蓮の花開く音を聽く事
南方熊楠




 昭和九年六月の本誌(ドルメン)三〇頁に「又四五十年前三好太郎氏話に、夏の早朝、大阪の城堭え、屡ば相場師が來て、水に臨んで喫烟し乍ら蓮の花の開くをまち、其音を聽て立去たと、其を聽て何にするかを聞なんだ、子細のある事か、識者の高教をまつ」と書置たが、一向高教は出なんだ。處ろが今(十一)月十五日弘前市の廣田博君より次の通知を受た。

愚生の母方の祖母から、幼時より聽ました事、其祖母は萬延元年の出生、七十歳で昭和四五年頃死亡、出生地は南津輕郡黒石町(津輕家の御分家の居城地)です。

一、蓮の開花の音を聽ば、蓮の臺に上る事が出來る。即ち、死後地嶽へ墮ちず、成佛ができると言傳へられ、又

一、それを聞ば必ず、其人一代の開運は必定であると申し居ました。仍て愚生達も少年時代迄は、此地津輕公の、現に公園と成居る鷹場園の壕や、市内革秀寺池の蓮花の開くを見、且つ聞きに、早朝夜も碌に明ぬ内から出掛て往た者で、目下はどうかよく知ませぬが、愚生の幼時迄は、其を視聽する人達で、濠も池も一抔だつた事は、絶對間違ひのない事實で有ました。で有ますから、愚見を述ますと、相場師などには、持てこいのお呪で、縁起をかつぐので無かと推察しますが、死だ老祖母から聽た事は、必ず記臆違ひなく、確信して居ます。下略。

(次便に上原敬二著、風景雜記七四頁にも記載ありとあれども其詳を得ず)。

 是は予に在ては未聞を聞た者で、深く廣田君の厚意を謝し奉る。付ては聊か最寄りの事共を書付て同君等の參考に供えんに

 先づ王文公は、蓮華得日光乃開敷といひ、李白は日照新妝水底明、葉夢得は曉日初開露未晞、申時行は、木榭臨文漪、晨曦出暘谷、宛彼蕖花、嫣然媚初旭とも妝凝朝日麗とも詠じ、葉受の君子「蓮」傳には、君子不時見、毎盛夏、東日方興、振衣起立と作つた。かく蓮花と旭日を組合せた句が多いから、其咲く時の音を聽た紀事を搜したが、支那書に一寸見當らぬ(埤雅一七。廣群芳譜二九と三〇。古今圖書集成、草木典九六)。

 ド・ヹールの言に、白蓮花は旭日と倶に開き、日沒と同じく閉づと。古埃及の旭神ネフェル・テムは、毎朝蓮花より出たといひ、印度の日神スリアは紅蓮に坐して、神母はテキ各々蓮花を持て蓮に坐するなど、みな此譯によると見る。(Frind.‘Flowers and Flower Lore' 1884, vol. ⅰ, p. 350; Budge,‘The God of the Egyptians' 1904, vol. ⅰ, pp 520, 521; Wilkins,‘Hindu Mythology’, 3rd impression, 1913, p. 33)かく日出時に、蓮花咲くと知た民は、同時にそれが音を發するを事をも知り居た筈だ。古今圖書集成、草木典九八に、武城縣志、蓮花池在洪苑中、人傳爲積水窪也、昔忽生蓮花、後暮夜遇雨、人過之聞其香、又聞𫂙々之聲、故名とある。

 正字通にも康〓(「煕」の「れんが」に代えて「心」)字典にも、𫂙は密茂貌、元稹連昌宮辭風動落花紅𫂙々とみゆれど、爰の𫂙は蔌の誤字か。是は風聲勁疾之貌、鮑昭蕪城賦、蔌々風威と出づ。この蓮花池はとドブ溜だつたが、雨夜忽ち蓮花が生じ香を放ち、又、其葉や莖を風が吹く聲を聞たと云ので、決して花が開く音を指たでなく、集成同卷に、青州府志、蓮花池在玉交里中、莽蕩無際、青萍環覆、紅碧交加、蓮蕊爭勝、爛漫如霞、然乍有乍沒、兆沂之盛衰、或疑其有靈氣云と云ると等しく云はゞ蓮の幽靈だ。



 去る昭和三年十二月卅一日夜、予、日高郡妹尾に在て、大雨中に十八町ばかり山中を歩む内、深谷に臨んだ道側の雜木が、忽ち悉く滿開せる梅林と化け、一天微雲だになく月さえ渡つた。暫らく歩を駐めて觀れば依然として大雨中にあり。歩み出すと復た月夜の梅林が現じた。宿に著て直樣其事を詳記したのを平沼大三郎氏に送り、今に保存し貰ひある。人間の記臆はどれ程正しく續く者かを他日檢査する爲めにだ。深山に住で精神異變を起し、こんな目に幾度も逢た自分は、武城縣志や青州府志の記事を虚談とは決して思はぬ。

 然し古今圖書集成同卷に花史、宋元嘉六年、賈道子行荊上、見芙蓉方發、取遷家、聞花有一レ聲、尋得舍利、白如眞珠、焔照梁棟、とあるは、咲く時で無て、咲た後に聲を出したので、それが舍利感得の予告とは甚だ怪しく、更に怪しきは、杜陽雜編より引た一話で、云く、元載造蕓輝堂於私弟、蕓輝之前有池、悉以文石砌、其岸中有碧芙蓉、香潔、菡萏(蓮花の事)偉於常者、載因暇日、憑欄以觀、忽聞歌聲、響若十四五子唱焉、其曲則玉樹後庭花也、載驚異、莫所在、及審聽一レ之、乃芙蓉中也、俯而視之、聞喘息之音、載惡之既甚、遂剖其花、一無見、即祕之、不人説、及載受一レ戮、而逸奴爲平盧軍卒故得其實と。

 其次には蓮花から美女が出て、毎度士人と交會した話を此夢瑣言より引おる。是には唱歌の事はないが、其女と相狎れ、別莊を幽會の所と爲たとあれば、定めて死にます〳〵なんてうなつただらう。由て蓮花が此怪音を出したと假定して爰に列しおく。

 正字通申集上、蓮の字の條に、白居易忠州木蓮詩序云、予遊臨卭白鶴山寺、佛殿前有兩株、高數丈、葉堅厚如桂、中夏發花如芙蕖、香亦酷似、花拆時有聲。花開く時、聲ある由を明記した例は是ばかりだ。

 本邦のモクレンゲも、花さく時音を出すか知らぬ。老女其頃年も二八か二九からぬ娘だつたが、其父毎旦早く起て、蓮花の開く音を聞きに出で、これを聞くと氣がさつぱりすると悦んだ。自分も二度隨ひ往たが、蓮が多いから曉方に開く音がパッパッと連發し、城壁に響いて著しく聞えたと言た。早起して靜かな隍邊え通ふと、自然養生法にもかなひ、心神爽快を覺えたのだ。そこえ御定りの蓮は諸佛の座で、極樂の花と幼時より浸潤しをるから、難有くもうれしくも感じて、自然之を聞ば屹度成佛するの、開運必然のといふ俗信を生じたと考へる。



 扨、時計や晴雨計を持たぬ所では、草木を觀察して時や天氣を察知した例多し。朝顏・晝顏・夕顏等、其名の如く其時に開き、西洋でもオシロイ花を、開く時に因んで、四時(フオワ・オークロック)と呼ぶ。蒲公英(タンポポ)は、本邦で朝開き午以後萎むといふが、歐洲では、毎朝五時に開き午後八時に閉るから牧童の時計とし、又、晴雨計たり。晴天に其種子の毛が展開し、雨天には閉ぢ合ふからだ。アネモネの花瓣、亦雨や夜の前に捲上つて睡る。ルリハコベは雨近付ば必ず花を閉ぢ、午後二時頃定つて花萎むから、英國の古諺に、其徳聞き盡し難く、述べ盡す可らずと云ひ、貧者の晴雨計と俗稱さる。(Frind. op. cit vol. ⅰ, pp. 232, 337, 338; 和漢三才圖會、一〇二、Folkard,‘Plant Lore, Legends and Lyrics,’ 1884, pp. 309, 494)

 明治卅五─卅七年の間だ、予、那智山に住だ内、屡ばコアカソ(方言ガニクサ)の葉は、夕五時に凋れ垂るときゝ、試みると略ぼ然りだつた。ざつとこんな理窟で、知らぬ昔しは蓮花の開くを見て、時刻や天候を察したのが、相場師に傳はり、其祕訣が忘られ、或は悉く信ぜられぬに迨んだ後も、相場師は、信心連同樣、靜かな城堭や池塘に早起して往き、蓮花の開く音を聞き乍ら心を澄し、落ち著て種々の奇計神策を煉た事と察する。



 終りに一言するは、古來朱門を蓮花に准えた事で、例えば佛説祕密相經下に、

 爾時、世尊大毗盧遮那如來、讃金剛手菩薩摩訶薩言、善哉善哉金剛手、汝今當知、彼金剛杵住蓮花上者、爲利樂廣大饒益施作諸佛最勝樂、是故於彼清淨蓮華之中、而金剛杵住於其上、乃入彼中、發起金剛眞實持誦、然後彼金剛及彼蓮華二事相撃、成就二種清淨乳相一謂金剛乳相、二謂蓮華乳相、於二相中生一大菩薩善妙之相、次復出生一大菩薩猛惡之相、菩薩所現二種相者、但爲調伏利益一切衆生、由此出生一切賢聖、成就一切殊勝事業などとあつて、最後に

 世尊大毗盧遮那如來即説偈曰、快哉妙樂無首上、諸有正士應當修、今此祕密妙法門、有罪染者不受、祕密蓮華此無上、金剛嬉戯即彼法、金剛蓮華教亦然、總攝毗盧遮那智

 とある。上文に據ば金剛嬉戯は和合出生之義だそうな。歐人中には邦俗春蘭の花を陰陽結合した物と見てヂイサン、バアサンと唱ふる如き考えで、蓮華を以て陰陽和合の像と見る説もある。(e, g.. Westropp and Wake,‘Ancient Symbol Worship’, New York, 1875, p. 73)然し上に引た經説もあり、蓮華が陰唇裏に花心を見する状を呈すれば、その陰相たるに止まり、陽相を兼具せざるは明白だ。



 蓮花を陰相とするに就て、まだまだ述べき事多きも、紙數限り有ば之を略し、聊かこの人身の蓮花の開く聲を聞く民俗に就て説かう。

 蓋し西洋でも、處女膜を處女花と唱え、醫法學上破素行爲を破花と呼ぶ。(Ellis,‘Studies in the Psychology of Sex’ vol. ⅴ, 138 Phila., 1927)

 之を聽た記事は、先づ、日本靈異記中に、聖武天皇の御世、大和國十市郡菴地村の大富人鏡作連の女、萬之子てふ美人が人に嫁ぐ、其夜閨内有音而言痛哉三遍、父母聞之、相談曰、未效而痛、忍猶寐矣、明曉其女の母、戸を叩けど答へず、開きみれば、頭と一指の外はみな食れ有たと出づ。

 初婚に新婦が痛哉と呼ぶは、萬里同風で、笑林廣記一に

 一秀士新娶、夜分就寢、問於新婦曰、吾欲雲雨、不知娘子尊意允否、新人曰、官人從心所一レ欲、士曰、既蒙府允、請娘子股開肱、學生無禮、又無禮矣、及及、新婦曰、痛哉痛哉、秀士曰、徐々而進之、渾身泰矣

 と、同書三に

 有寡婦人而索重聘、媒曰、再瞧與初婚不同、誰肯此高價、婦曰、我還是處子、未曾破一レ身、媒曰、眼見嫁過人做孤孀、那箇肯信、婦曰、我寔不相瞞、先夫陽具渺少、故外面半截、雖則重婚、裡邊其寔箇處子。

 と。實際破膜せずに事を了し、甚しきは姙娠するもある由(Ellis, ut supr., p. 139)。こんな女は擧事の際、半分痛むと言んか。



 牡丹奇縁は小説乍ら、其第十回、魏玉卿が學生中、隣家の美人卞非雲にほれ、合格授職の後、その依然處子たるを娶る敍事に、明朝時代の新婚祕俗を精寫しある故、手當り次第、相似た諸國の事例と駢べて寫し出そう。

云く。

 玉卿便把双手、抱腰忙扶上綉榻衣之際、見燭火明亮、只見得皓體呈輝並無毫毛點云々。

玉卿は曾て卞家の婢を頼んで、非雲の裸浴を覗いた事あるから、粗ぼ其樣子を知り居た筈だが、埃及の回徒に在ては、新婚の夜、新夫が新婦の顏を初めて見る直前、顏見せ料若干錢を渡し、さて否がるのを強て其顏を露はし視て「神樣辱けない、今夜お目出たう」と祝うと、新婦もお目出たうと祝う。さて壻が嫁の衣を剥ぎ、襦袢裸にして其下部を展げ、其上で行なふのだ。(Lane,‘The Modern Egyptians, 1860,’ Everyman's Library ed., p. 177)

大和物語に、内舍人なりける人、大三輪の御幣使に大和國に下り、井手邊で、美しい女兒が抱れて一行をみるを認めて、呼寄せみると末恐ろしい尤物だつたから、ゆめ異男し給ふな我に會ひ給へ、大になり給はん程に參りこんと、一件の豫約し、之を形見にし給へとて、帶を解て取せ、其兒の帶を取て去た。女兒は其時六七歳だつたが、其事を忘れず、男は多情の者ですぐ忘れ了つた。爾來七八年して其女兒十四五歳になり、昨今の紅葉然と色付てきた時、其男復た同じ役目で、同じ所に宿つたとまで有て、跡は蝱が尻に留つた如く、闕文とは殘念だ。

然し南方大士、龍猛直傳の神通もて洞知するに此女は昔の約束を忘れず、男の帶を後世大事と肌に卷き、其一端を彼處に插込みをり、君ならずして誰か解べきと、摺り付けられて男も氣が付き、慾火難禁一丈高、直ちに其帶を解て一儀に及ばんとしたが、前年取去た女の帶を示さぬ内は、雨風吹けどもまだ解ぬ〳〵ナンテ一首よんだと云ふ樣な咄で有たらう。コイツは餘りアテに成ぬが、や似た事が古羅馬に在て、新夫が新婦と營生するには、必ず先づ新婦の帶を極めて解け難く結んだ、所謂ヘルクレス結びを解き果すを要した。今もアンヂラでは(と知た振で書くものの地圖を搜してもどこか分らず)侍女が新婦の下紐を小六かしく結んだ七つの節を解かぬ内は、いくらあせつても新夫が幹事し初め得ぬ(Wester marck,‘The History of Human Marriage,’ 5th ed., 1925, vol. ⅱ, p. 465)

此時玉卿蕩魂意迷、耐不住、云々、非雲哀聲喚痛、𩬡髮倶鬆、云々。

初婚に新婦が痛と喚ぶは萬里同風なるは上に述た。鬆は髮亂と康熙字典に出づ。爰には非雲が新夫に抗して髮亂れたとしたらしいが、外骨氏説に、本邦古畫に亂髮の女が露身せるは、之を下敷きにして行ふた體多しと、有たと記臆す。モロッコの諸部族、多くは新婦亂髮で帶なしに新夫の室に來り、スラヴ諸民も亦新婦は髮を亂し、波蘭の或部分では新夫が新婦の編髮を解くといふ(Westermarck, upi supra)

非雲掙出一身冷汗、氣力已竭、云々。

法苑珠林九二に、晉の武都の太守李仲文、在都中十八歳の娘死せるを假葬した、後ち仲文官をやめ、張世之が代つた、其子字は子長、年二十、侍徒在厩中夢一女(仲文の死女)年可十七八、顏色不常、自言前府君女、不幸早亡、會今當更生、心相愛樂、故來相就、如此五六夕、忽然晝見、衣服薫香殊絶、遂爲夫妻寢息、衣皆有汗如處女とある。處女が新枕の節、全身に汗をかく者か。此事を續南方隨筆七八頁に記したのを見て、北京大學の誰かゞ、オレイクワモスてふ戯號で、汗で無て汙だ、破素の出血で衣がみな汙れた事だと示された。然し、恐悕して破身の際一身より冷汗を出すは、牡丹奇縁の記事にもあり、源語源氏が紫の上と新枕の條にも「思ひの外に心うくこそおはしけれな、人もいかに怪しと思ふらんとて、御衣を引やり給へば、汗に押浸して額髮もいたうぬれ給へり」と有ば、汗とみる方宜しからうと思ふ。

明治廿二年、米國ミンガン州アナバー市で、松平康國氏に聽たは、岡本保孝極貧乍ら藏書甚だ富り(一旦家計迫つて止むを得ず書籍只一箱を賣たと云から、其では何の足しにも成まじ、何程の價の物ぞと問ふと、たつた千兩との答えに、聞た人仰天した、常に傘を吊下げ雨洩りを禦いで讀書したと。此事逸聞らしいから、忘れぬ内に書留めおく)。其著難波二に狹衣物語卷一上、うとましかりつるかしらつきに慣つらんかしと思へば、猶心つき無れど云々、物きたなく、疑はしかりつる祷りの師の、心清きも見顯はしては(是は狹衣大將の御意に、初には飛鳥井姫君を疑ひて、威儀師に親しく慣れつらんと思したるが、左には非りけりと思しうる事の有し也)。

取替ばや物語卷四、いかなりける事ぞと、なま心おとりもしぬべき事ぞまじりたるや、大臣のあながちにもて離れ、有ぬ樣にもてなしゝも斯てなりけり云々。むげに淺墓なる若き人達などにや有むと、口惜けれど(是は帝の内侍督に忍びて遇給へる時に、世慣て有しを思しわく事の有と、かく思しめす也)とある。(西鶴の武道傳來記六の二に、天正中伊豫の合戰に討死した人の幼女を護つて東都に立退た忠臣が七十餘歳になり、二八ばかりに成長した故主の娘は諸人の執心うたてく、表て向き夫婦同樣に暮し居た。一夜、身に誤りのなき事は後日に相知るゝ御事なり。……此美女御寵愛のうち、なほ〳〵身の曇を去て、月の都の只中に住玉ひぬとある。後日に相知るゝ御事、又御枕のうち身の曇り去るとは處女膜が彼の御ン事に御寵愛の其夕べまで嚴存せしを指たのだ)。

皮想の見解の輩は、處女膜の存否を、男を知たか否の試金石の如く主張するが、既に支那の小説金瓶梅二五回にも、女兒が鞦韆より滑つて、板に一件をすり付け損じた、後ち人に嫁がしむると、是は素女でないとて逐歸された話あり。種々の怪我と病氣又幼少より指を入て洗ふ爲に、早く此膜を失ふ事多く、又膜の性質により度々交會しても破れざるあり。甚しきは姙娠せるに膜全たきも、一双の朱唇萬客嘗る遊女で、膜破れぬもある(Tardieu, Etude Médicolégale sur les Attentats aux Mœurs Pars, 1859, pp. 52─58; Ellis, op. cit vol. ⅴ, p. 139)

故に處女膜の存否は、曾て男と關係した、しないを證明せず。西諺に、空を飛ぶ鷲と、岩を這ふ蛇と、大海を渡る船と、男が入れた此四つの跡は知れ難いとは十分の道理あり(Mouchot,‘Dictionnaire de l'Amour,’ Troyes, 1811, p. 21)

大迦葉尊者妙賢女を娶り、共に清淨行を修むる事十二年、迦葉佛弟子と爲て妙賢は無衣外道に歸し、其端正無比なるが故に、五百無衣外道に犯さる。後ち迦葉、妙賢が王舍城に來るに逢ひ、其容貌の變れるをみて、既に破素されたと知た(Schieffiner,‘Tibetan Tales,’ 1906, p. 203)

好色五人女一の三に、清十郎、女共が獅子舞見に、立去た幕の内でお夏と戯れた後ち、一同伴て姫路に歸る、「思ひなしか、はやお夏腰付き扁たくなりぬ」とあるが、五百人にもしられたら、姿で分るは知れた事、お夏は「其年十六まで、男の色好で、今も定まる縁もなし」とあるから、其時まで素女だつたか、甚だ疑はしく、腰付き扁たく成たは、幕の内での早業に疲れてか、破素された徴候か、判然せぬ。凡て素女を識るの法、煩はしきまで世に傳ふるが、多くは奇怪で實行難く、要は甲斐でみるより駿河一番、額髮もいたうぬれる程なら、先は素女と推尊して可なりと惟ふ。

玉卿亦覺忍耐不一レ住。便即披靡而泄矣、取出羅帕之、只見猩紅亂點、遂呼侍婢之笥匣、原來此晩、他二人叙話、至雲雨之際、了音婉娘小玉(玉卿の三妾)倶在房外、窺听前々後々、無聽説、云々。

明治十二年頃、紀州日高郡の一村に住だ予の從兄が、二里程距つた村より妻を迎へた。當日午後、予の叔父が、他數人を率ひ、嫁を伴ひ、くだんの村え來る途上、諸村の男女老若道側に待受け、爭うて嫁の顏に近付き、覗き、騷きが烈しくて、叔父は殆んど死ぬる思ひをなしたと語つた。それは其でよいとして、さて、其夜お定りの床盃がすみ、彌よ嫁御が死ぬる段に成て、叔父がや遠方から偵がふと、怪しむべし、新夫婦のみ籠つた新築の離れ屋の、ぐるりの石垣に、幾らともなく横さらふ角鹿の蟹樣の物が取付き這廻る。近く往てみると、其村は勿論、小山を一里ばかり越た他村の者共迄、其離れ屋を取卷き耳を側立て、屋内の音を聽くので、慓悍な輩は小川を渉り、石垣を攀ぢ付て爭ひ聽き、交る〳〵下り歸つて、今の息は長かつた、是からどうするらしいと、俟ち構えた群衆に報じ誇る、中には六十過た老人も少なく無つたと、叔父が予に語つた。

又、那賀那の某村に「山吹も巴もみえぬ木曾路哉」てふ、山吹にも劣らぬ勇婦が有た。それが嫁入た當夜、擧村聽きに往くと、久しく闃として聲無つたが、初夜過る頃、新婦の聲が明月と共に澄み渡つて、ハーヱーと聽え、さて曉近く成る迄も一聲を聞ず。多分くだんの嬌音と倶に寢入て了つたらしいとの噂、それより其女をハーヱーの某樣と崇め、新婦の典型と仰がれ居た。ハーは心の眞底から出る感動詞、ヱーは善いの義、あら嬉しや、うましをとこに遇ひぬなど長く言ず、夜の九時に及んだ駒鳥の如く、ただ一聲して輒ち已だは、勇婦の最期ぞ潔よき。話休饒舌、廣文庫二册に屠龍工隨筆を引て云く、犬張子には汚穢の物を入るゝ事とも云ひ、諸禮者流には、小さき小袖などを入て、兒の守り也と云て、取とめたる説も無きに、彼の火酢芹命の御子孫、隼人等、御垣を守りて狗吠するより事發りて、内裏には狛犬据られ、后宮御方にも、又こま犬のある事、清少納言が記し、夫れに隨ひて、狗の顏したる張子を翫びと出來たるを、女の方に傳えて、嬌めきたる翫具となりし。又幼き兒に、紅晴を付るを犬の子といひ、兒の泣くを犬の子〳〵とてすかすも、其心ばへ成べしと。是では混雜千萬で何の事か分らず。「類聚名物考」には溺器の樣記しあれど、陶製の物有たと聞ぬ。日本百科大辭典を見るに、同じ犬張子の名で異製異用の者が種々有たらしい。大英博物館に在た日、張子製に金銀泥や碧朱燦爛と彩色した物有て、書籍を調べても何の用に宛たか判らず。書上げに困んだ所え、津田三郎氏(海軍大佐、日露戰爭前に伯林で客死す)が來り、ダカラ學者は世間に通ぜぬ、是は新婚の夜、「シルシ」の血を拭ふた紙を入れおき、翌日、父母舅姑が、蓋を取て檢視する物だと教えられたので、ンナール程とへこたれ、それから又、例の東西の諸例を引合せて、出來るだけ長文を認め、大分お禮を受た。近年まで紀州串本港では、漆器の匣を婚夜、新婦と倶に壻方え屆けおき、翌朝壻方より返し來るを、嫁の母が檢して、安心又は心配する習ひだつた。所謂「われたのがお里え響くおめでたさ」だ。「女用訓蒙圖彙」上には、犬張子一双を雛道具の次に圖す。雛遊はと女子に、成人後、人の妻たり、母たる道を學ばしめた戯れ(骨董集上編下前。日次紀事、三月三日の條。昔々物語合考)、故に新婚の當夜迄、素女たりしを證するに必要な犬張子を其道具中に入れたのを女兒共に問れて白地あからさまに説明し難く、守りの厭勝のと種々牽強したので、之を犬形にしたは、辟邪の爲たる事、舊説通りだらう。牝牡二匹を置くは、壻が吾れ嫁を破素したといふに、嫁はされなんだと云爭ふ樣な時、檢證の爲に、双方の身を拭うた物を、各別に收め置くを必要としたに因る。佛説にも、比丘有て入舍衞城、次行乞食、至一家、有一女人、語比丘言、作是事來、答言我比丘法、不是事、女人言、若不是事者、我當自傷破身、大喚言比丘強牽我行欲、云々とある(Tardicu, op. cit., p.52; 摩訶僧祇律二四)。(古今圖書集成。禮儀典三六、牲理三書圖解、男女初婚今俗人家女之母同入房、以果酒禮壻、而用素帛一幅置之壻袖中謂之交親、壻拜受之、厥明以驗女之貞潔其則有傳示於人者、今江淮多用之、雖士大夫亦有所不能變者蓋淪於塵俗而莫之覺也、其爲可噌甚矣、寧不有玷於風教乎、とあるが此書の出來た以前に此物の記事は無い物にや)。



 此の明俗紀事と對照する爲に、埃及回教徒の新婚紀事を譯出せう。

 先づ、若嫁が、十目の透視し得ざる覆面を被つて、供人に衞られ、町内の重立た處々を練り歩く。其間だ、供人は盛裝喧噪して珍妙に唄ひ踊り續ける。漸く一行が壻の門に著くと、家内の人々迎えて、嫁を覆面の儘慇懃に座敷に導くと、婚式は濟み乍ら「まだ顏もみず摩羅の待ちだて」とよみ出さうな壻が待ちをる。座敷の眞ん中には、善盡し美盡したる寢牀あり。父母又は其位に當る人々が、嫁を寢牀の中央に直立せしめ、外面嚴格、内心怡悦の壻がいと鹿爪らしく嫁の覆面を除く。凡て回徒はよく感情を押えて露はさゞる故、初めて嫁の顏をみても、滿足したとも、失望したとも、本人外には識れ難い。この覆面取り除けの際、壻と嫁の外に座敷にあるは、嫁の兄弟と父のみだ。さて、各の引退き、戸を閉た後ち、其役目の刀自が來て、指もて手際よく嫁の素を破り、布に其血を受て、其婦徳に過ち無りしを壻に示す。時として、壻が刀自に信頼せず、自ら之を行ふ事あり。其場合には、嫁の近親、乃ち其父母と、既に嫁入た姊妹が婚室の戸外に在て、事の成行きを案じまち、少しの聲だに遁さじと、耳を聳だて菊の花とくる。嫁が泣出すと、母や姊妹は之を勇め、父や兄弟は叱り咎むる。作業遲々たる時は、是等の隱れた見物人が、壻を難じ、嫁の母、臆面もなく室に侵入して、世話をやくに及ぶ。さて彌よ事終れば、壻揚々として血染の布を示し、めでたい〳〵と祝を受け、一同安心して新夫婦を共棲せしむとある。上埃及では、新夫が舅に、新婦は素女でないと告ると、舅は新婦を殺し、其屍をニル河に投入る。アラブ人は最多く、經行未だ到らざるに婚姻す。九歳十歳の女は、刀自之を破り、十三歳の女は壻に破らる。コンスタンチノプルでは、新夫其得手物で新婦を破素す。但し、男精と女血の混ずるを忌むにより、刀自二人男の側にあり、事畢るに臨み、男を曳き退け外に泄さしむと。十六世紀まで、西班牙では、新婦の血染の布を、窓より公示し、その素女たりし由を高聲に廣告した(〔Combes, Voyage en E'gypte, etc., Paris, 1846, pp. 60─63; Godard,‘E'gypte et Palestine,’ Paris, 1867, p. 83; Brantome, ‘Les Dames Galantes,’ les discours〕)

 古羅馬人は新婚の直前と翌旦新婦の頸を同じ糸で卷き試み、其周りが變らねば、此女は曾て破素された者と知り、頸が夜の内に太く成て糸が足ねば、昨夜まで素女だつたと判じ、其糸をヴエヌ女神に献じ、又血付の布をも献じた。

 印度では、婚夜の翌旦、所謂歡喜衣を衆に示して一同祝ひ、トウゴ國のフオ人は、婚夜の翌旦、夜前用ひし褥を新妻の母に贈り、血點無れば、舅姑が姦夫を探り出すを要し、南米のユラカラ人は、新婚の血衣を誇りかに持ち廻る等々、種々の例多けれど、大抵似た者だから、是だけで止める(Meyer,‘Sexual Life in Ancient India,’ 1930. vol. ⅰ, p. 43)。一々書添てゐないが、血を檢する例は、多く開花の音を聽く風と伴うた者だらう。

 最後に尤も無類の珍談といふは、南宋の洪邁の夷堅丁志十五に、晁端揆居京師、悦里中少婦流眄寄情、未能諧偶、婦忽乘夜來挽衣求共被、晁大喜、未明索去、留之、不可、曰如是得無畏家人知乎、既去、 褥間餘血涴迹亦莫知所以、然越三日過其間聞哭聲扣隣人曰、少婦因産而死今三日矣、晁掩涕而歸。

 女はよくウソをいふが、死にます〳〵と言はず、是ぞ眞實際は死ぬる序に血を出して、新婚氣分で悦ばせやらんと、今はのきわに男の情に報いたる、合理化的の捨て物利用、うれしいとも氣の毒とも思ふた事だらう。

(ドルメン、昭和十年一月、第四卷第一號)

底本:「南方熊楠全集第六卷 〔文集〕」乾元社

   1952(昭和27)年430日発行

初出:「ドルメン 第四卷第一號」

   1935(昭和10)年1

※誤植を疑った箇所を、「南方熊楠全集 第五巻」平凡社、1972(昭和47)年1124日発行の表記で確認しました。

入力:小林繁雄

校正:フクポー

2017年1124日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。