晩秋
牧野信一




 僕はどうしても厭だ、と云つたが、みち子がどうしても行くんだ、と云つて承知しない。何故僕が強情を張るか、その理由はちよつと……云ひにくいこともないけれど、云つたつて仕様がないから、云はない。

無性ぶしやう! 無性! 無性屋さん……」と叫んだかと思ふと、いきなりみち子は僕の背中をドンと打つた。

 僕はウーンと仰山なうめき声を発して死んだ真似をした。──さうしてみち子に悟られないやうに、薄く眼を開いて見たら、もうみち子の眼眦には涙が溜つてゐた。何といふ泣き虫な子だらう、僕は苦々しく思つた。少し可哀さうなやうな気もしないでもなかつたが、一体僕は同情心が深過ぎる性質で、その性質を自分でよく知つてゐたから、これツぱかりのことでまたそんな心を起してはよくない、教育の為に宜しくない──などゝ気が附いたので、黙つてゐた。

ようツてエば……」

ようとは何だ。あんまり甘えるな。」

 僕は起き上つて、厳然と坐り直つて、みち子の顔をウンと睨めた。──みち子は、急に僕が態度を改めたのでびつくりして、キヨトンと僕の顔を視詰めた。

「何だ! ひとが黙つてゐると思つていゝ気になつて……」

 みち子は、何とも形容の出来ない変な顔をして、尚も凝と僕の顔を見てゐる。少しく危いぞ、と思つたが、かういふところが大事なところだ、決して機嫌など取つてはならない──。

「その顔は何だ。怒りさへすればいゝと思つて。」

 之だけいつたら何とか返事があるだらうと思つたが、みち子は決して口を開かぬ。僕も少々焦れ度くなつて、

「知らないツと!」

 横を向いて、机の上の本に眼を落して了つた。

 それと同時にみち子はムツクリと立ち上つた。さうして物をも云はず足音荒く僕の室を出て行つた。そら始つた──と僕は思つた。然しかうなると僕も少々気になり始めたので、机の前を離れてそつと階段の降り口に忍び寄り、階下の様子を窺つた。

「泣いてゐちや解らないぢやないか、ええ? お前はほんとに泣き虫だよ、だから兄さんにからかはれるんだよ。」

「…………」

「どうしたツてえのさ、えゝ?」

「兄さんの嘘吐き!」

 突然みち子はシヤクリあげて、叫んだ。

「どんな約束をしたの? お母さんに云つて御覧──」

 それから稍暫くみち子は泣きじやくつてゐたが、漸くそれが収まると、次のやうなことを言ひ付けてゐた。

 それはもう十日も前に約束したことで、明日の日曜日に江之島へ行く筈になつてゐた。ほんとならこの前の日曜日に行くところだつたのが、その時になると「憎むべき兄」は突然急用が出来て、友達の家へ行つて夜おそく帰つた。その時も違約のことを攻めたら「この次には確だ。」と堅く云つてゐた。

 ところがいよ〳〵今日になると、「急に頭が痛くなつて来た、どうも近頃神経衰弱らしい。」と云ふ。「そんな都合のいゝ神経衰弱があるものですか。出掛けるのがそんなに億劫で厭なのなら、始めつから約束なんてしないがいゝ。約束をしたから待つてゐたのです。」余り癪にさはつたから「そんな出たら目の虚病けびやうなんか、汽車に乗れば直ぐに治つて了ふ。──なアんだ、男らしくもない。」と云つてやつたら、真赤な顔をして「馬鹿!」と怒鳴つた。もう我儘が出来なくなつて夢中になつて背中を打つた。

「あたり前よ。」とみち子は云つた。

「それは兄さんがよくないね。」とみち子の母はみち子に加勢した。

「だけどお前もいゝとは云へないよ。どうもお前はお転婆でいけない、仮りにも兄さんをつなんて──」

「だつてもう口惜くつて堪らないんですもの。」

「二人ともいけない。」

よう、お母さん。」

「何をね……」

 こゝまで僕は聴いた。それから僕は慌てゝ机の前に戻つて、本の上に眼を落してゐた。

 僕が予期した通り母が僕の室に入つて来た。

「勉強? 頭が痛いツて、どう?」

「えゝ、今朝から痛いんです。」

「余り勉強し過ぎてもよくないよ。明日は日曜だから、朝早くおきて一日どこかへ散歩にでも行つて来たら?」

「僕、遠足はきらひなんですもの。」

「だから頭が痛いんだよ。稀には郊外の方へでも行つていらつしやいなね。」



 いよいよ江之島へ行くことになつて了つた。みち子と二人きりでは我慢が出来さうもないので、友達の岡村に電話をかけて「一緒に行かないか。」と云つた。丁度岡村も弟の正ちやんを伴れて何処かへ行く義務を負はされて弱つてゐたところださうだ。と「不思議にも同じ運命の許にあつた二人は、これでいくらか助かつた。」と云つて、二人は笑つた。岡村が行くのなら僕も面白い。朝七時に新橋で会ふ事に定めた。

「兄さん写真機は持つて行かないの?」

 すつかり機嫌をなほしたみち子は、そんなことを僕に注意した。

「そんなものいらないよ。」

「何故?」

「あんなものをブラさげて歩くのは大嫌ひなんだ。──それに岡村が持つて行くだらうから、それで沢山だよ。」

「私達も持つて行つた方がいゝぢやないの?」

「まア、いゝよ。」

 僕は、何か手に持つて歩くのが煩いので、ステツキすら持たずに、たゞ両手をブラブラと振りながら出掛けた。

「みち子さん暫く見ないうちに随分大きくなりましたね。すつかり姉さんになつて了つたな!」

 岡村がこんなお世辞を云ふと、みち子はホヽヽヽと笑つた。僕は、そつとみち子の済した横顔を眺めると、前日の騒動を思ひ出して、もう少しのところで失笑するところだつた。

 汽車は既に「大船」を過ぎてゐた。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房

   2002(平成14)年820日初版第1

底本の親本:「少女 第一〇八号(時雨の巻 十二月号)」時事新報社

   1921(大正10)年118日発行

初出:「少女 第一〇八号(時雨の巻 十二月号)」時事新報社

   1921(大正10)年118日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年329日作成

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