白明
牧野信一



 医院を開いてゐた隆造の叔父が発狂して、それも他所目にはさうとも見られる程でもなかつたが職業柄もあつたし、家内の者達への狂暴は募るばかりで「酒癖が悪い」位ゐでは包み終せなくなつて、漸くのこと、三月ばかり前にS癲狂院へ入院させて以来──毎晩のやうに同じやうな叔母の愚痴話の相手になつて、隆造は夜を更さなければならなかつた。

「だけどね、隆さん。」と、叔母は炭をつぎながら云つた。「情愛てものは争はれないものだね。妾はつく〴〵感心して居るのさ。だつてね。叔父さんがあんなに酷く酔つて、まるで気狂ひのやうに。」と思はず叔母は云つたのに気附いて、「アラ、まあ!」と寂しく笑つた。「いゝえ、さ、ほんとに。」直ぐに真顔に返つた叔母は、「どんなに酷く暴れてゐる最中でも隆さんが入ると恰で猫のやうにおとなしく変つて仕舞ふんだもの。だからお前さんの阿父さんが、彼奴はそらつかひだ、なんて疑つたのも無理はないね。」と沁々しみ〴〵と云つた。

「さうですね。」隆造は、実際叔母の云ふ通りであつたから何の顧慮もなく斯う答へる事が出来た。少くとも彼は此ことだけは自分の力を信ずる事が──結果から見ても出来た。

「いつかの時なんかもう五分もお前さんの帰りが遅かつたら妾はそれこそ殺されて仕舞つたかも知れなかつたらう。」

「さうでしたね、あの時は。」隆造は、自分に何か特別の技倆でもあるかのやうな妙な誇りを感じて、反つて冷かに見ゆる落着さで悠々と煙草を喫した。

(隆造の父親は、彼の幼年の頃から外国で暮したので、隆造は十幾つかの時初めて父の顔に接したのだつたが、その時どうしてもそれが自分の父親だといふ気がしなかつた。隆造の家から学校へ通つてゐた叔父を、隆造は現在の記憶でも、その叔父に父のやうな親しみを感じた事を呼び起すことが出来た。その頃も叔父は一度発狂した。叔父さんの傍へ寄つては危いからいけない、と注意されたが、叔父が彼にだけは到底狂人だとは思へぬ位ゐ優しいので、「さう」思ふのは叔父に済まないやうな気もした。家人を怖ろしく罵つてゐる叔父の声を聞いて居ると、その言葉の中に相当な理由のあるやうな気さへした。叔父が真夜中に、一処に寝て居た隆造を抱上げた儘、寒い冬の星の下をどん〴〵と駈けた時も、左程驚かなかつた。)

 隆造は不図そんなことを思ひ出した。

(……「寒いから帰らうよ、つまんないや、夜なんて。」と、云つた。

「うむ、よし〳〵、ぢや一つ素晴しく面白いことをしよう、……さうだな、鬼ごつこか、それとも泥棒ごつこか。」

 …………………………

 その夜を二人は警察の留置所で明して、翌日から酷い熱が出て長い間入院した。叔父は常人よりも熱心に看病した。

「叔父ちやんのセエだよ。あたいがこんなになつたのは。」と、恨めしさうにマセた事を云つた。その時叔父の頬にポロ〳〵と涙が滾れてゐるのを見て、気の毒になつて此方も泣き出して仕舞つた。叔父は、

「うむ、よし〳〵、俺が悪かつた。」と云つて軽く額をおさへて呉れた。……)

 学校を中途で退学して以来、隆造は実家との折合が悪く、で、いつそ叔父の勧める儘に自分は検定で医者の資格を得よう、と志して三年程前から叔父の医院に依つて居たのだが、今だに彼は前期の免状さへ取れなかつた。近頃ではその望みもあきらめて仕舞つた、とまさか口に出して云ふことも出来なかつたが、「神経衰弱だ。」などゝ自称して無意な不自然な生活ばかりをおくり続けた。終日床を延べた儘、その中で珈琲を啜つたりウヰスキイを舐めたりしては、どんよりと魚のやうに頼りない眼を開いて病的な幻想にばかり耽つた。「俺は画家にならうか知ら。」と、そんなことを夢想することもあつた。夜になつて叔父の仕事が済むだ時分になると、とこ〳〵と降りて来て薬局生や看護婦などを集めて、トランプや花牌を合せては、キヤツキヤツと面白さうに騒いだ。それから眠れない夜中の来るのを何よりも彼は怖れた。……「あゝ俺の相手になつて呉れる人間は皆な安々と眠つて仕舞つたのか……。」などゝ考へて、皎々と明るい電灯の下でポツカリと眼を視張つて居ると、……気狂ひ沁みた恐怖などさへ感ぜられて──と、突然(その気持を自分では回復する為なのが)余りに大きな声で歌など歌つたのに驚くことがあつた。──彼は、叔父の家さへ出奔しようと思ふことさへあつたが、徒に幻想だけが放浪的になるばかりで、三村といふ看護婦と通じて居るといふことゝは全々別に、たゞ無暗と臆病な消極的な理性に怯されるばかりだつた。日増に実生活はちゞこまるばかりだつた。彼はこの醜悪な退屈を心から呪つた。けれど、どう考へ直しても薬局に入つて薬を盛つたり、試験の為にノートなどを繰り拡げる気にはなれなかつた。

「何か別の仕事をしたいな。」と彼はつく〴〵考へた。──。

 それが叔父の発狂以来、隆造と云ふ全く無用な人間が叔母達の間になくてならない必要なものになつたのであつた。

 つい以前だつて、叔父が直ぐ近所に在る隆造の実家へ暴れ込んで、父と大喧嘩をした時も、若し隆造が仲裁に入らなかつたならば何んな破目になつたか解らぬのである。母が涙声で迎ひに来たので、隆造は父に会ひ度くないと思つて居たが不性無性に帰つた。「叔父さん、まあ何をつまらないことを争つて居るんですよ、戯談ぢやない。」と云ふと、叔父は急にテレたやうに変つて「おゝお前に、なあに……」とセヽラ笑つて「お前の事に就いて親爺に話さうと思つたのだがね。さう自分の子供を馬鹿にするものぢやないてさ、ところが親爺の奴それが解らないと見えて……が、まあ、よし〳〵、心配するな。」と滑稽な程他愛もなく収つて仕舞つた。

「三村と隆造とを一緒にしてやれ。」といふやうなことを叔父さんは口走つた。傍の者は全々取り合はなかつたが、──隆造は慄然とした。「いつから叔父はそれを知つて居るのだらう。」彼は、医院の中ですら三村との関係は誰れひとり知らないものだ、と思ひ込むで居た。「それだのに、そんな事を平常素振にも見せなかつた叔父……」

 隆造は狂気である叔父に腹の中で手を合せた。「こんなことを若し父の前で常人が云つたならば……」

 一日置位ゐに隆造は、実家へ暴れ込む叔父を伴れ出す役目が出来て、皆なからは非常に重宝がられた。──今迄全々能のなかつた隆造は「滑稽にも。」と思つた。「随分此頃は忙しいことだな。」──と、彼は不思議な職業に就いたやうな異様な心持がした。妙な寂しさと焦燥と矛盾した安易の中で、

「俺は早く自分の仕事を定めなければならない。」といふ現実的な悶えを一層切実に感ずるのであつた。

 三村の事を考へると隆造は目が眩みさうになつた。──五ヶ月ばかり以前、彼女は叔父の医院を出たら或る大きな病院へ入る事に決めてあつたのだが、いよ〳〵といふ四五日前になつて、

「どうも変よ。」と、泣き出しさうな顔をした。──仕方がなく、倉皇のうちに間借りを求めた。女の妊娠を隆造はその日迄気付かずに居た。──。

 隆造は、あらゆる工風をして此数ヶ月を過したが、もうどうする事も出来なくなつて居た。──。

 …………………………

 隆造は真暗な心の底に浸つて、火を瞶めて居る叔母の髪の毛に眼を落した。

「ぢや、隆さん明日また病院へ行つて下さいね。妾達が行つたのぢや叔父さんの病気を募らせに行くやうなものだからね。ついでに病院の方の会計も今月分だけは済せて来て貰ひ度いし……」と云つて叔母は深い溜息を吐いた。

「えゝ〳〵、よござんすとも。」──「だけどね叔母さん、余り心配しない方が。」と云ひ掛けた隆造は、そんなセンチメンタルな慰め方をするのは、と気附いてヒヤリとした。

 が、見ると、叔母は袖を顔に当てゝシク〳〵と泣いて居た。

「悲劇が起つてゐる事だな。可愛想に。」と、隆造は三村のことも忘れて割合に清々とした恰で芝居でも見てゐるやうな気で他所よそ事のやうに考へてゐる自分のその惨酷(か、知らと思つた。)に軽く驚いた。

 隆造は云ふべき言葉も見当らないで──鉄瓶の口から噴き出て居る湯気を凝と眺めて居た。

 ……と、彼は「オヤ、〳〵。」といふ気がした。──自分の頭の中の途方もない妄想が、丁度その湯気のやうに発散して、真底から空虚になつて来るやうな気がした。

 次の瞬間、彼は、

ホヽ」と口をとがらせて笑ひ度いやうな気持が腹のあたりで二ツ三ツ波を打つたのに驚かされた。……「どさくさ紛れだ。」「なあに久し振りだから関はない。」などゝ繰り返しながら、ピエロオにつたやうな陰鬱な、悲惨な、それでゐて莫迦に愉快なやうな気持に追はれながら、素直な叔母を付け込むで出放題な文句を能弁に口走つて、

「どうせ云ふからは。」と最初思つた額から小刻みに上げて行つた、兎に角彼に取つては多額な金をまんまと貰ひ受けた。余り容易く叔母が与へたので、強迫したやうな後悔と寂寥と、別にアツケ無さとを同時に感じた。

「一先づ女の養生が出来る。」と、隆造はホツとしながら、

「あしたはひとつ台地へでも繰り込むかな、久し振りに。」と、そんな途方もないことを呑気さうに口走つた。三村との関係を秘密にする為に、実際は以前からも遊蕩など恰で知らない癖に、遊里に情人でもあるかのやうな口吻を洩して居たことを楯に、久し振りでその所を用ゐたのであつた。それを真に受けてゐる叔母は、隆造と実家との間柄も同情してゐたし、──「まあ、若いうちは。」などゝ、よく或種の中年者が云ひたがる型通りな伊達に自ら酔つて「まあ、内密でね。」と、時々気前を示したのだが、近頃は叔母の懐ろも怖ろしく不如意で決して以前のやうにこんな事が用ゐられる筈のない事は彼にも充分解つて居た。

「なるべく朝の中に病院へは行つて下さいね。」と叔母は稍冷く念を押した。

「勿論ですよ叔母さん、私だつて叔父さんに一日会はないと気持が悪いんですもの。」と隆造は元気よく云ひ放つた。


 翌日も隆造は午過ぎになつて床を離れた。──昨夜、金を貰つた時はあんなにも喜びながら(と、思つた。)今になつてみると、これから自分が金を持つて女を安心させに行く者であるといふことが、何だか嘘のやうな気がした。「惨めな想ひをしてまでも叔母から金など貰はなくても、まさか二人は餓死もしまい。」──と、そんなことを彼は楊子を含みながら、「オヤ、俺は妙な、それにしても莫迦気た事を考へてゐるな。」と、──この二つの気持が重い煙りのやうに頭の中で渦巻いてゐるのを、もう一ツ別の冷い気持が傍観して居た。自分で芝居を演じて、自分だけで観てゐるやうな心だつた。──。

 歯磨の白い大きな唾を彼は、徐ろに落すとそれがペツシヤリとつぶれたやうな音を立てた。地面の白い唾を、フツと眺めた。

「なあんだ、フヽン。」何気なく彼はさう呟くと醒めたやうに慌てゝ楊子を動かし初めて居た。塀の上で雀が囀つて居た。

 病院の仕払ふべき其月の会計と三村の養生費とで懐ろをふくらませた隆造が、六ヶ敷い顔付をして深川常盤町の叔母の家を出たのは、もうかれこれ三時に近い刻限だつた。──出掛ける間際までは当然先へ叔父の病院へ(時間の制限もあつたから)行く筈だつたが、ひと足外へ出ると……。

「先づ一刻も早く女に会はう、十分ばかりでも。」といふ心ばかりになつて小走りに橋を渡つて居た。

 ──何にと云ふと涙ばかり流すやうになつた女の蒼褪めた幻が隆造の頭の底で、幽霊のやうに可憐に男の来るのを待ち佗びてゐる姿が蹲つて居た。……隆造はグラ〴〵する頭をヤケに振りたふした。──脳天に太い錐を揉み込むで、その穴から女の悲惨な幻を吐出して仕舞ひたい心に焦つて歩みを速めながら、彼は懐ろの財布をギユツと握り絞めた。

 ……ふと、その刹那、女の幻が満足気に笑つた、かと見ると、急に悲惨な幻影は水のやうに速かに流れ去つて……と、隆造は、こんなことを想つて居た。「半月ばかり温泉へでも繰り込まうか、今夜はひとつ贅沢に芝居見物でもして、それから自動車を飛して……」などゝ切りにウト〳〵と甘い幻に酔ひ初めると、嬉しさの余り胸がワク〳〵と雀躍りした。

「うむ、それも出来る、──それも出来る。」

 一ツ〳〵を金額で計つて見ると思つてゐるだけの事は出来さうだつた。「こんな幸福が俺達を待つて居たのかな。」と何故今迄それに気が付かなかつたか、と思つた。(勿論それは、いつの間にか彼は今持つてゐるだけの全部の金を計上しての空想だつたが、この陶酔はそれに関る犯罪的理性をはるかに超越して居た。)

「面白いな、愉快だな、こんな機会はいつある事か。」と彼は子供のやうに微笑むだ。

「ところで女の一張羅を質受けして……」まで想つた時、まざ〳〵と妊娠×月の女の姿が写つた。……二ヶ月分の間代、食費、薬価、牛乳屋の払ひ……それ位ひは済しても大丈夫余裕はあるとは思つたが、何だかそんなツマラナイ物の為にむざ〳〵幾分でも金を傷けることが……いや、それよりも此愉快な空想を実現さすべき道程にそんな不快な時間を差挟むのが面倒な気がして。電報で呼び出さうか、などゝも考へた。──。

 到々隆造はこんな功利的な気を起した。「何も女はそんな遊山を望むでゐるわけのものぢやなし、それだけのものを残して帰つたらよからう、で俺だけは兎も角も……」

 その次の情景を想ひ浮べた時、彼は慄然と身震ひした。「こんな場合には、せめてこんな夢でも見るものさ。」と、あきらめた。山の手のK町迄の三十分余りの電車の中が堪へ切れぬ恐怖だつた。漸く電車を降りた彼は、自分が運ばれて来た車をホツとして見棄てた。「莫迦気た空想」「残忍な微笑」「幻滅」などの不快な心を、その電車と共に見送つて仕舞ふつもりでぼんやりと立止つた。

「それ程俺も莫迦ぢやなかつたが。」と、真面目に思つたのに可笑しかつた。が、急に涙が滾れさうになつた。彼は、火をけないで啣へて居た煙草を唾と一処に吐き飛した。

 ──女の胸へ取り縋つて声を挙げて泣く、さうして、許してお呉れ、許してお呉れ、と喚きさへすればどうにかなるだらう、どうにかして呉れるだらう……それ迄涙を堪へよう……と、焦かれながら隆造は息を切らせて坂道を昇つて居た。前夜の雨上りで、まだ空は湿気を含むで居たので堀のあたりから吹き上る風があつても生温かつた。けれど泥濘ぬかるみは恰度好く凍つて、駒下駄がギシ〳〵と鳴つた。その響きに彼は、いくらか快さを覚えた。

 ──「俺は今どんな顔をして居るだらう。」と、そんな余裕のある気持が、これ程切端詰つた感情の一隅で然も諧謔的に呟いだのを其儘持ち続けた彼は尚もぐん〳〵と歩いた。


「おや、またか? ……」──と、彼は、(沁々もう愛想が尽きた。)と、寧ろ呆然として思つたのは、……。

 女の家の門先を明らかに左てに意識しながら其処を素通りにして居たのだつた。

「チエツ、莫迦!」──彼は下唇をギユツと噛み絞めた。未だ同じやうな速さで歩いてゐた。……と、彼は突然背中へ冷水を浴せられたやうにドキツと胸が鳴つた。何気なさを装うた卑しい眼付で素早くあたりを見回すと、まあよかつた、(と、いふ気がした。)──小路には人通りがなかつた。で、慌てゝ彼は後戻りをした。……けれどまた女の家の門先迄来ると、一分前と同様な漠然としたテレた心と、ある功利的な欲望とで、──すツと行き過した。……「変な奴だな。気味の悪い。」と、腹の中ではオイ〳〵と泣きながらも、虚栄心でそれを覆ふやうに軽く不思議な微笑を湛へた。

「女は屹度火の気もない室で、自分で買つて来たと云つてゐたあの浅黄木綿で早手廻しな生着でも縫つて居るだらう。」と隆造は思つた。さう思つた時彼は、その室の中に居る女の方がそれでも此方に比べると余程幸福なものゝやうな気などした。──全く同じやうな心と動作とで、彼はその家を挟むだ半町ばかりの道を三四回往復した。──。

 わけの解らない、と思ふと、他合もなく解り切つて居るといふやうな夥しい焦燥の余り……もう何らの感情も消え去つたかと疑はれる洞ろな肉体を、彼は見出した。元の停留場へ来て立止つた時に、彼は懐ろで握り絞めて居た手の平を拡げてその筋を凝と眺めた。ビツシヨリと汗にぬれた手の平に快くも冷い風が当つたのを感じた。

「さてこれからと?」恥しいものゝやうにそツと呟いた彼は、成る可く遅く、と希ひながら見付のカーブを嫌な軋りを立てゝ曲つて来る電車をキヨトンとして見て居た。

 酷い満員の電車の踏段へ辛うじて足先を掛けた隆造は振り落される危険を気遣つて鉄棒に噛み付いた儘、自分の行先を考へなければならなかつた。曲芸でも演じて居るやうな危険を怖れてゐる人間が滾れ落ち掛つた儘、漸く吊り下つて居るにも係らず、そんなことには一向頓着なくグン〴〵と走る車が──その肉体的苦痛が彼は反つて好い気持だつた。愚かな妄想の網が小気味よくも圧倒されて、紛らされるやうな気がした。

「これが若し楽々と乗つて居られる車であつたならば、俺は屹度途中で飛び降りて仕舞ふだらう。」などゝ思ふと、直ぐにも女の許へ引返さうといふ清々しい健全な心も湧き上つた。──止つたかと思ふと直ぐに車は走り出す、さうして彼がいざ降りようといふ決心が付いた、と同時に車は走り出す、奇妙に(と彼は思つた。)車が走り出す瞬間と、彼が降りようと決心が付く時とが不思議にも間一髪も挿まぬ同じ瞬間なので、彼は降りる機会を見失ふやうな気がした。彼は女の許を尋ねない事を、他人の業にして自責から逃れることが出来るやうな気さへ感じた。

 隆造が踏み止つてゐる一足先に、菊石面アバタの大きな親爺が圧出された儘、わずかに隆造の体に支へられて「ウン〳〵。」とギゴチナサさうにもがいて居た。だん〴〵に顔と顔とが接近するばかりに密接した。親爺はセピヤ色に汚れた口から脂臭い息を遠慮なく隆造の、少し汗をかいてゐる鼻先で呼吸した。毛皮の襟巻からはみ出た咽喉の筋肉が二重になつて、隆造の眼の先にその暖みを滾した。隆造は隙を見ては懐ろの中へ大きな息を吐き込むだ。カーブに差掛つた時車の群衆は一つ大きなうねりを喰つた。親爺の頬が危く隆造の鼻先へ触れる処だつた。「ヤツ、こいつはたまらねえ。」と、さすがの親爺も辛うじて顔を反らせて、それとなく笑つた。ちよつとその笑ひに隆造は親しみを感じた。目の前に拡大された親爺の頬の一部の菊石アバタを隆造は不思議なものでも見るやうに凝と瞶めながら、これから自分の行かうとする歓楽の情景を一つ〳〵模索して行つた。名状し難い閑寂な気持さへ湧き上つて、彼は指先の痺れも忘れて眼を閉ぢた。一つの歓楽の対照を想像して見ると(それが従令活動写真か寄席へ入る事でも、)彼は充分其場に応じた愉快を考へる事が出来た。どの一つにも夫々同程度の感興を予想する事が出来た。「女の許へ帰る事」もその中の一つとして考へられるやうだつた。……。

「遊蕩」「暴飲」「売女を伴うた派手な旅」「贅沢な買物」「……」……彼は熱心に一ツを選ぶ為に迷つた。……フツと眼を開くと、未だ眼の先に親爺の横顔が横たはつて居た。懐ろに顔を埋めて密に彼は笑ひを洩した。

 隆造の手首の感覚は失はれ掛つた。胸は圧へられた儘非常に息苦しかつた。爪先は辛うじて踏台に触れて居た。裾のあたりは旗のやうにパツ〳〵とまくれ上つた。弓のやうに曲つた彼の体は殆ど車体の外に露はれて居た。その滑稽な隆造の肉体は、夕暮の寒い巷の風を切つて矢のやうに走つた。


 一時間ばかりの後、何処へも寄らなかつた隆造は先程出た時と同じやうな顔付でまたフラ〳〵と深川の家へ帰つて来た。

「今日の一日だけを忘れよう。一日凡ての人に待つて貰はう。」

 そんなことを考へると此一日が挟まれた事位ゐは自分に取つても他人に取つても他愛もない事だ、といふやうな心で、三村のことばかりを案じながら潜り戸を入つた。──叔母と碌々口もきかず直ぐに二階の自分の室へ戻ると……財布をいきなり力いつぱい畳へ叩き付けた。……──。

「何だ、俺は泣いて居るのか?」といふそれにしても洞ろな心で、机掛の羅紗の上に二三粒滾び落ちた涙の珠を、フツ、フツ、フツ、と一つ宛軽く息を吹き掛けた。


 同じ夜の事である。

 日暮頃から空は戛々に晴れて、氷結したやうな夥しい星屑が象眼張りのやうに光つた。「かう冷えては……」と、叔母は隆造の晩い夜食の膳に銚子を添へて自分も二三杯空けた。「病院の帰りに……屹度今日はお前さん遅いだらうと思つてね。お薬どころか此方が当にしてゐたのさ。」と云ふものゝ隆造が回り道もしないで帰つて来たと思つた叔母は、殊勝な隆造に頼り深さを更に感じたらしかつた。「出直さうかと思つて一先づ帰つたんだが、どうもかう寒くては。」隆造は若い者が強ひて取る年寄沁みた落着さで或自尊心の為に呟いた。さうして奥歯を甘さうにチユツ〳〵と鳴した。

 叔母が台所へ立つた合間に彼はそつと後ろの鏡台の覆ひをはねて、写つた自分の顔を無意に眺めた。と、その顔が何だか自分のものでないものゝやうな気がした。それは今にも笑ひ出しさうな妙な顔付をして居た。

「これが俺の顔なのか知ら。」と彼は思つた。すると、だん〴〵にその顔が曇りを帯びて険悪な色の漂うて来たのを見た、と今度は、鏡を見て居る処の本当の自分の方が笑ひ出しさうな気持になつた。

「表情と気持とは必ずしも一致するものではない。」と、隆造は思つたが、それにしても鏡の顔は余りに自分からは別個のものゝやうな気がしてならなかつた。(少し酔つたかな、と気付いたが、直ぐに妄想は引続いた。)……自分でない一人のウルサイ人間から、冷笑されたり睨められたり……していつも此方がその人間の為に怯かされてゐる処の「その人間」の顔をまざまざと見て居るやうな気がした、と思ふと、また此方こそそのウルサイ人間で、鏡の顔こそ臆病な至純な自分其ものである、といふ気もした。……。

 こんな途方もない事を想つた程隆造は、漠然として霞みの中で感傷的に興奮した。

「あゝ、さうか、フヽン。」何の為にこう呟いたか解らない気恥しさが、彼は慌てゝ火鉢の方へ向き直つた。──「どうも此頃は鬚が硬くなつてやり切れない。」彼は下唇を噛み上げて頤のあたりをザラ〴〵と撫でながら、坐らうとして居る叔母を見上げて「空腹だつたせゐか莫迦に利いた。」と云つた。

「鬚がのびるとちよつと人相が変るものね。」

「さうか知ら。」と隆造は、また鏡を見た。が今度は何等の感情も起らなかつた。莫迦々々しく思つて直ぐに止めた。

「そんなこともないぢやありませんか。」軽々しく云つたこの言葉にも、彼は何かそれ以上の安心を求めるやうな心の動いたのを感じた。

「大丈夫よ、心配しないでも。」と、叔母に yeoyhantie な冷笑を浴せられると、彼は、一分間前の、妙ななどゝ感じた気持が恥しい程他愛もなく吹き飛んで、突然妥当的な上調子で、

「ハツハ……ハ。」と晴れやかに笑つた。

 十一時近くになるともう叔母は眠さうな顔をし初めたので、隆造は「ウマク眠れて、早くあしたになればいゝな。」と思ひながら、二階の室に戻つた。が、到底眠れさうもないので机の前に坐つて「眠くなるまでの身の仕末」を考へた。で、かれこれ二十分も過ぎた頃だつた。寂とした静けさを破つて、

「隆さん。」と、口の中ではあるが怖ろしく激して圧へ付けた叔母の声に驚かされた。「ちよいと……」

「えツ、何。」と隆造が叔母の顔を見ると、その顔は蒼褪めて居た。──。

 隆造が茶の間へ入ると、火鉢の前に叔父がちやんと坐つて居た。──「大丈夫。」と、隆造は後ろの叔母に目配せで静に安心を与へて、自分ながら驚かない心で叔父に話し掛けた。──叔母は台所の隅でワナ〳〵と震へて居た。

 如才なく気を配つてゐながら隆造は、これでも眠れぬ倦怠な夜中を独りで過すよりも増なやうな気がした。──隙を見計つて自働電話へ走つた隆造は病院に問ひ合せた。叔父が脱院したことは勿論で「兎に角家へ戻つたのは幸ひだつたから明日の朝まで監禁を頼む。」といふ返事を得た彼は、容易いことだ、と云はむばかりの元気が返つて楽しく勃然として湧き上つた。「かうした時に腕を見せて置いて……」そんな事も考へた。

 涙を滾したかと思ふと叔父は直ぐに笑つた、さうして狂人らしい様々な事を口走つた。

 叔父は不図こんな事を云つた。

「隆造、俺はほんとにお前に心配ばかり掛けて済ないな、俺はお前だけが頼りなんだ。ところが、どうだ、あの三村といふ女な、彼奴は到々俺の子供を宿して仕舞つて、可哀さうに、可愛がつてやれよ。」

 この言葉は初めて聞いたものだつたが、狂気の叔父としてはこれに類する途方もない事を口走るのは稀ではなかつたから、隆造は別に心も痛めなかつた。たゞ一瞬間「若しそれが真実だつたら……」といふ心が浮むだが、直ぐに打ち消した。いゝ加減な慰め方をして、叔父を寝かさうとする事にばかり努力した。叔母の啜り泣く声が時折障子を隔てた台所から洩れて来た。──叔父はどうしても寝ようとはしなかつた。

 到頭叔父は、外へ出掛けるのだ、と云ひ初めた。これには隆造も途方に暮れずには居られなかつた。叔父の為ばかりでなく、この寒い夜更けを引張り出されては此方が堪らない、と思つた。然し叔父は如何しても承知しなかつた。

 隆造と叔父とは着物を着換へた。

「一体何処へ行くんですよ。」と、稍投げ出す調子で隆造が云ふと、叔母はセカ〳〵として機嫌を伺ふやうに云つて「お気の毒ね。」と云つた。

「なあに叔母さん、心配しないでもよござんすよ、少しばかり其辺を回つてどうにか欺して帰りますから。」隆造が落着いて斯う云ふと、叔母は子供のやうに涙をのむでたゞウン〳〵と点頭いて居た。

「隆造、来るのなら早く来ないか。」と叔父は玄関の方から声を掛けた。

「ぢや叔母さん、よござんすか、大丈夫ですよ、安心してゐらつしやい。」

「頼みますよ。」と叔母は隆造の腕に支へられた。「隆さんが若し留守だつたら。」

「そんなことを云つてる場合ぢやありませんよ。居たんだからいゝぢやありませんかね。」

 恰で芝居だ、と彼は思つた。

「運だつたのね。」

「まあ、まあ──ぢや一時間ばかり。」

「そりやもう安心して居ます。」


 隆造は外套の襟を立てゝ、叔父と肩を並べて高橋通りを黒江町の方へ歩いて行くのであつた。橋を渡ると小名木川に添つた暗い小路を左へ曲つた。

「近路なんだがね。」と、叔父は常人のやうな調子で意味あり気に笑つた。直ぐに叔父の胸を予測した降造は「洲崎へなんか繰り込まれた日には……」どうしても早く引戻す工夫を付けなければならない、と思つた。

「えゝ、と?」コツ〳〵と鳴る下駄の響きに耳を傾げながら思案を続けた間に、隆造はうつかりかう呟いだ、ひよいと叔父はその言葉で、何やら笑つて居た。

「クヨ〳〵するない、えおい、若え癖に。」と元気よく口走つたかと見ると、恰で遊び仲間でもあるかのやうに隆造の背中を軽く叩いた。さうして隆造の腕を脇の下へ抱へてグン〳〵と歩いて行くのであつた。

 ……こゝの調子が六ヶ敷い処なんだが、と思ひながら隆造は引かれて行つた。街の家は悉く店を閉して居た。芝居の書割を思はせるやうな寒い静かな往来だつた。隆造がハラ〳〵してゐるにも係はらず叔父はわけの解らない唄を大声で呶鳴つた。それが狂人の声かと思ふと、隆造は怪談じみた怖ろしさをほんとうに感じた。

「畜生奴、皆な寝てしまやがつた、何だい意久地無し奴!」叔父は小石を拾ひ上げようとした。

「まあ、まあ。」と隆造は、狂暴だけは立所に制禦はした。責任を考へると気が気でなかつた。

 隆造は出来得る限りの技巧を弄して様々な手段を考へたが、その夜に限つて、どうしても叔父を引戻す程の事が出来なかつた。反つて叔父が隆造を誘ふやうに闊達な戯談など云つた。

「三村は叔父さんどうかしましたか。」ふと隆造は斯う尋ねた。

「なあに、……いゝや、俺は何もないよ。」

 叔父は何となく白けたやうな云ひ振りだつたので、それ以上隆造も追究する気も起らなかつた。「何しろ叔父の言ふことぢや……」と彼は、自分の軽いながらも感じた疑惑を慰めようとした心を起したのを、返つて不快に思つた。

「そんなことはどうでもかまやしないぢやないか、莫迦だな、貴様は。」隆造は今迄決して叔父の言葉を受け容れようとしなかつたにも関はらず、斯う云はれた時「ほんとうだ。」といふ気がしたのに自分で驚いた。「気狂ひの叔父に慰められるとは……」

 もつと強い寂しさが襲つて来るだらう、と思つたが、一向それに似た感情すら湧き上つて来なかつた。


「僕は少し疲れて来た。」隆造は、今迄の気持とは恰で反対な、叔父に甘へるやうな心の湧いたのを知つて、斯う云つた。それが返つて嬉しいやうな気さへした。

「疲れたつて? そりや弱つたな、もう少し行かなければ車もないし。」

「困つたね。かう寒くては。」と隆造は心細さうに云つた。

「成程お前は襟巻をしてゐないね、よし俺のを貸してやらう。さあ、どうだ。」叔父は叮寧に隆造の首に襟巻を巻いてゐるのを、隆造は逆はうともせず親切な叔父の顔を見てゐた。「さあ、それでいゝ、もう少し歩けよ、我慢して。」と叔父は隆造を促した。

 いつの間にか二人は洲崎街道の堤へ出て居た。──星の多い空は青白く澄つて居た。川を隔てた廓の空だけがぼんやりと、大きな雪洞のやうに明るさを、ほつと空へ向つて息ついてゐるかのやうにオドケて見えた。

「そら、もう直ぐそこだよ。」

「行くの? ほんとうに、困つたな。」と隆造は空を見上げてたぢろむだ。

「行かなくつてどうするかよ、今更。──それはさうと、いや俺は忘れて居た……お前いくらか金を持つてゐるか。」と叔父はそんな理性を持つて居た。

「……お金? あゝ、お金なら僕は今日は割合に沢山持つてゐることは持つてゐるが……」うつかりさう云つた隆造はハツと気附いたが、それにしても俺は今何を考へてゐたんだらう……と尚も呆然と立ち続けて居た。

「どれ、ぢや俺に見せな。」

 隆造は短刀でも突き付けられたやうな怖ろしさを感じて、臆病にも財布をそつくり叔父に渡した。滞船の灯りが黒い岸辺に光つて居た。隆造は後悔を感じたが其方を見てゐるより他はなかつた。

イヨう……」と叔父は手を打つと、矢庭に大手を振つて駈け出した。隆造は魂が消えたやうな気持で、ちよいとの間アツケに取られて、其儘叔父の姿を見てゐた。堤の上を叔父の後ろ姿は影絵のやうに軽くピヨンピヨンと踊りながら駈けて行つた。

「叔父の野郎ひとりに面白い思ひをされて堪るもんか。……だが、何しろ面白くなつて来たぞ。」と、隆造は、心の底にぼんやりと灯火が燭つたかのやうな愉快を覚えて、薄暗い土堤を、一心になつて叔父の後を追ひ掛けて行つた。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房

   2002(平成14)年820日初版第1

底本の親本:「解放 第三巻第三号(三月号)」解放社

   1921(大正10)年31日発行

初出:「解放 第三巻第三号(三月号)」解放社

   1921(大正10)年31日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年329日作成

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