城ヶ島の春
牧野信一



 城ヶ島といふと、たゞちに北原白秋さんを連想する──といふより白秋さんから、わたしは城ヶ島を知り、恰度酒を飲みはじめた十何年か前のころ、わたしたちは酔ひさへすれば、城ヶ島の雨を合唱したものである。白秋さんが、三崎から小田原へ移つて何年か経ち、恰も、千鳥の唄をつくられて間もないころではなかつたらうか。

 わたしは白秋さんが、かなりながく住んでをられた小田原の天神山といふ明るい孟宗竹と芝の小山に営まれた木兎の家を、引上げられる一二年前に何か所用があつて東京からお訪ねしたのを初めに、わづかの間であつたが、どうもそれが悉く春の季節で、欲深和尚が筍を盗みに現れる影法師を、木兎の家の窓から朧月を透して見物したことや、おやまあ、こんなところにもツクシンボウの芽が出てゐるぞ、ほらまた、こゝにも──と水々しい朝あけの芝を、ゆうべの踊りをおもひ出す足どりで踏んでゐた白秋さんが、何か余程貴重なものでも発見したやうに驚嘆の声をもつて指さし、その度毎に空を仰いでわらはれてゐたのをいつも今ごろになつて、どこからともなく貝の音色を感ずるやうな微風に吹かれると、突拍子もなくおもひ出すのである。

 そのころ白秋さんの詩の一つに、凡そ二三歳であつた御子息が汽車遊びに耽つてゐらるゝ光景をうたはれたものゝなかに──たとへば御子息は玩具の汽車をおしながら、見渡す限りの何も彼も、ツクシンボウも木兎みゝづくさんもお月さんも和尚さんも、そしてパパさんもママさんも……みんな、みんな、乗んの乗んの──と汽車の客となし、汽車は大層な汽笛の音も高らかに、ポツポ〳〵と驀進して行く素晴しさを、うたはれたものだつたとおもふが、たしかそのなかに、マキノさんも乗んの、乗んの──といふ一句があつたのである。四角張つてゐたかのやうな何処かの青年が、やがて海の上に月が出る時刻になると、忽ちマリオネツトのやうに酔つ払ひ、厭味いやみな喉を振りしぼつて、ほろゝん、ほろゝんの唄などをうたひ出した容子が、鷹揚な機関手のまなこに余程異様と映つたのであらう。

 ──わたしの、小田原にゐる友達の彫刻家である、何処か微かに白秋さんに似てゐるやうな牧雅雄君は、今でも陶然とする度毎には、おゝ、ほろゝん、ほろゝん、春はほうけて草葺の──といふ唄が名人で、わたしは、その唄のうたひ振りを余程以前から、彼に習つてゐたのであるが、牧君がうたふと何んな欲深な酔払ひでも、根生曲りの和尚さんでも、みんな思はず、ほろろん──として、丁字の花の香りに気づき、煙つた月を見あげずには居なかつたけれど、では小生が──とわたしがあとをつづけようとすると、そんな人は居る筈もないのであるが例へば単に修辞句としての恋人でさへもが、竦毛をふるつて夢から醒めるのが常習なのである。

 それはさうと、わたしは当今、不図した機会から、思ひも寄らぬ三崎の町に、たつたひとりで住むことゝなり、誰の竦毛を憂ふる心配もなく、ほろゝん──の唄をおもひ出し、春の波に溺れようとしてゐるのである。島への渡し舟は、片道二銭で、夜は十時限りである。

「あゝ、また乗り遅れたか!」

 わたしは城ヶ島の居酒屋で、波のひゞきに聴き惚れ、灯台のまたたきにうつゝを抜かしてゐるうちに、不図時刻を知つて、やけの唸り声を発するのが屡々だつた。


 雨は降ることもなく、塁々たる磯の起伏に、たゞ見る一面なるひかりがあふれて、風来の壮子わたしのふかす莨の煙りが、ゆらゆらとして陽炎と見えるばかりであつた。わたしは、水際の岩の日溜りに仰向けとなつて、ぷんぷんとする島酒の宿酔を醒したがつて、空ばかりを仰いでゐると、いまにも風船のやうにふわふわと浮びあがりさうな長閑な天と湯気のやうな陽炎を身のまはりに深々と感ずるのであつた。

 ゆうべ、島の李太白よつぱらひが──一体、お前は何処から現れた何といふ男だ? と訊ね、わたしは単なる病気の静養者だと答へると大層酒を飲む、変てこな病人だ、お前がそれで病人なら俺だつて大病人だ、と疑つて、あはゝとわらつた。わたしは何んな場合にも、嘘や洒落はいへぬたちであるが、今度訊ねられたら、俺は大河今蔵といふのだ──とでもしやれたいやうな、どんな類ひのものであらうと島におくる夜といふものを全く知らないわたしは、何か芝居沁みたやうな、そして胸のわくわくするやうな孤独の壮絶感を覚えるのであつた。そんな寂しさから、独歩作「酒中日記」の主人公の名前を思ひ浮べたものらしい。

 その岩の、わたしの足もとの水は二間ぐらゐの幅で磯の中に深く流れこんでゐる入江であつた。向ふ側の水際に小さな鴎が一羽やすんでゐたが、さつきからわたしはゆうべのことなどをおもひ出して、あゝツ〳〵! と大きな溜息を放つたり、鴉のやうなわらひ声を挙げて、石など水の上に投げたのに鴎は一向に動ずる気色もなく、凝つとまどろんでゐるのであつた。

 どうしたのか知ら──とわたしはいぶかつて、膝までもない水を渉つて行つた。澄みとほつた水はゆたかに温むで、蹠に感じる岩肌が温泉の底のやうであつた。──腕を伸して抱きあげたが、鳥は眼を閉ぢて、驚く様子もなく、わたしのふところに移つた。大方、夕暮時の灯台のひかりに狂ひ来つて、火窓に衝突し、翼の関節を挫いたに相違ない──とわたしは憐れむで、静かに翼の工合を験べると、右の翼だけは扇のやうに一杯にひろげて、わたしの胸や顔をたゝいたが、一方の翼は震へるばかりで開かなかつた。水に浮べて見ると、まつすぐに浮いたが、走らうともしなかつた。

 わたしは、三崎に借りてある自分の部屋に、飛べる日まで飼つて置かうとおもつた。わたしは、微かな亢奮を覚えてゐた。やはり、いつもひとりの部屋といふものは、好きこのんで心がらとはいふものゝ、とりとめもないものであり、傷ついた鳥に宿を与へるのかとおもふと、余程嬉しく、やがて、この鳥が翼も癒えて、独酌家の窓から飛び立つて行つた後のことまでが想像された。──油壺の水族館へ赴くと、わたしはいつも二尺四方ぐらゐの小さな水槽のなかで、わたしの小指ほどに、あんなに小さいくせに、フイゴの筒のやうに憂鬱さうに口をとがらせ、くるりと尻尾を巻いて偉さうに、海藻の間を浮いたり沈んだりしてゐる、何だかそれにしても余り姿が小さくてお気の毒な様な、あの奇天烈な海ノ馬タツノオトシゴと睨めくらべをするのが習ひであつたが、いまから既にこの鳥が飛び去つて行く後をおもふと、四角の部屋のひとりの自分の顔つきが、見る間に〝Sea horse〟のやうに偉さうになつて来さうだつた。雛鳥の皷動はわたしの胸にチクタクと鳴り、島の真昼は底抜けの静寂さに、明る過ぎるひかりばかりがさんさんたる雨であつた。


「大層なものを獲つたね。生きてゐるぢやないか……」

 渡し場の船頭がなれ〳〵しく言葉をかけ、どうやら前の晩の酒場の友らしいのであるが、わたしには一向に見覚えもないのであつた。浚渫船のクレインの響きが港一杯に鳴り渡り、目醒ましい水煙をあげてゐた。彼は、おそらく前の晩の容子と、あまり違つて白々し気なわたしを妙に感じたらしく、折角はなしかけた腰を折られて、水煙の方へ眼を反らせながら、せつせつと艪をおしてゐた。鴎は、わたしのふところから首を出して、空を見あげてゐた。──わたしは、三崎の宿の、親戚に、島の夜を過ごすのが常だつた。大きな網や舟を持つてゐる漁家で、どんなにわたしが困つても、宿賃をとらうとしなかつた。そのくせわたしは、酔ふと遠慮もなくなつて、また来たぞ〳〵! などと、おそらくタツノオトシゴが口を利いたならば、そんな声でゝもあるかのやうな、ぶつきら棒な、横柄な調子で鳴り込むのであつたが、その声の強さうなのに似合はず、見るからにわたしの姿は相撲が弱さうであるためか、反感などを抱くけしきもなく、専ら珍客としてもてなすのであつた。

 どうやらわたしは、島の春に有頂天であるかも知れぬのであつたが、白々と醒めると海原の蒼さが眼にも滲み、とう〳〵半島の出つ鼻までも流れ住んで最早地上の空想の種も尽き、沖を走る舟の上にでも夢を乗せるより他には灯影もまたゝかぬかといふやうなおもひに憑かれて、灯台が光り出す時刻にもなるとふら〳〵と渡し舟に乗つて、島へ渡る夜が度重なつてゐた。

「ところが、たうとう鳥をつかまへたといふわけさ。当分は、この鳥の介抱で、夜の眼も眠らないかも知れないんだよ。」

 こんどはわたしが、船頭にはなしかけたのであつた。彼は、聞えぬ様子であつたが、やがて、

「夏まで三崎に居るつもりかね?」

 と訊ねたりした。

「多分、居ないだらう……」

「夏になると、着物をあたまにしばりつけて、男どもは舟がなくなると、こゝの間ぐらいは泳いで渡るんだよ。」

 そんな事をはなしてゐるうちに、間もなく渡し舟は三崎の岸に着きさうになつたので、わたしは急に思ひだして、ふところをさぐつたのであつたが、ふところのものは煙草も手帳も双眼鏡も、その他のものもみんな紛失してゐて、鴎が眠つてゐるだけだつた。手帳と云つても、到底他人に見せられぬたぐひの歌のやうなものが誌してあるだけであるし、双眼鏡といふと少々物々しいが、新らしいけれど値段さへ忘れてゐる程の最低価のしろ物だし、何ひとつ惜しいとおもふものもなかつた。

 わたしは、やをら立ちあがると、オツに歯切れの好いやうな調子で、頤をしやくつて、

「おい、君、借りとくぜ。」

 と二銭の渡し賃のことをいつた。すると船頭は、通り矢ノ岬の方を眺めて、艪を繰つてゐるまゝ、

「好いとも──好いともヨウ!」

 と叫んだ。わたしは近頃飲んだあとなどに、折々あゝいふ科白を吐くことには慣れてゐるが、斯んなに悠々たる許容の応へを得たのは珍しいと感心して、船頭と同じ方角の奇岩から、春の海原のうつらうつらと霞んでゐる遠方などを見渡した。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1

底本の親本:「鬼涙村」芝書店

   1936(昭和11)年225

初出:「東京朝日新聞 第一七五七四号、第一七五七五号、第一七五七七号」東京朝日新聞社

   1935(昭和10)年323日、24日、26

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、題名を除いて大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年815日作成

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