ランプの明滅
牧野信一



 試験の前夜だつた。彼はいくら本に眼を向けてゐても心が少しもそれにそぐはないので──で、落第だ──と思ふと慄然とした。と、同時に照子の顔が彷髴として眼蓋の裏へ浮んだ。彼にとつて照子の存在が、彼が落第を怖れる唯一の原因となつてゐたので、然も彼は非常に強く照子の存在を意識してゐたから、非常に落第を怖れた。何故なら、

「妾、秀才程美しい感じのするものはないと思ふわ。妾は秀才といふ文字だけにでも、妾の生命の全部を捧げて、涙をこぼして恋するわ。」

「フン。」(彼は、自分が秀才でないといふことを照子が多少侮辱的に云つて居ると知つてゐた)と、つまらない事とセセラ笑つては居たものの、

「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ。」と胸に一縷の望を持つて、いつのことだつたか、戯談紛れに尋ねると、

「妾もよ、秀ちやんのやうな茶目さんと結婚したいわ。」で一撃の下に、笑に附せられてしまつて、彼の言が表現した通りの戯談の儘でとほつたのだからよささうな筈なのに──いつ迄たつても照子の云つた「結婚」といふ言葉を棄てることの出来ない彼なのであつた。それは、「どうしてなのか。」と考へて見れば「惚れてるのだ。」と極めて簡単に解つてゐたが、よく恋の心理を現した歌などに「何故か?」「涙こぼるる」などといふやうに、恋を神秘視してゐるのを見ると、反感とまでゆかず滑稽を感ずる彼だつたが、照子を想つた時はどうやら自分の気持も「何故か……涙ながるる」の気持らしかつた。

 時間はどん〳〵過ぎて行つた。第一頁すら彼の頭には入つてゐなかつた。一秒を刻んだ時計の針に落第を思ひ、さうして失恋(?)をおもつた。──彼は深い溜息をした。──照子が突然死んでしまへばいい、と思つた。

 外は酷い暴風雨だつた。激しい雨がしきりに彼の窓を打つてゐた。その中に彼の心は、荒れ狂うて風雨の響の中に溶けて行つた虚無が彼の胸に扉を開いてゐた。

「落第がなんだ。」といふ気がした。

「厚顔無恥の照子だ!」と彼は呟いた。──然し彼は涙が出さうになつた。


 突然! 電灯が消えた。と同時に彼の胸は、何やらハツとした。──「いいあんばいだ。」と思つた。「灯が消えては当然勉強は出来ない。」「本をまる覚えした事で、照子の最も讚美する秀才になり得るものならば、勉強が止むを得ず出来なかつたといふ原因で落第しても、──可能性はあるだらう。」こんな事をしきりに考へた彼は稍々安心した。と次の瞬間から彼はただ専念に──安心して照子の事を想つて居た。

 真暗な中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたたずんでゐる自分を瞶めた。恋情といふものは極めて滑稽なものだ、と思ひながら、彼は静坐の姿勢で眼を瞑つた。


「電灯が消えて、試験だつてえのに困るわね。」といふ声でパツと室が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙がたまつてゐるのを不思議さうに見た。

「勉強出来て?」

 ──彼はむらむらツとした。

「煩いよ。」と、彼は照子の顔さへ見ず本の上へ視線を落した。

「しつかりやつてね。御褒美を上げるわ。」

 ──どんな褒美なんだい──と普段の調子で問ひ返さう(この瞬間には彼の悲しみは氷のやうに溶けてしまつて喜びだけが踊り上つた)と思つた時、問ひ返さるゝ程の真実性を持つて照子が云つたのではなかつたのだ、と気が附いて、又悲しみが出て、もう少しの処で馬鹿! と怒鳴るところだつた。もうその時は照子はトン〳〵と梯子段を降りてゐた。


 彼は凝とランプの灯を瞶めた。シンがジーツと音をたててゐた。それが気になつたので、彼はネジを持つてシンを引込めたり出したり、何遍も繰り返した。ジーツといふ音は止んでしまつても所在のない彼は指先をネジから離さなかつた。室は明るくなつたり暗くなつたりした。

 ──明るくなつた瞬間には、試験と失恋の怖ろしさを想つた。暗くなつた瞬間には照子の美しさだけを安心して想つた。その中に彼は指先の速度をそれに伴れて心の変る暇のない程だんだんに速めて居た。彼の心は目茶苦茶になつた。彼は子供になつたやうな心地で──面白がつてランプのシンを弄んだ。

 ──しまつた! と彼が思つた時、シンを油壺の中へ落してしまつた。──暗闇だけが残つた。──彼は困つたことなのか、困らないことなのだか、といふ区別を自身の心につけることは出来なかつた。──彼は、又深い溜息をした。

 虚無、安心、悦び、涙──それだけのものが白い絹に包まれたまま胸の中へ一時に流れこんでくるやうな感じがした。


 彼は落第した。


 照子はその翌年結婚した。彼は照子の結婚が少しも自分の心に反感のないのを感じた。

「恋ぢやなかつた。」と彼は思つた時、仇を取つたやうな気がした。然しその気持は「強ひて云つてるらしい。」といふ感じもされた。──悲しき勇士といふ言葉が稍々自分の気持に合つてるものゝやうに思はれたが、結婚を聞いた時は少しも驚かず、

「フン。」と答へたばかりだつた。


 三年程経つて彼も結婚した。

「貴方は磯と結婚する前に恋をしたことがあるでせう。」妻はよくこんな事を云つては彼を困らせた。

「ないよ。ほんとだ、決して。」彼は心から妻を愛してゐたから、むきになつて答へるばかりだつた。

「嘘だ〳〵。」と云つて妻は泣いた。こんな事もきいた、あんな事もきいた、と妻は古い手紙などを持出して、又泣いた。

 彼がある女と家を逃げ出したこと、雛妓に惚れて──親父から勘当されたこと……を妻は知つてゐた。

 が、彼は実際妻程愛した者は一人もなかつたから、「嘘ぢやない。」と懸命に云へば云ふ程、妻は反対に焦れた。さうなると彼は癪に障つて、妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、非常に後悔した。

「明るくつてねられねえ。灯りを消せ。」結婚して初めて彼が怒気を含んだ音声を発したので、妻は吃驚して、(どうして彼が急にそんなに怒つたか不可解だつたが)おとなしく灯を消した。

 その様が可愛かつたので、彼は妻の手を握つた。妻は又泣いた。

 ふと彼は全然忘れてゐた照子のことを思ひ出した。「嘘ぢやない。」と妻に弁解しながら、嘘でないその言葉から過去を淋しく思つてゐる矢先に、ふと照子の顔を思ひ出したら、

「やつぱり俺は嘘をついてゐるのかな。」といふ気がして、軽い会心の笑が浮んだ。同時に堪らない寂しさが湧き上つた。

「何故俺はそれ(?)以上の愛を持つことが出来ないのだらう。」と思ふと、彼は涙が出さうになつて、

「やつぱり眠られない。もう一度灯りをつけておくれ。」と云つたが、妻と一緒に、暗い室で涙を味ひながら泣き度くなつて、堅く妻の手をおさへた儘灯りをつけさせなかつた。

(九、二、二五)

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房

   2002(平成14)年820日初版第1

底本の親本:「十三人 第二巻第三号(三月号)」十三人社

   1920(大正9)年31日発行

初出:「十三人 第二巻第三号(三月号)」十三人社

   1920(大正9)年31日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年56日作成

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