野草雑記・野鳥雑記
野草雑記
柳田國男
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この二冊の小さな本のように、最初思った通りに出来あがらなかった書物も少ない。私は昭和二年の秋、この喜多見の山野のくぬぎ原に、僅かな庭をもつ書斎を建てて、ここを一茶のいうついの住みかにしようという気になった。あたりはまだ一面の芒尾花で、東西南北には各々二三本の大きな松が見え、風のない日には小鳥の声がある。身の老い心の鎮まって行くとともに、久しく憶い出さなかった少年の日が蘇って来る。私の生れ在所も村であったが、家が街道端でこの辺よりは立て込んでいたために、山に入らぬと色々の鳥は見られない。里にいるのは無数の雀ばかり、鳶と烏の他には空を横ぎるものがなかった。雁も水雞も時鳥も、すべて歌俳諧と版画とによって知ったのである。これに反して野の草には友だちが多かった。それがこの岡のまわりにも群を成してはいるのだが、幼ない頃に見たのとはどうも様子が少し違う。ということが一段と昔を偲ばしめたのである。
たとえば「雀の毛槍」などは、私等が抽いて弄んだのは、もっと茎が長々として花の総が大きく、絵にある行列のお供の槍とよく似ていた。母子草もこちらのは、餅に入れるほどにもふっくりと伸びず、小さなうちにもう花が咲いてしまうのは風土のためであろう。すみればかりは関東の野の方が種類も多く、色もずっと鮮かなように思われるが、蒲公英もまた紫雲英も、花がやや少なくかつ色が淋しい。ただその埋め合せに野木瓜とか山吹とか、故郷で覚えていないさまざまの花が、この野の春色を豊かにしているのである。昭和三年の初めての春は楽しかった。もしも幸いにこの家に十年、何事もなくて住み続けることが出来たら、草の話を小さな一巻に集めて、子供や古い友人に読んでもらおうと、思い立ったのも早いことであったが、まだその時には『野鳥雑記』には考え及ばなかったのである。
鳥は旧友川口孫治郎君の感化もあり、小学校にいた頃からもうよほど好きであった。十三歳の秋から下総の田舎にやって来て、虚弱なために二年ほどの間、目白や鶸を捕ったり飼ったりして暮した。百舌と闘ったこともよく覚えている。雪の中では南天の実を餌にして、鵯をつかまえたことも何度かある。雲雀の巣の発見などは、それよりもずっと早く、恐らく自分が単独に為し遂げた最初の事業であって、今でもその日の胸の轟きが記憶せられる。小鳥の嫌いな少年もあるまいが、私はその中でも出色であった。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持って行って毎日読み、人にも読ませたのは寂しいためばかりではなかった。少なくとも私の鳥好きは持続している。この砧の新村の初期には、野は満目の麦生であり、空は未明から雲雀の音楽を以て覆われていた。それが春ごとに少しずつ遠ざかり、また少なくなって行くのに心づいて、段々に外へ出て鳥の声を求めるような癖を、養わずにはいられなかったのである。そこへさして現れて来たのが、野鳥の会の中西悟堂君という無双の鳥好きとであった。私は五十年も東京にいながら、まだ中国の土音が抜けきらぬほど耳が悪く、また口真似が拙であるが、中西氏はその正反対で、従ってまた鳥の名を教える名人でもあった。あの早起きと健脚とには附いて歩けぬので、ほんの通信教授見たいな指導しか受けなかったが、それでも少しずつ新しいことを学んだ。第一にはうちの近所の木にも、存外色々の鳥が遊びに来るということ、次には子供の頃に覚えたと思っていることにも、かなり間違っていた点が多いということである。元来私は早合点をする質だから、今だってもまだ誤解があるかも知れない。がとにかくに気を付けたり思い出したりする事が、これでまた一つふえたのである。
私の家では、始めには庭に何物をも栽えない主義であった。木は門を出ること数歩にして松でも何でもある。草は抜ききれないほど色々のものが生える。どんなものが先ず生えて来るか、見ようと思って空地にして置いたのだが、あまり土埃りが立つというので芝を張った。そうするとその隙間から顔を出したのが、隣の地面からの根笹の芽であった。これは棄てて置くと笹原になるから鋏で切った。その次には職人が食べてほうったかと思う梨の芽生えが二本、松が一本と片隅に合歓の木とが生えた。これだけは約束だから成長にまかせ、もうそのあとは構わずに置くとよかったのだが、春になって気がかわって梅をたった一本、竹垣の近くに移植したのが病みつきで、秋はその隣へ小さな木犀と山茶花、安行からは富有柿の若木が来る。いけて置いた丹波栗が芽を出す。何やらかやら皆大きくなり、おまけに隣地の檜の木までが林のように茂って来て、目隠しにはよいが日陰が多くなった。幼な馴染の草などは、大抵は十分な日の光の中で育つものばかりだから、こんな処には見切りをつけて、ずんずんと野外に退却してしまい、家のまわりにはいやな草ばかりがはびころうとする。雨でも降りつづいて五六日も出ずにいると、すぐに化物屋敷のようになって心までが荒びるので、近年は草取りが夏秋の日課になってしまった。人も草取りを日課にする年になると、もはや少年の日の情愛を以てこの物に対することが出来ない。この変化は相応に寂しいものである。
よい草いやな草の差別は子供もするが、標準は違っている。かたばみは我々にとっては迷惑至極な草だが、彼等はあの葉の珍らしい形と、実が胡瓜のようなのに興味をもつ。千なりほおずきなども怖ろしいやつで、うっかり一本を見のがすともう翌年は畠中に満ち、抜いても棄てても後から出てきて、小さななりをして花をもち実が熟する。どうして退治しようかと思うほどであるのに、孫どもはやって来ると先ずそれに目を著ける。杉菜が畠に入ると飛び上るほども農夫が騒ぐのは、一つには根が深くて除きにくいためもあるが、それがまた土筆採りの子供を誘引して、畝を踏み荒される気づかいもあるからであった。佇んでただながめるだけなら、ああ美しいと思うような草でも、土地を再び曠野に返すまいと思えば、精出して抜かねばならぬものが多い。それを承知の上で雑草の方にも、驚くような繁殖力、智慧と名づけてもよいほどの対抗手段をもっていることが、子供でないだけに少しずつわかって来た。触れるとすぐに莢が弾けて、遠くまで種子を飛ばすものがある。蔓が容易にちぎれて残りだけでまた根付くものがある。あるいは地獄蕎麦とも呼ばれる蕺草のように、悪く臭いので人を近づけぬものもある。環境に応じて大きくも小さくも、形を色々にかえて生きて行こうとする努力などは、ある草は全く知らず、他のある種には特に著しい。自然の始めからの配慮と言おうよりも、何だかめいめいの発明の如くにも感ぜられる。自身庭に降りて直接の交渉に当るまでは、眼の前にいながら丸で知らずにいた。子供でなくなったということも必ずしもそう悪いものではない。私は今も草取りによって少しずつ学んでいるのである。
おかしい経験は人とこの話をして見たいと思うのに、大抵の場合は草の名を知らない。金田一春彦君が二夏つづけて、かくしに植物図鑑を入れて教えに来てくれた。庭や門前の僅かな面積に、もう三十種に近い雑草が算えられる。それに一々名があったことが、むしろ不思議なくらいに私には感じられた。これが日本の植物学の進歩なのであろう。畔田翠山の『古名録』というような、最も綿密な本草書を見ても、まだその中に掲げてない草が大分あって、それにも立派な標準語が附いている。ただそれを引用して素人同志話をしようとしても、相手も知らぬのだから間に合わぬだけである。話題になる草は昔から限られていて、それも少しずつ数を減じて行くのではないかと思われる。せっかく気のきいた佳い名が出来ているのに、この毎日見るものをこんなとかこういうとか、面倒でしかも不精確な描写に任せて置いては、それこそ話にもならぬのである。今度の国民学校にも頼まなければならぬが、私の『野草雑記』も働かずにはいられない。ただそれには十年が少し短かすぎたというだけである。
小鳥の方でも実情はこれとよく似ている。私は近年の方言集をあさって、かなり数多くの草と鳥の名を比べて見たが、多いのは一つのものの異名のみで、その種類は不思議なほどにも限られている。久しくこういう話題の管理を、少年の手に委ねてしまって、省みなかったということも原因の一つかも知れぬ。もしそうだとすると今になって少しばかり、樹蔭で草をむしり鳥の声に耳を傾けようとしても、急にそう新らしい経験の得られぬのもやむをえない。それにまた彼等の社会にも、やはり免れ難い生活の変化があって、古い約束などは守っていられぬようである。草に外来の新種が幾つか加わり、または遠くから引移って来たものがあって、それが案外に幅を利かしているように、鳥にも新たなる危険が多く、もう以前ほどは悠長でなくなっている。四十雀でも藪鶯でも、来たかと思うとすぐに行ってしまって、遊んでいようとする心持が少しもない。殊に頬白などは囀りまでもかえたらしく、何だか一年増しに歌の声が短くなって、一筆啓上仕候などとは、聴いてもらえそうもなくなった。現在残っている幾つかの鳥の昔話は、どれも皆あの挙動や鳴声の写実味に根ざしている。もしもその根拠が揺ぐようだったら、後は幼ない者までが印象を拒むことになるであろう。新たなるものがいまだ生れず、古い心持は先ず消えようとするこの淋しい過渡期に、ちょうど世に出て行く記録だということが、前から少しでもわかっていたならば、また若干の用意もあったであろうに、私は漸くこの頃になってそれに気付いたのである。いかに閑人の閑事業であったとはいっても、あまりにその散漫であるのに私は恥じている。
今一つの思いがけぬ滑稽は、この住宅地の周囲の光景が、こんなにも変って行くものとは私は考えなかった。家を移した当座の数年は、二階の寝床から遥かに多摩川対岸の岡が見えた。その頃はまだ眼もよかったので、いつとなく森や樹木の形に親しみをもち、何度か目標をきめて川を渡って訪ねて行ったこともある。西の窓からは国境の連山がよく見えて、右の端は秩父の武甲山に大菩薩、一度相模川の流路でたるんで、道志・丹沢から大山の尖った峰まで、雪が来たり雲がかかったり、四季時々の眺めには心を惹かるるものが多く、小鳥の去来ということも、終始これと結び付けて考えるようになっていた。それが一方は近くに高い家が建ってたちまち見えなくなり、一方は樹木が一体に成長して、僅かに葉が落ちてからちらちらと隙見をするだけになった。南の正面には高い松の木が二本あって、春は黒鶫や小綬鶏が来て啼いた。二本合せると誠に好い恰好で、月があの方角から出るのだったらなどと評判をしていたが、ある年の火事に遭ってその一本が枯れて伐られ、残りは一向にくだらぬ木になり、鳥もまた段々来なくなった。「たけに草」の目の覚めるような美しさを見せた西隣の空地は、ほどなく土が古びて再び芒に占領せられ、今年はいよいよ隣組が開墾して大根を播いてしまった。こんなに変ってしまうものなら、あの頃写真を撮るかスケッチをしてもらって置くか、自分で画を学んでもまだ間に合う位であったのに、何もしないで十年も経ってしまった。今頃どのようにその噂をして見ても、それが自分の感じていた通りに、描き出されるわけはないのであった。一度こういった記念の書を出そうと思い立って、それにいつまでも執われていなかったら、あるいはもう少し安らかな、人を楽しましめる雑記が出来たかも知れぬ。私のすることにはいつもこんな失敗が多い。
この喜多見の原の家に住み始めてから、今度はもう第十回目の春が復って来る。この間における草木の有為転変は、一つの巨大なる歴史であって、これに比べると人はむしろ常磐であったとも言える。最初私たちは久しい町の生活に馴れてささやかなる庭前の草をも容赦しなかった。必ず「年々愁処生」というような詩の句を思い出して、それを成長させて置くことが、我身をはふらかすわざのように考えていた。そうこうしているうちに道路は小砂利になり、または雨の後の泥にまみれて、根強いものまでが次第に退いて行った。家のまわりの植物は萩が先ず衰えて、今では僅かに一叢二叢が、譜第の家の子のような顔をして培われている。黄なる山菊は残そうと思ったが、去年などはどうやら咲かずにしまった。春の草では菫がただ一種だけになって、蒲公英はもう疾くに姿を消している。そうしておかしいことには今生えようとしている草は、大抵は主人が名を知らぬものばかりである。草の名の教育などは、我々は六つ七つの時から以後、絶えて与えられもせずまた受けようともしなかった。それ故に幼ない愛着は永く伝わり、新たなる感歎の時あって催されると共に、測らずもまた人間の無識が、いかに多くの事蹟を閑却していたかを、心づかしめる機縁ともなるのである。
杉菜はこのあたりの畠を打つ人たちに、何よりも憎まれている草であって、その根は地獄にも届いているように、戯れていう者さえある位であるが、畠を切り均したばかりの私の家の外庭には、毎年待っている子どもがあるのに、もう一本でも生えて来ようとしない。全体どういう場処に生えるものなのかと、気をつけて見てあるいていると、時々は湿りがちな田の畔にも、日蔭の多い若木林の端にも、驚くほど沢山の小法師の、並んで立っていることがある。
そう条件はむつかしくないらしいのだが、不思議に人間の住む所を避けて繁ろうとする。庭は全く人の踏む足の数がどこの土よりも多い。それを彼等の開拓者が嫌うので、根や養いだけの問題ではなかったのである。芒なども性癖がこれとやや似ている。隣の空地ではある季節にはこれただ一色に蔽われて、色々の虫の声を宿し、小路を隔てて一斉に袖を振る様子は、招くと言おうよりもむしろデモンストレエションに近く、風が吹けば盛んに穂綿を流して来るのだが、私の庭へは僅かな片陰以外、めったに下りて土着しようとはしない。一時は熱心に闘って抜き棄てたものを、この頃は一株移植して見ようかと思うほどになった。これとは反対に根笹は草に隠れて、地続きの一方の空地には覗いても眼につかぬのに、いつになってもその根が走って来ることを止めない。逕にも出れば芝生の中にも出る。垣根の下はもとより、中には五六間も飛離れて糸のような筍を抽きんでようとする。これだけは鋏を以て切ってしまわずにはいられぬのであるが、考えて見ると竹は人に最も親しむ植物の一つで、鳥であったらどの位喜ばれたか知れない。
それからタケニグサもこの土地へ来てから、始めて気心のよくわかった野草である。郊外はどこの新建てでも、一度はこの草に劫かされて、いかにも文化住宅の浅はかさを、思い知らされずにはすまぬような時期があるように見えるが、少し程過ぎると、これも薄よりはなお素直に退散してしまう。今まで日本にこの草のあることを知らず、あるいは土方草などというヒメムカシヨモギと共に、遠い国からでも渡って来たもののように、思っている人の多いのも一つの歴史である。タケニグサの生活機会はかなり限られているようである。即ち土を掘り返して日の光が一面に当り、静かに進み寄る小草のまだ乏しい間に、たとえば植民地の最初の自然移民などのように、ここに暫くの盛りを息づくのである。この植物の褐色の汁液には、少しの臭気がありまた毒もあると言われる。それよりも人に迫るのはあの熱帯風な大がら、時には見上げるほども伸びてしまうこと、及びこれほど数多くの種子が飛び散ったらどうしようと、思う位に実のなることであるが、これは全く魚の子のようなもので、大部分は無結果に消えてしまうらしいのである。私の家でも三年ほどの間は、タケニ草を目の讎にした。蹴飛ばすほどまで大きくは決してさせなかった。指の汚れるのを忍んで茎を持ってそっと引くと、するりと附いて来るようにして必ず中途で根が切れるので、一層憎らしく思われたのであったが、めったにはその古根が復活したのを見たことがない。今でも折々は種が飛んで来て、一二寸の芽生えを育てているのを見かけることがあるが、それはそれはいたいけで、垣根の外にいる従兄弟とは似もつかない。素性を知らなかったら豆盆栽にでも、したくなるような姿をしている。それでも抜いて棄てるのは伝統と言ってよい。ちょうど蟒蛇の昔語りがあるばかりに、きれいな小蛇が殺されるのとよく似ていて、こちらは更に記憶が生々しいのである。私は前かた上州の利根の奥に遊んでいて、偶然に路傍にこの草の一群を見たことがある。土工と日の光がたまたま同じ条件を設けたために、幸運な一粒がどこからか帰って来て栄えたので、この時ばかりはさすがにあななつかしと、昔の敵を愛する気になっていた。流転はまことにこの一族の運命であったかと思われる。それがあたかも今大都市の周辺に、やや引続いて安住の地を供与せられ、いわゆる第二の故郷を念がけている点は、むしろ著しく我々の境涯に似ていたのである。
字引を引いて見るとこの草の本名チャンパギク、博落廻とあるのが我々を考えさせる。日本に最初からあって名がなかったか忘れたか。ただしは新種の雑草と同じに、物のまぎれに入込んだのが見つかったか。わざわざ名を添えて輸入するだけの、物好きはありそうに思われぬのみか、それでは現在の分布を説明することが出来ぬのである。元からあるものは一応は元からあったと認めるのが自然だ。そうするとこの草が久しく注意せられず、もしくは注意する者があっても地方的で、これに全国倶通の名を生ずるに至らなかったと解して置いて、舶載の証跡の後日出て来るのを待つより他はあるまい。自然と文学という問題は、この方面からも一度は近よって見る価値がある。奈良や京都の郊外にタケニ草の繁茂する機会がなく、たまたま繁っていてもそれをただけうとしと感じて、来て見る文筆の士もなかった限りは、記録に伝わるような本名は生れようがない。そうして記録の天然は人も知る如く、甚だしく狭隘であったのである。花ならば梅桜あやめに菊、鳥獣なら鶯時鳥猪に鹿、まるで近頃の骨牌の絵模様が、日本の自然文学の目録であったというも誇張でない。これは風雅の選択が厳峻を極めて、些しく俗気のあるものは吟詠の料としなかったためのように、千年の長きにわたって解しつづけていたのであるが、そればかりは何分にも信じられない。現在の文士などはもう大分自由なのだが、それでなお我々の間には、油絵に静物がもてはやされる程度に、咏物の詩は起らないのである。一つには歌の詞形の短かいためもあろうが、主たる理由は一言でいえば知らなかったのである。知らない故に歌になるような好い名前が生れなかった。すなわち斥けたと言おうよりも断念したという方が当っているのである。
畔田翠山翁の『古名録』などを見ると、牡丹をフカミグサ・ハツカ草という類の五音節語は、何百というほども設けられている。名がなければ文学の生れぬのは当り前だから、これを試みようとした者は以前もあったのだが、それが多くは我儘の、ちっとも適切でないものなので人望がなく、日本の言語として通用しなかったのだから名誉でない。国に広汎なる文芸を起そうとするならば、先ず言葉の問題を一通り解決して置かなければならぬ。歌だから咏物の詩だから事はまだ小さいが、すべてがこの調子であっては我々の筆舌は束縛せられ、少し込入った気持は上品には人に示すことが出来ない。いくら本名でもチャンパギクでは歌にならぬということが、偶然ながらも我々に大きな暗示を与えている。それでこの線路を辿って、もう少し前の方へ話を進めて見ようと思う。
日本に佳い単語を増加して行こうという努力には、動植物学者もたしかに参与しているが、幸か不幸か彼等は散文家であるために、少しでも歌よみの苦労を察してくれない。どこの国でも学名は本名でないのだが、我邦では精細を旨とするの余り、二階三階を積重ね穴蔵をほり下げて、時には三十一文字と背競べをしようという長い名が作られている。殆と音語の終極の用途を、念頭に置かぬ者の所行である。この状態で新七草でも投票すれば、選挙粛正などはとても望まれぬことで、誰しも上品な句や歌になりそうな名を持つ草へ、入れたくなるのは免かれぬ弱点であろう。すなわちいつまでもあれは名が俗だなどと、負惜みをいってあきらめるものが多いわけである。これに比べると郷土の人たちの附けた名は大抵はもっと実際的であった。歌にもうたわれず文句の口拍子にも乗らぬような草の名は、生れたかも知らぬが承認せられてはいない。というよりもむしろ歌や文句の中から、孕まれたろうと思うものが多いのである。これは統計の上にも多分現れることと思うが、今まで最も普通であったのは三音節、クサの語を下に添えて五字の一句をなすもの、次には一つのテニヲハの余地を存して、四音六音でこしらえたものが多い。花とか鳥とかを附けて呼ぶ物の名もこれと同様で、かねて法則を意識していたのではないまでも、いわゆる語路の悪い言葉は、忌んで採用しなかったらしいのである。これが深見草一流の歌道のかぶれでなかったことは、和歌には向かぬが民間のうたいものや童言葉に、ぴたりと合っているものの多いのを見ればわかる。潜む動機がもしもありとすれば、遠く溯って文と唱えとの、いまだ分れなかった世に求めなければならぬのである。
そこで立戻って再びタケニグサを説くことになるが、私はこの名のいつ頃からあるのかを考える前に、先ず以てある一つの野草に、どうして名を与える必要が起ったかを尋ねて見たい。最もよくある機会は効用の発見、薬や染料のために野山を分けて、これ一つを捜さなければならぬ時であろうが、今日普通にいう竹を煮ると柔かくなるという説は、何分にもまだ信用が置けない。果して一人でもそんな実験をして見た人があるかどうか。確かめもせずに語の解釈に供するのは悪いと思う。あるいはその点は事実に反するまでも、古人が誤り信じてそう名づけたのだろう。タケニというからにはそう釈くより他はないと、思っている人があるかも知れぬが、それはもう少し多くの事実を知ってからでないと、我々には到底断言の出来ぬことである。そうそう自分たちの先祖をまちがえばかりしたように、証拠も碌にないのにきめてかかることは、感心せぬ態度だと私は思う。
だから我々は先ずこの植物に対して、現在土地土地で与えている名前を、比べ合せて見る必要を認めるのである。いわゆるチャンパ菊の異名を知った土地はあまり多くない。最近に耳にしたのは三重と奈良県の堺の山村でゴウロギ、ゴロはあの地方でも大きな石のごろごろとしている処のことだから、そのゴロによく生える木という意味に解してよかろう。東京京都の人だけは知っておらぬらしいが、ゴロもゴウラも全国にわたって、かかる磽确不毛の地をそう呼んでいる。起りは多分岩くら、くらししなどのクラであろう。日本人はこういう語の用途を分化させて行く場合に、いつもいやなものだけを濁音にする癖があるようだ。現にこの土地でも土と交った小石の堆積している処はガラ、大きな石のある処だけをゴロというとのことで、この二つの語は別々とも考えておらぬようだから、つまりは少しでも似つかわしい音に偏よるのである。信州の上伊那から来ていた青年は、国ではタケニ草をガラガラというと語った。その時にはこの植物がうら枯れて後に、秋の風に吹かれる様子を形容したものかと思ったが、あるいはその気持は加わっているにしても、やはり発端はまたガラに生える草というにあった。それが大きくなって木のように見えるからゴウロ木で、この程度の一致ならば、別に一方から伝えなくとも、偶然にも起り得たのである。
越後の西頸城地方で、この草をツンボグサというわけはまだはっきりしない。土地の人ならばまだその命名の気持を覚えているかも知らぬが、福井附近などで芒の穂をミミツンボというのと、あるいは関係のある言葉かと考えられる。これとても竹を煮て軟かくするという噂と同様に、かつてその経験をした者はあろうと思えぬが、何だか気になって近よって行けない故に、軽々しくそういう名前が承認せられることになったのであろう。下総印旛郡の草原地には、あるいはまたドロボノシンヌギという名も行われている。これも一つだけ聴くとあまりに奇抜だが、以前の笑いの材料には尻という語が多かった。例えば細藺をサギノシリサシ、近頃入って来たと思う竜舌蘭をヌスビトノシリサシといい、こまかな針のある「とげそば」という湿地の草の一名を、ママコノシリヌグイと呼んでいる人もある。以前は尻拭いには木や草の葉を用いたので、泥棒ならばこれを用いるだろう。もしくはこれで沢山だという意味からでも、半ば戯れにこういう名を案出せられ得たのである。立会って竹を煮させて結果を見た人だけが、タケニグサの命名に参与したと、見なくてもよい一つの理由である。
それからもう一つは私などの郷里、播磨の一部にはオオカメダオシという方言がある。狼がこの草を食うと酔うて倒れるから、こういう名が生れたように説明する者もあるが、この経験などはいよいよ以て試み難いものである。狼が草を食うということが既に考えられず、それを見ていて酔っぱらうのを確かめた人などは、捜しまわるだけのものはないのである。ただ自分等がこれによって感ずることは、もしもタケニ草の故郷が外国であり、または早くから現在の地であったならば、こういう名は恐らく発生しなかったろうということである。伊勢・信濃のガラ・ゴウロギも同じことだが、この異様な植物はもと狼でも棲息しそうな地にあって、予め今日の郊外居住に備えていたのである。ただ人間が彼等の存在に注意し始めた機会が区々であって、こうして私のように昭和の時代に入って漸くこの一つの生活に美しい意義を見出した者さえあるのである。詩の発展はすなわち無限であろうが、それは今少しく未知の自然の方に、眼を向けかえなければならぬように考えられる。言葉が制限であり、習慣が附け紐である限りは、要するにそれはただ蕪村のいわゆる「水桶にうなづき合ふや瓜茄子」である。
そんな憎まれ口をきくのが私の目的ではなかった。チャンパ菊の異名に今一つ、辞書にも認められたササヤキグサというのがある。物にも似合わぬ佳い名である。この言葉については色々の空想が起る。たとえばあの鈴なりになった枝の種子が、風に吹かれて幽かに鳴るのかとも思われ、実は私もその音を聴いたような気さえする。しかしこれは明かに空想であった。種は柔かな綿のようなものに包まれて静かにこぼれている。そうして梧桐のようなあの大きな葉は、がらがらならともかくも、ささやく音は立てようとも思われぬのである。比較はどこまでもして見なければならぬ。東京の近くでは相州の津久井の山村などが、どこでもタケニ草をササヤケといっている。即ち遠くから見てこの草の連なった穂先が、笹に似てやや焼けたような色を帯びていることが、この名の与えられた元の動機であったらしいのである。これをササヤキ草と横なまる位のことは、少しく風流心のある者ならば誰にでも出来る。まして適切でもない色々の文芸用異名に、久しく馴らされている人ならば喜ぶかも知れない。ただ私たちはまだどこにそういう語の行われているかを知らぬだけである。これがもし東京の現象であるならば、やがてはまた普及しかつ新たなる解説が副うことであろう。大よそ一通りこの事情が伴っていての上ならば、それを観察しているのも決して興味のないことでない。
近年私の家の庭から追払われたタケニ草は、僅かな道路を隔てた西隣の空地に往って今は住んでいる。ここも芒が一年増しに根を張って来て、それと昔から仲のよい萩や「われもこう」の、咲きまじった野原に復ろうとしているが、まだその片端には普請で土を動かした部分があって、そこばかりは堂々たるタケニグサの林である。タケニという言葉もあるいはこれから出ているのかも知れぬ。梢が伸びきってことごとく茶色の細長い花莢を附けたところは、山の野生の小竹原を思わせる。竹にもややこれに似た色彩を見せる季節があるような気がするがまだ確かなことは言えない。とにかくにこのようなよく嫌われる草にも、美しく見える日が二日か三日はあって、それが最も竹らしく感じられる時でもあった。ちょうど初秋のしっとりと露の置く晩方などに、立止まって見ていたいような気持になったことも折々ある。それよりも忘れ難いのは夜の引明けに、二階の寝室の窓を開いて、ああ美しいと思って見たことが何度かある。それが雨でも降るか荒い風でも吹くと、すぐにもう狼藉になってしまうのである。郊外の朝と夕方は存外に多事なもので、私は気楽だからこんなものにも目を留めているが、省みられぬ場合の方が多いことと思う。そうして去年まで確かにそうだったが、この夏はもうどうなっているかわからない。
たった十年ばかりの、しかも飛び飛びの観察などは、今の植物学に逢ってはかなわぬにきまっている。しかし私は前に述べた事実に拠って、今は大よそこれだけの歴史を推測しているのである。このタケニ草の最初の郷里は、むしろ人げの少ない山中であった。山が崩れたり水が荒れたりすると、何よりも早く飛んで来て、そこに芽を吹くのはこの草の種子であった。日本は地変稀でない国だから、順にそういう処をまわっても、血統は絶えなかったらしいのである。それが近年は土地利用の型が変って、人里近くにも遊ばせてある場処が出来、それも底土を切ったり覆したりする故に、追々と彼等の進出が始まり、少くとも都会の周囲では、いわゆる異国情調を発散するようになったのだが、元々お互いによく似た身の上である以上は、これはただ我々の忘却、もしくは最初からの無関心以外の、何物をも意味しないのである。我々の先祖も山に拠り、山あいの小さな空地のみを捜し求めて、末々その後裔がこんな海端の平蕪の地に、集合しまた放浪しようとも思わなかったことは同じだが、人間の長所は次々の境涯に応じて組織を拡大し生活ぶりを変え、新たな名称を認め新たな美徳をたたえるに急であった余り、古い縁故のある若干の天然を疎外し、また時としては敵視しなければならなかったのである。しかしタケニ草の世もまた開けた。人と交渉する言葉は多くなり、それがまた追々と耳に快いものとなろうとしている。この落莫たる生活があわれを認められ、終に人間の詩の中に入って来るのも、そう遠い未来ではないように思われる。
春になって郊外の路をあるくたびに、何度となく考えて見たことであるが、タンポポは日本の昔からの野の草だ。これが新らしい春の日の光に耀いて、黒い土の上に咲いているのを見て、眼を怡ばしめなかった人はなかったろう。そうすれば必ず名があったはずである。歌を詠まなかった万葉時代の我々は、果してこの草を何と呼んでいたろうか。以前佳い名があって不幸にして忘れられたか。ただしはまた歌に向かないタンポポが古語であったために、こうしていつまでも子供にしか省みられないのであろうか。我々の物の名は誰が作り、誰がこれから先は管理して行くのであろうか。こういう答のない色々の問が、今ではまだ野に充ちているように思う。
学者が都市に住んで標準語というものを守り立てるまでは、タンポポという草の名の行われていた区域は案外に狭いものであった。それが今日のように流行したもとは、あるいは京都の子供の力であったかも知れない。地方には今でもまだ幾つかの、大人が附けたかと思う名称が、何となく押込められて残っている。それが懸け離れた遠くの土地において一致しているのは、偶然とは言い難いように思う。そういう中からあるいは今一度、昔使っていた尋常の日本語を、見出すようなことがないとは言われぬのである。
たとえば千葉県では上総の各郡にわたって、蒲公英をニガナという方言が行われている。以前春の野の草を野菜として摘んでいた頃には、確かに苦いということがこの植物の特徴であったろう。鹿児島県でも奄美大島の北の村々はやはりこの草をニギャナといい、にがいから苦菜だと説明せられている。
それから今一つ、分布の更に弘い方言がある。岐阜県では山に属する北半分、信州でも主として北信の諸郡において、クジナといっているのがそれである。俳諧寺一茶の『方言雑集』の中にも、ちょうどあの人を咏じたような、一章の臼唄を書き留めている。
この御坊は即ち坊主で、何人もすさめざる淋しい人のことであるが、この草の花が綿になって飛んだあと、あたかもがっそうのような頭になる点が似ていたのである。
クジナという名詞もまた飛び散って奥羽の処々に行われている。例えば宮城山形の二県の南半分でクジナまたはグジナ、九戸の葛巻附近ではクジッケァともいっている。羽前も米沢あたりはタンポポに近い花の名が別にあって、嫩い葉を食料にする場合ばかり、クジナという語を用いるのである。越後でもグズナは野菜としての蒲公英の名であった。多分は北信などの臼唄と同様に、元はタンポポもクジナの花で通っていたのであろう。
佐渡にもクチクチナという村がある。土地によっては稀にはクデナという処もあるらしいが、その方は転訛である。『倭名鈔』には蒲公草和名フジナ、またタナともいうとあって、タナの方は今は痕跡もないが、カ行とハ行とは、日本ではもと紛れやすい音であった。即ち少なくともかつてある時代に、京都の上流の間にもクジナに近い語は認められていたのである。ただし何故にこの草をフジ菜といったかは、今はまだニガ菜のように明かになっていない。『和訓栞』には藤菜の意味であろうとあるが、少しも根拠はないのだから解説でも何でもない。それよりも今一足遠くへ尋ねて行って、更にこれ以外にどんな名前があるかを、知って置く方が私たちには楽しみである。しかしこうした気の永い穿鑿には果して世間の賛同が得られようかどうか。いつも一人で野中の路をあるいている者には、一向に見当が付かぬのである。
タンポポの代りに行われている方言は、まだ幾つでも意外なものがある。信州でも山を越えて諏訪の湖岸に下ると、そこにはクジナもあるがそれよりもガンボウジの方がよく知られている。甲州でも国なかの平野はガンボウジ、伊那も上下二郡がすべてその通りで、飯田の城下にはまたガンボという語もある。クジナの行われている善光寺平などにも、やはりガンボジという名が知られているのを見ると、これは花の方をさしていたものらしい。私の今の想像では、ガンボウジは子供などの頭の「おかっぱ」のことであって、あの愛らしい花の姿を、形容した語ではなかったろうかと思う。これとよく似た例は白頭翁、歌にオキナグサという花の名の、土地さまざまの変化であるが、それは他日また別にお話をして見たい。とにかくにこれとクジナとの間には、最初から語原の関係はなかったようである。
その次には越後の弥彦山の麓の村などに、ゴゴジョウというのがまたタンポポのことである。これは諏訪あたりのガンボウジと、あるいは系統を同じうしているかと思うが、それもまだ変化の路筋を考えられぬ。同じ例は遥かに飛び離れて、南秋田の八郎潟の岸の村々に、ゴゴロッコまたはゴゴという語があるのは妙であるが、現在はまだこの二処以外に蒲公英をゴゴ、もしくはこれに近い音で呼んでいる地方は知らない。
同じ秋田県でも北秋田郡の一部はクマボ、山本郡ではクマクマという土地がある。青森県も二つの市を始め、津軽は全体にクマクマという村が多く、ただ北端の小泊などにおいて、これをカコモコまたはクワモコといっているのである。あるいはアイヌ語からでも出たのではないかと思って、念のためにバチェラー氏の辞典を引いて見たが違っている。福井県の南条郡にはカッポコという例があるが、これはむしろ後にいうタンポポの変化であって、カコモコとは縁がないようである。
何にもせよ今は名の起った理由までが、丸で不明になっているのだから、歴史を問うことが殊にむつかしい、ところが他の一方にはなお色々の方言で、どうして出来たかを想像し得られるものが残っている。誠にたわいもないことではあるが、それをはっきりと知って置くと、後に類推によって思いの外の解説が成立つかも知れぬ望みがある。先ず一番わかりやすいものから言うならば、信州北佐久郡の一部で蒲公英をチチグサ、これは疑もなく乳草であって、あの花茎を折って白い汁の滴るのを、母の乳房に思い寄せたのである。作者の髭男でなかったことだけは断定しても差支はあるまい。加賀の金沢でこの花をヤケドハナというと、私に教えてくれた人もあるが、もしあるいはヤイトバナの記憶ちがいではないか。もう一度別の人に聞いて確かめたいと思っている。自分などの幼い頃には、タンポポの茎を折って折れ口を肌に押すと、小さな円い乳の輪が出来る。その上を麦の黒穂で叩いて、ちょうどお灸の跡のようになるのを、ヤイトをすえるといって遊んでいた。しかしそのためにヤイト草という新名を、この草に付与した実例はまだ聞いていないが、チチグサという方は信州と百数十里を隔てた、広島県の倉橋島にも同じ例があるのである。
それから今一つ児童の命名になるかと思うのは、相州愛甲郡煤ヶ谷の山村などで、蒲公英をピーピーバナ、東上総の海岸でビンビバナというもので、これはあの茎を切って草笛を作って吹いた者の、記念であったことは言うまでもない。西の方では摂州の有馬郡などで、シービビといったのも同じ趣旨である。私の在所はそれから十四五里も離れた処であるが、シービビというのは青麦の茎を折って、吹きならす笛であった。子供によっては麦の黒穂のことを、シービビというのだと思っている者もあった。そうして自分もまた口でシービビといって吹くためか、私たちの耳には明瞭にそれがシービビと聞えたのである。
紙やセルロイドの色々の玩具で育てられた人は殆と想像も出来ぬ話であるが、以前の子供は春の立ち帰るを待ち兼ねて、こうして銘々の遊戯材料を求めたのであった。人が天然と仲がよくなるのも、本当にそれだけの理由があったのである。しかもその玩具が時々の流行を追うたことは、昔もやはり今と同じであった。その中でも起原が古く、何度も時を隔てて戻って来たかと思うのは、タンポポの茎を折って両方を少し割り、それを水の中に入れて、その外皮の円く反りかえるのを見ている遊びであった。子供でなければそのような気の永い見物は出来ないと思う。これも上総の幾つかの郡において、今でもニガ菜の花をマンゴマンゴといっている。それがいかなる理由から、そう呼ぶかを知らぬ人も多くなったが、百年ほど前に著された深川元儁の『三州漫録』にその説明がしてある。市原郡の立野という村で実見したと言っている。小児は蒲公英の茎を割いて置いて、「まんごまんごまがれ」という文句を唱える。そうすると草はあたかもその号令に従うかの如く、徐々として曲って来るのであった。これから遠く離れた愛知県の宝飯郡額田郡、また幡豆郡の一部においても、タンポポをマンゴと呼んでいる土地が今でもある。更に西の方に行って大分県玖珠郡の山村にも、この草をマンガレと称する処がある。時を同じうしてこの遊戯が流行したのでないまでも、とにかくにいつの頃にか九州にも「曲れ」という唱えごとは用いられていたのである。
沖縄の諸島を見渡すと、タンポポの方言の今存するものは案外に乏しい。八重山と宮古との中間にある多良間という寂しい孤島では、この草をトゥルクナーというそうであるが、その意味は『倭名鈔』のフジナと共に、もう私たちには判らなくなった。それから琉球の本島まで戻って、一ばんよく知られているのはワーオーバー、ワーは即ち家猪のことで、本来はこの獣の鳴き声から出た名である。だからワーオーバーは「豕の青葉」だと思っている人も多いらしいが、果して蒲公英を豕に喰わせるかどうかは確かでない。那覇の周囲その他のある村々では、これをマーウーファーという者もあり、それを真大葉の意味だと説明してくれた学者もあるが、この二つの語はもと一つらしいから、かえって双方の解釈の共に誤っていることも危まれる。それから今一つ、これもやはり那覇附近にナガリールーという方言があって、これは児童の国語かと思われる。沖縄音ではmが殆と常にnに変化し、例えばイマ(今)をナーといい、ミヤグスク(宮城)をナーグスクと発音している。だから恐らくはまたこのナガリールーも、「曲る」という語の命令形であって、近世この島でもタンポポの茎を曲らせて、嬉笑する童戯が行われていた痕跡であろう。
上総はどういうものか、妙にこの植物の異名が多かった。茂原の近くではあるいはオヤコウコウバナともいうと、これも深川氏の『漫録』に見えている。私の想像ではもとは有名な昔話などがあって、それでこのような名が行われることになったかと思うが、とにかく親孝行という理由は、この花がよくお使いするからであった。信州の子供たちは、タンポポの花の白く綿になったものを手に取って、「お坊お坊飴買いに行け」と言いつつ、ふっと吹飛ばせて楽しむということが、小山真夫氏の『小県民謡集』には見えている。私の生れた瀬戸内海の浜近い村にも、これと同様の遊びはあったが、唱えごとは全くちがっていた。今でも思い出すのは春の青空にあの花をかざして、幼ない子たちが皆一様に、「あーぶら買いに酢う買いに」と言って、あの花の穂をふっと吹いた。蒲公英の種子は細長く下ぶくれで、少しばかり徳利の形に似ていた。あれが空中に飛び散って行く様子を見て、我々は子供が徳利を手に下げて、酢や油を買いに行く姿を思ったのである。そうしてこの遊びもまた弘く行われていたと見えて、対馬の島の浅藻という村でも、やはりタンポポを「酒買い坊」といっている。
多くの野の草が稚子を名付親にしていたことを知って、始めてタンポポという言葉の起りが察せられる。タンポポはもと鼓を意味する小児語であった。命名の動機はまさしくあの音の写生にあった。それが第二段に形の鼓と近い草の花に転用せられることになったかと思われる。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に、蒲公英を越中国でツヅミグサというとあり、しかもこの地方でタンポポというのは、花生けその他の竹の筒のことであるのを見ると、やはりあの鼓の音も元はタンポポと聴いたのであった。中世盛んに流行した歌問答の昔話にも、西行とか宗祇とかいう旅の歌人が、摂津の鼓の滝に来て一首の歌を詠んだ話がある。
そうすると傍に草刈りの童子がいて、第三の句を「うち見れば」と改めてくれた。宗匠自慢の鼻はたちまち折れ、その童子の何とか明神の化現なることを知ったという類の物語、これを詳しく説明することは退屈だが、とにかくこの話の出来た頃までは、人がタンポポの本は鼓の名であることを知っていた。後年この楽器の流行がすたれて、小児は名の起りをもう忘れてしまったのである。
タンポポとよく似た名の付け方は、なお他の色々の楽器にもあった。例えば越中から越後の平野にかけて、お寺の本堂の大きな鐃鉢をガンモモ、家々の仏壇の小さな鉦を、チンモモというのは普通の語である。ガンとかチンとかいったばかりでは、幼ない人たちにはこれをあの音の形容と認められなかった。余韻の暫らくの間モモと続く所までを、ぜひともその名称の中に取入れなければ、彼等には気がすまなかったのである。ところがいよいよ本堂の大鉦をガンモモと呼ぶことにきまって、また暫らく経つと今度は形の似たものにこれを転用する。越後の奥から信州北部にかけて、櫧の実のうてな、我々がドングリのオワンといい、または戯れて花嫁のごうしなどと呼ぶものを、子供は皆ガンモモといっている。寺の鐃鉢とは大小の非常な差があるが、形だけではなるほどよく似ている。蒲公英のタンポポになって来た順序も、全くこれと同じであったと思う。
あまり長くなる故もう今回でこの話はおしまいにする。小児はタンポポの最初の発明者ではあるが、決して我等の如くいつまでも自分の手柄を記憶していない。鼓というのが三河の万歳以外に、使う者がないようになれば、後はただタンポポの音の快さと、その花の鮮かな色とを楽むばかりで、言わばその次にもっと面白い名前の、現れて来るのを待っているのである。そうして成人のようにいつまでも、無意味なる符号を守っていることは出来なかった。だから少しずつ新意匠を加えてこの音を変化させようとしているのである。
タンポポは私などの国ではタンポであった。近畿の府県ではあるいはタンポコといい、またはタンポンといった。東海道でも駿河ではタータンポまたはタータンバ、伊豆の入口の方はタンタンボ、奥伊豆に行くとタタンポコ、相州の三浦ではチャンポ、甲州の東八代はチャンポポ、上州妙義山の周囲はチャンポコ、それが日本海上に飛んで佐渡の外海府もチャンポンポン、同じく河原田ではチャンチャンポンポンとさえいっている。
私たちの今住む三多摩地方には、タッポまたはタッタッポという例がかなり多く、これもまた一筋東北の方に向っている。その中の最も大きな変化は、岩手・青森・秋田の三県においてテテポポまたはテデッポッポなどという例である。南部の九戸ではデデポッポ、北郡の浦野館はデテココ、羽後でも田沢湖岸はデデポッポであるが、横手・横沢あたりはテテポッポといっている。ポッポは恐らく鳩の鳴き声で、これも今までタンポポ一類の名が、余りに意味がないために、出来るだけ鳩の声に近づけて聴こうとしたのである。こういう心の願いは小児には常に多い。後に述べたいと思うツクシという春の草なども、今では秋の蝉のツクツクホウシと、その名をおもやいにしようとする子さえあるのである。
近世始めて海外から持込まれた物品だけには、あるいは一種特別の法則が働いていて、そのために必ず存在すべき方言の分野を、紛乱させたのでないかという疑はあり得る。しからば国土の開発以来、この民族と相生に今も伝わっている山野の草木はどうあるか。何よりも先に我々の注意すべき一事は、松竹梅桜の類が古今南北を一貫して名一つであるに対して、一方にはここに説かんとする虎杖または土筆の如く、丘を越えるともう異なった称呼を、帯びているもののあることである。方言何によって起るかという問題は、当然にそこまで溯らなければならず、方言の区域ありという論者もまた、この顕著なる新旧の共通を黙過するわけには行くまい。
時が方言を造るというごく普通の想像は、命名の本意が段々に忘れられやすく、忘れると新しいものに移りがちだという一点から見れば当っている。しかし現存の古語にはいかなる語原家でも、こじ付けあたわざるものが多数なるにかかわらず、それは一種の符号となって後生大事に守られているのである。そうして他の一方では分り切っている名称が、次々取替えられて来ているようである。即ち単語そのものにも特に異称を招きやすいものと、そうでないものとがあるのではないか。もししかりとすれば、その理由を目的物の社会的地位、もっと具体化して言えば人とその物との関係如何に求めて見るのが順序であろう。もちろん古くからある言葉ほど、変化の機会は多かったわけだが、事によるとその変遷は後々のものでなく、最初から名前沢山に生れ付いていたのかも知れない。内容は正しく固有のものであっても、称呼はそれぞれの入用の時を以て始まり、それが一処一人の制定に基づかぬという点は、近世舶載の商品なども異なる所はないはずである。
虎杖の方言歴史に関しては、幸いにして記録の徴証が存留する。『枕の草子』時代の京都語がイタドリであったことは、かの『枕の草子』の、「杖無くてもありぬべき顔つきを」という奇警なる一文章によって熟知せられる。それから遠く溯って反正天皇紀の注記に、「多遅の花は今の虎杖の花也」とある虎杖も、この書の出来た時代には多分またイタドリであったろうが、別になおタチもしくはタチヒという語は伝わっていたのである。方言は必ず転訛と解し、そうでなければ異民族語の混入と見ようとする人には、この系統を説明することが既に容易でない上に、これを右二つの史料に拠って、単なる新陳代謝の例と認めることも事実が許さないのである。という理由は至って簡明で、現在においてもイタドリとタチヒとは虎杖の日本語として弘い区域に行われ、過去少なくとも千数百年の間、時の影響を受けて変化してはいなかったからである。そうして仔細にその錯綜の跡を検すれば、二語は久しく併存し、その択一は単なる小区域の流行であったことが知れるからである。即ち将来闡明せられねばならぬある法則によって、方言はいわゆる古典の時代から、著々として発生しつつあったことが推測し得られるのである。
記録保存の意味において、煩わしいけれどもやや多数の実例を挙げて置きたい。先ずイタドリについていうならば、その北方の限界は越後であり、南端は土佐の海に及んで、中間にタチヒの領域を包み、九州には僅かなる浸潤の痕を見るのみである。関東平原の例はなお乏しいが、少なくとも武蔵にはもうこの名は知られている。
イタンドリ 武蔵秩父郡
イタンドリ 同 西多摩郡氷川
イタドリ 伊豆神津島
イタンドリ 駿河梅ヶ島
イタンドリ 遠江御前崎その他
イタンドリ 三河長篠等
イタンドリ(エドズイコ) 信州諏訪以南
イタンドリ 飛騨吉城郡
エダドル(エダロベ) 越中上新川郡
イタンドリ 志摩船越
イッタンドリ 伊賀比自岐
イッタンドリ(スカンポ) 大和月ヶ瀬
イタズロ(ゴンパチ) 同 吉野北山
イッタンドリ 山城伏見
イッタンドリ(イタイトリ)丹波福知山その他
エッタンドリ 同 多紀郡
エタンドリ 播磨加東郡
イタズリ 淡路沼島
イタズリ(イタンポ) 阿波一宇その他
イタンドリ 周防田島
イタンドリ 石見那賀郡
イタイドリ 同 太田町
イタズリ(スイジ) 伊予今治市
イタズル(イタンポ) 同 喜多郡
イタズリ 土佐幡多郡
イタズリ 同 沖ノ島
イタドイ 薩摩長島
以上の区域外にもイタドリといって通ずる土地はなお弘いが、それが在来の語か、はた新たなる匡正に基くものかを、確かめ得ざる場合が多い。信州北部などはこれに反して、幾分著しい転訛があり、また何とかしてこれを解しやすい語に、改めようとする傾向は他の地方にも見られる。実際むつかしい名前には相違ないのである。
イタンドロ(イタンダラ) 信濃東筑摩
イタンドコロ 同 松本市
イタコン 同 小県郡一部
イタズイコ 同 下水内郡等
イッタンダラケ 飛騨高山
エッタスイスイ 近江一部
エッタノゾウリ(スカンポ)大和五位堂
イタロウ 石見波子
これ以外に特に注意するのは、阿波の山村や伊予・土佐の各地に、これをイタンポまたはイタンボという例の多いことである。信州の下水内郡のイタズイコなども、スイコは東京でいうスッパグサ即ち酸模のことであるらしいから、イタドリのイタは元来独立して、この植物を意味していたのかも知れぬ。イタンポの後半はスカンポなども同じように、もと小児の間に行われた一種の愛称らしい。虎杖をスカンポと呼ぶ区域も相応に広く、北は越後東は上総、西は瀬戸内海の沿岸に及んでいる。京都郊外の村でスッポン、佐渡の外海府でスッポンポンまたはポンポンスイカ、豊前の宇佐郡でもスッポンポンというのを見ると、山でこの植物を折取る時の興味が、スカンポという語の人望を助けたかと思うが、それは必ずしも最初からの意味ではなかったようで、上総・下総などで単にスカンポというのは、本来はスカナ即ち酸模のことであった。
少なくともスカンポのスカは酸いということで、人は先ず里近くに多いスカナからこれを経験し、後に山中の同類にまでその名を推及ぼしたのであった。多分は近世になっての改称であろうか。信州下水内郡のイタズイコなどは、ほぼその変化の過程を推測せしめる。これ以外になお同じ地方には次のような類例がある。
ヤマズイコ 信濃下水内郡等
ウマズイコ 同 更級郡
ボウズイコ 同 埴科郡
タカズイコ 同 北佐久郡
キズイコ 同上
オイランスイコ(スイコンボウ)同 南佐久郡
カラスッパ 同 北安曇郡
これ等はことごとく命名の趣旨が自分にはわかる。即ちタカズイコは高いから、ウマズイコは馬であって、やや大形のものにはよく用いられる。オイランスイコもまた同じ意味で、虎杖は確かにスイコ中の上﨟である。それから山ズイコ、木ズイコ、棒ズイコは明白であるが、北安曇のカラスッパも同じく稈酸模で、この種の特徴が長大にして幹を存する点にあるからであろう。これと近いものに福島県石城郡のタケスカナ、福井県大野郡また山口県阿武郡のタケスイバなどがある。いずれも竹のような酸模ということで、元はそれぞれ何とかいう名があったろうと思うのに、こうしてよく似た動機に基いて、新らしい方言を造っているのである。
虎杖を信州更級などでウマズイコ、上総の望陀方面でウシノスカッポというに対立して、自分の生地中部播磨では酸模をウシダンジと称し、ダンジは即ち虎杖のことであった。ダンジはまた隣の村々ではダイジともいっている。そうして僅かな野を越えて加東という郡に行けば、もうエッタンドリという語が行われているのであった。私は『枕の草子』を読んでいわゆる雅語のイタドリであることを知って後、頗る自分たちの方言を恥ずるの感があったが、近頃比較を重ねて見ると、ダンジは即ちタチヒであって、古いことに掛けては遥かに他を凌ぐものがあったのである。どうしてこの一区劃のみに、こういう古語が残っていたかはまだ謎であるが、山陰山陽は少なくとも三分の一、それから内海の幾つかの島と、対岸四国の一角までは確かに分布しており、更に不思議なことはその間を飛び飛びに、他の色々の方言の入交っているのである。地図を染めて見る代りにやや細かくその実例を挙げて置くが、
ダンジ 播磨神崎郡以西
ダイジ 同 加西郡
ダイジンバ 丹後中郡
ダケダンジ 同 竹野郡
ダンジ 但馬一部
ダンジ 因幡岩美郡
ダンジ 美作英田郡
タヂナ 備中北木島
タジンコ 備後深安郡
タジナ(カンポン) 安芸賀茂郡
タシッパ 伊予西条
タシッポ(ゴーザ) 同 大保木
タジナ(ハアタナ) 同 弓削島
なおずっと懸け離れて、伊勢の度会郡にもこれをタンバという土地がある。これ等の諸の例の中でも、タジナなどはこれを転訛ということさえ出来ぬ。野外で採取する食用品をナと呼ぶことは、殊勝千万なる昔風であって、とても近世人の思い付くべき名称でない。察するところこれ等の地方のみはむしろやや怠慢で、特にこの植物をもてはやして新名を案出しようとしなかったために、古いものが偶然に保存せられたのである。
そんならこのタチヒの領域に介在して、現在異を立てている方言はどうあるかというと、それにも二通りあって必ずしも総てのものが、スカンポや竹スイコの如く、後に出来たとも認め難い。その中でも殊に自分が心をひかれるのは、次のような一系統の方言である。
サイジ 備前邑久郡
サイジンコ 美作苫田郡
サジッポ 備中川上郡
サシッポ 同 小田・浅口郡
サジッポウ(イタドリ)出雲仁多郡
『俚言集覧』の増補に、伊勢でも虎杖をサシッポというとあるが、それはいずれの村であり、また今も存するか否かを知らぬ。自分の調査では下野那須郡の伊川村などに、サジッポの例が飛んで存在する。それが必ずしも特殊の伝播でないことは、羽後由利郡の海岸でもサシボコ、それからなお東北一帯のサシドリがあって、むしろ分布は他のいずれよりも弘いのである。
美作・備中のサイジまたはサイジンボは、恐らくは隣境のダイジとの婚合であろうと思うが、これにも別になお一系統の尋ね得られるものがある。例えば
ハイタ 讃岐豊島
ハイタ 伊予安居島
ハアタナ(タジナ) 同 弓削島
ハエタネ 同 伯方島
ハイタナ(イタズリ) 安芸倉橋島
サイタナ 周防大島
これがことごとく虎杖の土地称呼であるということは、比較をして見ぬ人には信じ難いことかも知れぬが、一たび古人の歌詠の中にも現れたるサイタヅマという不思議な語を思い起すならば、それはむしろ語音が時と共に、いかに移り変って行くかを示すべき好個の一例ということが出来る。サイタツマはあるいは単に若々しい春の草のことといい、また虎杖をいうとの口伝もあった。例の『和訓栞』の増補語林には、「先たつ妻」の義であろうなどと説いている。つまり古人も確かなことは知らず、ただその言の葉の珍しさを興じたのである。そういう部分にはかえって作り事が少ないかと思う。故に自分などは以前ある田舎に、虎杖をサイタヅマという例があって、偶然にそれが京人に面白がられたとしても、少しも意外には考えぬのであるが、今の所ではまだ確かにそうであったとも言われぬ。むしろこれから以後の新らしい調査によって、逆にこの語のかつて存在したことを、推定する方が早路のようである。
サイタヅマは見た所複合の形で、かつその中にはイタドリのイタを含んでいる。しかし自分の想像では、果してこれが虎杖の方言なりとすれば、むしろタジナのタジという語に、前と後とが附加したものだろうと考える。単なる几上の論としては、本来長かった語が分解して、タジまたはイタを生じたものと言い得るであろうが、それでは私たちの切に求めている変化の理由というものがなお一層不明になる。その上に次に述べるような他の地方の実際ともいよいよ喰いちがうのである。
日本の中央部、全版図の約半分の虎杖方言はこれで一先ず分ったとして、他の半分を占める国の端々が、いかなる異同を示すかをこの次には考えて見る。それが自分には言語成長の歴史を辿るべき、最初の手懸かりと信ぜられるからである。
この中でも九州の方面は比較的簡単で、稀にイタドリの浸潤を受けた以外、一二の異称の極めて限地的のものを交うるのみで、大体はサドという語を以て一貫している。
カワタケ 肥前南高来郡
パッパ 対馬豊崎村
ギシギシ 筑前戸畑
カワタケ 豊後東国東郡
サトガラ 同 速見郡
サド 同 保戸島
サトガラ 同 玖珠郡
サド 肥後下益城郡
サドガラ 同 八代郡
サド 同 球磨郡
サド 日向東西臼杵郡
鹿児島県のみは現在はイタドリで、サドという語が知られておらぬ村が多いかと思う。サドガラのガラは恐らく稈であって、この植物が成長してしまって、茎になって後の名であろうと思うのは、北の方にもそれと同じような例があるからである。
ギシギシという名はまた紀州の有田郡などにも飛び離れて存在する。これは虎杖の歯に当る感覚で、あれを愛食する者のあどけない形容のようである。この地方の今一つの方言には、熊野から大和の十津川まで掛けて、ゴンパチというのがあって系統が不明である。吉野の北山でもゴンパチはイタズロと併存しているから、これもいたって仮初なる流行に始まるものと見てよかろうと思う。
それからずっと離れて東北の諸県であるが、こちらは九州のサドと対立して、サシという語を以て一貫している。例は多いからただ要処だけを挙げて置くが、
サシトリ(スカッパ) 津軽
サシトリ(シカンコ) 下北佐井浜
サシトリ(スカンコ) 野辺地
サシドリ 南部八戸
サシドリ 鹿角郡
サシドロ 南秋田郡
サセドリ(トゴエ) 同郡 男鹿半島
サスドリ 羽後亀田
サスガラ 由利郡笹子
サシボコ 同郡 金ノ浦
サスドリ 同 田沢湖岸
サシドリ 同 雄勝郡
シカドリ 同 飽海郡飛島
この最終のシカドリは、前に見えるシカンコ・スカンコと共に、もと酸いという点から出たことが想像せられる。そうすればサシドリもまたイタドリと同様に、サシとドリとの複合であって、そのサシは下野の那須、伊勢の一部などのサジッポ、備後のサジナ(『本草啓蒙』による)と一つであるはもちろん、なお九州のサドとも関係があるのかも知れぬ。
次には南秋田の一部で聴いたトゴエである。土地では近頃北海道の方から、入って来た語のように思っている者もあるが、それは少なくとも半分の誤りである。半分というのは他の一方に、別にこんな語の存立を許す下地のあることを心付かぬからである。同じ東北でもやや手前の方に来ると、他に今一種の名詞がより多く用いられている。
ドンガラ(ドンガメ) 岩代大江郡
ドンゴイガラ 陸前柴田郡
ドンゴロ 越後岩船郡
ドンゴロ 同 粟生島
トントンガラ 信濃下水内郡
『静岡県方言辞典』に、この県にもトトクサという区域があるというのは、事によるとこの系統かもしれぬ。北の方の境としては、羽後の横手町のドンガランボ、同仙北郡横沢村でもドンガラである。ただし別になおサシドリがあって、葉が出て後はサシドリといい、若いときをドンガラというと報告せられているが、同郡大曲ではサシドリまたはサシボッコは若芽、そうでない場合がドンガラだという。いずれか一方が思いちがいで、恐らくは大曲の方が正しいのではないかと思っている。土地で確かめてもらえば、わけもなく知れることである故、この点はかの地方の篤志家に一任する。
右のドンガラのガラがもし茎のことならば、前半のドンはその意味は不明ながら、とにかくイタドリ・サシドリのドリと元一つで、かつてドリとのみいって虎杖を意味した時代が、あったらしいことを想像せしめる。しからば後に至ってイタといいサシという語を、これに附加した動機もしくは原因は何であろうか。イタの方は現在においてはまだ何の端緒も得られぬが、他の一方のサシまたはサスはあるいは棒のことではなかったろうか。この点に関しては他日更に細叙したいと思うが、棒は朸として肩に担ぐ風が盛んになる以前から、常人の生活には必要の多いものであったが、これを表する古語は最早中央の標準語には残っていない。そうして東北地方のみにはサスという名があるのである。この虎杖の大きな特徴が、大竹に乏しい奥羽にあって注意せられ、これを棒様のドリと呼ぶに至ったことは、竹ある方面でタケスカナ等の名が生じたのと、同じ事情と見ることが出来るようである。なおサスタケとサスマタとかいう語とも、考え合せて見るべきである。
ボウという名詞とても、後に木偏に奉の字を付与したというのみで、まさか支那語の借用ではあるまいと思う。私の意見が正しいならば、これはホコという語の分化であった。ホコもハタホコなどといって、本来刃ある武器に限られたものではない。関東一帯で小児等が弄ぶ小形の棒をボクトといい、従って木刀という漢字を当てようとするものは、他の地方でベエタ、バイタなどというと同様のもので、恐らくはまたこのホコから出ているのである。俗に独活の大木などという形ばかりいかめしくて弱いものを、栃木県あたりではイモガラボクトといって嘲っている。即ち芋茎のホコの如しという意味である。能登の石動山の麓の村では、虎杖をイタズリともいうがまたガラボコともいう。これから振りかえって考えると、羽後飛島その他のサシボコも、命名の理由はいと明らかで、ただ一方いずれかを忘れて、趣旨が重複しているというに過ぎぬことは、別に多くの例を挙げたナンバントウモロコシなども同じである。
こういう混淆が個々の方言領の境目に発生することは、単語の運命ともいうべきものであるが、自分の知る限においてはそういう入会地は数多くあって、いまだそれを重ね写しして一般的区劃ともいうべきものを、定めることが出来ぬのみである。
虎杖については自分の生国瀬戸内海の北岸なども一つの中間地帯であった。ダイジはイタドリと入交り、他の一方にはサシの系統かと思うサイジンバ・サジナにも接して、なお新しいスカンポさえも併用せられる。他の一端では信州北部羽後の雄物川流域などにも、二系相剋の跡を留めている。太平洋側では陸中釜石の附近がその一例であるが、山本鹿洲君の報告では、ササドリ及びアオバという他に、なおボーボーガラとデンボーガラとの二つが数えられた。ただしこのボーボーを直ちに今日の棒のことだと、断定してしまうのはまだ早い。という理由は東北一帯には、山野にこの植物が盛んに繁茂し、小児がその若芽を生食する以外他に色々の利用法があるからである。津軽などではあの枯れた茎の中に住む虫を取って、魚釣の餌にもしているが、今一段と弘い用途は燃料である。囲炉裏に親しみの薄い今日の人には、聴いても同感は起らぬかも知らぬが、燃料の種類殊にその燃え方によって、名を付けた例は元は多かった。馬酔木をベリベリ柴と呼び、松毬をチチリという類は、始は幼い者を喜ばせるためとしても、今は既に親々の方言になっている。故に虎杖のボーボーガラなども、同じく燃える姿からこんな名をなるほどという人が、次第に多くなったのかも知れぬ。紀州の日高郡のある村ではホボロダケという名前もある。しかしそのために虎杖をホコといった前例と、全然没交渉とまでは言い切るに及ばぬ。玉蜀黍のマメキビを作ったように、甲あるがために乙の方言が殊に採用しやすかったという場合は多いのである。福島県石川郡には、虎杖をテテポーポーという例があると報ぜられる。もしそれが誤解でないならば、やはり一方鳩の啼声などがあるために、少しく転訛してこんな名になったのである。岩手秋田の田舎ではテテポーポは蒲公英のことであるが、これとても変化の過程は同じで、もし鼓の音のタンポポや、鳩のテテポーポがなかったならば、蒲公英をこう呼ぶわけがないのである。同じ事情から鼓虫のマイマイコンゴウが、小児のキリキリマイの遊戯と名を一つにし、土筆のツクツクボウシは、寒蝉の啼声と共通の名を持っている。土筆は殊に少年の支配に服していたためか、こういう二つの原因を気軽に調合した例が至って多い。そうしてその経路が虎杖よりはもっと明かに、尋ねて行かれるように思われるのである。
土筆を表示する日本の方言は、今日もまだ増加して行こうとしているが、主要なる系統は大略四つであって、その発生の順序の明らかにし難いこともよく虎杖と似ている。相違はただこちらは全体に命名の必要が遅く始まったと見えて、その趣意が大よそ察せられ、従うてその相互影響交雑の跡が、幾分か簡単に指示し得るという点にある。
先ず最初には標準語として承認せられているツクシであるが、これはやや古く文学語として用いられていたというのみで、現実の領分は決して広大でない。東京などですら子供はツクシンボといい、京都近くでもツクツクシまたはツクツクと呼んでいる。こうなると既に複合形で、純なる元の姿でない故に、これから直接には語義を問うことが出来ぬのである。ツクシは自分の推定では、澪標のツクシであって、突立った柱を意味する。こんな微物に向って、通例は重々しく考えられる標木の名を転用したところに、もう最初からの軽い戯れがあると思う。関東以北においては特に設けられたる境の榜示のみならず、天然の生木にもツクシの名を与え、更に進んではやや尖ったる山の峰の、特に目標となるものを大ツクシ小ツクシなどという例が多い。過大過小の差はあるが、転用という一事は土筆のツクシも同じである。
ツクツクまたはツクツクシに至っては、たとい「つくつくと立っている」という心持が加わったにしても、前にツクシという語が先ず存在しなかったらば、直接には発生する語ではなかったと思う。それにもかかわらずこれとよく似た語の随分と弘く行われているのには、単なる口拍子以上に、今一つ大切なる原因があったからである。
ヅクヅクシ 摂津田辺町
ヅクシ(ヅク) 尾張西春日井郡
ヅンヅクシ 遠江浜名郡
ヅクシ 同 森町
ヅクヅクシ(ヅクシ) 佐渡外海府
ヅクヅクス 盛岡市
この通り多くの例は、いずれも殊更にツクの音を濁っている。これは自分にとっては無意味な訛謬とは思われぬ。即ち単に「突く衝石」という以外に、更に第二の系統に属する「続ぐ」という趣旨が添加していたからだと信ずる。多くの読者はあるいは自分の郷里ばかりの一些事なりと考えられるか知らぬが、小児が土筆を袴の部分から二つに折って、そっと元の通りに挿して置いて、どこで続いだかを中てさせる遊戯は、古いと見えて殆ど全国に行われている。そのためには唄もありまた唱えごともあったので、ヅクヅクは即ちその常用の語として発育したらしいのである。この事を知るには今少しく精細なる比較が入用である。
ヅクヅク 津軽
ヅクヅク 陸中釜石
ヅクヅク 陸前気仙沼
ツギノコ 陸中平泉
ツギグサ 仙台附近
ツギナンボ 野州北部
ツゲノコ 下総猿島郡
ツツンギノコ 上野邑楽郡
ツギツギ 越後柏崎辺
ドコドコ 同 西頸城郡
モトモト 越中某地
ドコドコグサ 加賀能美郡
ツギツギグサ 紀州那賀郡
ツギマツ 土佐
加賀では別にヘビノロウソク、もしくは蝋燭草という名があるのに、これをドコドコ草というのは、次のような童詞があるからである。
どこどこ継いだどこ続いだ
あたまの天井まで皆ついだ
越後の姫川流域のドコドコにも、
どこどこどこから続いだ
という言葉があり、紀州の有田郡でも
つぎつぎぐさどこ続いだ
というそうである。即ちツクシという語は由緒正しくとも、これ一つからツクツクという名は成長しなかった。誤りにもせよ確かなる根拠はあった。そうしてイズコ(何処)をドコというようになったのは近世だとすれば、その頃以前の世の小児遊戯にも、なおその中間の同じ類の語があったことが知れる。
同じ「どこどこ続いだ」の遊戯も、土地によって土筆即ち花茎を以て行うところもあれば、また杉菜即ち葉茎を以てするところもあった。紀州有田郡のツギツギグサなどは杉菜であり、土佐でツギマツというものも杉菜を意味し、土筆はこれをツギノコといえば杉菜の方が前らしい。常陸那珂郡の山村ではツギノコといえば杉菜を意味し、土筆はこれをツギノコノハナと呼んでいる。能登の鹿島郡でスギナノトー、越中上新川郡ではスギナコート、コートは蕗などの薹のことだから、これも杉菜の方を主にしたのである。それから考えて行くと、杉菜はなるほど適切なしかも佳い名ではあるが、似よった針葉樹も色々ある中に、特にスギという名が弘く行われたのは、やはりまた「継ぎ継ぎ」の遊戯が、この音を耳に親しからしめた結果ではなかろうか。
その杉菜の方言を調べて見ると、土佐のツギマツという以外に、松にたとえたものも二三ある。例えば
マツナ 肥前南高来郡
マツナ 筑前
マツブキ 播磨
この二つは『本草啓蒙』に出ている。今も果してそういうかどうかを知らない。その他
スギナ 遠江竜川村
シギナ 越後粟生島
スイナ 陸中種市
スギグサ 陸前田代島
ツギグサ 岩代伊達郡
ツギナ 新潟県一部
などが皆杉菜の方言である。越後には草をツギナ、花茎をツギツギという土地があるのではなかろうか。尋ねて確めて見たいものと思っている。
とにかくに特にツギナという語の発生しやすかった事情はあるので、仮に杉菜という方言が独立に始まったとしても、これもツギツギがツクシと連携したように、久しからずして二種の趣旨を混同することになったかと思う。久しく実地を省みなかった人たちには、あるいは信じにくい話であるかも知らぬが、同様の例は弘く捜索するまでもなく、土筆一つについてもなおたやすく次のものを挙げることが出来る。たとえば私の郷里の播磨神崎郡では、杉菜をオスギといい、土筆をホウシといい、そうして次のような童詞があった。
お杉だれの子、ほうしの子
ほうしだれの子、お杉の子
なるほど天然の小観察者に取っては、この両人の関係は竹と筍との間柄よりも更に神秘であった。それ故にこそ卵と雞との昔話、ないしはナルシッソスの神話にも比ぶべきこんな謎の歌を、いつの頃からともなく春来るごとに、野に出でて唱えていたのである。しこうしてお杉には杉菜、継菜という元の形があったと同じく、ホウシもまた必ずしもお杉の後に生れるものでなかった。あのすっぺりとしたやや尖った頭に、何枚かの衣をぬくぬくと著て出る姿は、お杉がいなくともなお法師であった。日本には僧侶の総称をホウシという俗用の他に、どこか形のこれと似て一かさ小さい者を、転用によってホウシといった時代があった。『狂言記』ではカナホウシが幼児の名ときまっていたのみならず、吉法師だの三法師だのという童名はあの頃は珍しくなかった。
さてそのホウシを土筆に付与したのは、果して本来の僧侶の意味でか、あるいはまた子供という心持で命名したのかは問題であるが、いずれにしても後には双方に通わしていたことは、前に挙げた童詞が明白にこれを立証する。即ちこれもまた名が定まって心が更に改まった例である。ホウシという方言の区域は相応に弘い。
ホウシコ 播磨宍粟郡
ホウシ 美作久米郡等
ホウシ 備中上房郡等
ホウシ 但馬
ホウシ 鳥取県約一円
ホウシサン 出雲美保関
ホシサン、ホーシ 同 松江市
ホシコ 石見太田町
ホウシ 備後深安・沼隈
ホウシ 安芸賀茂郡
ホウシコ 同 大崎下島
ホウシャヨミノコ 同 倉橋島
ホウシャ 周防大島群島
ホウシコ 讃岐高松その他
ホウシコ 伊予松山・西条等
この中で安芸の倉橋島のホウシャヨミノコは、お杉と関係なしに同種の唄のあった証拠であり、周防大島のホウシャもまたその痕跡と認められる。ホウシコというのも恐らくは土筆を幼童に譬えた例と思うが、なお自分としてはこの方言の起りは狂言のカナホウシ時代よりも古く、やはり本物の法師と似た所から、直接に持って来た語であろうと思う。その証拠としてよいのは、同じ系統に属する次のような方言である。
ゴボウ 上総望陀地方
ホトケンボウ 常陸稲敷郡
ボウズ 加賀河北郡
デンボウシ 備前下津井
ヒガンボウズ 安芸佐伯郡
ヒガンボウズ 周防玖珂郡
ヒガンボウ 石見大森
ヒガンボウズ 同 那賀・鹿足郡
ヒガンボウズ 長門阿武郡
ヒガンボ 伊予喜多郡
ヒガンボシ 同 北宇和郡九島
ヒガンボウズ 土佐幡多郡
ヒガンムウズ 同 安芸郡
ヒガンボウズ 豊前一部
ヒガンボウズ 肥後阿蘇小国
ヒガンボイボイ 日向宮崎郡
即ち飛び離れた東国の例は別にして、ホウシ区域は西隣では一様に、春の彼岸にもてはやされる法師になぞらえて、随分と気の利いた可笑味のある方言を採用しているのである。この中でも石見の浜田方面には、
彼岸坊主は誰の子
すぎなのかかあのおとむすこ
という童詞があって、言葉は変っても心持だけは、こんな遠くまでも走り廻っているのである。
ここまで進んで来ると、東京附近や信州などのツクシンボが、二つの方言の複合であることは、最早討論を要せぬと思う。しかもその例は決してある小地域に限られておらず、これも西は九州の端々と、東は奥州の各地とに、看過すべからざる共通を見出すのである。
ヅクボ 筑前戸畑辺
ヅクボウ 筑後三潴郡
ツクボンサン 同 柳河
ツクボウ 佐賀県一部
ヅクボウ 対馬豆酘
ツクボウ 豊後日田郡
ツクボウシ 肥後鹿本郡
ツキボシ 同 玉名・宇土等
ツクボシ 同 下益城郡
これと最もよく似た例は先ず中部日本において見出される
ヅクボ 美濃養老郡
ヅクボウ 同 根尾谷
ヅキボ 越前大野郡
ヅクンボ、ヅクボシ 三河額田郡
ヅクンボウシ 同 宝飯郡
ヅクンボ 遠江袋井その他
ツクボウシ 信濃下伊那郡
ヅクンボーシ 同 諏訪郡
即ち何でもない差別のようだが、ボウまたはホウシという語の、附加したものにも劃然たる領域があって、互いに入交ってはおらぬのを見ると、土筆を見て法師の姿を聯想する習わしは、少なくとも近畿その他のツクシ・ツクツク区域等には、行われていなかったと同時に、ツクシンボというが如き単なる一音節の添加にも、なおそれ相応の意識のあったことは認められる。前田林外君の『民謡全集続篇』に、東京府下の子供唄として、次のような一つが挙げてある。
つくしんぼうやどうしんぼう
彼岸の入りには袴はいて出やれ
即ちヒガンボウズという方言の領分から、これだけ隔絶した東国の果においてさえも、小児はなお土筆を坊主として待遇することを忘れなかったのである。
忘れなかったということは、当然に「いつ覚えたか」及び「どうして学んだか」の問題を連れて来る。春の彼岸の頃に里に現れるツクツクボウシと、夏もやや終に傾いてから庭の樹に来て啼く蝉の声とを、一つの言葉で呼ぶということは、驚くべき無頓著には相違ないが、とにかくに誤解と称すべきものではない。二つの地方語の間には明らかに関係があり、しかもいずれか一方が正しく他方はこれを濫用したのではないばかりか、むしろ相手がなかったら双方とも、こういう変化は見なかったかも知れぬのである。土筆のツクツクホウシは既に九州に始まり、北は奥州の一端に及んで、その隣のヅクボウと聯絡を保っている。
ツクツクボウズ 豊前宇佐郡
ツクツクホウシ 大和一部
ツクツクホウシ 紀伊有田郡
ツクツクボウ 同 南牟婁郡
ツクツクボウシ 伊勢山田等
ツクツクボウシ 近江八幡等
チュクチュクボン 同 仰木村
ヂクヂクボウズ 飛騨吉城郡
ツクツンボ 能登珠洲郡
ツキツッボ 越後一部
ヅヅボウシ 静岡県一部
ツウツンボ 安房千歳村
ツクツクボウ 磐城石城郡
即ちツクツクまたはツギツギという在来の語に、坊主の擬人観を添えれば直ぐに出来る方言で、これだけ見ると蝉の声は比較的自由だから、小児がこれを聴いて春の土筆の名を貸したとも考えられるが、実際は寒蝉のツクツクホウシは五百年前の文学に現れ、今日も標準語として認められているのみならず、昔からほぼこれに近い啼声をするものとなっていたのである。こんなついででもないとその記録も遺し得られぬから、退屈凌ぎにその例を並べて見ると、古い所では『蜻蛉日記』にクツクツボウシ、『散木奇謌集』にはウツクシヨシと鳴くとある。近世の口碑においては筑紫の人旅に死し、その霊化して蝉となってツクシコイシと啼くと、也有の「百虫賦」にはあるそうな。その筑紫方面の聴き様もそれと近く、いずれも寒蝉を
ヅクヅクホウシ 肥前一部
ヅクヅクッショウ 同上
ツクッショウ 肥後各郡
ツクンビョウシ 近江神崎郡
チュクチュクオイシ 同 仰木村
ツクツクシ 加賀金沢
ツクツクエンヨウシ 越後一部
カタカタキンヨウス 同上
コチョコチョキーヨウス 同 西蒲原
ツクツクヨウス 仙台
ツクンヨン 下野河内郡
ゴトゴトゴイシ 常陸稲敷郡
キタカタゴンズ 下総北相馬郡
ホウセンツクツク 上総夷隅郡
ホウエンツクツク 同 長生郡等
などといっている。自分も少年の日に下総北相馬郡にいて、右のキタカタゴンズを聴いた。何か隣の北方という村に、むかし権助とでもいう男がいたのではないかと思っていた。最後のホウエンツクツクも法師のことであろうから、とにかくに坊主の聯想は蝉のツクツクの方にも、早くからあったのである。播州印南郡の土筆採りの童詞として、郡誌には次のような唄が載せてある。
つくつく法師出やらんか
親はないか子はないか
たった一人の娘の子
なこどに取られて泣きなさる……
これは手毱唄などになって今も諸国に弘く行わるるもので、本来は雉子の歌であった。
山のけんけん雉や何を泣くね
親がないか子がないか
親もあるが子もあるが
たった一人の男の子
鷹匠に捕られてきょう七日
七日と思うたら十五日……
というのであったが、土地によってはげんげの花といい、更に転じては「つくつくぼんさん何泣くね」とも歌っていた。それが寒蝉の哀話からまた移って、土筆を見つける際の呪文のようにまでなったのである。これを要するに多くの言語は、興味がこれを培養して次々に今の形まで成長せしめたので、その久しい前後の伝記を切離し、単なる一時代の横断面のみを以て、その本質を説こうとするは心得違いなことでなければならぬ。
またまた話が長くなったから、もう一隅の残った部分だけを記述して、自分の結論に急ぎたいと思う。東北地方の土筆も太平洋側の半面には、前に引例した如く自分のいう第一第二の系統、即ちツクシとツギツギとの交錯に止まっているらしいが、他の半面の日本海側にはまたやや異様なる変化が認められる。
ヅクベ 秋田市
ヅクベ(ボウズ) 南秋田郡
ヂックビ 仙北郡横沢
ヅックベ 同 大曲等
ヅクンベ 河辺郡
ヂクベ 由利郡亀田町
ヅクベ 同 笹子村
グウヅベ 飽海郡本楯村
山形県下は大体にほぼ中央部と一致している。さてこのヅクベが単なるヅクボウの音訛であるか、はたまた新種の協定にして、更に第五の系統を暗示するものであるかは、容易には決し兼ねる。そういう理由は今までに列挙した以外に、なお幾つかの興味ある新称呼が、殊にこの方面に多くかつ成長しつつあるからである。讃岐や豊後の一角に存在するタウナまたはトウナ、越中高岡辺のヅンベラコウの如き異例は除き、他のやや普遍的なる方言は一つには筆にたとえたもの、
フデクサ(ツクツク) 大和十津川
フデバナ 信濃北佐久
キツネノフデ 越後東蒲原
フデノホコ 奥州野辺地
二つには蝋燭にたとえたもの、
ヘビノロウソク 加賀能美郡
キツネロウソク 能登鹿島郡
キツネノロウソク 越中入善
筆も蝋燭も田舎に知られたのは古いことでないから、この名を使い始めた人々は恐らくは在来のものを見棄てたのである。第二種は少しばかり説明に困るが、先ず次のようなものである。
イノノチンボ 信州一部
ネコノチョンボ 越後三川村など
ンマノスッコ 羽後由利郡
ダンベコ 北秋田小阿仁
ヅヅコ 鹿角郡
ヂコババ 津軽小泊
ヂヂババ 下北佐井浜
ヂヂババは通例男女というまでの意味で、これも以前には田舎の子供たちが、無邪気な笑の料に用いたことがあった。ヅクベの起りは仮に継ぎ継ぎであっても、あるいは童詞などの関係から、特に下品な音を添える必要があったかも知れぬのである。
私は地方語変化の主要なる原因として、個々の客体の社会上の地位、即ち人との関係を算うべきことを信じているが、それはもちろんその物の重要さを意味するのでない。むしろ正反対に生活の交渉がやや浅く、軽い利害を以て表現の不一致を眺めることの出来る場合に、たとえ隠語の如くわざわざの相異を企てぬまでも、自然に形が改まって若干の不審を招き、解釈に僅かずつの智力を要することを辛抱しまたは歓迎したかと思っている。そういう余裕の多い者が何人であるかはわかっている。無造作率直と少しも苦しまない技巧とは、特に少年たちの参与に基づいて、方言の一つの特色となったのである。ただし新渡の農作物、もしくは山野の採取物においても、時の経過と共に遠方への商品となったり、またある期間の前後を考えられることになると、用語はそのように浮気であってはならぬ。故に追々に各地に固定するのみならず、また力めて大勢に迎合せんとするのである。別の言葉でいえば方言の分布には、その本然の約束というべきものよりも、かえって社会的原因が多く働いているわけで、従って特殊性に富みたる民族の経歴を外にして、いつの時代にも言語の類似から、大古の親類関係が考えられると思うのは誤謬である。
いわゆる方言区域は本篇のような調査を重ねて行くうちには、結局は何人も争い得ざるものが劃定せられることと思うが、それは要するに昭和三年以後の方言区域であって、百年五百年前の異なる文化の下に、同じ分野が現れていたという証拠は、また別に求めなければならぬのである。人は往々にして大体といい僅かなる例外といわんと欲するが、いかに小さな例外でも原因はあるべきで、その原因は即ち過去の異なったる交錯にあり、むしろある時代の方言区域の、今とは大に異なっていたことを示すものかも知れぬのである。
そうすると時代時代の輪ちがいになった方言区域を、骨折って跡付けることも張合いのない話のようであるが、四隣の異同を詳しく究めた上でないと、地方的変化の法則を知ることが出来ず、地方と時とがどれだけの影響を与えるかを測量しないでは、言語の成長を説く方法がないのである。その上に各時代を貫通した傾向の如きものは必ず分って来る。例えば距離が変化を顕著にすることなどは、仮にまだ理論の満足にこれを説明し得るものがなくとも、次第に実験を積めばもう疑の余地がなくなるはずである。ただこれに関聯して自分の考えて見たいと思っているのは、言語には発生の大小の中心地があって、右の距離は是非ともその中心から測るべきものではないかということである。東北と九州とは互いの距離は最も大きいが、単語の近似は決してここに挙げた虎杖や土筆のみでない。これも昔の京都とその周囲の地とが、一つの強力なる中心地であったためではないかということである。故にもし果して言語の伝播にも、周圏波動の法則が存立し得とするならば、少なくとも一本の堺線を以て、国を南北に二分するの案は危険である。
諸君蒐集の民謡はいつも大なる興味を以って拝見していますが、その中には今はもう歌わないもの、ある老人が僅かに記憶していたもの、意味の不明で誤写だろうかと思うものなどがあって、地上楽園も時としては枯野をあるくような感じがします。
無理もないことながら、この半世紀の間に、非常に多くの歌が亡びたようであります。それでも以前は忘れた人と、新たに歌い出す人とが同じであったために、知らず識らずの間に心持を相続していたような痕跡がありますが、これから亡びるものは永久に、また根こそげなくなるのです。そうかと言って人為を以て保存するのはつまりません。ただじっと看ているの他はないと思います。
以前の日本は歌に満ちたる国であったようです。中世の終頃から、それが四句二十六字の小唄に統一せられ、夙くその大部分を喪失したことは、一方には保存せられる民謡の言葉が存外に新らしいことにより、他の一方には神社の祭式の中に少し残り、もしくは童女の手毬歌などに、散乱して伝わっている古いあや言葉から、推測し得られるのであります。
児童の前代生活を保存してくれた功労は没すべからざるものがあります。今では殻ばかりになった村々の口碑の類が、かつては美しい辞句と旋律とを以て彩色せられ、深い感動を傾聴者に与えていたらしいことは、たとえ無意識の片言まじりにもせよ、子供が繰返していてくれた色々の歌から、僅かに認めることが出来るのであります。
私は昨年あたりから、人の笑うようなご苦労な方法を尽して、この方面から文学のなかった時代の文芸を尋ねて見ようとしております。その間に新たに得た経験は、新奇を好む点では何人よりも熱心な子供たちが、実は意外な保守党であったということでありました。
その理由は考えて見れば何でもないのです。「おつむてんてん」などの簡単な遊戯から、「子買お子買お」の如き込入った演劇に至るまで、一つの行事に一人の児童の携わるのは、精々一年か二年であります。前の子供にはもう珍しくなくとも次の子供には新奇です。一生懸命になって模倣をして、ほどなくこれを弟妹に引継ぐので、彼等はいつまでも留学生の如き感受性を以て、古い古臭い遊戯を学ぶのであります。そうしてまた教える側でも、特に計画ある幼稚園でもない限り、いつも手近い仕来りをそのまま利用しますから、偶然に一種の駅伝競走の如く、大昔との聯絡を見るのであります。
それから今一つ、平穏無事なる村の生活に老いて行く人々は、子が生れると再び子の心に復り、孫が出来ると自分が孫であった頃の、感覚を喚び起されるのであります。殊に子供の相手は年寄ときまっていまして、その間にはまた大きな鏈が繋がって行くのであります。
この意味からして私は、童児の持っている日本語を珍重します。農夫の骨折な日々の生活では、とても静かに観察している余裕もない天然の事物を、門に立って老人と幼い者とが、いつまでも噂したのであります。子供が学ぶ新しい物の名は、大抵は祖父が小さい時に教えられて、そのまま蔵って置いた古い智識でした。特に小学読本の如く子供のために編纂したものではないのです。またそんな訂正をする必要は、今までは少しもありませんでした。現在の少年はこれに反して、恐らく孫を見るまでには、一切の幼い時に得たものを、改革してしまっているでしょう。
十年ほど前に紀州のある教師が、児童の持っている童話を蒐集して見たことがありました。それを見ていると半分は土地の昔話、残り半分は巌谷小波君、久留島武彦君などの本から読んだものの不精確なる記憶でありました。即ち是非とも確実なる話をしなければならぬとも、思っていない若いおばあさんやおっかさんは、胸に浮んで来る順序に、知っているだけの話をしたので、いわゆる教育が伝統の敵であることは、最も顕著にこういう善でも悪でもないものの上に現れるのであります。
しかも今日はもう歴史を学ばんとする者が、既に資料の欠乏に苦しみ始めているのであります。例えば還って村の老翁の一人に聞くならば、何でもなく説明してくれるような事柄のために、図書館中を駆けずりまわるのであります。外国の参考書は料理がしてあるが、日本の資料はなまである。時としては自ら出て行って採取しなければならぬのに、問うすべも知らず、いわんや快く語らせるだけの親しさを持ちませんでした。今に大いに不自由を感ずるに違いないと思っています。
ところが我々の友人の中には、別にこれという入用はなくして、単にあった物のなくなるのを愛惜するという情だけから、何となく手帳をつけているような人がかなりあります。個々の家庭に必ずある年寄と子供が、朝から晩まで聯絡を保っていても、消えるものはやはり消えてしまいました。それに比べると遥かに無力なるこんな記録が、果して落ち散った鏈を再び繋ぎ合せることになるかどうか。随分心細い話ではありますが、幸いにして古人の聊かも味い得なかった幸福が一つあります。即ち一時に全国の隅々にあるものを、比べて考えて見るという便宜であります。
民謡なども諸君のような企てによって、今更何事をか語ろうとしているのであります。私は日本の民間文芸の最後の伝承者、即ち既に老いまたは老いんとする昔の児童をして、今一度相会してかつて感受したものを説かしめたいと思うのであります。そうして単なる冷かな批判者としてではなく、出来るならば少しでも感激の相槌を以て、彼等に力附けたいとも思うのであります。
そこで差当って自分が分担している方面、即ち物の名の附け方と小児の生活、それから歌というものがどういう風にして口ずさまれるかなどの問題を、雑然としてお話して見ようかと思います。涼しい樹の蔭などがあるならば、立ち止まって暫らくこの顧みられなかった旧事を考えて見て下さい。
私は菫という草の地方の名称を比べて見ました。この植物の命名法は、全国を通じて先ず三種類に分れております。それは最初から三通りあったわけではなく、多分ある年代を隔てて順次に出来たのが、採用されたりされなかったり、したものだと思います。その中で一番古いのはもちろんスミレでありましょうが、古いだけにどうしてそう名づけられたかわかりません。しかし今に知れることと思っています。
第二にはあの紫の花の形を、駒の顔に見立てた命名であります。この微小なる花に、あの大きな馬の顔をもって来て比べることは、小児の想像力でなければ出来ぬことです。『本草啓蒙』に採集してあるのは、
トノウマ 薩摩
コマヒキグサ 筑後
キョウノウマトトノウマ 筑前
などですが、今もそう言うかどうかわかりません。
近頃になって知ったのは、
ウシンコッコ、ウンマンコッコ 薩摩
チンチノコマ 駿河駿東郡
ベコノツノツキ 羽後秋田郡
などです。ベコとは牛のこと、チンチは何のことか知りません。ウシンコッコのコッコもまだ分りませんが、とにかくこれだけの方言からでも、二つの花を持って闘わせていたことが想像せられます。トトノウマなども「殿の馬」で、京の馬と二つを対抗せしめたものかと思います。
第三種の命名法は即ち角力取草の系統であります。
カゲピコ 秋田市
カギヒッパリ 羽後仙北郡
カゲヒキ 陸前登米郡
カギトリバナ 仙台
カギヒキバナ 同上
アゴカキバナ 越後
ヒッカケ 同 西蒲原
カギバナ 讃岐・伊予
カギというのは疑もなくこの花の馬のあごに譬えられた部分で、現に私たちもこれを引掛け合って、首のむしれた方を負として角力を取らせたものであります。
角力取草という名は車前その他色々の草に付与せられていますが、菫をそう呼ぶ地方が一番に広い。京大阪を中心として、北陸関東から磐城の一部まで、西南は中国四国にも及んでいます。即ちどうして学んだかこの遊戯が、これだけの間に行われていたのであります。関東の方では大抵スモウトリバナというのは、恐らくは別になお相撲を取らせる草もあったからでしょう。
次に珍らしい菫の異名は、三河の宝飯郡などでタロンボージロンボーというので、これは俳人等が早くから注意して、太郎坊次郎坊と歳時記類にも出ているそうです。同じ例は近国に多く、
ジロウタロウ 志摩磯郡
ジロヤサブロウ 伊勢相可
ジロウタロウ 美濃恵那郡
美濃の苗木などでは普通にはスモトリバナで、白花の菫をジロバナ、これに対して紫色のをタロバナと呼んでいます。即ち菫に相撲を取らせる場合に、一方を次郎、他の一方を太郎と呼んでいた名残で、『狂言記』の八幡大名などを聯想せずにはいられません。
菫をこの遊戯に使用したのは、多分はこれ等の名前よりも更に前からでしょう。今一種の異名の、
オソメバナ 信州下水内
オソメンバナ 越後中魚沼
の如きは、今はまだ名の起りが想像しにくいが、
ジンジイバンバア 遠州竜川村
に至っては、たしかに二つの花を掛合せた痕跡があります。爺と婆とは普通には春蘭の花を採ってそう呼びました。元は粗野なる歌があったに相違ありません。甲州の逸見では、蝸牛をもジットーバットーと呼んでいます。
最後に今一つ、熊本県の人吉附近で、菫をセセンブキブキというのも歌に依った名でした。その意味ははっきりしませんが、角力とは関係なく、二つの馬を闘わしめたのではなかろうかと思っています。この唄の文句を記憶する方の教示を受けたいのです。
小さな自然に名を与える事業には、児童が誰よりも多くの興味を以て働いている。その言葉が成人にも承認せられて永く行われ、一方にはまた同じ子供のような気持を以て、新たに言い始めた物の名も多かったことは、方言を集めていると容易に心づくはずである。この頃外国から持込んだ色々の新語と並べて見て、殆と両極端と言ってもよい態度のちがいは、やがてまた近世の国語の歴史の、看過すべからざる変革を暗示するものかと思う。私が目下分類に着手している『児童語彙』には、明白に児童しか使わぬというものだけを載せることにしているから、十分な証明をすることが出来ない。それで別に全体にわたって物の名の話をして見ようと思う。寒中に草の話をするのも時を得ないが、なるだけ因縁のあるように第一には「雪の下」、次には卯の年だから兎の何々という類の草の名を問題にする。そうして徐ろに春の我々に来るのを待とうと思う。
私たちの在所では、よくこの草の葉を揚げものにして食べた。子供の頃の事を思うと、先ず最初に眼に浮ぶ冬の草である。寒い盛りにも紅味を帯びた緑の葉が見られて、「雪の下」という名も似つかわしいようだが、雪に覆われたところを見た記憶はない。東京へ来てからは庭にも植えて見たが、通例は石がけ、殊に井戸の内側などの清いところに、自然に成長して春早く花が咲くので、花の形は白い小さな蝶の羽に似てずっと長めであった。雪の下という名も知ってはいたが、子供や女は皆ユツグサといっていた。ユツは播州などでは井戸のことである。他ではまだ同じ名は耳にしないが、紀州の有田郡、飛騨の高山や船津、東北では伊達郡の掛田などでこれをイドグサと呼んでいる。富山県の射水郡ではイケバタまたはイケノハタという。このイケも池ではなく、あの辺の方言で井戸のことである。大阪府の泉北地方でイトバスというのも、多分は井戸かと思うが、バスの方は明かでない。岩手県の九戸郡ではエシガラミ、即ち石にからんで生える草の意であろう。
「雪の下」の漢名は虎耳草だという。なるほど毛がはえて紫がかった形が獣の耳を思わせるが、虎にしては少し小さ過ぎる。越後でこれをヒゲジサという郡もある。全体に剃りおくれた鬚ほどの毛があるのでそういったという。子供の疳の薬、また心臓の病にもきくといっている。宇都宮附近ではミミダレグサ、磐城相馬郡ではカンカチグサという。カンカチはこの辺では火傷のことで、それに附けると治る故にそういった。耳だれも恐らく同じ理由であろうが、どうしてそのような試みをしたかというと、やはり葉の形が耳に似ているからの思い付きと考えられる。紀州の熊野ではカミナリグサ、あるいは弁慶草のことだという土地もあるが(有田)、これを栽えて置くと雷が落ちぬといっている。雷はめったに落ちるものでないから、この経験はそう当てにならない。『豊後方言集』にはこの地方の名称が幾つも挙げられている。その中でキジンソウというのは名の起りが最も不明だが、九州でも筑後の久留米、肥前五島の久賀島でそういい、更に東北では仙台から石の巻に及び、秋田県の横手もキンズンソウというから、もとは中央の名であったかも知れない。五島ではこの草のしぼり汁を小盃に一杯ずつ、一日に三度飲めば熱さましになるともいっている。豊後にはまたこの草をキンギンソウという方言がある。葉に白赤の光があって、めでたい草であるから金銀草といった方が、キジンソウよりは前かとも考えられる。あるいはまたユキバナという名も同じ地方にあり、また雪割り草という者があり、愛媛県の周桑郡ではユキヤケグスリともいっている。雪のまだあるうちに花が咲き出すから、雪の下と呼ぶに至ったのも理由があると言えるが、なお私などはこのユキもイケ、即ち井戸のことではなかったかと思っている。これくらいの意味変化は方言には珍らしくない。そうしても一旦耳に馴れた古い語形は棄ててしまわぬのである。
兎という名の草は方言に幾つかある。たとえば山口県の柳井では薊をウサギグサ。これは福島県の相馬地方でも、野薊を馬の牡丹餅というから、多分は兎が悦んで食べる草という意であろう。越後の刈羽郡で車前をウサギグサというのも、やはりこの草を飼料とするからかと思う。車前は殊に小児と親しみの深い草で、この茎を引掛け合う遊びがあり、相撲取り草の名をこれに付与した地方も多く、あるいはカエルグサ・ゲエロッパともいって、蛙をひどい目に遭わせて置いてから、この葉を掛けて置くと活きかえるなどともいっていた。またこの葉をよく揉んで糸のさきに結わえ、田の中を持ちあるいて蛙を釣る遊びなどは、あんまり面白いので親になってからも、私はこれを試みて子どもに見せたことがある。他の草でも釣れるのかも知れぬが、我々は車前でなくてはならぬように思っていた。上手に竿をはねると二丈三丈の青空まで、蛙が飛び上って遠くの田へ落ちることがある。今考えると蛙こそよい迷惑であった。
それから今一つ、静岡県の各郡で鼠の耳、もしくは兎の耳と呼んでいる草がある。本名は母子草、私の郷里などではホウコ、好い香がするから芳香であろうと、少年の頃には思っていた。漢名は鼠麹草または鼠草、色も形も大きさも短い毛のある容子も、鼠の耳にならば似ていると言える。従ってどうして兎の耳にたとえたかは疑問であるが、あるいはまた奈良県北部のように猫の耳と呼んでいる地方もあるのである。この草にも色々の異名があって、我々にとってはなつかしい記念である。これを鼠の耳というのは佐渡の国仲地方、他にもまだあろうと思う。阿波の祖谷山ではホウベラ、春の七草の一つのハコベラが、この草であったことが想像せられる。三河の宝飯郡でトーゴというのだけはまだ説明が出来ぬが、千葉県印旛郡でコウジバナといっているのは、葉の色花の形が麹に似ていたからで、昔の麹は今のように白々としたものでなかったのだろうと思う。山口県の厚狭郡ではハハコグサをテンジクモチ、これを餅に入れて搗いたものも天竺餅というそうである。以前は餅草即ち艾以外に、この草を餅に入れるのは普通であり、またこの方が色も佳く、においも高いといったものであったが、関東の人たちはそれを知らず、西でも追々に用いる者がなくなった。あるいは発生が少なくなったようにいう人もあるが、私はまだ確めて見ない。四月八日のお釈迦の誕生の日に、紫雲英と薊とこの花とを以て、花御堂の屋根を葺く習わしもあったから、天竺餅の名はそれから出たのかも知れぬ。豊前の宇佐地方ではこの草をネバリブツ、フツは餅草即ちヨモギのことだから、それに比べると粘りが多いか、または葉の表面が真綿のようなもので覆われているという意味であろう。広島県安芸郡でこの草をオトノサンヨモギ、また淡路島の一部でトノサマユムギという理由はわからぬが、これも私などの推測では、餅にはハハコグサを入れる方が古く、今の餅草に改まったのは後のことで、それで本式の草餅を作る草の意味に、こういう名を設けたのかと思う。オトノサンは少なくとも百姓に対立した語であった。
秋田県の北部では、杉菜を馬の砂糖という。馬が非常にうまがって食べるからの名らしく、すなわち小児等が砂糖にあり付くようになった頃の新語で、今ならば馬のキャラメルとでもいう所であろう。富士山の南麓地方には、これをまたウマノゴック、あるいはウマノオコワ(馬の強飯)という名もある。ゴックは御供で神に供える飯、即ちまた強飯のことだという。この種の命名の動機が既に古く、いかに祝日の飯がうまかったかもこれでよくわかる。この草の地方名も非常に数が多く、また大抵の人は今でも忘れずにいる。奇抜な例を挙げると信州の北安曇郡でこれを雷の臍、これただ一つでは何故かを知るに苦しむが、他のと比べて見ると意味は「取りにくいもの」というにあったらしい。すなわちこれなどは一つの謎であって、童児の考案とは見られぬのである。杉菜が畠に入ると農夫は皆困るのは、その根がどこまでも深くて手ではとても抜き切れぬからで、それでまた地獄の鉦紐(伊豆賀茂)、地獄の釣鉤(駿河庵原)、地獄の鉤つるし(同志太)、あるいは地獄の自在鉤(大隅肝属)などの名も各地にあって、地底の国の炉の鉤の紐だなどと、困りながらも農夫がしゃれたのである。
スギナという名称はこの草の形からと解せられている。九州では筑後久留米、肥前の島原半島などでマツナグサ、または松菜ともいう例があり、杉または松に似た菜という意味で、使っている人も多いのだが、それにも今一つ以前の理由があって変遷したものとも考えられぬ事はない。たとえば淡路の浦村では杉菜でなくツギナ、磐城の相馬ではツギグサ、紀州の有田郡ではツギツギグサ、その他ツギノコ・ツンギノコなどと、呼んでいる村は関東にも多い。こういえば誰でも心付くことであろう。この草は茎の節が柔かで、袴の所からちょっと引けば切れる。それを元の通りに袴にさし込んで、「どこ継いだ」と言って相手の児に当てさせる遊戯は、今も東京の郊外をあるいても見られる。それ故にまた信州北部から越後頸城地方にかけてこれをドコドコグサといい、飛騨の高山では直接にドコドコツイダを以てこの草の名としている。仮にスギナという語が前に出来ていたにしても、子供はなおこれをツギナと呼ばずにはいられなかったのである。
私などの幼少の頃には、この草をオスギと呼んでいた。そうして野に出て土筆を採る際には
ホウシ誰の子 お杉の子
お杉たれの子 ホウシの子
という歌をよく唱えてあるいた。卵と鶏との譬えにも似ているが、この奇妙な歌の心は、子供にも半分わかっておかしかった。ホウシは即ち土筆の方言であるが、同時に男の子または老入道をもそういっていた。お杉と法師とが全く面ざしを異にして、同じ根同じ土から前後して生れて出ることが、昔の人には珍らしかったのである。蕗の姑女だの茗荷の子だのという言葉は他にもあるが、杉菜もそれと同様に肥後ではヅキボシノシンルイと呼び、またツクノオバと呼んでいる処もあるのである。
土筆は東京附近ではツクシンボといっている子供が多い。今の本名もツクツクシだが、このツクシにはもはや「継ぐ」という意味はなく、澪の標のミオツクシなどと同じに、土に突立てた榜杭のことに解しているらしい。とんでもなく大小の差を無視した点から見ても、これも子供の思い付きであったことがわかる。私たちもまた時々はツクツクボウシともいって、ひぐらしという蝉の鳴く声までを、この植物の名のように聴いていたこともあった。しかしホウシだのボンサンだのというのも、古くからあった名と思われて、関西地方は一帯にこれであり、彼岸坊主という言葉などは、弘く九州四国にも及び、東の方では越後などもボウズボウズまたはキキンボウといい、遠州の磐田郡ではヨロボウシともいっている。ヨロボウシは謡曲の「弱法師」にもあるように少年のことであった。はかまを着て出るということが、殊にこういう名に似つかわしく感じられたのである。
こういう色々の面白い名があるにかかわらず、児童はなお折々は古いものに飽いて、新らしい名が出来ると喜んでそれを用いようとしている。越後でも弥彦山の周囲には、土筆をヘビタバコという村があり、また狐の煙草といっている村もある。これは明かに巻煙草というものを、村の子供が見てから後の新語で、しかもまた古来の命名法に遵依したものである。肥前の島原ではキツネンフデ、土筆とも筆頭菜とも支那でいうから、これを筆に見立てるのは何でもないが、わざわざ狐を引合いに出すところに、日本の子供の昔からの趣味が現われている。殊におかしいのは秋田県の北部で、このツクシンボを猫ノカモコ、もしくは雁ノカモコともカモグサともいっていることで、これもあの形をそういう人間でないもののカモに譬えたのである。この地方の人の話に、杉菜の根には鉄分が寄って、後に小さな円筒形に朽ち残って溝などに落ちていることがある。それを河辺郡ではカッパノシュンチコというそうである。シュンチは日本の古語シジの訛り、シジもカモも共に男の児の前のしるしのことで、そういう名をつけて笑った子供の顔が、目に見えるような気がする。同じ地方にはまた土筆をツベノコという語もある。多分はツギノコ・ツゲノコから転じたのであろうが、ツベといい始めた動機はまた同一であったように思う。
かたばみ(酸漿)を雀の袴という名は、岩手秋田の二県にもまた佐渡にもあるから、新らしい語ではない。もちろん農民がはくハカマの方で、この草の葉が夕方になると、たたまれ折れ重なる形が、袴に似ているからそう名づけたものと思う。近世の野良袴は「たちつけ」などといって、はばき(脛巾)と縫い合せて隙間のあかぬものが多くなったが、以前は膝までで、形が殊にかたばみの葉と似ていたのである。しかしこういう大小のかけ離れたものを、直ぐに聯想することは成人にはちょっと出来ない。それだけでも少年少女の考案ということが察せられるのであるが、佐渡の島ではまたこの「雀の袴」のことを、チンチンモグサともいい、備前の児島郡でも同じ草をチンチングサ、石見の鹿足郡ではカンカン草ともいっている。昔話のチンチン小袴、もしくは小児の遊び言葉に、こういう文句のあったことを記憶している人ならば、誰でもこの名を聴いて微笑することであろう。雀はこういう小さな袴を、はきそうなものだからそう呼んだのでもあろうが、別にスズメという語の用いやすかった理由もある。かたばみは支那でも酸漿という位で、少し酸味があるので子供はよくこれを咬んで楽しみにしていた。秋田県の鹿角地方でこの草をマンジュシカシカと呼ぶのも、マンジュは不明だがシカシカはすかな(酸模)という草の方言だから、やはり酸いという所から付けた名である。志州の越賀などでもこれをシゴメ、紀州日高郡の奥ではスイモノともいっている。梅干を製するのにこの草を使うという地方もある(『東磐井郡誌』)。島根県の一部または土佐などで、この草を鏡草またはカガミソウというのも、あるいはこの酸味を利用して、これで鏡を磨いていたのではないかと思う。そうすればこの名を付けたのは小児ではない。
この以外にまだ命名の動機の明かでないのは、九州阿蘇付近でコガネグサ、この名は大隅にもあるから弘いのであろう。ツマグレ即ち鳳仙花の花びらを以て、子供が指を紅く染めるときに、この葉を交え揉んで色を出すという。薩摩でガネグサというのも形が蟹に似ているというのではなくて、むしろコガネグサの訛りかと思われる。大和の吉野郡にはダンジリ花という村がある。祭礼の曳屋台の飾りものに、ここではかたばみの花を思わせるものがあったのであろう。甲州の富士川流域では、この草をネコノチャと呼んでいる。どうしてそういうかは知らぬが、これなども作者は子供らしい。陸中紫波郡ではアケズノママ、アケズは蜻蛉のことだから、単に野外にある飯に似たものということであろう。千葉県印旛沼の附近でもトンボグサ、石川県にも元はトンボノキュウリという方言があった(『本草啓蒙』一六)。この草の実は少しく胡瓜に似ていていたって小さい。やはり子供らしい名の付け方である。信州の上田附近では雀の盃というのがこの草の方言であり、越後でもスズメノサンショウ・スズメノカンショウまたはスズメグサ等、雀に因んだ名が多い(『新潟県天産誌』)。サンショウは多分酸漿の字音であろう。むつかしい本名を聴いても、すぐに自分たちの面白いと思う形にかえてしまうことは、かまきり(蟷螂)をオガミトウロウなどといった例が幾つもある。
うつぼぐさは花の形が、弓の靱というものに似ているからの名というが、子供は久しく靱などというものを見たことがないから、幾ら発音しやすくともこの語を使わず、やはり自分たちの覚えやすい新名をこしらえた。たとえば愛媛県の上浮穴郡でネコノマクラ、長野県の埴科郡などで蛇の枕、青森県の一部でホエドノマクラというのが、共にこのうつぼ草のことである。ホエドは乞食のことで野に寝るもの、以前の田舎の枕がこの花のように、幾らか角張って坐りをよくした長い形のものだったことが想像せられる。福島県の東白川郡ではツチンボグサ。ツチンボは藁細工の藁を打つ木槌のことで、これも幾分か形が似ていると言われぬことはないが、こちらはあるいはうつぼぐさの訛り、もしくは誤ってそう解したものとも見られる。
東京の郊外で彼岸花、俳諧で曼珠沙華などといっている草の葉を、奈良県北部ではキツネノカミソリ、摂津の多田地方ではカミソリグサ、それからまた西へ進んで、播州でも私たちは狐の剃刀と呼んでいた。以前の児童は「さかやき」を剃られて痛いことを覚えているので、剃刀というものに関心があった。それと形の似たもので、野外に多く伸びている草だから、そう名づけたのも自然である。岡山広島の二県、紀州の熊野地方でも、彼岸花を狐草または狐花といっている処は多い。単に原野の草という以上に、この植物の繁茂するのが、多くは淋しい気味の悪い場所であったことも、狐という名を付けた隠れたる動機ではなかったかと思う。島根県などの例で見ると、出雲の方は一般にキツネバナといい、石見の方では多くはエンコウバナと呼んでいる。伊予の周桑郡でもエンコ花という者があって、エンコまたはエンコウはこの地方一帯に河童のことをそういう。即ち水のほとりの、河童でも出そうな土地に咲く花という意味である。紀州の田辺附近では、こうほね(骨蓬)のことをゴウライの花という者もあり、またこの彼岸花をゴウラバナというものもある(『和歌山県誌』)。
自分たちの郷里では、子供はこの植物について三つの名を知っていた。その一つは前に挙げた狐の剃刀で、これは専らその葉をさしていい、次にはジュズバナ、今一つはテクサレであるが、この事は後でいっしょにいう。ジュズ花というのはこの花の茎を折って、珠数の形に真似て首に掛けて遊ぶからで、播磨一国だけでなく三河の宝飯郡・石見の邑智郡等にも同じ語がある。
九州では大分市の附近などでオリカケバナ、やはりこの草の花茎を細かく折って、珠数にして首に掛けるのでこの名があるという。熊本県の南部でケサカケ、嶺を越て宮崎県の西隅でもケサバナというのは、やはり同じように折って首に掛ける風があったからと思う。こういう不吉な名が出来たのにも理由があったらしいことは、隠岐島の一部または瀬戸内海の島で、この草をソウレバナというのを見ても察せられる。
関東でも群馬その他の地方でジャランボングサといい、ジャランボンは即ち葬式のことで、墓地の近くにこの花が多いことから出た名だといっている。日向も都城の辺ではジゴクバナ、壱岐の島ではゴショウバナ、後生というのも墓地のことをいうらしい。遠州北部の山村でワスレバナ、信州佐久地方にはワスレグサという名もあるが、これなども本来は墓の上に生ずる草という意味であったらしい。埼玉県の東部で幽霊花またはシンダモンバナ(『幸手方言誌』)。徳島県の方にもユウレングサまたはチャンチャンボなどという異名もある。あるいはこの地方から高知県へかけて、シレイまたはシレイグサというのも、死霊草の音のようにいう説もあるが(『土佐の方言』)、これだけはそうでないと思う。阿波でも吉野川の上流ではシロイ、隠岐の島にもまたシロエの名があり、対馬でもこの草の葉をオシロイグサというを見れば、シレイは必ずしも元の音とも言えない。名の起りはむしろスミラ(つるぼ、綿棗児)と関係がありそうである。スミラは土地によってまたスブラともいい、花はちがうが根の形が似ている。または何々スブラという名が、元は狐の剃刀の方にもあったのであろう。
播州も西の境では、この草をシビト花ともいうが、またシブラ・シビレ・シブライなどとも呼んでいる。この植物の汁液が唇などに附くと刺戟するので、この語を痺れの意味に解したのであろう。
大和の竹之内村などではテクサリまたはシタコジキ、富士山南麓地方は一般にハコボレグサといい、子供はこの草を口に入れると歯が抜けるなどと嚇されており、あるいはまたハッカケバナ・ハッカケバアサンともいう者もある。信州の南部でも歯抜けばばアといい、この花を折っただけでも歯が抜けると信じられていた。九州も大分県の南海部郡ではハカゲバナ・ハモギ・ハンモゲ・歯抜けいばら等の異名がある。いずれも小児を警戒するためらしいから、作者は成人であったことがほぼわかる。
テクサリという語の方は、あるいは子供の実験だったかも知れぬが、私たちは手が腐るなどといいながらも、いつも折って遊んでいた。テクサリという名は私の郷里だけでなく、近畿では処々に行われているようだが、伊予の大三島などではこれをテハレグサ、紀州の尾鷲ではヒゼンバナといっている。ヒゼンはいやな皮膚病の名で、実際この液がつくと指の股が白くなる。
四国では伊予から土佐の西岸にかけて、ホゼバナという名がある。ホゼルはかぶれることで、現にまたカブレ花という土地もある。紀州の西部でこれをドクホウジまたはニガイホウジというのも、ホゼと一つの語だったらしいが、今ではその意味を忘れている処も多く、鳳仙花と混じてホセンコなどいう例もある。
石見の津和野附近ではヤクビョウバナまたはドクバナ、あるいはニュウドウバナという村もある。ニュウドウは癩病のことで、よくよく悪い名をつけて子供を遠ざけようとした形跡がここにも見られる。
しかしこの花の見た目に美しいことは忘れることが出来ない故に、単にそういう感じから付けた名も、また方々で拾うことが出来る。意味の取りにくいものが他にも幾つかあるが、それだけは除いて置いて、豊後の東国東郡でイカリ花というなどは、大分古くからあるが面白いと思う。実際花弁のそりかえった様子が少しばかり船の碇と似ている。石見の大森でチンチンドウロというのは、河内の南の方でオミコシというのと共に、そこの祭礼の飾りものと似ていたからであろう。
香川県のある島で、デベソというのは出臍のことらしく、またその近くでネコグルマというのも興味がある。猫車は近世支那から輸入した一輪車のことで、どんな幅の狭い田の中の路でもあるくから便利なものだが、我々はそのきいきいと細く軋る音を形容して、こんな変った名を付けていたのである。それを更に同じ田畠の間に咲く車形の花に、転用したのは快活な態度であったが、これも恐らくは何か人間以外のものの名を冠する風習が、隠れて下に働いていたのであろう。狐がそういう中でも最も数多く、引合いに出されることは前に述べた。福井地方にはまたキツネノタイマツという名も元はあった。今でも覚えている子供はあるかどうか知らぬが、これなどは殊に美しくまた鮮かな空想であった。彼岸花の真赤に咲き連なる光景は、そういわれて見るとなるほど炬火行列を思わせる。あるいはまた狐の扇とも狐の嫁ごともいう方言があったということだが(『本草啓蒙』九)、この「嫁ご」もやはり嫁入の行列からであろう。野原に火の光のつづくのを、狐の嫁入のようだということは今でもいっている。
子供が古い名に飽きやすいこと、または誰よりも鋭敏に新らしい名の面白さに共鳴することが、物の名の盛んに変化し、また地方的に区々になる昔からの原因だったようである。それだからそのただ一つを正しい名とし、他をまちがいとすることはいよいよ道理がないと、私などは思っているのである。薺のたけたのをペンペン草ということは、東京の人たちもよく知っているが、何故にそういったのかは、もうそろそろと忘れかかっているらしい。ペンペンは三味線のことで、最初はあの音によって小児がつけた名であろうが、後には親兄姉でも、市中の人たちはこの語を使っていた。三味線とは言っても、実はこの草の三角形をした種実が、この楽器を弾く撥のかっこうに似ていたからの名である。以前の三味線の撥は琵琶のそれのように、今少し中がくびれて先が開いていたのではないかと思う。熊本県の玉名郡ではこの草をネコンピンといっている。実の形が三味線の撥に似ているので、小児はこれを採って左の手の母指の爪に当てて、三味線を弾くといって戯れ遊んだ。山口県の厚狭郡では「猫の三味線」と呼び(『防長史学』四巻二号)、愛媛県の周桑郡でもシャミセン草、またはチロリンといっている。中央部殊に京阪などには今はもうこの名はないが、遠く東北の端に行って、岩手県の九戸郡ではサミセングサ、秋田県にも同じ名があり、またシャミセンコという村もある。北秋田郡では「狐のシャミセンコ」ともいっている。三味線は江戸期の初めには、まだ関東の人は名を知らなかったという話が、『醒睡笑』という書にも見えている。それがもうこのような端々の土地にしか残っていないのは、草の名の進化の速度がどんなに早かったかということを考えさせるのである。
無論新旧色々の名の流布も、土地によって状況が一様でなく、あるいは入り交りあるいは再び古いものが復活し、また二つ以上を抱えて楽しんでいたこともあったろうが、大体に都府の近くにあるものを、新らしい流行と見てよかろうと思う。『物類称呼』は百七八十年前の採集であるが、その中には薺を尾張あたりで爺の巾着婆の巾着といい、奥州津軽では雀のダラコというと出ており、前の方は知らず、ダラコの方は今でもその通りである。巾着もダラコも同じもので、巾着の形は近い頃まで、口を括れば薺の実のように三角になるものが、子供や年寄に愛好せられていたのである。その小さなダラコには銭を入れて下げてあるくのが、彼等には大きな印象であった。今の青森県の人たちは、ダラーという英語を早く知っていた証拠にこれをしたがるが、気の毒ながらあの地方のダラの中に入っていたのは、弗貨どころか穴のあいた小銭がせいぜいであった。それで現在はあの地だけは銅貨をダラなどといっているが、この通り古い時代から既に巾着はダラであったので、それは革で作ったのを胴乱などというのと同じ心持から、元はだらりと垂れるからの名だったろうと思う。雀の子が持つダラならば、薺の実ほどの大きさでちょうどよいと見たのである。
それから今一つ、これはもう少し古いかと思う名がある。越後は『新潟県天産誌』を見ると、土地によって薺に色々の名があって、その中にはダラまたは巾着というのはまだ見当らない。最も多いのは三味線花、またはペンペン草というので、次にはまた軍配草というのもある。これは他の地方にあるか否かを知らぬが、やはり実の形を軍配という扇に見立てたのであろう。その次にはガラガラグサ、また鈴草というのがある。ガラガラは信州長野の附近でもそういい、また他では実の形のこれと似た植物の名になった例もある。たとえば「たけに草」などもその一つで、一本の茎から幾つも下っている形を、鈴のようだと思ってそう名づけたのである。この形の鈴は三番叟の舞ぐらいにしか今はもう見られないが、備前の邑久郡でもこの草をコンガラ様の鈴と呼んでいる(『中国民俗研究』二号)。コンガラ様はこの地方でしか名を聞かぬ一種の巫女で、祈祷のために舞う者であったが、今はもう絶えているらしい。これが薺の花茎のような鈴を振っていたことは、たった一つの草の名によってわかる。コンガラというのも、恐らくはその鈴の音に基づいた言葉であろう。
自分などは子供の時に、鴨跖草即ち「つゆくさ」を、蛍草ともギイスグサとも呼んでいた。ギイスはきりぎりす、螽斯、はた織虫のことであり、蛍草の名は東京でも知られている。この二種の虫を籠に入れて飼って置くのに、何か青いものを添えて蔭と涼しさを供与する料に、特にこの草を選んだので、自分等は虫がこの草を食べるものと心得ていた。信州や越後でこれをトンボグサというのは、花の形が蜻蛉に似ているからだとの説もあるが(『高志路一巻一〇号』)、そう似ているとも我々には思えない。あるいはこれもまた蜻蛉のまくさとして、籠の中に入れたからの名かも知れない。佐渡には七八つもこの草の異名があるが、その一つにダンブリバナがあり、秋田県でもダンブリ花、またドブリ草ダンブリ草の名もあって、そのダンブリ・ドブリは蜻蛉のことである。あるいはダンブリに食わせる草だからともいっている。壱岐でこの草をチンチロ花、鹿児島でチンチロリングサ、信州の上伊那でもチンチロ花というのは、やはり松虫の籠の草だったからかも知れない。
しかし命名の動機は案外な所にあるものもあろう。子供の心になって見ないと確かなことは言えない。そのうちで大よそ判るのは、佐賀県藤津郡でトテッポッポという名などで、ちょっと鳩のことのようにも聴えるが、伊予の周桑地方でケケコウロウともいい、この方は一名ニワトリ草ともいうから、実は花の形が横から見た雞に似ているのでそういったのである。佐渡ではまたトットバナ、信州でも伊那では鴨跖草がトテッコ花であり、またオンドリ花ともいうが、筑摩郡へ行くと萱草がトテッコウまたはトテコッコである。この方は花よりも葉が雞に似ているかららしいが、越後の出雲崎ではふじ豆、即ち上方でかき豆という豆がトテコウロウで、これは鶏頭という花の小片を莢の割れ目に挟み楊枝を足にして、実際に雞をこしらえて玩具にしている処もあって、それほどにもよく似ているのだから、こう名づけるのも自然であるが、つゆ草の方に至ってはよほどまた子供の空想が加わっている。
和歌山県の東牟婁郡でつゆ草をヒカリというのは判らない。佐渡の二宮村にはメグスリ花という名もあるから、何かもう忘れてしまった言い伝えがあるのであろう。駿河の志太郡などはこの草の花と、蠅の頭とを女の乳ですりまぜて、赤く色つけたものを目薬として使うという。しかも草の名の方はここでハナガラといっている。それから同じく佐渡の一部にカタグロ、もしくはジンジクロという名もあるが、これもまた不明である。四国の方では讃岐ではカマグサ、何だか葉の形が鎌に似ているからのような気もするが、これは甚だ確かでない。伊予の方に行くと雀草、また卵草の名がある。これはあるいはこの草の実が小さいけれども鳥の卵と似ているからであろう。卵草と名づけられた草は他にも色々とある。従ってこの名はあまり弘くは行われていない。豊後の大野郡では鴨跖草を饅頭ぐさ、伊予の周桑郡でも、卵草と併存してまた柴餅草という名がある。柴餅は五月節供の日に作る餅で、いわゆる亀の子ばらなどの葉に包んだ餡入の餅であるが、これなどはたしかによく熟した露草の実が、葉苞に包まれた形と似ている。ハナガラという名の起りもわからぬが分布は弘い。右に挙げた静岡県中部以外に、木曽でも伊勢でも遠く離れた山口大分の二県でも、露草をハナガラといい、東北は仙台以北、登米地方にかけて同じものをネコノハナガラと呼んでいる。ハナガラはあるいは飼牛の鼻に通す「鼻づら」または「鼻ぐり」というもののことでないかと思うが、この花の形がそれに似ているということはちょっと言えない。とにかくに少し変った形はしている。それで津軽の方へ行くと、これをまたネコノベベともいうのである。
帽子花という名は名古屋あたりに古くあり、今でも信州の南部には残っている。巾着花という名もこの地方にはある。それよりも一段奇抜なのは、名古屋と富山県の一部とで、露草をコウヤノオカタといっていることである。オカタは人の家の主婦のことで古い語である。紺屋の細君だからあのような好い色に、自由に染めて着られるという意味で、つまりこの花の色彩のすぐれて鮮かに美しいことをめでた言葉だから、これだけは小児のウイットには少しばかり荷が勝っている。近世染物の技術と材料が新たに普及した際に、最初に流行したのがこのコバルト系の色であったことは、記録や民謡に段々の証拠がある。あるいは日本人のもとから大好きで、しかも力の及ばなかった色だったかとも思う。長門の豊浦郡でつゆ草をハナガラまたはハナダ、豊後でもハナガラまたはアイクサ、信州の下伊那地方でもこれをエノグバナ、またはソメグサとも呼んでいる。歌にも詠まれたこの草の古い名にツキグサがある。字では月草とも書いて露草の露と対照させているが、事実は衣に摺附けることが出来るから附き草で、それ故にまたウツシグサとも呼ばれていたのである。今でも女の児がこの花の色を。紙に取って楽しむ遊びがある。すなわちつき草は特に附きやすい花だったのである。稚ない人たちの新しい名を好む癖は、この方面にも明かに現われている。例えば秋田市の附近から角館の辺へかけてダンブリ花またインキグサという名が既に行われている。この語がインキの田舎に入った時より、前からのものでないことは誰でも認めるだろうが、あるいは同じ科の中の「むらさきつゆくさ」がインキ花だという土地も北信などにはある。花の汁が紫インキのようだからというが(更級)、この新らしい外国産の草を、紙に染める遊戯があるか否かを私はまだ確めていない。
東京では「猫じゃらし」といっているえのころ草を、越後の西頸城郡ではネコソバエ、三河の東加茂郡でも同様に猫そばえといっている。ソバエルは猫でも子供でもふざけることで、この草の穂を取って板の間などでまわすと。猫が興味をもってじゃれつくからこの名が出来たのである。えのころ草の名も狗の子だからこれに近いように思われるが、こちらは戯れ遊ぶこととは関係なく、単にむくむくとした毛の様子が、子犬を聯想させるからそういったもので、泉州でイヌグサというのも同じに、むしろ漢名の狗尾草という方に命名の動機が一致している。子供の考案に成った地方名が、この草にも幾つかある。信州小県郡ではコロコログサ、九州の方にも肥前のイヌコロコロなどがあって、えのころ草という名のこれと同列のものであったことを思わしめる。コロコロは本来狗を喚ぶ言葉で、多分は「来よ」という語の改造であった。関東地方を始めとして、今でも雞を喚ぶのにコロコロという処は多い。そうして雞は痩ぎすであり、また引締まっているのだから、ころころしているからエノコロだと思うのは当らない。小児はいつでも人の喚ぶ言葉を聴いて、それを相手の名前だと思う傾きがあるから、すなわちこれもまた元は「犬来よ」であったことを察し得るのである。中国地方におけるえのころ草の方言を見ると、備前ではトートコ、備中はトートーボ、備後ではトートーグサ、周防にはまたトトコグサ、その他これに近い語が僅かずつの変化を以て行われ、そのトトコ等は、すべて皆小狗のことである。一方にはまた我々のいう猫柳、春さき銀色の柔かな毛で蔽われた若芽をつけて、それがまたやや猫か犬かの形に似ているものも、山陰その他のかなり弘い地域にわたって、これをトウトという者があり、あるいはまたカワラノコチコチなどという地方もある。名は殆と同じでも形はさほどえのころ草と似ていないが、これを小犬といっただけが両方に共通なのである。犬をトウトというわけはコロコロも同じだろうと私は思っている。雞を喚ぶ声にもトウトウというのを見てもわかるように、これは疾く疾くの音便であったのである。人に対しても「朝はとうから」とか、「とう行ってとう来い」とか、以前は疾うと柔らげて使うことが多かった。三つ四つの幼児をつれた親たちが、小犬にとうとうというのは自然なことで、それを聴いている者が彼はトウトと呼ばれるものと、解したのもまた異とするに足らず、トートコのコなども「来い」であったと思う。雞はトリだからトトというのだと心得ていると、魚の煮たのをもやはりトトというのである。これなどは早く下さいを小児がとうとうといったからで、魚の名の片言と見ることは出来ない。それから段々と明かになって来ることは、青森県の五戸附近では、えのころ草の名がハゴジャであって、次のような盆踊歌がかつては行われていた。
ことし始めて粟の草取ったけや
粟とハゴジャのわけ知らの(ぬ)
このハゴジャも中国のとうとうと同様に、「早うごじゃれ」を粗末にいった語で、すなわちこの地方では今はとにかく、前にはえのころをハゴジャと喚んでいたので、それがこの粟とよく似た草の名にもなったのかも知れない。ハグサという標準語は合理化とも考えられるが、この盆踊唄は無論恋の歌であり、これを歌ったのは少女よりも男たちだったかも知れぬが、とにかく彼等は忠実に小児の発明した適切なる草の名を、大人になってからまで守っていたのである。
常陸の筑波山下では、白頭翁即ち「おきなぐさ」を、男の児はヤマノフデといっていることが、横瀬夜雨君の随筆にも見えているが、新作であろうと思う。この草の花穂に水を含ませると、板塀などへ字が書けるというのは、無論小学校が出来てからの経験にちがいないからである。
それ以前の子供の遊びは、この花の長く垂れたしべを髪に結び、またはその形のままを髪の垂れた人に見立てて玩ぶことであった。
多くの地方名はこれから出ている。大体に色が灰白なので老人に見立てたものと、長くつやつやとしているので少年に擬した名と二通りあり、なお『本草啓蒙』や、『増補俚言集覧』によれば舞を舞う人の姿にたとえたものも元は多かった。たとえば、飛騨でモノグルイ、備中でもキツネコンコン、加賀・越中でオニゴロというのもこれであり、筑前その他でゼカイソウといったのは、疑いもなく能の是界坊から出ている。
富山の近傍でチゴノマイ、または訛ってチグルマイなどというのも、かつてそういう舞を、面白く見た者の聯想であろう。
信州の犀川水域では、今でも一般に白頭翁をチゴチゴと呼んでいるが、果してチゴが童児であることを、意識しているか否かは疑わしい。下水内郡ではこれを誤って、チンコロ花という処もあるのである。この名称の領分はもとは弘かったようである。たとえば水戸ではオチゴ花、下野ではチチコまたはカワラチゴ、仙台でもチチンコといっていたというが、今ではもう行われておらぬかも知れない。九州の方では薩摩でウネコ、豊後でオネゴ、肥後にはオナイコの名があって明かに「うない子」であるが、これもその意味が既に不明になって、福岡県などではネコバナ・ネコグサなどと猫だと思っている者も多くなっている。ちごが頭髪を「うない」にしていた時代は過ぎて年久しく、またそういう語も用いられなくなっている。カブロという語はこれに代って現われ、髪を切って頸のところまで垂れたものが皆カブロであったのが、後にはこれもある種類の童女だけの名になってしまい、普通の子供にはオカッパといい、またカンバともガンボウジともいうようになった。翁草をカブロという処が、伊賀にも木曽にもあったと『啓蒙』には見えているが、現在もそうであるか否かを知らない。諏訪郡の一部豊平村などでは、オッカブロウノチンゴンバという長い名で呼んでいるというが、チンゴンバは即ちチゴ花だから、これにまたオッカブロの語を添える必要は実はなかったのである。ガンボウジというのは、この地方では蒲公英の花の白くなったもののことで、同時に人の頭の散らし髪のことでもあるが、群馬県の方へ行くと、これがまた翁草の名として用いられているという。髪に見立てた動機は皆一つでも、古い命名の趣意が不明になると、やはり新らしいものを以てこれに置き換えようとするのである。
東北にも白頭翁の地方名は数多く出来ているが、ここでは奇妙にチゴ・ウナイゴにたとえたものがなく、全体に老人殊に老女に見立てた名が多い。旧南部領にはウバガシラとウバシラガというのと二つあって、姥白髪の方が印象は深いが、私は姥頭の方が舞の姿から出た名で、一つ古いもののように思っている。
『秋田植物方言』によれば、この地方にはまたウバケヤケヤ、もしくはただケヤケヤといっている村が多い。この草の葉に触れると痒くなるので、あるいはママコノシリヌグイともガモコワシという名があるから、ケヤケヤもまた痒い痒いの意だという人もあるが、この説はまだ十分に安全でない。あるいは何か今一つ古い名があって、それがこういう形で残っているのかも知れぬと思う。
青森県にも土地によってツブツケとかヤツレグサとか、なお二三の別系統の名が採集せられているが、大体に東北では老人に見立てたものが多く、チゴバナ・ウナイコという類の名が殆と行われていないのは、何か理由のあることのようである。あるいは児童の髪を切って垂らす風習が、この地方にはなかったのではないか。
そんなら婆さんのこんな頭をしたのが、特に奥羽の端々に多かったかというと、これはそうではなくしてむしろ姥頭というような姿で舞う舞に、印象の深いものがあったためかと想像している。そういう舞がもうなくなって、姥という名ばかりが記憶せられると、後には福島県の各地のように、カワババだの川原の伯母さんだのという名が、改めてまた考案せられるのであろう。
これとよく似た命名は支那で白頭翁、日本でも翁草などと、何人にも合点が行くから以前はあったかも知れぬが、現在は西の方には殆と残っていない。出雲の大原郡にはヤマンババというのがある。安芸ではジイガヒゲ、四国にはジョウドノという名が元はあったというが、今はどうであるか知らない。ジョウというのも老翁のことである。
しかし子供には名のおかしみよりも、遊びの楽しさの方が大きな魅力だったかと思う。茨城県の真壁地方では、女の児はこの草の花を実の入らぬ前に採って来て、毛を二つに分けてきれいに髪を結い、小さな赤い人形を着せる。それでオチゴカンバという語がなお残っている(『雪あかり』)。カンバもやはりカブロのことである。信州の北安曇郡では種子を集め丸めて手毬にする。それでチゴチゴ花・オッカブリの外にまたテンマリバナという新らしい名も出来ている(『郷土誌』巻三)。あるいはフデグサという名がここにもあるというが、ここでも多分小学校の子供が、これで板塀などに落書することが流行し出したのであろう。
二通りの全く反対な名の付け方が、殊に草の名については注意せられる。一方に非常に適切な、誰が聴いても笑いたくなるような名があるかと思うと、他の一方には意味もなくまちがえて使っている草の名も多い。この矛盾はまた児童の癖であろうと思う。即ち遊戯の興味の忘れ難いものは、いかなる名であっても覚え、名前の面白さを楽しみにしているものは、その方にのみ気を取られる。つまり淋しい昔の子供たちには、名を唱えるだけでも一つの遊戯であったのである。今度は前の方の例を一つ挙げて置きたい。
鳳仙花は近世に外国から入って来た草かと思われるのに、現在は全国栽えておらぬ土地もなく、その名前がまた非常に変化している。高知県の一部でホウカンショ、埼玉県の妻沼辺ではホシンカン、岩手県ではコウセンクヮあるいはコセンコというのは明かに片言であるが、秋田県の各地でエングヮンコまたはエングヮ、山形県に行くと荘内でも最上郡でも、共にレングヮと呼んでいるのは判らない。遠く離れて鹿児島県の種子島に、エングヮという名があるというのがもし事実ならば、何か今一つ輸入当時からの名があって、それが東北の一隅には伝っているのである。新潟県では『中越方言集』の記載によれば、鳳仙花をツマグレナイまたはホネノキと呼んでいる。ホネノキは骨抜きの意というが、それだけではまだ説明にならぬ。あるいはこの草の実が自然に弾けて、ひとりで飛んで出ることをヌゲルというのではないかと思う。四国では阿波の祖谷山でこの花をノギノギ、土佐でも東部の山村にはこの名があり、あるいはまたノギノ花ノギ流シともいっている。ノギというのは麦の芒のことで、この草の実の形が麦の穂に似ているからだと、説明しているがそれも信じられない。だからまた「脱げる」という動詞に基づいたノギではないかとも想像するのである。
鳳仙花の実がひとりで飛んで繁殖するということは、幼ない観察者にも珍らしい現象であったと思う。九州でも大分市の周囲で、この草をトビグサというのは明かにそれから出た名であり、別にまたトビシャク・トビシャ・トビシャゴなどという名称が、この県を中心に東は対岸の愛媛県、西は熊本県の西端まで流布している。天草島では旧暦六月三十日の夏越の行事に泳ぐ風習があるが、村によってはこの花と「かたばみ」の葉とを合せて石の上で搗き、その液を以て爪を染めてから海にはいり、あるいは棕櫚の葉に紅白のトビシャゴの花を貫いたものを、女の子などは頸に巻いて泳ぐという。即ち河童の害を防ぐまじないに、ひとりで実を飛ばすような有力な花を利用したらしいのである。この方言は不思議に分布が弘い。鹿児島ではトッシャゴまたはトッサゴ、南の境の宝島ではトビシッゴ、沖縄県でも本島はテインシャグ、またはチングサ、宮古島ではティンザク、八重山諸島ではキンジャク、与那国島ではキンタク、波照間島ではシンシャクで、いずれもたった一つだけを聴けば、飛草の変化であることはちょっと気がつかぬが、恐らく飛ぶという特徴以外に、今も天草島などで残っているような、美しくまた印象の深いまじないの方法といっしょに、持って渡った名称であろうと思う。東北では羽後の角館などに、この草をゴシャギトンコという名が独立してある。ゴセヤクは腹を立てること、ちょっと手を触れるとすぐに実が飛ぶのを、怒って飛ぶ者と呼んだので、これは西国の方とは無関係に、この土地限り思い付いたものらしい。
この花の紅い汁液で爪を染める風は、支那にも夙くあって長崎を経て入って来たというのは事実であろうが、日本に弘く行われたのも、少なくともただの真似ではなかった。こうして海に入れば水の物に捉られぬとか、または草の中をあるいても蛇に巻付かれぬとかいうことを、かつては信じて真剣に実行する者があったので、後には再びただ少年少女だけの、面白がってする遊びになったが、最初の分布にはもっと強力な動機があったものと思われる。この風習を元にした鳳仙花の地方名は二種あって、その一つはツマベニ、即ち爪紅である。土佐の西半分にはこれが多く、土地によって少しずつ変化してツマベリ・ツワベニ・ツワベリ・ツバメニ・ツバベニ・ツバメリからツバメー、またスバベリとさえいう処がある。今一つの方はツマグレナイ、この方は九州の一部にも行われ、また標準語としても認められているらしいが、余り上品過ぎるためか略してツマグレ、またツマグリソウという者も多く、山口県でも東方はツマグリソウ、西部はツマグレと呼んでいるが、九州は更にその分化が弘く、豊前ではツマグロ、豊後にはまたツマグラという土地もある。佐賀県ではツバメもしくはツバネ、肥前五島などもツバネであって、これはツマベニの方から分れたかとも見られるが、やはり中間に燕をツバクロという語を置いて考えると、後の方の系統のように見られる。もっと驚く変化は、奄美大島の古仁屋でダマクラ、名瀬でカマクラ、それからもう一つ変って隣の永良部島ではハマクラ、喜界島ではマンカとまでなっている。南の島々では鎌倉という語に、昔からなつかしい響があった。新たに海の外から入って来た花に、もしツマグラというような音があったら、これをカマクラの花と誤るのは自然であった。この島の民謡として今も記憶せられているものに、次のような一首がある。
カマクラぬ花や手のさきに染めろ
親のゆしごとや胸にそめろ
即ちこの島でもまた鳳仙花は爪を染める花として、娘たちに知られていたのである。鳳仙花という名をそのままに用いている土地でも、爪を染める子供遊びはまだ多く残っているが、これが成人の化粧でもあったという痕跡はもう見出し得ない。ただ富山県の中部でこの花をケイセバナ、島根県の西端でこれをビジンソウまたはミヤコワスレという名を存するを知るのみである。これ等はもちろん児童の命名でなくて、あるいはただ単に花の色のくれないが、鄙に稀なることをめでてつけたのかも知れぬ。
かやつり草は莎草などとも字に書いているが、どういう漢語が正しく当るかを知らない。一種なつかしい香があってこれを折取ると子供の日の記憶がよみがえって来る。茎が三角なので二人の児が申し合せて、前後ちがった側面から二つに裂くと、縁が繋がっていて四角な囲いが出来る。これを彼等は蚊帳を吊るといったのである。ちょうど初夏の、家では蚊帳を取出す頃なので、この名が印象深くきこえるのであるが、熊野ではこれをマスグサといっている。
広島県の東部でも桝草、播州にはまた桝割という名があり、山口県の瀬戸沿海でも桝割草といっている。割って桝の形になる草という意味で、桝が農家の児には親しみの多い器物であった以外に、我々にはなお二つのことが考えられる。一つは以前の大桝には対角に棒を張ったものが多くて、これが蚊帳よりも一段とこの草の割れ方に似ていたことである。今一つの事実は多くの子供は蚊帳を知らなかった。蚊をよける手段には蚊遣火は記録にも見えるが、蚊帳の今の形になって常民の家にも普及したのは、存外に近頃のことだったのである。
草の名としてはカヤツリグサの方が響きはよいが、物を知らなければ聴いても興味が少ない。しかも一部の児童はまだ蚊帳の中に寝ない時代から、既にこの語を覚えていたらしいのである。
国語の流伝にはもうよほど古くから二通りの様式があった。即ち体験をした言葉と、暗記をしなければならぬ言葉とで、今日の小学生等は原則としてその暗記の方を強いられているのである。言葉の意味が何の説明もなくて自然にわかる時代には、子供と国語とは今少し縁が深く、新らしい物の名はこうして草莽の間から生れていたのである。
名を付けるということそれ自身があるいは昔の子供の遊びのうちであったので、このように覚え切れないほどの新らしい名が、次から次へと出来たのではないかと思う。私などの郷里では畠に夏生える草の「すべりひゆ」を蛸草またはタコといっていた。これはあの草の茎の色とつやが、いかにもゆで章魚とよく似ているから誰にでも附けられる名だと自分なども思っていた。多分友だちの一人がそういい出したのだろう位に考えていた。後に大阪府でも奈良県でも、同じ言葉があることを聴いて、むしろ遠方の一致を珍らしく感じたことである。下総の利根川べりに来て見ると、子供は皆この草をヨッパライと呼んでいた。これは抜き棄てて少しの間置くと、茎の色が著しく赤くなるからの名で、やはり遊びながらでも自然に付けられるほど手軽な名だが、関東では他にもそういう土地が多いようである。一人が発明してそれが遠くへ運ばれたのでなく、そこでもここでも別々にそう呼ばずにはいられなかったのではないかと思う。とにかくにどんな子供にでも、気がつかずにはいられぬ色の変化であった。大和はタコグサの名がよく知られているが、宇都宮などではまたこれをアカゴンボ、もしくはアコナレゴンボともいっている者がある。赤うなれ赤うなれと唱えて待っていた児童の遊戯が想像せられる。あるいはタコというのも元はこの草の茎を水に浸けて、章魚をゆでるという遊びがあり、それを私たちがもう忘れているのかも知れない。
コンボは九州の北部、筑後の三池郡などで、メハリコンボというのがまた「すべりひゆ」のことである。ここにも以前は赤うなれゴンボという遊びがあったか、あるいは別にこの草をコンボという名が古くからあったか、いずれかでなければこの東西の一致はあり得ないと思う。メハリというのはこの茎を短く切って、それを瞼の上下にあてて目を張る戯れがあるからである。
私などの幼ない頃には石菖という草の穂を取って、これをつっぱりにして目を張り、よってまたこの植物をメハジキといっていた。大分別府の近くではメツッパリとも呼んでいる。何でもないことだがこれで目ばたきをせぬようになると、ちょっと変った顔に見えるのを興じたのである。
コンボは小坊でこの遊びとは多分関係がなく、新旧二つの名の結合と思われる。東北は一般に、小児がだだをこねることをゴンボホルといい、あるいは酔人が管を巻くことをもそういう処があり、後の方が古くからあったようである。
今でも牛蒡を掘るという感じで使われているが、事によったらこのゴンボは酔っぱらいのことであったかも知れない。南大和のアカゴンボという名称なども、それだとその起源が大よそはわかって来るのである。
底本:「野草雑記・野鳥雑記」岩波文庫、岩波書店
2011(平成23)年1月14日第1刷発行
底本の親本:「柳田國男全集 第十二巻」筑摩書房
1998(平成10)年
初出:野草雑記「短歌研究 第五巻第四号」改造社
1936(昭和11)年4月1日
蒲公英「ごぎやう 第九巻第二~五号」御形詩社
1930(昭和5)年2月5日~5月5日
虎杖及び土筆「民族 第三巻第五号」民族発行所
1928(昭和3)年7月1日
菫の方言など「地上楽園 第二巻第七号」大地舎
1927(昭和2)年7月1日
草の名と子供「愛育 第五巻第一~五号、第十号」恩賜財団愛育会
1939(昭和14)年1月1日~5月1日、10月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蒲公英」の初出時の表題は「野草雑記」です。
※「虎杖及び土筆」の初出時の表題は「虎杖及び土筆(方言の小研究 三)」です。
※「野草雑記・野鳥雑記」は1940(昭和15)年に甲鳥書林から柳田國男の装丁により出版されましたので、表題を「野草雑記・野鳥雑記」とし、副題を「野草雑記」としました。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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