『ユリイカ』挿話
牧野信一



 ポウの宇宙論『ユリイカ』のなかにはトレミイ・ヒィフェスチョンといふ学者の名が出て参ります。この名前は『ユリイカ』だけでなく、彼の他の作品でも一再ならず出くはすのですが、色々と文献を調べても、こんな名を持つた学者は見当りませぬ。紀元後二世紀頃にクロオディアス・プトレミィアスといふ数学・天文学・地理学に通じた男がゐたさうで、この男の生涯についてもはつきりしたことは何も伝はつてゐず、僅かにアントニイがエヂプトで現つを抜かしてゐた頃アレクサンドリアを見聞し、アントニイの死後まで生きてゐたことが解つてゐるだけです。ポウの所謂「ニュウビアの地理学者、トレミイ・H氏」とは、このクロオディアス・P氏のことかといふ推定もされますが、或ひはポウの出鱈目かも知れません。

 このトレミイ・Hの言としてポウがある作品で引用してゐるのに「未聞の事柄を探求するために、冒険者達は常闇の海に乗り出す。」といふ言葉がありますが、ポウが『ユリイカ』で試みたのも正にこのことに他ならないと愚考されるのであります。彼が「未聞の事柄」にいかに到達し得たか、そのときにユリイカ(発見は為された)! とどんな風に叫んだかは、私がくどくどと申し上げるより、この書物そのものが最も雄弁に語るでありませう。それに枚数の制限もありますので、ここでは『ユリイカ』出版前後の事情を少しばかりかいつまんで申し上げるに止めたいと存じます。

 一八四七年の一月に愛妻ヴァージニアが亡くなりまして、これ以後ポウの不幸は急湍の如くに彼をおし流し、ポウ自身の言葉を借用しますと「或る不思議な切迫した宿命感」のために遂に自ら死を招くに至つたのであります。この間二年ばかりの間に、数篇の名詩とこの宇宙論とがものされました。いはばこの宇宙はポウが自らの宿命に対する最後の戦ひであります。「俺はもう駄目かも知れぬ、だがこの宇宙の秘密、神の秘密だけは見届けてやるぞ。」彼は内心かう呟いたに相違ない。

 妻が死んだ翌年の二月、ポウは「宇宙の現状」と題して講演を行ひました。彼の所存では少くとも三四百人の聴衆を集めその収入で講演旅行に出かけ、長年の希望であつた自身主宰の雑誌発行資金を稼ぐ肚だつたのであります。しかし紐育の協会図書館ソサイテイ・ライブラリ講堂に集まつた人は僅か六十人に過ぎませんでした。これらの聴衆は荒涼たる如月の宵に三時間も打ち震へながら、この天才の光耀赫々たる狂想に耳を傾けたのです。ポウは霊感に打たれた如くに見えた──と伝記者は記して居ります、──そして彼の霊感はこの少数の聴衆に苦痛と云はんばかりに強烈に滲み渡つた。彼の双眼は「大鴉レイヴン」の眼のやうに爛々と輝いたと申します。

 講演の不成功に落胆せずにポウはその草稿を書き直して間もなくプトナム出版社を訪れ、「極めて重要な件について、プトナム氏と会談したい。」と申入れました。以下プトナム氏の思ひ出を訳してお目に掛けます。

「座につくと彼はものの一分も私を閃くが如き眼で見つめてゐたが、やがて口を切つた、「私がミスタ・ポウです。」

 私は無論この「大鴉」や「黄金虫」の作者を前にして多大な興味でその言葉に耳を傾けた。

「どうお話し始めてよいか解りません。ことは至極重大なのです。」一寸間を置いて、この詩人は、「自分の出版しようと思つてゐるものは、この上なく重要なものなので、ニュウトンの重力発見の如きは、この本の中に提示された諸発見に比べれば、ほんの些事に過ぎない。だから出版者たるものは何を置いてもこの本の出版に努力すべきで、それを出版者としての生涯の仕事とせねばならぬ。初版は五万部にしたらよかろう、それでも少いくらゐだ……」

 すべてこれらのことをポウは皮肉や冗談でなく、極めて真面目な調子で話したのだ。なぜなら彼の眼はコウルリッヂの〈老水夫エンシエント・マリナー〉のやうに私を把へて離さなかつた。私は非常な感銘をうけた、が、打負かされはしなかつた。」

 とプトナム氏は書いて居ります。

「私は回答を一両日延ばした。そして五万部出すといふ危険は冒さなかつた、決局五百部にきめたのである。」

 そしてこの五百部もあまり売れなかつたらしいのであります。従つてポウの主宰雑誌はたうとう出ませんでした。彼は翌年ボルティモアといふ町で酔つぱらひ、終ひに行路病者としてこれらの世界と別れました。神様を相手に喧嘩を吹きかけるやうな人間はどうせ碌な最期を遂げる気づかひはありません。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房

   2003(平成15)年510日初版第1

底本の親本:「牧野信一全集3」第一書房

   1937(昭和12)年715

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年930日作成

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