小田原の夏
牧野信一



忘れる


「暑さ、涼しさの話。」

 おや〳〵、もう夏なのか!

 僕は忘れてゐた。──それで、壁の鏡をのぞいて見ると僕の額は玉の汗だ。なるほど僕は薄いシヤツ一枚だ、白いパンツだ。いつ頃僕はこんな身なりに着換へてゐたことか?

 この机の一輪ざしには桃の花が活けてある。だから僕は、未だ、夏になつてゐるとも思はなかつた、誰が活けたものなのか知らないが、何時にも窓をあけることもなしに、煙草を喫しながら時折眼をそゝいでゐた花だ。

 だが、今はじめて、仔細にみると、何だ! これは造り花か! 蜘蛛の巣が張つてゐるではないか、馬鹿々々しい。

 棄てゝしまへ!

 そして窓をあけて見よう。


タンク


 あゝ、泳いでゐる〳〵、あんなに沢山の人が、何とまあゝ面白さうに!

 僕も、このまゝ、素ツ裸になつて飛び出したくなつたが、僕の机の上には、冬から春へかけての季節を背景にした苦しい文章の草稿が、戦乱の原野の如く、四散してゐる……夜も昼もなく、そして、この戦ひには、春も夏もなく──僕は、タンクの如く、野を過ぎ、丘を寄切り、山を越えて行かなければならないのだ。──さうだ、この窓は、タンクの展望口だ。うか〳〵と、あけツ放しで、口などあけて、渚の方などを見惚れては居られないのだ。

 どうせ、タンクの中は蒸し暑いに決つてゐる。



 そんなことを思つて、午休みに僕はゆれ椅子に凭つてうとうとゝ居眠りをしてゐると、潜航艇の乗組員になつた夢を見た。

「僕ははじめて、これに乗つたんだけれど、そして、もつと不気味なものかと想つてゐたが、これぢや僕は自分の書斎にゐるのと少しも変らないよ。これで、これが、そんな深い海の底を走つてゐるのかと思ふと、嘘のやうだ! 面白い〳〵。」

「今、黒煙りのやうなものが窓先をかすめたらう。あれは吾々の五倍も大きい蛸入道だぞ。」と傍らの士官が説明した。

「あそこに、しのんで来たのは敵艦かな?」

「あれは、大烏賊の主だ。」

「デビル・フイツシユ奴!」

 いつの間にか私は、ラツパ手であつた。吾々は、それらの怪物を退治に来た決死隊なのであつた。

 艦内は、にわかにどよめいた。

「ラツパ卒! 何故、戦闘準備の合図をせんのか!」

 斯う云はれるまでもなく私は、一生懸命にラツパを吹いてゐるのであつたが、何うしても音が出ないのである。私は、無茶苦茶に焦れて、渾身の息をこめてゐるのであるが、鳴らない、不思議だ。デビル奴等の妖術に翻弄されてゐるのか──。

 私の全身からは滝のやうなあぶら汗が流れ、私はラオコーンのやうに身悶えた。


夕風


 夕暮時に吾家から通じて来た電話──。

高輪たかなはのS子さんが来ましたよ。若しお暇があつたら明日から、あなたに泳ぎを習ひたいんですつて、えゝ、今日も行つたわ。浜から見えたわよ。あなたが居眠りをしてゐらつしやるところが。お午寝なんてしてゐる位ゐなら、是非明日から、海へ来て下さいね。」

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1

底本の親本:「雄辯 第十九巻第八号(八月号)」大日本雄辯会講談社

   1928(昭和3)年81日発行

初出:「雄辯 第十九巻第八号(八月号)」大日本雄辯会講談社

   1928(昭和3)年81日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2011年81日作成

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