駒鳥の胸
牧野信一
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「黄金の羽虫、どこから来たの。蜜飲の虫、あらあら、いけないわ。そんなに私の傍へ寄つてはいやよ、日向の雛鳥、あつちへお行きよ。」
レオナさんは緑石の様に輝いた美しい瞳をうつとりとかすめて独言のやうに呟きました。
「まあ、随分酷いわレオナさん。私のことを羽虫だつて、そばへ寄つてはいけない、あつちへお行き、ですつて。いゝわいゝわ、どうせ私が傍に居てはお嫌なんでせうよ。」艶子はレオナさんの今の言葉は自分に向つて云つたのだ、と思ひましたのですつかり怒つてしまひました。それでもレオナさんは素知らぬ風で花を瞶めて居りました。さうして又こんなことを云ひました。
「黄金の羽虫! おや何を探してゐるの。私を花だと思つて。私の唇を蕾だと思つて、あつちへ飛んでおいで、森の中へ、小川の縁へ。菫、蒲公英、桜草、そこには何でも咲てるよ。その中にもぐりこむで酔倒れるまで飲んでおいで。」
艶子はレオナさんが、どうしてそんなことを云ふのか不思議になつて来ましたので、もう怒らうとはせず、レオナさんの肩をたゝいて、「どうなさつたの。貴方一体先程から何を云つてゐらつしやるの。」と尋ねました。するとレオナさんはその時初めて吾に返つたやうにハツト軽く驚いたかと思ふと、恥しさうに両頬を紅色にしました。さうして花の精のやうに美しい微笑を浮べて云ひました。
「あらまあ、私随分妙ね。今ね、こうして凝と奇麗な花壇を瞶めて居ると、いつの間にか夢のやうな気持になつてしまひましたのよ。私の頭の中はお伽の国になつて、沢山な姫様達が楽しさうに唄つてゐるのです。さうすると──そら、そこに小さな蜂が舞つてゐるでせう、その蜂を見るとふと私はあの「沈鐘」の森の娘ラウデンデラインと同じやうな気になつてしまつたの。「沈鐘」の中で私の一番好きな唄、それは今私が思はず口走つたところなので、ラウデンデラインが蜂を追ひはらう唄なんですの。」と云つて声をたてゝレオナさんは笑ひました。「森の姫よとうたはれて」とか「どこからわたしや来たのやら」などゝいふ唄で艶子は「沈鐘」を思ひ出しました。
「でも私、貴方が急にあんなことをおつしやるんでせう! 驚いてしまつたわ。「あつちへお行き。」なんて、又私のことをそんなにおつしやるのかと思つて、私随分怒つてしまひましたのよ。」艶子も晴やかに笑ひました。
空は紫色に澄み渡つてをりました。花から花へ舞ひ移る蜂のブーンと云ふ羽ばたきさへはつきりと響くほど、おだやかな日でした。咲競ふた花は美しさと、その貴い香水のにほひとを合せて、春の女神への捧げ物として居りました。
「御免なさい、艶子さん。」
「まあ、謝まつたりなすつては嫌よ。」
艶子はレオナさんの手を堅く握りました。艶子は胸が一杯になつて涙がこぼれさうになつた程、こんな美しい感情を持つたレオナさんと、お友達であることを幸福に思はずには居られませんでした。
艶子は、レオナさんとそのベンチに腰掛けたまゝ、心ゆくばかり歌をうたひました。
レオナさんは幼い時から余程長く日本で育ちましたがお国はフランスでした。艶子が種々な珍しい佳い詩や歌を、それからあちらの有名な詩人の名前などをレオナさんから教はりました。いつも艶子が口吟むで居るロセツチといふ詩人の「燕」の唄や、ブレワーといふ人の「小さきものよ」などゝといふ可愛らしい唄もそれらの中のものでした。たゞ暗誦的にいろんな唄を覚えるといふことよりも、その詩の作者の名前や伝記に就いての多少の知識を得た後に、その人の詩に接して見るとそれに一層暖みのある興味と情しみを感ずることが出来ましたから、艶子はせめて詩人の名前だけでも沢山覚えたいと、よくレオナさんに云ひました。
「小さき星よ」といふ詩のことを思ひ出して、静な夜星を眺めて居りますと、その詩を知なかつた前は決して空想さへ許されなかつた程、珍らしい新しい世界を、艶子は想ふことが出来たのであります。自分と異つた国に育ち、自分より先に生れた偉い詩人の考へたこと、想つたこと、作つたこと、は必ず自分に新しい感情を導いて呉れるものだ、と艶子は信じて居りました。
艶子が日増に思慮深くなり、悧口になつてくることは、それはみんなレオナさんの賜物だつた、と艶子は思つて居りました。
どんな苦しいことがあつても、悲しいことに出遇つても、あの広大な、自由な、荘麗な詩の世界といふところを知つた艶子は、決して目の前の小さな事柄に悲しむだりすることはなくなりました。ですから艶子にとつての詩といふものは食物と同じやうになくてならないものでありました。其大切な詩を、艶子が今迄考へたこともない拡い美しい世界を教へて、さうしてそれを日毎に拡めて下さるのはレオナさんでした。
命といふものはほろびる日のあるものですが、詩の国はいつまでも光り輝くところのものであります、ですから、艶子にとつてはレオナさんは命よりも大切な光りでした。
艶子が幸福な詩の世界に生きて居られるといふことは、つまり、こうしてレオナさんと毎日仲善く遊ぶことが出来るといふことなのであります。
艶子にはお父さんもお母さんもないのでした。孤児といふ何よりも不幸な身の上を艶子はどんなに嘆いてゐたか知れませんでした。どれ程立派な家に住み、どんな美しい着物が着られたとて、そんなことは艶子は少しも幸福だと思ふことは出来ませんでした。がレオナさんを知つてからといふものは、艶子はお父さんやお母さんのお傍に居ると同じやうにうれしい日が送れるやうになりました。孤児といふことも忘れて暮すことが出来ました。忘れたといふよりも、目に見ゆる世界より、もつともつと立派な幸福な自由な地があるといふことを知つたから、安心したのでありました。
どうしても艶子がレオナさんに別れなければならない日が参りました。艶子にとつて命よりも大切なたつた一人のお友達のレオナさんが遠いお国へ帰らなければならない日が来たのでした。
艶子の嘆きはどんなだつたでせうか、艶子は涙も出ない程悲しむだに異ひないだらう……と。(こゝまでお読みの皆さんは誰方もさうお思ひになるでせう、私もさう思ひます、心の底から、艶子に同情せずには居られません。)
然し事実はそれとは全く反対でした。艶子はレオナさんを快活に見送りました。レオナさんも、たつた一人の友達の艶子に笑つて別れて行きました。(何と不思議なことではありませんか。私は、これ程仲のいい友達が、これほどさつぱり別れることが出来たといふことは、とても真実とは思はれません。私にとつては世の中のどんな珍らしい魔術よりも不思議に思はれてなりません。)
その日は、いつか二人が花園で沈鐘の歌をうたつたときと同じやうに晴れた春の朝でした。
「あの駒鳥は可愛がつて下さいね。」
「駒鳥の胸は入日のやうに真赤で美しう御座いますことね。」
レオナさんはお別れの紀念に、一羽の駒鳥を艶子にのこして下さいました。
大概の鳥は、寒い冬が来ると南の暖い国へ行つてしまひます。駒鳥は、冬が来ても決して他の国へゆかないさうです。いつまでも一つところに止つてその赤い胸毛を光りに浴びて、年中可愛い、歌をうたふ鳥なのです。「寒い冬が来てもどこにもゆかない鳥」といふところに、レオナさんの心尽しがこもつてゐたのであります。
二人がこんなに平気に別れられたといふことは、──二人があんまり仲が善過ぎたから、人と人とのおつきあひといふことのうちで恐らく二人程お互の心をよくわかつたお友達はなかつたでせう、それで二人はこんなにさつぱりと別れることが出来たのです。真心と真心さへ解りあつてゐれば、別れといふこと位は何でもなくなるのであります。──レオナさんと艶子は真実に幸福な詩の世界に生くることが出来てゐたからであります。詩の世界といふものは、それほど自由な、天地なのであります。目には見えない遠くの島と島とに離れてしまつても、二人の間にはそんなことで離れることの出来ない拡い、さうして交通の自由な立派な橋があつたからであります。二人は心だけで仲善く出来るものであるといふことを堅く信じてゐたのであります。──二人の住む国……心と心の王国──詩の世界──偽りのない世界……そこで二人は、自分勝手に会ふことも出来れば遊ぶことも出来たのであります。
やがて、人々が寂しいといふ秋が来て間もなく人々にはストーブの前から動くことの出来ない冬が来ました。──艶子の顔色は秋が来ても冬が来ても、同じやうに晴やかに輝いて、さうして元気よく暮して居りました。
レオナさんから手紙が来ました。外には、二三日前から降り積つた雪が溶けさうにもなく、日の光は、キラキラとそれに反射してゐました。雪の上にころぶ雀と、艶子の書斎の窓に居る駒鳥とより他に、見渡す限り、動いてゐるものはありませんでした。それ程寒い日でした。
「──駒鳥は私と同じやうに貴方のお顔をみつめてゐるでせう。どんなに寒くなつても駒鳥は決して貴方の傍を離れませんから御安心なさい。私の心と同じやうに──永久に貴方の心をみつめて居るでせう……」こんなやうな意味の手紙でした。
艶子は窓によつてその手紙を何辺も口吟みました。レオナさんの手紙には詩のやうな味はひが漂つてゐました。駒鳥の赤い胸には、金色の日光が映えて居りました。
艶子は駒鳥を籠から出して、その胸に、頬をそつとふれました。──駒鳥の胸に射してゐた日光は、同じ光りを艶子の頬へも投げました。艶子の頬は、女神のやうに麗しく輝きました。
艶子の唇からは、静な歌が、銀河の流れのやうにゆつたりとこぼれ出ました。
底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少女 第八十五号(新年号)」時事新報社
1919(大正8)年12月6日発行
初出:「少女 第八十五号(新年号)」時事新報社
1919(大正8)年12月6日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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