春
小川未明
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「なにか、楽しいことがないものかなあ。」と、おじいさんは、つくねんとすわって、考え込んでいました。
こう思っているのは、ひとり、おじいさんばかりでなかった。町の人々は思い思いにそんなことを考えていたのです。しかし、しあわせというものは、不幸と同じように、いつだれの身の上へやってくるかわからない。ちょうど、それは風のように、足音もたてずに近づくものでした。また、だれもかつて、しあわせの姿というものを見たものはなかったでしょう。
こうして、たくさんの人たちが、てんでに自分の身の上にしあわせのくるのを待っていました。
「しあわせは、いま、どこを歩いているかしらん……。そしてだれのところへ、やってくるかしらん……。」
こう考えると、まったく、不思議なものでした。そして、このしあわせにも、大きなしあわせと小さなしあわせとあったことは、むろんです。けれど、ダイヤモンドは、いくら小さくても美しく、光るように、それが、たとえ、小さなしあわせであっても、その人の一日の生活を、どんなにいきいきとさせたかしれません。
おじいさんは、なにか楽しいことがあるのを待っていました。いつものごとく火ばちにあたって考え込んでいました。すると、毎日のように、あちらの町の方から起こってくるいろいろな音色が、ちょうど、なつかしい、遠くの音楽を聞くように、おじいさんの耳に達してきたのでした。
おじいさんは、だまって、じっとして、その音に耳を傾けていました。すると、このいろいろの音色の中から、ひとつ離れて、細く澄んだ音が、おじいさんの魂を引きつけるように、呼びかけているのが聞こえたのです。それは、笛の音に似ていました。
「あれは、なんの音だろう?」と、おじいさんは、思いました。
おじいさんは、その音を聞いているうちに、だんだん、気持ちがさわやかになってきました。そして、家にばかりいたのでは、気がふさいでしかたがない、町へ出て、歩いてみようという考えが起こったのです。
「寒いけれど、降りもしまいな。」といって、おじいさんは、つえをついて、とぼとぼと外へ出かけました。
いつ歩いてみても、町はにぎやかです。しかし、風が寒いので、通る人々は、道を急いでいました。
おじいさんは、右を見たり、左を見たりしてきますと、四つ辻の角のところで、福寿草を道に並べて売っていました。
「ああ、これは、いいものが目にはいった。」といって、おじいさんは立ち止まり一鉢買って、喜んで家へ帰りました。おじいさんは、それに水をやり、日当たりのいいところへ出してやりました。つぼみは日にまし大きくなった。おじいさんは、花の咲くのを楽しんだのであります。
* * * * *
また、同じ町に住んで、このようにじっとすわって、しあわせを願ったものは、おじいさんばかりでありません。
哀れな母親がありました。その日の昼前のこと、子供が見えなくなったのです。八方探したけれどわからなかった。子供は、まだ、幼かったので、道を迷って、知らぬ間に、どこか遠方の方へいってしまったとみえます。
「お母さん、お母さん……。」と叫んで、どんなに悲しがっているであろうと思うと、母親は、子供がいなくなってから、夜も、昼も案じ暮らしていたのでした。
「どうかして、帰ってきてくれないものか。」と、ひたすらに祈っていました。
その日も、彼女は、ぼんやりと家の中で、子供のことを思いながらすわっていました。すると遠くの遠くから、町の物音が聞こえてきました。彼女は、聞くともなく、その音に耳を澄まして聞いていると、たくさんの人たちが、うず巻いている光景が目に映ったのでした。すると、たちまち、ひとつ小さな、細い、さびしい音が別に耳に聞かれたのでした。それは、ちょうど、道に迷った、自分の子供を思わせたのであります。
「ほんとうに、あんなように、私の子供は、みんなから離れて、道に迷っているのだ……。」と、母親は、目にいっぱい涙をためて、熱心に、この小さな、ひとり離れて聞こえる音に、耳を傾けていました。
その小さな音は、あてもなく、広い道の上を漂っているのでした。しかし、思いなしか、だんだん、その小さな音は、こちらへ近づいてくるような気がされたのです。
「ああ、あの音が、私のかわいい子供であってくれればいい。」と、哀れな母親は思いました。
彼女は、もはや、こうして、じっとして、家の中にすわっていることができなかった。それで、戸口から外へ出ました。
もう、日は暮れかかって、町には、燈火がついていました。
彼女は、あてもなく、にぎやかな通りの方へ歩いていった。このとき、淡いもやのかかっているうちから、小さな黒い影が現れて、こちらへ近づいてきました。それはまちがいもなく、いままで、死にもの狂いになって探していた、かわいい子供でありました。
母親は、駆け寄って、子供を抱き上げると、うれしさのあまり、ものをいうこともできなく、二人は抱き合って、しばらく泣いたのであります。
* * * * *
この不思議な、小さな音は、いったいなんでありましょうか? いつしか、この小さな音は、町の人たちにだんだんと気づかれるようになりました。
「このごろは、毎日、晩方になると、遠くで、いい音がきこえますね。あれはなんの音でしょうか?」
「それは、どちらの方からですか。」
「町の南の方からするときもあれば、また、夕焼けのした西の海の方からすることもあります。」
「こんど、私も聞いてみましょう……。」
ある日のこと、一人の町人は、その笛の音を頼りに歩いてゆきました。町を離れ、野を越えて、その音は、あちらから聞こえてきたのでした。
「まあ、なんというたいへんに遠いところから聞こえてくる音だろう……。」
ついに海のほとりへ出ました。すると、あちらのがけの上で、少年が、海を見渡しながら笛を吹いているのでした。
「まあ、なんという危なかしいところへ、あの少年は乗って、笛を吹いているのだろう。そして、また、なんという、澄んで、遠くにまで響く笛の音だろう。」
町の人は、驚いて、帰って、そのことを近所の人たちに話しました。みんなは、こんどいっしょにいって、その少年を見とどけようといいました。そして、ふたたび笛の音が聞こえたときに、町の人々は、いってみると、少年の姿はそこになかったが、そのがけには、美しい緑色の草が一面に芽を出して、あたたかな風が海を渡って吹いてきました。みんなは、はじめて、あの笛は、春の使いが吹いたことを知ったのです。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集 4」丸善
1930(昭和5)年7月
※表題は底本では、「春」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2018年3月26日作成
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