祖母の教訓
牧野信一
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実家を離れて、ひとり住ひをして見ると、私は祖母のことを往々思ひ出す、一昨年の春、七十余歳の老衰病で静かに歿くなつた母方の祖母である。
何年か前の学生時分、東京で永くひとり住ひをしたが、一週間に一度は屹度実家へ帰つたものだ。「一週間に一度」は妙だが──当時稀に見る怠惰学生だつた自分は、土曜日も日曜日もあつたものぢやなかつたのだが、帰る時は必ず土曜日を定めて帰り、月曜日の朝きちんと再び帰京するのだつた。それで祖母と母との手前に、暗に「善良な学生」を取りつくろひ、同時に自らの怠惰を責める楔とした。──何でも一度、落第を余儀なくされた時、怠惰学生には多く豪傑の徳があるが、自分にはそれが無く至つて小胆で、大いに狼狽して、一寸世をあぢけ無く思つたりしながら倉皇と先づ祖母の許に走つた。だが自分は祖母の部屋へ一思ひに飛び込めずに廊下にたゞずんだ。
「誰だ! そこに立つてるのは?」
「…………」
「名無し権兵衝か……それとも盗賊か?」
「私だ。」自分は慌てゝ低く答へた。
「ほう! 珍しい名前があつたものだ。わたしはこの年になる迄「私」と云ふ名前の人に出遇つたことはない、「私」さんまア此方へお入りなさい。そこははしぢかですわ。」
──一体貴様にはさういふ癖がある、東京へ行つてゐれば貴様の顔で他人様を訪ねることもあらう、名前が名乗れぬ時は腹を切つて死ぬ時だ、問はれたら名乗るのが礼儀だ、他人に物を云ひかける時には先自分から名を名乗るべきだ。──何時ものことだ。自分はまた一本祖母から叱られた。自分が五歳の幼時から二十何歳の当時迄祖母を訪るゝこと四千回にも及んだらうが、到頭自分はたゞの一回も祖母の手前で名乗りを挙げて、その得心を得たことはなかつた。
落第のことを両親に秘して呉れ──と自分は祖母に頼んだ。男の頼みなら、何で口外するものか、だがいつそこのおばアさんにも黙つてゐればよかつたのに──祖母はさう云つてきゆつと口を結んだ、確に一つ涙をのんだらしかつた。……あなたゞから云ふがこれこれのことは他人には云つてくれるなと、さういふ頼みは再び繰り返すな。馬鹿は恥にはならない。怒る時は真剣勝負だ。出しやばりは万々ならん。貴様が学校を出て何んな処に勤めるか知らんが、その頃は私は生きてもゐまいが、金銭に目が暮れて心を売つたり分不相応なことを仕出かしたりすれば、私は墓の下から声を掛けて叱るぞ。貧棒をしたつて恥にはならない。会社へ出て上役の御機嫌が取れなければ御免蒙るといふんなら御免蒙られう。家へ帰つて一生役場に勤めても好いから身ギレイに世を渡つてくれ。木綿の着物を着てゐると云うて笑ふやうな友達とは一切附き合ふな。ところで落第のことは私が引受けた──。
さう祖母からきつぱりと承諾されると私は自分のさみしい了見を見透されたやうで辟易したが、やつぱり意久地なく点頭いてしまつた。祖母のおかげで落第のことは到頭両親には知られず済んだ。母にはその後自分から打明けて謝罪したが親父は今もつて何も知らないだらう。尤も私の親父は、倅が何処の学校で何を研究してゐるか? 何時卒業したか? 一切無頓着な人で、うつかり此方が親孝行がつて沁々した話でもしたら、そんなことは一度もした事がないから案外どうだか解らないが、おそらくキヨトンとして横を向くだらうと察するのでワザと何も話さないのだ。でも万一この文章が彼の眼に止つたら内心おやツと打ち驚くかも知れない。
祖母のことを想ひ出すと書く事は永くもなりさうだ。だが自分だつて大して祖母に感じてゐるわけでもないから、斯ういふかたちの文章では書き憎くもある。
兎も角此頃も亦自分は東京で独り住ひをしてゐるが色々と祖母を想ひ出す。そのうちの一つ、例へば今日も四五日入浴しないので銭湯へ行かうと思ひ立ち仕度をして湯銭をガマ口から取出さうとすると、ぴつたり湯銭に適合する小銭がない。そこで自分は折角の入浴をあきらめた。「東京へ行つたらいくら書生だとは云へ銭湯と床屋では決して釣銭を取つてはならない。そこへ行く時には必ず祝儀と料金とを別々に拵へて用意して行かなければならない。」何年か前私が東京へ出かける毎に祖母は玄関でさういふ注意を最後に与へた。銭湯へ行くに一々テイツプを払ふ奴なんてありはしまい。
自分は寝台に上向けになつて天井を眺めた。別に祖母の言を守つたわけではないのだが、寧ろ無性の業なのだつたが、自分は祖母のその言葉を思ひ出して、苦笑しながら、入浴出来ない憂さも忘れて昼寝の夢に耽つた。
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「読売新聞 第一六八四五号」読売新聞社
1924(大正13)年2月12日
初出:「読売新聞 第一六八四五号」読売新聞社
1924(大正13)年2月12日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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