青白き公園
牧野信一



うるはしくもまたおそろしき

声もつ乙女 ライン河の姫よ

湖水に沈みたる鐘の響

森の姫ラウデンデラインよ

星の世界へ昇りたるケルンよ

さうして、花子さんも

千代子さんも

涙など流してはいけません

皆なで一所に これからは

遊びませう いつまでも

この美しい公園の中で


第一章 そのはじめ


 ……親しき人々よ、谷間に咲ける真白き花はわれらが為に開くなり、われらはそが花の香りを胸に飾りて、清麗な大空のもとを、──涙はわれらが夢をうるほす宝石なれば深く深くふところに、そはかのいにしへの姫がいとも稀なる緑石を宮殿の倉の底へ蔵したるが如くに……深く秘めて、──。

 いざ行かむ、月おぼろなる夜は、われらが胸に翳せる白百合の香りこそ光らむ、そはまた百千もゝちの妖魔をくらます白金しろがねの剣ともなりて月光と共に競ふらむ……。

 ──何の為に私は今、こんなわけもわからないやうな文章を綴つてゐるのでせう、私は今、「少女」に連載しやうと思ふ小説を書かうと思つて、さうです、もう今宵は早くから机に向つて切りに想ひを練つて居るのですが、私の頭に浮ぶ雪のやうな幻が余りに美しくて、どこからどう手をおろしていゝか全く迷はずには居られません。

 皆さん、ちよつと静かな窓の外を御覧なさい、何と麗しく天心にとゞまつた秋の月は輝いて居るではありませんか。私は今ペンを置いてその通りにしてゐます。月の澄み切つた色、それは何に例へたらいゝでせうか、白金にも見えます、金色にも見えます……いやいや色彩に依つて区別することはあんまり定り切つた見方です、音楽にも例へませうか、すすり泣くヴイオロンの音、果てはうち悦べる水の精などの楽しげなる舞踏にも例へませうか。私は今ペンを置いて無心に月を眺めて居ります、昔の人々も今私達が月を眺めて酔ふてゐるのと同じやうに──この月を、この私達の眼の前に懸つてゐるこの月を……あゝ、それは私達と全く同じ心で讚えたのかと思ふと、今更のことではありませんが、私は不思議に思はれてなりません。百人一首や古今集に歌はれてゐる月も、直ぐそこに見ゆる、その月かしら。秋は室町のてう、やむごとなき人々が琴を弾じ或はしほり戸に凭りて遠く想ひを笛に寄せては、十五夜の宵の宴に興たけて、更けるも知らず歌を吟じたのも、やつぱり直ぐそこに見ゆる、その月の為にかしら。──私ばかりでなく大概の方は、こうしてゐたならばこんな事……もつと〳〵際限のないことを考へます。

 ──到々私は、世界は広いけれど、さうして世界の歴史は長いけれど、有史以前の不可思議な動物が生息してゐた頃まで想像して見ると、まあ大体人から教へられた知識のおかげで、世界の大きな範囲はぼんやりとわかつて参りますが、それよりももつと巨大な到底吾々の想像では許されぬところ、そこには生もなく死もなく永遠に光つてゐる数多あまたの光源だけが存在してゐる空とかと名付けられた所は……とまで思ふとじつとして居られない程怖ろしくて堪まらなくなります、と思つて見ると更に怖ろしいことには、私が歴史に依つて教へられた世界のことごとは想像だけで目の前には無いけれど、その見えぬ世界の歴史よりも、更に古くから在つたであらうところの月は、こんな事を考へてゐる自分の直ぐ眼の前に懸つてゐるではないか……などゝ思つてゐる中に、自分の身体がだん〳〵豆粒よりも小さくなつてゆくやうな気がして来るのです、……。

 私は、ほんとうに私は、お前はそんなくだらない妄想は止めろ、止めろ、と叱りながらどうしても止めることが出来ず、とても坐つてさへ居られなくなつて室の中を頭をおさへて西洋人がよくするやうに自然とあつちへ行つたり此方へ行つたりします、──それでも私の妄想は止むで呉れません、私は殆んど夢中になつて、書棚の中から一冊の本を取出しました。その本は私が常に愛誦措くところの出来ないところの仏蘭西フランスの一人の詩人の詩集なのであります。こうゆう場合この詩集は私に取つて仏陀の教典よりも基督キリストの福音書よりも貴い救ひの書です。大概のことなら私の云ふことを承知して呉れる私の親愛な父も母も、こればかりは、どうしやうもないことでせう。然しこの詩集は私を救つて呉れます、私の尊敬するこの仏蘭西の一詩人は、私の考へてゐることゝ同じことを詩に歌つて居ります。「あゝ、この詩人は私一人の為に私一人を慰める為に、この詩を作つて呉れたのだ。」私はさう思はずには居られません、私はその詩人に何と感謝したらいゝでせう、私は私と全く同じことを考へてゐる人を発見したことが──「私程幸福な者はない。」とさへ思ひました。

 青い皮表紙の詩集は私の感謝の手触りで真黒に汚れて居ります、他の人が見たら屹度、まあきたならしい本がある、と云つたばかりで二度とは見向きもしないでせう。私は詩集を手当りで開いて、声を挙げて吟じました。

  ………………

  ………………

 間もなく私の心は、咲き誇つた日向葵のやうに快活になります、私は嬉しくて堪らないのです──。

 落着いた然もしたゝるばかりの悦びと感謝の心で、私はペンを執りました。白い原稿紙の上にペンの尖端が触れて細長い影が私の手の下で消えて居ります。このペンの先に私の思想や感情が、恰も瓶からこぼれ出る水の如くに流れ出るかと思ふと、私は嬉しくて堪りません。私はその水は、滾々と滴り落つる香水のやうな色彩と甘味とを含むで居る筈だ、と思はずには居られなくなつた程になりました。

「今晩は。」と、ソツト襖を開けたのは私の従妹の美代子でした。私は先程から美代子の来て居るのには気が附いては居りましたが、こうしてひとりで居る方がはるかに幸福を感じて居たので、わざと其方には行かなかつたのでした。

「御勉強?」

「と云ふ程のこともないがね。」私は惜しいペンを置いて、と、美代子を迎へましたが可成り残念な気持がしましたので「実は今、どうしても書かなければならないものがあつて、これから始めやうとしてゐるところなのだ。」

 とぶつきらぼうに云ひ放ちました。

「でもいゝわ、私はもう勉強してしまつたのだから。」こう高びしやに出られては私もまさか憤慨するわけにも行きません。

「こりや驚いた。」

「その書かうとしてゐらつしやるお話をして頂戴。」美代子は恰も自分にさうゆう権利がある如く冷やかに云ふのです。

「厭、厭、もうお話はコリゴリだ、何と云つても絶体にしないことだ。」

「そんなら頼みませんわ。」全くこの調子では私に美代子は喧嘩を売りに来たやうなものではありませんか、ね、皆さん。

「頼まれちや大変だ。」

「つまらない話などされたら此方が大変だ。」

 ──これは屹度、自分では未だ気が付いてゐないけれど、何か美代子は此方に恨みがあるに相違ない、と私は秘に、そんなことが何かあるかしら、と想ひを回らせて見ましたが、どうも当りが付きません……で私は少々本気にカンシヤクが起りかゝりました。

「うるさいから、あつちへ行つてお出で。」

「個人には夫々それ〴〵の自由意志と犯しがたい人格とがあります。」

 ……これはまた驚いた、何時そんな生意気な事を覚えたのだらう、偉いことを知つてるものだ、うつかりした事は云へない──私は怖ろしく吃驚しました。

 そのうちにやつと私に美代子の憤慨の理由が解りました。それは先達中せんだつてぢう私が「少女」に載せたある小説の中に、妹美智子及びその友艶子といふ人物が現はれて居たのです、その二人は気紛れで飽ツぽい性質だとか、また二人が種々いろ〳〵な会話を取り交すところがあるのです、実はそれが悉くほんとの事で会話も二人が話した儘を私は書いて仕舞つたのです、美智子、艶子といふ名前も仮名ではなくありの儘の本名なのです。美智子達は此間中から一切私と口をきゝませんでした、加けに私は、そんな有りの儘のくだらない事を書いて外聞が悪い、第一小説なら小説らしくちやんとしたものを書いたらよからうに、と母達から大変に叱られたのでした。忘れぽい私はそれをもう忘れてゐました。が、未だこの通りに怒つてゐるところを見ると「こりや困つた。」と私は叫ばずには居られないのです。これから私が書かうと計画してゐるものにも美智子が出て来なければならないのです。

 と云つてこの計画を棄てたら他に書くことはなし、名前を代へる事でも真実を書かうとするにはその気分が容易に破られて仕舞ふのですが、せんすべもなく哀れな私は従妹美代子といふ美智子でない人物を出すことにしましたが、こんな薄氷を渡るやうなあやふい心で(実際今度発見されたら……あゝ考へても怖ろしい)落着いて書けるかしら……わが美しき想ひを傷けた恨みは、さてさて奈辺いづこへ持つて行つて晴したらよからうか……。一体何方どつちが悪いのだらう。あゝわれは心ならずも己が家の人々とも意志疎通せざるか、「嘆かふ心、嘆かむにもよしなし……」であります。

 美代子は去つて仕舞ひましたが、私はペンを取る勇気もくぢかれて、でもホツと月を見上げました。


 とにかく私はこれから私の書かうとくはだててゐる小説を思ふが儘に書いて行きます。然し私の小説は沢山の方を喜ばすことは出来ないかも知れません。これは前もつておことはりいたして置きます。ですから私が勝手にしやべつてゐる場合でも飽きたらばどこでお止めになつても、さらさら恨みとは思ひません、また途中のどこから聞き初めても一向差支へありません、その為に筋が解らなくなるといふやうな事は決してないつもりです。私も亦これをいつ止めていつまた始めるかも解りません。まあ唱歌を聞いてゐるやうな心で居て下さい。唱歌だと思へば花咲爺が花を咲かせぬ前にポツツリ終つても、歌はれてゐる間だけは悪い気もしないでせうから、腹もたたないでせう。読者の皆さん、どうも済みません、これも唱歌の一節だと思つて下さい。幸にして二人でも三人でもこの物語に興味を持つ方が出来たら、私はそれで充分満足します。

「青白き公園」は恐ろしき夢に始まつて、美しき公園に迷ひ、悦びの舞踏にわれを忘るゝある兄と妹のある日の出来事から始まります。


第二章 夜のスフインクス


さんさんと涙はながる

ぬばたまの

夢なりしならむか、

曙の瞼に青く

ちりばめられし宝玉の数々

触れなむとせば、

われにしも

はからぎりき、そは

われ流せる涙にてはありしよ

さんさんと涙はながる

空の果に  海の彼方あなたに……


 と、口吟くちづさみつゝ、月光の隈なく照り添ふてゐる露台に、両の腕を軽く胸のあたりに組み合せて「春はあけぼの、やう〳〵白うなりゆく」微風の如くに、そよろと忍び出たのは、「青白き公園」の最初の主人公ヒロインであるサラミヤ姫なのでありますから──と、姫の心に寄せて、あのお星様を御覧下さい。(「ながれのきしのひともとは」といふ歌は定めし皆さんは御存じの事だらうと想像いたします。)で──。

ながれのきしのひともとは

みそらのいろのみづあさぎ

なみことごとくくちつけし

はたことごとくわすれゆく

………………

 と、遠くでピアノを弾いてゐるのは、あれは屹度光子さんに相違ありません、光子さんは全くピアノがお上手です、何故なら、はるか隔てた室でその音を聞いてゐる私は、このやうに──心浮き、幻の翼は遠くアツシリアの昔、やむごとなき姫の涙と青白き夜のピラミッドの影に咲き出でし聖者の姿とを……想ひ起した程に酔はされて──到々、皆さんの前にサラミヤ姫の物語を作り出させる次第になつたのであります。──で、そのおつもりで、この「青白き公園」をお読み下さい。)

………………

さんさんと涙はながる

空の果に海の彼方に、

………………

 と、繰りかへして歌つたサラミヤ姫は、孔雀がはねを凋めるやうに静かに欄干てすりに凭り掛りました、──人々は眠つて居るのです、もうさつきまで開かれてゐた宮殿の宴の会も終つて、窓に連る灯も皆消えて居るのです、──夜も大分更けたので御座いませう。


 西洋歴史の書物で云つたならば、その最初の二頁か三頁のあたり、紀元前三千年の昔にさかのぼつて──アツシリアの国の偉い天文学者は早くも太陽や月や星に迷信を許さず、羊の皮で綴り合せた大きな書物に、太陽暦の研究をつぶさに発表し、バビロンの聖者は星のまたゝきから航路を発見し……と云ふやうに様々に文明がニール河畔を中心に発達した頃の世の様は到底今日の歴史に残る事蹟では想像すら及ばぬ業でありませう、エジプト文明の栄華の煙りが歌の如くに美しくいやがうへにも栄え渡つた時代、クフ(KHUFU)と称ふ王様の御代に帰つて、──。

 この物語を聞いて下さい。


 サラミヤ姫が、どうして宴の終つた頃などに、ひとり露台に忍び出たか、といふことはもう少し後になつて尋ねて見ることにして置いて──私達はこゝで姫の歌をしばらくの間耳を傾けた方が、余程悧巧です。

………………

悲しみの心あふれて

たゞずめる 夜の庭に

咲きこぼれたる薔薇の花弁はなびら

白く 青く またはほのしろくも

くれなゐに──

一片ひとひら 二片ふたひら 三片みひら……

………………

「おゝ美しき薔薇の花弁はなびらよ──お前はどうしてそんなに傷ましく散り果てたのか、──どうか、その理由を私に答へて下さい、薔薇の花弁よ──。

 何故黙つてゐるの? 私がこんなに熱心になつてお前の身を案じてゐるのがわからないの? ──。

 どうか私に、この上の涙を流させることを許してお呉れ。おゝ、可憐なる薔薇の花弁よ。私の頬を、このやうに流れてゐる涙をよく見てお呉れ。……。

白く 青く またはほのしろくも

くれなゐに

一片ひとひら 二片 三片……

 ほんとに私は不思議でならない、どうしてお前がそんなに散り果てたのか? お月様やお星様は、あのやうに静に輝いてゐらつしやるのに。ニール河から吹く微風さへ今宵は絶えてゐるではないか。私は今日科学の先生から、「凡てのものは、力が加はらなければ決して動くものではない。」といふ事を教つて居るから、どうしてもお前がひとりでにホロリと散つたといふことは信じられない。」

 と、姫は呟きながら、今迄月を視詰めてゐた眼を落して、地の上に散つた三片の花弁をそつと眺めました。

 三片の花弁は水底から拾ひ上げたばかりの貝のやうに、月光に映えて水々しくうるむで居ります。姫の胸に掛けてある真珠の首飾は一つ〳〵やはらかい月の光りにキラ〳〵と映えて居ります。その世にもたぐひのない真珠の光りは、丁度姫がその時に薔薇の為にハラ〳〵とこぼした涙と同じやうに輝いて居ります。姫の涙にも、月が一つ〳〵写つて居ります。姫の涙と、薔薇の花弁と、真珠の首飾りと──若しこの光景を私達が眺めたならば必ず見定めがつかぬことで御座ゐませう。

 姫は暫くさうして眺めてゐるうちに、ふと気附いたやうに、

「あゝ、わかつた、薔薇の花弁よ。お前は屹度この私に怒つてゐるのだね。さうだ、さうだ、……許してお呉れ、薔薇よ。」と呟いた時、姫は──「自分がさつき歌をうたつてゐた為に、そのほんの微かな息の力で、花弁は散つたに違ひない、悪いことをして仕舞つた。自分の歌の響きより他には、この静かな夜を震はすものは何もなかつたのだ。」と思ひ付いたからなのでありました。何といふ静かな美しい夜なのでありませう。

  ………………

 さつき申した通り、何故なにゆゑサラミヤ姫はたゞひとりでこの夜の庭園に忍び出たか、──それにはある悲しい物語があるのですが、これももう暫く尋ねぬ事にして、──。

「薔薇よ、薔薇よ、汝薔薇よ」と、尚も姫が、散つた花弁を慰むるやうに歌つてゐる声を聞かうではありませんか。

──

いためる花よ われもてる

いためる心 ほの白く

夜の花園に浮べる花の一片

………………

 歌つてゐるうちに姫は、だん〳〵に自分の心が明るくなつて来るのを感じました。いろ〳〵の悲しみが、丁度庭園のはるか彼方でサラ〳〵とこぼるゝ音をたてゝ散つてゐる噴水のやうに消えてゆくのを感じました。

「私の歌のひゞきばかりではなかつた、あそこに、さうだ、噴水が動いてゐた、薔薇はあの水の音に誘はれて散つたのかも知れない……どうかさうであつて呉れゝばよい。」と思つたので、姫の心は明るくなつたのでした。

「それにしても、どうして私はあの水の音に気が附かなかつたのだらう!」

 姫は、薔薇から眼を離して、凝と水の音に耳を傾けました。細かく小さな真珠の粒が軽く銀盤の上に転がすかのやうに、サラ〳〵と池のに音がありました。

「あれは神様の涙ではなからうか。」と姫が思つた程──凝と聞き入つてゐると、その水の音は心の奥底までに静に沁み込んで来るやうな涙ぐましい悦びを伝へて来るのでした。

 姫は水の余韻を踏んでそろ〳〵と歩み始めました。月は、刻々とその清らかな光りを増して、あたりは丁度幻灯のやうに明るくなつてゐました。

  ………………

 私の想像が水のやうな勢ひで、こゝまで流れて来た刹那! 私はハツ! と気附きました。光子さんはピアノをめたのです。勿論私は自分勝手にこんなとりとめもない幻に酔つてゐるのですから、私自身はこゝでサラミヤ姫が消えて仕舞つても左程残念──どころか返つて、これから光子さんや美代子や光子さんのお母さん達と当り前の話を始めた方が……とも思はれますが、──然しこゝに至つてはそれは許されません。

 それから私はしばらくたつて、その続きを光子さん達にも話さなければならなくなりました。──さて、何と、続けたらよからう──か困つた事になりました。

 私は、稍しばらく頭を病ませた後に……思はず胸を躍らせて、「ウム、さうだ、」と、ひとりうなづきました。


第三章 不思議な道


その一


 歌はおもひの忍び草、──わすれな草をたれや知る、──小鳥の胸に紅色の、──花の散りしをたれや知る……。

 ふと、私の口の葉にこぼれ出たのは、その歌でした。(然もそれは私が、寒き夜の更長こうたけし徒然の儘に、涙をフツと、燭台の灯火ともしびを吹き消した心で、何心なく詠むだ……さうです、つまらない歌反古なのぢやありませんか………)

 私は、自分がその歌にイヽ加減な節を附けて二度程繰り反して胸の中で歌つたのに、ふと気附いたのです……(まあ、みつともない、自分が作つた取るに足りないまづい歌などを、それを自分がイヽ気になつて口吟むなんて……そんな事は私にとつて嘗てない現象です……だから私はそれが夢ぢやないかしら、と訝つたのも無理はありません。)

 ところが……「どうです。」(と、云つたところで聞手の方ぢや何とも思ひはしなからうが。)──私にとつては「ところが、どうだ。」とばかり驚かずには居られなかつたのです、嘘のやうだけれど私にとつては……。

 夢ぢやないのです。

 ……披々披々ひらひらひらひら、……「オヤ、いつの間にか春が訪れたのか。」と、私は思つて、明るい灯火に照し出された銀座通りの柳の葉を、あふるゝばかりのなつかしみの心で窺ひながら、……それもつい一日前の灯ともし頃であつた、──私は、活溌に歩いて居りました。

 ……私は、そんなつまらない事を考へながら歩いてゐたので、心は果しなく明るかつたが、いくらかぼんやりしてゐたに違ひありません。

「××君!」と、突然、私の名前を呼ばれて、私は「ハツ……」とした醒めた心に気附きました。私の極仲善しのK君が、私の肩を叩いたのでした。

ヨウ!」と、私は嬉しさうに微笑みました。さうして私達は、異人さんの真似をして握手をしました。(真似といふと何だか以何にもワザとらしく響きますが、学生の時分から私達はさうすることが習慣のやうになつて居りました。だから私は、普通なら変にギゴチナイやうな握手なんて妙で、到底私には出来る筈のものぢやないのですが、その私もK君にだけは平気で握手が出来ました、反つてそれで、口に云ひ現すことの出来ない軽い親情が見事に伝へられるやうな気安さを覚えました。)

「何か用でもあるの、莫迦に忙しさうに歩いて居るぢやないか。」

「いゝや……別に……」と、私は、心の儘を云つたのですが、何故か口ごもりました。

「兎に角少し歩かう。」と、K君は私を促しましたので、私も速座に賛成の意を表して、二人は(私が回れ右をして)、肩を並べて歩き始めました。

「昨日君は、僕と別れてから、……家へ帰つて何か書けたかい?」K君は私に斯う尋ねました。

「別に、書けなかつたよ、困つて仕舞つた。」と、私は常には極めて勇ましいにも係らず、さうK君に尋ねられると、実際私は困つて居たので其儘、なさけなさうに答へました。

「仕様がないね!」と、K君は稍私を叱るやうな調子で云ひ放ちました。けれど直ぐに私の心を察したと見へて「今夜こそは。」と附け加へました。そこで私は、

「詩のやうなものを一つ、……」と云ひ掛けました。それは「歌は想ひの……」を思ひ浮べたからであります。

「なに?……、詩だつて? これや驚いた。」と、K君は如何にも案外だと云ふやうに、心憎くも冷嘲的に笑ひました。……で、私は、そのK君の態度で少しく憤慨の気味で、「歌は想ひの……」を云はうと思ひましたが、止めて、

「君よりは、それだつて巧いぞ。」と云ひました。「もうせんにだつて少しは作つた事はあるんだもの。」と、少年の如くちよつと真面目な顔をしました。すると、K君は「ハツ……ツハ。」と、大きな声で笑ひました。往来でそんな大きな声で笑ふ人を、私は余り見た事はない。

 K君が笑ふと同時に、私も、何だかワケも解らない気持だつたが、それに合せるやうに「ハツ……ツハ。」と快活に笑ひました。


その二


 私達は喫茶店を出ると、また仲善く歩いてゐました。……。

  ………………、

 それから間もなく、と云つても何れ位の時間が其処に挿まれたのか、私には想像出来ませんでした。

 怖ろしく不思議な事件が突如として、私の眼の前に現れた……実際その時の私の驚異の心は、何と形容したら読者に伝へる事が出来るか。……唖々然々たる私はキヨトンとK君の顔を視詰むるより他は無かつた。!、?、!、?。……。私は、「これは確に〳〵に夢だ。」と思つたから慌てゝ、ポケツトの中の指先でギユツと力一杯横腹を抓つた、と、怖ろしく痛くて私は思はず顔を顰めた……で、私は「で、夢には非ず。」と思つたのです。

 と、云ふのは斯うなのです、おそらく驚かぬ人はないでせう。……(私達はいつの間にか霧の深く立ちこめた公園──、確に日比谷公園なのですが、──さらさらと噴水の滾るゝ音が静に響く……瓦斯灯かしら? それとも月の光りかしら? 公園は、公園の一筋道は幻灯のやうに青白く美しかつた。………)私は、その瞬間迄楽しくK君と話を交してゐたところが……ぼうつと煙つた広場が私達の眼の前に煙つた時、……今が今迄K君だと思つてゐた、そのK君なる人が突然! 朗かな然も厳然たる音声で、恰も大理石の伝堂に反響こだまする銀鈴の如く静に、……「汝! アツシリアの若者よ!」と、いふ声で私がK君を見上げた時は、それはK君ぢやなくつて……ゆるやかな金襴の外袍トーカを纏つた処のエジプトの王クフ皇帝なのです。(二章参照)

 更に不思議な事には、その時もう私は、K君、東京日比谷、現代、そんな事は全々忘れて仕舞つて、何等の疑念もなく、立所に、

「これはこれは、王者なるクフよ吾に以何なる術ありて斯くも尊き御言葉を給ひたるや。」と、頭を下げて右手を差延べて答へて居りました。

(決して、笑ふべき出来事ぢやありません。だんだんに解つて来るでせう、もう少し耳を傾けて居たならば。「何ぼなんだつて余りバカバカしい」と思つた読者は、初めの約束通り、自由にこの辺で巻を擱く方がいゝかも知れない。)

 ………………

 頭を垂れた時、私は自分の爪先を見ると、私の足はエジプト風の草履サンダルを穿つて居りました。次第に、私は自分の着物に注意して見ると、その着物は、トランプの勇敢なる兵士ジヤツクの服に変り、腰には物々しき剣が月の光りを浴びて鎧の裾にカラカラと鳴つて居りました。その自分の姿に気が附いた私は、決して自分が現在兵士ジヤツクであることを疑つて居りませんでした。誇り気に胸を拡げた私の鎧に、こんこんと滾れて水の如き日光が希望に充ちたるものゝ如く燦として不思議な花のやうに輝きました。

「あゝ王者よ、吾は以何ばかり忠実なる、王の勇敢なる軍人であらうよ! 吾これなる剣は賢き王の御旗の許に是如く麗はしく喜びに踊りつゝあり。果しなき王の御栄への前に、吾は吾しろがねの鎧を紅ひに染めても、あゝ、吾に一抹の悔も残らざらむ。王者よ、吾に使命めいぜよ、吾行かむ、ニールを超へて。」

 そんな事を私は立続けに喋舌りました。何の為に私はそんな事を云つてゐるのか解りもしない癖に切りと私は、剣を抜き放つて霧の彼方を指差し、熱し切つた頬をうすら冷い月光に曝して居ります。

 すると、クフ王は頼し気な微笑を、厳かな王冠の影にあらはにして、静に私の肩へ貴き御手をお掛けになりました。王の御手が私の肩に触れたのを感ずると私はにはかに厳然と直立して、未だ王が何事も云ひ始めぬのに、

「ハツ。」とばかり兵卒の木像のやうに屹立しました。

 ………………

「若者よ、吾は未だ口さへ開かぬのに……」と云ふ王の声を後方に置いた儘、

「いや、いや、御懸念には及びませぬ。」と答へた私は、もう、霧の中をスタスタと駆け出して居りました。

失敗しまつた〳〵、用向きをうけたまはらないで駆け出すとは、何といふ粗忽な事であつたらう……」稍暫く駆けた時、ふと私はさう気附きましたが、「今更、引き戻すわけにもゆくまい、そんな事をしたら王に粗忽を叱責されるばかりか、慈悲深い王はアハテ者の兵士を持つたことを嘆くだらう、それには忍び得ない。

 まあいゝ、行く処迄行つて見ろ、何か、自分が行つて果さなければならない事件が此道の彼方で自分の来るのを待つてゐるだらう。行け、行け。」と、自らを鼓舞した私は尚も、まつしぐらに青白い路を駆けて居ります。駆けながら、月を見上げた私は「あゝお月様も僕と一処に駆けて居る。心配することはない。」といふわけのわからない頼もしさを覚へました。


第四章 再びサラミヤ姫の物語


その一


悲しみの心あふれて

たゞずめる 夜の庭に

咲きこぼれたる薔薇の花弁は

白く 青く またはほのしろくも

くれなゐに……

一片 二片 三片 ……

「おゝ美しき薔薇の花弁よ──お前はどうしてそんなに傷ましく散り果てたのか──どうかその理由を私に答へて下さい、薔薇の花弁よ──。

 何故黙つてゐるの? 私がこんなに熱心になつてお前の身を案じてゐるのがわからないの?

 どうか私に、この上の涙を流させることを許してお呉れ。おゝ、可憐なる薔薇の花弁よ。私の頬を、このやうに流れてゐる涙を、ようく見てお呉れ……」

 蒼い月の光の下に敷き延べられた宮殿の夜の花園へ「微風そよかぜのやうに」忍び出たサラミヤ姫が、涙ながらに呟いたのさゝやきごとを、作者はまたこゝに繰返しました。いつか申し上げた筈のその麗しい夜の景色のことは、既に皆さんの記憶の影から消えて了つてゐることゝ思ひます。たゞ作者は、これからサラミヤ姫の物語をはじめようとするに先立つて──姫は悲しみのうちに花を瞶めてゐるといふその心持だけを現はすために、余計なことを出しました。──で、これからはぐんぐんとお話だけを初めませう。

     ──────────

 一年ひととせ前の、それはニール河の水が薄紅色に煙つてゐましたから、たしかに春なのです。宮殿の窓からはその美しい河の流れも、夢のやうに咲き誇つた花々も……一眸の下に眺め渡されて居りました。

 緑色の帷の側で、サラミヤ姫とその兄君とは次のやうなお話をなさいました。


その二


「私が今度の戦争から帰つて来る時には、──妹よ、まあの麗しい霞のたな引いたニール河の彼方を見て御覧!

 私達が今見渡すこの広い河の向ふまでを、必ずともに父君の御稜威みゐづの下に、統べ終ほすことを誓つて置かう。」

「私は、彼の紫の霞の中から、戦ひに勝ち誇つた兄君の駿馬うまが、カラカラと鈴を鳴らして凱旋する時、さうして鞍の上の兄君の勇ましい御姿を、たつた今想像してゐるところでございます。」

「私は必ずともにお前のその想像を破らないであらう。──あゝ、お前はその時にこの私を何と云つて迎へて呉れるだらう。」

「……」……サラミヤ姫の心はたゞ悲しみにのみ覆はれてゐました。今自分が思つてゐることを兄君に云ふことの出来ない、自分の弱い心が悔まれたのであります。──今度兄君が戦争に行くその相手といふのは、フエニキアといふ大へんに強い、戦争を職業にしてゐるやうな怖ろしい国なのです。その国の祖先は、何でも最初は海賊だつたとかいふ話を姫は聞いたこともあります。だんだんに勢力を得たフエニキアは、今では立派な王国を作つてゐるのですが、クフ王家に対してずつと前から、その従属国けらひにならないか、といふことをしきりに説きすゝめて来るのでしたが、勿論クフ王の方では「海賊の仲間入りなぞは、例令国を滅されやうとも……」と応ずる筈もありませんでした。

「さらば王女サラミヤ姫を、わが王子の妃につかはされたい。」

 斯ういふ要求をフエニキヤから申出たといふ話を父君から聞いた時、サラミヤ姫は何んなに驚いたことでせう! 父君や兄君のかんばせの曇りは……あゝ、それは皆この身を思ふ余りであつたのか。……姫の涙は尽きる間もありませんでした。それで到頭フエニキアを相手に戦端を開くことになつたのです。国の精兵のことごとくを挙げて、兄君は戦ひに行くことになつたのであります。サラミヤ姫は、兄君の門出の前に自らを励まして、いさぎよい言葉を捧げようと努めたのです。

 ………………

 春は再び花園にめぐつて、紅色の花の香りはやはらかく煙つたのであるが、戦場からは何の音信おとづれもない。宮殿の中は冬のやうに静かに、憂ひのみのうちに幾夜〳〵を更して居るのです。

 父君を慰めることのみに心を尽してゐる姫なのです。その夜も静かな宵のうち、父君の傍でいろいろと姫は物語などを申し上げて、少しでも父君の憂ひをやはらげようと努めてから、寝所へまで御案内をいたして、それから一人になつた姫は、自分も寝まうと思つたのでありますが、──涙が、──涙がハラハラと頬を流れて、到頭夜の花園に歩みを運んで了つたのです。「薔薇を見つめて……水底から拾ひ上げた真珠のやうに、月の光に映えて散つてゐる薔薇の花を見つめて……」サラミヤ姫が不思議な涙を誘はれたことは、これで大体皆様にお解りになつたことだらうと思ひます。花の彼方で、サラサラと滾るゝ噴水のさゝやきを不図耳にした姫は「あゝ花びらはあの水音に誘はれて散つたのだらう。」と思ひながら、その水音の方へ歩みを運んだ迄、──たしかお話をして置きました。

 云ふまでもなく水のほとりは、まるで幻灯のやうに薄ら蒼く光つて居ります。水蓮の白い花が、……おや、随分大きな花が咲いた、と驚いて見ると、それは安らかに眠つてゐる白鳥でした。月と星と白い花と白い鳥と……さうして悲しみに濡れた姫と、池のほとりの静けさは、春の宵の紫に覆はれて、見定めもつかぬ程静かに更けて居りました。

 いつの間にか姫の心も、泣いて泣いて泣きあかした後の安らかさとでも云ふのでありませうか、何とも云ひようのないすが〳〵しい白い花のやうに、憂ひを忘れたやうになりました。姫はうつとりと眼を挙げて、ぼんやり水の上を眺めて居りました。

 世界のうちで目醒めてゐる者は、噴水の水ばかりである、とさへ思はれる程の静けさでありました。

 丁度その時です。はるか向ふに何か人の駆けてゞも来るやうな足音を姫は聞きました。「この静かな夜に、何者だらう。」と思つた姫は、急いで池の側の小高い処へ登つて見ました。帯のやうに長く白い道が一筋、花園を通してはるか向ふまで夢のやうに続いて居ります。──姫がいぶかしげな視線で、その一筋道をずつと眺めて行くと、その視線を止めたところに姫は一人の人影を発見しました。その人影は非常な勢ひで、オリムピツクの選手チヤムピオンの如くすみやかに此方へ駆けて居ります。注意して見るとそれはたしかに味方の兵士ではあるが、服装の様子がどうも違つてゐるやうに思はれました。その兵士は、トランプのクラブの兵士ジヤツクのやうな服装で身を固めて居ります。さうして左の手に持つた軍刀が、キラキラと月の光に映えます。

「あんな兵士が宮殿に居たかしら?」と姫は思ひました。

 やがて兵士の鎧の音が戛々と響く程近くになりましたが、月光つきあかりでは顔は解りません。その時鎧の音がはたと止つたかと思ふと、兵士はぴつたりと立ち止つて、姫の方を驚いたやうに見上げました。

 姫は何だか可笑しくなりました。


 私は夢の話は大嫌ひです。いかにもほんとらしく聴者きゝてに思はせて置いて、終ひのところで、ハツと思つて眼を開くと、みんな夢でした、と来るお話は癪に障ります。何だばか〳〵しい、人をばかにしてゐる──誰だつてさう思ふに違ひありません。と云つて、では最初から、私は斯ういふ夢を見たんですが、ちよつと面白いではありませんか、などゝ云ひながら、自分が見た夢の話をされるのも余り面白くありません。よし途中で少しは興味がのつても、それが夢だと云ふ前提を承知してゐる以上、どうも興味が乗りません。これ程退屈なことはありません。

 ところで、それでは何故あなたは「青白き公園」なんて変な題を付けて、夢だか何だかさつぱり解らないやうな話をしたか、夢の話が自分から嫌ひだなんて云つておきながら、おかしなことではありませんか──皆さんは屹度さう思ふでせう。さうして私のことを口さがもなき身の程知らぬ嘘吐うそつきだと苦々しく思はれるに違ひありません。──さう思はれても全く仕方がありません。別に私は弁解しようなんて心は起しません。何故なら私は決して自分を嘘吐きとは思つてゐません。私は私自身をよく信じて居ります。神様だつて必ずさう思つてゐらつしやるに相違ない──と私は考へて居るんです。


第五章 トランプの敗北


 銀座通りの夜を友達と二人で歩いてゐた私が、日比谷公園の方まで散歩して──それからが変なのでしたね。西暦紀元前三千年の昔にさかのぼつて、のエジプト文明の隆盛が歌の如く弥が上にも栄えわたつた時代、クフといふ王様の御代にかへつて……と私は云ひました。ふと私が気づいて見ると、私の友達がクフ王で、私が勇敢なる兵士でした。王様の命令をよく承はらぬうちに、粗忽な私はオリンピツクのチヤムピオンの如くに駆け出しました。さうして、涙に泣きぬれて夜の花園の噴水のほとりで、戦争に行つたぎり便りのない兄君の御身の上を憂ひてゐたサラミヤ姫の御許迄駆けて行きました。

 その兵士は、トランプのクラブの兵士ジヤツクの服装で身を固めて居ります。さうして手に捧げた軍刀がキラキラと月の光に映ります。

「あんな兵士が宮殿に居たかしら? どうも見たことのないやうな兵士だ。」と姫は思ひました。やがて兵士の鐙の音が戛々と響く程近くなりましたが、月光では顔は解りません。その時鎧の音がはたと止つたかと思ふと、兵士はぴつたりと立ち止つて、姫の方を驚いたやうに見上げました。

 姫は何だか可笑しくなりました。


 その先をお話しようか、止さうか、私は迷ひました。二ヶ月の間私は考へました。随分気がゝりで厭なことでした。何故私はそんなに迷つたか? それは斯うなのです。

 私は嘘吐きではない、だからその先が云へないのです。その先を話さうと思へば悉く私は法螺を吹かなければなりません、無理に云へ云へ、とせがまれゝば、そりや何とか話せないこともありますまいが、そんな強請的のことは私は大嫌ひです。私は自分の気がすゝまないと、いくらおどかされてもどうされても、どうもいけません。わが儘な悪い癖なのだらうか、それとも余りに正直過ぎるのかしら?

 で、今迄私がお話しいたしたことは、それでは夢でもなく法螺でもなく──といふことになります。では、どうしたんだらう? ──それの説明だけにしてこの物語の結末を付けることにいたしませう──私は、あれだけのことを全く考へました。無理に想像したのではありません。書かうと思つて事更に空想に耽つたのではありません。たゞ、フツとあれだけのことを、夢ではなく私は想つたのです。解つたでせう、考へたといふ事実に依つて私の正直さと、「夢の話は嫌ひだ」と云ふ心もわかるでせう。たゞ私の考へたことが、文字となつて現れたら、如何にも夢のやうなあつけない結果をもたらせて了つたので、私はそれを後悔します。

 いつでしたか日は忘れました。快い宵でしたが私は退屈しましたので、散歩がてら家を出ました。さうして私は友達の家を訪れました。友達の妹さんやそのお友達が遊びに来てゐたところで、私達はトランプを始めたのであります。〝Two Ten Jack〟といふ遊び方は皆様のうちでも御存じの方が多いだらうと思ひます。友達とその妹さんの敬子さんと光子さんと私との四人です。私は──また自慢ぢやありませんが──トランプがそれはそれは大した名人なのです。多くの場合私の相手は此の三人なのでありますが、未だ嘗て私は敗北したことがありません。これを始めると、いつも彼等は口惜涙をふるつて私を総攻撃します。然し要領のいゝ私には決して敵ひません。

「どうだね。いくらきやうだいづれで徒党を組んで吾が輩に向つても到底敵ふまい。アツハツ……吾が敵にあらずだ。」と空うそぶいて私は哄笑します。

「口惜しいわね。自慢高慢は何とかのうちですツて。負けるが勝ちよ、私わざと負けたのよ。」

「何とでも云ふがいゝさ、僕は自慢ではなく、たゞ単に自らの傑れた力量を自覚したまでなのさ。」

 お終ひには光子さんと屹度こんな争ひをいたします。光子さんは無念の余り涙を滾したこともよくあるんです。

 それが、どうしたことなんでせう。この日に限つてどうしても私に運が授かりません。さうです、運です、運といふより他はありません。私が負けるなんて──一世一代です。

「どうだ、冑を脱でもよからう。」友達の河田は斯う云つて、快さゝうに笑ひました。

「今迄はね、私達がアメを呉れてゐたのよ。ちよつと本気を出せばこの通りよ、ほんとにいゝ気味だわ。」と光子さんは云ひます。

「今迄はヤツアタリの運だつたのね。」と敬子さんも云ひます。

「何とでも云ふがいゝさ。始終勝つてばかりゐると贅沢な心が起つてね、負けた時の気分はどんなものか、それが味はひたくなるんだ。こんな場合は空前にして絶後なんだから弱輩共は精々喜んでおいたらよからうよ。」

 そんなことを云つて私は虚勢を張つて見せましたが、これが一遍や二遍ならとにかく、もう五遍も手合せを行つて、たつた一度も+一点も得ず、徹頭徹尾、零敗なら未だしも、マイナス数十点といふ奴ばかりで、さすがの私も腹のなかではうんざりして居るのです。

「もう一遍来い!」と私はうなりました。

「止した方がいゝでせう。」

「恥の上塗りよ……」

「負けると厭だもんで、あんなことを云つてら、尤も稀に勝つたらそんなものだらうさ。嬉しがる時はこれつきり無いと思ふとね。」と私は云ひました。

「そんなことを云ふんなら……」と光子さんがいき巻いたあげく、もう一遍といふので、こゝに私達は最後の決戦を試みたのであります。

 クラブが切札なんです。ところが一枚も私の手にはクラブが入りません。河田はキングを取つた。敬子さんはテンとオールマイテイーとを握つてゐる。光子さんは女王クヰンを持つてゐる。ところへたつた今ポイントが手に入つた。──あゝ、何といふことだらうと私は思つた。そのうち私はツウーの切札を得た。どうかしてこの一枚だけは生かして、せめて十点でも得て置かうと思つたにもかゝはらず、たつた一遍に光子さんのセブンかなんかでせしめられて了ひました、

「痛快〳〵。」と光子さんは云ひます。

「そんなものいらないんだ、これで僕にはちやんと下心があるんだからね。」

 そのうちに河田のキング光子さんのポイント敬子さんのテンとヲールマイテイイとが引続いて面白い接戦をして降りました。私には到底その戦ひに入る力はありません。これだけ降りたとなると、もう大して怖ろしい奴は居ない。光子さんの手に女王クヰンが残つてゐるばかりだ、処でマヰナスの接戦に入つてポカポカと大きな奴を光子さん目がけて投げつけてやらうと思つた私は、一刻も早くマヰナスの十点ものが現れることを熱望しました。ところが私に思ひがけなくもクラブの兵士ジヤツクが入りました。かうなると私は却つて困りました。かの憎むべき光子さんの手には女王が光つてゐる。小さな切札を一枚もつてゐるから一回だけは防げるとしても、思へば風前の灯火ともしびである。折角の兵士をムザムザと光子さんに取られるのかと思ふと、私は残念で〳〵堪りません。

 そこで私は考へました。これはどうしても光子さんに敵対しないことだ、光子さんの御機嫌をとつてやらう、感情家のじよは屹度さうしたら此方の兵士を見のがすだらう、そのうちに此方が兵士を持つてゐることも忘れて了ふだらう──なんて途方もないことを私は苦しまぎれに考へたのであります。

 女王を握つてゐる光子さんが、私にとつて女王そのものゝ様に威力ある物として存在したのである。


「王様の御命令で私は姫様をお慰め申しに参つたのであります。さうして私はこれから姫様の御命令をうけたまはつて御兄君の御情況を見聞いたすべく、ニールの彼方までせ参じようと存じて居るのでございます。」

 この時の私の心を例へれば、あのサラミヤ姫と兵士との問答のやうなものでした。この時私は、今迄書いたやうな青白き公園の物語を想像しながら、ヒヤヒヤしてトランプの勝負を決してゐたのであります。

 いつの間にか可成り長いお話になりました。それだのに未だこの物語の結末はついて居りません。私は困りました。始めのうちに私は余りなことを云つて了つたのです。──さあ皆さん私は今、世にも稀なる不可思議な物語を始めるのです、といつたやうに、未だそれが果して不思議な物語であるかどうか解りもしないうちから、そんなことを云はなければ居られないとは──まあ何といふ私は話下手なんでせう。とにかくこれで「青白き公園」のお話はお終ひにいたしませう。折角のトランプも惨々な敗北になつたし、光子さん達はいゝ気になつて手を打つて喜ぶ──物語もこゝで切断! 皆さんも屹度この私を冷笑するに違ひありません。

 真夏の夕風涼しき窓に此の稿を終る。間もなく月が出るだらう。おゝ月よ、あなたの囁きを私は今宵心をこめて待ちます、私に美しい詩を与へて下さい。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房

   2002(平成14)年820日初版第1

底本の親本:「少女 第九十五(十一月号)、九十七、一〇〇、一〇二、一〇五号(御渡欧記念の巻 九月号)」時事新報社

   1920(大正9)年106日、12月、1921(大正10)年3月、5月、88

初出:「少女 第九十五(十一月号)、九十七、一〇〇、一〇二、一〇五号(御渡欧記念の巻 九月号)」時事新報社

   1920(大正9)年106日、12月、1921(大正10)年3月、5月、88

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年329日作成

青空文庫作成ファイル:

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