砂浜
牧野信一
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羽根蒲団の上に寝ころんでゐるやうだ──などと私は思つたくらゐでした。紫色をした大島が私の網膜に「黒船」か何かのやうに漂うて映りました。──午頃まで、このまゝ眠つてやらうかしら……などとも私は思つたりしました。
春先で、思ひきり好く晴れた朝の海辺なのです。──もう、かれこれ二時間も前から私は、渚の暖い砂の上で退屈な、然し極めて快い愚考に自ら酔つたまゝ、思ふさま胸を拡げて大の字なりにふんぞりかへつてゐるのです。その私の肉体は単に空ろな、たゞ一寸軽い頭の爽々しさだけを自分だけで意識してゐる一個の物体に過ぎません。
漁の舟はすつかり出払つて了つて、浜のいちばん静かな刻限です。はるか向うで背中を丸くした老人が網を繕つてゐました。そのうしろで小さな赤犬が一匹何か切りにはしやいでゐるのが見えました。
「独りで凝とこの儘かうしてゐたい。」
私はさう思ふと、ふと、かうして凝としてゐるのがイヤになりました。何だか殊更に閑寂を悦ぶ、といふ風なキザさ加減が可笑しくなつたのです。然しそれも亦私の愚かな虚栄心です。何故なら、全く私の意識はかうしてゐることの方にはるかに満足を感じて居りました。……結局、私は自分勝手にテレて、妙な気恥しさを感じたもので、独りで妙な薄笑ひを口もとに浮べながら、むつくりと砂を払つて立ち上りました。さうして老人の居る方へ歩いて行きました。
「大分精が出るね。」
知つてゐる漁師の年寄だつたので、私はさう呼びかけました。
「純造さんかえ、いつお帰んなすつたよう?」
年寄は年寄らしい親しみ深い眼を挙げて私を見上げました。年寄の嬌態は、私の好きな井上正夫に私が見るやうな、堅苦しい鷹揚な懐しみを覚えさせました。私は、老人の傍へ話しに来てよかつた、と思ひました。さうして、(幾日だつたかしら?)と刻明にもその日を数へようとしてゐましたが、一寸何日に帰つて来たかが思ひ出せませんでした。何でも五六日前なのです。
「もう学校はお休みなんけえ?」
私がまだ前の質問に答へられないでゐるうちに年寄はまた問ひを発しました。
「あゝ。」
私は、日を数へることを止めて、煙草に火をつけながら年寄の傍に趺坐をかくと、沖を眺めました。さうして、
「いゝ凪だね。」と云ひました。
「いゝ凪だ。この分ぢや……」と云ひかけた年寄は、膝の上の網をそつちへおしのけて煙草入れを取りました。私は、その次に続くべき年寄の言葉を待つてゐました。年寄は、恰も自分の所有するものでも見るかのやうな慣れた眼付で海を眺め渡して居ります。
「いつお帰んなすつたのさ。」と年寄は云ひました。──まだそのことが年寄の頭に残つてゐたのか? それとも他に一寸云ふべき言葉がなくて云つたのか? と私は思ひました。私は、自惚れて、その第一の方をとつて年寄に大変好意を感じました。
「四五日前に──」
「まだ花は咲いてゐませんでしたか?」
「あゝ、まだらしい。」──私は、ほんの軽い安易と徒労とを別々に感じながら、それでも、もう咲いたかしら、などと花のことを考へて居りました。──一重は咲いたかも知れない、などと私が思つてゐた時、年寄は、
「この分ぢや、好いナブラ(魚の群
のこと)が来るだらう。」と云ひました。私は何とも答へませんでした。暫く黙つてゐた私は、
「仕事をしたら?」と云ひました。私は煙草を一間ばかり先へ投げました。砂の上で陽炎のやうに喫殻の煙が立ち昇りました。
「退屈晴しなんで──なあに丁度いゝんですよ。」
年寄が人の好い微笑を湛へながら斯う云ふと、私は急に迷惑を感じ始めました。長い話なんてされては此方が堪らない──そんな気がしたのでした。帰つて本でも読まう、読みたいものが大分溜つてゐるんだから──そんなことも思ひました。
かうなるともう私はそれから暫くの間其処に坐つてゐたことは我慢より他に何もありませんでした。で私は、傍に来た俺が悪いのだから……なるべく冷やかな感じを与へないやうにして──などと思ひながら、
「さて、ひとつ帰るとしようかな。」と、極めて安易な素振りで立ちあがりました。この芝居にまんまと瞞着(?)された老人は、
「朝の空気は薬だからあしたもまた天気がよかつたらおいでなせえな。」などと云ひました。
「あゝ、来るよ。」
屹度来ないだらう、と私は思ひました。「多分来るよ、朝は好きだ。」
少しばかり歩いてから私は、老人の方を振り返つて見ました。彼は、網を担いで陸へあがつて行くところです。──浜にはもうまるで人影はありません。……私は大きな声を張り挙げて歌を歌ひたいやうな気がしましたが、ウマク歌が口へのぼつて来なかつたのであきらめました。
私は、帰らうとはしませんでした。──私はまた砂の上に寝ころびました。四肢を延ばして上向けになると、またトロトロとする甘い睡さのやうなものがムヅムヅと砂の中から滲み出て──さつきと全く同じ気持に返つて居りました。私は、蒼い空を見上げて、好いな! と思ひました。
ひよいと私が堤防の方を見ると、その上に一寸摘んで置いたかのやうにポッツリと女の姿がひとつ現はれてゐました。箱庭の人形のやうな女は私の方をキョトンと眺めてゐます。
まともに陽をうけて、それでなくとも近視眼の為か、顔を顰めてゐるらしい様子が、勿論明瞭にはうけとれませんが、それらしいのが私に気持で解ると、「此方だ、此方だ、僕だよ、」といふつもりで右手を高く差し延べて見せました。道子といふ私の従妹なのです。態度には現はれませんでしたが、此方の素振りが通じたことは直ぐに私に解りました。彼女は一寸の間その儘たゝずんでゐましたが、間もなく急ぎ足になつて危ツかしい仰山な身振りをしながら桟橋を降りて来ました。砂地に降りると道子は駈け始めました。
駈けないでもいゝのに……などと私は思ひました。それだけに私は快い僭越な心で女の姿を打ち眺めてゐました。道子は、ふと立ち止まると何か拾ふやうに腰をかゞめました。どうしたんだらう、と私は思ひました。
「何か落したの?」
道子が傍に来ると同時に私は斯う尋ねました。
「綺麗な石でせう。」
平べツたいゴマ石を道子は拡げた掌にのせて私に示しました。なあんだ、と私は思ひながら軽い嫉妬を感じました。
「なる程、これは綺麗な石だ。」
一刻前と正反対な心で私は仰山にもそれを手に取つて賞讚しました。その私のセンチメンタルなしぐさを紛らすやうに道子は無造作に私の手から石を取り戻すと、それでお手玉を取りました。
「直ぐに解つた?」
「貧弱なスタイルだから。」
「まあ、こゝへお坐りよ。」と、私は道子を自分の傍に坐らせたがつて、先づ自分がさう云ひながらどつかりと坐りました、道子は坐らうとしませんので──また私は立ち上りました。
「何か用なの?」
私は殊更に急に冷かに、石を拾ひながら云ひました。
「用ぢやないけれど、もう十一時よ。」
「十一時がどうしたんだ。」
一寸した不満をこれで晴らすやうに私は、それでも甘えるやうな笑ひを浮べながら、さう云ふと、拾つた石を力一杯水の上へ投げました。波打際の少し先で石は、小魚がはねたやうにキラリと落ちました。
「妾だつてそれツ位ゐ行くわ。」
道子はゴマ石を左の手に持ち換へて、なるべく平ツたさうな石を拾ひあげると、腕だけでウンと投げました。勿論、私程遠くへは行きません。
「バカ!」と私は云ひました。
「エヽツ口惜しい!」
道子はゴマ石にぺツと唾をひつかける真似をして、力一杯投げました。──「アラ、バカ見ちやツた、折角拾つた石を!」
「どうするんだい、あんなもの?」などと云ひながら私は手持ぶさたを紛らすために、また石を拾つて投げました。二つ程水の表面をカスツて石は沈みました。道子は砂の上に腰を降ろすと膝を抱いてぼんやり私の方を見てゐます。──私は、たゞ切りに石を投げてゐました。
「もうお止しよ。」と道子は云ひましたが、私はワザともう一つ石を投げてから、
「どこかから手紙は来なかつた?」と尋ねました。
「一つ来てゐたわ、お友達でせう。」
私も腰を降ろすつもりでしたが、必要な返事以外の道子の言葉が稍私の機嫌を損じて、たゞ「フーン。」と云つたばかりで、また私は石を投げてゐました。
「箪笥の上に双眼鏡があつたので、妾さつきから二階で此方を見てゐたのよ。──バカね、眠つてゐたの?」
私は吃驚しました。
「まさか……」と、慌てゝ私は打ち消しましたが何とも云へない恥しさを覚えました。で私は、頓着なささうに、丸くて少し大き過ぎる石をうつかり拾つて力を込めて投げました。それは波打際までもとゞかず濡れた砂地に落ちました。小さな波が一つ覆さつて引いた時には石は見えませんでした。
「それでもいくらか考へごとなんてあるの。」
「たんとミクビるがいゝさ、どうせ俺の考へてることなんて、道ちやんに話したつてしようがないんだもの。」
「チエツ! チエツ! だ。──妾今朝歌を三つ程作つてよ。」
「ほう? どんなのだい?」
私は漸く道子の傍に坐ることが出来ました。
「云つたつて解らないわよ。」
かう云はれても私は全く仕方がありません。さうした方面のことに就いては何も知らない私は、時々雑誌の投書欄に道子の名前が出てゐるのを見せられてゐるだけで、一度も読んで見たこともない癖に、何となく道子のさういふ腕には内心怖れを感じてゐたのです。
「ちよいと聞かしてお呉れよ。」
「純ちやんなんかも──せめて趣味だけは持つやうにした方がいゝわ。」
「だからさ。」
「妾、文学の趣味のないやうな野蛮人は大嫌ひさ。」などと云ひながら道子は三つ四つ続けて歌留多を読むやうな口調で朗吟しました。私は腕組をして、怖ろしく尤もらしい顔付をして、海を眺めて居りました。それだのに私は何も考へてゐません。
「いゝでせう。」
初めて道子は甘えるやうな笑を浮べて私の眼を見ました。
「もう一度その終ひの奴を云つて見てお呉れ。」
私は止むを得ずそんなことを云ひますと、道子は直ぐに再び口吟みました。観賞どころか、道子が何を歌つたのか、私は少しもきいてゐませんでした。
「なるほど──」などと私は答へました。「うまいね。」
「純ちやんも作つて御覧な、直ぐに出来るわよ、何でもね、自分の思つたり感じたりしたことを偽らずに、率直に……調子さへ解れば他愛もないわ。」
さう云はれると私は直ぐに歌のことを考へ始めました。──恋のことが、よからう、と思ひました。私は故意に「恋情」に浸つて見ましたが、どうもはつきり「感ずること」「思ふこと」がありません。文字になるやうな気持がいくら考へても見出すことが出来ないで、私の想ひはいつの間にかとんでもない処に走つて了ひます。道子の顔を凝と眺めて、彼女に対する「恋情」を凝集させようとしましたが、どうしても私の心はそれにそぐひません。道子と別れてゐる間に、堪らなく道子のことが想はれて到底凝としてゐられず、慌てゝなど帰つて来た自分が何だか別な者で、──可笑しいやうな気がしました。「なあんだ、こんな女!」そんなことだけを私は思つて居りました。
「あゝ、妾またひとつ出来たわ。」
道子は袂から小さな手帳を取り出して何か切りと慎重に書きました。さすがの私も大分不愉快になつて、尚も凝と海の上を眺めて居りました。ビクともしない、つまらない! といふやうな顔をして。──鴎が四羽ばかりゆるやかに舞つてゐました。丁度私の眼の前で大きな円を描いてゐます。どれか一羽は代る代るおくれます。おくれても、決して翼の動かし具合は速くしないにも拘はらず、間もなく仲間の群と一緒になつて何れが今おくれた鳥だつたか見定めがつかなくなる。二番目の鳥が餌を発見して水の上に落ちました。
「妾は家へ帰つてこれを短冊に書かうや──純ちやんももう帰らない?」
「先へお帰りよ。」
私は、自分も一つ歌を作つて道子の奴を驚かしてやらうと思つてゐるのです。
「だつてもう直ぐ御飯だぜ。」
「直ぐに帰る。」
「これから手紙をひとつ書いて……と。」などと呟きながら道子は、「よいしよツ。」と云つて砂を払つて立ちあがると、尖らせた脣を手帳の端であふぐやうなことをしながら私を見下ろしました。
「嬉しいんだな。」
私は、うつかりからかふやうな言葉を吐いて了ひました。
「少しはね………純ちやんなんて相変らず寂しいんでせう。」──ホツホツ、と道子は笑ひました。
「まあ何とでも思つてゐるがいゝさ。……ところでもう来る時分なんだがな。」
「へえ……イヽになつてら! 千代子でせう。お止めなさいよ、田舎芸者なんて。」
「もう来る筈なんだがな。兎に角道ちやんは早く帰れよ。──邪魔にならあね。」
縦令それが手酷い冷笑でも、道子がそれを肯定してかゝつただけで私はもういくらかの嬉しさを覚えたのです。道子達の云ひ草に依ると、たゞ「騙されないように用心しろ」とか、「今に莫迦を見るから」などと云ふ風に此方ばかりの手前勝手な自尊心を目安にした冷笑のみですが、私にとつてはそれどころではありません。千代子といふ芸者だつて道子だつて大した差違はありません。
道子は、
「ちやんちやら可笑しや。」などと棄科白を残して、頭の櫛を気にしながらさつさと歩き出しました。私は心から道子を軽蔑して、その後ろ姿を沁々と眺めながら、初めて千代子のことを考へ初めました。道子の素足に履いた草履の踵が砂をはねあげてヒタヒタと鳴ります。──呼び止めて、一緒に帰らうかしら、とも思ひました。
云ふまでもなく千代子がこゝに来ることなんか私は夢にも思つてゐませんでしたのに、それから間もなくどうしたことかひよつこり千代子がやつて来ました。私は吃驚しました。……道子の奴が、今度こそ二階から眺めて呉れゝばいゝが、と即座に私は思ひました。
「ゆうべあんなことを云つてゐたがまさかほんとに来るとは思つてゐなかつたよ。」と私は云ひました。
「いゝえ、妾此頃ね、すこし体の具合ががわるくて毎朝浜に来るのがお勤めなのよ、お医者さまにさう云はれて。」
「実は僕もさうなんだ。少し頭の具合を悪くしてね……」
ヒヤツとしたが、私は直ぐにそんな出放題を云つて、然し勿論極めて不自然によそよそしくバツを合せました。
前の晩、私は古い友達に連れられて酒を飲みに行きました。千代子の家は道子の家のすぐ近所なので、彼女がお酌の頃から私はよく知つてゐたのです。座敷で遇つたのは初めてと云つてもいゝ位ゐでしたが、常々往来を通る姿を眺めてゐた私は可成り思ひを寄せて居りました。小さい時分は往来などでも平気で話しかけましたが、前の年の暮に芸者になつてからは殆ど口を利く勇気すらありませんでした。他愛もなく酔つぱらつて了つた私は千代子に、あしたの朝浜へ遊びに行かないか、などと妙なお世辞ともつかぬことを云つたのです。
ほんの冗談な座興であつたにもかゝはらずそれを真にうけて千代子の来るのを自分が待つてゐたと思はれては堪らない──さう思つて私は心底から慄然としたのです。実際私だつて、今千代子が来る迄は、前の晩そんなことを云つたのすら忘れて居りました。たゞ、珍らしく早起きをしたらいつになく頭がさつぱりとして室の中にくすぶつてゐるのは堪へられなくなつて、フラリと浜へ降りて来たまでのことなのです。
「あなたゆうべ随分酔つてゐらしたわね。」
「酔つてゐたかしら、あゝさうだ、たしかに酔つてゐた。」
「あなたゆうべ云つたこと、アレほんとなの。」
私の鼓動は一つ異様な音をたてました。──それだのに私はわけもない嬉しさを覚えてゐました。
「どんなことを云つたかしら?」
私は厭味たらしい眼付をして千代子の顔を打ち眺めました。道子に比べると千代子の容貌が数等優つてゐるのを私は沁々と味つて、大変いゝ気持がしました。……私は前の晩千代子に向つて、心からお前を可愛く思つてゐるので、どうしてもお前と結婚がしたい、などといふことを酔つた紛れに云つたことを直ぐに思ひだして、──今、千代子が追求しようとしてゐる内容がそれであればよいが、などと考へました。
「ね、どんなことを云つたかしら。」
「アラ、知らないわ。」
「ハツハツヽヽヽ。」
「随分あなたは嘘つきね。」
「何故さ。」
私は仰山に眼を見張りました。
縦令それが如何程徒らなものであらうとも、こんな風なことで女から攻められる経験を嘗て味つたことのない私は、「恨まれることの愉快」を自分勝手に夢想して勝手にそれに陶酔して、自分だけの意識のうちで快い残虐を強ひました。
「ハツハツヽヽヽ。」
「道子さんはもう学校を出たの?」
「あゝ、去年の春。」
「どうして此方の女学校を途中で止めて、東京の学校へなんか入つたの?」
「彼奴は手のつけられないお転婆で──バカだよ。」
私は、急に、不思議な、(と自分で思ひました。)寂しさを覚えました。不思議でも何でもありません。……。
「あなたが東京に居るからでせう。」
「戯談云つちやいけない。」
私は思はず叫びました。
「あなたが来年学校を出ると一緒になるんですつてね、チヤンと知つてるわ、お楽しみ……」
「さうかも知れないよ、だ。」
私は、あきれたといふより可笑しくなりました。それにしても、若しそんなことが空想でなかつたら……などと私は思ひました。……矢張り俺は千代子より道子の方が好きなのかしら。……私は千代子の横顔を眺めながら道子のことを考へてゐました。──突然、私は千代子の体を抱き締めはしないかしら、──ふと、私はそんなことを危みました。
「あら、妾、もう帰らなければいけない──お暇でしたらまた今晩いらしつて下さいな。」
今迄云つてゐたことが悉くほんの愛嬌で、といふやうに冷たく、私の返事を待つ間もなく千代子は帰つて行きました。
私は、たゞホツとしたばかりでした。道子と千代子の幻が夢のやうに目を瞑つた瞬間に浮びあがりましたが、直ぐに忘れました。
「歌」のことを考へよう、と私は思ひ直しました。──だが、いくら考へても到底道子のやうに巧みなさうして美しい文句は浮びません。道子に「この気持」を示したらどんなに軽蔑されることだらう、と思ふとひとりでに私の口元には寂しいさうして恥しさの余りの笑ひが漂ひました。──俺は自分の馬鹿さ加減を覆はうとすることを考へてゐるとは、何といふ馬鹿な奴だらう──などと私は思つたりしました。私は、歌のことは思ひきつて立ちあがりました。立ちあがりながら、一刻前漸く歌らしい言葉の連りが口のうちに纏つてゐたのを、それを私は──海へ来て石を投げつゝ思ふこと、たゞひたすらに石をおもへり──と口吟んで見て、恥しさの余りゾツとしました。私はたゞ無暗に口笛をピーピーと吹き鳴らして自分で自分をごまかしました。──こんな歌ではとても道子に見せられない、歌が出来たの、などと道子に云はれたら、仕方がない、子供ぢやあるまいしそんな莫迦な真似はとつくに忘れてゐたよ、とあべこべに鼻であしらつてやれ……などと私は愚かな画策を回らして気を休めました。
立ちあがつて両足を踏み張つて沖を眺めた私は、既にもう何も考へて居りませんでした、たゞ爽々しい空ろな心だけが残つてゐただけです。
私は、下駄を脱ぎました。さうして、それをキチンとそろへました。それから帯を解いて着物を脱ぐときまりよく下駄の上に重ねておきます。で、薄いメリヤスのシヤツ一枚になつた私は、四肢にウンと力をいれて、ピシヤツと平手で景気よく股を叩きました。「少し運動をしてやれ。」と私は思つたのです。打つた個所の股は、赤く平手の痕を残しました。それを見たとき、止めようかしら馬鹿々々しい、といふ気がしましたが、間もなく私は駈け始めました。
暖い砂がパツパツとはねあがつて、規律正しい諧調で砂と空気とを蹴つてゆく爪先の感覚が非常に快いのを沁々と味ひました。だんだんと私は脚の速力を速めました。さうして私は夢中になつて、
「よう! うんと!」などと云ふ懸声をして励ましました。
「死んでもいゝぞ、──しつかり、しつかり!」
そんなことをも云ひました。
右の股に鮮かに赤い平手の痕を残した私の脚は、その愚かな頭を載せて怖しい勢ひを持つて、さながら機械のやうに速かに走りました。──。
海へ流れ込む幅三尺ばかりの流れを眼の前に発見した時、私の胸は愉快な興奮を覚えたのです。そこで私は歩調を少しく緩めて、流れの一間ばかり手前へ来ると幅飛びの身構へをしました。──「ヨシツ。」と叫んだ私は、力一杯ピヨンと飛んで、「気を附け!」の要領で踏み止まりました。向うの大きな籠の上に白い鳥が一羽止つてゐるのが見えました。
「どの位ゐ飛べたか。」と私は思ひました。振り返つてそれを確めることが楽しみに想はれます。で、私は二分間ばかり振り向かずに其儘屹立します。沖の方で汽船の笛が円く響きました。
「熱海行だな。」と私は思ひましたが其方は見向きません。ちよつと見度いやうな気はしましたが強ひて見なかつたのです。
振り返つて見ると、私は可成りの距離を飛んでゐます。二つ宛の足跡の間隔の真中にチヨツピリと小川が流れてゐました。足跡は小川などを敵と思つてゐないやうに見えました。その手前まで駈けて来た一筋の私の足跡は綺麗な砂地に魚のやうに滾れてゐました。──もつと真直に駈けて来たやうに思はれたのに、その私の足跡は可笑しい程ヒヨロヒヨロと曲つて居ます。私は、足跡を伝つて着物のところまで視線を運びました。思つたより遠く駈けて来たことを感じました。またあそこ迄戻らなければならないのか、と思ふと私の気持は急に怠惰なものに変りました。私は両腕を後ろに張つて、其処に腰を降ろしました。私の腹は大きな呼吸で波打つてゐます。私は煙草を喫ひたかつたが、仕方がありませんので腹を瞶めました。性急に間断なく腹の運動は持続します。膝頭に止つた脚の長い小さな昆虫が腹の上に飛び降りました。虫は凝と翅を休めるとどんなに私の腹が大きく脹れたり凹んだりしても一向頓着なく何かものを考へながら遊動円木か何かに乗つてゐるかのやうに白々しく止つてゐました。そのうちに私の息切れは収まりさうになりましたが私はその虫を眺めながら故意に大きな深呼吸をしました。着物の在る処迄帰らなければならない、大儀さばかりを私は思つてゐるのです。
「道子の奴がまた眺めてでも居やしなかつたかしら。」
かう思つた私は堪らない冷汗を覚えて慌てゝ立ち上りました。そのことを確めるために駈けても帰りたくなりましたが、もう肉体にそんな元気がありませんでしたので、私は渚に降つてピシヤピシヤと水を蹴りながら、後悔の余り陰鬱な気持で着物の場所迄引き戻りました。
「神経衰弱で……。これから毎朝早く起きて浜へ運動に出るんだ。」
道子へは斯う云はう、などと思ひながら私が下駄と着物とを抱へたまゝ静かに桟橋を昇り初めた時、ギユウツと音を立てゝ空腹が鳴りました。
底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「十三人 第三巻第十一号(十二月号、終刊号)」十三人社
1921(大正10)年12月1日発行
初出:「十三人 第三巻第十一号(十二月号、終刊号)」十三人社
1921(大正10)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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