〔婦人手紙範例文〕
牧野信一
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何や彼やと毎日のことばかりに追はれて、ついついお手紙さへも書きおくれて居りましたこと、どうぞおゆるし下さい。でも、貴女の御容体が日増に御快方に向いてゐる由をうかゞつて安心いたしました。この分なら、私達がそちらへうかゞへる頃までには、すつかりお丈夫になるだらうなどと考へて、あれこれと楽しい空想にばかり耽つて居ます。水着や浮袋やサンド・パラソルを本日お送りいたしておきました。水着は三枚いれました。その中から貴女のお気に召したのを選んで置いて下さい。浮袋は勿論私だけの必要品ですわ、今年こそは貴女にクロールを教へて戴かなければなりません──屹度、屹度それまでには爽々しい水着姿の貴女の御様子を拝見出来るものと祈つて、そんなものをとりそろへたのです。楽しい空想ほど心を躍らせるものはありません。いゝえ、もう空想だけで充分で、ほんたうは海へなんて入りたくはありませんの。貴女の健やかなお姿を夢見る私の心のおしるしなんですもの。庭の片隅にでも、そのパラソルを立てゝ、お話でも出来ればそれで充分ですわ。
来月に入ると間もなく兄様は一週間の休暇がとれるさうで、そしたら直ぐに皆なでそろつて出かけることに決めて居るのですけれど、兄様つたら病気なんぞになつた百合子を大いに羨やませてやらうなんて云つてゐるんですよ。
「羨んだりするものですか。」
と私はおこつてやりました。「この手紙を御覧なさいよ、こんな元気になつてゐるんですもの、あべこべに私達が羨ませられるぐらゐのものですわ」つて。
左う云つてこの間の貴女のお手紙を兄様に見せてあげたのよ。すると兄様は、それを読みながら噴き出して、
「やあ、こいつはとても敵ひさうもないぞ!」ですつて──。だつて貴女は学校では百メートルのチヤムピオンだつたんですものね。浮袋がなければ水のなかへ入れないなんて人、ずゐぶん滑稽でせう。
だけど、まあ泳ぐはなしなんてみんな冗談ですわ。それよりも凝つと辛棒なすつて、御養生のみを心から祈りますわ。
今朝戴いたお端書ですと、召し上がるものも追々おいしくなつて来たとの由ですから、もう油断さへ為さらなければほどなく御快癒になれますわね。それにしても、何事に限らず、もう一息といふところが最も大切です。容態が思はしくない間は、誰れしも警戒しますが、少し快くなるとついお調子に乗つて瑣細なことを等閑にして、そのために飛んだ失敗を引きおこし易いものです。百合子さんも御気分がよくなるにつれて、いろいろ為さりたい事も多いと存じますが、なるべく我慢して充分御注意なさつて下さい。
海のシーズンであたりが賑やかであればあるほど、徒然の毎日を送つていらつしやる百合子さんはお淋しいことゝお察しいたして居ります。何かお話し申し上げるやうな面白いことは無いかしら──と、兄様とも相談して共々毎日話柄の探索に努めてゐるのですわ。
「スタイル・ブツク」の秋季号が、いつもより早く到着いたしましたから早速廻送いたしました。水着などはたゞ眺めるだけの飾りものとして送つたのですが、このなかからはほんたうにお召しになるつもりで秋の散歩服なりと御選定になつて見ては如何です。私の洋裁も……ちよつと自慢をさせて下さいね……近頃は大イニ進展してゐるらしくひそかに自負して居りますから、貴女のお好みの型を腕に撚りをかけて拵へて差しあげたいと思つてゐるのよ。ついでに布地のサムプルも一緒に封入しておきましたからお心のまゝにお選びになつて下さい。
いづれお目にかゝつた時お話しいたしたいと存じますが、爽々しい秋風が銀座のペーヴメントに訪れる頃には、それこそほんたうに健やかな健啖家となつた貴女が私の拵へたキモノを着て初秋の微風のやうに……などと、もう私ははつきりとそんな夢を描いて居るのですわ。私は、自慢したいのよ、私のつくつたキモノが貴女の健やかさに纏はれたところを──。百合子さん、私のこの夢が実現されるやうに充分御養生なすつて下さいね。
兄様も一両日中に手紙を差しあげるとか申して居りますが、何分御存じのとほり筆無精ですから当てにはなりません。
まだまだ何かとお話ししたいこともありますが、それはお目にかゝつた折りに致します。くれぐれも御体御大切になさいませ。末ながら皆様にもよろしく。お見舞まで。
今日のお便りを拝見いたしますと、この夏を漁村の腕白な漁師の子供さん達と健康な毎日をお過ごしになつたので、悩みも段々薄らいだといふお話しですから、間もなく蝕んだお心もすつかり癒えて快活だつた昔の玲子様にお会ひ出来ることゝ、嬉しく存じました。でも、悲しみが深く余りにも不意にお心を襲つたのですから、一時はどんなにか苦しいその日その日でしたでせう。夜の渚に出て摧け散る浪の音を聴きながら、人知れず泪にくれる時の、その悲しさはどんなだつたでせう。──遊び相手のある真昼は忘れがちな心の傷も、日が暮れかゝると痛んで来ます──このお言葉は私の胸をもかき曇らせて、なんとお答へしてよいかたゞ思ひ惑うてしまひます。
未だ学窻を巣立つたばかりの若い私たちですわ。私たちの明日はどれほど長いことでせう。これから蹈み入れる長い人生の様々な姿を想ひ浮かべますと、たゞ果敢なく過ぎ去つた夢ばかりを胸に抱いて泣き濡れてゐることは余りに弱くはないでせうか。恋愛は一途な純粋な燃えあがる尊い熱情で、私たちの生涯の大切な方向を定めて呉れる指針です。それ故恋愛に破れたばかりに残る半生を失ふ人さへ数多いのは今更申すまでもありませんけれど、さうした人々の破綻は余りにも熾烈な情熱の俘囚となつたばかりからではないでせうか。たゞ燃えあがる情熱のまゝにその身を任すのは操る術を知らない者が猛り狂ふ駻馬に跨つて徒らに鞭打つやうだと考へます。恋愛は、理智の埒を打ち破つて奔り易いものですが、それは私たち若い者のみが有つ尊い熱情であると同時に底知れない奈落へ導く係蹄をも秘めてゐます。
幸福なことに、玲子様も私もこの人生の只中に投げ出されても哀しい破局を避けるだけの理性は有つてをるつもりですが、まだまだ若い私たちですもの。玲子様の悲しみもこれからの半生への尊い御経験だと考へます。悲しい失意に傷ついた心を凝つと労つて再び健やかな明るい心に癒すには大きな忍耐が必要です。けれどこの苦しい忍耐の後で──私たちの心はすくすくと生長して行きませう。
あなたもやがて来る秋の日まで漁村の元気な子供さん達を相手に健康な毎日をお過ごしになつて昔のやうな快活なお姿を拝見させて下さいまし。あなたのゐらつしやらない大森のコオトはどんなに淋しいことでせう。ヴオレーに弱い私もそれまでに一生懸命腕を磨いて措きませう。さうして学校時代からの私たちに一日も早く成りたいと、そればかりを希うてをります。
貴女の心に重く閉された憂ひの雲をうち払うて、更生の新らしい旅路に出発なさいませ。共々に勇気と情熱を夢見てうち寄せる日々の濤に抗して私たちの小さい舟を操り進めませう。遁れても遁れても覆ひかゝる悲しみには、青白い騎士のやうに凝つと忍苦して「その悪い星廻りを通り越させる」賢こさを有ちつゞけませう。
丁度先程も、〝Kick me more ──〟といふ俗歌をオフイスのお友達がうたつてゐるのを耳にしましたが、もつとお蹴りよ、いくら蹴つてもわたしは恋の起き上り小法師──そんな意味の復誦句がついてゐました。ほんの俗歌で浮いた歌詞ですが、私たちも悲しみの前には蹴られても蹴られても直ぐ起きあがる「起き上り小法師」に成りませう。さうしていつも明日の希望に生きて行きませう。
明日はまた明るい夏の日が明けて、私はオフイスに参ります。あんまり夜ふかしして机の前でコツクリコツクリすると、皆んなに笑はれますから、もうお別れする事にいたしませう。おやすみなさい。
貴女も健やかにおやすみになつて、早く元気な玲子様におなりになつて下さいませ。嬉しいお便りを心に祈りつゝ、もう一度、おやすみなさいを申します。
お手紙繰り返し拝見いたしました。
それは恰度お座敷のボンボン時計がこの頃の暑さに堪へ兼ねて、もう狭苦しいダイアルの上を歩み続けるのは遣り切れないと云はぬばかりの音調で、ひつそりした夏の日の三時を告げて間もなく、私のカラア──ライト・ブルウの封筒を手にしました。急いで離れへ駈け込むと、いきなりペイパア・ナイフを執り上げて、お手紙を展きました。お兄様の太い男性的な文字──私はその幾行かの上を対角線状に躍る眼を走らせました。先へ先へと急く心が私の瞳を周章者にするのです。一度二度と繰り返し読みますとお言葉がはつきりして来て、今度は一句々々楽しく読ませて戴きますの。ほんたうに嬉しくお手紙を拝見いたしました。
酷しい暑さのこの日ごろです。こちらは丘の辺りにポツンと立つた一軒家で、吹く風を遮るものも無いのに「畳が茹る」ほどの暑さです。そちらの酷しさもさぞかしと存じます。灼けた家々の屋根、陽炎のたち登るアスフアルトの道──想つても凌ぎ難い熱気を覚えます。お兄様のお体に障りはないかといつもお案じ申してをりました。でもお手紙を戴いて、この酷暑にも負けず元気で御研究に余念がないと承りまして心から嬉しく存じます。父も母も京二も皆んなお便りを知つて安心いたしました。
けれど──お兄様から教へて戴いた模型グライダアを製作してをります京二と、日暦を毎日一枚々々破つては、それを夕闇の漂ふ裏の流れに投げ棄てゝ、流れ去る紙片に準へ御帰省を心ひそかに待ちつゞけてをりました私とは、夫々に異つた希ひからではありますけれど、お帰りが二週間も延びたことを伺つて同じやうに落胆いたしました。いゝえ、お兄様、私はお兄様をお恨みしてこんなことを申して居るのでは御座いません。そんな分らずやの私では御座いません。私は送つて戴いたフアブルの「昆虫記」を一生懸命勉強してをります。京二にも話して聴かせては、二人で中に出てくる昆虫を集めてをります。最先に──スクラブサクレ、あの剽軽者はこの辺りには沢山をりまして、村人はこうらと称んで大変嫌つてゐます。あの剽軽者もこゝでは惨めな日陰者です。この仲間も沢山をりますから、私共の標本函は毎日賑やかになつて参りますが、あんまり委しく申しあげるとお見せする時自慢が出来ませんから、これ位にして措きませう。
お兄様の研究も次第に嶮しい径をお辿りになるのでせうが、揺蕩ふことなく「学びの小暗い径」を強い脚どりでお進みになるやうに心からお希ひ申します。細かな文字がぎつしり詰つたテキストの一行々々をお拾ひに成るのは昔の錬金道士の有つた忍耐がなくては耐へられない苦難だと存じます。でも、この険窄な径蹊を征服して高い頂きに達した時の歓びを想ふと、苦困も泡沫のやうに消え去りませう。
お帰りの頃には姥ヶ森のお祭りが始ります。今宵も野面を伝うて村の若者たちがお祭りの備へにうつ太鼓の撥音がこの窻辺まで流れて来るでせう。たつた三日のお祭りですのに二ヶ月も練習を続けてをります。その心根を想ふと一つ一つの撥音にも一際懐しさを覚えます。お祭りの夜、篝火に赫々と照らし出された楼上の太鼓打ちの誇らかな貌を私たちも心から祝福出来るやうに勉めて措きたいと希うてをります。
お兄様、ずゐぶんお喋りをしてお笑ひにならないで下さいまし。
繰り返すやうで御座いますが御体御大切に御勉強下さいませ。お好きな苺も食べ過ぎないやうに母共々御注意申します。別送のメロンは今年はじめて試作したものですがお口に合ふか、心配でなりません。
父もよろしく申してをります。グライダアの研究家からは同封の親展書をお送りします。またお兄様のポケツト・マネエを少なからず痛めるのではないでせうか──。
K子さん。二日つゞきのお休みであたしこんな遠くに来てしまつたのよ、叔父さんの処なの、この叔父さんたら馬が大好きで、タイキつていふ栗色の馬を、それはもう大事にしてゐて例へば夜中にでも厩の方でタイキの叫び声が挙つたりすると夢中で飛起きて行くつていふほどの有様なのよ。だからあたしが、乗せてよ〳〵なんて強制んだつて、飛んでもないつて目を丸くするのは当り前なんだけど、それあもうあたし見たいな慣れないものが乗つたら危いかも知れないけど、叔父さんのは、邪推するわけぢやないけど、乗手が危いといふよりはタイキが大切なのよ。でもあたしも相当悪い子だわ、そんなに思ふと却つてタイキを伴れ出したくなつて、きのふの朝叔父さんが自転車で町へ用達に出るのを見かけると忽ち厩へ忍び込んでタイキを伴れ出すと、そつと裏門から抜出したの。タイキは嬉しさうに蹄の音を立てゝ程好く駆け出すので、あたしはもう得意になつて手綱を振り、馬を乗りこなすなんて斯んなにも容易いものかと朗らかに口笛吹いたわ。思ふ存分、行き度いところまで走つて日頃の鬱憤を晴し、そして叔父さんが戻らぬ間に引返して、何喰はぬ顔でタイキを厩に繋いで置いたら、どんなに愉快だらうとウチヤウテンになつたの。ところが、そのうちにね、タイキの脚並みがだんだん速くなつて、あたしは裏山の方へ廻らうとしてやきもきしはじめたのにタイキは委細関はぬけしきで、それこそ、まつたく馬耳東風の文字通りに、どん〳〵と真直ぐな街道を駆け出して行くのよ。ドウ〳〵〳〵、そつちへ行くんぢやないよツ、タイキ! つて、あたしが焦れたがつても一向お関ひなしで、やがてはまるで機関車見たいな物凄い勢ひで宙を飛ぶ始末ぢやないの。あたしは、激しい風に煽られて、もう少しで凧のやうに吹き飛んでしまひさうだつたわ。それで、あたしはもう夢中になつて、タイキ、待つてお呉れよ〳〵御免よ! なんていふ悲鳴(笑ひごとぢやなかつたわ!)を挙げて、夢中で意地悪なタイキの鬣に獅噛みついてしまつたの。滑稽見度いね。でもその時の怕さつたら全く空前絶後だつたわ。あたしは勿論眼なんてあいてゐられやしなかつたから、えゝもう為るやうに為れつと、つまり観念の眼を閉ぢて、でも難破船の中の人のやうに力一杯武者振りついてゐたの。だから、どんなところを何う駆けてゐるのかまるつきり見当もつかなかつたんだけれど、するうちに恰度停留場へ着いた馬車のやうにタイキの脚並みが急に、ぴたりと止つたのよ。で、あたしは吻つと胸を撫で降して顔をあげた途端、思はずアツ! と云つてしまつたわ。だつて、あたしの眼の前には叔父さんがタイキの轡を執つたまゝ、もう少しで笑ひ出さうとでもする仁王様見たいな顔つきでぬつと立つてゐるんですもの。つまりタイキは町へ向つてゐる叔父さんの後を追ひかけて来たわけなのよ。
「一体まあこれは何うしたといふことなんぢやい?」叔父さんはそれが口癖なんだけど、いつもより太い声で唸つたのよ。この先のこと書き度くない代りに、あたしがその時返答に困つて、たゞ、だつて〳〵! と吃りながら傍らの生垣のハチスの花をむしつたのが、あんまりしよげたのでK子さんにお手紙書かうとして今、夜になつてこのペンを執つてゐたら、胸のポケツトから幾枚も〳〵花びらが出て来たので、もう何も書かずに封じ込んだのよ、真赤になつて。或ひはこの手紙よりも先にあたしが帰るかも知れないわ。そして案外得意さうなお土産ばなしだけをお伝へするでせう。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:転地してゐる義妹へ、失恋した友を慰める、遊学中の婚約者を励ます「別冊附録 婦人手紙文全集」大日本雄辯会講談社
1933(昭和8)年8月1日発行
花びらを封じて(女学生より友へ)「別冊附録 婦人手紙文全集」大日本雄辯会講談社
1935(昭和10)年2月1日発行
初出:転地してゐる義妹へ、失恋した友を慰める、遊学中の婚約者を励ます「別冊附録 婦人手紙文全集」大日本雄辯会講談社
1933(昭和8)年8月1日発行
花びらを封じて(女学生より友へ)「別冊附録 婦人手紙文全集」大日本雄辯会講談社
1935(昭和10)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名の〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※底本の親本、初出は「婦人倶楽部 第十四巻第八号(八月号)」「婦人倶楽部 第十六巻第二号(二月号)」の附録です。
※「転地してゐる義妹へ」は「お見舞の手紙」、「失恋した友を慰める」は「慰めの手紙」、「遊学中の婚約者を励ます」は「激励の手紙」、「花びらを封じて(女学生より友へ)」は「趣味の手紙」の文例です。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
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