眠い一日
牧野信一
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「電灯を点けて煙草を喫かす、喫ひ終ると再び灯りを消してスツポリと夜着を頭から引き被る──真暗だ。彼は、眼を視開いてゐた。……云ふまでもなく、何も考へてゐない。眠り度い! と希ふ心は、とうに麻痺してゐる。……時計の音ばかりが、イヤに勢急に響いて来る、──一寸快よいやうな気もする。──間もなく彼は、また慌てゝ灯りを点ける……。一種特別な疲れを覚えて、また指の先が煙草へ触れる……」
「眠い一日」といふ小説の冒頭に、彼は斯う書いた。まだ続く。──「全く同じ動作を何辺か繰返してゐるうちに、雨戸の隙間から蒼白い明りが滲み込むだのに気付くと、彼はホツとして、その勢ひで起きあがる。さうして、努めて静かに一枚だけ雨戸をあける。──外気は未だ夜と明方との間を彷徨して、煙つてゐる。彼は、えがらつぽい唾気を庭先へ吐き飛ばすと、再び寝床へもぐつて、両眼をパツチリと視張つた儘、障子の明るいところを眺めてゐる。其処は、水底のやうにぼんやりと明るいだけで硝子越には何も見えない。──そのうちに、恰度この明方の静かな曙光に似た軽い疲労が何処からともなく湧き出して、つい彼が気附かぬ間に眠りがやんわりと愚かな意識を覆つて了ふ……これで彼は、他合もなくぐつすりと眠つて、午過ぎになつて漸く目を醒ます。だから彼が、夜眠れないのは当然なのだつた。」
「君の、「眠い一日」ツてやつ読んだよ。」鶴村は、斯う云つたぎり容易に次の言葉を続けやうとしなかつた。彼は、直ぐに鶴村の沈黙のうちに軽蔑の意が含まれてゐるのを悟つた。「相変らず、とでも云ひたいやうなものだね。」鶴村は、電灯の球に煙草の煙を吹きかけてゐた。
「初めの二枚ばかり、厭だね。全体に調子が甘い。──殊に書き出しの甘さッたらない、歯が浮いたよ。それから、第一主題が、恰であそびだ。魂に触れる何物もないぢやないか。何らの象徴がない。……憧憬もない、と云つてまた倦怠のメランコリアもない。ただ君の例の、蒼白い心の戦慄とでも云つたやうな詩的な気分は軽い調子で割合に好く出てゐたよ。」鶴村が此処で一寸言葉を絶やすと、安価な感情の持主であるところの彼は、もう、一寸浮ついた心持に変つて有りがたさうに、腕組をした。
「……(未だ画を写し出さないのみか、灯りの鈍い幻灯のやうな明るさが、ほとほとと濃度を増して、やがて小さな庭木の数々が海底の藻のやうに浮び出した。)と、いふあたりは一寸うまいよ。君は、仲々叙景は巧だね。」鶴村は、それで反つて軽蔑的に云つたつもりなのだが、彼はそれには気づかず、「フヽン。」と、ワザと恥しさうに笑つた。
「だが──」と鶴村は彼の悟りの悪いのに焦れた、「銀のナイフでトンカツを喰ふかたちだね。ハッハッハ。」
鶴村は、バーナード・ショウの如き名評を降したつもりだつたが、頭の鈍い彼には、その言葉の意味が解らなかつた、得体の知れないことを云ふ奴だ、と思つた。
「ドストイエフスキーは、刑場に引かれる時その足に繋がれた鎖の重味に一種の快感を覚えたと云つてゐるが……そこだ、そこ迄ゆかなくつては駄目だ、つまりわれ〳〵の……」
鶴村は、突然声を高めて斯んなことを云ひはじめたが、さすがに彼も、鶴村の言葉が無稽な興奮に過ぎないやうに思はれて来て、退屈になつた。
彼が、小説「眠い一日」を書いてから既に春は去つて夏となつてゐたが、未だ彼の「病気」(「眠い一日」の中に書いたところの、夜と昼とが全く転換してゐるといふこと。)は治らなかつた。
「同じやうにこの朝も、一枚明けた戸の間から流れ込んだ光がぼつと障子の一部を水色に染め出したあたりを眺めてゐた。……たつた一本ではあるが、前の日あたりに満開したものか? 今迄彼は気づかずにゐた、その桜の花が目醒しく、その白さを描いてゐる。
「雪のやうだ。」と彼は思つた。
彼は、夥しい空腹を覚えてゐるが(大概その辺で眠つて了ふのが常だつたが)、朝飯まで保たせたいものだなどゝ思ひながら桜の花を眺めてゐるうちに、珍らしくもこの朝はその儘持ち堪へて、朝の食膳に坐ることが出来たのだつた。」──それから彼が、眠さのあまりに不思議な一日を送るといふのが小説「眠い一日」だつた。
「眠い一日」を東京で書いてから間もなく彼は、Oといふ海辺の町の家に来て暮すようになつた。
ある朝はやく彼は、縁側にしやがんで泉水の鯉を眺めてゐた。眠られないが儘に起きて了つたので頭は恰で無いものゝやうだつた。──恰度斯ういふ朝を、時折経験することをヒントにして「眠い一日」などゝ云ふ幼稚な物語りを創作したことを思ひ出して、彼は恥しさの余り苦笑した。さうして、自分の創作する場合の感情は、いつでも悪い意味での感傷に趨つてしまふことを顧みて、「とても書くことなんて駄目だ。」などゝ思つた。……斯んなことを考へてゐるうちに、階段を昇つて来るやうな眠気が、タッタッと迫つて来て、最少しで彼は、縁側から転がり落ちるところだつた。
「お前のは神経衰弱だとか何とか云つたつて、それは朝ひとなみにキチンと起きて朝のうちにちつとばかしその辺を運動でもして来るようにでもすれば直ぐに治つて了ふのさ。昼間あんなにグッスリ、恰で性体もなく眠るんだもの、あれで夜も眠れゝば返つて病人だ。」稀に彼が加はつた朝の食卓で、彼の母は云つた。彼もさうは思つてゐた。何もしないで具合が悪いもので神経衰弱だなどゝ、決して他人には云はない妙なことを云つて置いたが、実際彼はそんなセンシブルな人間ではなかつた。その癖相手が母だと、
「それはまアさうに違ひないが、然し健康でないことは確かだ。だつて一晩や二晩徹夜したつて翌日一日位ゐ平気で我慢出来たものなんだが、それが此頃では如何しても出来ないんですよ。どんなに頑張らうと力むでも頭が先に倒れて了ふんだから仕末に終へない。我慢が出来ないといふことは、それだけでもう確に……」病気だ、と云はうとして、余り言ひたい放題なことを喋舌てゐるのが自分ながらをかしくなつた。だが彼は、それよりも何よりも飯の方がうまくて堪らず、ハツハツと野蛮な息を吹きかけながら熱い飯を頬張つたり、味噌汁を啜つたりしてゐる方に大方の心を奪はれてゐた。
「だから今日はこれで一日無理にも辛棒して御覧よ。一日我慢すればそれで屹度調子よく治つてしまふから──」
このことは彼も、随分以前から心掛けてゐることだつた。で、
「辛棒したいものだ。」などゝ答へたものゝ、だんだんに満腹して来るに伴れて、彼は未だ茶碗や箸を忙しく動かしてゐるにも係はらずさう云ふ傍からもう眼蓋が大変に重くなつて来た。
「お前、斎藤さんへ行つて来ないか。お繁ちやんが帰つてゐるもので、此間から何辺も迎へに来るんだがお午前なのでいつもお前は寝てゐるので──」
「そいつは御免だ。」彼は慌てゝ答へると「あゝ、もうほんとうに堪まらなくなつて来たぞ。」などゝ云ひながら、此間うちから遊びに来てゐる従妹達と弟の方を向いて「ホーラ!」と仰山に眼を閉ぢて見せたりした。無論じやうだんにやつたのだが、さうやるとバカに快よくてその儘ほんとに眠つて了ひたかつた。彼は、二三辺コクリ〳〵と頭を垂れて子供達を笑はせたが、それは全くの徒らとも云へなかつた。
「行つておいでよ。またそんなところで愚図々々してゐると眠つて了ふぜ。」
「えゝ。だけど……」斎藤の家へ行くのは面白くない、この眠気を醒す為ならもつと何か面白い目醒しいことがありさうなものだ……彼の眠い頭は、巻の切れかゝつたゼンマイのやうに、何ら目当のないことを漫然と想つてゐた。
「だからよ、愚図々々してゐないで、一日位の辛棒他合ひもないぢやないかね。」
いくら子の為めだとは云へ、それぢやあんまり虫がよすぎる、なんぼ繁代だつてイヽ面の皮だ……そんなことを考へて、彼は苦笑した。
「さアさア、折角起きたんだから……」なほもそんな声が響いたが、もう彼にはそれが誰の声だか明り解らない程だつた。彼は、ウト〳〵する心持から引戻されたのを口惜しがつて、
「起きたつてつたつて、昨夜からまんじりともしないんだもの……堪まりやアしない。」などゝ今更のやうにそんなことを云つて、何かわけの解らない小言を口のうえでブツ〳〵呟いてゐた。そのうちに子供達も食事を終つて立つて行つた。
「もう少したつて具合がよかつたら出掛けて見ることにしよう。」彼も、立ちあがりながらさう云つたが、到底そんな勇気は出さうもなかつた。
「そんなことを云つてゐたひには無論駄目だ。」と云つた母の声を後に聞いた時彼は、軽い敵愾心を起したのには、自分ながらをかしかつた。──縁側の日向には、彼の蒲団ばかりがものものしく干してあつた。それを見ると彼は、軽い落胆と、反感と冷笑とからセヽラ笑ひを洩らした。──彼は、蒲団の上に寝転んで、晴れ渡つた空を見あげた。空は、全く水色に映えてゐた。何処かの一点に何かムラがありはしまいか? 彼は、そんなやうな(確にやうなであつた。寧ろ無心にと云つた方が妥当である。)気がして愚しい眼を視張つた。が、空は全く好く晴れてゐた。
「眠いのなほつて。」従妹達の一番姉である光子が、早く海へ行きたいな! と云ひながら彼の傍へ来て訊ねた。彼は、眠くて口を利くのすら面倒だつた。
「とても──」
その傍で、光子の妹の綾子と彼の弟とが何か絵本らしいものを見てゐた。
「綾ちやん、この絵は好いね。」と彼の弟が云つた。
「好いわね。活動写真見たいだね。」
弟は、本を差あげて楽隊の真似をした。
「どれどれ、どんなんだい。」と彼は、向き直つて見ると「何だ、そんなものか。つまらないや。」と云つた。彼は、割合に真面目な失望を覚えた。欧洲戦争の写真帖らしかつた。
「何だつて!」弟は、憤つた真似をして、彼の脊中へのしかゝつた。彼は、
「よし、そんなら角力を取らうか。」と云つた。
弟は、綾子達が見てゐるので、大いに調子づいて「うん、取らう負けるもんか。」と云ふがいなや彼の胸ぐらへ飛びついた。此室はいろんなものがあつて危いから向方へ行かう、と云ひながら彼が弟を抱へて座敷へ行くと綾子も光子も伴いて来た。
ウヽン! と叫んで弟は彼に突き掛つた。
「何ツくそ!」彼も仰山な掛声をして故意に荒ツぽく脚を踏み鳴らした。さうして、組みついて来る弟を抱き絞めてグルグル振り回したり、倒しかけて又引き起したりしながら、煽てる為に「此奴は却々強いぞ。うツかりすると負けさうだ。」などゝ云つた。
一日中斯んな風にして騒いでゐたら、或はこの眠気に打ち勝てるかも知れない──彼は、そんな事を考へながら、ワザと弟の脚がらみに掛つて「ヤッ!」と叫んで投げられた。さうして柔道の受身を用ひて、素晴しい音響をたてた。だが、それで余り勢ひをつけ過ぎたのでイヤと云ふ程畳に脊中を打ちつけて、思はず彼は「ウッ!」と唸つた。その刹那の彼の表情が余程真に迫つて、滑稽だつたに違ひない、弟は一寸テレた。光子達が噴き出した。彼は、具合が悪かつたので慌てゝ立ちあがつたが、首が何処かへ飛んで仕舞つたかのやうに身体がフラフラした。弟は、彼が起きあがつたのを見とゞけてから初めてにやにや笑ひ出しながら「どうだ強いだらう。」と、意張つた格好で大股に歩くと、床の間に腰を降ろして汗を拭いた。
「今度は綾ちやん来い。」実はもう角力を取るのは厭だつたが、一寸白けた其場の空気を取り戻す為に、虚勢を張つて彼は云ひ放つた。
「厭ァよ。」綾子は、光子の袖の中に隠れた。
「柔道を教へてやるんだよ。女だつて柔道を知なければ駄目だぞ。」
厭がる綾子を無理に引き捕へて座敷の真中に突ッ立たせると、彼はまた「ヤァ!」と太い掛声をして綾子の両肩を握つた。腕は斯う延して脚は斯う運ぶのだ、などゝ出たらめな講釈をしながら、今度は気をつけて二三回投げられた。
「三人柔道だ。」弟は、さう云ふが否や綾子と共々彼に飛掛つた。よしきたッ! 一寸待て、と云つて彼は肌脱ぎになつた。さうして上向けに大の字になつて「俺が起きられないやうに圧へつけたら其方が勝だ。」と云つた。彼は、疲れたので斯う云ふ方法を思ひついたのだつた。──彼達は、上になつたり下になつたりして大格闘を演じた。彼は、二人の顔にかはりばんこに食ひついたり、咽喉を絞めたり、鼻を捻ツたり……すると、二人も夢中になつて彼の髪の毛を挘つたり、耳を引ツ張ツたり、裾がまくれて露はになつた臀を蹴り飛ばしたりした。──到頭彼の拳固が弟の鼻に衝つて、弟は泣き出した。彼は、襖を蹴破つて穴をあけた。
「小さい者を遊ばせるんなら、そのつもりで何とか静かにして為になることゝか、面白い本でも聞かしてやるのが当り前なのに──何てエ馬鹿だらう。」手拭に包んだ氷で、弟の鼻を冷しながら、母親は小言を云つてゐた。彼が、着物の前を掻き合せながら、
「どれ俺が、ひとつ見てやらう。」と云ふと、弟は「厭だ〳〵、もう兄さんとは遊ぶもんか。」と恨めしさうに叫んだ。
「ほんとうだ。」と、母親も云つた。
「なァにこれ位ゐの運動をしないと、到底眠気が醒めさうもないんだ。」
「馬鹿な。」と母は云つたものゝ、彼がさう云ふことを努めてゐるのを察したものゝやうに、思はず淋し気な笑ひを浮べた。
誰も相手になる者がなくなつたので、彼はまた縁側の蒲団の上に転がつた。弟は、いつの間にか裏の空地へ行つて友達とベースボールを初めたらしくワイ〳〵といふ声が聞えた。仲間に入れて貰はうか、と思つたが到底承知して呉れさうもないので、あきらめた。光子と綾子はおとなしくオルガンを弾いてゐるので、其方へ行く気もしなかつた。
「またそんなことをしてゐると眠くなつて了ふぜ。」さう云ふ母の声で喫驚りした彼は、
「大丈夫!」と頓狂な声を出して起き上つたが、いくらかうとうとしたらしかつた。恰度其時斎藤の女中がまた彼を迎へに来た。
「ぢや直ぐに行きます。」彼は、うつかりさう云つて了つてハツとした。母の方を見ると母は横を向いて笑つてゐた。
斎藤へ行つても、到底当り前の会話は出来さうには思へなかつた。自分の口から滑り出る言葉は、人形の腹を圧して鳴らす音みたいなもので、決してそれに正当な意識が伴ひさうには思へなかつた。こんな男が飛び込んだら、なんぼ繁代だつて迷惑するには違ひない──そんな気遅れがした。加けに繁代が文学の話が好きなことには、常々から閉口してゐるのだつた。繁代が好んで読んでゐる書物は、大方彼は未だ読んでゐなかつたので、たゞでさへ話の拙い彼は、一層面喰ふことが多かつた。──(これから午迄が難関なのだが、却つて他所へ行つてゐれば幾分心に張りが出て案外容易く辛棒出来るかも知れない。)仕方がなく彼はそんな望みを持つて出掛けた。それにしても繁代を相手の心の張りでは惨めなものだ、などゝ、思つた。
繁代は、二階の書斎でたつた独りで、天井を眺めて寝てゐた。彼は、余り利己的な考へを持つてゐたのを一寸気の毒に思つた。
「随分ね、どうして来なかつたの。」彼が未だ坐りもしないうちに、繁代は腹匐ひになつて、彼を見あげて詰問した。彼は、その理由を審かにしやうかとも思つたが、余り馬鹿気てゐて話になりさうもなく、よし聞かれたとしても、それ位のことで相手に負担を感ぜさせるのも気の毒な気がして、止めた。
「神経衰弱とかだつてエんぢやないの、その方はどんなゝの?」
「いや、それは嘘だよ、誰に聞いた。」
「だつてそれが為に帰つてゐるんでせう。」
「そんなことはどうでもいゝよ。……煩エな。」
彼は脇見をした。
「何だか解つたものぢやないわね。また彼方で何かやり損なつたのぢやないの?」
「繁ちやんの病気といふのは何だ。」
「妾のも病気といふ程のものぢやないのよ。」
繁代は、一寸言葉を止絶らせて、頬をあからめながら意味あり気に笑つたが、いつまで経つても彼が知らん顔をしてゐるもので「毎月一度宛なのよ。」と云つて慌てゝ顔を伏せた。──彼は、何か冷たいものが胸の中をスツと通り過ぎたやうな気がした。さうして急に華やかな眼醒しさを感じた。斎藤と彼の家とは昔から親しく往来してゐて、従つて繁代と彼とは幼さい頃から友達だつた。彼は、今迄繁代に一度も考へたこともない気持を初めて感じた。
「頭痛でもするの? 熱は?」彼は、ワザと空とぼけてそんな事を訊ねた。
「そんなんぢやないんだつてエば──」
「そんなら起きてしまひなよ。寝てなんてゐると却て頭がフラ〳〵して病人らしい気持になつて駄目だ。──ピンポンでもしやう。」
「なアんだ、拙いくせに。」
繁代は、自分が通つてゐる英語専門学校の話、寄宿舎の寂しい話、さうして同じ東京に居ながら彼が決して訪づれないのみか碌々手紙の返事さへ寄こさないといふ叱責、それから文学の話などの彼に取つては何の興味もない話をのべつに喋舌るので、折角眼醒しい気持になつた彼の頭は、再び茫漠と煙つた。さうして、とんちんかんな返事ばかりして繁代に怪しまれた。繁代が、どんな話をしても彼にとつては一刻も早く話題を変へて了はなければならないやうなものばかりだつた。「兎に角斯うしてゐたんでは、とても眠気を追ひ払ふことは出来ない。」彼は、そんなことばかり考へて心細く思つたりした。
一寸二人が黙つて了つて、それにしても何とか心に動きをつけなければ堪まらなくなつた彼は、テレかくしの為めに額に手を当てゝ、
「僕は少し熱があるやうだ。」と云つた。先程から余り落付かないでゐるのに理由をつけるつもりだつた。
「どれ?」と云つて繁代も彼の額に手を当てゝ見た。「少し熱いわ。変ね。」
「僕もどうも先程から怪しいと思つてゐたんだ。」彼は、ほんとに不安な気も起きたが、また一寸嬉しいやうな気もした。「さう云へば実は頭も少し痛いんだ。」
「冗談ぢやないわ、計つて御覧なさいよ。」
繁代は、いそ〳〵として机の抽斗から験温器を取り出すと、一度強く振つて彼に渡した。
計つて見たら、熱は七度にも足りなかつた。彼は、気まりが悪かつたので、
「これは壊れてゐる。」と云つた。
「そんなことがあるもんですか、ぢや試しにお湯の中へ入れて御覧よ。」
「壊れてゐる体温器で、勿体振つて計つてゐたひには実に滑稽極まることだなア。」などゝ云ひながら、彼はさも〳〵落付き払つた手つきで、それを湯呑のなかへ浸して見ると、水銀は、見る間に上騰した。
「そら御覧なさい。──あんた熱なんて何にもありやアしないのよ。」
「だつて確に額が熱いんだもの。」もう斯んなことを云つたつて仕方がなかつたが、彼は、何か不平でも洩らすやうにそんなことを呟くと、さすがにきまり悪くなつて、といつてふざけたことにするのも莫迦に面倒な気がして、その儘ゴロリと横になつた。──(あゝ馬鹿馬鹿しい〳〵、斯んなに眠いのを何で辛棒なんてする必要があるものか。早く何とかゴマかして家へ駆け込まう、さうして蒲団のなかへこの儘もぐり込んでグツスリと眠るんだ………あゝ、さぞ好い心持だらうなア!)彼は、滲々とさう思ふと、嘆息だけでも快よかつた。
「今日ね、お母さんが御馳走すると云つてゐたわ。だからね、ゆつくり遊んでつてね、それにお母さんが、あとでいゝんだけれどね、今朝ね、猿が檻から逃げ出しちやつて、さつき一辺皆なで追つかけたんだけれど、どうしても捕まらないのよ、お午からまた皆なでやるんだけれど、あなたに手伝つて貰ひたいんだつてさ。猿ツてエば、此頃大人になつて来たもので、そりやア可笑いのよ、あのね、昨日もね……」
「えゝと? 僕は……と? 今日のお午から……」
彼は、半ば夢心地で自分でも何を云はうとしてゐるのか解らないながら繁代の言葉を遮つた。
「何云つてんのさ、用なんてありもしない癖にして。あゝ、それからね、一寸教へて戴きたいのよ。翻訳の宿題があつてね、少し解らないところがあるの。お父さんに訊いたら、お父さんにも明りしないから、あなたに訊いて御覧ておつしやつたの。それがね……一寸待つて頂戴。」繁代はフラ〳〵と立ちあがつて伊達巻を締め直した。
「アラ〳〵、煙草の火がよ、袖のところに……。何ぼんやりしてゐるのさ。」
死ぬやうな苦みを忍んで彼は、漸く翻訳は、イヽ加減な解釈でごまかした。繁代は欄干に凭れて、グツタリと籐椅子に腰掛けてゐる彼の傍に立つてゐた。芝生になつてゐる広い庭では、真夏の光が金色の渦をなして踊つてゐるかのやうに彼の眼に写つた。
「天気が好くて好い心持だ。」無論それどころではなかつたのだが、如何にも落付いて胸を張り出しながら、深く吸ひ込んだ息を徐ろに吐き出すと、頭のなかのものまでが吐息と共に夢のやうに溶けて行きさうだつた。それが、快よかつたのである。「何か面白いことはないかな。」彼は、うつかりそんなことを口走つた。
「そんならね。隣りのお部屋に本があるから何か面白さうなのを持つて来て読んで呉ない。」繁代は、椅子に腰を降ろすと「此処割合に涼しいわね。妾、斯うして眼を瞑つて聞いてゐるわ、ね?」と云つた。彼は、神経的な身震ひを感じた。と、恰度夢の中でドキツとする怖ろしい鼓動で思はず眼を醒す時のやうに、次の瞬間一寸吾に返つたやうな気がした。
「ね、さうしませうよ、早く。」
彼は繁代と位置を転倒して考へて見ると、思はず恍惚とした。(面白い物語りを聞きながらうつら〳〵と夢路をたどる……好いな、羨ましいな。)彼は、真剣にそんな馬鹿気たことを歌のやうに胸のなかで繰返して見たりした。「繁ちやん、さうやつてゐると眠くなるだらう?」
「えゝ、何だか眠たくなりさうよ。」
彼は、或手段を思ひついた。(成るべく面白くなさゝうな本を選んで退屈さうに読む、すると彼女はうとうとするかも知れない、その隙を窺つて此方も少しばかり眠る、夏の昼なか読書に疲れてうたた寝をする、これなら誠に自然だ。)苦るし紛れにそんな稚拙な逃場を想像して、これでも名案のやうな気がした位彼の脳神経は鈍つてゐた。が、その期待は惨めな失敗を醸した。彼が選んだ読物は、殊の他繁代の興味を唆つて、──でも、もう一章読むうちにはなどゝ思ひながら、到々一時間近くも通読したが、何の効果もなかつた。
彼は「あゝ!」と云つて、椅子から転げ落つるやうにして、上半身を敷居越しに畳の上に投出した。
「相変らず読み方がうまいね。」繁代に斯んなことを云はれると彼は、斯んな状態にありながらも一寸得意を覚えた。
「もう何時だらう。」
「その机の上に妾の時計がある。」さう云はれても彼は、そこ迄手を延すことが厭だつた。全身の力を眼蓋に凝集させて天井を凝視めた。
「まア無性屋さんね。」繁代は、立つて来て、
「十一時よ、まだ。」
「まだ!」彼は、思はず溜息を洩らした。彼は、もう到底凝として居られなくなつたので「ヤッ!」と云つて立ちあがつた。同時に帰る口実を考へながら、欄間に掛つてゐる古い額などを見あげて、──突然斯んなことを云つた。
「何でも僕の家の先祖は、こゝの家のけらいだつたんだつてね。」
「さうかしら。」繁代は、つまらなさうに答へたが、彼は割合にそんなことに興味を持つてゐた。さうしてなほも独りごとのやうに、
「伝統といふものはひどいものだ、今だに僕は此昔の儘の大きな冠門をくゞる時は不思議な程心にヒケ目を感ずるよ、何となく斯う……」と云ひかけたが巧い形容詞が出ないで、帰る口実を考へてゐる手前で、更に行き詰つた。
「何云つてんのさ、つまらない。」
「いや、だけど、ほんとに、そんな……」彼は、慌てゝ口ごもつたが「ハツハ……嫌に真面目になつちやつた。」と云つたかとおもふと頬のあたりから鼻頭をこゝろもちあからめて、再び頓興な笑ひ方をすると、突然快活な口笛を吹き鳴らしながらグルグルと部屋のなかを歩き初めた。
鶴村が遊びに来た、といふ電話が彼の家から掛つて来た。繁代は、ぢや恰度いゝぢやないの、此方へ来て戴いたらと云ふので、彼はその通りに話すと、鶴村は、では直ぐ俥で行く、と云つた。鶴村は、その前の日曜に遊びに来た時彼の家で繁代に会つてゐた。
(いよ〳〵もう眠ることは出来ないのか!)さう思ふと彼は、気が遠くなりさうだつた。心細くて涙が滾れさうな気がした。──「眠い一日」を、鶴村に読まれたことを後悔した。何故なら、恰度小説「眠い一日」と同じやうな境地で、現在閉口してゐるのだが、で、実は今日これ〳〵で眠くつて弱つてゐるのだといふことを話したつて、一層鶴村に滑稽がられるのは当然で、また鶴村といふ男は妙な皮肉を云ふことが好きで、あんなことを小説に書いたもので子供らしい自惚れから、その小説に実際的の価値をつける為に厭味たらしいことを云ふ奴だ、などゝ思つて反つて冷笑するに違ひない、仮令相手が鶴村でなくつてもあの小説を読んだ者なら、苦笑せずには居られまい……「繁代にも、さつきもう少しで眠いことを白状しさうになつたが、云はないで置いて好かつた。」などゝ、彼は思つた。さうして彼は、自分のする事なす事は、考へて居ることまで、悉く馬鹿気た笑はるべき事ばかりのやうな気がして憂鬱に陥つた。それにしても今日の出来事は余りに安い喜劇沁みてゐて、彼は何となく恐怖の念さへ起つた。
繁代は、鶴村が来るといふので女中と共に自分の部屋を掃除した。書棚の上の一輪挿に活る為めに、裏の庭から浦島草を剪つて来ることを、彼は頼まれたりした。
鶴村と繁代と彼との三人で、一つの食卓を囲んで午にした。「婦人と交遊」に特別の趣味を持つてゐる鶴村は、無論酒など口にしないで様々な話(主に芝居の話)に花を咲かせた。
「僕ね、××座の切符を十五枚ばかり引うけて了つたんですが、それ今度の木曜日なんですが来て呉れませんか、御招待しますよ。」
「アラさうですか、文明協会のでせう、面白いでせうね、ぢや妾お母さんに聞いて見ますわ。」
「お母さんと御一緒に来て下さい。──君もどうだ?」鶴村は、行儀悪い格好で胡坐をかいてゐる彼の方を向いて訊ねた。
「僕か? さうだなア! 久しく芝居も見ないことだが……」
「来て下さるんなら、ぢや今日僕が帰る迄に定めて置いて呉れませんか、場席の都合もありますから!」鶴村は、とうに繁代の方を向いてゐた。「さうすると、……?」などゝ口のうちで何か考へてゐるやうだつた。「今度のは出し物が好いせいか素的な売行きださうですよ。」と云つたが鶴村には聞えなかつた。
「あの暑いんですからお羽織をお脱ぎになつたら如何!」
「いゝえ、涼しいぢやありませんか、東京に比べたら余程……」鶴村は水色の襟の掛つた襦袢の襟を指の先で一寸掻き合せた。彼が、ふと鶴村の羽織を見るとそれには目立たぬやうな縫紋が施してあつた。
「嘘をつけ……涼しいもんか。海の近所は却て昼なかは暑いんだよ、寒暖計だつて東京と殆ど変りはない。俺、暑くつてとても堪らない。」彼は鶴村を寛せるつもりと眠くつて堪らないことの自慰との為に、胸を拡げて袂で撫で廻した。鶴村は、ふいと立ち上ると何か恥しいことでも訊ねるやうにもじ〳〵して、さうして顔に似合しからぬ細い声で、
「あの一寸! はゞかりは何処?」と云つた。さういへば何となく先刻から話の調子が落ついてゐなかつた。
「此間お送りした「橄欖」御覧になりましたか。」
「あゝさう〳〵、お礼を云ふのをすつかり忘れて了ひましたわ。鶴村さんの評論がありましたね。」
「いやどうも……。あの雑誌は和歌と詩の方は会員組織になつてゐるんですが、あなた如何です、尤も会員にならなくつても、作品がありましたら私の手許まで寄こして戴けば、私が何とかしますがね。「橄欖」でなくつても「黒い瞳」でも「詩歌文学」でも大概私の友人ばかりですから、何とかなりますよ。」
「あら、そんなに方々知つてゐらつしやるの。妾、駄目ですけれど、作ることは随分沢山作りましたのよ、でも皆な駄目!」
「是非拝見させて下さい。ほんとに。」
鶴村と繁代は、そんなことも話してゐた。彼は、縁側に出て椅子に凭つた。
「S──君ですか? えゝ、始終往来してゐますよ、一昨日も一緒に帝劇に行きましたよ。その帰りにね、僕と盛んな議論を戦はせてね、到々徹夜しちやつて、昨日は一日眠くつて閉口しました、何しろ僕らの生活はまるでルーズそのものですよ。ハツハヽヽヽ。」
「まア面白い方ばかしね。あの先生お酒なんてあがるの?」Sといふのは繁代の尊敬してゐる有名な詩人だつた。繁代は、Sといふ人を知りもしない癖に「あの先生」などゝ云つた。彼は、鶴村とは大分前からKといふ友達の家で時々出遇ふので知り合ひになつたが、平常は殆ど往来もなかつたし、従つて鶴村の周囲と彼の周囲とは恰で違つたものだつた。加けに、鶴村は彼が籍を置いてゐる学校を二年も前に卒業した者だつた。これは彼だけの特別な気持であるが、彼にとつては如何しても未だ一人前な気がしない繁代だつたから、その繁代に鶴村が極めて慇懃な調子で話しかけてゐるのが、何となく可笑しかつた。
「君達のグループで、何か同人雑誌を出すといふ話を聞いたが、ほんとう?」
「そんな話もあるらしいが、僕は詳しいことは知らない。」この言葉が伝へる感じよりは、少し詳しいことも知つてゐたが、彼は、それを話すのも大儀だつた。
「鶴村さんのお国は何処でしたつけ?」
「僕ですか、遠いですよ。」と云つて鶴村は煙草に火をつける為に燐寸をすつた。
「日本海に面したところ。」
「石川県? ──それとも越後?」
「いゝえ。」
「ぢや何処?」
「当て御覧なさい。」
「解りませんわ。」
「鳥取県。」と云ひかけると、鶴村は「一寸失礼。」と云つて、また後架へ降りて行つた。
「純ちやん達が雑誌なんてやるの、ほんと? あんた何を作るのさ?」
「友達がそんな話をしてゐたんだよ。俺は何にも知りやアしない。」
そんなことを話してゐるところに鶴村が、静かに入つて来たので、彼は慌てゝその話を打切らうとすると、
「岡村は小説家ですよ、繁代さんは未だ御存じないんですか? そいつア驚いたなア。僕は岡村の書いたものは皆な読みましたぜ、そりやアほんとに素晴らしい傑作がありますぜ。」
「おい、よせ、よせ。」平常ならそれ位のことを云はれても驚きもしなかつたが、またそれに合せて何か徒らな返答をしなければならないかと思ふと、とてもそんな元気が出さうもなかつたので、彼は遮つた。……鶴村に見られたのは「眠い一日」だけで、それもKに見せたのを鶴村が無断で持つて行つたのぢやアないか……。
彼が、止めたのも関はず鶴村はなほもにや〳〵と笑ひながら「繁代さんが知らないとは驚きましたね、ぢやアノ「眠い一日」といふ傑作のあるのも知らないんですか?」
「まアそんなのがあるんですか? 眠い一日ですつて、どんなことを書いたんでせう。」繁代は、縁側に居る彼の方を振り返つて「妾にも読ませて呉れないか。」と云つた。
「何云つてやがるんだい、馬鹿ア。」と、彼は云つたが、二人が不思議さうな顔付で此方を眺めたので一層具合が悪くなつて「もうとつくに破いて了つたよ、そんなもの。」と云つた。
彼の、瞬間的だつたがそのたゞならぬ気色を悟つたものと見えて、鶴村も繁代もそれぎりに彼のことには触れなかつた。
「鶴村さん、夏でもお国へお帰りにならないの?」
「僕ですか、すつかり東京に住慣れて了つたので、精神生活までも都会でなければ完全には営まれなくなりましたよ。」
「さうでせうね。」繁代は、一寸あやふやな合槌を打つて「妾もさうよ、田舎は大嫌ひ! 芝居も見られなければ、音楽も聞かれないし………」
「あらゆる意味で刺戟といふものが、われ〳〵に取つては最も必要なことでせう、自己の魂のうちに潜んでゐる或もの、それは自分にもまだ気づかずに居るもの、さういふ大切なものが、ほんの偶然の機会に、例へば芝居を見てゐる間とか立派な音楽を聞かされてゐる時などに、ふいと自からに眼醒て来る場合があります。一言で云へばつまりインスピレツシヨンです。さうした場合に魂の成長を明り意識します。近代人の鋭敏な感覚では、或程度まで他動的の刺戟に依つて自らを育てなければなりませんね。でなかつたら折角の才能が永遠に凋んで了ひます。」鶴村は、殆ど一息にそれだけ喋舌つた。彼の耳には、止絶れ〳〵にしか聞えなかつた。たゞ鶴村の鼻にかゝつた高い調子の声と、繁代の咽喉で高低を操つる鶏のやうに勢急な音声とが、互に交錯すると一種の濁音となつて響いて来た。もう彼は、眼蓋ばかりに力を入れるのでは到底敵はなくなつて、胴体に思ひ切りの力をこめて、洞ろな頭を自棄に振り倒した。
庭で、ガヤ〴〵といふ声がするので彼は其方を振り向いた。
「おい辰ツアン! 意久地がねエな。お前は口ばかしでからツきし駄目ぢやねエか。」
「おつといけねエ、またのしちまやアがつた。」
「関はねエから石を打ツ付けろ。」
二人の職人が庭木の間を切りに駆け廻つてゐる。繁代の父も、尻をからげて、竹箒を手にして立つてゐる。猿を捕まへやうとしてゐるのだつた。
「……あゝ、さうですか、お読みになりましたか。あれは却々いゝものですね、ですが僕に云はせるとアノ宗教的観念が物足りません。あれをもう一息打ち破つて……」
「でも妾好きよ。あれ皆な真実の経験なんですつてね。学校のお友達もそりやア大変よ。」
「さうでせうね、あゝしたものは……」
彼は、もう到底凝としてゐられなくなつた。五体がフワ〳〵と浮び上りさうだつた。意識出来る眠さなんて通り越して了つて、得体の知れぬ熱さがカツカツと身体中を駆け廻つてゐるやうな気がした。
「俺! アレを手伝つて来るよ。」彼は、繁代に庭の方を目配せしながら立ちあがつた。
「そんなこと、もういゝわよ。鶴村さんが折角来ていらつしやるのに失礼ぢやないの。」
鶴村も、此奴変な奴だな! といふやうな眼つきで彼の方を見た。
彼は、ドンと籐椅子に再び尻を落とした。──(もう駄目だ!)そんな気がした。
……「然し何と云つても西洋のものですね、現在の日本の文壇の貧弱さツたらないぢやありませんか。」
「鶴村さんは小説はお書きにならない?」
「無論書きますよ、然し僕は現在では書く気がしません、私は暫く自分の生活を瞶めた後で、ほんとうに書いたといふ気持が自分の胸にドサンと響く様なものを……」
「飽までも体験に待つ。」……「妾は音楽と詩……」「無論芸術に境界はない、永遠の……」鶴村と繁代の会話のうちで、音声の高い部分だけが、彼の鼓膜を震はせた。
「矢張り餌でつらなければ駄目だ。」
「畜生奴! すっかり悸ぢて了やがつた。」
「叱ツ! 叱ツ! 振り落とすぞ。」庭からは、そんな声が聞えた。
さうして両方の声が、止絶える合間が時折二三十秒位保たれた。彼の耳の底には、ジーンといふ微音が残る。──雲ひとつ無い炎天から降り濺がれた暑熱は、湯気程にも濃い陽炎となつて芝生からも庭木の間からも向方のトタン張りの屋根の上からもユラ〳〵と炎えたつてゐる。蝉の声は喧しいが、それは却て夏の真昼の静けさを奥深くする。
「その本は私が持つてゐますから、お送りしませう。」
「買ひますわ。」
「どうせもういらないんですもの。──一寸面白いですよ、可成感傷的なものですが。」
蝉の声は、彼を眠りに誘ふが、鶴村と繁代の方に気づくと、昇りかゝつた階段から引ずらるゝやうにジリ〳〵と意識が醒る。
「海へ行かうぢやないか。」彼は、ドンと足を鳴らして立ち上つた。いつもの海へ行く頃になつた弟や従妹達も待つてゐるだらうと思つた。それよりも、海へ行つて真ツ逆まに水の中へ飛び込んだら、眠気が醒めるだらうと思つた。その愉快さを考へると、彼はもう堪らなく胸が躍つた。
「行かうか。妾も、もう今日は行つたつて関はないんだから。」
「行かう〳〵、暑くつて堪らない、この昼なか家のなかなんてに落ついてゐられやしない。」
「海へ!」と鶴村は云つた。
「君は泳ぎがうまいさうぢやないか、この前会つた時さう云つたね。」
「そりやアうまいが、僕今日駄目だよ。」
「何故?」と繁代が云つた。
「僕ね、腸をこはしてゐるんです。」
「平気だよ、反つていゝよ。」
「いや医者からも止められたんだ。」
「水の中へ入れない位なら行つてもつまりませんね。」
「さうですとも、こゝでお話してゐる方が好いですよ、ちつとも私退屈しませんもの。」
中止になつては大変だ、と彼は思つた。
「何だい、行かうよ、繁ちやん早く仕度をしておいでよ。」
「だつて僕は海水着を持つて来なかつたもの。」
大分有望らしい、と思つた彼は、
「そんなものいるもんか、俺なんて始終ふんどしひとつだ。だけど、水着がいるんなら買つて来てやるよ。」
「厭だよ、僕は海水着には非常な好みがあるんで、間に合せものぢや気に喰はないんだ。──それに君は困るな、君は変に幼稚な趣味を持つてゐるね、妙に快活がつて無頓着を振り廻すツてやうな、さういふ方面での君とは僕は一致すること出来ないよ。──それに君ツてエ人のほんとうの性格は、さうではないぢやないか、このことは前から君に云ひたいと思つてゐることなんだが、……つまり、その……」
憤るには、相当に永い言葉を用ひなければならない、さうしてそれに準ずべき思索も要する──彼は、そんなつまらないことを考へた。嚇とした感情が、不思議に思はれた位に間もなく、くすぶつた。「もう憤る活気もないのか!」そんなことを思ふと、もう少しで笑ひ出すところだつた。
「まつたく。」と、繁代が云つた。
「純ちやんには忠告をして呉れるお友達がなくつては駄目なのよ、そりやアだらしがないのよ。」
「おやおや、こりやアどうも飛んだことになつて了つたなア!」彼は、さう云ひながらポンと額をたゝいた。さうすると、また鶴村は、彼のこの軽薄な動作を苦々しさうな顔付で眺めた。さうして、再び何かくどくどと云ひ初めた。
彼は、一刻前と同じやうに縁側の椅子に来て凭れた。海のことばかりが、執拗に思はれてならなかつた。
「ぢや蓄音機でもやりませうか、妾此頃大分レコードを集めましてよ。」
「どうだい岡村? 海へ行つて鼻孔から塩水を飲んだつて始まらないぢやないか。」
「俺は、どうしても行つて来るよ、君厭なら仕方がないから待つて居給へ。」
「何云つてんのさ、行く位ならば鶴村さんだつて行きますわね。」
「そりやア……だけど、行つたつて行かなくつたつて何も大したことぢやないぢやないか。」鶴村は、彼に云つた。
「行かうよ、だから──、俺もう家に居るのは飽きた。」
「ぢや何方にするのさ!」繁代は焦れた。「妾は行つたつていゝのよ。」
「兎に角レコードを先に見せて呉れませんか。」
「俺レコードなんて大嫌ひだ。」たゞ漫然と眠気と戦ひながら、然も仲間はづれの境地で苦痛を忍んでゐるよりか、蓄音機を聞いてゐる方がいくらか増だつたが、海の水の眼醒しさを思へば、それ処ではなかつた。
鶴村が頻りに勧めるので、繁代は降りて行つた。すると鶴村は、急に立ちあがつてにやにや笑ひながら彼の傍へやつて来た。そして一段と声を低くして、
「おい、海へ行く行くといふことは余り云はないで呉れよ、頼むよ。」と云つた。
「どうして?」
「実はね、海水着もへつたくれもないんだがね、尤も少し腹くだしはしてゐる、それも大したことぢやないんだが、──僕は、猿股を穿いてゐないんだよ。」
「だから買つて呉れば……」
「そんなことが出来ると思ふか? 馬鹿ツ! ──然しね、君、夏はこれだけに限るよ。」と云ひながら鶴村は、クレップのやうに縮んだ白い腰巻の一端を撮み出して見せた。
「ぢやいゝかい、ほんとにもう海へ行かうツてエ話は止めて呉れ。」と、更に鶴村は念をおした。──繁代が梯子段を昇つて来る音が聞えた。鶴村は、
「叱ツ!」と云つて前をはらつた。
「未だあるんですけれど、新しいのだけ持つて来ましたわ。」
「いよう! ビクターばかりですね。こりやア面白いぞ、ひとつコンサートをやりませうかね。」などと云ひながら、鶴村は今度は別に何とも云はずに、それとなく下へ降りて行つた。彼は、何となく鶴村が可愛想な気がした。
「うむ、実に好い、胸がすつとしますね。メンデルゾンは何時聞いても息苦しくなりますな。」
「妾も大好きよ。」
鶴村と繁代は、お互に云ひたい放題なことを喋舌つて、恰で芝居か何かをやつてゐるやうに調子づいてゐた。
彼は、鶴村が脊中をまるくして円盤を選んだり、器用な手つきで針を差し換たりなどしてゐる姿を、縁側からぼんやり眺めてゐた。──あの鶴村が、猿股を穿いてゐないのか! 彼はそんな馬鹿なことがいつまでも気になつて仕方がなかつた。──彼は、蓄音機が廻つてゐる間は、たしかに眠つた。一枚終ると、鶴村と繁代の声におびやかされて眼が醒めた。この分では海へなど行くよりも却て幸ひだつたかも知れない──そんな気がした。
また何か初まつた。彼は、待ち構へて、眼を瞑つた。──直ぐに眠れる。その時ふと、こんな文句が浮び出た。(たしか此頃になつて初めて読みかけた〝An Opium-Eater〟の初めの方にあつた一句らしい。)と、思ひながら。
“A man who is inebriated, or Tending to inebriation, is, And Feels That he is, in a condition which calls up into Supremacy. The Merely Human, too often The Brutal, Part of His Nature; ……
「なる程! だけど君、君は妙なところに勿体をつけたがる人だね。憎めないよ。ハツハヽヽヽ。」と、鶴村が云つた。
ヤツ失敗た! 冗談だよ──と叫ばうとした拍子にドキツと胸が鳴つて眼が醒めた。夢だつたのだ。
鶴村は、金口の煙草を銜へて、瞑目しながら蓄音機の音に聴き惚れてゐた。
「純ちやん、此方へ来て少し手伝つてお呉れよ。」
「いや、暫く此儘で聴かうよ。却々面白い。」
「僕これだけ皆な聴かして戴きたいんです。どうだい岡村! 海へ行くよりこの方が余程面白いぢやないか。」と、鶴村は云つた。
「フヽン。」と、彼は静かに苦笑ひした。──その時階下で、時計が三時を打つたのが聞えた。(漸くそこ迄漕ぎつけたか!)斯う思ふと彼は、大嫌ひな学校の試験が七分通り迄終つた時のやうな淡い悦びを感じた。
「狡いわ〳〵。今度は純ちやんの番よ。誰だつて斯んなのを廻すのは厭だわ、ね鶴村さん?」
「さうですとも。岡村は先刻から独りで椅子になんて凭り掛つてゐて全く狡いや!」
「廻す位なら、俺は聴き度くないんだ。」
「そんなら妾も、もう止めたツと。」彼の言葉の調子が余り白々しかつたので、繁代は憤ツとして横を向いた。鶴村が頻りに嘆美の声を挙げるので、それに調子を合せなければ軽蔑でもされさうな気がして愛嬌を保つてゐたのだが、口で云ふ程音楽などに理解を持つてゐない繁代は既に飽き〳〵してゐたので、却て都合が好かつたらしかつた。
「ぢや止めませうか。──僕は、今或処から頼まれて論文をやりかけてゐるんですがね、一寸聞いて呉ませんか、大体の主張を……」
彼は、鶴村が屹度蓄音機を廻すだらうと思つてゐたら、そんなことを云ひ出した。
「おい、おい高見の見物は酷いなア。」繁代の父が庭から彼に声を掛けた。彼は、恰度よかつたので直ぐに降りて行かうとすると、その声を聞いた繁代が慌てゝ縁側に駆け出して、
「お父さん、純ちやんのお客様なのよ。だから辰兵衛を頼んだんぢやありませんか。」と云つた。
「あゝ、さうか、さうか。」繁代の父は笑つて、汗を拭きながら歩き出した。「猿のお蔭で一日まる潰しか、馬鹿気てゐるなアハツヽヽ。」
「ハツハツヽヽ、この暑いのにやり切れないなア!」彼は、繁代の父を眺めて、独言とも返答ともつかず、さう云つて、更にもう一度鷹揚に笑つた。
底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「東京朝日新聞(夕刊) 第一三〇九三号~第一三一〇五号」東京朝日新聞発行所
1922(大正11)年11月14日~11月26日
初出:「東京朝日新聞(夕刊) 第一三〇九三号~第一三一〇五号」東京朝日新聞発行所
1922(大正11)年11月14日~11月26日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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