詛言に就て
南方熊楠
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人類學雜誌二九卷十二號四九五─七頁に誓言(英語で Swearing)の事を述べたが、爰には詛言(英語で Curse)に就て少しく述よう。
詛言とは他人が凶事に遭へと、自分が望む由罵り言ふので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ」などいふのがそれだ。今日何の氣もなくそんな語を吐く人が有る樣だが、實は甚だ宜しくない。英米に最も盛んなゴッデム(神汝を罪す)又、デム何某(罰當りの何某)などは嚴戒の神名を呼ぶ上に、詛を兼ねた者故、極めて聞苦しい。是も彼方で幼年から口癖になつて止められぬ人が多いらしい。然し往古は詛言は必ず詛する人の望み通りの凶事を詛はれた者に生ぜしむると信じ隨つて甚だ詛言を悕れた。例せば古事記に天若日子、葦原中國に到て下照比賣を娶り、八年に至るまで復奏せず。雉名鳴女、天神の命を奉じ視に往しを天若日子射殺し、其矢天の安河の河原に達す。之を檢して高木神言く、是は天若日子に賜ひし矢也と。即ち諸神に示し、今此矢を返し下さんに、若し天花日子命を違えず惡神を射し矢の來つるならば此矢彼れに中らじ。若し彼れ邪心あらば此矢に麻賀禮と言て、矢の穴から其矢を返すと天若日子の胸に中つて死んだと有る。
本居宣長言く「先づ萬づの吉善を直と云に對ひて萬の凶惡を麻賀と云ふ。故に御祓の段に禍(まが)と書けり。扨其は體言なるを用言にして麻賀流と云ふ。物の形の曲るも其中の一也。さればまがれと云ふは、言は凶くなれと云ふ事にて言は乃ち死ぬと云ふ也。(麻賀禮即ち今の「くたばれ」だ。)書紀には其時天神乃取レ矢而呪レ之曰、若以二惡心一射者、則天稚彦必當レ遭レ害云々、此當レ遭レ害を「まじごれなむ」と訓るは、御門祭詞に天能麻我都比登云神乃言武惡事爾相麻自許理云々と有るに同じ。上に呪曰と有る呪は字書に詛也と有る意にて、俗に所謂麻自那布なれば麻自許流はまじなはるゝ也。凶くまじなふを俗言にまじくると云も是也。さればかの當遭害と此の麻賀禮とは言は別なれども末は一つの意に落めり。故に當遭害と書かれたる字は麻賀禮に能く當れり」(古事記傳十三)。
又書紀卷二に、天津彦火瓊々杵尊、大山祇神の女木花開耶姫の美貌を見初め召れしに、大山祇其二女姉妹を進む。皇孫姉の方は醜くしとて妹木花開耶姫のみ幸し、一夜で孕ませ玉ひしかば姉磐長姫大慙而詛レ之曰、假使天孫不レ斥レ妾而御者、生兒永壽、有レ如二磐石之常存一、今既不レ然、唯弟獨見レ御、故其兒必如二木花之移落一、一云、磐長姫耻恨而唾二泣之一曰、顯見蒼生者、如二木花之俄遷轉一、當二衰去一矣、此世人短折之縁也、古事記には此時大山祇神、長女が納れられざりしを恥ぢて詛うたので、今に至るまで天皇命等の御命長くまさゞる也と有る。
伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男、天の逆手を拍て呪ふ事見ゆ。本居氏説に、上古は呪を行ふに吉事凶事共に天の逆手を打つたが、伊勢物語の頃は人を詛ふのみに用ひたらしいと(古事記傳十四)。
上古の呪ひには斯る作法も種々有ただらうが、追々作法を廢して口計りで詛言を吐く事と成たは、同じ物語に、昔し男、宮の中にて或る御達の局の前を渡りけるに、何の仇にか思ひけん、よしや草葉のならんさが見んと云ければ、男「罪もなき人をうけひば忘れ草おのが上にぞおふと云なる、」是は一話一言十八に、童部の誓言に、大誓文齒腐れ、親の頭に松三本と云るは、頭に松を生ずる事には非じ、墓の木の拱せるを云るなるべしと有る如く、自死し墓の上に忘れ草が茂れと詛ふためだろ、忘れ草を墓に栽ゑた話は今昔物語三一に出づ。
それから大分後、建長四年に成た十訓抄第七に、「太宰大貳高遠の物へおはしける道に、女房車をやりて過ける、牛飼童の、詛ひ言しけるを聞て、彼車を止めて尋ね聞ければ、或殿上人の車を女房達の借て物詣でしけるが約束の程過て道の遠くなるを腹立つなりけり、大貳言れけるは、女房に車貸す程の人なれば、主はよも左樣の情無き事は思はれじ、己れが不當にこそ迚、牛飼をば縛らせて主の許へ遣けり云々」。是は今日歐米の車夫などが客を侮り辱めて詛言する如く、吾邦にも中世下等人は動もすれば輕々しく詛言した證でも有れば、又歐米と等しく其頃は詛言者を犯罪として縛り罰し得た徴でも有る。
印度にも古く詛言を太く怖れたは、根本説一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王が苦母怖勸めにより釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截しめた時、佛其因縁を説て、迦葉佛の世に此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ、足を截られよと罵詈したので、無量歳の間地獄で燒れ、後人間に生れても五百生中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて呉れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分る。
十九世紀にも、印度人が瞋れば怖しい詛言を吐く風盛んだと(Dubois,‘Hindu Manners,’ Oxford, 1897)に見え、古印度仙人の咀言の如何に怖るべき者なりしは、西域記五に、大樹仙人、梵授王の諸女の美に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに仙人其不妍を見、怒て便はち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王、當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。
支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛ストハ、言フレ怨ムヲレ上ヲ也、子罕曰ク、宋國區々トシテ、有リレ詛有ルハレ呪、亂之本也、康熙字典に、書無逸を引て、民否レハ則チ厥心違怨シ、否レハ則チ厥口詛祝ス、是等は惡政に堪ざる民が、爲政者を詛ふので、詩に出シ二此三物ヲ一、以テ詛フレ爾ヲ斯、また晏子曰ク、祝ハ有ルレ益也、詛モ亦有リレ損、雖モ二其ノ善ク祝スト一、豈勝タン二億兆人之詛フ者ニ一とも有る。范文子使メ二祝宗ヲシテ祈ラ一レ死ヲ、曰ク愛スルレ我ヲ者ハ惟タ呪ヘレ我ヲ、使下我ヲシテ速ニ死シ、無カラ上レ及ブ二於難ニ一、范氏之福也、是は死ねと詛はれて速に死なんと望んだのだ。
古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よリダリウスの時迄も石碑に銘詞を鐫て墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder,‘The Rise of Man,’ 1908, pp. 174─175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起に癭を生ず。是は其地の河水を飮むからで、井水を用る者は此病無し。古傳にサレー・ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人、其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒て此所の民毎に此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin,‘Through Asia,’ 1898, vol. ⅱ, p. 728)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に毎夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず、時に一阿羅漢有り來て之を拜せしを、住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脱れ去るに蒞み彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢即ち消えて見えず。彼人、城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと、七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く、是は昔全盛だつた市街が沙漠と成つたに附會した佛説で、其原話は元魏譯雜寶藏經八に、優陀羨王の子軍王立て、父出家したるを弑し、佛法を信ぜず。遊びに出た歸路、迦旃延が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉する者、後に至つて土を除く。尊者言く、却後七日、天、土を雨して、土山、城内に滿ち、王及び人民皆な覆滅せんと。大臣之を王に白し、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て、天、香花珍寶衣服を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡縁有る者善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く鐵關下り、逃るゝに地無し。天便ち土を雨らし、彼大臣一人の外悉く堙滅さると出づ。
E. Pierotti,‘Customs and Traditions of Palestine,’ 1864, pp. 79─80 に、豫言者エリアスがカメルン山を通つた時、渇して瓜畑の番人に瓜一つ乞ふと是は石なりとて與へず。エリアス彼に、石と云つた瓜は石に成るぞと云つて去つた。爾後其邊の瓜皆石となつた。又、死海近所にアブラハム池有り。底に石灰質の結晶充滿す。是はアブラハム一日此所に來り鹽を求めると住民鹽無しと詐る。アブラハム瞋つて此後此地よりヘブロンへ道絶え鹽全く無く成るべしと詛ふたが、果して道絶え鹽は食ひ得ぬ物に成たと有る(郷土研究一の十一、予の「石芋」參照)。
是等何れも現存の人や物を詛ふたのだが、回教には死んだ人を詛ふのが有る。波斯人は毎歳マホメットの外孫フッサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら詛言を吐く(Viaggi di Pietro della Valle Brighton, 1843, vol. ⅰ, p. 556)。蓋し回教にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フッサインを正統の回主とするに、土耳其、亞非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す。因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波人、惡人を訕るに彼はオマーだなどと言ひ、祈祷の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベックルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin,‘Voyage en Perse, ed. Langlis,’ 1811, tom. ⅸ, p. 36)。
印度のトダ人水牛の牧場を移す式に、司僧の助手童を詛ひ、次に忽其詛を除く事有り。一寸爰に述べ得ぬから、Rivers,‘The Todas,’1906, p. 140. に就て讀め。同書一九四─六頁にクヲテンの妻、パールデンと通じ夫を愛せぬ故、クヲテン怒て奸夫を殺さん迚逐ひ廻るを見て、クヲテンの母パールデン、荊棘に鈎られて留まれと詛ふと、果して棘に留められた所をクヲテンが殺した。パールデンと同村の住民クヲテンを懼れ皆立退き老夫婦一對のみ殘る。クヲテン襲ひ來るを見て詛ふと、クヲテンは蜂に螫殺され、其從類は石と成たと有る。スマトラのバッタス族は子を生ぬのは他人に詛はれた故と信じ、所謂詛ひを飛去しむる式を行ふ。先づ子無き女、「ばつた」三疋、牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆる者を神として牲を献じ、扨燕一羽を放つと同時に詛ひが其燕に移つて鳥と共に飛去しめよと祈るのだ。(Frazer,‘The Golden Bough,’ 1890, vol. ⅱ, p. 150)。
南洋ヂューク・オブ・ヨーク島の人は邪視を怕れぬが、詛言は破詛者に禍ひすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、屡ば重病を受く。因て一人、他人を犯し、續いて數兒を亡ふ時は、必定彼者に詛はれたと察し、其人に聞合せ、果して然らば其詛を取消し下されと哀願す。彼輩は其所有の樹園で果蔬を盜む者を捕ふも怒らず、「お前はよい事をした。たんとお持ち下さい」と挨拶す。然るに自分の不在中に盜まるゝと、大に瞋つて樹一本切り又椰子一顆打破る。是は盜人を詛ふのだといふ(Geo. Brown,‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264)。
中央メラネシアの或島民は、人殺に往く前に自分の守護鬼の名を援て敵手を詛ふ。ヂューク・オブ・ヨーク島で有力家を葬るに、呪師來つて樹葉に唾吐き、數多の毒物と倶に墓穴に投じ死人を詛殺せし者を高聲に詛ひ、一たび去て浴し返つて復た詛ふ。彼者從ひ第一詛を受ずとも第二詛必ず能く彼を殺すと信じ、老覡敵を詛ふに其の父や兄弟の魂を喚び、敵の眼耳口を塞いで、庚申さんの猴其儘、見も聞きも叫びも出來ざらしめて容易く詛はれ死なしむ(Frazer,‘The Belief in Immortality,’ vol. ⅰ, pp. 370─4, 403, 1913)。東歐洲に有りと信ぜらるゝ吸血鬼は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペヂア・ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)。從つて葬式の誄に子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は印度のと同じく人を詛ふ時、其人の後に灰を撤く。又詛害を除く水を調へ之を詛うた者に飮せ、若くは其戸前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正後年基督教を退き回教に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して堀り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を頼み、僧主官許を得て、今は回教僧だが昔取つた杵柄と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存つた。
又、十五世紀にコンスタンチノブルの最初サルタン珍事を好む、基督教の大僧正に詛はれた者は地も其尸を壞らず。數千年經るも太鼓の如く膨れ色黒くて存するが、詛ひ一たび取消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻妖麗他に優れ淫縱度無かつたので門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれて居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出て見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン、人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂内に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと、尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歴て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督教の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott,‘Macedonian Folklore,’ 1903, pp. 195, 211, 212, 226)。
古今著聞集卷八に、多情の女、葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黄色油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る。「好色の道罪深き事なれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督教と反對に吾が佛教では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。
グリンムの獨逸童話篇に、父が水汲に往た子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛去つたと有り。Kirby,‘The Hero of Esthonia,’ 1895, vol. ⅱ, p. 45. seqq. にエストニアの勇士カレヴヰデ醉て、鍜工の子を殺し、鍜工恨んで前刻カレヴヰデに與へた名刀を援て彼を詛ふと、後年果して其刀で兩膝以下を截られて此の世を去たと出づ。羅馬法皇ジャン廿一世の時、サキソン國の不信心の輩、一法師の持る尊像を禮せず。法師之を詛ひしより彼輩一年の間踊りて少しも輟得なんだ(Henri Estienne,‘Appologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879, tom. ⅱ, p. 79)。北ウヱールスのデムビシャヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛はんと欲する者、少しの金を捧げると、其女被詛者の名を簿に註し、其名を呼乍ら、留針一本井に落すと詛ひが利いた(Gomme,‘Ethnology in Folklore,’ 1892, p. 87)。リグヴヱダには、梟痛く鳴くを聞く者、死と死の神を詛うべしと有り。ラーマーヤナムには、梵援王、肉と魚を瞿曇仙人に捧げ、仙人瞋つて王を詛ひ、鵰と化す譚有り。以上の諸例を稽へて、昔重大だつた呪詛術が今日輕々しく發する詛言と成つたと知るべし。
底本:「南方熊楠全集第六卷 〔文集Ⅱ〕」乾元社
1952(昭和27)年4月30日発行
初出:「人類學雜誌 第參拾卷第四號」
1915(大正4)年4月25日発行
入力:小林繁雄
校正:フクポー
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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