貧しき文学的経験(文壇へ出るまで)
牧野信一
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大正八年の秋頃、今実業之日本社に居る、たしか浅原六朗君から、今度、今年学校を出た連中のうちで、同人雑誌を発行することに決つたから、君も加はらないか、と誘はれた。下村と君しか僕は知らないんだから変だな、と私はたしか言つたのである。まつたく私は早稲田時分その二人しか自分のクラスでは話した者はなかつたのだ。それも、私は何時も後の方の席に坐つて居て、彼等も多分その近所に居たので、学校で時々顔を合はせるだけだつた。私の当時の友達は、当時私より一級下の鈴木十郎と、一級上の柏村次郎だけだつた。その二人とは随分親密に往来した。柏村はその時分からゲーテに没頭しはじめて、今独逸に留学中である。鈴木は読売新聞に勤めて居る。学校時分に一等懐しいのは、そして今も同じ文学的友達は、恐らくその二人だけだらう。──で、私は浅原から同人雑誌に誘はれた時すぐに返事は出来なかつた。そんなことを始めるのなら柏村や鈴木と行動を共にするのが当然だつた。だが、柏村と鈴木は直接には交友はなく、各々別々の周囲を持つて居た。ともかく私は二人にそれ〴〵相談したのである。実際でもその前に彼等と一緒に雑誌をはじめやうといふ話はあつたんだが、しかも私が多分言ひ出したのだつたかも知れない。それなりになつて居たんだ。柏村はやはり同期の友達がやつて居る「基調」といふ同人になつて居たし、鈴木もその後「象徴」といふのに加はつたし、その年々によつてそんな風に各々同人雑誌を発行するといふやうな風潮もあつたのかな?
私は本当なら柏村の方に這入るべきなんだが、原級生の悲運だつた。
大正八年の同人雑誌は、つまり私がそこで加はつた「十三人」なのである。同人の数が十三人居たのでさうつけたのださうだ。初めての集りに行つたのは、どこだつたか忘れたが、行つてみると皆んな顔にはよく見覚えのある人達ばかりだつた。近藤、坂本、柏、野村、武藤、松村、高辻等の諸君だつた。
「十三人」の第二号に「爪」といふ旧作を出した。それは一二年前に書いた短篇なのだが、処女作といふわけでもない。十三人の一周年号に出した「闘戦勝仏」といふ西遊記から材を取つたものが、処女作だらう。「爪」は発表後も藤村先生が手紙で賞めてくれた。その後私は初めて飯倉のお宅で先生にお目にかゝつた。発表しない前、それは原稿で柏村と鈴木にも読んで貰つた。それから三月号に「ランプの明滅」といふ小品を書いた。誰かから、「早稲田文学」で宮島新三郎氏が賞めて居たといふことを聞いて、嬉しく思つたことがある。島崎先生が、新小説で新進作家号を出すから何か書いて見ないかといふことを伝へられ、私は、「凸面鏡」といふ十五六枚のものを出して貰つた。これは、へんに固くなつて、活字になつて読んだ時ゾツとした。止せばよかつたと思つた。後年、中戸川吉二と知るに及び彼からその批評を聞き、賞められたので意外だつた。中戸川とは佐々木茂索の紹介で、たしか新橋の東洋軒で知つたのだ。佐々木とは柏村の紹介で知つた。「十三人」は止めてしまつた頃だ。中戸川と佐々木と三人で、二三回銀座あたりで会つたらう。その頃僕は目黒に居た。中戸川がそこには時々遊びに来た。文壇の色々の話を聞くのは興味があつた。それから、私も時々中戸川の家を訪れるやうになつた。その時分「人間」の新進作家号に私は何とかといふ愚作を発表した。題は覚えてゐるんだが、口にするのも嫌だから何とかと言つて置くんだが、冷汗三斗する。だが、中戸川が好意を持つて大いに励ましてくれたので、助かつた。
怠惰な文学青年の文学的経験ほど面白くないものは、またとなからう。つまり、僕の文学的経験なんだが。──そんな風にぽつ〳〵と書いては居たが、本当に文学をやらうと決心したのは、去年「スプリングコート」を書いた前後からである。今、三十歳、つまり二十九歳の初冬からのやうだ。それも自信がついたといふわけでもない。ただ、いたづらに、少年老い易きかな、である。少年どころではない、青春既に危く何を憾むかな?
「十三人」の頃には、僕が一等不熱心で、常に同人から叱責された。それでも先刻挙げた外に「蚊」とか「若い作家と蠅」──それは小品だらう、「愚かな朝の話」「公園へ行く道」「砂浜」それ位書いた。「公園へ行く道」だけは何時か出した「父を売る子」の中に収めたが、後悔してゐる。だがあれは、中戸川に大いに賞められたので後悔してゐるなどといつては彼に悪いけれど。
どうして一年以上も続いた「十三人」が止めになつたかといふ話でもするかな。
当時の彼等のうち〳〵の気勢はそれはそれは素晴らしいものだつた。僕は彼等の熱心さには随分うたれた。励まされもした。羨ましくもあつた。さういふ僕を彼等は誤解したのである。吾々「十三人」は大同団結をなして既成文壇を打倒さなければならない。それがそも〳〵彼等の主張の源だつた。打倒すといつたつて、どんなことをして打ち倒すのか、ただ一致団結とかグループの力とかでは僕にはさつぱり判らなかつたので、血気はやる精神には同感もしたんだが、強制的な団結だなんてをかしいと思つた。それまではよかつたのだが、一日同人の某君が予を訪れて曰く、彼等は口でばかりキレイなことを言つてゐるが、方々へ原稿を出しても出してくれないとか、勤め口の世話をしてくれないとか、その他いろ〳〵と先輩とのいきさつで、それが原因で業を煮やして、遂に汚れたる文壇よ、職業的な呪はれたる当世小説家よ、などと言ふやうになつたんだよ、彼等お腹の底を推察すると、俺は、可笑しくつてしやうがない、ハハハ、と某君は皮肉に笑つたのである。僕は却つてその某君の笑ひの方がいやな気がした。そんな失礼な推察がまたとあるだらうかと思つたのである。そして私は「十三人」グループと日常親しくないことを幸福に思つた。幸福に思ふ僕も、あやしげなものである。結局「十三人」は二派に分れた。つまり、一致団結、現文壇打破派、そこでは雑誌「十三人」は同人雑誌ではなくて、その宣言書の一節に曰く──「十三人」には所謂文壇に乗り出す為めの商売的意味も這入つて居なければ、さうしたミーンズも這入つて居ない。それ自身が吾々の究極のアエムの具象化なのである。吾等に取つては「十三人」は生活の核心であり、アイデアであり、一切の光源である。……吾等は現代の所謂文壇の実情内容に対して、或る種の嫌悪を感じてゐる。これに就いて一つ一つの例を挙げる余裕はないが、一言にして生活に即した真剣さを見出されないことを私達は認める。──といふ一派と、同人雑誌は文壇に出る目的なんだといふ一派とが分裂したのである。私は前者の方が空元気であらうとも、何となく熱情があつて、ただ私も文壇のことは知らないんだが、まさか、文壇には彼等の言ふやうな馬鹿々々しい情実なんてある筈がない(今にして思へば、やつぱり彼等のそんな言葉はヒステリツクだつたんだ。)、そんな気がしたので、後者の一派はこれはまた、僕にしてみると、あまりに覇気がなく、文壇妥協派で面白くもなかつたが、ウヤムヤに僕はそつちの一員になつてしまつたのだ。そして再び何とか言ふ同人雑誌が発行されたが、それは三号だかで潰れてしまつた。それはつまらない雑誌だつた。僕は「池のまはり」といふ小篇を一つ書いたと思ふ。
今思ふと、「十三人」は当時の僕の生活のほんの一部分に過ぎなかつたけれど、色々な意味で、懐かしくもある。雑誌を止めてしまつてから誰にも会はないんだが、彼等の宣言式でない方面の熱情には今以て僕は甚大の敬意を払つてゐるつもりだ。鈴木達は「象徴」を発行し、その同人二三とも引き合はされたが、僕は折合へなかつた。「十三人」の連中ほどにも折合へなかつた。鈴木はよき友達だつたんだが、その頃からだんだん離れるやうになつてしまつた。柏村だけが昔のまゝに残つてゐるが、鈴木だつて、会ひさへすれば変りはないだらう。
一昨年の暮、中戸川が「随筆」を発行し、僕はその同人になつた。記者として二三ヶ月の間大いに活動した。文壇の人とも相当知り合ひになつた。僕は、文壇の人が何と言つても一等好きなんだ。知るに及んで一層その感を深くした。「十三人」の人々も曾てはあんなことを言つてゐたが、あれはたしかに何かの亡霊に取りつかれて居た頃だつたのだらう。
去年は、僕は随分熱心に書いた。今迄のどの年も去年の足許にも及ばない。「スプリングコート」「父を売る子」「渚」「或る五月の朝」「父の百ヶ日前後」「明るく暗く」「蝉」等七篇書けた。今年はもう少ししつかりやるつもりだ。永い間の怠惰を退け、因循を捨て、熱心にやつてみるつもりだ。
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「文章倶楽部 第十巻第六号(六月号)」新潮社
1925(大正14)年6月1日発行
初出:「文章倶楽部 第十巻第六号(六月号)」新潮社
1925(大正14)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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