文学的自叙伝
牧野信一
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父親からの迎へが来次第、アメリカへ渡るといふ覚悟を持たせられてゐて、私は小学校へ入る前後からカトリツク教会のケラアといふ先生に日常会話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは随分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教会にあるやうな立派な燭台やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電灯が点いて間もない頃だつたが祖父は電気を怕がつて、行灯の傍らで独酌しながら私達の合奏を聴き、酔が回つて来る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな声で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの弾奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖国思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡単な意見を交換した。大体私が通訳官であつた。──私の父親は中学の課程からボストンに生活し、学生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U. S. N. Stuckton なる水雷艇に乗つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乗つてゐる軍艦や汽船が横浜に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で国府津に出て汽車に乗つた。その度毎に私は父からの届物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雑誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫画などを笑ひながら読めるやうになつてゐた。然し渡航する機会もなく、祖父が歿くなつて、私が中学に入つた年に、父親は第一回の帰国をした。ところが私は、はじめて見る父親を何故か無性にバツを悪がつて一向口も利かうとしなかつた。とても今更空々しくつて、お父さん──などと呼びかけるのは想つても水を浴びるやうであつた、彼は、つまらぬつまらぬと滾して国府津の海岸寄りの方へ別居した。(述べ遅れたが、私の生地は神奈川県小田原町である。)国府津町はその頃村で、東海道線に乗るためには電車で国府津へ向はなければならなかつた。自転車に乗つて父のところへ遊びに行くと、いつもアメリカ人の友達が滞在してゐた。で私もそれらの家族伴れなどの人達に交つて、ピクニツクに加はつたり、凧をあげて見せたりするうちに、彼等と一緒になつて彼等の習慣の中であると、自然に父親とも親しめるやうになり、父と子は相対する場合でない限り、英語で口を利いた。私は、小学でも中学でも凡ゆる学科のうちで綴り方と作文が何よりも不得意で、幾度も〇点をとり、旅先などから母親にでも手紙が書き憎くかつたのであるが(母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一文章が恰で成つて居らず、加けに無礼な調子であると訂正されるうちに、作文でも手紙でも私は、真に考へたことや感じたことは、そのまま書くべきものではなく、左ういふことは余程六ヶ敷い言葉を用ひて書くべきだ、左ういふ窮屈を忍んで、決りきつたやうな真面目さうな、厳しさうな、そして思ひも寄らぬ大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬのかと考へると、文字が亦、これはまた言語同断といふ程拙劣であつて私は途方に暮れた。親戚などに父の代理として時候見舞などを書かされる場合に、母が傍で視張つてゐるのであるが、私には何うしても、末筆ながら御一同様へも何卒宜しく御鳳声の程を──などとは書けぬのであつた。)──父との左ういふ習慣がすゝむと、私は決してそんな冷汗を覚えることもなく、自由となり、未だ父を見なかつた頃からケラア先生に教つてゐたので書き慣れてもゐたのであるが、ちよつとした旅先からなどでも気軽に、親愛ナル父上ヘとも、汝ノ従順ナル息子ヨリとも書けたし、お早ウ、父サン──などと、彼の友達が居る場合なら呼びかけることも出来た。私は父親の書架に旅行記の類ひばかりが充ちてゐるのを見て、そんなものばかりを耽読するので家に落着かぬのかと思つた。そして私に、はじめてすすめた本はガリバア旅行記であつたが、私はほんの少し読んだだけで何故か憂鬱になつて止めた。その書架にどんな本が並んでゐたか殆ど記憶にないが、ローレンス・スターンの風流紀行といふのが酷く手垢に汚れてゐたのを、わづかに思ひ出すことが出来る。──中学を終る頃になると、そこに来る同年輩のアメリカ人の娘と私は盛んなる手紙のやりとりをするやうになつて、時には、君コソハ僕ノ永遠ノ女王デアリ、僕ハ君ノ最モ忠実ナル下僕デアル──となど、全くその通りの気持で書き、また、斯ンナ月ノ美シイ晩ニ君ト腕ヲ組ンデ、斯ンナ静カナ海辺ヲ歩イテヰルト、僕ノ魂ハ恍惚ノ彼方ニ飛ビ去リ、嬉シキ涙ガ滾レサウニナル、コレハ僕ニトツテ生涯ノ最モ美シキ思出トナルデアロウ──と、それも全くその通りの感銘を持つて喋舌つた。
ところが私は(記述は前後するが)その後結婚の以前に三度もの恋愛を経験したが、手紙は恰で駄目で、どんな類ひの手紙を貰つても容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが読み返すといつも全身が砥石にかかつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つた。会つてもつい黙り勝ちで、思はず欠伸をするやうなことになつたり、真面目なことを云はなければならない場合に、つい空呆けて横を向いたりするやうな始末で、皆な失恋に終つた。どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、恋しき君よ……などとは書けず、また徹底的に真面目さうな表情で、屹度結婚しようネ──などとささやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘に示した態度や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて駆使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われわれの言葉や文字は、尊厳に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに変つた。
中学の四年頃(記述は前に戻るが)パジエツトといふ若い英語の先生と懇意になり、つい話しかけられると問はるるままに答へてゐた。英語の科目は凡て、終始満点であつたが、それは当然のはなしで寧ろ済まなく考へてゐた。何の先生とも個人的な口を利くことは絶対に嫌ひなものであつたが、パジエツトさんの場合は全く止むを得なかつたにも関はらず、いつか、毛唐となど得意さうに話して、あいつは生意気だといふ評判が立つてしまつた。凡そ私は得意でなどはなかつたのであるが、家に戻ると娘を案内して(その時分はあんな手紙を書きもせず、特に恥しいといふことも知らぬ程度で)自転車を並べながらあちこちの風物などを説明しまはるのであるが、娘が呉れるネクタイを結ばなければ悪いやうな気がして、制服を着換へてゐたのを、学生監に見つかつて停学処分を享けた。生意気と見られれば途方もなく生意気に相違なかつたらうが、終ひには堕落呼はりをされるに至つては私も余程憂鬱にならずには居られなかつた。そして、学期末になると、体操の点が戊といふ最下等であつた。開校以来の出来事だ左うであつた。作文の丁は点頭けるのだが、さすがに体操の落第点といふのは、努力の仕様もなく、途方に暮れるうちに、私は益々それが馬鹿々々しくなつて、号令をかけるのさへ嫌ひになつた。体操の教師は二人ゐたがTさんといふ錐のやうな眼の休職曹長が非常に私を憎んだ。どういふ意味か知らないがT先生はジヤツコラといふ綽名で、箱のやうな感じで、歩調の試験だなどといふと、私ばかりを大勢の前に引き出して、やれ踵が二秒早く降り過ぎたの、脛がもう何ミリ前へ伸びぬからとかと飽くまでも難癖をつけて、他の者の十倍も長く歩かせるのだが、そんなにされれば益々気持が上つてしまつて、思はずフラフラすると先生は堪らぬ罵声を挙げて鞭を鳴らした。そして、これを見よと叫んで、自分の歩調の模範を示すのであるが、私には決してその差別が見わけ難かつた。私は、これほど人に憎まれた経験を未だに比ぶべきものを知らない。──私は終ひにこれは何うも自然に任せるより他はないと観念して、徒手体操の時になつても、決して力が入らぬやうな動作になつてしまつた。前腕ヲ平ラニ動カセ、オイツ! とか、首ヲ前後左右ニ曲ゲ──など割れるやうな号令の許に、あはや顎のかけがねが脱れんばかりな仁王のやうな大きな口をあけて、オイチ、二ツ、などと絶叫しながら、腕を力一杯に折つたり曲げたり、首などは石ころのやうに乱暴にあつちへ向けたりこつちへ曲げ倒したりして、その勢ひの最も獰猛なやつが甲上だなどといふT先生の訓練法に、私は自づと逆はずには居られなくなつた。先生は私の体操振りを目して、クラゲのやうだとか酔払の態だとかと憤つて、腕が抜ける程引つ張つたり、首根つこを掴んで振り回したりしたが、責められれば責められる程否応なく私の動作は手応へもなく亡霊と化した。今にして思へば、私のあれらの体操振りは寧ろ現代的なる方法を髣髴する概があつたと思はれるのだ。今では何処の学校や海兵団の体操を見たつて、あんな馬鹿臭いのはありはしない。あんな体操なぞは凡そ肉体に不自然なる激動を与へるのみで終ひには精神作用までをも最も偏頗なる小局に乾干びさせてしまふ位のものである。個性と自然との純一を貴んでこそはぢめて心身のトレイニングに役立つべきで、今や朝の霞を衝いて津々浦々までも鳴り渡るあの明朗至極なるラヂオ体操を見ても明らかの如く、正にあのやうなる悠かな窈窕味をもつて大気に飽和し、自づと闊達なる人生の大呼吸を体得すべきが当然の所以は、かの偉大なるルツソオも既に「エミール」の中で縷々と述べて居り、更に世紀文明の太初に遡つては夙に大ソクラテス並びに大プレトーンが全生命を傾注したる諧謔法を選んで永遠に若々しく呼号してゐる通りである。不幸なる私は、あの中学の体操に依つて犯罪妄想の如き心悸亢進の胚種を植ゑつけられた。兎角、肩肘張らしたる度偉い掛声は人生を暗澹とさせるより他に効果はない。そこで私は或日思ひあまつて、あの体操に関する疑惑をパジエツト先生に訴へると、真の日本流はあんな筈ではないであらう、またスパルタ流と雖もその趣きを異にするものだと私に同意せられ、君は明日にも、真の自由と、誠なる個性を尊重する校風の、都の学園を索めて転校すべきが当然だ──とすすめたが、私が転校もしないうちに先生は京都の大学へ移られた。先生はエール大学のドクトル・オヴ・フイロソフイで、文芸にも余程の理解を持つて居られたらしかつた。後にも私との手紙の往復は続いて、私が又作文丁をとつたことなどを知らせると、君は未だ作文に於ける Herald system を知らないまでだ、自分に呉れる手紙を見ると、いつも大層奇抜なるロマンテイツク・スピリツトに富んでゐて詩人の素質が十分だ、いつそ手紙を書く通りに自由に書き、それを和訳する方法をとつて見たら如何か、と注意されたので早速私は、よしツ! と胸を叩いて、その方法にとりかかつて見たが、和訳した文章を眺めると、拷問にかけられても他人の前には提出も敵はぬ幼稚沁みたものに見え、私は腕をこまねいてとつおいつなる長太息を洩らさずには居られなかつた。
斯くの如く体操と作文の為に最も救ひなき憂鬱を味はされた中学を終へると、私は一高の理科へ入学するつもりで、本郷に居た医学士の叔父のところへ来た。あの二科目さへ除けば別に好悪もなく、何んな入学試験問題集を見ても六ヶしいと思はれるほどのこともなく何の不安もなかつたので、麹町の二松学舎へ通つて作文問題の用意のために改めて漢文と国文に身を入れようとした。ところが試験場へ行き、あまり大勢の学生が青ざめてゐるのを目撃すると、一人でも余分に入学させてやりたいと云はんばかりの凡そ意味もない覇気見たいなものに駆られて、そのまま方角も知らなかつた早稲田へ人力車を走らせた。パジエツト先生にはあんなことを云はれたが文学的野心は抱いた験しもなく、読んだものと云へば押川春浪の「武侠世界」だけだつたので、思はず瞬間的にそんな大それた感情に駆られたのだつたかも知れない。英文科を選んだといふのは、単に自分の英語の習慣に媚を呈したに過ぎなかつた。手続(無試験)を済ませて、鶴巻町通りの高島屋支店といふ洋服屋に寄ると、頭髪を綺麗にわけた神経質さうな鋭い眼で、温厚さうな小柄の主人が、何科だと訊ねるので、Lだと答ると、早速ノートを持出して来て自作の詩を朗読し、感想を聞せて呉れと云つた。その詩は記憶にないが、妙に私はこの時の印象がはつきりしてゐるので記述しておくのだが、おそらく文科生としての文学談を聞いた第一歩だつたからであらう。──彼は私が黙つてゐると、珍らしい謙遜家だネと好意を示し、君は何を書く? と云ふのであつた。事実の通り皆無と答へると彼は信ぜず「あてて見ませうか、ドラマでせう。」と云つた。そして彼が自由劇場の話などを持出したところ、私は二年位ゐ前からアメリカ娘を案内して大分芝居を観てゐたので多少の受応へが出来ると、いつの間にか彼は独りで点頭いて、これから先輩を紹介しようと云つて早速案内した。私も何故ともなしに悦んだのである。文科の三年生で本郷素行といふ方だつたのを私は覚えてゐる。本郷氏は書物に満ちた下宿の一室で腕まくりで論文作成に没頭してゐた。五分刈頭の学者肌の人柄で、高島屋が、牧野さんはドラマテイストだと紹介すると、本郷氏は凝つと私の顔を見て鷹揚にうなづいた。私は、いいえとか、未だそんな……とかと口のうちで呟いてゐたが、主人と先輩は頻りともうイプセンに就いて語り合つてゐた。私は無論黙つて坐つてゐるのだが、凡そそれまでに感じたこともないパジエツト先生の所謂真の自由と誠なる個性の尊重ともいふべき雰囲気を事実に観る想ひがして、何といふことなしに文科生たるの歓びを感じたのを未だに忘れられない。何故なら私はそれまで、個性とか思想とかに就いて語り合つてゐる人の姿を見た験しもなく、個性を考へるといふことは丁とか戊とかに匹敵する悪業のやうに狎らされてゐたので「君の意見はそれはそれとして一廉であり……」とか「意志の自由に於いて……」とか「誰が誰を掣肘出来るものか……」などといふ言葉が悉く絶大なる美しい響きを持つて感ぜられた。要するに、青葉の窓下で純粋な夢を語り合つてゐる二人の人物が物珍らしくプラトニツクに映じたのであらう。私は帰りがけにWのネクタイピンを買つた。
ところが私は何とも迂闊なことには、二三日経つてはじめて学校へ行き、はじめて時間割を見て、思はずアツと驚いた。こゝにも例の体操と作文の科目があつて、出席して見ると、やはり黒板に「故郷に入学を報ずる文」といふやうな題が出て私は一行も書く気になれず、また体操に出て見ると、気を付ケ! 番号! などといふ厳めしい号令がかかつた。そして、その掛声から恐るべきTさんの錐の目が光つた。Tさんの聯想さへなければそんなに驚かなかつたのであるが、あの歩調の亡霊は飽くまでも私に絡みついて、私の脚はすくんだ。学年末の通知表を見ると作文と体操が、〇点と〇点で落第だつた。学校に入つて初めて口を利いたのは故柏村次郎であり、次にクラス会が大久保の方で開かれた時浅原六朗と知り、間もなく岡田三郎、吉田甲子太郎、下村千秋などに出会つた。英語では中学でこりてゐるので益々臆病になり、何も今はもうそんな必要もないのに、事更に知らぬ振りをして、輪講などといふものの順番があたると、息を殺して決して立ち上らなかつた。「出席を呼んだ時にはたしかに返事があつたのに?」日高先生は屡々首を傾げられた。ところが私たちの中学とは違つて、ミセス・ケイトの会話の時間などには自ら進んで立ちあがり勇敢にまくし立てる学生もあり、中学生のやうに誰も彼を目して生意気だなどといふ者もないのは私を安心させたが、酷い目に遇つた習慣といふものは因果なもので、私は単なる朗読の番でも口を開くのが厭だつた。然し強情にそれを固守して、五年も六年も経つうちに、ほんたうに出来なくなつてしまひ、やがては必要上からも斯る手段を講ぜずには居られなかつた。ただ、たつた一遍予科の二度目の一年の時、ケイト先生の自由英作文といふので満点を貰ひお前は外国の中学を出たのか? と訊ねられて以来折々廊下でつかまつたが、二年目には先生は商科へ移られて御挨拶の折もなく、その頃は吾家へ帰つても親父はまたヨーロツパへの長い旅へ出て不在であり、碧眼の娘は帰国してミセスになつて居り、私は母や祖母へ金の追加を乞ふ書簡文を書くことがぼつぼつと巧みになつて、市村座の芝居などに現を抜かし、六代目やハリマ屋の声色をつかつた。本郷にゐた叔父が人形町に開業したので一緒に移り、叔母の従妹にあたる娘と芝居を見廻つてゐたが彼女が嫁いでからは妙に寂しくなつて早稲田の下宿に移ると、益々母への書簡は巧妙となつた。そして、私はその娘に夥しく軽蔑されて失恋するといふやうなことばかりを空想した短篇などを書きはじめた。柏村、岡田、浅原、吉田、下村などと一廉の文科生振つた口を利くやうになつたが、自分の文学的教養を考へると内心大変に不安であつた。非常なるトルストイアンで特待生である吉田は芝居のプログラムばかりが散乱して英語の本など読みもしないやうな私の机のまはりを苦々しく見廻して、お前は好くそんな態度で生きて居られるな! とほき出し、小六ヶしい英単語を会話の中へ加へて、どうだ解るまいと悸かすのだが、その発音と素振が余り物々しく技巧的過ぎて解らず、私は英語は嫌ひで出来ないのだから文句の中にそれを挿入せずに喋舌つて呉れとをがんだ。嗤はれても当然のことと思つてゐるので反感も覚えなかつたが、兎も角自分も随分と遅れてゐる文学的教養を付けなければならないと考へても、何から読んで好いのか、また何んなものが好きやら嫌ひやらも解らず、と云つて今更そんなことを友人に訊くのも間が悪いので、思案の揚句、凡ゆる意味で世界の初めから出発しなければならないと思ひ立ち、真夜中に坐り直して「太初に言葉あり」と読みはじめた。これが文学に関心を持ち出してからの太初の読書で、混沌哲学からソクラテス、プレトーン、アリストテレス、エピクテータス、セネカ、パスカル──そしてシヨペンハウエルとすすんで、稍々夢中の度を増したが、一向文学的の世界へ手懸りを見出す余裕もなく、読書に関する話題などは誰の前にも持出せなかつた。そんな間に、それでもぼつぼつと書いてゐた短篇をゲーテ研究の柏村に読ませて添削して貰つてゐたが、或日彼が、何うも俺よりお前の方が文章が巧い(と聞いた時には私は実に驚いた)やうだから俺の訳した「ヘルマン・ドロテア」を読んで見て呉れと云ふのであつた。何ういふわけか知らないが俺はお前のものを読むと可笑しくなつて仕様がないと彼は腹を抱へて、私が見せたがらないノートのものなども読み、反つて下書の方が面白いと云つた。笑はれると私は困つて赧くなつた。
「ヘルマン・ドロテア」を読んでから英訳のゲーテ全集を買つた。プレトーン以降の思想が歴然と影響されてゐるのを見て私の胸は異様に震へた。その頃、小学中学からの仲間であつた鈴木十郎が受験生だつたのを私が無理に早稲田の文科へすすめた。そして二人は毎日朝から夜中までゆききして喧嘩をしたり、二人雑誌をつくらうなどと興奮しながら、鈴木が私の五倍もの好劇生だつたので、一時休息してゐた芝居が亦私の上にも復活して、やがて二人は入質といふ術まで覚えて切りと遊びまはつたが、鈴木は稍ともすれば私の芝居の観方その他が野暮だといふことにはじまつて稍ともすると、彼は畳を叩いて非常に憤激して終ひには涙を滾した。私もそれに伴れて震へて悲しんだ。そして夜遅く別れて下宿に帰ると、鈴木に見せる為の小説を書くのであつた。朝目が醒めると彼は既に私の枕元に坐つて原稿を読み、「おお」「おお!」と挨拶するのであつたが、その瞬間の彼の表情で私は、前夜自分の書いたものの及落を素早く感ずるやうになり、私が、おお……と云つても彼が憤つとしてゐる気色であると、階下に顔を洗ひに降りる時脚がカツ気のやうに重かつた。彼は評論家を念とし、いつの間にか私は、小説の仕事こそ何よりも自分には甲斐があると考へるやうになつたのである。憤つてばかりゐたが、私にはつきりと左ういふ夢を与へて最も苛責なき鞭韃を加へたのは彼が最初であつた。彼は現在、歌舞伎座の支配人になつて居るが、相変らず折々の会見や手紙で、私の脚をカツ気にさせたり、Scout's pace に走らせたりしてゐる。御存知には違ひなからうがスカウツ・ペースといふのは一哩を十分強で駆るハイキングの術語である。因みに彼との二人雑誌は後に詩と短歌を主にして「金と銀」と題し、半年あまりも続けたが他方面には寄贈しなかつた。いにしへのもののはなしにありときく、黒髪ばかりあやしきはなし──といふのはあの頃の彼の快詠であり、何かの雑誌(?)に吉井勇の選で一等をとり、ゆき暮れて神楽の太鼓早びよう子──といふのは、後にも先にもたつた一つの私の詠草であつたが、それは金と銀にも載せなかつた。
その後柏村は、吉田や長谷川浩三と共に「基調」、岡田は「地平線」、私は卒業の後に浅原と下村にさそはれて「十三人」、鈴木は同級の者達と「象徴」、等の同人雑誌に分れたが、私は一年遅く入つた鈴木との交遊の為に前後三級に渡つての幾人かの人達と文学を語り興奮を覚えたものの、文学とのはじめのきつかけがああいふ始末であるのが内心気拙く、時には生意気さうなことも口にしたが、いつまで経つても他の者の方が悉く先輩に見えて、努めても議論などは出来なかつた。稍ともすれば己れの弱小のみを持つて回すといふ風な野暮つたさが、表現の上に度強くなり勝ちなのは何うやら飽くまでもその出発点の雲行に起因したに相違なかつた。で私は又、日本橋へ戻つて叔父の知合ひの毛織物輸入商のオフイスに寄宿して余念もなくタイプライターなどを叩いてゐるうちに「十三人」の第二号に、学生時代に書いたもののうちから鈴木に選ばれた「爪」といふ小篇が載つたのを偶然にも未知の島崎藤村先生に御手紙で讃められ「新小説」の新進作家号に紹介された。更にその小説を機会に中戸川吉二を知り、雑誌「人間」へ紹介され、また一、二年置いて「文藝春秋」や「新潮」に掲載される機会を得、それは二十六七歳の頃であつた。「新潮」の「熱海へ」といふのが評判が悪く、もう駄目かと思つてゐたところ、二十九の頃になつて中村武羅夫氏に会ふと、あれを讃めて下さり、非常に意外な気がしたと同時に、漸く将来に対して迷妄が深かつた折から、グツとする態の感激を覚えた。そして中村氏をはじめ久保田万太郎氏や故葛西善蔵氏に多くの鞭韃を与へられながら、兀々と書くうちに善蔵氏の紹介で知遇を得た「中央公論」の故滝田哲太郎氏に認められ激励の手紙を頂いたり、幾度か御馳走にあづかつたりした。滝田氏は、ほんのり酔はれると高島屋や吉右衛門の声色を聴かせて下され、私にも何か演つてと所望されるのであつたが、私は十年前に本郷素行氏の宿を訪れた時のやうに堅くなつて白黒してゐるばかりだつた。
私の文学的自叙伝は、このあたりから書きはじめるべきと思ひ、前述の項は出来得る限り圧縮しようと苦心したのであるが、自発的に目醒めなかつた私の如き場合では、どんな少年時代の一片をとりあげても、自然と文学へ赴くより他に結局道もなかつたかのシルエツトが感ぜられて特に文学的と区切るべき処置に迷ふばかりであつた。あれこれと思ひ惑ふうちには、文章が不得意なる「作文時代」に戻つたかのやうに生気を失ひ、先輩や友達や肉親から享けた素養と環境に就いて、何処を何う抜摘したならば、この機の、ヘラルド・システムに最も適当すべきか、それには畢竟三十八年幾月かの生涯を最も端的に語るべきと考へるのであるが、その力量を試し損つたのは遺憾である。──ひたすら、刀ヲ抽キテ水ヲ断レバ水更ニ流レ、杯ヲ挙ゲテ愁ヲ銷サントスレバ愁更ニ愁フともいふべき焦燥にさへ駆られながら、思ひ出の走馬灯は限りもない勢ひで回転するものの私は途すがら落花に遇つて長く歎息する面持で絶望と陶酔の島を遍歴して来たに過ぎない。
皆な忘れて裸島へ泳ぎつき、私は日に日に漂流者の営みをもつて、あちこちに移り住んだが、わづかな風にさへ私の小屋は忽ち吹き飛んで未だに家も成さない。どうやら私の Indian Slide は運命的でもありさうだが、私は昨日の己れが絶対の姿であるとは考へたくないのである。
落花踏ミ尽シテ何処ヘカ行ク──
つい焦れつたくなると漢語調の歌をうたふのは、代紋と称して提灯や傘などにつける紋章に梯子の印を付け、自烈亭居士と号して狂歌などを詠んだ祖父、そしてインデイアン・システムは父からの影響であるが、今日を限りとして私はそんな文章癖は棄却しなければならない。私はいつも自分の文章を読み返すと、凡ての過去そのものの如く自烈つたくなるのが常である。
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
1936(昭和11)年2月20日
初出:「新潮 第三十二巻第七号(七月号)」新潮社
1935(昭和10)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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