容貌
太宰治
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私の顏は、このごろまた、ひとまはり大きくなつたやうである。もとから、小さい顏ではなかつたが、このごろまた、ひとまはり大きくなつた。美男子といふものは、顏が小さくきちんとまとまつてゐるものである。顏の非常に大きい美男子といふのは、あまり實例が無いやうに思はれる。想像する事も、むづかしい。顏の大きい人は、すべてを素直にあきらめて、「立派」あるひは「莊嚴」あるひは「盛觀」といふ事を心掛けるより他に仕樣がないやうである。濱口雄幸氏は、非常に顏の大きい人であつた。やはり美男子ではなかつた。けれども、盛觀であつた。莊嚴でさへあつた。容貌に就いては、ひそかに修養した事もあつたであらうと思はれる。私も、かうなれば、濱口氏になるやうに修養するより他は無いと思つてゐる。
顏が大きくなると、よつぽど氣をつけなければ、人に傲慢と誤解される。大きいつらをしやがつて、いつたい、なんだと思つてゐるんだ等と、不慮の攻撃を受ける事もあるものである。先日、私は新宿の或る店へはひつて、ひとりでビイルを飮んでゐたら、女の子が呼びもしないのに傍へ寄つて來て、「あんたは、屋根裏の哲人みたいだね。ばかに偉さうにしてゐるが、女には、もてませんね。きざに、藝術家氣取りをしたつて、だめだよ。夢を捨てる事だね。歌はざる詩人かね。よう! ようだ! あんたは偉いよ。こんなところへ來るにはね、まづ齒醫者にひとつき通つてから、おいでなさいだ。」と、ひどい事を言つた。私の齒は、ぼろぼろに缺けてゐるのである。私は返事に窮して、お勘定をたのんだ。さすがに、それから五、六日、外出したくなかつた。靜かに家で讀書した。
鼻が赤くならなければいいが、とも思つてゐる。
底本:「太宰治全集11」筑摩書房
1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「博浪沙 第六巻第六号」
1941(昭和16)年6月5日発行
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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