途上日記
牧野信一




 都合に出て来ると都合の空気を腹一杯に満喫したいのが念願である。物資に依つて購ひ得られる享楽はこよなく楽しい。殊に田園生活者の僕には止め度もなく嬉しい。だが僕の物資は忽ち無に直面する。だが僕は、その無にさつぱり動じない自分を発見した。山間でのストア派的生活のおかげであらう。山間といへば、ついこの頃、その村で山の神様の祭り日に当つて、今年は一つ新時代的の祭りを行ひたいが、貴意に謀りたい──と村長に相談されたので、僕は、では仮装舞踏、飲酒会といふやうなものを演つて神様の御機嫌を取結ばうではありませんか、そして仮装者の考案を投票に依つて等級を定め賞品を出す事にしたら面白いでせう──と提言すると村長は僕の案に満悦し、村費をさいて金貨の賞を出さう! といふ事に決つた。このふれが公表されると村中は湧き立ち悉くの村民は終日重た気に首を曲げて仮装の考案に余念がなかつた。詳細は省くが、僕もいよ〳〵仮装に就いての思案に耽り出して見ると、考へること〳〵が、悉く物資を要するものばかりで、それが儘にならず、僕は苛々として出場を見合せようとさへ思つたが、発案者の手前それもならず、困惑のあまり幾日も寝て暮すうちに日が迫り、或朝鏡を見ると頭髪も髥も蓬々として、恰も池の化物ニツケルマンのやうな様子に気づいたので、止むを得ずそのまゝ隣家よりボロ〳〵の野良着を借り出し棕櫚の枯葉を被り、泣き出したいやうな心地になつて、プレツケツケツリス〳〵、ギヤウ〳〵──と叫びながら会場に駆けつけると、歌で意味を知つてゐる村人は、非常に拍手して僕を迎へ、娘共は皆なラウデンデラインになりたがつて、僕に追ひ廻されるのを喜び──他の、源頼政も、白井権八も国定忠次もテルテ姫も切ラレ与三郎も──皆なテレてしまつたといふ気の毒を醸し、加けに僕が一等賞に推されて金貨を獲得してしまつたのである。僕が東京に来られたのはその金貨のお蔭である。

 そんな風で、金貨がなくなればなくなるで僕に自動車の代りに歩くことも容易く、咽喉を治すには水道の水が最も嬉しく、盛り場へ行かなければ、たゞの散歩をしてゐるだけで満足する。物資は別にして、都にゐても森にゐても飽きる時は飽きる。退屈は敵としなければならない。飽きるまでの日を限つて──と勇んで僕は出歩き廻る。──で、僕は、この日は他の何処へも行くことが許されなかつたので寓居で飯を済ませ、独りで日比谷公園に出かけて、ラヂオ・タンクの実験を見物したり、ジヨウ・サクラメントが審判に出る拳闘試合を見たり花園を歩きまはつたりしてゐると、誠に心長閑に晴れ渡つて──麗はしい春の光に谷川の水は解け万物は緑に映え、気の毒な冬は遠くの山へ逃げ去つた──などゝ声を出して、ワグネルと一緒に街を散歩するフアウストの科白をそらんじたりした。「花は爛漫として咲きそろひ、粧ひを凝らした人々は更に花の色どりをきらびやかにしてゐる。人々は皆々打ち悦んで今日の光に感謝してゐる。窮屈な工場から来た者、陰気な屋根裏から出て来た者──皆光りに蘇つて行楽を満してゐる様は……」

 斯うしてこのまゝ散歩を楽しみ帰路につけば無事だつたのを、不図その科白を口吟むと、調子づいて、別の科白が口にのぼつて来た。

「さあ、樽にのつて次の楽園へ赴かう、此の大胆な旅行に重い荷物は禁物だ。瓦斯が籠ると一緒に飄々として地を離れ、全速力の飛行を得て、新しい旅の首途に向へるのだ。」



 ギリシヤ語で、「メ」は「拒絶」の意ださうである、「フイス」は「光明」で「フエス」は「愛」の意ださうだ。──おゝ、メフイストフエレス──怖ろしやと何故その時僕は気づかなかつたのだらう──僕は、ポケツトに幾枚もの銀貨のないのを知りながら、駆ける〳〵心の行手を塞ぐことが出来なかつた。「何処かへ行きたい〳〵、飛んで行きたい。」

 僕は自働電話に駆け込んで、つい此間買つたばかりのスタウト型インヂアン・オートバイを持つてゐるRといふ先輩を呼び出した。上京してから既に三度も借用してゐる、Rは僕の馬鹿な心持を好く知つてゐる。

「図書館の前に立つてゐたまへ、弟をやるから──」

 弟かと思ふとRが自分で来て、服装まで借して呉れた。僕はRに僕の帽子を被せ、そのキヤツプをスツポリと被り、眼鏡の位置を正し、外袍をまとつて、

「追跡だ!」と云つた。そして、手を挙げて出発した。

 これならあいつに会つても解るまい──つい此間僕は銀座で、知人の借用書に連帯の判をおした簾で、バンダイキ型の髯をもつた法学士、弁護士(彼は僕の村住ひまでおしよせて来て、室内の物品などを数へたりした。)に出遇つたら、事務所がこの近所だから大概夕暮時はこの辺を散歩してゐる、また遇ふだらうと云はれて、何だかゾーツとして、それ以来銀座散歩に一脈の不安を感じてゐたのである。でも、その後も幾度も僕は友達と伴れ立つて、その辺を歩いたが好いあんばいに法学士には遇はなかつた。

 僕は公園の外廓を一周して銀座に出た。若し、あの法学士を此方で見ても、今日は此方の顔は解るまい──と思ふと、僕は、卑怯にも大変な爽々しさを覚えた。僕は彼に志払ひが出来る日まで(いやその時も自分では行かぬ。)──いや、永久に会話を交へたくないのである。幾度も訪れられてゐるから、村の僕の住家に彼も泊ることもあり、会食もする位だから、事務以外の話も聞くのであるが、彼の口から聞く凡ゆる話──彼は美術にも演劇にも文学にも通じ、また己れの恋愛談やら、物凄いエロテイツクな話もするのであるが、一向僕の心を打たないのである。たゞ都合が好いことには、いつも胃の具合が悪い由で、直ぐに酒に参つて大いびきで寝てしまふのである。然し、今度東京で、一度、ゆつくり君とメートルを挙げたい、ほんたうなら僕は徹夜でゝも飲めるのだ──と屡々云つてゐた。怖いのは──それが主なのだ。また僕は、その返済期日が過ぎてゐるので、滞京中に何ほどでも始末して、彼の気焔を逃れたく念じて、いろ〳〵と厚顔になつて、友達などにも謀つてゐるのであるが、未だ、それが得られないのである。

 するとまた何といふ皮肉なことには、僕が交叉点で「GO!」の合図を待つて、車の列につながつてゐると、直ぐにその傍らの歩道で、法学士が知友に出遇つて長い立話をしてゐるのであつた。僕は、マスクをつけてゐるから平気で彼の方を向いてやつた。そして、車の列が動き出したので、何だか惜しいやうな気がしたが止むなく徐ろに走り出さうとすると、法学者と伴れの紳士は向方側を指差して点頭き合ひ、あはや僕の眼の前を横切らうとしかゝつたので、僕は、気たゝましく警笛を鳴らし、「危いツ!」と云つてやつた。二人は慌てゝ後方に飛びのいた。



 斯んなこと位で、胸がすいた! と思ふと、今になつては、その自分に軽蔑を感じずには居られないが、その時は、何だか急に爽々しくなつて、

「自然の秘密を索めるには地獄を訪問しなければならない、地獄を訪ねるには悪魔を伴れにしなければならない、悪魔を呼び出すには魔術に俟たねばならない──」──の、あの爽快な魔力を得て天馬にでも打ちまたがつたほどの夢心地になり、スイスイと車馬を分けながら、忽ち遠く、浅草の先まで走つてしまつたのである。

 そして、前後の弁へもなく思はず飛んでもない館におしあがつてしまつた。そして突飛な目に出遇つた。──深く、あんな向ふ見ずを後悔してゐる。

 今日は、本来ならば、芝居の印象か、文学論か、小説の月評的感想かを誌すつもりであつたが、こんな体験感を書く方が、好もしくなつて、思はず筆を走らせ過ごしてしまつた感である。失敬! ──生活よりも、創作のことを上にして生活してゐると、生活に対しては不平不満を感じない代りに、何時何んな危い目に出遇はぬとも限らない、創作生活も好いが、斯う生活が出たら目になつては止め度もないから、これからは、好きなヨハンの「樽の歌」も「兵士の歌」も、空想のうちだけで歌ひつゞけることにしなければならない、でなければ即座に山奥へ帰れ──である。が、未だ〳〵僕は都の空気を吸ひ飽きぬ。

「明日は?」

 と思つて、思案してゐるところに、法学士からの手紙で、明日何処何処で会ひたい、用事は用事でそれは単に証書を書き直して呉れゝば済むのだからその点は憂へ給ふ勿れ、それよりも小生は今は健康を回復してゐるから共に酒盃を挙げ、夜を極めてゞも快談に耽らうではないか──と知らせて来た。

 あゝ、一切の明日を憂ふ勿れ、今日、始末せよ、そして「兵士の歌だ──今日は黒パン、明日は白パン、──セント・ジオゲネスの樽を夢見よ。」

 そして、都では都なりの「モダン・ライフ」へ──。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1

底本の親本:「読売新聞 第一九一一四号、第一九一一六号、第一九一一九号」読売新聞社

   1930(昭和5)年513日、15日、18

初出:「読売新聞 第一九一一四号、第一九一一六号、第一九一一九号」読売新聞社

   1930(昭和5)年513日、15日、18

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年81日作成

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