「惜別」の意圖
太宰治


 明治三十五年、當時二十二歳の周樹人(後の世界的文豪、魯迅)が、日本國に於いて醫學を修め、以て疾病者の瀰漫せる彼の祖國を明るく再建せむとの理想に燃え、清國留學生として、横濱に着いた、といふところから書きはじめるつもりであります。多感の彼の眼には、日本の土地がどのやうに寫つたか。横濱、新橋間の車中に於いて、窓外の日本の風景を眺めながらの興奮、ならびに、それから二箇年間、東京の弘文學院に於ける純眞にして内氣な留學生々活。東京といふ都會を彼はどのやうに愛し、また理解したか。けれども彼には、彼の仲間の留學生たちに對する自己嫌惡にも似た反撥もあり、明治三十七年、九月、清國留學生のひとりもゐない仙臺醫學專門學校に入學するのでありますが、それから二箇年間の彼の仙臺に於ける生活は、彼の全生涯を決定するほどの重大な時期でありました。彼はこの時期に於いて、二、三の日本の醫學生から意地惡をされたのも事實でありますが、また一方に於いては、それを償つてあまりある程の、得がたい日本の良友と恩師を得ました。殊にも藤野嚴九郎教授の海よりも深い恩愛に就いては、彼は後年、「藤野先生」といふ謝恩の念に滿ちあふれた名文を草してゐるほどで、「ただ先生の寫眞のみは今なほ僕の北京の寓居の東側の壁に、書卓に向つて掛けてある。夜間倦んじ疲れて、懈怠の心が起らうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒い痩せたお顏を瞥見すると、いまにも抑揚頓挫のある言葉で話しかけようとしてゐられるかの如く思はれる。と忽ち又それが僕の良心を振ひおこさせ、そして勇氣を倍加させてくれる」と書いてあります。さらにまた重大の事は、この仙臺の町に、唯一人の清國留學生として下宿住居をしてゐるうちに、彼は次第に眞の日本の姿を理解しはじめて來たといふ一事であります。時あたかも日露大戰の最中であります。仙臺の人たちの愛國の至情に接して、外國人たる彼さへ幾度となく瞠目し感奮させられる事があつたのでした。彼も、もとより彼の祖國を愛する熱情に燃えて居る秀才ではありますが、眼前に見る日本の清潔にして溌剌たる姿に較べて、自國の老憊の姿を思ふと、ほとんど絶望に近い氣持になるのであります。けれども希望を失つてはならぬ。日本のこの新鮮な生氣はどこから來るのか。彼は周圍の日本人の生活を、異常の緊張を以て、觀察しはじめます。由來、清國の青年の日本留學の眞意は、日本こそ世界に冠たる文明國と考へてやつて來るのではなく、やはり學ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粹を刪節して用ゐるのに成功してゐるのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本國で學んだ方が安直に西洋の文明を吸收できるといふところに在つたやうで、二十二歳の周樹人もまた、やはり、そのやうな氣持で日本に渡つて來たのは致し方のないところであつたのでありますが、しかし、彼のさまざま細かい觀察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違つた獨自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなつたのであります。清潔感。中國に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一體、どこから來てゐるのであらうか。彼は日本の家庭の奧に、その美しさの淵源がひそんでゐるのではなからうかと考へはじめます。或ひはまた、彼の國に於いては全く見受けられない單純な清い信仰(理想といつてもよい)を、日本の人がすべて例外なく持つてゐるらしい事にも氣がつきます。けれども、やはり、はつきりは、わかりません。次第に彼は、教育に關する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼつて考へるやうになります。さうして、つひに、中國がその自らの獨立國としての存立を危くしてゐるのは、決して中國人たちの肉體の病氣の故ではなくして、あきらかに精神の病ひのせゐである、すなはち、理想喪失といふ怠惰にして倨傲の恐るべき精神の疾病の瀰漫に據るのであるといふ明確の結論を得るに到ります。然して、この病患の精神を改善し、中國維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文藝に依るのが最も捷徑ではなからうかと考へ、明治三十九年の夏(六月)、醫學專門學校を中途退學し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかつた仙臺の人たちとも別れ、文藝救國の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意氣軒昂たる上京を以て作者は擱筆しようと思つて居ります。梗概だけを述べますと、いやに理窟つぽくなつていけませんが、周樹人の仙臺に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思つて居ります。魯迅の晩年の文學論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい觸れず、ただ純情多感の若い一清國留學生としての「周さん」を描くつもりであります。中國の人をいやしめず、また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中國の若い智識人に讀ませて、日本にわれらの理解者ありの感懷を抱かしめ、百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖を存してゐます。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房

   1999(平成11)年325日初版第1刷発行

入力:小林繁雄

校正:阿部哲也

2011年1012日作成

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