痴想
牧野信一
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私は岡村純七郎の長男で純太郎といふ名前である。私の家の伝来の風習で長男には必ず「純」の字を通り名として用ひてゐるさうだ。──私が生れた時、私の名前に就いて父は少しは頭を悩ましたらうか、種々な名前を考へたらうか……いや、そんな筈はあるまい。至極単純な頭悩の所有者である彼は、愚かな伝統を尊重──と云ふより寧ろ単なる不用意な考察で──それで私の名前なるものが制定される。
「返つて斯ういふ方がいゝよ。」純七郎はお神酒をチビチビ飲みながらビラを見上げて云つた。
「太郎なんて厭ですわね。もう少し何とか考へがないものでせうか。」と母は甘えながら不平を鳴らす。母は十七歳で父が二十四歳で、彼等は熱烈に恋し合つてと云ふ噂だが──然し多分母の方はそれ程でもなかつたらう、純七郎の容貌に比べたら彼女の方が数等優つてゐたであらうことは、現在でも一見して想像がつく──十七歳の母を想像すると、私は極めて快い幻に恍惚とする……私は様々な情景を想像した。
「何だ! つまらないことを考えてゐる。」と、私はその安価な幻を吹き飛して──一度立ち上つて再び机の前に坐り直すと、抽出しから既に先刻から何回となく繰り返して見たところの一通の手紙を取り出した。その封筒の表を返して机の上に置くと腕組をした儘ぼんやりその表書を瞶めてゐた。
「×区××町××番地 岡村純太郎様」
草書の巧みな筆蹟を、変な気持で眺めてゐた。「文字ツておかしなもんだな。」──そんな気がした。封書の中の長い手紙──あれが、そんなにもこの俺を悲しみの底に突き落したのか、俺はその文字を読むで一刻前泣いたのだつた──そんな予猶らしい洞ろさが私の意識をキヨトンと覆つてゐた。──「人間が知らない言葉を自分だけが知つてゐるやうな時がある。」たしかそんなやうな意味の歌が啄木のものゝ中にあつたことを、私はふと思つた。同時に瞬間のその夢を醒まして私は自らを冷笑した。
女に捨てられたといふ単純な原因で、悲しみの余り私がこんな途方もない妄想の逃場に走つてゐることは無論である。芝居の道具立のやうに簡単で安ツぽい私の心情であるから定り切つたその原因で──遂々悲しみにさへ堪えられず、茫漠と頭の意識が煙つて了つたのである。だから、
──到々あの恋しい女に捨てられてしまつた──私の心の動きはちよつと緩むと直ぐにその悲しみに眼醒める、今更のやうに新しい悲嘆がムツと胸一杯に拡がる、その他に一微の間隙もなく。寂しさと未練と嫉妬とが、日向葵の花の風車のやうにクルクルと回つて炎えたつ。
私は口惜しさの余り、その手紙を引き裂かうとする──未練さの余り、役者のやうに醜い顔付をして仰山にも、手紙に接吻をする──すると私は、このやうに悲嘆の余り胸をかきむしつて、無気味な肉体をのたうちまはし、ラオコーンのやうに怖ろしい苦悩に虐げられてゐる光景が──何だか猛烈に痛快なやうな気がして来る。
「態あ見やがれ、いゝ気味だ。」冷かに自らの痴態を冷笑する快が起る──不思議にホツとする、再び私の妄想は幼稚なる無稽な境地に飛んで、白々しい安易と陶酔の裡で愚かな微笑を洩らす。
「岡村純太郎失恋の光景か!」
私はそんなことを呟いで、思はず吹き出してしまつた。
これにすら私の神経は惨々に疲れてしまつてゐて──笑ひが止まると、たゞ苦いやうな顔をして洞ろな頭を静かに手の先で按んでゐるばかりだつた。──同じ心の働きが宵のうちから余りに多く繰り返され過ぎてゐた。
煙草に火を点じて銜へた私は、深呼吸でもするやうに胸を張り出して徐ろに吸ひながら尖端の火を瞶めた時──。
自分の呼吸の一回の吸引力は果してどの位ひの分量があるか知ら──といふやうなことを試みてゞもゐるかのやうな、然もその興味に駆られた心が起つた。
プスプス……ツと煙草の燃ゆる音がする、沈重に吸ひ込む力に伴れて紙の燃焼する繊細な蠢動が、睫毛を透して丸くなつたり伸びたりして映つた。真夜中だから怖ろしく静かである。微風もないが快い初夏の夜の底である。──その一回で、支へてゐるのが危ぶまれる位ひに長く灰が溜つた。私は曲芸でもして見せるかのやうにそつと煙草を唇から離すと、二本の指に挟むだ儘、余り注意を其処のみに凝集させた為に稍もすれば震へさうになるのを辛うじて怺へて、此方は口に含むだ煙りを、口笛を吹くやうに両唇を細めて吸つた時と同様徐ろに吐き出した。煙りは障子の隙間から忍び出ると、晈々たる月光の薄霞みの中で々たる月光の薄霞みの中で直ぐに消へた、のを私は硝子戸越しに見た。
……思ひ切つてもう一度やつて見ろ、まんまと行つたらお慰みだ……こんなことを熱心に想つた私は手は動かさずに唇だけを烏のやうに其方へ差し延べて、また徐ろに吸ひ初めた。その時、胸が一つドキツと変つた鼓動を打つた。と、灰は机の上の白い紙の上に醜くゝ落ちてゐた。──灰が落ちると見たので胸が鳴つたのか、胸が鳴つたので灰が落ちたのか、と私は考へた。
私は、急いで灰を窓の外へ吹き飛した。
その重ねた白い紙に、ペンを執つた私は、──「秀子」と書いた。「秀子、秀子、川瀬秀子」学者のやうな皺を眉間に寄らして切りに「秀子 秀子」と書いてゐた。「捨てられて了つた方がはるかに爽々しい。」──そんな気さへした。──「退屈だな。」などゝ思つた。
私は、そのペン先が「岡村純太郎」と書いたのを見ると、また何だか可笑しくなつた。私は書散らしの紙を苦茶苦茶に丸めると、口の中へ投り込んだ。さうしてニヤグニヤグと頤を動かせながら反芻動物のやうにそれを噛みしめてゐた。──私は気持が悪くなつて、窓を開けると唾と一処にそれを吐き飛した。さうして喉をゲイゲイと鳴らしながら紙臭い不快な唾気を切りに吐いてゐた。
私は背骨を延して端然と机の前に坐ると、開け放した窓の外を眼ばたきもしないで眺めてゐた。窓から洩れた光りが小さな庭の樅の木の頂きを浮き上らせてゐた。私の室は二階の六畳間なのである。庭先を半分照らした室の光りは幻灯のやうに隣家との境ひの生垣のあたり迄微かにぼやけて、そこで稍青白い夜の闇と飽和した。私の入道頭が影になつて切り抜いた墨絵のやうに庭の中央に落ちてゐた。さうしてそれはブランコのやうに浮游した。私は決して体を動かしてゐないのに「どうしたのだらう。」と思つた。振り返つて見ると後ろの電灯がユラユラと動いてゐた。一刻前、唾気を吐く為に立ち上つた時私が頭を突き当てたのだつた。私は、そつとその動きを止めた。ちよつと灯りを消して見て直ぐまた明るく付けた。──坐ると、床の間の隅でコチコチと眼醒時計の音がしてゐるのがふいと耳に入つた。私の意識はそれだけに集中された。私は、その音を数へてゐた。──眠れない時は、時計の音を数へてゐると間もなく眠れる──幼い時分から寝付きの悪い私は小さい時分よくそんな事を母に教へられた。「厭だ〳〵そんなこと、それよりもつと面白いお話をしてお呉れツ──自分が眠ツ度いもので……厭だ。」母が半分眠りかけてゐるのが癪に触つて私はワザと眼をパツチリと見開いて足をバタバタと暴れたりした……記憶が蘇つた。──。
私は自分の胸の鼓動が微かに聞えてゐるのを知つた。──私は、何だか時計の音が煩くなつて、再び立ちあがると、止める工夫はないかしらとちよつと考へたが、そんなことは出来るものではなかつたから、押入れの中の支那鞄の底へそれを投げ込むでしまつた。──これでも聞えるか知ら、と凝と耳を傾けて見たが、決して聞えて来なかつた。「まあ、いゝあんばいだ。」──そんな気がした。
私は元の姿制に反つて坐つた儘、空を見上げてゐた。星が一面に瞬いてゐて、空は明るかつた。さかさまになつたら星を踏むで歩けさうな気がした。(この形容は余りに無稽に過ぎるものゝやうに響くが、酷く病的に軽く洞ろになつてゐた私の頭にそんな浅はかな考へが浮むだのは、私にとつてその場合余り不思議はなかつた。)
「退屈だな。」
私はまたそんな気がした。
首を動かして見ると首筋のところがギシギシと妙な音をたてた。
「それでは明日にしませうね。それまでに私はお化粧をしなほしておくことにしませうよ。このなりでは少し薄着でもあるし、それに旅行をするのには変ですわ。──そして私のことを死んだと思つて大変に悲しがつてゐる私のお友達に知らせも出しておかなければなりません。お金も着物も馬車も悉く仕度は出来てゐます。ぢや私、今夜と同じ時刻にお尋ねするわ。さようなら。」……。
私はふとそんな言葉を思ひ出した。それは二三日前私が途中まで読むで、退屈の余り惜気もなく放擲したゴオチエの「クラリモンド」と云ふ小説の一句だつた。
そんなことを想つた私は、尚も空を眺めてゐるうちに、いつの間にか自分の体が何処へか消え去つて仕舞つたやうな好い気持になつた。
私は煙草を取つて、スパリ〳〵と煙りを吹いてゐた。煙りは直ぐに薄い闇の中で消えた。少しばかりの庭木であるが、闇にかこまれたそれ等は薄黒く恰も海草の群のやうに静かな夜の底に軽やかに立ち並むで見えた。私は自分が魚になつたかのやうな気持で、美しい空を見上げたり木々の繁みを眺めたりしながら切りに煙草を吹いてゐた。──そのうちに私の心にちよつと技巧が加はつて、私は自分自身を、水族館の水槽の中の小魚に例へたりした。煙りが、今にも水泡になつてプクプクと浮き上ると水面で砕ける……そんな可笑しなことを想ひながら戯れ気に煙りを吹いては星を見上げた。ひよろ長がな黒い雲の一塊が徐ろに動いて行くのを船の底ではないかしら、と怪しむだりした。
間もなく飽きた私は、窓を閉めた。
床にもぐつたが眠れさうで眠れない、で私は本箱の中から出たらめに五六冊の本を取り出して開いて見た。何れを読むでも面白くなかつた。五分と同じ本を持つてゐることは不可能だつた。私は仕方がなく、その一冊を取つて小さな声で朗読して見た。丁度、眠れない時に時計の音を数へて見ろと、教へられた時のやうな心細い気持で。
私はいきなり第一頁を口吟むだ。
In Thessaly, beside the tumbling sea,
Once dwelt a folk, men Called the Minyae;
For, Coming from Orchomeuns the old,
Bearing their wives and children, beasts and gold,
Through many a league of land they took their way,
And stopped at last, where in a sunny bay ……
それだけ読むと、私は何となくいらいらして本を投げ出した。何でもないものに何かの点で意味を感じようとするセンチメンタルに自分ながら歯の浮く余りな反感を覚えたのでもあつた。
………………
それから私は別の本を取つて矢張り最初の頁を開いて読むだ。
「生物の進化は理論に非ず、又空想に非ずして、宇宙に於ける確乎たる一大事実なり。古くは仏蘭西のラマルク、獲得性によりての進化を称へたるも世の顧るところとならざりしが、一八五九年ダーヰンの「種の起原」出ずるや、生物の進化は自然淘汰の大原理に基くこと明かとなれり、ダーヰンは其後更に雌雄淘汰をも加へ、自然界に於ける生物進化を十分に説明し、且つ人為淘汰の実験によりて、淘汰の結果漸次種を変化せしむることを明かにせり。是等の発達は十九世紀の後半に於て成遂げられしものにして既に吾人の常識的事実となりしものなり。唯淘汰をなすに必要なる変異の起因に対して、現今大いに論事あることは……」
出来るだけ興味を持たぬ為に読み始めたものであるが、何となく「つまらないな」といふ気持がして来て(それでゐて眠さは決して訪れず)私はバツタリと書物を落した。
間もなく私は、床の中から這ひ出て、一つ大きな伸びをした。取り散らかつた蒲団が醜悪な感じがしたので、階下に物音を悟られないやうに静かにそれを片附けて押入の中へ蔵つてゐた。で、私は再び机の前に坐つて居た。──兎に角一刻も早く夜が明ければいゝ……それが何よりも待たれた。──「明日はひとつ友達を訪れて何か素晴しく面白いことをして遊ばう。」
真夜中に、こんな滑稽な想ひに駆られながら、恰も昼間の通りに動いてゐる私自身に、私はふいと狂ひ沁みた怖ろしさを感じたりした。「昼間にさへなれば他合もなく紛れる。」
秀子に捨てられたらば屹度俺は自殺するに相違ない──常々私はさう思つて居た。屹度自殺するに違ひない、と思つてゐたゞけに、そんな場合はないやうな気がしてゐた。捨てられたら、といふ仮定は自殺を私が決心しても決して私に取つて戯談でなかつた程それは遠いものであつた。
それが今……俺は、俺は秀子に捨てられた自分自身を見出してゐるのではないか──俺は何故もつと悲しまないのだらう……などゝ私は事更に考へるやうな思ひで、捨てられた悲しみを誘ひ出さうとした──どうしたものか、私は悲しくもなければ未練もなければ、それに昨日までその秀子といふ女が自分の恋人であつたのが不思議なやうな気がしてゐた。はつきりと、私は秀子の美しい顔かたちを幻に描いた。──「あんな美しい女と交際が出来たのは何といふ自分は幸福者なんだらう。」──此上未だ秀子に可愛がつて貰はうなどゝは余り図々し過ぎる話だ。俺が秀子の恋人の気で好い気になつて、結婚なんて夢想したとは何といふ滑稽な自惚れだつたらう。縦令一日でも秀子が俺をからかつて呉れることは俺に取つては九拝しても足りぬ筈なのだ。それを一年の上も往来して来たとは、──こゝらで捨てられたとて俺は感謝の涙を滾していゝ筈だ。初恋に破れた秀子が第二の恋人を探し出す間のつなぎにちよつとこの俺を話相手にして呉れたのだ。秀子は親切な女なのだ。この俺をこんなに永い間憐れむでゐて呉れたとは。──。
私はそんな莫迦気たことを切りにうとうとと思ひつゞけてゐた。私は快い気持で美しい秀子の幻を追つてゐた。全く捨てられて悲しむなんて勿体なさ過ぎる、といふ気がし始めてゐたのである。
私は失恋の男が自殺する光景を想像して見た。「それにしてもこんな心持を秀子に見られたら恥しい。」──そんな気がした。
私は、手持無沙汰の余りまた机の抽出しを出して見ると、ナイフが一本眼に止まつた。秀子の手紙をもう一辺読むで見やう、若しや自分の読違ひではないかしら、と思つたが、それは私がさつきから何辺も秀子の手紙を読直した源因と同じものだつたので、私はあきらめたのである。
私はナイフを指の先で弄んでゐた。その先で手の甲を軽くこすつて見たりしてゐた。腕に唾をなすり付けて、むく毛を剃る真似をしたりした。
私は、再び(面白半分に、といふ心と無意を慰めるといふやうな心とで)失恋の男が自殺する刹那の光景を想像して見た。
私は、役者になつたかのやうなオドケた気持で、徐ろに坐り直した。さうして、判官のやうに厳然と端座して、厳粛な顔付をして胸を拡げてゐた。──私は、凝と臍を瞶めた。私の腹の表皮は蛙のそれのやうに生々しかつた。私は光つたナイフの尖端を垂直に接近させた。屹と力を込めて握つたナイフを身構へて、私は腹の呼吸が波動するのを見てゐた。大きく呼吸するともう一分で腹はナイフの尖端に触れかゝる、私は故意に深呼吸をして腹部の山と谷とを仰山に動かせた。……その時私は、フツと噴き出すのを辛うじて堪へた。と、呼吸がちよつと静止して、腹は力を込めた儘木像のやうにピタツと静粛になつた。私は益々可笑しくなつた、が一層それを堪へた。下腹に力を込めて呼吸を止めてゐるので仲々若しかつた。さうして尚も私はコブコブになつた腹の筋肉を凝と瞶めて居た。
「なる程、俺は今たしかに我慢をしてゐる……偉いぞ、偉いぞ。」──「もう少しの辛棒だ。」そんな事を思つた私は、その自分を自ら励ましたりした。脣を食ひ縛つて、下腹にウンウンと力を籠めて、一生懸命に息を殺して、ナイフの尖端と、それが刺すべき表皮の一点とを眼ばたきもしないで眺めた。
「ほんのぽつちり、ちよつと刺して見ようか、チクリと。大して痛くもあるまい。」
ふと私の頭にこんなことが浮むだ時、到々堪へられなくなつて噴き出した。さうして大きな呼吸を始めて居た。
私は、自分ながら余りに莫迦気た行ひに羞しさを覚へたので、慌てゝナイフは抽出の中へ投げ込むで──その儘私は上向けにふんぞり反つた。さうして平手で胸をピシヤ〳〵と叩いてゐた。
「酒でも飲みたいな……」と私は思つた。さう思つた時私は遇然の悦びに雀躍りした。床の間の袋戸棚の中にウヰスキーの角罎が一本入つてゐることを知つてゐた。どこかゝら使ひ物に貰つたのだらう、四五日前から其処に入つてゐた。私は早速それを取り出した。秘かに勝手もとへ忍び込むで栓抜きとコツプとを探し出して来て、チビチビと飲み初めたのである。私はそれをラツパ飲みをしたりした。私は間もなく怖ろしく酔つて了つた。
………………
私は蹣跚としながら、それでも足音を忍ばせなければならないと云ふ意識はあつて、静かに階段を降りてゐた。私は水を飲みたくなつたのである。
漸く無事に勝手に辿り着いたが電灯が容易に見当らない。私は両手を捧げて踊りを踊るやうな妙な手付をして一生懸命で闇中模索を行つた後やつと火を燭すことが出来た。それを探す為に可成り長く上を向いて不自然な動作を演じてゐたので、ふと私はムカムカと吐気を催して来て、急いで勝手口の雨戸をおしあけて首だけを夜の大気の中に突き出した。ふと、その時空を見上げると、私は「やあ、奇麗だな。」と思はず呟いた。始めて見た立派な花火のやうに星が美しく見へたのに驚いた。私は胸の苦しみを忘れて了つた。無数に散点した星を、私は丁寧に、順々と、一つは紫に(と思つて見ると紫に見へた。)一つは赤に、一つは青に……などゝ思つて見てゆくと此方の心もその通りな色になる──などゝ何か発見したかのやうな喜びでぼんやりと見上げてゐた。
「いけない〳〵、戯談ぢやないぞ。俺は怖ろしく酔つて了つたのだ。──独りきりだからよかつたものゝさつきからみつともないことをしてゐたものだ。」と気付いて戸を閉めた。
「純太郎! 純太郎かい。」
奥の方からこんな声がした。母の声だつた。私は、ハツと思つたが、それにしても妙な気持で何だか自分の名前を呼ばれてゐるのではないやうな心で、キヨトンと立止つた。
「純太郎、お前今頃何してゐるの? 何だね、夜中ぢやないか?」
突然私が顔を上げると、吃驚りした母親が私を見降ろしてゐた。私は板の間に横たはつてゐたのである。
「アツ!」と私は思はず叫むだ。──「アツハツハ……お母さん心配かけて済みませんでした。うつかりねぼけてしまつてね、今、はゞかりに降りて来たところが、──どうも、弱つて了つて……」私は何気なさを装ふて笑ひながらも何か口のうちで辻褄の合はぬ弁解を呟きながら、ヒヨロ〳〵と階段を上つてゐた。
「何だ、純太郎か? 今時分騒ぎやがつて煩せえじやねえか。」
ドラ声な父の罵りを後ろにした私は、何云つてやがるでえ、フヽンだ、とばかりな、それにしても何だか痛快なやうな気持で、上り切つたところでふてくさつた足音をドシンとひとつ音立てた。
………………
室に戻つた私は、前後不覚に昏々たる眠りに陥つた。私はどの位ひの間眠つたか知らなかつたが、ふと夢を見て、眼が醒めた。
私の脣に冷い月の雫が滾れる、私は水に浮び上つた金魚のやうにペチヤ〳〵とそれを舐めた、何とも云へない美味さである。それは野原だつたか水の中だつたか解らない。
「さあ、一処に踊りませう。」
「踊りよか僕は接吻の方がいゝ。」
「そんな厭らしいことを云ふものぢやなくつてよ。」
「つまらねえな、踊りなんて。」
「愚図〳〵云はないで、さあ、早く〳〵。」
私は女に手を執られて、──名状し難い恍惚を感ずると……私は眼が醒めてゐた。
押入れの中の眼醒し時計が快活な歌をうたつてゐた。
「もしもしカメよ、カメさんよ……」
また親父に怒鳴られでもしたら大変だ、と気附いた私は慌てゝ押入れへ飛び込んで時計を取り出した。
私は、時計を取り出すと、ふと──両手でそれを高く捧げた儘、うつとりとして微妙なオルゴールの音楽に凝ときゝ惚れた。
底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「早稲田文學 第一九〇号(九月号)」早稲田文學社
1921(大正10)年9月1日発行
初出:「早稲田文學 第一九〇号(九月号)」早稲田文學社
1921(大正10)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月29日作成
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