枝に飛び上って囀ろうとしない。これに反して画眉鳥の雄ばかりは、家庭を女に任せていつでも歌っている。そうして巣のある処から、かなり遠くまで出てあるくようである。
私はこの節朝早く目があくので、改めて雀の言葉を調べて見ようとしている。それにはこの季節が一番都合がよく、冬はただ一群の村雀となってしまうものが、今は明かに老若男女の区別を立て、その間の交渉が最も複雑になっている。僅かばかり庭をひろげてまだ家も建てず、やたらに木を栽えたら虫を多く生じて、雀には都合のよい楽園となった。子を養うためには滋養物が入用なためか、または気にいった動物質の食料が夏は豊富だからか、粟を撒いて遣っても嬉しそうな声は聴かない。ただ児雀が嘴の練習のように、時々覚束なく拾いに来るだけである。それをまた親鳥が周りに来て、世話を焼くことは人間以上である。そうかと思うと一方では、近くの屋根さきや木の上で、二番子三番子の談合をしている者も幾組かある。あるいは仲間で争いをして、はしたなく罵り合い、そこへ何かが来るとそら来たと遁げて行く等、彼等の個性と表情は、目下最大限度にまで展開せられている。しかも夜のしらしらと明けて、爽かな微風が緑の葉を揺がす時刻だけはどれもこれも約半時ほどの間、同じような緩い調子で同じ一つの音を上下している。それを聴いていると人間のもう忘れてしまった独り言、即ち「今日もまだ生きている」という自我の意識を、自ら問い自ら答える習慣が、ちょうど我々のラジオ体操のように、まだ雀たちの間には行われているということが考えられる。
裾野の会から還って来たら、何だか急にうちのまわりの鳥の声が、多く新らしくなったような気がする。次の早朝例の通り窓をあけて寝ていると、先ずカワセミが小さな外庭を啼いて通った。この丘の両側にある若蘆の原まで、出かけて聴くことにしていたオオヨシキリが、僅かな間だが地堺の欅の樹に来て啼いた。あれがクロツグミだと教えてもらった鳥が、あたかも復習をしてくれるかの如く、路の突当りの大きな赤松の上で、丁寧に何度も何度も囀っている。それよりももっと有難いと思うのは、永年問題になっていた私の時鳥が確定したこと、次にはまた七八年も前から、初夏の夕方には時々家のまわりで鳴くのを、雨蛙の一種かなどと思っていたのが、ヨタカという鳥の声だとわかったことである。これも日数がたつとまたぼんやりとしてしまうのだが、幸いに早速次の晩は遣って来て、いよいよまちがいのない、お手本通りの啼きを聴かせてくれた。年を取っても教育の機会は案外あるものだ。
全体に今までは聴きようも粗末であったように思う。私の家ではつい一月ほど前に、小さな餌箱を樹の蔭に置いて、粟を一ぱい入れて小鳥を誘うて見たが、雀はこの季節にはあまり穀食をせぬらしく、他の鳥も最初は一向に顧みない様子であった。それが旅から還って見るとすっかりからになっている。お客はどうやら鶸類が多いらしい。彼等の啼声が以前空を飛び、または喬い木の枝に休んで、仲間を待ち合せる際に発していた声と、この頃は大分ちがった囀りを交えるようになった。あるいは家庭生活が始まったか、または複雑になったためかも知らぬが、とにかく囀るといってよい位に、啼き方が悠長にまた面白そうになった。そうして一つ処に翼を休めて、いつまでも啼いているようになったのは、食物の安心からであろうと思う。富士でもそういう風に啼いていたよと、いってやりたいような場合が毎度ある。私は少年の頃に、マヒワのよく馴れたのを一年ほど飼っていたことがある。カワラヒワの方は群れて飛んであるくのを見ていただけで、その大小の二種を聴き分けることは出来ないが、この頃ここへ来るのはずっと小さいから、多分は須走で出逢ったコカワラヒワの方であろうと思う。それとマヒワとが餌箱以来盛んにこの小庭へ遊びに来て、絶えず裾野の一日を、記念させてくれるのであう。
今度の旅行には、精良な筆と絵具とを携えて、行かれた人が幾人もある。あの神秘に近い林の底の浅緑、雨に湿った火山の黒土を、飾り立てている色々の卵の宝玉などは、これは既に散文の領域でない。私たちの役割に残されたものは何があるかと思うようだが、幸いに因縁があったからコカワラヒワの一些事を記録して置こう。須走の村の片端に、くぬぎか何かの大木が路を蔽うていて、その高い梢の三つ叉に、サンショウクイが巣を掛けていた。それを見に行ってやや暫らく頸をそらし、色々評定をしてさて帰って来ようとすると、路ばたの人立ちの中から、杖をついた婆様が一人出て来る。この木にも何か巣があるようだと言って、自分の家の出入口の、二丈余りの杉の茂った枝を指さす。高田の昂さんがまるで若い者のように、靴をぬいで早速登って行くと、だまって一羽の小鳥が東の方へ飛出して行く。それがコカワラヒワであったのである。雛は昨日あたり孵ったかと思われるのが四ついたという。あれから半月以上にもなるから、もうまた大分成長したことであろう。ところがこの婆さんは子なしであった。家も建てかえたと見えて、大きな屋敷にやや不似合な、仮普請のような小屋になっている。夫婦養子をしたが夫婦とも出稼ぎに行ってしまった。そうしてただ一人、杖をつき藁草履をはいて、コカワラヒワの巣の下を出たり入ったりしているのである。裾野の林は広く、住心地のよさそうな緑の樹は多い。それにわざわざ村の中の、こんな小さな家の小さな木の枝に来て子を育てるのは、どういう心持であるか私にはよくわからない。果して食物がこの近くなら得やすいためか。それとも寂しそうな婆さんが一人でいるから、往って少しばかり啼いてやろうという好意でもあるのか。うちのコカワラヒワに尋ねて見たいような気がする。
雀をスズメと呼ぶのは古来の日本語で、それと異なるものは即ち皆方言と考えられているらしいが、比較によってその速断の誤りであったことが知れる。
現在のところでは日本海地方の一部、即ち石川富山の二県と、越後の海上の粟島などに限られているが、以前は日本の弘い区域にわたって、スズメは一般に今いう小鳥の総称であったらしい。トリという語は本来食用の鳥類、主として雉子のことであった。それ故に今でも鶏をトリといい、またニワトリともいうのである。漢字ではむしろ禽という方が当っている。ウオという語もこれと同様に、食用に供せられぬ丁班魚などには及ばなかった。それがコトリと小の字を添えて、弘く雀の類を総括するまでには、若干の新しい推理を必要とする。だから小鳥にまた別の名があっても不思議ではないのである。
文献に現れたスズメという語とても、果して最初から今のスズメを意味していたかどうか、まだ必ずしも確実でない。これは雀という漢字もまた同様である。スズメを弘く小鳥の意味に使った痕跡は、気を付けて見ると方々に遺っている。例えば東京などでもスズメカゴといえば小さな鳥籠のことで、時々は雀も入れるまでであるが、コトリカゴという語が出来ているために、こちらは特に粗末なものだけをそういうようになった。しかし能登や越中の村々では、総ての小鳥籠をスズメカゴといって、他の名前はまだないのである。それからなお多くの府県を見渡しても、今日のいわゆるスズメのために、特に接頭語を副えて他の小鳥と区別することを必要としたらしい形跡は幾らもある。その著しい例を拾って見るならば、
マスズメ 石川県河北・石川等
マスズメ 千葉県望陀
マスズメ 神奈川県戸塚辺
マスズ 茨城県那珂・行方
これはマトリといえば鷲であり、マキといえば羅漢松、もしくは土地によっては薪のことを意味すると同様に、つまりは最もよく知られている一種のスズメということで、やがてはまた単にスズメとだけいっても、この小鳥を指すようになって来た路筋を示すものである。
日本鳥学界で編輯した『狩猟鳥類方言』の中には、この類の方言の十数種が載せられてある。それを一々ここに引くのは無益だが、
サトスズメ 秋田県仙北郡
ノスズメ 千葉県海上郡
シバスズメ、ニワスズメ 同 香取郡
イエスズメ 愛媛県北宇和
ノキスズメ 同 宇摩郡
の類は、特にこの小鳥が農村と交渉多く、従ってその名がマスズメともなり、またただのスズメともなった事情を語るように思う。
この中でも、千葉県はとりわけ雀と親しみを持つ人が多く住んでいたと見えて(これには必ず理由があることと思う)、まだ色々の方言が行われており、それがまたある程度まで、遠く離れた富山県などと似ている。例えば上総から北へ、利根川を渡って茨城県の一部まで、雀をノキバという村が沢山ある。これは疑いもなく軒端スズメの省略であって、他には紛れる語がない故に、暫らく言い馴れて後に、後を切って簡単にしたものである。ところが北国の方でも婦負・射水の二郡の境では、雀をノキバノオバサンなどという処があるのである。毎日毎日家の軒に来てとまって、口やかましく囀るところから、子供や女たちがいつの間にか、戯れに名を付けることになったのだろうが、これはそう古くからの事ではなかろうと思っている。
雀だけではないが富山という県は、妙に一つの動植物に色々の方言を付与する風がある。もちろん一人または一家一村で、その多くの名詞をかわるがわる使用しているのではなく、単に隣同士の部落が、別々の言葉を持っているというだけであろうが、それは要するに弘い区域にわたって、一つの用語が確定する以前から、即ちスズメという語に一致するより前から、この一種のスズメに何か特別の名前を与えたいという人たちが、僅かな仲間限りで色々と呼んで見た結果であって、むつかしく言うならば言語の発達に比べて、住民の心の働きばかりが、一足前へ進んでいたということになるのかも知れぬ。
沖縄県などは離れ島が多いから、やはりこういう標準語の欠乏から、地方限りの新語を多く作っているのも自然だが、内地の方でも処々に孤立して、こうした現象を呈するのは注意すべきことである。富山県については田村栄太郎君が、興味を以て多くの実例を集めてくれた。それを試みに自分の考えで整理して見ると、大体三通りか四通りの命名動機が、入り交って働いているように思われる。その一つは雀の服装から出た名前で、高岡市のバンドリスズメがそれである。バンドリとは藁で製した一種の蓑のことで、雀の毛の色とむくむくした様子とが、あたかもバンドリを着ているように見えたからそういうと考えられている。これから転じてはバンチクという村もあり、伏木の港に行くと普通にはバンチャといっているが、チクとかチャとかは多分啼声に基いたあだ名の如きものであろう。次にはこの県の氷見郡から、能登半島にかけてポットスズメという小児語がある。自分の推測では、これは同じような観察から出た語で、蓑でも着たような丸くなった姿が、特に他のスズメ(小鳥)と違っていた故に、これをポットスズメと呼んだものと思う。これと聯想するのは神奈川県の三浦郡などで、今でも雀をフクラということである。フクラスズメの語は既に謡曲の「放下僧」の歌にも見えており、普通には冬の雀がまん丸くふくれている故に、この名が出来たものと考えられているのである。しかし単語の新作は随分複雑な心の働きであるから、必ずしもたった一つの事由から、始まったものと断定することは出来ない。殊に幾つとない異称が周囲の地に行われ、どれかその中の一つを採用しようという場合には、暗々裡にその選択を左右した微細の力があったことは確かだが、自分の観た所では言語には変化の痕跡があって、今あるものについてその元の力の何であったかを、ある程度までは推測することが出来るようである。例えば右にいうフクラスズメの如き、これが人望あり従って永く残った理由は、単に他の小鳥の形の引締まっているに比べて、雀ばかりが蓑でも着たように丸くふくれている特徴を、適切に形容したからというだけに止らず、別にまた口の脇が黒いから(一)、及びクラという名前が昔あったから(二)という事情も、手伝っていることは明かであるのみならず、始めてこの名が出来た時、この名を付けた人の心持は、必ずしも今これを使用する人々の想像しているものと、同じであったかどうかも確かではないのである。
方言はかえっていずれとも解し得るような種類のものが、久しく保存せられるに好都合であったのかも知れない。今一つの例をいえばバンチクとバンチャは、明かにバンドリスズメの変化であり、そのバンドリは雀のことであったが、これが行われるには他の一方において、同じ富山県の北の方の境に近く、ババスズメあるいは訛ってバワスズムなどの語が流行していたことが、間接に声援していたものとも考えられる。
あるいはこの反対の側から、バンチャなどという語が既にあったために、婆雀などの名が新に出来やすかったとも考え得るが、後者についても別に前に挙げたノキバノオバサンなどの例があって、決して他の一方から誤り転じたものでないことだけは確かであり、言わば二つの根原から、こんな語音の採用が有力に支援せられたのである。あまり話が長くならぬように、表によって互いに縁のありそうな語を比較して見ると、
バンドリスズメ 越中高岡
バンチャ 同 伏木
バンチク 同 氷見その他
ババスズメ 同 下新川郡
ノキバノオバサン 同 婦負・射水一部
オハグロスズメ 同 婦負郡以東
クチグロ 同 富山市
ヘソクロ 下総結城・下館
ヘソクロ(ヌキバ) 上総夷隅郡
イジクロ、イジワル 同上
フクロ 下総匝瑳郡
フクラ 相模三浦郡
即ち最後のフクラ、フクロの如きも、こうして並べて見て始めて頬黒の意味であるかの想像も起るので、それがまた他の類似の系統を立てると、必ずしも最初からの理由であったとも速断が出来なくなる。将来沖縄県の人たちが、その学問を携えて大に遠征しなければならぬ所以である。
以上列記した雀の方言の中で、殊に単独では何のことか解らぬものは、東上総のイジクロとイジワルであるが、それは多分この小鳥が、人前も構わず口喧ましく囀りかわすからで、黒いということが元来感心せぬ形容であったところから、一段とその誇張を促したものであろう。バンチャ・バンチクも人柄のよい老刀自たちには気のどくな話だが、つまりは女性の中でも一番遠慮なしに、よく物をいう人だという心持が、その流行を助けたという点は、双方同一の傾向といってよい。富山県でも南部の出町附近では、クソスズメという名さえ行われている。そんなにまで馬鹿にせずともよかろうにと、雀を見るたびに私は笑止に感じる。
それからこれに伴のうて先ず思い浮ぶことは、雀の特徴を口達者という点に見出そうとしたのは、決して内地の一部分のみではなかったということである。九州以南でもいわゆる道の島々では、
ユムンドゥリ、ユムンドゥラ等 大島
ユンドゥラ、ユンドゥリ等 徳之島
ユンドゥリヤ、イロドゥラア等 喜界島
ユムドゥイ等 沖永良部島
その他これに似通うた方言が分布している。久高の島でもクラグワの他にまたユムルヤー、名瀬ではまたヨメンドリともいう人があるそうであるが、その起原は正しく「読む鳥」、即ち「口の達者な鳥」に出たものである。ヨムという日本語は、漢字でいえば読よりも誦の方に当っていた。聴く人に聞かせるために声を揚げて、会話以外の調子を以て述べ立てることであった。軽蔑の心持はないまでも、この点を普通でないものと見ただけは確かである。前にもいう如く、小鳥をトリといい始めたのは古いことでないから、これはクラよりも後の改称であろうが、とにかくに以前の島々の社会において、ヨムを以て職業にした人が何であったかを考えたら、雀を婆様といった地方の人の心持も、そう意外ではないと共に、他の一方にはそれが決してこの頃になって、僅かな人の機智考案によったものでないことも、追々にわかって来るわけである。
その証拠として第二段に述べて見たいのは、雀または小鳥全体をクラと呼んでいた名残かとも認められるイタクラという一種の方言である。私が始めてこの一語を発見したのは、森彦太郎君の『南紀土俗資料』であった。和歌山県の日高郡、殊に山路と称する山中の村々では、スズメといえば我々のホオジロ(画眉鳥)のことで、鶯をホケジロといい、雀は即ちイタクラと呼んでいた。それから後に気を付けて見ると、この名称は決してある山奥だけで突発したものでないことがわかった。例えば
イタクロ 紀州海草郡
イタクラ 同 西牟婁郡
イナグラ 同 南牟婁郡相野谷
イタクラスズメ 大和十津川等
イタックロ 同 吉野郡北山
イタクラ 阿波祖谷山
この終の祖谷山は、美馬郡の土佐に接した山村で、偏鄙なためにかえって有名な土地であるが、ここまで行渡っているのを見ると、あるいは一度中間の平地にも、この語を使った時代があったのかも知れぬ。
それから沖縄県にはいるかどうかは知らぬが、雀の一種にニュウナイスズメというのがある。関東東北ではワタリスズメ、静岡県でタビスズメ、近畿地方でセンバスズメ、中国九州でホウライスズメ、またはムレスズメといい、『言海』には支那で黄雀というのがそれだとある。この方は頬ぺたに黒斑がないから、ニユウナイのニュウは即ちこれを意味するかと思っている。大和でも柳生地方、及び四国西部の東宇和郡の山村などは、このニュウナイのことをイタクラスズメといっている。しかし東京を始めとして、二種の雀の区別を知らぬ土地は多いから、一方のイタクラを誤りともいわれない。つまり相応に古くから、雀をイタクラという日本語は存在し、後々他の名称に取って代られて、やや交通の不完全な山地にばかり元の名が残っただけである。
右の弘い地域にわたってイタクラという方言を知って、今一度考えて見たくなるのは東上総のイジクロ、それから変化したかと思うイジワルという語である。人は折々古い物の名を保存しながら、その本意が少しく不明になると、いつとなくこれを自分の智識の領分に引張り込んで解こうとする傾きがあって、そのためには僅かずつの語音変更は常に行われている。雀のイタクラなども、あるいはそのためにイジクロといいかえられたのかも知れず、またそのままにして置いても、板倉・稲倉に来て住む故に、こんな名が出来たものかと思っている人があろうも知れぬが、もしそう思っているならば解釈だけの近代化である。
自分の考えた所では、イタクラの名の起りは道の島のユムンドリと、全然同じ心持から出たものと見て差支がない。奥州の田舎に今も多く住む盲目の巫女、土地によってはゴゼといい、ワカといい、またはモリコともオカミサンともいう者を、南部と津軽の各郡ではイタコという。沢山の物語を暗記してこれを読誦するのが本職である故に、あるいはアイヌ語のイタク(語る)という動詞から、成長した語とも考えられるが、足利時代の終頃までは、関東はもちろん京都の周囲にさえ、やや似た境遇にある者でイタカという部曲があったこと、それから推して行くと上代において板挙と書き、後々市女または一の御子などと呼ばれた、神に仕える一種の女性があったのも、同じ系統のものらしく、あるいは我々の国語の方にも、今の琉球のユタなどを包括して、もとそういう語が存在したように思われる。
この事はもう久しい以前に、『人類学雑誌』に詳しく述べて置いたが、現在でも自分の意見は変らず、またこれに対しては別に反対の説を表示した人もなかった。すなわちこれを雀の場合に当てていうと、イタカまたはイタコの如くよく物いうクラだからイタクラと、これを名づけた人がかつてあるということに帰着する。
クラという名詞が、本来漢字の雀の如く、また北陸道のスズメと同じく、少なくとも内地においては弘く色々の小鳥を総括していたらしいことは、燕をツバクロまたはツバクラというだけでも一つの有力な証拠であるが、紀州の串本では鶺鴒をチンチクロ、鹿児島県の一部では、雲雀をショクレもしくはショクリというとそれぞれの方言集に見えている。この三語ともに、前半は啼声の形容であったろうと思う。それから今一歩類推を進めるならば、シジュユカラ(四十雀)などもいずれの辞書にも説明に困っているが、単にシジュウと啼くクラというまでで、それによく似た五十雀・山雀・小雀、いずれも雀の字をガラと訓んでいるのは、クラと原一つであると見て大抵誤りはあるまい。
そうすると自分が前に列挙した今の雀の方言の、オハグロ・クチグロ・フクロ・ヘソクロという類も、仮に口の脇の黒斑を見て、これに名づけたものとしても、既にこういう下染のあった以上、なおさら覚えやすくまた学びやすかった道理である。
そこで問題は既に一つの結論に到着した。私は最初からこの程度以上に、沖縄の言語研究には干渉せぬ考えであったが、ただ一つだけ予め答えて置くべき小問題が残っている。それは沖縄にクラがあって、スズメがどうしてないかということである。その答としては必要がなかったと言ってもよし、流行しなかったと言ってもよい。とにかく現在ないということは、必ずしも知らなかったまたは最初からなかったという証拠にはならぬと思う。
この点は雀を他の小鳥と差別するために、ノキバスズメとかオハグロスズメとか呼んでいたものが、後に半分でも通用することが明かになると、一方は単にノキバまたはオハグロといい、他の一方では弘くスズメといっているのと、同じ事情であろうと思う。クラは発生の時代がスズメより古いか知らぬが、それを証明するにはまた別の方法が入用である。単に早く分立した南北の方言に、共通していたというのみを以て、そう推定するわけにも行くまいと思う。
そこで更に進んでスズメという名の起りを考えて見るに、これも啼き声の形容に始まったことは、大抵疑いがないようである。千葉県にも不思議な位雀の方言が多く、香取郡のある村では、別にまたジヤッチクラともいうと、『香取郡誌』の方言の部に見えており、それから利根川を渡って茨城県の東南部にも、同じ名前の行われていることは、明治四十年七月の『風俗画報』に見えている。自分はそれよりもまた二十年ほど前に、この大川のやや上流の地に二年あまりいたが、確かに雀をジヤッチといっていたばかりでなく、それがいかにも適切な名のようにも感じていた。
鳥の声などはいかようにも聴かれる上に、人が一たび名を付け聴きようを定めてしまうと、後にはかえってその方に引付けられることは、梟の方言の諸国それぞれに異なるのを見てもわかる。近代の都会の子供は、
などと唱えて、大抵チュウと啼くことにしているが、自分の生れた播磨ではチュンチュン、福島県以北ではチンチンと聴くのが普通で、その形容がやがては小児の間に、雀の名詞として通用することにもなったので、ジヤッチクラはまたその一つの例というまでであった。現に同じ香取郡の一部から、隣の匝瑳郡にかけて別にまたジチリュウ、もしくはジチリという名もあったことが、鳥学会の方言集には見えている。なお地方のこれに似た例を挙げるならば、
チンチラ 羽後田沢湖付近
チンチ 信州佐久及諏訪
チュウスケ 讃岐仲多度郡
チンチン 肥前北松浦郡
ツンツン 同 大島
シュウメ 同 五島三井楽
シュイメ 同 上岐宿
シーナギ 常陸稲敷郡
スズネメ 同 久慈・多賀
などの如く、最初はただ小児等の不完全なる形容の差異が、地方地方に偶然の変化を与えたので、その中の一つが夙く文献の支援を受けて、標準語の地位を占め他を改訂する力を具えるにいたって、ここに始めて永く活きる言葉と、次々に変って行く言葉との、二段の差別が生じたというのみで、それだけではまだ古さ新しさの標準とするに足らず、一つのある処には他の一つがなかったという証拠にもならぬかと思う。
現に沖縄の各地においても、内地と共通に現在の啼き声を以て、雀の名を作ろうとしている傾向は見出される。私の知っている二三の例をいえば、
チョチョグワ 国頭郡本部渡久地
チョチョイグワ 同郡 名護
チョチョログワ 中頭郡中城
マンチョウジ 平安座島
マシャガマ 宮古島平良
これ等ももちろんあどけない者の所業であって、それは本当の語ではないという人がまだいるか知らぬが、その子供が親となり祖父母となる頃までには、実はどうなって行くかわからぬという理由は、人が動物の最も顕著なる特徴を捉えて、その名にしようという心持だけは、千年も二千年も一貫して聊かも変っておらず、絶えてはまた起りいずれこの辺のところばかりを、往ったり来たりしているに違いないからである。
ただしそういう内にも聴方には古今の差が生ずる。チュウとかチンとか啼くものと思っている今の人々には、ジヤッチクラやジチリュウという語が異様に感じられると同じく、あの声がスズメとは聴えそうにもないということを疑う者は、もう再びこれを以て雀を形容しようとはせぬであろう。この点は狗の声雞の声を、異人種がどう聴くかということと比較して見ても解ることで、土地と時代には定まった一つの耳の働きがあるから、これによって判別すれば自然に新旧の異同も明かになって来るのである。そうするとスズメが今日の聴き方よりも一つ古いということが言える如く、クラはまたそれよりも更に前のものだったという推測も成立つかも知れぬ。
クラが雀の啼声から出た証拠は、幸いにして沖縄には残っていた。佐喜真興英君の『南島説話』に、奥州北陸にも伝わっているところの炭焼長者の物語の一例を挙げて、雀が次のような歌を以て女房に未来の幸福を教えたという話を述べている。
クル、クル
くまねすだからん
やんばる山かい
炭やちぐらかい。
即ち南の島の昔話の雀は、ついこの頃までもクルクルと啼いていたので、それからクラという名前が始まったということが知れるのである。
内地の方でもこの鳥のけたたましく啼く時は、蛇が出たとか、大鳥が渡るとか、何か異常の場合であった故に、これを一種の占方のように考える風は今も処々の田舎にあり、またあるいはあの囀りの言葉がもしわかるものならば、必ず意外の智慧であったろうという想像は、種々なる説話の上にも働いているのだが、クラがその根原をなすことまではもう記憶している者はなく、従って別に新たなる聴きように基づいて、スズメ以後の多くの名を作ったのである。だからもし二三の内陸の山村に、偶然にこの古風が保存せられていることを知らなかったら、あるいはいつまでもチェンバレン氏等と共に、南北言語の一致を看過することになったかも測られぬので、この意味からいうと私の発見も相応に重大なものであった。
これに基づいてなお考えて行くべきことは、同じ一つの民族でも時により処につれて、かつてクルクルと聴いた声を、スズともチンチンともジヤッチとも聴く位に、我々の形容な大ざっぱなまた精確でないものであったのである。それは恐らく蓄音機の如く正しく伝えようというよりも、むしろ面白くまた快く聴取ろうという要求の方が強かったためで、言わば音響に対する人の趣味のようなものの変遷であったのではないか。雀に比べると親しみは遥かに少なかったが、村の林に来た小鳥はさまざまで、到底その一つを以て代表させることは出来ぬはずであるにもかかわらず、現にクラでもスズメでも、今なお総称の如くに用いられる土地が多く、殊に我執のない童児の群にあっては、何度でも立戻ってこういう不精確に甘んじようという風のあったことは、畢竟する所単語は符号であり、相手の了解する限度において、むしろ智巧よりも簡易を尚んだためであって、これが恐らくは譬えとか綽名とか諺とか称する小さな文芸との、最もはっきりした一つの堺線であろうと思う。
ここでその話をすると脱線かも知れぬが、物を面白く言おうとする人の心持と、なるべく手軽に用を弁じようとする念慮とは、多くの場合において相闘っている。ある一つの語を選んでその他のものを棄てることが必要ならば、このように次から次へ、新たなる語が起るわけはないようなものだが、実際は前にも多くの例を挙げた如く、いつの間にか土地土地の用語は変り、その中には確かに意外なる新作があった。即ちただ交通の目的のみには、原形の保守はあるいは最上の便法であっても、人は一方に珍奇なるものを楽しみたいような余裕があって、機会のあるごとに流行を容れたのである。別の言い現わし方を用いるならば、方言の起りは一種の技術であった。従って必ずしも外部から感化を受けずとも、時の経過によって昔あったものを一変し、ちがった言語と見えるまでに、外形を改めてしまうかもしれない。そうして細かな比較考慮によらなければ、その歴史は知ることがむつかしいのである。
とにかくに我々には古語というものは幾らもあるが、安心して最初の語と信じ得るものは一つもないと思う。いわんや古いから正しいとか善いとかいうに至っては、迷信以外の何物でもないのである。イタクラ・ツバクラのクラが昔の人の聴き方であったとすれば、スズメやツバメのメもまたそうかも知れぬ。そんな声には聴えそうにもないというときは、ツバメもスズメも同様であるが、こちらは擬声と解するより以外に、別の意見もないらしいのである。こうして二種の語が重複して存することは、一方の意味の既に不明となり、単なる符号として残留することを示すもので、それを比べて行くと追々に発生の順序も明かになるのであろう。今ではまだクラとメといずれが前、もしくは二地に別存して、抵触相剋する機会がなかったか否かを、確める便宜を得ないというのみである。
最後になお一つ言って置きたいことは、人に親しいある種の物の名が、これだけ移り改まる性質を持っているからは、現在の分布によってその昔の領域を、狭く推定するのは危険だということである。
例えば利根川流域の僅かな平野の方言が省みられなかったら、雀にクラという語の内地にもあったことは知っても、それがかつて日本人全般に通用していたという想像は起らぬのみか、更に奇異なるイチクロという一語などは、いたって近世の誤謬として黙笑に付し去られたかも知れぬのである。言語の学問の甚だ振わなかった原因は、結局採集の不完全が主たるものであったとも考えられる。
宮良君の『南島採訪語彙稿』を見ると、沖縄諸島にはクラ以下の前に掲げた三種の外に、なお先島の方面には少なくとも三通りの方言が注意せられている。黒島のフナドゥリはあるいはクラから出たものであろうが、その隣島の小浜と西表では、カラヤヌトゥラマまたカラヤヌグックグワといっている。カラヤがもし瓦屋ならば、これは新らしい発生である。その次には石垣の本島から南へかけて、
ミストゥンナ 石垣
ミシドゥマ 新城
ミスドゥリ 波照間
などの例である。これは内地で鷦鷯をミソッチョまたはミソクグリというと同じく、あるいは現在では味噌と聯想して、その由来を考えて見ようとする人もあるかも知れぬが、自分の推測ではやはりスズメのメと一つ系統で、仮に啼き声から直接に出たと言われぬまでも、少くとも小鳥をメということと関係があろうと思う。
それからなお一つ第三の例としては、東では宮古島のパドゥイまたはパドゥー、西は与那国島のハドゥヤーがある。羽鳥の音であろうかと思われるが、果して土地の人はどう考えているか。とにかくに富山県の一部のバンドリスズメと似通うているのは偶然ではあるまい。藁蓑の一種をバンドリということは、北は越後、南は美濃あたりに及んでいて、必ずしも越中だけの現象ではないが、その命名の理由はまだ不明であった。あるいは鼯鼠の一類にバンドリというものがあって、蓑を着た形がこれと似ているからとも見られるが、その獣は何故にそういうかは、やはりまた不明であった。これはかえって雀を羽鳥といった方が前であって、それが蓑に行き鼯鼠に行ったものと、解した方が自然に聴えるのだが、現在の資料ばかりでは、まだそう断定するには少し早い。これが自分の南方諸島において、更に綿密なる方言調査の、進行せんことを希望する差当りの理由である。
霜が深く田畠に食べ物がなくなると、雀が追々と村里へ帰って来る。自分はまだ一羽の雀にも見覚えはないが、これを帰って来たというのには相応な理由があると思っている。庭の餌箱に粟を入れて見ていると、それを啄みに来る雀にはどう見ても二つの種類がある。一組はいつも群をなして集まり、大よそ飯時ともいうべきものがあるらしいに反して、一方には一羽か二羽、時々そのあいまに来て食べて行こうとするのがある。この二つの組が落合うと無論喧嘩になる。多分は雄かと思うきつい雀があって、そればかりが出て闘うのだから数の問題ではない。他の大勢は声援はおろか、見物すらもしていないにかかわらず、敗北するのは小さい組の者ときまっており、中には次の群の影を見ると、見切ってさっさと飛んで行くのもある。またこの方が一段きょときょとしており、他の組は幾分か落着いているようにも見えるが、これはあるいはそう思って見るからかも知れぬ。しかし少なくとも私のこの小さな庭を、領分として住んでいる雀と、よそに根拠があって何かの都合から、入ってくる雀とのあることだけはたしかである。
この領分がはじめどうしてきまるかということは、問題にする必要もないかと思うが、私の見ている所では、やはり巣立った場所の周囲が、自然にその雀の郷里になることは、人間も同じことかと思われる。普通は勝手な瓦の隙間などに巣を掛け、それがまた並んでいるのを見究め難いが、私が自分の寝る室の窓の前に、柱のような木を一本栽え、それに巣箱を引掛けて三回ほど雛を孵させて見たところでは、子雀の時代にいつもこの巣箱の附近へ、集まって来る者がちょうど一腹の数ほどあった。その中から次の家長が出るのか、あるいはまた丸々別の夫婦がその巣へ来るのか。それが簡単にわかると面白いのだが、どうもまだ確かめる方法がない。しかし少なくとも道路に接した木の上などから、物におびえて逃げて来るのを見ていると、あるものは真直に東の屋根の端に行き、また一部は西寄りの屋根を目がけて飛ぶ外に、この木の巣箱のまわりへ来て一休みした上で、行動をきめようとする者がまた数羽はあるので、すなわち大きくなってからも、また巣時でない群生活の時代にも、危険不安を感ずるごとに思わず知らず、寄り付く場所が彼等にあって、それがどうやら生れた家の附近らしいのである。だから雀に聴いて見ない以上確実なことも言えぬが、彼等の領土というのは郷里のことで、その中にもめいめいの生れ在所があり、何か特別の事態が起らぬ限り、近所に住む雀どもは親類、または同族であったのだろうと思っている。
一期の子育てを終ってしまうと、雀の家庭は解散してしまうかどうかは常に問題になる。大きな群でばかり押廻わしている様子を見れば、あの中には小さな結合などは存立し得ないように思われるが、それだけの事実ではまだ断定は出来ない。群は何かというと一時的に崩れて行くが、そういう場合にもめったに一羽きりにはならない。ただ二羽三羽と最後まで提携するのが、毎回同じか否かが突留められぬだけである。しかし私などが想像するように、いつも古巣の方角に向って、先ず逃げて行こうとする習性が彼等にあるとすれば、やはり同じ巣に育った者が利害は最も近く、共に暮らす時間も最も長いわけで、おのずからその中から配偶者もきまることと思う。一つの混乱のもとは落伍者の多いことで、相手を失った独身の雀が、何とか身の振り方をつけようとしてうろうろとするのが、少なからず我々の観察を誤らしめるが、それでも気をつけていると色々の事実がわかって来る。たとえば寒の中に、夜だけ巣箱に入って寝る雀がある。そういうのは大抵は二羽づれで、たった一羽というものはなく、三羽以上というのも見たことがない。京の深草の雀のお宿などでは、もうわかり切っていることなのかも知れぬが、こういうのが春になると、やがてその場処を家庭にしてしまうのではないかと思う。もちろんはじめから子なしの夫婦として住んでいるのではあるまいが、近くに親しい異性があれば、それと縁を組む気になるのはまあ自然であろう。子供の頃のことで覚えているのは、田舎で屋敷の隅に僅かな梨の棚があった。どうしたわけでかその棚の一本の太い竹が節が抜いてあった。秋の末にそれへ雀の入って行くのを私が見つけて、一方に網袋をあてて追込んで見たら二羽とれた。巣があるだろうと思って色々として覗いていたら、あるものかといって笑われたことがある。少なくともある幸福な雀は、こうして冬になる前から共棲しているのであった。
私がいつでも問題にしていたのは、どうしてこのようながやがやとした群の中から、たった一羽の相手を見定めるのであろうかということであった。背格好といい着ている着物のがらまで、これほどもよく似た者がまちがえも騙されもせずに、ある者とは親しくまたある者とはやや冷淡に、時々は闘争までするというのが不審に堪えなかった。しかし一心に同じ巣の雛を愛している場合はもちろん、そうでなくとも彼等の行動には隠れたる指導があって、しばしば一つの屋根にとまり、同じ梢に集まっているということが、馴れない連中との見分けを容易にするらしい上に、群の中でも個々の一羽の見覚えがついているのだということがこの頃やや判って来た。鶯や目白のような素人には何とも致し方のない小鳥でも、詳しく見究めたら仲間うちだけで、通用している個性というものはきっとあると思うが、雀に至っては外からでもほぼ明かな特徴がそれぞれに備わっている。これが雀界の社会学の、今に成立つだろうと思う一つの理由であって、自分がもし今少しの時間をもちまた眼が良かったら、先ず第一に彼等の頬の黒い斑を、形と大きさによって分類したことであろう。ごく大体の気のついた点をいうと、雀の頬の黒い毛の部分は、よほど遠くからでも見分けられるほどの、大小と輪廓の差があって、周りが白だから殊にはっきりしている。これさえ覚えてしまえばたとえ何千羽の群の中にいても、友を見失うような懸念はないのである。私の想像では、これがこの一種族の他に立優った強みであると共に、人に名前があり住家があって、いつでも再会し得るために別れやすくなった如く、幾分か彼等の行動を自由にし、かつ複雑にしているのではないかと思う。雀はきたない鳥だがその文化は他の動物よりも少し進んでいる、と思ってもよいような事実が次々に心づかれるのである。
春さきこの鳥の言葉が急に多くなり、また活溌になるのは誰でも気がつくが、これは彼等が人に近く、従ってまた慎みがないためとも説明し得られるかも知らぬ。ただ雀は少なくとも境遇によって、かなり色々と生活ぶりを変える鳥であることは、その挙動を見ている者の感ぜずにはいられぬことで、それが淋しい深山の鳥、または獣などの数少ない群であったら、恐らくこういう真似は出来まいと思うと、この無限の繁殖の理由が、先ず一つはわかったような気がする。冬から続いて仲よくしている雀が、さっさと巣を造ってもう一番子を孵したろうと思う頃まで、まだ相手がきまらず飛んであるく雀がある。口に一筋の建築材料をくわえて、同じ処で長い間同じ音を鳴き続けているのが、急に早調子になるから出て見ると、きっとその傍へ今一羽やって来て、いかにもその声を聴くような様子をしている。古い日本語でカタラウというのがこれかと察せられる。即ちここで一緒になって、家を持とうではないかという相談である。鳥の世界でも、やはり雄の方が機嫌を取るらしい事実はある。たとえば百舌などは夜の引明けに、小高い木の枝に二羽ならんでいて、その一羽だけが何度でも下に降りて、巣になりそうな叢に飛んで行っては帰って来る。ある時はまた食物を拾って来ては食わせる。それを雛見たように両翼を顫わせながら、口をあけて食べさせてもらうのが雌であった。これと同じ挙動は他の小鳥にも、巣に就く前にしばしば見られる。鶏などでも食物を見つけると、雄は食べずに相手を喚び集め、または土を掻き散らして食物があるという様子をして、だまして喚びよせようとするものもある。だから雀の場合にも、藁などをくわえた不自由な口で、鳴いて相手を誘なうのは雄の方かも知れぬが、巣の計画には雌の方が熱心な小鳥も多いから、今はまだ何とも言えないのである。
食物と住居の安全と、この二つが大切な相談の題目であることは想像し得られる。これについての意見が異なると、そう簡単には近よって来ぬのが常法で、これをただ雀の好き嫌いと解し、もしくは稀に雀望のない雀があるかのように、言った人もあるが私は賛成しない。ここでも個性というものが現われるとすれば、早く子を持ちたいという念願は殊に強く、そのためにやや大胆に過ぎた場処の選択をする者と、それに同意し兼ねる仲間が多いということは有り得るかと思う。山に住む鳥には食料は問題が小さく、巣の方に余分の注意を向けているらしい形跡が著しい。彼等の営巣風習には時代の変化が見られず、また地域の差異もずっと少なくて、かなり厳重に古い法則を守っている。それに反して雀はこの点が自由である。瓦葺きが普及すれば瓦の間に、萱葺が厚くなればこれに穴をあけて住み、人がいなかった昔はどうしていたろうかを、もう考えて見ることも出来ぬようになっている。雀の食物だってそう乏しいわけでもないが、あたりが騒々しくておちおちと食べられぬ場合が多い上に、子育ての前後になると生きたものを捜さねばならぬので、一層その計画が立てにくく、勢いその方へ多く気を取られて、住居の問題をいい加減に解決するのではないかと思う。雀が巣の場所を定める方針の、出たらめであることは著名である。そうしてまた恐ろしく仕事が早い。私の家では二日置きに風呂を立てていた頃、毎度煙突の口に巣を食った雀が、落ちて死ぬのを憐んだことがあった。北海道のある停車場では、腰赤燕の泥の巣の壊れたのに、せっせと草を運んでいる雀を見たことがある。相州の海岸ではたしかにまた松の木の地上三尺ばかりに、巣をかけ卵を産んだ雀を知っているのである。こういう点から見ると何だか野蛮なようだが、大よそ今日知られている小鳥の中で、彼ほど自在に生き方を変えて、環境に適応しようとする者はあろうとは思えない。外の家畜が利用せられてばかりいるとは反対に、彼等は輒ち人を利用し村里を利用して、村雀または里雀となっているのである。
もしも雀が食料の獲得ということに重きを置くこともなく、ただ徒らに住居の選択にぞんざいであるというのだったら、これは一向にだめな鳥ということになるが、それでこの通り繁昌して行けようとは私には思われない。やはりこの二つは婚姻育児の条件ではあるが、鳥によりまたその境遇によって、幾分かいずれかを軽く重く、見なければならぬ事情があったものと思われる。妻を求める頃の挙動を見ていても、食物は大抵大丈夫、住居はこの辺がよかろうではないかと啼くものと、虫の狩場はここときめた、巣は先ずここで我慢をしようと相談を掛けるのと、二通りあることはほぼわかる。雀も決して住居の方に、鶏見たように呑気でないことは、早く巣作るものが形勝と安全とを先占し、よっぽど遅くなってから、巣箱の店借りに来るのでも察せられる。既に多くの人に気づかれていることは、四十雀が家を捜しまわって、巣箱の近くへ来てもまだ考えている。それを里雀が見かけると急いで先へ入り、またはまだ相手もきまらぬのに邪魔をしようとする。だから巣箱の穴を出来るだけ小さくして、始めから雀が断念するように、四十雀だけにしか入れぬようにしなければならぬのである。意地の悪いやつだと舌打ちする人もあるが、雀の立場からいえば気がもめるのであろう。しかし人を信用する経験も、山野の鳥よりは雀の方が多くもっている。これほど悪太郎の多い人間社会を信ずるというのも軽慮のようだが、それでも人里ではまだ危険の種類が少ない。そうして馴れて忘れてしまった危険も多いかと思う。私の家では落葉松の高い幹に縛って置いた巣箱が三越製であった。主人も考えが足りなくて、屋根の板の薄いのを気にしなかったところ、二春まで続けて親子二代とも何かに喰われてしまった。多分は村の外の林に棲む梟のしわざだったろう。屋根の板を剥し割って夜の中に荒して行ったのである。大屋も店子も共にこの危険には無智であった。深山の鳥ならば恐らくは本能がこれを避けさせたことと思う。
しかもこの危険が、もし少しでも予知し得られるものだったら、選んだ後でも何かの処置を取ったであろうことは、幸いにしてこれを確かめる機会が私にはあった。鳥類の不安の感じはかえって人間よりはずっと鋭敏なのである。ただ我々のような推理の力が具わらぬために、梟にも襲われ煙突からも落ちるのみならず、むだな恐怖によって大きな損をするのである。この砧村の野の中に住んだ当座、私は庭に僅かな芝生を設けて、春の緑を楽しんでいたが、毎日のようにその中に雀の卵の破片を見かける。時には傷のない卵もあり、または孵化したばかりの雛が、落ちていて蟻にたかられていることもあった。その頃は近所のそちこちに大工づかいの音がきこえ、トラックのやたらに飛びまわる時であったから、雀も落付きが悪くて外へ移ろうとするのだろうと思った。故川口孫治郎君が訪ねて来られた際に、この想像を私が話して見ると、待って下さいよと川口氏はいった。雀には借家がありませんからねえ。急に引越して行く先がありますまいからねともいった。それもそうだとは思うが、この事実にはそれより以外の説明があり得ない。つまりこの現象はまだ鳥学界でも問題になっていないのである。もう少し見ていてやりましょうとまた数年を重ねたが、ついぞ雀が雛または卵を抱えて、飛んで行くのを見たことはなかった。これは夜明けの最も気力の旺んな時刻とか、またはよくよく人影の見えぬときを見定めて、決行するものと考えられる。芝の上に卵や雛の落ちていることは、気をつけているためかいよいよ多くなる。それで一計を案じて窓の外の手の届く処に、ごく簡単な大ぶりな巣箱を引掛けた。最初はもちろん中に入ろうとしない。それでも春がたけてどうにもならぬという時分に、晩婚の雀がこれへ来て家を持った。六七日の間はそっとして置いて、もうよかろうと脇の戸から、手を入れて見ると卵を生んでいる。やがて子が孵ってじいじいと幽かに啼き始めてから、毎朝手を入れて撫でて見ることにしていた。さぞ雀のおっかさんが、煙草くさい児だといっていやがるでしょうと娘たちがいうので、なに小鳥には嗅覚がないということだなどと冗談をいっていると、たった三日か四日で、あの柔かな何ともいえない肌ざわりのものが、突如として箱の中から消えてしまっている。さてこそと取下して見ると中は藻抜の殻であった。独りで飛んで行った気づかいはないのである。行く先に頃合いの空家があろうとなかろうと、少しく不安を感ずると食ってしまうという親さえあるのだ。とにかくここには置かれぬというだけでそっと抱え出し、何かに驚けば取落して行くものと見える。恐らく安全に育つということは、この成長状態では望めないであろう。つまらぬ試験をしたものだと今に気が咎めている。それからまた気のついたことだが、家の近所で見る巣立雀の中には、人ならば七八つもちがうと思う年齢の差が見られる。一家の都合とか両親の気持とかでは、かなり思い切って早い巣立ちをさせるらしいのである。いたずらっ児時代の記憶を喚起して見ても、瓦をめくって親かとまちがえるような大きな子雀を見たこともあれば、また椽先などへ入って来るのには、時々は腋の下などの赤裸なのもいる。こういうのは出ても満足には成長せぬかも知れぬが、とにかく雀は住居に関心が淡いと言っても、やはり一定の要求だけはあって、それが充されぬと愛する者の生命を賭しても、立退いてしまわずにはいないのである。それ位ならもう少し巣を作る前に、周囲の条件を吟味すればいいのにと思うが、やはり内側にそう十分な熟慮と、忍耐とをさせないような促迫があるらしいのである。自然を愛する人々の、もう一足だけ前に進んで、考えて見なければならぬ問題がここに残っている。私の家では餌箱に粟を絶やさず、虫などは幾らでも拾えるように庭を荒して、これで食物だけは保障してやったと思っているが、そうすればまた粗末な巣でも急いで作って、こうして中途に悲しい思いをするような、雀ばかりが多くなって来るのである。
語学といっているような雀の語の研究は、我々には到底出来ない。いかに恵まれたる公冶長であっても、雀と話をしようとする企ては成立たず、またそんな入用もないからである。文字を雀が用いていないということも、少なからず我々の観察を簡単にする。人間の国語でも、一応はこういう純な状態から学び始めた方がよいように、私はこの頃考え始めて来た。通弁を頼まずにはそれは無理のように見えるが、幸いなことには鳥の言葉は数がいたって少ない。何度も聴いているうちには意味はやがて判るので、ただ判りましたということを他人に示すことが、幾分か面倒なだけである。だから私は誰一人として信用する者がないということを、覚悟の上でこの報告をするのであるが、そういう中でも少しは同感の人もあろうかと思うことは、雀の国の言葉が比較的に、どの鳥類よりも複雑だという一事である。すぐ近くへ来て啼く頬白やアオジまたは鶺鴒というような、一括して田舎ではスズメと呼ぶものを比べて見ても、語数の多いことにかけては里雀に及ぶものはない。四十雀は幾分か啼声に変化が多く、山に入ってあれも四十雀かと、不思議に思うことがある位であり、コガワラヒワなども聴いていると囀りに二色三色、地鳴きも場合によって全く別なものを使うが、頬白にいたっては雄は半日でも同じ調子の高音をくり返し、雌はごく無口でただ時々地鳴きをする。藁雀やジョウビタキは毎度のように来ても、啼声はただ一種で囀りもしない。これに反して雀は饒舌の評が高いだけに、それはそれは色々の語を持っている。正しい対訳が下しにくい故に、列挙もまた容易でないが、先ず誰でも知っていると思うのは、遠い処から何かあぶないことがあって遁げて来る場合、これは一語ずつ引離して、かなりはっきりと発音するので、いかにも我々の「やれうれしや」に似た感じを与える。次には婚約がいよいよ成って、これから巣に就こうとする際の悦びの声、こちらは細く美しくかつ連続して、これくらい顕著に幸福の感を表示するものはない。それからまた警戒の声でも、猫が木の下へ来た場合と子供などの近よる時とは、馴れてしまえば素人にでも差別がよくわかる。仲間がこれを聴いて危険の性質を、即座に諒解することは言うまでもなかろう。これと一羽が害に遭うて、騒ぎ立てる時とはまた声がちがっている。余りに人らしい解釈かも知れぬが、私などはこれを「同情に堪えぬ」と訳している。苦しいまたはかなしいを意味するらしい声は、喧嘩をして地に落ちようとする時などに聴かれるが、これと黐竿で刺された時とはよく似ていても、周囲にいる雀の態度は大分ちがうから、よく聴き分けたら多少の差があるのであろう。野原に出て行って稲架の間などで遊ぶ時の声と、夕方ねどこにしている木や竹藪に戻って、騒ぎ立てるものとはよほどよく似ている。これは多分取止めのない昂奮であって、会話というよりはむしろ運動の方に近いものと思われる。それと早暁のぽつぽつと眼を覚ます際の言葉とは、同じ鳥の朝夕とは思われぬほどの相違があり、こちらは「ここにいる」、もしくは「皆はどうした」とかいう風にも聞き取られ、僅かな数で木にとまっている時には、昼間でもこれとよく似た言葉を使うことがある。
囀ずるということは今日の鳥屋の意味では、雀には全くないようにも思われるが、これは本来は雀などから始まった語らしいから、現在の用法が変っているのである。人間でいうならばよそ心、鳥としては最も自然な無為の生活をしている際の、これぞという定まった目途もなしに、いつまでも同じ調子の言葉をくり返すということは、いかに気ぜわしない雀とても、丸々その楽しみを奪われてはいない。子供らが聴いて共鳴をするのもこの声に限られているのは、隠れた意味のあることかと思う。雀は何と鳴くと彼等に尋ねて見ると、チュンと鳴くというのが即ち囀ずりであった。これを平板にまたは尻揚りに、あるいは一つ置きにアクセントを取替えて、許されるなら晩までも、際限もなく唱えておろうとするのを見ると、この語には詩歌俳諧と同じく、差当っての目途はなく、聴いている仲間もこれを用向きだとは認めていなかったのである。それをなんらかの大切な交通語の、間に取りまぜて使おうとする故に、外の者にはいよいよ解しにくく、また非常に騒々しいおしゃべりとも評せられることは、ちょうど我々が駄洒落を興じているところを、西洋人などが立聴きしたようなものであろう。南の島々では雀をユムンドリという者が多い。ユムンは「よむ」であって暗誦のことである。何だか物々しい意味がありそうで、それが判らぬためになおのこと、よくも覚えたものだという感じを人に与える。雀の語によって霊界の神秘を知ったという昔話が、空想せられた動機もここにあるかと思う。沖縄の炭焼長者の女房などは、雀に山原の炭焼き谷に行けと教えられて、長者の始祖になったといわれている。ここではクルクルというのが雀の囀ずりの声であった。我々がチュンチュンと聴き、スズメと写していた音を、島ではクルクルと聴き、従ってまたこの鳥をクラと呼んでいるのであった。
我々の片仮名で描き出そうとするから失敗するのだが、もともと雀の子音はいたって数少なく、ことによったら一つの音素が、出しようによってちがって聴えるのかとも思う。それを色々と組合せて、少なくとも三十種に近い場合と心持とを表示し、更に自分の楽しみの鼻歌までこしらえているのは、全く雀の国独得の文化であって、他の多くの鳥たちの企てられぬことであった。きたない鳥だし尻尾などはたしかに無細工だが、言葉だけはたしかに進んでいる。それがまた必要によって促されたものだとすると、彼等の社会なり生活境遇なりは、著しく複雑になっているのである。これを具体的に知ろうとすれば、人に近く住むだけに方法は幾らでもあると思う。音の変りの少ない言葉を、音字で現わそうとするから無理がある。私は胡麻点即ち○のような形のものを、大小幾通りかこしらえ、また必要ならば点を白黒鼠色にし、それを斜めにしたり竪にしたり、また中間のあけ方と数とを加減すれば、立派に雀和辞典は活版になし得るものと考えている。
底本:「野草雑記・野鳥雑記」岩波文庫、岩波書店
2011(平成23)年1月14日第1刷発行
底本の親本:「柳田國男全集 第十二巻」筑摩書房
1998(平成10)年
初出:野鳥雑記「アルト 第四~六号」紀伊国屋書店
1928(昭和3)年8月1日~10月1日
鳥の名と昔話「野鳥 第一巻第二号、第二巻第八号」梓書房
1934(昭和9)年6月1日、1935(昭和10)年8月1日
梟の啼声「家の光 第三巻第八号」産業組合中央会
1927(昭和2)年8月1日
九州の鳥「九州民俗学 特輯号」九州民俗学会
1930(昭和5)年10月8日
翡翠の歎き「郊外 第六巻第六号」郊外社
1926(大正15)年5月1日
絵になる鳥「短歌月刊 第二巻第七号」文芸月刊社
1930(昭和5)年7月1日
烏勧請の事「東京朝日新聞」東京朝日新聞社
1934(昭和9)年5月13~16日
初烏のことなど「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞発行所
1930(昭和5)年1月3日
鳶の別れ「経済往来 第一巻第四号」日本評論社
1926(大正15)年6月1日
村の鳥「きぬた」
1934(昭和9)年1月
六月の鳥「文体 第一号」文体社
1933(昭和8)年7月15日
須走から「野鳥 第一巻第四号」梓書房
1934(昭和9)年8月1日
雀をクラということ「南島研究 第二輯」南島研究会
1928(昭和3)年5月10日
談雀「俳句研究 第六巻第二号」改造社
1939(昭和14)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「絵になる鳥」の初出時の表題は「野鳥雑記(1)絵になる鳥」です。
※「初烏のことなど」の初出時の表題は「初からす」です。
※「鳶の別れ」の初出時の表題は「市隠談片」です。
※「須走から」の初出時の表題は「小河原鶸のこと」です。
※「野草雑記・野鳥雑記」は1940(昭和15)年に甲鳥書林から柳田國男の装丁により出版されましたので、表題を「野草雑記・野鳥雑記」とし、副題を「野鳥雑記」としました。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年5月5日作成
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