二人の軽業師
小川未明
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西と東に、上手な軽業師がありました。綱から、綱に飛びうつり、高いはしごの上でもんどりを打ち、見ていて、ひやひやすることをも手落ちなく、やって見せましたから、その評判というものは、たいへんなものでありました。西の方の人は、西の都で、興行をする甲の男をほめました。東の方の人は、東の都で、興行をする乙をほめました。
「さあ、どちらがうまいだろうな。」
両方の軽業師のするのを見たものは、頭をかしげました。それほど、この二人の芸は、人間ばなれがしているといってよかったのです。最初から、こんなあぶない芸当というものはできるものでありません。それには、血の出るようなけいこを積んだからです。
いつしか、西の都で、人気を呼んでいる甲の耳に、東の都で、やはり、たいへんな人気を呼んでいる乙の評判がはいりました。
「そんなに、乙は、うまいかな。ひとつ、こっそり見物に出かけてみよう。」と、甲は、思いました。
だれにも気づかれないように、甲は、東の都へ、乙の芸当を見にやってきました。そして、ふつうの見物人にまじって、ながめていました。高い、高い、空中から、ぶらさがっている止まり木の手を放して、あちらに下がっている止まり木につかまる、あぶない芸当は、ほんとうに、見ているものをひやひやさせました。
「なるほど、これはうまいものだ。ふつうの芸人ではできないことだ。なにか、深い研究をつまなければ、こんな人間ばなれのした芸はされるものでない。」甲は、つくづく感心して、西の都にもどりました。
その後、乙の評判をするものがあると、甲は、いっしょになって、乙をほめました。
「あの芸は、とうてい私にはできません。乙こそ名人です。」といって、謙遜したのです。
ちょうど、それと同じように、東の都で、評判を取っている乙の耳にも、西の都の、甲のうわさがはいりました。
「そんなに、甲は、偉い軽業師かしらん。ひとつ、こっそりといってみよう。」と思いました。そして、甲がしたように、乙も、そのことをだれにも告げずに、西の都へ出かけてゆきました。
これは、まったく、飛びはなれた業であります。高い、高い、空中から、飛び降りて、はるか下に張られた一本の太い綱をつかむのであります。まったく、命を投げ出してするのでなければ、いくら熟練をしても、思いきって、できることではないのであります。
「なるほど、たいしたものだ。これは、人間のしわざでない。」と、深く感歎して、乙は、東の都へもどりました。
二人の軽業師は、たがいに相手の芸をほめたのであります。そして、二人は、いずれも一度、あって近づきとなり、芸について話し合ってみたいと思っていました。
二人の思いが達せられるときがきました。甲と乙とは、あるところで出あったのであります。
「あなたこそ、まったく、人間の力ではできないような、芸当をなさいます。私は、感心しています。」と、甲がいいました。
「いや、私は、まだ未熟でございます。あなたの足もとへもまいりません。」と、乙は、謙遜して、答えました。
「そんなことはありません。あの揺れている止まり木をどうして、ほかのものがつかめるものですか!」と、甲はほめました。
乙は、驚いて、
「そんなら、あなたは、私の未熟な芸をどこかでごらんくだされましたか……。」と、たずねました。
甲は、笑って、
「拝見しないどころでありません。西の都にも、あなたの評判はたいしたものですから、じつは、人に気づかれないようにして、東の都へまいり、みんなにまじって見物しました。そして、感心して帰ったのです。」と、すべてを打ち明けて話したのであります。
乙とて、やはり同じでありました。
「甲さん、私も、じつは、西の都へまいって、あなたの芸を見てすっかり驚いてしまいました。そして、世間がもてはやすのもあたりまえだと、自分の未熟を恥ずかしく思ったのでした。」といいました。
芸に熱心な二人は、はからずも同じ気持ちでありましたのです。二人は、覚えず顔を見合わしました。
「それで、あなたは、あの高いところから、飛び降りなさるときに、なにか、口のうちでおっしゃるようですが、あれは、おまじないでございますか?」と、乙がたずねました。
「いえ、そんな迷信的なものではありません。それには、子細があります。私も、打ち明けますから、あなたも、あの揺れる止まり木をつかまえなさる秘術を教えてくださいませんか?」と、甲はいいました。
「では、お話いたしましょう……。」と、乙はうなずいて、つぎのようなことを話しました。
「私は、子供の時分から木に上ることは上手でした。どんなに高いところへ上っても、怖ろしいことを知りません。ある日、一羽の美しい鳥が村へ飛んできて、木立にとまって鳴きました。村では、珍しい鳥だといって騒ぎをして、どうかして、捕まえたいものだといって、その後を追いまわしたのです。鳥は、池の淵にあった、高いけやきの木の枝さきにとまってさえずっていました。ここなら、だれも上れないだろうと、小鳥は安心していい声で鳴いていました。人々は、ぼんやり見上げて、どうすることもできません。私は、すぐに上ってゆきました。なるたけ、鳥の気づかぬように、静かにして、ようやく、手のとどきそうなところまできて、ちゅうちょしました。手を出したら、鳥が逃げると思ったからです。近づいて見れば、見るほど、美しい鳥でした。どうしたら、捕まえられるかと考えていましたが、一思いに、捕まえるよりしかたがないと、ねらいを定めた刹那、鳥は、飛び立ったのです。私の体も、いっしょに、木から飛び上がると、鳥をつかまえましたが、体は、もんどり打って落ちました。もし、それが、地面だったら、微塵に砕けてしまったでしょう。水の中へ落ちたばかりに助かりました。しかし、握っていた鳥は、死んでしまいました。それから、私は、急に村の人々からほめそやされました。両親のない自分は、ついに、こんな渡世にまで身を落としましたが、いつも、鳥を捕まえたときの呼吸ひとつで、どんな危ない芸当も、やってのけるのであります。」
乙の話をきいていた甲は、うなずいて、感心しました。
「なるほど、その呼吸です。よく、わかりました。」といって、頭を下げました。
つぎに、甲は、どうして、高い空中から、飛び降りて、一本の綱を大胆につかむかを話したのです。
「私が、口の中で、となえますのは、子守の名です。不幸なおつたという孤児であった子守の名です。私が、六つばかりのとき、河の中に落ちました。おつたは、九つだったといいます。泳ぎも知らぬのに、飛び込んで私を救おうとしました。私は、人に助けられましたが、おつたは、ついに助かりませんでした。その後、私の一家も貧乏をして、私は、興行師に売られましたが、自分の身の不幸を思うにつけて、おつたがかわいそうになります。どうせ、いつ死んでも惜しくない身と思って、おつたの名を呼びながら、私は、一本の綱に飛びつきます。不思議に、いまだ、それをつかみそこねたことはありません。死んだ、おつたの霊が守っていてくれるのでしょう……。」
これが、甲の話でありました。
「よくわかりました。精神の力です。芸が、命がけだからです。」と、乙は、感嘆しました。
その後のことであります。
「甲には、いくらうまくても、ぶらんこの止まり木につかまることはできない。また、乙には空中から飛び降りて、一本の綱につかまる、芸当はできない。」と、いう意味のことが、西、東で、人々のうわさとなりました。
「人間には、だれにも、できることと、できないこととがあるものだ。」と、道理のわかった人はいいましたが、わからないものは、
「甲と乙と、どちらが偉いかな!」などと、やはり比較をしたのであります。
もし、二人が、めいめいに、自分の独得の芸を守っていたら、なんのこともなかったでしょう。
乙は、どうかして、甲の秘術が学べぬものかと思いました。そして、いつも、揺れる止まり木をつかむときに、彼は、美しい小鳥の姿を思い浮かべたのを、ある日、甲から聞いた、不幸の少女の姿を目に描いたばかりに、止まり木をつかみそこねました。彼は、真っ逆さまに、地面へ落ちて死んでしまいました。
不思議なことには、甲が、高いところから、飛び降りるときに、いつも、おつたの名を呼んで、ちょうど、水中へ飛び込む気で、綱をつかむのを、ある日、その名を呼ぶことを忘れて、美しい鳥をつかまえる調子で、綱を目がけて飛び下りました。すると、指さきは、綱にかかったが、綱は、あちらへそれて、甲は、堅い壁で頭を打って死んでしまいました。
東西二人の、名人の軽業師が、そろいもそろって、芸を仕損じて死んだといううわさが、また一時、世間を騒がしましたが、だれも、この二人の軽業師が、熟練しきっている芸当を、どうして仕損じたかという原因については知りませんでした。
そのうちに、このうわさも消えてしまえば、かつて、二人の名人の軽業師が、東、西にあって、一人は、西の都をにぎわし、一人は、東の都をにぎわしたということすら、いつしか、忘れられてしまったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 7」講談社
1977(昭和52)年5月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第6刷発行
底本の親本:「未明童話集 5」丸善
1931(昭和6)年7月10日発行
※表題は底本では、「二人の軽業師」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:館野浩美
2019年8月30日作成
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