四郎と口笛
牧野信一




 四郎は、つい此の間から、何時といふことなしに口笛が吹けるようになつた。どうしてそれが吹けるようになつたか? 自分にも気がつかなかつた。

「またお前は口笛を吹いてゐる。勉強しながら口笛なんて吹くものぢやありません。」と、四郎は母から叱られた。

 なる程四郎は、机の前に坐つて、宿題の算術をやつてゐるところだつた。──四郎は、母の声を耳にすると同時に、ハツと気づいて、思はず手の平で口をおさへた。

「アツ、しまつた。」と、彼は思つた。問題を考へてゐるうちに、うつかり吹いてしまつたのだつた。──もう吹かないぞ──と、四郎は自分を叱るやうに呟いて、再び鉛筆を走らせた。

「甲乙二人の旅人あり。甲は一日に十二里、乙は一日に……」と、問題を読んで行くうちに、四郎の眼の前には、真直ぐな街道が浮んだ。片方は鬱蒼たる木々が茂つてゐる。片方は崖で、崖の下にはさらさらと音をたてゝ小川が流れてゐた。一人の旅人が木々を見あげたり、小川を見下したりしながら、その一筋道をコツ〳〵と歩いてゐた。──四郎の頭に、ふつとそんな光景が浮んだのである。云ふまでもなく算術の問題の「旅人」といふ言葉に引かされて、思ひついた想像だつた。

 四郎はこの光景を想ひながら、旅人の歩みに伴れて、だんだんに回転して来る風景や、旅人の心持などを想像した。

 四郎にはいつもさうした悪い癖があつた。それからそれへ、いろいろと絵のやうな空想をたくましうするといふ──悪い癖だつた。だから四郎は算術が一番不得意だつた。「数」といふことを染々と考へるといふことが出来なかつた。その代り絵は好きだつた。そして得意だつた。──算術の場合には悪い癖でも絵の場合には、好い癖になるわけだ。そこまでは四郎にも考へることが出来たが、ではこの癖は、一体ほんとうに悪いのかしら、それとも好いのかしらと考へると、分らなくなるのだつた。

 今四郎は、机に向つて算術の問題を考へてゐるところだつた。それなのに、考はいつの間にか、とんでもないところへ走つてゐた。

「これは確かに好くない。算術の場合には算術だけを考へなければならないんだ、そんなことは分りきつたことぢやないか。」──と、四郎は自分で強く自分を叱つた。──何だか笑ひ出したいやうな気持になつた。すると、またうつかり口笛を吹きさうになつた。



「四郎さん遊ばないか?」と、隣の賢太郎が庭から声をかけた。

「あツ、僕はさつきから遊びに行きたいと思つてゐたのだつた。」と四郎は気づいた。

「四郎は今勉強してゐるんですよ。」

 四郎が返事をしやうと思つてゐた矢先に母が云つた。四郎は口惜しかつた。

「それぢやまた後で遊ばうね。」と云ひながら、賢太郎は行つてしまつた。四郎は寂しかつた。直ぐに賢太郎の後を追つかけて行かうかしらとも思つた。

「四郎、勉強は未だすまないの?」と、隣の部屋からまた母が声をかけた。四郎は、もう少しで、「もうおしまひです。」と云つてしまふ処だつた。もうとても勉強なんかしてゐる気はしなかつたが、未だ宿題が半分もすんでゐないので、仕方がなく、

「えゝ、もう少し……」と答へた。

「勉強が済んでから遊びにお出かけね。」

「えゝ。」と、四郎はふしようぶしように答へた。

 かうなると、一層四郎は勉強が手につかなかつた。賢太郎達はどんなことをして遊んでゐるだらうか? 学校の運動場へ行つてテニスをやつてるだらうか? ……そんなことばかりが考へられた。自分も遊びに行きたいのなら、余計なことは考へずに一心に算術を片づけたらよからう……といふことは分つてゐるのだが、分れば分る程気持の方が先走りしてしまつて、却つて無茶苦茶な気持になるばかりだつた。

「こんなことでは駄目だ。」と思つて、四郎は鉛筆を置いて頬杖して、窓から庭を眺めた。庭の木々には、金色の光が一面にふりそゝいでゐた。その間を蜻蛉が、居睡でもしながら舞うてゐるやうに、静かに動いてゐた。

「また口笛を吹いてゐるね!」と母が云つた。四郎の胸はドキツと鳴つた。そして慌てゝ鉛筆を執つた──四郎は焦れつたくて涙ぐましくなつた。



「四郎さんテニスをやりに行かないか?」

 又庭からそんな声がした。山下平三郎といふ学校の友達だつた。四郎は、今度は、母から云はれない先に、

「僕、未だ宿題をやつて居るから、後で遊ばう。」と、鼻にかゝつた声で云つた。

「未だできないの。のろまだなア。」

「だつて僕今始めたばかしなんだもの。」と、四郎はうつかりかう云つて、隣室に居る母を思つて一寸ギクリとした。

「あんなやさしい問題すぐできるぢやないか。」

「やさしさうだね。」と、四郎は負け惜しみで平気さうに云つた。

「分らないところがあるんなら教へてやらうか?」

「いゝよ。」と四郎はきつぱり断つた。──断るには断つたが、いつになつたらやりきれるか? と思ふと、四郎は堪らなくぢり〳〵した。

「ぢやね、終つたら来給へね。僕達学校の運動場へ行つて遊んでるから。」と云ひ棄てゝ平三郎は駆け出して行つた。四郎はその足音に耳を傾けながら、うつとりとした眼をあげて空を見あげた。空は一点の雲もなく、蒼々と澄みわたつてゐた。──四郎は、溜息をついた。

「四郎!」と、また母の声がした。

「未だお終ひにならないの? 大分一所懸命だね。」

「…………」

 四郎は、再び眼を「問題」の上に落した。──微風が、そつと忍んで来て、四郎の机の上を撫でゝ行つた。窓の敷居にしほから蜻蛉が一匹舞うて来て翼を休めた。蜻蛉の影がくつきりと切り抜いたやうに鮮やかに映つてゐた。蜻蛉はその大きな眼玉をギヨロツと動かせたそれなり、身動きもせず休んでゐた。何か心配なことでも考へてゐるのぢやないかしら? と思はれた位、静かに蜻蛉は休んでゐた。

 四郎は、自分の顔をそつと蜻蛉の眼玉の近くに寄せて見た。蜻蛉の青い、西洋人のやうな眼玉は、鏡のやうに光つてゐて、何かこまかいものがキラキラと美しく映つてゐた。

 四郎は何も彼も忘れたやうな気持になつて、一心に蜻蛉をみつめてゐた。蜻蛉の翼は銀色に輝き、胴体は精巧な塗物のやうにピカピカと光つてゐた。そして見るからに神経質な脚が、微かに震えてゐるらしかつた。

 四郎は、毎日見慣れた蜻蛉であるが、こんなに細かく見たのは始めてのやうに思はれた。さう思つてなほも眼を凝して眺めると、今迄少しも気づかなかつた蜻蛉の様々な細かい点が、幾つも〳〵発見された。──四郎は、そつと唇をとんがらせて息を吹きかけた。すると蜻蛉の翼には夕凪の微風を浴びた様に静かな微動が漂うた。まさか人間が息を吹きかけてゐるのではあるまい。それにしても快い涼風だ……とでも思つてゐるらしく、蜻蛉は平気な顔をしてゐた。──四郎は、息の力をだんだんに強めた。さうしてゆくと知らぬ間に、口笛が鳴つてしまつた。

 蜻蛉は驚いて飛び去つた。四郎はがつかりした気もしたが、同時にわけもなく可笑しくなつた。──四郎の心は、いつか空の様にすつかりと晴れてゐた。四郎は思はず胸を張つて、朗らかに口笛を吹いた。

「お終ひになつたの?」と母が云つた。

「えゝ、もう直ぐお終ひです。」と四郎は晴れやかな声で答へた。訳もなく爽やかな気持が心の底から泉のやうに噴きあがつて来るのだつた。──余計な事ばかり考へてゐた。なアに斯んなもの一ト息だ──と四郎は呟いた。その通りに彼の胸には力がこもつてゐた。そして四郎はさらさらと鉛筆を運ばせた。心の儘に問題が片づいて行く快さを染々と覚えた。

 庭の木の蔭から、四郎の口笛のやうに涼しい風が吹き込んで来た。──それから十分もたゝぬ間に、四郎はすつかり宿題を片づけてしまつた。そして遊びに出かける時に始めて快活な唱歌を口笛で口吟みながら、ラケツトを抱へて門を駆けて出た。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房

   2002(平成14)年820日初版第1

底本の親本:「少年 第二四一号(九月号)」時事新報社

   1923(大正12)年88日発行

初出:「少年 第二四一号(九月号)」時事新報社

   1923(大正12)年88日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年56日作成

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