趣味に関して
牧野信一
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或日、趣味に関して人に問はれた。
稍暫く私は、堅く首を傾けて忠実に沈思した──結局、酒なのか? と訊ねられた。それも私は、烏耶無耶に、否定するほどの気力もなく、何となくかぶりを振るだけのことだつた。私は困つて、私のこの殺風景な居室を見ながら、どうして貴君はそのやうな質問を、然も熱心に訊ねる気になつたのですか? と云はずには居られなかつた。客は、それが今日の自分の仕事なのだと云つた。私は、恐縮した。そして彼の仕事が水泡に帰するのであらうことを慮つて、気の毒な気がした。──他人の趣味を訊ねに行くことはちよつと面白いだらうな、その仕事こそ私には趣味が感じられさうだ、と私は心から羨望した。
「そこの机の上に双眼鏡が二つ載つてゐるが、一つは、それはプリズムぢやないんですか?」
「はア、さうです。つい此間友達に貰つたんです。此処では展望が利きませんので今日私はこれをふところにして散歩に行つて来たところなんです。これは相当に遠見が利くらしいんです。眼鏡に映る景色が──ですね、どちらかといふと、何となく薄暗く沈んで、沈むに伴れて反つて輪廓は、はつきりする、口ではちよつと云ひ憎いんだが、その薄暗く沈み方の感度で──ですな、レンズの好悪は一応解る……」
「ほう、仲々詳しいな! それから……?」
「いゝえ、これを呉れた友達が得意さうにそんなことを云つてゐたんですよ、僕はもう知らない。」
「此方のは、それはオペラ・グラス?」
「ボロだ。たゞ、永年使ひ慣れてゐるだけの……」
「芝居へは行きますか?」
「この頃は滅多に出かけません。」
「芝居に行かないで、何にそれを使つてゐるんですか? どうしてまた、今日は机の上になど並べてあるんですか?」
「たゞ──」と私は、横を向いて慌てゝ呟いだ。「たゞ──ちよつと、その……」
「どうしたんですか。何となく挙動が怪しいぞ! まさか、自宅では芝居はないでせうに。」
「はい。」と私は点頭いた。実は今日これから新劇の見物に行かうと思つてゐる矢先きなのだと、暗に客の帰参を促したのであるが、あまり声が低かつたので相手にその意は通じなかつた。
客は仕事に熱心だつた。
草花は好きですが斯様な生活では仕方がない。鉢植の草花を一つ二つ買つて来て並べたいとは思はない、屹度枯らしてしまふのでそれが厭なのです。どうせのことに切り花を眺めます。小さくても好いから粗雑でない温室と花畑とを欲しい。動物を飼ふのと同じ程度の注意力を満足させられる程度の設備が出来る場合ならば、生活の三分の一を草花のために費しても関はない。……今日はこれは少し仰山なのです、寒さで花壺が悉く割れてしまつたのです、えゝ、それは珈琲沸し、此方は遠足用の魔法壜、あれはドイツ製のビール呑み、縁側を御覧なさい、手水鉢にも、ジヨツキにも、バケツにも皆な室咲きの花だ、カーネシヨン、菜の花、マーガレツト、フリジア、あの桃色の西洋花は何と云つたつけな? 昨日取り換へた処なのに今朝見ると悉くしをれてゐるんだ、変だと思つて、あれだけが皆な一処に活けられる相当大きな花壺なんですがね、験べて見ると中には氷が張り詰めて、持ちあげると胴中からぽかりと割れてしまつてゐるのさ、一滴の水も流れない、珍らしい寒さだ!
しをれたのならしをれたで一層仕末が好かつたんだが、斯んな風に彼方此方に活け直して陽に当てると忽ちこの通り生き返つてしまやアがつた、また相憎くおいそれと花壺を買ふことが出来ない、決して風流を気取る柄ぢやないが、これらの美しい沢山の花が如何して棄てられませう──だが、全く困つたことにはこれ等の器物は私にとつて一日もなくてならない道具なんです、貴君も不幸でした、吾家の珈琲は相当にウマイつもりなんですが沸して差しあげることが出来ません。私達は今朝、あの通りジヨツキがふさがつてゐるので鉄瓶の湯で顔を洗ひ、番茶でパンを喰ひました。午後になると私は、あのビール呑みで湯を割つたウヰスキーを飲まずには居られません、えゝ、吾家にはコツプが一つもないんです、珈琲茶碗で飲むのは厭ですよ。夜になるとあの魔法壜の中に水を容れて枕元に置かなければなりません。酔ざめの水に凍られてしまふことほど悲しいことはありませんぜ。夜になると井戸だつて凍つて、一滴の水も出なくなつてしまふんですよ。──そんなら花などを棄てゝしまつたら好いだらうとお思ひになるでせうが、実は風流でも感傷でも趣味でもなく、私は殊に斯んな寒い冬の日には室の中に湯気と花がないと肉体的に敵はないのです、夥しく歯の質が悪くて、御覧の通り私の歯は大半不体裁な人造の歯です、これがどうも多少風でもある寒い日などは、所謂歯が浮いて、が形容でなく文字通りに浮いて〳〵堪らないのです、ザラ〳〵するセト物を口にふくんでゐるやうな気持になつてしまふのです、だから余り好きでもない洋酒でも湯のやうに薄く、熱いのを煙草の代りに口にふくみ、それでも堪らない時では吸入器に向つて口腔をパツクリと開け続けてゐます。斯んな時には何を見ても、ザラついて身うちがゾツとするのです、口を開けて眼を瞑つてゐても吸入器の筒先きの硝子を感じると堪らない、だから私は口をあけて、眼を反らして、花を視詰めてゐるのです。花が、この不快な気分を一番手早く柔らげます。部屋に花を置くことは湯気と同様に私にとつては、殊に冬は、欠くべからざる日用品なのです。
草花のための完備した温室が欲しいといふ憧れも、それだけ云へば如何にも優しく、好もしい話材になりさうだが、源をたゞせば殺風景の極みなのです。
陽炎が煙り程にも濃い、真冬だつて私の理想通りの植物室では春の気候を感じることが出来る。草花に埋つて蜜蜂のやうに飽くことを知らずに香気に咽んでゐたならば──そこまでは話になるが、想つても私は胸がすくのであるが、と云ふのは、さぞ綺麗に、この歯の浮く病ひが治るだらう! なのだから幻滅さ。花を眺める理由は、それより他にないんです。
えゝ、あれは捕虫網です、採集箱? 無論空です。押入れの隅に蔵つて置いたら鼠が噛つてしまひました。干したのではありません、直し様もないので棄てるつもりで日向に投げ出したのです。去年の夏、子供が蜻蛉をとつて呉れとせがみますので、田舎に帰つた時昔私が使つたことのあるあんなものをわざ〳〵持つて来たんです、そして何といふこともなく一通りの採集道具や標本を拵へる器具なども取りそろへたのでしたが、もう子供はそつちのけで、思へば莫迦な、いくら郊外だつて斯んな処に何がゐませう。丁度十年前に私は一度これに熱中して、それ以来なのですが、いざとなつたら蜻蛉一つとりませんでした、無精になつて、夜の虫を集めるんだなんて云つてあんな誘蛾灯などまで用意したりして。
十年前には余技的でなくこれに没頭しました。それは中学の初めから、卒業して将来の目的を定める時が来るまで、私の理想は変らなかつた、博物学者です。それ程の熱心さを如何して私が突然思ひ止めたか、変なことを云ふやうだが、或日私は何かのハズミのやうに急に厭になつたきり、去年まで忘れてゐました。
ピンセツトを撮んで翅をそろへ、脚を直し、つまり生きてゐるやうな恰好に虫の姿勢をつくつて、仕上げが出来て、ですね、標本箱にピンで止めるんでせう、その頃私の指先きは至極科学家らしい無感情に、何となくプロフエツシヨナルに働きました。いつものやうに仕上つた標本の背中に止め針を刺したんですが、いつもは決して気にならなかつた! ふと、私は針の先が虫の背中にプツリと刺さる音が、この時厭に神経的に私の胸にも刺さるやうに伝つた、私は思はず胸に手をあてゝ、眉を顰めました。──これ以来私は、別段何の理由もなくさつぱりとこの仕事を放擲してしまひました。
テレ臭いことだが、その後間もなく私は淡い恋をしました。二十いくつかの時です。それからの私は、我家の者も信じてゐたあの博物学者になるといふ永い間の望みをわけもなく棄てゝ、吾家の者に将来の目的を訊ねられる場合に同じ返答を二度繰り反すことは無いやうな悪い浮気な青年らしくなりました──画家、船乗り、詩人、飛行家、新聞記者、灯台守り、音楽家、さうかと思ふと外国行きを主張する、いや、何にもなりたくない──そんなことを云つて傍の者の顔を曇らせました。或時などは全く無気になつてピストルの練習をした、西部アメリカに渡つて牧童の仲間入りがしたいなどと高言して母親を泣かせた。
思へば斯んな道具を眼にすると古痕に触られる怖れもある、がまたどうして去年の夏再び斯んなものを手にしようと試み、試みたゞけで蜻蛉一つとることもなく止めたんだか、十年前これを止めた後に来た嗤ふべき迷ひがまた繰り返されるんぢやないかしら──そんな馬鹿な迷信見たいな怖れなどを抱いて、鼠に噛られて役立たなくなつたのを見ると、ちよつと吻つとしたかたちです。
強ひても興味を持ちたくもあるんだが、まさか綱をかついで出歩く気にもなれさうもない、その代りにその種の書籍を渉らうかと思つてゐます。
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷
底本の親本:「太陽 第三十三巻第三号(三月号)」博文館
1927(昭和2)年3月1日発行
初出:「太陽 第三十三巻第三号(三月号)」博文館
1927(昭和2)年3月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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